犬と猫 のどかな陽差しの許、乾いた木がぶつかり合う固い音と、気迫の声。 嫌な予感がして那唖挫が渡廊を通って中庭を覗いてみると、白く陽光を弾き返す玉砂利の上で悪奴弥守と朱天が木刀を手に手合わせをしていた。二人ともたすきがけまでして本格的かつ本気の様子だ。 またか。那唖挫はげんなりして溜息をついた。 また倒れるつもりか? 倒れさせるつもりか? あの単細胞どもめ。 怒りに駆られながら声を掛けようとしたところで、回廊の端で朱塗りの膳を傍らに杯を口にしている螺呪羅に気付いた。 着流し姿でだらしなく座り込み柱にもたれかかっているが、その隻眼は酔いなど微塵も見せない鋭い光を持ったまま中庭に向けられている。 那唖挫はすたすたと近づき、その前で足を止めた。 「お主、なぜあれを止めない」 彼は当然那唖挫に気付いているはずだが、ちらとも視線を向けない。眼を中庭から逸らさないまま、眼光とは不釣り合いの投げやりな口調で答える。 「犬どもがじゃれ合っているだけだ。好きに遊ばせておけばいい」 「犬?」 思わず二人を振り返る。にらみ合い、声を上げて飛びかかり打ち合い、ぱっと左右に分かれて対峙する。真剣ではないとはいえ、木刀の一太刀は浴びれば骨が砕けるほど威力がある。決して遊び半分で出来るものではないし、悪奴弥守達が生きていた頃の剣術というのは純粋に相手を殺して生き残る為の術であり、後の太平の世にもてはやされた形だけの武道とは違う。 だがしかし、 「……犬、ね」 確かにあの二人の様子を眺めていると、犬のじゃれ合いに見えないこともない。特に眼を爛々と輝かせて木刀を振り回す悪奴弥守は、全く興奮した犬そのものだ。 それにしても、集中しすぎて少々興奮が過ぎやしないか? 悪奴弥守など、肩で息をしているではないか。 「あやつら、いつからじゃれ合っておるのだ」 「四半刻ほど前」 「さすがにそれは遊ばせすぎではないか?」 不意に螺呪羅の眉がぴくりと動いた。杯を置いて立ち上がり、軽く欄干を飛び越える。そして無造作に近づくと、身構え足を踏み出す寸前の朱天の、木刀を持つ手を押さえ込んだ。朱天の前に立って二人の視線を遮りながら、同じく飛びかかる寸前の悪奴弥守を見据え、低く声を発する。 「そこまでにしておけ」 両者ともそれまで全く螺呪螺の存在に気付かなかったようで、我に返ったようにびくりとして構えを解いた。 那唖挫は感心する。常人があの間合いに無遠慮に入り込んだら、集中するあまり周囲が見えなくなっている彼らに巻き込まれて、怪我では済まない事態になっていたに違いない。 正気に返った悪奴弥守が、うわっと声を上げた。 「やべっ、俺またやり過ぎたか? 朱天、大丈夫か!」 なるほど、悪奴弥守は毎度こうやって急病人を作り出しているのか。こめかみを引きつらせながら、那唖挫は薄い唇を笑みに歪ませる。あとで今までの行いをたっぷり後悔させてやる。 朱天は悪奴弥守の呼びかけに答えず、眼を伏せてほっと溜息をついた。そのまま眼を閉じる。 ふらりと傾いた身体を螺呪羅が抱き留める。その手から木刀が滑り落ちて、カランと乾いた音を立てた。 「おい、朱天!」 慌てて駆け寄る悪奴弥守と共に那唖挫も回廊から庭に降り側へ寄って手首の脈を診る。首筋に触れると汗ばんだ肌は冷たかった。顔色にそれほど変化はない。脈にも乱れはないから軽い貧血程度か。 螺呪羅が彼を抱き上げる。 「寝所に連れて行く」 那唖挫は頷いた。 「任す。大人しく寝ていればすぐに治る。あとで薬を届けさせるゆえ」 「分かった」 そのまま軽々と抱いて段を上り、朱天の屋敷へ向かう。あやつ、朱天の症状が出る寸前で止めたな。医術書でも囓ったか。それとも見た目にはほとんど変わらぬ朱天の、わずかな不調を見取ったか。 なんにせよ、奴が朱天に張り付いていてくれれば那唖挫の負担は減る。ありがたい。 「……なんていうかさぁ。猫っかわいがりだよな、螺呪羅の奴」 「猫?」 隣にいた悪奴弥守を振り返る。黒髪をむしろ器用にあちこちへ飛び跳ねさせて、袖と袴をたくし上げ、額の汗を乱暴に腕で拭う様は、いい年をしてまるきり悪童だ。その立派な大人の悪童は、どこか憮然として廊下の角へ消えた螺呪羅の後ろ姿から視線を外した。 「あいつ、朱天のこととなると目の色が違うっていうか、構い過ぎっつーか。普段と態度がまるで違うじゃねぇか」 「犬殿は遊び相手の猫を取り上げられておかんむりか?」 「は?」 「だがな。その遊び相手はあいにく無理強いが出来ぬ身体なのだ。加減をしろと、何度言ったら分かるのだ! お主はもう少ししっかり朱天を構え!」 悪奴弥守がうっと息を飲み、仰け反る。逃がさないようにしっかり腕を掴んで、頭一つ分高いその引きつった情けない顔を睨み上げた。 「その足りない脳でも憶えられるよう、たっぷり説教してやる。なんなら二度と忘れられなくなる薬でも使ってやろうか!」 いや待て悪かったもうしませんごめんなさいなどとひいひい言う悪奴弥守を引きずって、那唖挫は足音荒く自室へと向かった。 前触れもなく戻った主に近侍が慌ててのべた床へ、そっと彼を降ろす。自然に螺呪羅の背に回されていた彼の腕が、名残惜しげに離れていく。 覆い被さるように間近で見つめながら、紅く艶やかな髪を撫で、掻き上げて額に触れる。陽に焼けない白い頬はそれでも血の気が戻ったようで、ぬくもりを感じて安堵する。そのまま頬に掌を滑らせながら、螺呪羅は口を開いた。 「無理をするな」 されるがままになりながら、朱天はうっすらと笑った。 「そなたが見ていたゆえ、止めてくれると思うた」 その笑みに、心が釘付けになる。 「……莫迦者」 眉間の痛みをこらえきれずに、抱き締める。 知っているか。お前が倒れる時、俺がどんな思いでいるか。抱き締めてもお前のぬくもりを触れてじかに確かめても、それでも消えない恐れを押し殺す痛みを。 いや、何も知らなくていい。何も気付かず、お前はただ笑いかけてくれればそれでいい。 顔を上げて、頬に唇に、いくつもの口づけを落とす。 「螺呪羅」 朱天が呼ぶ。その声だけでいい。お前が側にいてさえくれれば。 螺呪羅の首に両腕を回して、彼が呟く。 「そなたといると、温かいな……」 螺呪羅もようやく笑みを浮かべることが出来た。 「後でもっと温めてやる」 朱天は少し、困ったように眉を寄せた。 「また……そなたは、そんなことばかり言う」 「では何を言って欲しい?」 「なにも……」 朱天がまだ弱々しい腕の力で抱きついてくる。 「そなたが共にいてくれれば、それでいい」 螺呪羅は眼を見開いた。心の臓が打ち抜かれたような衝撃を覚えた。 その背をきつく抱き締める。随分弱って薄くなってしまった身体を何度も、その全てを覆えるように、何度も何度も。 「──側にいる」 かすれた声で囁いた。 「お前を離さない。何が起ころうとも、この魂が尽きるまで側にいる」 たとえ永遠の安寧などないと、この先の未来など誰にも見通すことは出来ないと知っていても。ただ当てのない約束を交わすだけで、こんなにも救われる。 朱天はどんな顔をしているのだろう。螺呪羅の首筋に顔を埋めて表情の見えない彼は、無言のままそっと頬をすり寄せてきた。 まるで甘える猫のようなその仕草に、螺呪羅は微笑んで眼を細めた。 |