嘘だろう? お前がいなくなるなんて、嘘だろう?
愛のつづき
彼は病に冒されていた。 それは、ずっと前から分かっていた事。
変異性マディソンA−U型症候群―
ある時期から血液中の白血球が激減し、免疫抗体が失われ、遂には死に至る病。 それはある日突然に発症し、恐ろしい速度で進行していく。発症率は100万人に一人だ。 まるで天才的な頭脳と引き換えるかのようにその病を生まれたときから抱えていた彼は、しかし、
「ンなモンこの俺様にかかっちゃ、病気の方で逃げださァ。」
と、いつも呵々と笑い飛ばしてしまうのだったが、彼が病に冒されていることを幼少の折りから知り、常にその傍らに居て彼を見守ってきた次元にとっては、その病はぼんやりとした捕らえどころのない恐怖として、頭の片隅にこびりついて片時も離れることがなかった。
数ヶ月前から、ルパンはちょっとしたことで風邪をひくようになった。 以前なら楽々とこなしていた簡単な事にひどく体力を消耗するようになった。 寝汗が酷かった。 ちょっと手を切っただけで、出血が中々止まらなかった。 喘息の発作を頻繁に起こすようになった。 煙草も吸えなくなった。 物が食べられなくなった。
そして漸く―
彼は生まれ故郷である帝国に戻る決心をした。 彼の病を食い止められる技術が残されているとすれば、もうそこ以外にはなかったからだ。
病魔がルパンを襲ってから、次元、五右衛門、不二子は世界中を駆け回り、あらゆる研究所―合法非合法を問わず―を探し回り、研究を依頼し、なんとかしてその進行を食い止めようとした。
しかし、すべてが無駄だった。
ルパンの病を治療する手立ては、最初からこの世界には存在していないのだ。 この病が最初に確認された20世紀初頭から、何千人という学者がこの病に挑戦し、特効薬の開発に尽力してきた。 だが、一人として特効薬はおろか、原因すら突き止めることができなかったのだ。それは現代においても同じだった。
次元は白い肌をむき出す岸壁の上に立ち、海を眺めていた。 寄せては返す波の音。 遠く遠く、水平線の向こうには、置いてきた世界がある。
五右衛門、不二子は、帝国には同行しなかった。 それは長年仲間として過ごしてきた二人の、ルパンと次元への最後の気遣いだった。 ―愛情と言い換えてもいいかもしれない。
帝国には今、ルパンと次元、そして少数精鋭の研究員がいるだけだ。
地図上にない島、ルパン帝国。 そこは今文字通り、周囲から隔絶されることで、ルパンと次元ふたりだけの世界を作り上げているのだった。
帝国の冬は、温かい。 今もコートも羽織らずにこうして潮風を受けているというのに、少しも寒さを感じない。
―いや、もしかしたら自分の感覚のほうが麻痺しているのではないか?
次元は自問してみた。 だが、思考はあちこちに散らばるばかりで、何も結果を生み出そうとはしなかった。
やがて次元は考える事をやめ、踵を返して背後にそびえ立つ白亜の建物に向かい始めた。 そこに、ルパンがいるのだ。
草を掻き分ける音、小石を踏む音が小さく耳に届く。 後ろから、太古の歴史を刻む波音が追いかけてくる。
―邪魔しないでくれ。ふたりきりにさせてくれ。
次元は耳を塞ぎ、目を閉じて歩いた。ルパンのもとへと、歩いた。
病室の扉を静かに開けると、ルパンは起きていた。 最近は水も受け付けなくなったので、点滴に頼るばかりだ。そしてやはり体力の消耗が激しいのか、眠っている事が多くなった。
「よお。」 「…よぉ。」
ルパンは明るく笑ってピースサインを出して見せた。 次元は少し笑った。 次元がベッドの傍らのいつもの椅子に腰掛けると、ルパンはまるで世間話でもするように淡々と言った。
「もう、駄目だってさ。」 「……………そうか…。」
次元は俯いていた。 ルパンは両手の人差し指と親指を合わせて片目を閉じ、カメラのピントを合わせるポーズをしている。 冬の午後の日が、やけに弱々しく見える。
パタッ、パタタッ、と、次元の膝に大粒の涙が零れ落ちた。 やがてそれは悲痛な嗚咽に変わり、次元はルパンの膝に突っ伏して身を震わせて泣き始めた。
「…いやだ」 「次元…」 「いやだいやだいやだいやだいやだ!」
次元は叫んだ。そして、泣きじゃくった。 ルパンはよしよしをするように、次元の頭を撫ぜた。 号泣する次元に、ルパンが優しく言った。
「…一つだけ、方法がある。」
次元ははたと泣くのを止め、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「…でも、お前がどう思うのかは、分からねえけっどもがな。」
ルパンは複雑な笑いを洩らした。
「その方法ってぇのはなんだ?!治るのか?!」
勢い込んで次元は尋ねた。 ルパンは真剣な面持ちになり、やがてゆっくりと話し始めた。
「…大昔に、皺くちゃの小さいじいさんがやろうとしたのと同じ理屈さ」 「…?」 「…要するに、俺様のコピーを作ろうってワケ。」
次元は一瞬で理解した。 マモー。 永遠の生を手に入れるために、クローン技術を研究していた男…。
「…でも、コピーされたお前はお前なのか?記憶は?!なくなっちまうんじゃねえのか?!それに…!」
ルパンは両の掌で次元を押しとどめると、目を伏せて言った。
「…そう来ると思ったぜぇ?次元。」
次にルパンは目を開けて、悪戯っぽくウィンクしてみせた。
「実際、やってみなきゃ分からねえこった。技術者たちは、記憶も完全に移行できる、つってるがな。まあ、怪しいモンだな。」 「そんな…!」
次元は絶句した。 最後に一つだけ残された方法が、これなのか? いや、そんな事より、自分は新しく生まれ変わったルパンを、同じように愛する事ができるのか?相棒として傍らに立つ事が出来るのか?
「…この方法をとるのが嫌なら、あとは…お迎えを待つだけだ。」
ルパンは再び目を伏せた。 沈黙が流れた。
「分からねえ…」
次元が頼りなく呟いた。
「分からねえよ、ルパン…」
次元の頬を、新しい涙が伝った。
「次元…」
ルパンは両腕を次元に向かって広げた。 吸い寄せられるように次元はその腕の中に飛び込み、ふたりは固く抱き合った。 ルパンの名を呼びながら、すっかり熱を帯びてしまった息を吐いて泣く次元を、ルパンは強く強く抱き締めた。
「…正直、俺も分からねえんだ。こうするのが良い事なのかそうでないのか。考えてもみろよ、早いか遅いかの違いで、お迎えなんて誰にでも来るモンなんだぜ?」
次元は脱力して、ただただルパンにあやされるように左右に揺さぶられていた。
「…けど」
次元の背に回した腕に、ルパンは力を込めた。
「…俺がもう長くないと悟ったとき、心に引っ掛かったのは、不二子でも五右衛門でもとっつあんでもねえ、お前のことだけだった。」
ルパンは優しく次元の耳に唇をあてた。
「…愛しているよ、次元。この世の誰よりも。…そのお前が、俺を失ってどう思うだろうかと考えた。だが、もう一つ、勝手な理由があるんだ。」 「…勝手な、理由…?」
次元は肩を震わせて泣きながら問い返した。
「次元。…俺は、お前と生きたいんだよ。まだまだ、これからも、じじいになるまで、お前と、ずっと。」
肩に埋められたままの次元の顔を両手で包み、正面からその顔を見据えると、ルパンは次元に優しくキスをした。
「お前とまだ見ていない風景、まだやっていない事、…山ほどありすぎらあ。俺は贅沢な男なんでね。それを見ないでみすみす死にたかぁねえワケ。」 「…相変わらずだぜ…」
次元が目を泣き腫らしながらそう言うと、再びルパンの唇が次元のそれを覆った。 ふたりは触れ合うだけのキスを繰り返した。やがて次元はルパンの肩に縋りつき、ルパンも次元の髪を掴んで激しく口付けした。
それは肉欲からの口付けではなく、互いが互いに愛情を精一杯伝えようとするときの、温かく、切ないキスだった。
永遠とも思える時間が流れ去り、窓からは夕日が鮮やかに差し込んできた。
口付けが終わると、次元はルパンの肩に頭を乗せて、共にベッドに横になった。 ルパンの身体への負担が何よりも心配だったが、それ以上に、次元に触れる事を望んでいるルパンの思いを察して、次元はルパンのされるがままになっていた。
「…静かだなあ…。」
ルパンがぽつりと呟いた。
「…ああ…。」
次元も小さく呟いた。
そう、彼のこれまでの人生の中で、これほど穏やかな、そして静寂に満ちたときは、これが最初で最後だった。
午前5時、起床する。 それから洗面台に立ち、歯を磨き、髪と髭を整える。 台所に立ち、サイフォンでキリマンジャロを淹れる。 ゆっくり時間をかけて温めたカップに注ぎ、まずひとくち、味わう。 それから煙草に火を点ける。 一杯の珈琲と一本の煙草が終わると、新聞に目を通す。
ルパンのいる建物とは別の棟で、次元はそのように毎日を過ごしていた。
最期を看取らないで欲しい、と言ったのはルパンだった。 次元は頑強に反抗したが、ルパンのその考えは変わらなかった。
もし、自分が死ぬところを見てしまったら―
「新しい」自分と向き合うとき、次元の感情はより一層混乱してしまうだろう。そして何より、病から来る痛みに悶え苦しむ自分を見て欲しくない、というのがルパンの願いだった。
いつだって、贅沢な野郎だった。 いつだって、伊達男の体を崩さなかった。 そんな風に生きてきた男だったから― 次元は折れた。
最後の日。 ルパンは、いっそ神々しいほどの爽やかな顔をしていた。 病室にやって来た次元を見て、朗らかに笑った。 ひとしきり思い出話や、不二子、五右衛門、銭形が「新しい」ルパンと出会ったらどんな顔をするだろう、といった他愛もない会話をした。 ルパンは、「新しく」なったら、あれが食いたい、あれを飲みたい、あのお宝をいただきたい、と嬉しそうに話した。次元も笑って頷いたり、茶々を入れたりした。 しかし、どちらからともなく笑いは消え、ただ時間だけが流れていった。 どれくらいそうしていただろう。 ふいにルパンは、
「次元」
と言って、ベッドから立ち上がろうとした。
「危ないッ!」
次元が支えてやらなかったら、ルパンはそのままベッドから転がり落ちていただろう。もう足も立たなかったのだ。 リノリウムの床にルパンを抱いて座り込みながら、次元は荒く息を吐いた。
最後のときが、近づいてくる。 音もなく、近づいてくる。
心臓は激しく脈動し、天井が回った。そのまま眩暈をおぼえて、次元はルパンの背中に突っ伏した。
震えが止まらない。怖くて堪らない。自分が死の危険に晒されたときだって、こんな恐怖は味わった事がなかった。 しかし、激しく震える次元の鼻先を、突然ルパンの舌がペロッと舐めた。 次元は思わず目を丸くした。 ルパンは優しく笑って次元の目を覗き込んでいる。そしてこう言ったのだ。
「…なあ、どんくらい俺たち、してないっけ。」 「…はあ?」
呆気にとられて、次元は素っ頓狂な声を出した。
「病気ンなる前からだから、…かれこれ十ヶ月以上、してないよなあ」 「お前なあ…この期に及んで、気になるのはそっちなのかよ…」 「次元ちゃん、体の欲求を無視すんのはよくないよ〜。実際アレでしょ、毎晩体が火照っちゃって大変なんじゃ…」
次元は迷わずルパンの頭を張った。常よりは多分に優しくだったが。
「人の体の事より、自分の体を心配しやがれ!そ…それに、俺ぁ別にあんなモンなくったって…」
ルパンはニヤニヤと笑っている。 次元は耳まで真っ赤になった。 実際のところ、ルパンを思って自らを慰めない夜はなかったのだから。 一人で湯気を立ち上らせている次元を、ルパンが優しく抱き締めた。
「…ごめんな、してやれなくて。」
その一言に、次元は胸を突かれた。
「………馬鹿野郎…」
それだけ言うのが精一杯だった。 すると突然ノックの音がして、白衣の医者が扉を開けた。 床に座り込んで抱き合っているふたりにはなんの感慨も催さないかのような無機質な声で、彼は
「お時間です。」
とだけ告げると、再び扉を閉めた。 集中治療室に入るのだ。 再び次元を恐怖が襲った。
そんな― まだ、何にも気持ちの整理がついていない。 もう二度と、「今の」ルパンには会えないのだ。 すると、次元の混乱を見透かしたように、ルパンが突然次元の足を割って顔を突き入れた。
「ルパ…!何す…!」
次元の抵抗には耳を貸さず、その器用な長い指でするすると次元の性器を引き出すと、ルパンはそれを口に含んだ。
「あっ…!」
ルパンの舌に慣らされ、またそれを待ち望んでいた性器は、いとも簡単に膨れ上がった。 弱りきった体のその最後の力を懸命に振り絞って、ルパンは舌を動かした。
「あっ!あっ!ああっ…!ルパン、ルパン、ルパン…!!」
やがて、じんわりと温かいものがルパンの口中を満たした。ルパンは満足げに喉を鳴らしてそれを飲み下すと、次元の身繕いをした。 そのタイミングを待っていたかのように扉が開けられ、ストレッチャーが運び込まれた。 ルパンは無言で自ら立とうとしたが、すぐによろけた。次元はその体を支え、共に数歩歩いた。 医者たちも無言でルパンをストレッチャーに乗せ、横たえると、そのまま部屋を出て行こうとした。
「…ルパン!!」
次元が叫んだ。 その声に、医者たちは立ち止まった。 ルパンは横たわったまま次元をじっと見つめた。そして―
「…ありがとよ。…またな、次元。」
そう言って、いつものようにウィンクをしてみせた。 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、再びストレッチャーが動き出し、瞬く間にルパンの姿は見えなくなってしまっていた。 次元はひとり、ひとり残されたのだった。
あれから、数ヶ月が経つ。 次元は毎日を、まるで判で押したように規則正しく送っていた。 そうする事が、自分を救ってくれると信じた。 そう信じられなければ、自らが土台から崩れて二度と立ち上がれなくなることは明白だったからだ。
春もまだ浅いその日の朝、いつものように次元がキリマンジャロを淹れていると、電話が鳴った。 次元には、その音がまるで千年もの間聞いたことがない音のように感じられた。
「…もしもし」
キリマンジャロの香りが、室内を満たす。 朝日が眩しく差し込んでくる。曙の空の色は瑠璃色に輝いて、とても美しかった。
次元は無言で受話器を置いた。 そしてサイフォンから珈琲をカップに注いでひとくち味わい、煙草に火を点けた。 ふー…っと、ゆっくりと天井に向かって紫煙を吐き出す。 今日は新聞を読む時間はなさそうだ。
ちょうど一時間後、次元は浜辺に立っていた。 そこが、「指定」の場所だった。 次元にとっては思い出深い場所でもあった。 ルパンと初めて出会ったのが、この浜辺だったからだ。 あの頃はふたりとも悪ガキで、ケンカばかりしていた― そんなことを思い出しながら、次元がふっ、と笑ったときだった。 傍らに、影が立っているのに気がついた。 次元はゆっくりとその影の主を振り返った。
「よお。」 「…よぉ。」
並んで空に吸い込まれていく、ふたつの紫煙。 一つはペルメル、そしてもう一つは―
ジタン。
「ルパン」は次元を見ずに、水平線に視線を馳せていた。 鮮やかな赤いジャケット。刈り込まれた短い髪。長いもみあげ。長い指。
―でもやっぱり、少し違わあ。
次元は心の中で呟いた。 すると「ルパン」がこちらを振り向き、右手を差し伸べてきた。
「…またよろしく、俺の相棒。」
次元はぎこちなく手を差し出すと、「ルパン」の手を握った。 その途端に腕を引かれ、胸の中に抱きとめられる格好になった。 次元の鼓動が跳ね上がった。 まるで初めて抱かれるような気分だった。 戸惑う次元の耳元に口を寄せて、「ルパン」は何事かを囁いた。 次元は「ルパン」の両腕を掴んで勢いよく顔をあげると、「ルパン」に問うた。
「覚えてるのか!?」
「ったりめーじゃん。俺様天下のルパン三世よ?」
「ルパン」は彼らしく、高らかに呵々笑いをした。 それは、この浜辺での、ルパンと次元しか知らない秘め事だった。それも、忘れていてもおかしくない遠い昔の秘め事だった。「ルパン」はそれを、覚えていたのだ。
次元は目を伏せて静かに微笑った。
いいじゃねえか。
コイツがアイツだったかどうかなんて、もうどうだっていいじゃねえか。 今の一件だけで許してやらあ。 お前ぇは、確かに「ルパン」だよ―
何故かって? 俺の世界は、お前の隣にしかないから。 今までも、これからも、ずっと。
だから、お前がアイツの遺伝子を少しでも引き継いでいるのなら、もうそれだけで― 俺は何もいらない。
次元はボルサリーノのクラウンを手で押さえると、もう片方の手をポケットに突っ込んだ。
「…あれだけ苦労させられたんだからな。つづきを見せてもらうぜ?」 「つづき?何の?」
分かっているだろうに、あえて聞いてくる。こういうところはまったくルパンそのものだ。
「何のって…そりゃ、そりゃ決まってるだろ…」
次元が言い淀むと、ルパンがハートマークを撒き散らしながら飛びついてきた。
「あ、分かった、”愛の”つづきね!も〜う、次元ちゃんったら可愛いトコあるじゃな〜い!」 「ばっ…!馬鹿かお前は!!誰がそんなこと言った!」
それからふたりのじゃれ合いは延々と続いた。ただ空と海だけが、それを聞いていた。
世界は、ここにある。 お前の隣に。
だから、つづきを教えてくれ。 夢のつづきを。 そして、愛のつづきを―。
FIN
2008/12/16 Tue.
アーティスト:坂上伊織
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