優しい幽霊
ボイマンス美術館から、お目当てのデルヴォーの絵を盗み出して、アジトに帰って祝杯をあげた。 テレビの画面では、またしても警備を出しぬかれた銭形が怒り狂っている。 気分よくボトルを2、3本開けて、そのままふたりでベッドに縺れて倒れこんだ。
気配に目を覚ましたのは、真夜中過ぎだったと思う。
次元は、顔だけをその気配の方向へ向けた。
部屋の一隅が、仄白い光で明るくなっている。その光の中に、女が佇んでいた。 どうして女と思ったのか分からないくらい、その外見は朧で、今にも消え入りそうだった。
幽霊―!?
次元は思わず、隣で眠るルパンの肩に手をかけた。しかしルパンは、深い眠りから目を覚まそうともしない。
いや、そもそも、こいつには幽霊が見えないんだった―
次元は、慎重に身を起こした。 この世のものでない存在に銃が通用するとは思えなかったが、それでも、枕の下からマグナムを取り出して撃鉄を起こした。 幽霊は相変わらず、仄かな光の中に揺れている。 次元は銃を持った手を下ろして、しばらく観察することにした。 心ならずも殺した女もいれば、昔の女で死んだものもいる。それにしても、現れるからには何か理由があるはずだ。 恨みか、未練か―それとも、言い残したこと、伝えたいことでもあるというのか― するとしばらくして、その幽霊は、首を左に傾げて、柔らかく微笑んだ。少なくとも、微笑んだ様に見えた。 その瞬間、次元の中に、久しく忘れていた懐かしい面影が鮮やかに甦った。 よく知っている―いや、ずっと長い間忘れていた、懐かしいその仕草。 ルパンとふたり、日が暮れるまで子犬の様に遊びまわって家に帰ると、いつもドアの前で迎えてくれた、優しい微笑み。 嬉しかったときも、悲しみに暮れた日も、いつも同じように、少し首を左に傾げて、微笑みながら抱きしめてくれたひと―
「…母さん!?」
次元がそう声に出したのと同時に、部屋はもとの蒼い闇に包まれた。 時計の針が時を刻む音だけが聞こえる。先ほどまで母がいた空間は、見慣れた部屋の一隅でしかなくなっていた。
次元が忘我していると、ルパンが目を覚ました。
「…次元?どうした?」
次元はゆっくりと息を一つはきだすと、ルパンに向き直った。そして、今しがた目にしたことを話した。 ルパンは起きあがって、腕組みをしながら聞いていたが、聞き終えると、優しく笑った。
「…ふ〜ん。良かったじゃねえか。ママにまた会えて、嬉しかったろう。」
「…ママって言うな!」
次元は顔を赤くして抗議したが、再び物思いに捕らわれた。
「…なんで今ごろ、出てきたんだろう…」
「…さあな…。でも、母親ってぇのは、そういうモンなんじゃねえの?」
いつまで経っても、息子のことが気がかりで。息子が愛しくて。それが伝えたくて、来たんじゃねえのか― ルパンはそう言うと、大きくあくびをして、再びシーツに潜りこんだ。 次元がまだ納得できない表情で考え込んでいるのを見とめると、ルパンは次元の腕を掴んで、強引に腕の中に引っ張り込んだ。
「…いいよなあ。幽霊が見えるってのも、一つの才能だぜ?俺に唯一無い物かも。」
そう言って面白そうに笑うので、次元はふくれて言い返した。
「お前は初めっから信じようとしねえから、見えねえんだよ。ちったあこの世ならぬモンに、畏敬の念を払ったらどうだ。」
ずっと昔、ツタンカーメンのマスクを盗み出すって言ったときも、俺が散々反対したのに― ぶつぶつ言っている次元を更に胸の中に強く抱きこむと、ルパンは言った。
「…ママに会える、ってンなら、信じてもいいかなあ。」
次元は、はっと目を見開いた。 ルパンは赤ん坊の時母親と引き離されて、それ以来、会っていないのだ。その生死すら、分からないのだろう。
「ルパン…」
次元が見上げると、ルパンは明るく破顔一笑した。
「さ、寝ようぜ。これ以上起きてっと、またヤりたくなっちゃう。」 「なっ…!」
再び真っ赤になった次元を尻目に、ルパンはのほほほ、と笑って顔までシーツを引き上げた。 次元は小さく舌打ちし、乱れた前髪に手をあてて、シーツに隠れて見えないルパンの胸中を思った。
神様、もしあんたが本当にいるのなら― 生身の人間でも、幽霊でもいい。いつかこいつを、俺と同じように、母親に会わせてやってくれねえか―
悲しい祈りは、次元の胸を軋ませた。 そのまま身じろぎもせず、ルパンに気づかれない様に少しだけ、次元大介は泣いた。 〜Fin〜
|