Je te veux (前編)






何もかもが欲しい。

お前の全てが欲しい。






たった一度街で見かけただけのお前を、どうしてそんなに強く欲したのか、今でもよく分からない。




ただ分かっているのは、俺がお前を選び、お前も俺を選んだってぇ事。




…それだけ分かってりゃあ、十分かもしれねえな。
















その頃の俺は、ドン底だった。


面白半分で組んだヤツに、裏切りを喰らった。

予期していなかったワケじゃない。絶対的に信頼を置いていた訳じゃ、もちろんない。むしろ、「いつ行動に出るか」楽しみにしていた。

…だが、俺は油断した。


ほんの一瞬の油断が命取りだってぇのは、この稼業の常識だ。

気がつくと俺は、ワルサーを奪われた上に重傷を負わされ、海に放り出されていた。


今でも忘れる事ができねえ。ヘリから俺を見下ろしたアイツの顔は、「ルパン三世を欺いた」という、暗い愉悦に歪んでいた。


なんとか岸に辿り着いた俺は、歯軋りして砂に拳を叩きつけた。

海の塩の滲んだ傷口には言葉では言い表せない激痛が走っていたが、その時、その痛みよりずっと俺を苦しめたのは、
傷つけられたプライドの方だった。




畜生。

この俺様が、なんて様だ!




俺は心の中で叫んだ。


時として誇りを傷つけられるのは、身体を傷つけられるより痛い。

あの時の俺がまさにそうだった。

気も狂わんばかりの怒りと自己嫌悪に苛まれながら、俺は歩き出した。そうして辿り着いた港町で、俺は自分が流れ着いた場所が、
馴染みのフランスだって事を知った。
















それから俺は列車を乗り継ぎ、パリに出た。

そうして何をするでもなく、ブラブラしていた。

まるで野良犬のように、惨めな気持ちで、毎日街をほっつき歩いていたように思う。


正直、お前と出会うまでの間、どんな風に過ごしていたのかよく覚えてねぇんだ。

それ位、俺は打ちのめされていた。

裏切られた事にじゃなく、裏切りを許した事に対して。

己の不甲斐なさに対して。ルパン家の誇りを傷つけた事に対して。


…まあ、とにかく、そんな調子で俺の頭は怒りで煮えたぎっていたから、暫くは街の風景すら目に入って来なかった。

食うものもロクに食わず、酒をあおって暮らした。

そんな事してたってなんの解決にもならねえって事は、俺自身よく分かっていた。

だが、動き出せずにいた。






そんな時だった。

お前を、初めて見たのは―






あの日は良く晴れていた。

春だってぇのに、まるで初夏を思わせるくらい暑かった。


俺はオープンカフェの街路席に座って、バーボンを飲んでいた。

遂さっきギャルソンが運んできたばかりだってぇのに、グラスは既に汗をかいていた。

俺はバーボンを口にしながら、いつものようにぼんやりと流れる人や車の列を眺めた。

酒に強い俺が、その日は最初の二口三口で頬が熱くなるのを感じた。




チッ!

しけてやがる―

何もかも。

俺も、俺以外の何もかも―




そう思って再びグラスをあおった時だった。

カフェの前に、黒塗りのアルファロメオが止まった。


運転席の扉が開いて、まるで車体の黒に合わせるかのように、黒尽くめの男が出てきた。目深に被った帽子まで黒だ。

俺の目はお前に釘付けになった。


お前以外の物は、人にせよ、パリの洒脱な風景にせよ、何一つはっきりとした輪郭を持っていなかったのに、お前とお前の周りだけは、
鮮やかに色と動きをもって俺の目に飛び込んできた。

お前はしなやかな身のこなしで俺の隣の席に着くと、俺と同じバーボンを注文した。

注文を聞いたギャルソンが一礼して去ってから暫くして、お前は俺の視線に気づいた。

訝しげに俺を見るお前に向かって、俺は慌ててグラスを上げて首を傾げて見せた。

お前は口元だけで微笑んで、懐から煙草を取り出し、自分の世界に戻って行ってしまった。

お前が酒を飲み干して席を立つまで、3分とかからなかったと思う。その間、俺は気づかれないように、チラチラと横目でお前を見ていた。






何だ?

この感覚はなんだ。






今まで感じた事のない何かが―

俺の中で動き出した瞬間だった。






お前が俺と同じ世界に生きているって事は、すぐに分かった。裏社会で生きるヤツにゃあ、どうやったってその匂いが染み付いちまう。

お前からは、血と、硝煙の匂いがした―。


そうこうしてるうちに、お前はさっさと席を立って車に乗り込むと、目にも止まらぬ勢いで走り去っていった。

後で聞いたら、あン時ゃ、お前を雇ってたボスを待たせてたんだってな。お前らしいぜ。






ヤキが回ると、とことん回るらしい。

お前の車が走り去った後で俺は、車のナンバーを覚えていなかったのに気がついた。






―俺は椅子を蹴り倒したね。






二度目にお前を見つけたとき、お前は女と一緒だった。

どこから見てもしとやかな良家のお嬢様だ。






…罪作りだねぇ…。






俺はお前に気づかれないように、後を尾けた。


だが、またしても俺はお前を見失った。

何時の間にか雑踏に紛れて、お前は煙のように姿を暗ましちまったんだ。






こうなったらもう意地だ。

お前の行動範囲には大体見当がついていたから、俺は網を張ることにした。それも、ちょっと趣向を凝らした”網”を。






―何故だろう、あの時俺は、お前の情報を知っていそうな情報屋を訪ねてみるとか、そういう、他の奴らの協力を一切仰ごうとしなかった。

どんな事をしてでも、俺だけの手で、お前を見つけて見せたかったのかもしれない。






次の日から俺は、大道画家になった。

頼まれればもちろん肖像画も描く。風景画も描く。

ただ、それ以外のモチーフはただ一つ―

お前だった。


いろんな角度から、いろんな姿のお前を描いた。

黒尽くめで煙草をふかしながら立つ姿。

アラビア風の衣装にターバンを巻きつけたお前。19世紀の紳士風のお前。右から見た顔、左からの角度、…そうやって、俺の周りには、
お前の姿が溢れ返っていった。




効果は覿面だった。

コトが動いたのは5日後だ。




俺はその日も、朝から画材を街路に持ち出して、せっせとお前を描いていた。

日が高くなる頃、ふと、嗅いだ事のある煙草の香りが鼻腔を横切ったのに俺は気づいた。

カンバスから顔をあげなくても、もう分かっていた。




「…やっぱりあんたか。」


初めて聴くお前の声は、深く、落ち着いたバリトンだった。俺は微笑っていたと思う。ゆっくりと顔を上げると、お前が立っていた。

―ペルメルを燻らせながら。


「俺ぁあんたに追いまわされる覚えはないんだがね。こんなバカみたいな事をされると迷惑だ。今すぐ止めにしてくれねぇか。」

「そりゃそうだ。人相書きをバラ撒いてるようなモンだからな。」


俺は大道画家の衣装を脱ぎ去り、いつものスーツ姿に戻った。


「ルパンだ。」


俺が差し出した手をじっと見つめて、お前は言った。


「…あんたと握手する謂れはねえ。」


木で鼻を括ったような素っ気無い返事だった。


「…俺ぁ、とにかくあんたがバカな真似を止めてくれりゃあそれでいいんだ。明日も同じ事をしてみな。どてっ腹に穴が開くぜ?」


そう言って立ち去ろうとするお前の肩を、俺は躊躇なく掴んだ。


「待ちなよ」


お前は前を見たまま立ち止まった。


「この俺がここまでしたからには、少しは俺に付き合ってもらうぜ?…あんたも、俺の名前くらいは聞いた事があンだろ?」


お前の身体が殺気に満ちるのが分かった。早撃ちで鳴らすお前だ。マグナムを引き抜こうと思えば一瞬だったろう。


「…どうしても?」

「ああ。どうしても。」


俺の左手はお前の肩を掴み、右手は懐の新調したワルサーを握っていた。
















昼間ッから開店している行きつけのバーに、お前を誘った。

スツールに座るなり、お前は盛大に溜息を吐いた。


「天下のルパン三世様が、有り難いこって…。」

「あらら〜!?やっぱりご存知?俺様の名前〜!!」


親父が早速出してくれたグラスを乾杯しようとお前に向けると、お前は既に酒に口を付けていた。

ツーフィンガーのストレートを一気に飲み干して、お前は再び溜息。顔色一つ変えない。

その飲みっぷりに、俺は惚れ惚れした。




コイツぁいい。

コイツぁいいや。




上機嫌の俺と正反対に不機嫌も頂点のお前は、俺に聞いた。


「…で?俺に何の用だ。」

「ん?何の用って…。そうさなあ…」




実はあの時俺は、本気で考え込んでしまった。

あれ?

コイツと何がしたいんだっけ。




焦りを悟られないように、俺は話題を変えた。


「そ、そうだ!まだ名前を聞いてねえな。」

「…次元大介。」


うんざりして、吐き捨てるようにお前は言った。


「へぇ〜、日本人か。」


そう口にしたのは、話題を作る為だ。

次元大介。早撃ち0コンマ3秒の世界屈指のスナイパーの名を、この俺が知らないはずはなかった。


「この稼業に”何人”もねえだろ?」


お前は親父に酒の代わりを頼みながら言った。


「そ〜おかな〜。」


頭の後ろで腕を組みながら俺が意味深に言うと、帽子の下のお前の瞳が鋭く光ったのが見えた。


「…差別主義者か。胸糞悪い。俺は帰る。」


そう言って席を立とうとするのを引き止めて、俺は言った。


「…そうじゃなくって。今お前のいる立場が、お前に合ってねえような気がする、ってこと。」

「…どういう意味だ?」


お前は椅子に座りなおした。

俺はグラスの中の琥珀色の液体を見つめながら続けた。


「…この稼業に人種は関係ねぇ。要は腕次第、だ。だが、明確に分けられる”人種”があるんだよ。」


お前は、俺と同じようにグラスの中に目を落としながら、じっと聞いていた。


「…”自由人”か、そうでないか、だ。」

「…くだらねえ!」


クサい科白吐いてんじゃねえよ、と、お前は再びバーボンを一気にあおった。


「なあ次元。俺にはお前は人の下で動くような、そんなちっぽけなヤツじゃねえって思えるぜ?もっと広い世界を目指せよ。俺みたいにさ。」

「…余計なお世話だ。」


お前はぐいぐいと酒を飲んだ。


「大体よォ、何だってその腕をもっと有効に生かそうとしねえんだ?イタリアンマフィアの用心棒なんて…。おーやだ!つまんねぇ仕事!」


俺は本気で身震いした。


「…俺だって、好きでやってるワケじゃねえ。」


俺はちらりと横目でお前を一瞥してから、溜息まじりに呟いた。


「…女、か…。」


お前は黙ってグラスの腹を指で撫でていた。ややあって、お前は口を開いた。


「…お前さんが尾けて来た時一緒にいたのは、ボスの娘だ。今、ファミリーは抗争に巻き込まれてる。…守ってやりたいんだよ。」


はぁー、と、俺はさっきお前がしたのと同じように、盛大な溜息を吐いた。


「…そういう事なら、仕方ねえな。」


俺もグラスの縁を玩んだ。沈黙が流れた。


「…広い世界か…」


先に沈黙を破ったのはお前だった。


「それもいいな。」


お前は初めて俺の顔を真っ直ぐに見据えて、笑った。











それからどれだけ飲んだのか、正確にゃ覚えてねえ。

とにかく気がついたら、お前は俺のアパルトマンに転がり込んでた。


「いいのか〜?用心棒の仕事は〜!」

俺は相当酔っ払っていた。酔っ払っている事にかけては、お前も負けちゃいなかった。


「いいんだよ!一日くらいすっぽかしたって!」


俺たちは盛大に笑った。腹がよじれて苦しくなるくらい笑った。

ひとしきり笑い止むと、俺はお前にソファーに座るよう促した。


「…もうこうなったら、今夜は徹底的に飲もうぜ!そんでもって、日頃のウサを晴らしましょー!!」


あっはっは、と大声で笑って、お前は頷いた。


「そいつぁいい!そう来なくっちゃ!!」


俺は取って置きのバーボンとスコッチとシャンパンとワインを開け、テーブルに並べた。


「さあ!お好きな酒から召し上がれ!」


並んだ酒に、お前は目を丸くした。そりゃそうだ。俺が”取って置き”というからには、そんじょそこらの酒が並ぶと思ってもらっちゃ困る。


「…おい…凄ぇなこりゃあ。」

「まあ、飲めよ。」


俺はまずワインをグラスに注いだ。

酔いの所為で無防備になったお前の目は、プレゼントを貰ったときの子供のそれのように輝いていた。

一息にそれを飲み干して、お前は笑った。


「…美味い!」

「そいつぁ良かった!」
















俺たちは飲んで飲んで…

まるで泥のようになっていた。

気がつくと、俺たちは互いの肩にもたれ合っていた。

お前の髪が、俺の頬をくすぐった。

その時、突然お前は言い出したんだ。


「…なあルパン…」

「ん〜?なあに〜?」


実を言うと、お前の声音に、俺はぞくりとした。そんな感覚を男に対して抱いたのは初めてだった。


「いつか…いつか俺が”自由”になったら」


お前は今にも眠り込みそうな声で言った。


「…そん時ぁ、一緒に仕事をしようぜ…」


お前のその言葉に、俺はまるで飛行中のヘリコプターからパラシュートも無しに落下するように、酔いから覚めた。











コイツは、朝になったら、この部屋を出て行く。

愛する女を守るために。











俺はお前が”自由”になるのを待ち切れるだろうか。

いや、そもそも、その日はいつ来るんだ?






俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。

恐ろしかった。

そして、待ちたくないと思った。































そんな事をしてもお前を引き止める事はできないという事は、分かっていた。

だが、俺は真夏の炎天下で氷の彫刻を彫るように不毛なその行為に、最早心を奪われていた。


すっかり力の抜けてしまった身体を、慎重にソファーに横たえた。

そして、ネクタイに手をかけた。

お前は、自分が今何をされているのか、分かっていないようだった。


ルパン?という小さな呟きが洩れただけだった。


衣服を全て肌蹴てしまうと、俺はその浅黒い肌に口付けを落とし始めた。

桃色の乳首を吸い、歯を立てると、お前は背を仰け反らせた。


「うっ…、んん…!」


俺を更に煽り立てるに十分な艶めいた声が、お前の口から洩れた。

俺は左手をスラックスの中に忍ばせ、大きくなり始めていたお前の性器を握った。


「あ…!」


数回手を上下に動かすと、見る見るとお前は膨らんでいった。


「あっ!あっ!…ルパン…」


止めてくれ、と言われたような気がしたが、俺は耳を塞いだ。そしてお前を腕の中に閉じ込めた。

叶わないなら、せめて印だけでも残したかった。






俺は強くお前の肌を吸った。赤い痕跡が幾つも残っていく。






男を抱くのは初めてだった。

だが、お前を抱いている間、無性に俺は懐かしかった。

何が懐かしいのかは分からなかった。

でも、泣きたいほど懐かしかった。































翌朝俺が目覚めると、お前はいなくなっていた。

髪の毛一筋残さずに、お前は消え失せていた。

書置きは調べるまでもなかった。


俺はスラックスだけを手早く身につけると、煙草を吸った。

雨が降っていた。

無性にイライラした。











その時、マントルピースの上の鏡に写った自分と目が合った。

俺は煙草を暖炉に放り捨てると、右手の拳を勢いよく鏡に叩きつけた。血がボタボタと流れ落ちた。

鏡の中の俺は、粉々に砕けた。

そうだ。

この方が、今の自分を正しく映している。











馬鹿野郎。

なんで欲しいものを奪わなかった?

今まで手にしたいと思ったら、何でもそうしてきたくせに。

馬鹿野郎。ここまで腑抜けたか。











俺はいつまでも鏡の破片の中に手を埋め続けた。

昨夜お前を抱いた手を。
















お前が、いい奴じゃなければ良かった。

そこいらにいる、プライドだけは人一倍で、そのくせいざとなると往生際の悪い、女々しい奴なら良かった。

尊厳を奪った事に、恨み言の一つでも残していってくれれば良かった。











俺は、お前の優しさを恨んだ―。





















To be continued…











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筆者注:
「Je te veux.」は、フランス語で
「あなたが欲しい」の意。




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