夢はいつも灰色だった。 
 空の色、肌の色、土の色。 
 無限に続くモノクロームの中を、誰かに連れられて歩き続ける。 
 手を引く人の顔は黒く塗りつぶされていて、どんなに目を凝らしても見えない。 
 辿り着いた教会の前で私は「行け」と背中を押される。 
 ――ここはどこだろう? なぜここへ来たの? 
 握りしめているのは言いようのない不安と孤独。振り返ると、誰もいない。 
 ただ、そこに一輪の花が咲いている。 
 茎も葉も花びらも、全て灰色の花。 
 それがとても哀しくて―― 
 
 
 
 
 むせ返る瘴気と亡者の怨嗟。風に混じって吹き抜ける、生贄と精霊の嘆き。 
 腐り果てた死者が住まう村。狂気に満ちた獣が徘徊する森。 
 流れ出た血と膿が流れ込んだ湖は、赤く濁って異臭を放つ。 
 漆黒の闇を纏う魔王の居城は、稲妻の閃光に血塗られた姿を浮かび上がらせていた。 
 
 ――これがあの美しかった国の姿なのか。 
 
 私は目を疑った。 
 正教会からの依頼を受けたとき、二つ返事で首を縦に振った。思い出の地ワラキアを穢した魔王と戦うことは、私の宿命だったのかも知れぬ。 
 おそらく二度と帰れぬ戦いとなるだろう。 
 躊躇いはなかった。天が与えたもうた我が力は、このためにあったのだと。 
 私は魔王の軍勢に戦いを挑み――そして敗れた。 
 呪いによって石像に変えられた私を救ってくれたのは、鍛え抜かれた肉体に底知れぬ強さを秘めながら、どこか影のある若者――ラルフであった。 
 彼は寡黙で、ヴァンパイア・ハンターであるという以外、多くを語ろうとしなかった。誰にだって詮索されたくないことがある。だからそれ以上は聞かなかった。 
 私は他人に興味を持たない。 
 誰かの人生に興味を持てば執着や躊躇いが芽生え、感情は隙となる。 
 私にとってそれは『死』を意味する。 
 わずかな油断で命を落とす――そんな世界で私は生きてきた。 
 そしてこれからも、私は他人と交わることはないだろう。 
 ずっと、そう思っていた。 
 
 
 
 
「グラントは右を、サイファは左を頼む。俺は中央を叩く」 
 
 魔王の居城へ通じる橋に立ち塞がったのは、水中から長い首を伸ばし業火を吐き出す三頭のドラゴン。ラルフは魔物に取り乱すことなく、冷静に指示を出す。髪を切らぬ若さでありながら彼の判断は常に的確であり、鍛え上げられた肉体と不思議な鞭から繰り出される一撃は、立ち塞がる魔物全てをことごとく打ち破ってきた。 
 
「精霊よ――!」 
 
 サイファ・ヴェルナンデスが両手をかざすと、ドラゴンの炎は目の前で止まり、逆にドラゴンめがけて吹き荒れた。万物全てに宿る精霊の声を聞き、精霊に語りかける事によって様々な自然現象をコントロールする――精霊魔法である。 
 自らの炎に飲み込まれたドラゴンは、焦げた肉を崩れさせながら水中へと沈んでいく。 
 
「おらおら、こっちだ!」 
 
 崩れた足場を飛び回り、グラント・ダナスティはドラゴンを挑発する。うなり声を上げて食らい付かんとする顎をかわし、すれ違いざまドラゴンの脳天に斧を叩き込む。 
 ドラゴンは橋の上でさんざんのたうち回った挙げ句、バラバラに崩壊し息絶えた。 
 
「サイファ、そっちはどうだ」 
「こちらは片付きました。急いでラルフの援護を」 
「よっしゃ!」 
 
 サイファとグラントは、残るドラゴンを相手にしているラルフの元へ向かうが、二人はそれが要らぬ心配であったことを悟る。 
 ラルフはドラゴンの首に鞭を巻き付け、力を込めて引っ張っていた。ドラゴンは激しく暴れてラルフを振り回し、近くの柱に叩き付ける。 
 
「……!」 
 
 石の柱が砕けるほど身体を打ち付けてなお、ラルフは鞭を離さない。むしろ逆に、彼の身体から不思議な力が湧き上がっているのをサイファは見た。 
 
(なんて強いオーラを……彼は一体) 
 
 ラルフの身体から溢れる力が、鞭を伝って相手に流れ込む。ドラゴンは悲鳴に似た絶叫を上げて苦しみ、すかさず力を込めて鞭をたぐり寄せると、ドラゴンは橋の上に引きずり倒され無防備な姿を晒した。 
 ラルフは腰の鞘から短剣を引き抜き、頭を垂れたドラゴンの眉間に突き立てる――刹那、ドラゴンの身体は青白い炎に包まれて燃え尽き、灰となって散った。 
 人間の数倍も大きな怪物を跪かせる筋力と精神力。そして魔を滅する謎の力。 
 魔術に通じるサイファにとっても、彼のそれは異常とも思える能力だった。 
 
「みんな無事か」 
 
 ラルフは残った短剣を拾い上げ、呆然とこちらを見つめている二人に声を掛けた。 
 
「俺たちは平気だけどよ、おめぇこそ大丈夫か?」 
「ああ、何ともない」 
「何ともないって、派手に柱にぶつかってたじゃねえか」 
「本当に怪我はしていないのですね?」 
「……?」 
 
 グラントやサイファが自分を心配しているのだとようやく理解したラルフは、 
 
「あれくらいは慣れている。その……ありがとう」 
 
 少し照れくさそうに、ぎこちなく微笑んで見せる。 
 年相応の、どこにでもいる若者と変わらぬ笑顔だった。 
 
「行こう。この橋を越えれば、奴の城は目の前――」 
 
 ラルフが足を進めようとした瞬間、足元が大きく揺れた。 
 湖面は轟々と渦を巻き、橋脚を飲み込んで奈落の底へと引きずり込む。逃げる暇もなく足場が崩れ落ち、三人は渦の中へ放り出されてしまう。 
 身体を引きちぎられそうな水流の中でサイファは見た。 
 焼け崩れた身体をうねらせ、流れに沿って泳ぐドラゴンの姿を。 
 自分が相手にした一匹だけ、止めを刺し損ねていたのだ。 
 
(しまった――!) 
 
 それが何を意味するのか、サイファにはよく分かっていた。 
 陸に住む生き物が、水の住人に敵うはずがない。 
 全滅――それは自分たちだけでなく、全世界の未来が死ぬ事を意味する。 
 詰めの甘さを呪うサイファに追い打ちをかけるように、流れてきた橋の破片が激突した。 
 意識が、揺らぐ。 
 
(せめて、せめて不始末の責任は取らなければ。命に代えても……!) 
 
 精一杯の祈りを込めて、サイファは呼びかけた。 
 
「水の精霊よ、我が友を守り賜え! 彼らはワラキアの――!」 
 
 サイファの全霊を込めた祈りは急激な水の流れとなり、渦もろとも三人を押し流していった。 
 
 
 
 
 夢を見ていた。 
 いつもと同じ灰色の夢。 
 足元に揺らぐ花は全てが灰色で、それがとても哀しくて。 
 夢はいつも同じで、同じ所で終わる。 
 だが、今回は違っていた 
 花びらのひとつに、色が付いている。 
 それに触れようと手を伸ばした所で、夢は途切れた。 
 目覚めたサイファの視界に映ったのは、少し歯並びの悪いグラントの顔と、じっと自分を見つめるラルフの顔だった。 
 仲間の無事に安堵した途端、左腕と脇腹に鋭い痛みが走る。 
 
(痛――ッ!) 
 
 どうやらさっきの破片で怪我をしてしまったらしい。 
 骨は折れていないようだが、ヒビくらいは入っているかもしれない。 
 他には大した怪我は無いらしく、どうにか動けそうである。 
 サイファは身体を起こし、仲間と共にあたりの様子を確かめる。 
 三人が流れ着いたのは湖の南側、魔王の城とは正反対の場所に位置する湿地帯だった。 
 
「ちくしょう、あと少しだったのに。こんな所まで流されちまって」 
 
 忌々しげに石を投げるグラントの言葉に、サイファはうつむく。 
 
「すみません。私が未熟だったために」 
 
 そんなサイファの肩に手を置いて、ラルフは首を振る。 
 
「あの時、水の精霊が俺たちを守ってくれた。サイファの力がなければ、俺もグラントも奴の餌食になっていただろう」 
「貴方は精霊の声を……」 
「精霊はまだ俺たちを見放していない。城に通じる道は他にもきっとあるはずだ」 
 
 ラルフの意志は些かも揺らいでおらず、グラントに声を掛けて城に続く道を探す。 
 巨大な蛙の怪物が蠢く湿地を進むと、ぬかるみの中に地下へと続く道を見つけた。 
 その奥で三人は、新たな仲間との邂逅を果たすことになる―― 
 
 
 
 
 地下道の奥で待ち構えていたヴァンパイアを、三人は打ち破る。 
 ラルフはヴァンパイアの攻撃に邪気が無い事に違和感を感じ、止めを刺さず彼に訊ねた。 
 
「おお、私を倒すとは。お前こそ私が待ち望んでいた人間に違いない。お前のその腕を借りたいのだ。私と一緒にドラキュラを倒しに行ってはくれまいか」 
「なぜヴァンパイアのお前がドラキュラ討伐を目論む?」 
「私の名はアルカード。奴はどうあっても倒さねばならん」 
 
 アルカードと名乗るヴァンパイアに短剣を向けて叫んだのは、グラントだった。 
 
「ふん、吸血鬼野郎の言うことなんか信じられるかよ。ドラキュラを倒して、その後はどうするんだ? てめぇが後釜に座ろうって魂胆じゃねえだろうな?」 
「……私はただ、ワラキアを元の美しい国に戻したいだけだ」 
「ダメだ、信じられねぇ!」 
 
 短剣を振りかざすグラントを、ラルフが止める。 
 
「止めるなラルフ! こいつはドラキュラと同じ吸血鬼なんだぞ!」 
「何か事情がありそうだ。話くらいは聞いてやろう」 
 
 ラルフの配慮に感謝の意を述べ、アルカードは言う。 
 
「ドラキュラは……私の父だ」 
 
 信じられない告白に、その場がしんと静まりかえる。 
 つまりアルカードは、このワラキアを地獄に変えた魔王の息子。 
 その彼がドラキュラに反旗を翻すとは、余程の事情があったに違いない。 
 
「……いいのか?」 
 
 そうとだけ、ラルフは訊いた。 
 
「覚悟の上だ。もはや奴を父とは思わん」 
 
 アルカードの眼差しに宿るのは、迷いを捨てた強い意志の光。 
 ラルフはしばし黙って考え込んだ後、 
 
「共に戦おう。ドラキュラを倒すために」 
 
 右手を差し出して頷いた。 
 
「おい、本気かラルフ? こいつの言うことを信用するのか?」 
「俺にはアルカードが嘘を言っているとは思えない。責任は俺が持つ」 
「けどよ!」 
 
 グラントはアルカードと手を組むことを頑なに拒む。 
 家族や仲間をドラキュラによって皆殺しにされたのだから、当然の心情だ。 
 しかしこの先、魔王の居城へと進むためには、アルカードの協力が必要だとラルフは考えていた。 
 
「グラントと言ったな」 
 
 アルカードは不満を漏らすグラントを呼び、言った。 
 
「私が憎ければ、その剣で我が心臓を刺すがいい。だがそれは、ドラキュラを倒した後だ」 
「くっ……」 
 
 彼の言葉がその場しのぎの言い訳でないことは分かっていた。グラントは唇を噛んで背を向け、 
 
「わ、わかったよ、信用してやるよ! けどな、少しでも怪しい素振り見せやがったら承知しねぇぞ!」 
「それでいい。よろしく頼む」 
 
 
 
 
 アルカードを仲間に迎えたラルフ達は、彼の案内で地下道をさらに進んでいた。ここは戦争のために作られたもので、ドラキュラ城内へ通じているという。 
 正面から突入するよりも、このルートの方が敵に気付かれにくく都合が良い。 
 湖に投げ出され流された不運は、新たな仲間と敵の懐へ潜り込む道を与えた。 
 大いなる運命に背中を押され、ラルフは倒すべき魔王の元へと近付いていく。 
 地下の暗闇に巣くう魔物を撃退しながら進む途中、四人は地底湖のほとりで休息を取ることにした。ここは特に地下深いためか魔王の力が及ばぬようで、澄んだ美しい水は戦いに疲れた心と身体を癒してくれる。 
 火をおこし、それぞれ携帯した食料を口に運ぶ。グラントは手近な材料で釣り竿を作り、釣り上げた魚を焼いて食べていた。 
 アルカードは炎から少し離れた岩に腰掛けながら、あまり語らぬ口を開いた。 
 
「ラルフよ、ひとつ訊きたいことがある。戦った時からもしやと思っていたが、お前はベルモンド家の者ではないか?」 
 
 その質問に顔色が変わったのは、ラルフ一人ではなかった。 
 サイファもグラントも驚きを隠せず、ただラルフの言葉を待つ。 
 
「……そうだ。俺はベルモンド。ラルフ・C・ベルモンドだ」 
 
 ベルモンド――この時代、それは魔物と同じに扱われてきた名であった。 
 彼らは太古に遡る古い血筋を持ち、忌まわしき一族との戦いを生き延びてきたが、あまりに強靱な精神力と底知れぬ能力を持つが故に、人々からは恐れられ、疎んじられてきた。そのためベルモンドは人々の前から姿を消し、半ば伝説と化していた一族だった。 
 
「道理で……」 
 
 強いはずだ、とサイファは思った。 
 ヴァンパイア・ハンターの間で、ベルモンドの名を知らぬ者はいない。 
 真正ヴァンパイア・ハンターと呼ばれ、闇を滅する誇り高き一族。吸血鬼を滅ぼすための知識や、技術をもたらした始祖でもあるという。だが実際に彼らと出会ったという者はほとんど無く、サイファも文献に残る伝承や噂でしかその存在を知らないでいた。 
 ラルフは二人の視線から逃れるように顔を背け、哀しげに呟く。 
 
「……隠すつもりはなかった」 
 
 ただ、言えなかった。 
 ベルモンドと知られれば、返ってくる言葉はいつもひとつに決まっている。 
 
 化け物―― 
 
 怯えに満ちた眼。猜疑と軽蔑に縁取られた言葉。 
 恐怖に盲いた人々は、憎悪を乗せた石礫をベルモンドへの挨拶とした。 
 ラルフもまた、それが当然であると理解していた。 
  
「やはりベルモンドか。奴と戦うには願ってもない味方を得られたものだ。世間でどのように言われていようと、私を信じてくれた恩義には報いるつもりだ。最後までよろしく頼む」 
 
 アルカードは納得した様子で頷き、目を伏せてそれ以上何も言わなかった。 
 グラントもサイファも言葉が見つからず、沈黙だけが続いた。やがてラルフは立ち上がり、二人に背を向けて、 
 
「すまない」 
 
 そう告げたラルフの後ろ姿に、サイファは胸を締め付けられる思いだった。 
 人はうわべだけでしか相手を見ない。 
 いわれのない偏見や迷信でつまはじきにされる気持ちは、自分もよく知っている。 
 そう、よく知っているのだから。 
 
「なぜ謝るのですか」 
 
 サイファは凛とした声で言った。 
 
「あなたに救われなければ、私は永遠に封じ込められたままだった。それに今、私は安心しているのです。ベルモンドは伝承の通り、気高く誇り高い一族であったと」 
 
 サイファの言葉に頷いてグラントも立ち上がり、 
 
「確かに驚いたけどよう、だからって急に手のひら返すような薄情者じゃねえぞ俺たちは。ベルモンドに魔法使いに吸血鬼に……俺なんか本当にバケモノにされちまってたしな。世の中じゃあスネに傷持ってるような連中の集まりだけどよ、俺たちゃ仲間じゃねーか」 
「仲間……」 
「俺だってお前と知り合えて良かったと思ってるんだぜ。こんな地獄みてぇな場所でも、案外捨てたモンじゃねーな……って、ガラにもないこと喋ったらケツがむず痒くなってきたじゃねーか」 
 
 フードの奥で微笑むサイファとグラントの照れ隠しな笑顔に、ラルフは心から救われる思いだった。 
 
「グラント、サイファ、アルカード。俺も……皆に会えて良かった」 
 
 ただひと言ではあったが。 
 不器用な男の、それが精一杯の感謝の気持ちだった。 
 グラントはラルフと肩を組み、拳骨で彼の頬をグリグリとやりながら豪快に笑う。 
 
「まったく、いつまで辛気くせぇ顔してんだ。おらおら魚食え魚」 
「お、おい、よせ」 
 
 焼いた魚を顔に近付けてくるグラントに戸惑いながら、ラルフは笑っていた。 
 そんな二人の姿に、サイファの胸の奥にも温かいものが込み上げていた。 
 
 
 
 
 仮眠のために仲間が寝静まったのを見計らい、サイファはこっそりと離れた岩陰へと向かう。精霊の声を聴くためには常に身体を清潔にし、感覚を研ぎ澄ましていなければならない。泥や汗で汚れた身体を清めるため、サイファはローブを脱いで湖に身を浸し、黙々と身体を洗う。 
 
(跡が残ってしまうかな……) 
 
 左腕と脇腹には、生々しい傷痕が残っている。 
 細い腕。白い肌。黄金色の髪と華奢な体格―― 
 身体を清める度に、自分が女であることを否応なしに突き付けられる。 
 大人になり、世の中がどんな物かを知った時、サイファは自分が女であることを呪った。 
 彼女は孤児であり、修道院に拾われて各地を転々と渡り歩いてきた。それは彼女が持つ特異な力のためであり、同じ場所に長く留まればそれが露見してしまうからだ。精霊の声を聴き、精霊を味方に事象を操る術――中世ヨーロッパの世界において、それらはすべて『魔女の技』としてしか認知されなかった。 
 戦争。流行病。饑餓。不安定な経済や、異民族との摩擦。 
 世界は様々な苦しみに満ちていて、その原因を全て魔女の仕業とすることで、人々は苦しみに対する憤りを晴らしていた。 
 生まれ持った能力のために、サイファは裏の世界で生きることを余儀なくされた。修道僧という肩書きの裏で、闇の魔物を狩るヴァンパイア・ハンターとして。 
 魔物を倒し平和を勝ち取ったところで、賞賛されるのは彼女ではない。手柄は全て権力者の物であり、正教会に雇われたヴァンパイア・ハンターと言えば聞こえは良いが、真実は怪物と戦うための都合の良い駒に過ぎなかった。 
 だが、他に彼女が生きる場所など無い。 
 教会の庇護を失えば、たちまち魔女として捉えられ火あぶりにされるだろう。かつてそうやって殺された哀れな娘達を、サイファは何人も見てきていた。 
 力尽きるまでいいように使われる道具――それが自分の運命なのだ。 
 この細腕には敵をはねつける力も、自分の運命を切り開く力もない。 
 だからフードの奥に素顔を隠し、他人との関わりを持たぬよう生きてきた。 
 彼女の人生は灰色だった。 
 そう、いつも見ていた夢のように。 
 
(でも、今は違う) 
 
 地獄と化したワラキアで、サイファは出会った。 
 自分を隠さずに向き合える仲間と。そして、 
 
(ラルフ……) 
 
 彼の辿ってきた人生は、サイファのそれとあまりにもよく似ていた。 
 疎まれ、嫌われ、ありふれた幸せを遠くから眺めることしかできない孤独。 
 それが自分には分かる。 
 分かってしまうから。 
 
 初めて思った。誰かのことを――ラルフのことをもっと知りたいと。 
 
 考え込んでいたサイファは水を両手ですくい、バシャバシャと顔を洗う。 
 今はそんなことに気を取られている場合じゃない。 
 自分たちの目的はただひとつ、ドラキュラを倒すこと。 
 戦いの最中に感傷に耽るなどナンセンスだ。 
 
(今は忘れよう。皆で生きて戻れたら、その時は) 
 
 水から上がりローブを纏ったその時、背後の岩場で音がした。 
 
「誰!?」 
 
 素早く足元の杖を取って身構えたサイファが眼にしたのは、岩場の上から自分を見つめるラルフの姿だった。 
 
「サイファ、君は……」 
 
 驚きに声を詰まらせるラルフに、サイファはハッと気付く。 
 フードを被っていなかったのである。慌てて被ろうとして、もはや無意味だとサイファは諦めた。 
 
「いつから見ていたのですか?」 
「あ、いや、水音がしたんでつい。今来たばかりだ。ほ、他は何も見ていない」 
「そ、そうですか」 
 
 どうやら見られてしまったらしい。 
 サイファは恥ずかしさに赤面しているのを悟られまいと、あくまで平静を装う。 
 
「身体を清めていました。もう戻ります」 
 
 そう言って歩き出そうとしたサイファの前に、ラルフは飛び降りてきた。 
 
「腕を見せろ」 
「な、何を――痛っ!」 
 
 サイファの左腕を取り、半ば強引にローブの袖をまくり上げたラルフは、肘上の大きな痣を見て言った。 
 
「思ったよりも酷いな」 
「このくらいなんともありません。手を離し――」 
「動くな。じっとしていろ」 
 
 ラルフはサイファの言葉を遮り、薬草をすり潰した汁を染みこませた布を傷に当て、慣れた手つきで包帯を巻いていく。 
 
「我が家に古くから伝わる薬草で、よく効く。こっちは脇腹の怪我に貼るといい」 
 
 さすがに脇腹を見せろとは言えず、ラルフはもうひとつの布をサイファに渡す。サイファは言われた通りに怪我の手当を終えた後、訊ねた。 
 
「どうして分かったのです?」 
「身のこなしを見ていれば分かる。湖で流されてからずっと、左腕と脇腹をかばうようにしていただろう」 
「何でもお見通しなのですね」 
「そうでもない」 
 
 ラルフはサイファの顔をじっと見つめ、 
 
「こんなに綺麗な顔をしていたとは知らなかった。それに声も」 
「なっ……いきなり何を」 
 
 飾り気のないその言葉に、サイファは耳まで赤くなってしまう。 
 
「なぜ隠していたんだ? 声色まで変えて」 
「私はヴァンパイア・ハンター。裏の世界に生きる者は、他人に正体を悟られてはいけない。ラルフもそうだったのでしょう?」 
「……ああ」 
「私という存在は、ここにいてここにいないのと同じ。ならば他人に顔を見せる必要もない……」 
 
 それっきりうつむいて沈黙するサイファに、ラルフは優しい口調で言った。 
 
「俺には……俺達にはサイファ・ベルナンデスが必要だ。君の力が要る。助けが要る。だから顔を隠す必要はない。グラントが言っていただろう。俺達は仲間だと」 
 
 胸を貫かれるような衝撃だった。けれどそれは、とても心地良くて。 
 込み上げる感情を、サイファは必死にこらえる。 
 
「初めてです……こんなにも温かい言葉を聞いたのは」 
 
 サイファは背を向け、地底湖の水面に映る自分の顔を見た。 
 彼は言った。素顔のままでいても良いのだと。 
 ――それが嬉しくて。 
 こぼれ落ちた一粒の雫が、真円の輪を描いた。 
 
 
 
 
 魔王との戦いは想像を絶する激しいものであった。 
 それぞれが持てる力を結集し、強大な邪神へと変貌したドラキュラはついに滅んだ。 
 崩れ落ちる魔王の居城から脱出した四人は、それぞれの思いを胸に秘めてその最期を見届けていた。 
 
「――これからどうする? 正教会に戻るのか?」 
 
 アルカードとグラントに別れを告げた後、残ったサイファにラルフは訊ねた。 
 
「きっと私は死んだことにされているでしょう。だから戻りません。正教会のヴァンパイアハンター、サイファ・ベルナンデスはもうこの世にいないのです」 
「……そうか」 
「ラルフ、あなたはどうするのですか?」 
「平和な世にベルモンドの力は不要だ。俺は故郷に帰ろうと思う。カルパティアの山奥だが……その、行くところがないなら一緒に来ないか、サイファ」 
 
 
 
 
 ええ、あなたとなら何処へでも―― 
 
 
 
 
 私は灰色の夢を見なくなった。 
 荒れ果てた地獄の中でかけがえのない仲間と、そして彼が色をくれたのだ。 
 だから次は私があなたに返したい。 
 孤独な日々の中に、種を蒔こう。 
 今は鮮やかに咲き誇る、夢の花のように色付くまで――
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