■Wake up call■
夕べの祈りの時を告げるコーランの斉唱が街に響く。 流れる様に謳われるその調べは厳かで、また、自らが異教の地にあることを強く知らせてくれる。
いや、もともと神なんざ信じてはいないが。
次元大介はふと自嘲気味にそう思い、微かに口元を歪めた。
モロッコの古都、マラケシュ。 マラケシュとは、ベルベル語で「神の国」の意だ。
今回次元は、単身次の仕事の下調べに来ていた。 ルパンはマルセイユで文献の調査と聞き込みにあたっている。五右ェ門と不二子は今回は不参加だ。
ルパンが狙っているのは、19世紀にアラウィー朝の王によって造られたバイーヤ宮殿の壁にあるたった一枚のアラベスク模様のタイルだった。 そのタイルの文様の中に、アラウィー朝よりも遥か昔に滅びてしまった、ムラービト朝のユースフ・ブン・ターシュフィン王の所持していた黄金のムハンマドの像の在りかが記されているのだ。 イスラム教は偶像崇拝を禁止する。だが、それ故にマラケシュ創始の王、ユースフがアラーの黄金像を所持していたとすれば、それは世界史を塗りかえるほど価値のある宝だ。ルパンが狙う獲物としてはこの上ない。 しかし、そもそも本当にその黄金像が存在したのか。その点が今回の仕事の厄介な所だった。
伝説のお宝をルパンと共に追い求めて、それを発見した事は数知れない。 だが今回に限っては、頑なに偶像崇拝を禁止するイスラム教にあってのアラーの像である。 ルパンも慎重を期すために、敢えて次元と分かれて下調べに臨んだのであった。
観光客が多いマラケシュでは常のダークスーツ姿でも構わなかっただろうが、「慎重を期する」仕事故に、次元は民族衣装であるジュラバを着用し、顔を半分隠すように黒いスカーフを巻いていた。
モロッコの風は、暑い。 汗が滲んだジュラバを不快な心持ちで一つはたくと、次元は観光客に紛れてバイーヤ宮殿に入り、首尾良く問題の一枚を見つけ出したのだった。
宿に帰った夜には、昼間の喧騒が嘘の様に街は静まり返っていた。
「…ふぅ…。」
次元は乱暴にジュラバを脱ぎ捨てると、真っ直ぐにシャワールームに向かった。 近年の観光化のおかげで、少しの我慢をすればシャワーにも温水が湧き出してくる。温かな飛沫に、しばし次元は身を任せた。
汗を流してしまうと、急激に眠気が襲ってきた。 警戒の厳しい宮殿内での秘密裏の調査に予想以上に神経を尖らせていた自分に気付いた。 腰にタオルを巻いたままベッドに腰掛け、ルパンの携帯に連絡を入れたが、圏外だった。 どうせ地下深く潜っているか、ラボに閉じこもりきりなのだろう。
「…ちっ。」
次元は舌打ちすると、そのままごろりとベッドに寝転がった。 余程疲れていたのだろう、そのまま次元は眠りに落ちた。
真夜中近く。 次元は夢を見た。
ルパンがいつものパリのアジトでコーヒーカップを手に微笑みながら、何か嬉しそうに話している。が、話の内容まではわからない。 やけに光が白く眩しく感じられる。そのせいで、ルパンの輪郭もぼやけて見える。 すると、嬉しそうに話していたルパンの目が突然真剣さを帯びた。そのまま無言で二の腕を強く掴まれ、キスされた。 夢の中のルパンは、最初から貪る様に次元の口を吸ってくる。次元もまた、情熱的な口付けに応える様にルパンの舌を追い、唾液を絡ませ合った。
<…次元>
初めてルパンの声がはっきりと聞こえた。
<このまま…>
その時、小さな音で目が覚めた。 音は段々と明瞭に耳に迫ってくる。 それは、携帯電話へのルパンからの着信だった。 次元は寝ぼけ眼で手探りで携帯を探し、通話ボタンを押してからサイドボードの明かりを点けた。
「…もしもし」
先ほどの夢の余韻がまだ覚めやらず、何やらもぞもぞとした気分で次元はぶっきらぼうに喋った。
「おはよう、次元」
時計を見ると、午前3時だった。
「何が”おはよう”だよ。今何時だと思ってんだ。」
次元は目を擦りながら呆れて毒づいた。
「あれ〜?っかしーな。コッチは朝の7時だけど?」
それくらいのことは分かっているだろうに、相棒は悪びれずに笑う。
「…って、お前今どこにいるんだよ。」 「ブルネイ。」 「はぁ?!マルセイユじゃなかったのか?!」 「ん〜、ちょーっとコッチで調べたい事があってさ。昨夜飛んできた。」 「ったく…。時差を考えろよ…」
次元が頭を抱えると、ルパンの声が優しく告げた。
「…何となく、声が聞きたくなったんだよ。」
その声の真剣な響きに、思わず次元の背筋が伸びた。
「…どうして」
聞くのは野暮だと分かっていたが、それでも純粋に疑問に思った。
「ん?ここ何週間か、ずっと別行動だろ?だからさ。」
お前が隣にいないと寂しい。 そんな事を言い出すのではないかと思い、気恥ずかしさで次元は慌てて会話を変えた。
「例の物、見つけたぞ。」 「おっ。さすが次元ちゃん。仕事が早いねぇ」
電話の向こうのルパンは、本当に嬉しそうだった。 けれどそれはお宝の鍵が発見されたからではなく。 例え電話を通してでも次元と繋がっている、まるでその事が嬉しくてたまらないという風情だった。 楽しそうに話しつづける相棒の様子に、次元も次第に心がほぐれて和らいでいくのを感じた。
とりとめもない話をして、ふと一息ついた時、ルパンが言った。
「なあ次元。俺はさ。たとえお前が俺の隣にいなくても」
暫くの沈黙があった。次元は黙って耳を傾けた。
「いつもお前を近くに感じているよ。まるでお前がそこにいるように。」
今度は次元が沈黙した。 ややあって、鼻下を擦りながら、
「へっ!ありがたいこって。」
と次元は返した。
「ははは。そんじゃまあゆっくり寝てちょーだい。俺様これからお仕事。」 「寝るも何も、もう夜が明けちまったよ。」
窓から、紅色に染まった朝焼けが見える。もうすぐ朝の礼拝を告げる斉唱が鳴り響くだろう。
「俺もこれから起きる。まだこっちで調べものが残ってるんでな。」
次元はベッドから足を下ろした。
「はいはいご苦労さん。んじゃ、またな。」 「おう。じゃあな。」
千年の昔、ユースフ王の時代には、携帯電話もメールもFaxもなかっただろう。 遠く離れざるを得なかった恋人たちは、どうやって思いを伝え合っていたのだろうか―
「…手紙、があるか―。」
次元は紫煙を吐き出しながらコーヒーメーカーに手を伸ばした。
「…それもめんどくせえだろうな」
豆をミルしながら、じっと考えてみる。 ドリップが始まって、挽きたての珈琲のかぐわしい香りが漂い始めた頃、次元はぼそりと呟いた。
「…でもまあ、悪かねぇな。」
―書くか書かないかは、別として。
Fin.
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