B君の戦わないゆめにっき
気がつくとBは、草原の中の一本道にいた。 天気は晴れ、白い雲が遅い速度で形を変えながら流れていく。目の前には緩やかなカーブで細い道が、ずっとずっと続いている。 少し先に小屋があり、そこで道が途切れている。おそらくここは低い丘になっていて、あの小屋からむこうは下り坂なのだろう。 周囲を見渡すと、ただひたすらに草がそよぎ、緩い丘がいくつもあり、右手の遠くには山が連なっている。 ここはどこだろう。そう思うのに、沁みるような既視感がある。――懐かしい。 彼はつま先の向くまま、前へ、小屋のほうへ歩き出した。 近づくにつれ、小屋は小さな喫茶店だと気づいた。 喫茶店というか、休憩所というか。見慣れない建て方の、木造の平屋建て。店の前にはのぼりが立てられ、濃紺に白の染め抜きで『茶』『団子』と書いてある。 縦書きの不思議な文字を、なぜか読める。 茶がグリーンティーであることも、団子が菓子の名前であることも、なぜかBは知っている。 そしてこの道が、今は見えないが大きな川に続いていることも。
店の前にある、背もたれの無いベンチには朱色の丸く平たいクッションがあり、Bは迷わず腰掛けて、顔を出したエプロン姿の女性にお茶を頼む。 目の前に広がる広い広い草原。ところどころ、白い小さな花が咲き、かすかな風に揺れていた。Bは空を見上げた。綺麗だった。 「……いい天気」 「ええ、とても」 呟くと、茶を持ってやってきた女性が応えた。差し出されたものを受け取り、早速飲もうと取手の無いカップを掴むと、予想外に熱い。受け皿に戻し、傍らに立つ女性を見上げる。東洋人らしい、黒い髪に黒い目の、30代か40代くらいの静かな感じの人だ。 「ここは大抵晴れていますよ、たまあにお天気雨が降るくらい」 「へえ、そうなんですか」 「ええ、私がここで店をついでから、数えるほどしか雨の日はありませんでしたよ」 「この店、継がれたんですね」 「ええ」 Bは振り返り、開けたままの入り口から、店の中をのぞいてみた。客は誰もいない。確かにこんな細い道を、早々使う人は多くないのだろう。 常には無い気安さで、Bはベンチの開いた場所に座るよう彼女に促した。会釈して、彼女は隣に座る。短い髪の間に、真珠のピアスが見えた。 「いい風景ですね、でも店を出すにはあまり人通りが多く無いように思いますが」 「ええ、でも解りやすくていいと思うんですよ」 「わかりやすいと?」 「ここは一本道ですからね。みなさん、あちらのほうからいらっしゃいますし、すぐわかります。だから待っていてやろうと思いまして」 「気長な待ち合わせですね」 「待ち合わせ、というか約束もしていないんですけど。待っていたい気がして」 「そうですか……」 返事をしつつ、再びカップに手を伸ばす。もてる熱さになっていた。さあ飲もうというとき、ぞっとするような寒気に襲われ、はっとして辺りを見渡す。 「……どうか?」 隣の女性が問いかけるが、Bは中空をみていた。 斜め前方、道を挟んだ草の上に大きな黒い手が浮かんでいた。 距離にして約十メートル。指の長さだけで大人の身長をこえるような、黒い靄のような何かで出来た大きな手。 地面に落としたカップにも気づかず、Bは反射的に逃げ出し、数メートル走ってから女性のことを思い出し、振り返った。 だが彼女はベンチに座ったまま、驚いた顔でBを見ているだけだ。 「ちょ、早く逃げて!」 彼女はその声にきょろきょろと辺りを見渡し、再びBを見て、困惑を浮かべた。黒い手は、ちょうど彼女の前の草原に浮かんでいる。 彼女に手は見えない。 「うわ……」 手、俺狙いっぽい。 指先はBをむき、こちらに近づいてくる。 逃げろ逃げろと焦燥がBを追い立てる。Bはじりじりと後ずさり、 「お代は今度支払います!!」 叫んで身を翻し、今来た道を逆走した。
しばらく道沿いに走り、はっとして横を見ると、数メートルの距離を置いて黒い手が併走している。 「こっち来んなー!」 半泣きで直角に曲がり、手とは逆の草原へ踏み込んだ。 隠れる場所とか……木がぽつぽつと立っているだけのここに、そんなところは無い。 「怖いから!怖いから!……デイビッドさーん!助けてセバスチャーン!!」 ほとんどヤケクソで叫んでみたが、デイビッドどころか見える範囲に人陰は無い。 最寄の大きな木のほうへ目指すでもなく走り続ける。 ちりりと背中を冷やすのは予感。今、たぶん黒い指先が肩に触れた。右肩が、冷たい。 やばい、もう、 「あ」 思ったときに、黒い靄が見えた。背後から肩越しに伸びる前に伸びる黒い指。首を挟まれる。巨大な手に体全体を鷲掴みにされた。 痛い、怖い、気持ち悪い――嫌だ。 Bは絶叫したように思う。直後、掴まれて一瞬浮いた脚が地面に届いた。黒い指が離れる。Bはよろよろと少し歩き、木の幹に手をついた。 そのすぐ下に、大きな洞がある。Bなら何とか入り込めそうだが。 「……入って、どうする、俺」 うつろな思考のまま振り返ると、手は目前にあった。 背中を幹につけ、咄嗟に左に逃げようとすると、そこに指。逆をむいてもやはり指。 今さっき掴まれた首を両手でかばい、Bは幹にそってずり下がった。 Bが下がると指も降りてくる。 「う、」 俺、終わる。 「わあっ」 Bは忘れていた、幹に洞があったことを。 Bは尻から着の洞に落ちた。
「……」 そして今も落ちている。 ような気がする。ここには風がないのでよく解らない。 手をばたばたさせても大声を出しても目を見開いても、あるのはただの暗闇ばかり。なのに自分の手足は見える。 体は何にも触れていないのは不安だが、あの黒い手に捕まるよりはましに思えた。若干。 「もう、……いーやーだー!」 一人きりなのをいいことに、デーデマンよろしく手足を駄々っ子のようにジタバタさせてみた。 すぐにやめる。 さすがにみっともないと思ったわけでもなく、つま先に何か触れたからだ。 「……!」 つま先に何か触れたと思った途端、足先のほうが床になり、Bはすごい勢いで前に転んだ。 「い、痛……いほどでもない」 床のような何かは、弾力があり、手でふれるとかすかに凹凸がある。しかもなんか生ぬるい。……やめよう、触るのは。 ひとまず辺りを見渡すと、真上に近い高いところに白い両開きの扉、あるいは窓のようなものが見えた。長方形のまま見えるということは、あれは下向きについているらしい。壁があれば、あそこまで続く階段があるかもしれない。だが戻ったとして、黒い手がまた追ってくるかもしれない。 「うーん、迷路で迷ったときは、壁に手をついて歩けばいいんだっけ?」 Bはとりあえず、壁があるかどうかを確かめるために歩き出した。
結論から言えば、壁は無かった。だが窓はあった。 上にも下にも、それこそたくさん。様々な形の様々な窓が。 縦に横に斜めに、様々な角度で窓だけがぽつんぽつんと浮かんでいる。試しに、手の届く範囲のいくつかを開けようとしてみたが、開くものは無かった。 ガラスのある窓の向こうでは、なにかよくわからないものが動いていたり、ただ晴れた夜空が見えたり、水の中をカンブリア紀の生き物たちが漂っていたりした。 数十目かの窓を覗くと、透き通る薄い紫の水が、滝を遡って流れていくのが見えた。 上を見ると、同じ角度に傾いたみっつの家がゆっくり自転していた。白い大きな鳥が、Vの形に列を作って、家の下を飛んでゆく。 美しい、素直に思った。夢のように美しい。 「……夢……」 ひょっとして夢か、これは。 Bはそこに思いつき、斜め上に下向きについた窓から目線を離し、なんとなく両手を見た。 そして頬をつねってみた。痛い。 「……痛みつきの夢か……目、覚ましたい」 Bは夢だと決めて掛かって、とりあえず先へ進んだ。
しばらく行くと、窓らしい位置(窓としてふさわしい高さと角度)に窓があった。今回もガラスで、その向こうはビルの廃墟の中だった。 汚れた、もとは白かっただろう壁、床に散乱するコンクリートのかけら、割れた蛍光灯。 試しに窓を引くとあっさりと開いた。 「……」 開くと思わなかったので驚いたあまりにまた閉めてしまった。 「えーと」 どうしよう。 「行こう」 窓鑑賞も楽しかったが、ここは暗すぎる。目が覚める感じもまったくない。 いいのだ、どうせ夢だから。 再び窓を開け、Bは廃墟へ侵入し、元通りに窓を閉めた。
適当に歩いていると、外に面した通路に出た。 窓の外は、2車線の道路をはさんで、やはりビルが建っている。それらから察するに、Bは今4階か5階にいると思われる。 どのビルも廃墟のようだ。高いビルは上のほうが崩れて、鉄筋がむき出しになっている。下を見ると曲がった街灯や落下した看板、錆にまみれた車。 この町ごと、廃墟なのだろう。 上空を見ると、灰色の空にひびが入り、一部欠けていた。その向こう側で蛍光色の何かが蠢いている。 「――」 見なかったことにしよう。
割れたガラスをじゃりじゃりと踏み砕きながら進む。 いまのところ、通路だけでドアも階段も無い。 なのになぜか、ゴミ箱がある。 金属製の、丸いふたのついた大きなゴミ箱だ。何の気なしに蓋を取ると、中にはみっしりと薄いピンクの肉のようなものが入っている。しかもぴくぴくと動いている。 「…………」 Bは、出来るだけそっと元通りに蓋をした。 見なかったことにしよう。そっと離れ三歩進むと、背後でじゃりっと音がした。はっと振り向くと、特に景色に変化は無い様子。誰もいないし、何もいない。 ふう、と息を吐いて一歩進むと、またじゃりっと音がする。 嫌な予感にBは眉を寄せた。 もう一歩進む。 じゃりっ さらに進む。 じゃりっ 振り返るが、やはり何もいない。 大変、気味が悪い。Bはとりあえず、走って逃げることにした。 走り出すと同時に、背後から音も追ってくる。ちらりと振り返ると、さっきのゴミ箱が追いかけて来ていた。直立のまま、滑るように追ってくる。 あの、肉的ななにかの詰まったゴミ箱が。 「ひっ」 通路を曲がると階段が見えた。良かった、とにかく外へ! Bが階段を駆け下り始めると、ゴミ箱は階段前で止まったようだった。ほっとして駆け下りる速度を落とす。踊り場を曲がると、金属製の扉が見えた。2階か3階の扉だろう。 その時上方で、金属が何かにぶつかる音、そして転がるような音がした。 また、嫌な予感がする。 金属は、というかもうゴミ箱は、踊り場の壁にぶつかっていったん停止し、ごっとんごっとん音をさせながら姿を現した。 ゴミ箱は横倒しになり、中身を少しはみ出しがちだった。さらに、中身のどこかから、小さな肉の手が、骨も関節も無いような異様な細長い腕が出て、蓋をしっかり掴んでいた。 「――――!!!」 Bは金属の扉に手を掛けて、最速で開けて入って閉めた。 「な、なん……う」 思い出すのも気持ち悪い。しばらくドアノブを握っていたが、いつの間にか入ってきたドアが、金属から木製になっているのに気がついた。 「……?」 おそるおそる手を放す。何の音もしない。 大丈夫、だよな、きっと。 ドアノブを回すと、かちりと音がして開く気配がする。開かなくなることはないようだ。だが、アレには手がある。鍵は無い。 「よし、離れよう」 扉に背を向けて、Bは気づいた。 景色が一変している。 目前に広がるのは、薄明るい奇妙な荒地だった。白っぽい大地に薄い青の植物めいたものがある程度の範囲でいくつも群生している。みわたすかぎり、動くものはなく、風も無く、雲も太陽も無く、白っぽい空が続いている。 振り返ると、荒野にぽつんと、ごく普通の扉が立ってる。 あるのは扉のみ、扉の向こうも同じような景色が続いている。 なんというシュール。夢だからだろうか。
うんざりした気分で歩き始めたがBだが、そのうち感情は凪いでいった。 いつの間にか空は白から群青に変わり、遠くが赤に橙に輝いていた。夕暮れの荒地を、どこまでも歩いていける気がした。夕日を追って走る子供のような気分で、Bは紅の空を目指して歩いた。 どこか遠くで、鐘の音がした。 すると少し離れた青い植物がゆれて、その間から、半透明の顔の無い子供たちが出てきた。 金色の髪の、黒い髪の、茶色の髪の子供が、あわせて7人。 みな、背の高さはBの腰から胸の辺りまでで、似たようなチュニック風の服を着ていた。かれらは聞き取れない言葉で笑いさざめきながら、Bの脇をすり抜けていく。 Bはなぜか恐ろしいとも思わずに、彼らを見送った。 群生している植物の隙間から、次々と同じような子供たちが出て、何人かずつ固まって、それぞれの方角へ散っていく。 Bを追い越し、横切り、すれ違って、子供たちは走っていく。 そしてやがて、いなくなる。 最後の鐘が鳴った。 Bは歩みを止めることなく、ずっと、ゆっくり歩いた。 さびしい様な、ひとつ区切りがついた安堵の様な気持ちで。
そんな気分で歩いているうち、また扉が見えた。やはり扉だけが、荒野に立っている。 Bはひとまずその前まで行き、少し迷った。 この荒地を、ずっと歩いていくということに少し惹かれたが。 「そもそも開かない可能性だって……開いた」 扉の向こうに見えた景色では、赤い闇の中に巨大な三角錐と四角錐が、並んだり積み重なったりしていた。
長い長い夢だ。 いい加減終わればいい。
「まったくもって不本意だー!」
いくつもの扉を開け、いくつもの奇妙な世界を歩き回り、触ると時刻を告げる蝶と遊んでみたり、メタリックに輝きながら宙を漂う1メートルのゾウリムシに懐かれたりしたBは、今、暗い森を疾走しながら叫んだ。 背後には性別のわからない老人。 老人は驚くほど痩せこけているのに、とても足が速い。 かつ、驚くほど腰が曲がっている。腹を上にしてエビ反りに。逆さまの顔のまま、Bに向かって疾走してくる。とはいえ、後ろ歩き(後ろ走り)しているわけではない。 膝とつま先は進行方向に向いている。 つまり彼、ないし彼女は上半身を180度ねじった上にエビ反りになって走ってくるわけだ、Bのほうへ。 当然Bは逃げる。 木々を縫いながら走ると、黄色い明かりが見えた。四角いいくつもの窓が、Bの進路を遮るように横に並んでいる。 「まじで!」 どちらに迂回しようかとさっと目を走らせるが、黄色い光は左右とも、延々と等間隔に続いている。迂回できる気がしない。 近づく窓がひとつ、開いているのが見えた。 Bは窓に飛び込んで、床に激突しつつもすばやく振り返って窓を閉めた。 逆さまの老人と窓を挟んで一瞬見つめ合う。低い位置からこちらを見上げる老人の、白目が黄色くにごった、なのに瞳だけは綺麗なブルーの目を、Bは見た。縋るように壁に伸ばされた枯れ木のような腕も。 同時に床が動き、Bは固い座席にぶつかるように座った。 「!」 見渡すとそこは、動き出した古ぼけた列車の中だった。 ボックス席が通路を挟んで並んでいる。 窓に張り付いて老人の方を見る。老人はもう手を伸ばさずに、ただ、逆さまの顔でBを見送っていた。 速度を上げながら、黄色い光が彼の顔の半分を照らす。いいようのない罪悪感がよぎり、目を逸らせなかった。 老人の姿は徐々に小さくなり、見えなくなり、Bはじっと彼のいた方向を見ていたが、木がよぎるだけの風景から目を逸らした。 そして座席に腰掛け、瞼を閉じた。
列車はトンネルに入った。
目を開けると、そこはまだ列車の中だった。 ただ、今度はボックス席でなく、車両に縦にシートが並ぶ列車だった。 いつの間にか違う列車に乗っていることに、Bは驚かなかった。夢だから、まあそういうこともある。 窓の向こうは闇、一定の速度で列車は進む。 乗客はBと、黒い影のみ。 黒い影はふたりぶん程空けた横に、じっと座っている。Bは横目で影をうかがった。人で言うなら顔の辺り、頭部と思われる場所に赤い光。目、だろうか。襲ってくる様子も無いが、どうにも気持ちが悪い。 列車はことこと走り、列車の窓からの光にに流れてゆく木々が見えた。 しばらくして列車は止まり、Bはそろりと席を立ち、出口に向かった。そっと影を振り向くが、影はBに興味の無い様子でやはりじっと座っていた。 「……」 静かにBは降車した。 列車が止まったのは森の中だった。ホームは無い。 立ち止まって辺りを確認しているうち、背後で扉が閉まり、再び列車は動き出した。 振り返って見上げれば、あんなに長く連なった車両は、ただ1両になっていた。 Bは森の中を歩き出した。暗いくらい場所だった。
森を抜け、真赤な迷路を抜け、闇の中に点滅するネオンの道にBはいた。 その間、人に似たものやそうでもないものに幾つかであったが、彼らは総じてBに興味が無い、あるいはそもそも見えていない様子だった。 追われるのはごめんだが、無視されるのも辛い。まるで、自分が存在しないようだ。 なんて寂しい夢。 歩くと電子音のする光る床を、気の向くままに歩き続けていると(歩いてばかりだ、とBは思った)、闇に扉が立っていた。 金属製の扉には四角く点滅する明かりがいくつも貼り付けられていた。 「また無茶なデザインして」 呟いてBは扉を開けた。
扉を開けると、暗い広い部屋のようなどこかだった。 扉がいくつも、円形に等間隔で設置されており、それぞれがまったく違う造作で、それぞれが壁に面していなかった。扉だけが、暗がりに立っている。 金属らしい扉、木材らしい扉、……眼球の取り付けられた扉。 そして床には、いくつもの卵がやはり整然と並べられている。 小さなものはダチョウの卵くらいから、大きなものは幼児が入れそうな大きさのものまで。扉と同じように卵は色とりどりで、中には模様が入っていたり、蛍光色のものもある。 卵たちはなんの支えも無いのに、緩いカーブの先端を床に着け、直立している。 そして並ぶ扉と卵の中央に、少女が一人。 長い髪を三つ編みにして、ピンクのカットソーに臙脂のスカート、真赤な靴。 侵入者たるBを振り返った顔は確かに幼く、10代なのは確かだと思うが、東洋人のようで年齢が読めない。 Bはしばらく彼女を見つめて立ち尽くしていた。
天井の見えない、あるいは天井の無いくらい空間に、いくつもの扉、いくつもの卵、ひとりきりの少女。なんだかこんな絵画があったような気がする。 しばらく二人は見つめあい、Bは彼女が瞬きをしたのを、そして困惑したような瞳の動きを見た。 ……人だ。しかも普通っぽい。
「あ、」 「ダメ」
口を開いたBを小さな声で、きっぱりと少女は咎めた。 「入っちゃダメ」 そして、つい一歩踏み込んだために、扉の向こうとこちらの境界に置かれた、彼の右脚をみた。 「……わかった」 素直に足を引き、扉の中と外、――どちらが中かも解らないが――扉に切り取られた空間を挟んで対峙する。 「言葉がわかる……よかった」 「……」 「あー、いや俺は怪しいもんじゃないよ、ただここが君の家ならごめん」 「……」 「……ここがどこかわかる?」 「……夢。私の夢の中」 「?えー、俺の夢じゃ?」 「違う。戻って」 少女はBを指差した。正確には、彼のいる扉の向こうを。 追われて迷ってひたすら歩いて、ようやく会話できる人に会えたのに、あんまりだ。 Bは聞かれてもいないのにこれまでのことを話した。 草原から追われて逃げたこと、おかしな世界で恐ろしい何かが追ってくること、電車に乗ってぱりおかしな世界にきたこと。 はじめて、人(かどうか若干怪しいが。尚、草原女性は除く)に出会ったこと。 少女はとくに相槌をうつでもなく、無表情を変えるでもなく、黙ってBの言葉を聴くだけだ。 それでも。 ただひたすら逃げ回るか彷徨うばかりのこの夢で、ようやく誰かに会えたことがとても嬉しかった。 話が出来るというのは、誰かが自分の声を聞いてくれるというのは、とても幸福なことだ。とても。 Bは少し泣きそうになり、そのことで我に返った。 思えばこんな子どもの前で取り乱してはずかしい。 「話を聞いてくれてありがとう、俺はB。君は?」 取り繕うように云うと、少女は無表情のまま、少し驚いた風だった。 「……まどつき」 変わった名前だと思った。どこの国の名だろうか。そもそも彼女は、何語を話しているんだろう。 「そう、まどつき、ここ夢だって言ったよな」 「私の夢」 「……じゃあ俺、……いや、その卵は何?」 じゃあ俺は何だ?彼女の夢の登場人物? それなら今までの俺は、フランクフルトで生まれ育った俺は何だ? それも夢か?それとも俺はもうとっくに狂ってるのか? それとも。 Bはその問いをなんとか飲み込んだ。そんなことを口にしたら、自分が耐えられないと直感で知っていた。 そしてかわりに、直立卵のことを聞いてみた。 「知らない」 にべもなかった。 一度言葉を切ったまどつきは、少し首をかしげて言った。 「知らないけど。――見つけて、拾って、ここに置いていく。これでいいの」 それは、卵の話だろうか。 少女の表情は読みづらい。 だが、悪いものでないことだけ読み取れた。暗い部屋の中でも、少女の目は闇の色をして暗かったが、晴れた夜空のように高かった。 「まどつきはこれからどうするんだ?」 「もう行く。……Bは、戻って」 「いやそれが……道がわからない」 それに黒い手が追ってくるし。元いた場所って、あの草原だろうか。 夢だと信じたいが醒めることが出来ないし。 「それでも行って。ここ閉じると思う」 「ごめん、意味がわからない」 「そう」 少女はあっさりとうなずいて、あっさりと歩き出した。気づかなかったが、奥にもうひとつ扉がある。 「まどつき!」 「入っちゃダメ」 奥の扉の前で、窓付きは振り返った。重ねて絶対に入るなという。 「……」 Bは途方にくれた。 窓付きは少し笑ったようだった。 「ばいばい」 そして扉を開け、その中へ消えた。
Bはその場に立ち尽くし、やはり途方にくれた。 彼女は戻れといったが、どうやれば帰れるか、目を覚ますことができるのか見当もつかない。 またひとりになった不安もあるし、まどつきと話を出来ればとも思う。 だが、彼女は入るなと言った。 「いやもうまじで。どうしよう」 頭を抱えて座り込んだとき、押し開けていたはずの扉が音を立てて閉じた。驚いて後ろに転ぶ。 するとそこはいつの間にかくだりの階段で、Bはそのまま下まで転がり落ちた。 「……くそ、痛ェ」 だが怪我は無い。手足は普段どおりに動く。 ――夢か妄想にはちがいない。
落ちた場所は階段に繋がる通路だった。通路は長く長くまっすぐで、そのさきはさらに階段のようだ。ななめになった天井が見える。 ふりかえると、落ちてきた階段は途方も無く長く、もはや見上げても扉は見えない。 ……見えないのではなく、ない。 長い長い階段は、上の方から闇にしみこむように溶けている。 呆然と見つめる間も、階段は消えてゆく。 「まじでー!」 Bはほとんど本能で走った。勿論通路を、下る階段のほうへ。 通路と階段はどこまでもながく、走っては駆け下りを幾度もくりかえした。階段にはときおり踊り場があり、通路にはときおり曲がり角があったがつねに一本道だった。 振り返るたび闇は近くなり、Bはとにかく走り続けた。 いつの間にか壁は石と土になり、階段は土と石の坂道になった。光源は無いのに見えることをBはいぶかしむ隙も無かった。 たどり着いた先には、土の壁があっただけだったからだ。 「……」 言葉も無く辺りを見回すと、古びた、頑丈な扉がすこし道を戻ったところにある。そしてそのさらに向こうに、あの闇が。 躊躇は一瞬だった、Bは扉に向けて再び走った。体当たりに近い勢いで飛び込んで、転んだ。 とにかく扉を閉めないと……!そう振り返れば、すでに扉は無い。 あたりは真っ暗で、何も見えない。 手を突いた場所の感じでは土ではない、つるりとしたガラスのような、冷ややかな感触がした。 「……飲み込まれた、のか……?」 Bは立ち上がり、なんとなくパタパタと服を払った。 暗闇の中で、やはり自分の姿だけ見えるというのはやはり異様な気がしたが、見えなくなったらそれこそ耐え切れずにパニックになるだろうとも思った。 とりあえず遠くに見えた、黄色い色を目指して歩き出した。
黄色い色は、黄色い扉だった。前にも後ろにも回って確かめたが、扉だけがぽつんと闇に立っている。 しばらく逡巡した後、ドアノブに手を掛けた。 扉は開かれなかった。 「うんそんな気がしたよ俺は」 溜息をついて歩き出す。 どれだけ走り続けても歩き続けても、疲労しないのでもういい。 若干投げやりだった。
それからいくつも扉を見つけ、何度も押したり引いたりしたが、開く扉はひとつもなかった。 それでもほとほと歩くうち、光が見えた。 もう走る気分でもなく、また見えてくるいくつもの扉を素通りしながら光に向かってあるいた。 光は、開かれた扉から漏れていた。夏の葉のような緑の、木製の扉だった。 隙間から向こう側を覗くと、今度は晴れ渡った青空と、一面の草原が見えた。 懐かしい、ような気がする。戻ってきたのだろうか。いつか来た、あの場所へ。 右手は見渡す限りの草原だ。 正面はしばらくずっと草原で、遠くに木が茂っている。あの並びだと、道がありそうだ。 左手には、遠くに山があり、その手前に暗い緑があり、そこから森になっている様だった。さらに手前に白い家が一軒立っていて、その前には道があるのだろう、親子連れらしい人影がある。 「……人だ」 離れていてよくわからないが、人らしい姿、人らしい動き。 Bはたまらず草原に足を踏み入れた。背後で扉が閉まったが、気にせず人影へ向かって走り出す。 ふいに頭上がかげり、悪寒が背中を駆け上がる。アレだ。 「こっちくんなー!」 叫ぶ間に、黒い手がBを捕まえた。 「うわあ!」 反射的にうずくまる。ついに殺られる、ぷちっとやられる! ぎゅうと目を閉じたが、恐れるような圧迫は無かった。 黒い手は冷ややかで、背中や腕からは気持ち悪い感触がするが、危害を加える様子はない、今のところ。 しゃがみこんで膝を抱え、Bはそっと目線だけ動かした。首を回すと顔が黒い靄に触りそうで嫌だったからだ。 あたり一面、黒い。 あの手に握られているからあたりまえだ。 ああまったくどうしよう。どうしたらいいんだ。 不安と悪寒に耐えていると、唐突にすさまじい衝撃がきた。 「――圧殺っていうかなんか交通事故的な」 「ふうん、交通事故的な?」 「こう、バーンと衝突、みたいな……ひわあ!」 目の前で、美しい悪魔が微笑んでいた。
およそ5秒後、Bは対ユーゼフ警戒態勢の定位置、つまりデイビッドの背中にすがり付いていた。 デイビッドは特に気にもせず、おはようB君、と言った。 「丸一日眠ったままだったから、みんな心配したんだぞ?」 「……?」 そのときになってようやく、Bはここがデーデマン邸でないことに気づいた。デーデマン邸にはこんな客間はない。 そしてなぜか自分はパジャマだ。そして目前には自分が寝ていたらしきベッド。 ユーゼフはベッドの脇に置かれた椅子に腰掛け、いつものように微笑している。その隣にはセバスチャンが、やはりいつものように仏頂面で佇んでいる。 この状況の意味が判らない。 その後ぴったりとデイビッドにくっついたまま、ソファでなにがどうなっているのかを聞いた。 アルベルトが現れてお茶を入れてくれた処をみると、ここはユーゼフ邸のようだ。
彼らの(主にユーゼフの)話によると、Bはデーデマン邸で落とし穴に落ち、怪我をして意識不明に陥ったのが昨日。それをユーゼフが助けにいき、 「設備の面で勝手がいいからうちで君の修復、いや治療をしてね」 「……」 その後、ここユーゼフ邸の客室で寝かせておいたとのことだ。 「まあ大丈夫そうだけど……痛いところはあるかい?」 「いいいえ、どこも!」 痛いところも違和感を感じるところも無かった。 落とし穴に落ちたことは覚えているが、その後ユーゼフに助けられたことも治療されたことも覚えてはいない。セバスチャンもデイビッドも、ユーゼフの話を補足こそしても否定はしない。 病院で無く、ユーゼフ邸で治療を受けたということにひっかかりを覚えないでもないが。 やはりこれは…… 「――あの、ユーゼフ様、ありがとうございましタ」 礼を言わねばなるまい。知らぬ間にどこか改造されていたらどうしよう。 目をあわせずに礼を言った後の僅かな沈黙に、ユーゼフを伺いみる。 彼は珍しく微笑を消し、わずかに驚いているように見えた。……なんだかこんな表情を見た覚えがある。ユーゼフではなく、あれは。 「どういたしまして」 ユーゼフはそれこそ花のように笑ったが、すでにBはまた視線をずらしていた。 そうそう直視などできるものか。
その後。 ユーゼフがBの予後が心配なので今日は止まって行けと言い、Bは全力で断り、セバスチャンとユーゼフ間で何かやり取りがなされ。 結局ユーゼフ邸で一晩世話になることになった。デイビッド付きで。
「……」 「……」 「どうしたんだい、B君もデビット君も、おかしな顔をして」 「デイビッド!」 デイビッドは素早く訂正した。
夕食後、Bは客室でデイビッドと暇つぶしがてら話をし、そろそろデイビッドがこちらも用意された客室に戻ろうかという夜11時。館の主人がパジャマ姿で枕持参でやってきたらそれはおかしな顔をするしかないではないか。とBは心の中でつっこんだ。無論デイビッドの背中に引っ付いて。 一方デイビッドはユーゼフを眺め回し、やがてぽんと手を打った。 「夜這い!」 「うわー何恐ろしい事ゆってるんですか!」 「はは見つかったね」 「否定してください!」 ユーゼフは、Bが急変するといけないので念のため一緒に休むといい、Bは全力で断り、デイビッドはセミダブルだから少し狭いが平気だろうと言った。 とにかくそんなこんなで、なぜか男3人が一緒のベッドで寝ることになった。 デイビッドが真ん中だ。 昼過ぎまで眠っていたし、しかもこんな状況で眠れるか!とBは思った。思っただけだったが。
きっと夢だ。 だって視点が鳥のような上空だし、あるはずの自分の手足も見えない。 それとも今俺は鳥設定なのか?視線をめぐらせても、羽らしいものは見えなかった。視覚と意識のみ、上空にある。 青い青いそら、午前の光が草原に降り注いでいる。 ああ、あの草原だ。 草原を気ままに伝う細い田舎道、道に沿って伸びる広葉樹、小屋と言っていいような、異国風の喫茶店。 店の向こうはなだらかに下っていて、遠くに、流れる水の煌きが見えた。 川から道を視線で辿って、一本道の向こうを見る。誰かが道を歩いてくる。 とてもとても遠いのに、やってくる誰かがみえる。 それは一人の少女だ。長い髪を三つ編みにして、赤い靴を履いて。 少女は軽やかに無表情に、道をやってくる。 やがてBの眼下を通り過ぎ、ちいさな店の前から、少しはなれたところで立ち止まる。 店の前に、ひとりの女性が立っている。彼女はかすかに笑っている。 少女は再び歩き出し、やがて走り出した。 背中ではねる髪が、きっとあの子の気持ちだ。近づいてゆく二人の距離に、よかった、と思った。
そこで目が覚めた。 暗闇の中、ささやかなオレンジ色の照明が、何かをつややかに照らしていた。 寝たまま視界の隅に移るそれを見上げれば、照らさせていたのはユーゼフの金色の髪。 ユーゼフは横臥して片腕を突き、こちらを見て、 「いけないよB君」 囁くように言った。照明はユーゼフの背後にあるので、彼がいまも微笑んでいるかどうかはわからなかった。 「……はあ」 寝ぼけているのか、間にデイビッドが健やかに寝息を立てているせいか、このときのBはまったく恐れずにユーゼフと話すことができた。 「あんまり行くと、戻れなくなるからね。君はまだ、あちらに近い」 「……はあ、でも」 「でも、なんだい」 「会えたし、もういいんです」 「……そう」 「はい」 「ではもう、忘れて眠りなさい」 「はい、おやすみなさい、」 呟いた後、Bはことんと眠った。 「――おやすみ、B君」
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