セルヴィニエ公爵夫人
パリ郊外に、今は古びた広大な屋敷がある。 百年戦争時代に武勇の士として名を馳せた、アンリ・ド・セルヴィニエを祖に持つ、セルヴィニエ公爵家の館である。 しかし、何十代にも渡って受け継がれてきた、フランス名門中の名門の公爵家は、後継ぎが無いまま終焉を迎えようとしていた。 現在の当主は女性。 当年90歳になる老嬢で、同じく名門貴族であるマルタン伯爵家から迎えた夫の死後、40年間独り身を通してきた。 夫との間に子供はいなかった。 夜毎華やかな夜会が催された豪奢な邸宅は、時代の流れと共に廃れ、寂れていった。 財政の傾いた公爵家を立て直すためと、幾ら親戚の者が再婚を勧めても、公爵夫人は首を縦に振らなかった。 …そうして、現在は、公爵夫人と、忠実なメイドのマリーの二人が、時の流れに置き忘れられたような古びた屋敷に暮らしているのである。
今は尋ねる人も稀なその屋敷を、その日、訪なうものがあった。 屋敷を取り囲む広大な森のしんとした空気を、車のエンジン音が震わせた。 やがて、黄色のベンツSSKが、大門の前に停車した。 運転席には、鮮やかな赤いジャケットの男。助手席には、まるでその影のように、ダークスーツの男が座っていた。
「じゃ、行ってくるから。」
バックミラーで身繕いを整えると、最後にネクタイを今一度締めなおして、赤いジャケットの男が言った。 ダークスーツの男は、帽子の影からちらりと男を見やると、了解の合図にひょいと肩を竦めて見せた。
呼び鈴の紐を引くと、2、3分置いてから、ドアの向こうに人の気配がした。 「久しぶりだね」 男はそう言って微笑むと、メイドのマリーに小さな花束を渡した。 マリーは一瞬目を輝かせたが、すぐに忠実なメイドの顔に戻り、客を広間に案内した。
女主人である公爵夫人は、今では日中の殆どを、館の最奥にある西向きの寝室で過ごしていた。少し前から身体具合を悪くしている事は、尋ねてきた男も知っていた。 かつて「フランス社交界最高の美女」と謳われた美貌は、まだその面影を失っていない。 窓から見える庭には、燦々と冬の日が降り注いでいる。 公爵夫人は、皺の寄った細い指で、木立の形をなぞった。 そのとき、控えめなノックの音が聞こえ、マリーが男を案内してきた。 公爵夫人を認めると、男は明るい、しかし紳士らしさを失わない笑みを満面に浮かべた。 一礼してマリーがドアを閉めると、男は公爵夫人に歩み寄った。 車椅子に座った公爵夫人の前に膝を折ると、男は片手を胸に当てて深々と一礼した。 公爵夫人がゆっくりとその手を差し出すと、男は手を取って接吻した。 「…またお会いできて光栄です、公爵夫人。」 男は夫人を見上げた。 「…お久しぶりね。」 公爵夫人は、優雅な微笑を浮かべた。 男がその手に、真っ赤なバラの花束を手渡した。その日朝一番の温室咲きのバラである。 夫人はしばらくバラを眺め、指で花びらを撫でていた。 「…昔は、日に何度も、バラを頂いたわ。それこそ色々な殿方から…」 「…その中に、僕の祖父も居たのですね。」 夫人は、はっとして顔を上げた。 「…ええ、ええ、そうよ…。あなたのおじい様は、毎日わたくしに、花束を贈ってくださったわ…」 公爵夫人は、遠い目をして微笑んだ。
「…またわたくしの昔話を聞きにいらしたなんて…幾らおじい様の事とは言え、物好きでいらっしゃる事。」 「僕は現役時代の祖父を知らないんです。あなたのように、祖父のことを一緒に話せるひとは、今では少なくなりましたよ…」 男はそう言うと、壁にかかる一枚の肖像画に目をやった。 …絵の中では、男の祖父が、シルクハットに夜会服、モノクルの姿で微笑んでいる。 「…おじい様は、あなたに大層厳しかったとか」 公爵夫人は片手を口に当てながら控えめに笑った。 「そりゃあ厳しかったですよ。何しろ自分の心臓が危うくなるや、僕の心臓と取り替えようとしたくらいですからね。」 男は頭に手を当てて、やはり控えめに笑った。 「…それだけあなたに期待してらしたと言うことよ。」 公爵夫人も、肖像画を見つめた。
先に口を開いたのは公爵夫人だった。 「…それで?今日もあの品をご覧になる?」 「…お願いできますのなら。」 男は公爵夫人の目をまっすぐに見据えて言った。 公爵夫人は目を閉じて頷くと、飾り棚の中から、見事な宝石に彩られた細長い箱を取り出した。蓋を開けると、そこには夜会用の扇が収められていた。 公爵夫人の手の中で扇が開かれると、目映いばかりの大粒のエメラルドが輝いた。 「…いつ見ても素晴らしい。」 男は溜め息をつきながら言った。 「…あなたほどの方がこれを盗みにいらっしゃらないなんて…ずっと不思議に思っていましたわ」 公爵夫人が笑うと、男は言った。 「これは、あなたの手元にあるべき品ですよ、マダム。…祖父がこの扇を盗みに来たとき、二人は出会われたのでしたね。」 公爵夫人は、鮮やかな思い出の中に引き戻された。 「…そう…、そうよ。あの日、わたくしたちは出会ったの…。」
セルヴィニエ公爵家に伝わる秘宝、「緑柱石の扇」を、アルセーヌ・ルパン一世が狙って盗めなかったのは、たまたま部屋に引き返してきた公爵夫人と出会い、一目で恋に落ちたからだ、という話は、良く知られていた。 「あの日、フランス中の王侯貴族を招いて、舞踏会が開かれたの。わたくしは踊り疲れて、たまたま部屋に戻って…」 公爵夫人の目は、遠い日の風景を見つめていた。 「…あの方にお会いしたの。ルパンが扇を狙っていると知って、夫が偽物にすり替えておいたのよ。…でも、あの方には通用しなかった。わたくしの寝室の金庫に隠されていた扇を、あの方が手に取ったとき…」 「わたくしがドアを開けたの。…わたくしたちは、一目で恋に落ちたわ。本当に、わたくしの人生の中で、あれほど狂おしい、激しい恋は、二度と無かったわ…」 「…祖父はあなたを心から愛していた。あなたもそうだった。なのに、何故ふたりは結ばれなかったのです?」 男の問いかけに、公爵夫人は目を見開いた。 「祖父は、あなたを夫から奪う為に、駆け落ちの準備までしたと聞きましたが…」 夫人の目が歓びに輝いた。 「…あの方が、あなたにそう話されたの?わたくしを、愛していた、って…!」 男は無言で頷いた。 「…ああ…!!なんて幸せなんでしょう…!!人生の終わりの日に、こんなお話が聞けるなんて…!」 公爵夫人はそう言うと、車椅子の中で崩れ落ちた。 「公爵夫人!!」 男が急いで駆け寄ると、その胸に顔を埋めながら、切れ切れの息の下で、公爵夫人は続けた。 「…あなたのおじい様と逃げるはずだったあの日、妊娠しているのが分かったの」 男は驚いて目を見張った。 「…マダム!」 「…政略結婚だったけれど…夫はわたくしを全身全霊をかけて愛してくれました。…でも、わたくしは、あなたのおじい様を愛してしまった。どうしようもなく。…わたくしの身一つだったなら、全てを捨てておじい様と共に生きる道を選んだでしょう。…でも、お腹の中の子供は、夫の子です。…その子の未来を奪う事は、わたくしには出来なかった…」 「公爵夫人…!」 胸を突かれて、男は叫んだ。 結局、死産してしまったけれど…と、公爵夫人は力無く微笑んだ。 「…名前を呼んで、ルパン。あの方がそうしてくれたように…」 虚ろになった目を覗きこみながら、男は大きな声で公爵夫人を呼び戻そうとした。 「イヴォンヌ!いけない!逝ってはいけない…!!」 しかし、公爵夫人の目は、もう何者も映してはいなかった。 「…迎えにきてくださったわ…。「愛している」と、言ってくださるわね…あの日のように…」 細い指が、ルパン三世の顔に触れた。 「…あなたの想いを貫きなさい。たとえそれが道ならぬ恋であっても…。わたくしの様に、後悔しては、駄目…」 「イヴォンヌ!!」 公爵夫人の手から、繻子の扇が滑り落ちた。 「イヴォンヌ…!」 ルパン三世は、動かなくなった公爵夫人を、きつく抱きしめた。
夕日が傾き始めた頃、ルパンは屋敷を出た。 大門への長い通路を歩きながら、ルパンは、もう一度振り返って、屋敷を見た。 「…じい様と幸せに。…イヴォンヌ…」 そう呟いて歩き出すと、まもなく、ベンツSSKの助手席に腰掛けて煙草をふかしている相棒の姿が目に入った。 ルパンが無言で運転席につくと、次元が声をかけた。 「…どうした?何かあったのか?」 ルパンは、黙ったまま次元を見つめ、次に苦笑してぼそりと言った。 「…後悔しては駄目、か…」 訳が分からない、といった風情の次元の首を引き寄せて、唇に軽く口付けると、ルパンは勢い良くエンジンをかけた。 「…俺の辞書には、『後悔』は載ってねえんだ。」 「…何言ってんだお前…。」 「何でもねえ。…行くぜ!」 ルパンが高らかにそう言うと同時に、SSKは土煙を巻き上げて走り出した。
公爵夫人の死は、「フランス、ベル・エポックの終焉」と題されていた。 緑柱石の扇は夫人と共に墓に葬られた、と、その記事は伝えていた。
〜Fin〜
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