魂筆使い草助外伝

(八房誠)



「――すまん草一郎、ちょっとかくまってくれ!」

 およそ五十年前、お盆を控えたある日。朝比奈市にある草一郎の道場に、八房誠――のちの八海老師――は息を切らしながら転がり込んでいた。ずれた眼鏡を直し、汗をぬぐいながら呼吸を整えている間、草一郎は重りを付けた木刀の素振りを続けており、汗だくになりながらも真っ直ぐ前を見つめたままだった。

「今度はなんの騒ぎだ」
「いやはや、まいったまいった。ちょっと前に知り合った女性と、男女のアレがソレな感じになっちゃったわけなんだが、そしたらなんと、彼女はヤクザの親分の孫娘だったんだよ。それで身体に模様の入った連中に追い回されてしまってなあ。いやー連中の目を盗むのに苦労したよ」

 草一郎は素振りを止めて木刀をその場に置くと、道場の壁に掛けてあった刀を手に取って鞘から引き抜く。

「節操の無い話を聞かされるのはもうたくさんだ。いっそ悩みの原因を切り落として楽にしてやろうか」
「ちょ、ちょっと待て、なにも君がそんなに怒ることはないだろう」
「お前の軽薄な行動のおかげで、一緒にいる俺たちまで白い目で見られる。いい迷惑だ」
「お、落ち着け。話せば分かる」

 冷や汗をかきながら後ずさる背中に誰かがぶつかり、誠は振り返る。するとそこには、頭を丸めた僧侶が一人立っていた。真面目そうな顔つきに意志の強い瞳を持つ若者であった。

「やっと見つけましたよ、兄さん」
「おおっ、誰かと思えば実(みのる)じゃないか。どうしてこんな場所に」
「どうもこうもありませんよ。私が話をしたいと連絡しても、いつも逃げてしまうじゃないですか。それで人づてに居場所を調べ、ここに辿り着いたんですよ」

 草一郎は刀を鞘に納めると、少し意外そうな顔をして訊ねた。

「誠、お前に弟がいたとは初耳だぞ」
「そりゃそうだ、言ってなかったんだから」

 実は草一郎に向かって深々と頭を下げると、丁寧な口調で言った。

「初めまして、八房実と申します。まだまだ若輩者ですが、よろしくお願いします。草一郎さんの噂はよく耳に入ってきますが、こうして実際にお会いできて光栄です」
「ああ、よろしく。しかし兄とはずいぶん違うんだな」
「……ええ、よく言われます」
「なんにせよ丁度よかった。弟のお前からも言ってやれ。日頃の行いを改めろと」
「はい。そのために私は来たのですから」

 実は誠の方へ顔を向け、間近に詰め寄った。

「兄さん、今日こそ認めてもらいますよ。八房家を継ぎ、これからの蓮華宗を導くのは兄さん以外にあり得ません」
「やっぱりその話か。それは以前、きちんと断ったじゃないか」
「話の席で窓から逃げ出すのを断ったとは言いません。どうしてそんなに嫌がるんです」
「逆に聞きたいんだが、お前こそどうしてそんなにこだわるんだ? そもそも周りはみんなお前を次期当主に推してるんだぞ。指名から外れた私の出る幕じゃないだろう」
「馬鹿なことを言わないでください。術の腕前も妖怪退治の経験も、私なんか兄さんの足元にも及ばない。八房家の名は、真に実力ある人間が受け継ぐべきです」
「やれやれ……よく出来た弟を持って、私は嬉しいよ」
「それじゃあ兄さん!」
「ああ、そうだ実。兄さんはこれから仕事の依頼人に会わなくちゃならんのだった。せっかく会いにきてくれたのに残念だなあ。いやあ残念だよまったく。そういうわけで、後は草一郎と適当に喋っててくれ。それじゃあ後はよろしく!」

 早口でまくし立てながら、誠はスパイ映画さながらに窓から飛び出し、袈裟の裾を掴んで走りながら、あっという間に姿をくらましてしまった。取り残されて呆然としている信に、草一郎は同情の色を浮かべつつ言った。

「お互い苦労するな。あいつは後で捕まえて締め上げてやるから、女癖の悪さをどうにかするように言ってやってくれ」

 その言葉を聞いた途端、実は顔を曇らせてうつむいてしまう。

「どうしたんだ?」
「兄さんがあんな風になったのは、私が原因なんです。私のために兄さんは……」
「何か事情がありそうだな。良ければ話を聞かせてくれないか?」

 彼はしばらく押し黙っていたが、やがて意を決したように重い口を開き、自分と誠の身の上を語り始めるのだった。




 誠は上手く隠れながら電車に乗り込み、乗り継ぎを繰り返して山梨県川口町へと辿り着いていた。富士山のふもとに位置するこの町には、町の名前にもなっている川口湖という湖があり、晴れた日には、湖面に富士山が映り込んだ逆さ富士を見ることができる。他にも美しい山々の景色などが連なり、日本有数の景勝地としても有名な土地である。誠に仕事を依頼してきたのは、財界にも広く名を知られ、全国でも指折りの資産家であるという雨宮家からであった。ところが依頼の内容を詳しく聞こうとした際、電話をしてきた男は会ってから話すの一点張りで、それ以上の話が聞けないまま連絡が取れなくなってしまった。雨宮家は蓮華宗の中でも有力な檀家だという事情もあって断ることも難しく、事態を把握するべく誠に白羽の矢が立ったのである。雨宮家の屋敷は川口湖のほとりにあり、終点の川口湖駅から歩いて三十分くらいの距離にあるという。誠はメモを片手に雨宮家を目指し、湖沿いに整備された道を歩いていたが、雨宮家まであと五百メートル程の場所までやってきたその時、湖のほとりに一人の女性がぽつんと立っているのが目に入った。距離が離れていて顔までははっきり見えなかったが、腰まで届く黒髪と真っ白なワンピースが印象的だった。女性は湖面の方角を向いたまま動かなかったが、誠はその後ろ姿に妙な胸騒ぎを感じて足を止めた。

(彼女、どうも気になるな)

 道草を食っている場合でないのは承知しているが、それ以上に誠は自分の直感を信じた。ゆっくり女性に歩み寄り、数メートルという距離まで近づいたが、女性は相変わらず身動きひとつしない。湖面からの風に吹かれて、女性の黒髪とワンピースの裾が静かに揺らいでいるだけである。誠は一歩踏み出して、彼女に声をかけた。

「ああ、もし。あまり風に当たると身体に毒ですよ。おせっかいかもしれませんが」

 しかし、女性は何も答えず動かない。もう一度声をかけようとすると、女性はゆっくりと振り返った。その時、わずかだが不思議な匂いが風に乗って漂ってきた。香水に似て甘ったるいが、それ以外にも何種類かの香りが複雑に混じり合ったような、独特の匂いだった。

(香水……いや、それにしては妙な匂いだな。どこかで嗅いだことがある気もするが)

 考えているうちに女性は誠のほうへゆっくりと振り向いたが、瞳は虚ろで焦点が定まらず、目を開けていながら意識が無いような様子だった。驚いた誠は、彼女の肩を軽くゆすって呼びかける。すると女性の瞳に一瞬光が戻ったが、すぐにそのまま気を失って倒れ込んでしまった。

「もし! しっかりしなさい!」

 誠は彼女の身体を抱き抱えると、急いで病院へと連れていった。ところが病院に辿り着き、診察室のベッドに寝かされた彼女を見た医者と看護師たちは、一様に青ざめた顔をし、中には悲鳴を上げて逃げ出す者まで居る始末だった。誠は意味が分からず、胸元に「田辺」という札をぶら下げた、白髪の老医師に訊ねた。

「みんな一体どうしたんです。この女性を見るなり、まるでオバケに出会ったような顔をして」
「君は彼女を知らんのか!?」
「知らないもなにも、私は今日始めてこの町に来たばかりなもので」
「そ、そうか……他所の人間なら仕方あるまいな」
「それで先生、早く診察をしてもらえませんかね。彼女は無事なんですか?」
「あ、ああ」

 田辺医師は震える声で返事をし、顔中に汗を浮かべながら女性の脈を計ったり、聴診器を当てたりしていたが、一通りを終えて誠に言った。

「とりあえず彼女は無事じゃ。ただ気を失っとるだけじゃろう。他はどこにも異常はありゃせんよ」
「そうですか、そいつは良かった」

 安心して胸を撫で下ろす誠とは対照的に、田辺医師の表情は引きつったまま戻らない。

「異常が無いから問題なんじゃ! わ、わしには信じられん……こんな事があるはずがない」
「あのう、さっきからみんなの様子がおかしいんですが、彼女になにがあったんですかね?」

 誠に聞き返された途端、田辺医師は目を見開いて大声を出した。

「し、知らん! わしは何も知らん! はやくお嬢さんを連れて出て行ってくれ!」
「そりゃ出て行くのは構いませんけども、私は彼女がどこの誰かも知らないんでね。その辺に放り出すわけにもいかんでしょう」

 冷静に言い返されて、田辺医師は言葉に詰まっていたが、ハンカチで顔の汗をぬぐって呼吸を落ち着かせ、こう答えた。

「その娘さんの名は雨宮めぐみ。かの有名な雨宮家のお嬢さんじゃよ」
「雨宮家の! 私はちょうどその雨宮家に呼ばれて屋敷に向かう途中だったんですよ」
「だったら丁度いいわい。早くお嬢さんを連れて帰ってくれ。それから君、めぐみお嬢さんと出会ったこと、誰にも言ってはならんぞ」
「は、はあ」
「こんな事が世間に知れたら一大事じゃ。ああ恐ろしい……なまんだぶなまんだぶ」

 そういい残し、田辺医師は逃げるようにして診察室から出て行き、誠とめぐみだけがその場に残された。十分ほど経ってめぐみは目を覚まし、身体を起こして呟く。

「あれ、ここは……私どうしてたのかしら」

 めぐみはベッドの隣に座っている誠に気が付くと、袈裟姿の若い僧侶を珍しそうにまじまじと眺めて訊ねた。

「あなたは誰?」
「私の名は八房誠。見ての通り修行中の坊主ですよ。気分はどうですかめぐみさん」
「めぐみ? それが私の名前? えっと、あれっ……」

 めぐみはうつむいたり顔を上げたりして考え込んでいたが、やがて困り果てた顔をして誠を見た。

「ダメだわ、まったく思い出せない」

 ひとまず誠は、自分がめぐみと出会い、病院に運ぶまでの経緯と事情を説明したが、めぐみは自分が何者で、どうしてあの場所にいたのかなど、目が覚める以前の記憶を何も覚えていなかった。

「ふむ、いわゆる記憶喪失というやつか。こいつは困ったな」
「ごめんなさい。でも、本当になにも覚えてなくて」
「いや、別に君を責めてる訳じゃないんだ。私はこれから雨宮家に向かうところなんだが、一緒に付いてくるといい。家族に会えば記憶も戻るかもしれないし」
「はい、よろしくお願いします」

 話が決まった後、誠はタクシーを呼んで雨宮家の屋敷へと向かった。湖のほとりに建つ雨宮邸は名に恥じぬ豪邸で、広い敷地の入り口から屋敷の入り口まで数十メートルも離れているほどだった。インターホンを鳴らして誠が名乗ると、しばらくして黒服を着た初老の男性が屋敷から現れ、誠の前にやってきた。彼は丁寧にお辞儀をし、使用人の佐竹と名乗った。

「お初にお目にかかります、八房様。本日はよくおいでくださいました」
「ああ、これはどうも。ところで佐竹さん、ここから少し離れた場所で彼女と出会ったんですが」

 そう言って誠が自分の後にいためぐみを引き合わせると、佐竹は驚愕して声を上げる。

「お、お嬢様!? そ、そんな馬鹿な!? なぜめぐみお嬢様がここに……そんな、そんなはずは!」
「佐竹さん、実はさっきめぐみさんを病院へ連れて行ったんですが、そこの田辺という医者も、あなたと同じように取り乱していた。なぜ、めぐみさんを恐れるんです?」

 佐竹はめぐみを見たままびっしょりと汗をかき、恐怖に引きつった顔をしていたが、周囲を気にするように見回すと、めぐみに聞こえないように耳打ちした。

「めぐみお嬢様は……もう一週間も前に事故で亡くなっておられるのです」
「なんだって!? しかし現に、本人がここにいるじゃないですか」
「私にも信じられません。ですが、めぐみお嬢様の死亡診断書を出したのは、他でもない田辺医師です。あの方の腕は確かですから、間違いないはずです」

 田辺医師も使用人の佐竹も誠とは初対面であり、二人の態度からも嘘をついているとは考えにくい。めぐみをそれとなく観察していても、妖気や不自然な気配をまるで感じることはなく、誠は驚きを禁じ得なかった。

(雨宮めぐみという女性が死んだのは事実らしいが……)

 妖怪退治をしていれば、死体に乗り移ったり操ったりする相手と出会うことは珍しくない。だが、一度死んだ人間を完全な状態で蘇らせる術というのは、非常に高度で複雑なものであり、生半可な妖怪や術者では到底扱える代物ではない。この事実が何を意味するのか考え込む誠の前で、佐竹は青ざめた顔で言った。

「しかし、あの噂話が本当だったとは」
「噂話?」
「ええ、実は葬儀が終わった直後から、めぐみお嬢様とそっくりな女性を見たという噂が広まりまして。私は心ない者のいたずらかと思っておりましたが、まさか現実だったとは……」

 疲れたように語る佐竹の話を聞きながら、誠は再び考えを巡らせる。

(疑問は山ほどあるが、分からないことが多すぎるな。まずは情報を集めて整理しなくては)

 疑惑の暗雲が広がっていくような気分を感じながら、誠は佐竹に訊ねた。 

「ともかく、まずは依頼主に会って詳しい話を聞きたい。私に仕事の依頼をした人物はこちらに?」

 意外にも佐竹は首を横に振り、落ち着いた調子を取り戻して答える。

「あなたに連絡をしたのは、雨宮家の長男である辰也様でございます。めぐみお嬢様の弟に当たる方ですが、今は居場所が分からないのです。さる拝み屋のお方が来たら、この電話番号に連絡しろとだけ」

 佐竹はそう言って、番号が殴り書きされたメモを誠に手渡す。

「分かりました。ところで話は変わりますが、めぐみさんは以前の記憶を失っていましてね。記憶を取り戻すためにも、少し屋敷の中を見せてもらえませんか」
「ええ、それはもちろん。さあ、こちらへ」

 誠とめぐみは、佐竹に連れられて雨宮家の屋敷へと案内された。屋敷は古い洋館で、佐竹の話によれば明治時代に建てられたものであるという。高級な家具が並べられた居間や客間を眺めつつ、誠は不思議そうに首を傾げる。

「どうも変だな。佐竹さん、さっきから家の人が誰も出てこない。みんなどこかへ出かけているんですか?」

 誠の問いかけに、彼の前を歩く佐竹は立ち止まって振り返り、沈んだ表情で言った。

「ご存知ありませんか、八房様。先代の主人である雨宮辰蔵様は、一年前に交通事故で亡くなられました。奥様もご一緒に……痛ましいことです」

 言われて誠は、少し考え込んでから思い出す。

「ああ、そういえば新聞やニュースでも騒ぎになっていましたっけ。蓮華宗のお偉方も葬儀に狩り出されていたのを思い出しましたよ。確か雨宮家が経営している東京の会社は、身内が引き継いで存続していると聞きましたが」
「はい。息子の辰也様と次男の辰巳様はまだ若すぎたため、めぐみお嬢様の婿である達夫様が、会社を引き継ぐ形となったのでございます。達夫様がいなければ、会社は他人の手に渡っていた事でしょう」
「そうか、めぐみさんは結婚していたのか……それでご主人はどこに?」
「達夫様は忙しい身ですので、普段は東京で暮らしておられます。用事がなければ、ここに足を運ばれることはほとんどありません」
「そうですか。後で連絡を取っておく必要があるな……それともうひとつ、次男の辰巳さんというのは?」
「辰巳坊っちゃまはまだ高校生でございますから、今の時間は学校に通っておられます。じきに戻ってこられるはずですが」

 壁に掛けてある時計に目をやると、時間は午後五時を過ぎている。高校生ならそろそろ帰宅してもいい時間だと思っていると、タイミングよく玄関の扉を開ける音が聞こえてきた。三人揃って玄関のほうへ顔を出してみると、まだあどけなさを残す顔立ちの、学生服を着た少年がいた。

「おかえりなさいませ、辰巳お坊っちゃま」
「うん、ただいま。出てくるの遅かったけど、誰かお客さんでも――」

 言いながら鞄を佐竹に手渡そうとしていた辰巳は、後ろにいた誠の隣に立つめぐみを見た瞬間、鞄を床に落として両目を見開く。

「ね、姉さん!?」

 辰巳は大声を上げてわなわなと身震いした後、急に駆け出して彼女に駆け寄った。

「う、嘘だろ、どうしてここに……姉さんはあの時……」

 それから声を詰まらせていた辰巳だったが、めぐみをじっと見つめる黒い瞳には涙が浮かんでいた。

「まだ信じられないし、どうしてこうなったか分からないけど、でも……戻ってきてくれたんだね」

 そう言って辰巳はめぐみに抱きついたが、めぐみは困った顔をしながら辰巳の身体を押し戻す。

「あ、あの、ごめんなさい。私、なにも覚えてなくて……自分のことも、あなたが誰なのかも分からないの」

 自分の出番だと見て取った誠は、簡単に自己紹介をしてから辰巳に事情を説明した。辰巳は高校生ながら礼儀正しく、驚きこそしたものの、めぐみが戻ってきた事については、あまり怯える様子も無く、どちらかといえば喜んでいるような様子だった。

「――そうですか、お坊さんが姉さんを見つけてくれて良かった。他の人だったら、もっと大騒ぎになってただろうから」
「私は君のお兄さんの辰也さんに呼ばれてやってきた、いわゆる拝み屋だ。悪霊だとか超常現象みたいな、科学で解決できない事件を解決するのが私の専門だが……依頼主に会う前からこの状況でしてね。辰也さんの居場所とか、心当たりはないかな?」

 誠が訊ねると辰巳は一転して顔つきが険しくなり、視線を逸らして不機嫌そうに言った。

「……知りませんよ、あんなクズの居場所なんて」
「これはまた、ずいぶんな言い方だなあ。君のお兄さんなんだろう?」
「あいつは雨宮家の恥です。あんな奴と血を分けてるってだけで、僕は心底うんざりしてるんだ。お坊さん……あいつに会うつもりなら、気を付けた方がいいですよ」

 それ以上は話したくないと、辰巳は黙り込んでしまう。この話を続けるのは得策でないと考えた誠は、別の話題を切り出すことにした。

「そうだ辰巳くん、めぐみさんの記憶を取り戻すのに、君の部屋も見せてもらえないだろうか? 色々と見て回れば、徐々に記憶も蘇るんじゃないかと思うんだ」
「え、ええ。それは別に……」

 誠はめぐみを連れ、二階にある辰巳の部屋に案内してもらった。辰巳の部屋は綺麗に片付き、床には塵ひとつ落ちていない。部屋の隅には清潔なシーツが張られたベッドと大きめの勉強机が置かれ、部屋の隅に並ぶ大きな本棚には、受験用の参考書の他に、野鳥や動物に関する図鑑が三分の一ほども詰め込まれている。壁には動物や野鳥の写真を収めた額縁が、いくつも飾られていた。

「ほう、ずいぶん立派な部屋で。拝見したところ、辰巳くんは動物や鳥に興味があると見えますな」
「ええ、僕は野生の動物や鳥を観察するのが好きなんです。渡り鳥がやってくる時期になれば、ここから湖を泳ぐ鳥の様子なんかもよく見えるんですよ。壁に飾ってある写真も、僕がカメラで撮影したんですよ。ほら、このカメラなんかお気に入りで」

 そう言って辰巳は、望遠レンズ付きの高価そうなカメラを持ち出してきて、カメラの機能や撮影した動物について話し始めた。高校生が手にするには不釣合いな品にも思えたが、歳相応に目を輝かせて話す辰巳を見て、誠は少しだけ安心したような気持ちになった。辰巳は話を続け、薄いレースのカーテンを開いて誠とめぐみを窓際に誘った。湖を一望できる眺めは素晴らしく、カメラのレンズ越しなら湖の反対側までよく見えそうである。

「どうですかめぐみさん、何か思い出しますか?」

 一通り部屋を眺めてから訊ねたが、やはりめぐみは残念そうに首を横に振るだけである。

「でも、なんとなくだけど……この部屋は見覚えがあるかも。私がこのお屋敷で暮らしていたのは本当だと思う。でもそれ以上はやっぱり思い出せなくて」
「いやいや、焦る必要はありませんよ。無理せず少しずつ思い出せばいい」

 申し訳無さそうにするめぐみを励ました後、誠は次にめぐみが過ごしていたという部屋へ足を運ぶ。めぐみの部屋はダブルベッドと大きな鏡の付いた化粧台、一対の白いソファとおそろいのテーブルが置かれているだけで、それ以外はこれといった飾り気のない部屋だった。

(女性の部屋にしてはシンプルというか、いささか殺風景な感じだな)

 そう思いつつ、口には出さずに誠は部屋の中を見て回るめぐみの後ろ姿を眺めていたが、しばらくして戻ってきためぐみは、何故か沈んだような表情を浮かべていた。

「どうかしましたか? 浮かない顔ですが」
「……よく分からないけど、ここはあまり好きじゃないです。なんだか無性に寂しい気持ちになってしまって」
「ふーむ、特にこれといって収穫は無しか。そろそろ日も暮れる頃だし、今日はここまでにしましょう」

 誠はめぐみを連れて部屋を出ると、辰巳と佐竹を呼んでめぐみから離れ、彼女に聞こえないように話し始めた。

「あの、ひとつ提案がるんですが」
「何ですか?」

 辰巳が聞き返すと、誠は少しだけめぐみの方へ視線を向けて続けた。

「しばらくの間、めぐみさんから目を離さないで頂きたい。何が起きたのかまるで分からない以上、万が一の場合も考えなくてはいけない。私は近くの旅館かホテルにでも泊まって、連絡があればすぐに駆けつけられるようにしておきます」

 誠の提案に辰巳は難しい顔をしていたが、ここは専門家に任せるべきだという佐竹の言葉に背中を押され、頷いた。佐竹は安堵の表情を浮かべた後、丁寧な口調で誠に告げた。

「めぐみお嬢様を保護してくださった御方を、御礼もせずに帰すわけにはまいりません。今となってはこの屋敷も空き部屋が多くなりましたし、寝泊りはぜひこちらで。そうして頂ければ、その……我々も安心でございますから」
「そりゃ願ってもない。それじゃついでに電話も貸して頂けますか。いい加減に依頼主と連絡を取らなくては」

 誠は広いリビングにある電話から、佐竹に渡されたメモの番号に連絡をしてみた。十回以上コールしても反応がなく、一旦切ろうと思った矢先に電話は繋がった。

「……誰だ」

 受話器越しに聞こえてきたのは、無愛想な男の声だった。

「私は八房誠。妖怪退治の依頼を受けて蓮華宗から派遣された者だ。あんたが依頼主の辰也さんかね?」
「ずいぶん遅かったな。回線繋いでやるから待ってろ」

 そのまましばらくすると、とこか別の場所に電話が繋がった様子だった。誠が喋ろうとした矢先、怒鳴り声が耳を貫いた。 

「どこで遊んでやがったクソ坊主! モタモタしてやがるとギャラ払わねえぞ!」

 およそ資産家の御曹司とは思えぬ口ぶりに、受話器を耳から離して眉をひそめる誠だったが、気を取り直して会話を続ける。

「い、いや申し訳ない。あんたが辰也さんかね? 実はこちらも予想外の出来事に遭遇してしまいましてねえ。なにしろ――」
「お前の都合なんかどうだっていいんだよ。いいか、俺はワケあって表に出られねえから、これから言う住所まで来い。そこで仕事の詳しい話をしてやる。いいか、俺の居場所は他の誰にも教えるんじゃねえぞ」

 辰也は誠に住所を伝えると、返事も聞かず一方的に電話を切ってしまった。誠は呆れを通り越して目を丸くしているばかりだったが、気を取り直して指定された住所へと向かってみることにした。そこは湖から南西に少し離れた町の中心部だったが、タクシーを降りた誠は目の前にある四角い建物を見上げて、再び目を丸くするのだった。

「うーん、ここに間違いないはずだが、しかし……」

 白いコンクリート製の壁には大きな旭日章が掲げられ、入り口には大きく『川口町警察署』と書かれた看板が立っている。駐車場にはおなじみのパトカーが数台並んで止まっており、もはや疑いようもない。誠は困った顔をして頭を掻きながら、仕方なく警察署の受付へ向かった。受付の警察官に事情を話すと、事前に誠が来ることは彼らに伝わっていたらしく、留置場へと案内された。その奥にある独房にいたのは、退屈そうに両手を頭の後ろで組んで寝そべっている若い男だった。髪型は黒髪のオールバックでサングラスをかけ、高級そうなスーツを身に付けているもののネクタイはしておらず、開いたシャツの胸元からは金のネックレスがギラギラと光を反射させている。お世辞にも品のいい人物とは言い難い印象の持ち主であった。

「やっと来やがったか。待ちくたびれて寝ちまうところだったぜ、え?」

 誠は鉄格子に近づき、寝転がったままの若者に言った。

「あんたが依頼人の辰也さんだね?」
「ああ。まさかこの俺が、こんなインチキ臭せぇ奴の手を借りなきゃならんとは、ヤキが回ったもんだ」
「私も資産家の依頼人と、留置場で会うことになるとは思いませんでしたよ」
「俺がどこに居ようがお前には関係ねえだろ。話が出来ればそれでいいんだよ」
「……それで、どういった用件で私を呼んだのか聞きたいんですがね、辰也さん」

 辰也は面倒くさそうに身体を起こして鉄格子へ近づいてきたが、近くに立っている見張りの警察官を睨みつけ、邪魔だから消えろと追い払ってしまった。横柄な態度と物言いはともかく、警察官が素直に引き下がった事に、雨宮家の影響力の強さを誠は感じるのだった。

「あんたに頼みたいことはひとつだ。俺の姉貴……雨宮めぐみを始末してもらいてえのさ」
「ちょっと待ってください。いきなり物騒なことを言ってくれますがね、私は殺し屋じゃありませんよ。勘違いされちゃ困る」
「んなこたぁ分かってる。だがおそらく、あんたじゃなきゃ出来ねえ仕事だ。なにしろ相手は普通の人間じゃねえんだからな」
「とりあえず、詳しく話を聞かせてもらえますかね」

 誠はめぐみと出会ったことは伏せつつ、話を続ける。

「姉貴は一週間前に事故で死んだ。崖っぷちで足を滑らせて、そのまま湖に落ちて御陀仏さ。で、葬式と埋葬も済んだ後になってから、あいつは戻ってきやがった。まるで何事もなかったようにピンピンしてな。まったく悪夢としか言いようがねえぜ」
「ふむ。確かに奇妙な話ですが、それだけで始末しろというのは乱暴だ。たとえ相手が妖怪であろうとも、手当たり次第に退治しても良いという道理はありませんよ。少なくとも私はそう考えていますのでね」
「おい坊さんよ。なんで俺がこんな場所にいると思う? ここが一番安全だからだよ。あいつは……俺の命を狙ってやがるのさ」
「ほう、何か狙われる心当たりでも?」

 辰也は忌々しげに顔をしかめ、しばらく言葉を詰まらせたように悩んでいたが、やがてこっそり喋り始めた。

「姉貴が死んだのは、俺のせいだからだ。ちっと頼みがあって話をしてたんだが、そこでモメちまってな。その弾みでああなっちまったんだ」
「そいつは穏やかじゃありませんなあ。私にその尻拭いをしろとおっしゃいますか」
「言葉に気を付けろよクソ坊主。姉貴が死んだのは間違いなく事故だ。だがその原因を俺が作っちまったからな。恨むには十分だろ」
「しかし事故だったのなら、話せば分かるかも知れないでしょう。それをこんな場所に隠れるとは、少々大げさすぎやしませんか?」
「……あの時、俺の他にも仲間が三人いたんだよ。ところが葬式が終わった直後から、仲間の一人が姉貴の姿を見たって言い始めてな。俺も最初は冗談か、酒に酔って見間違えたんだろうと思ってたさ。ところが……翌日そいつは死体で見つかった。ナイフで体中をめちゃめちゃに刺されてな」

 両手で鉄格子を掴む辰也の目は血走り、顔色は蒼白である。狼狽の色を見せ始めた辰也に、誠は訊ねる。

「それがめぐみさんの仕業だと?」
「死体のそばで、ナイフを持って血まみれになった姉貴が目撃されてる。警察が駆けつけた時には、影も形も無くなってたらしいがな。その後も姉貴らしい女の姿はあちこちで目撃されて噂になってたよ。俺も仲間たちも、まさかとは思ってたが……そしたら今朝の事件だ。どう考えても姉貴がやってるに決まってるだろうが!」
「今朝の事件?」
「今日の朝方、背中を刺された男の死体が湖畔に打ち上げられてた。もちろん俺の仲間の一人だ。あいつの死体が見つかった時、やっぱり目撃されてたんだよ……死体のすぐ近くに立つ姉貴の姿がな。警察が来た時には、やっぱり消えちまってたらしい。まともな人間に出来る仕業じゃねえよ」
「……それでめぐみさんの事故に関わっていたことを警察に白状して、ここにかくまってもらったというわけですか」
「殺されるよりムショの方がまだマシだ。それに俺は本当に殺っちゃいねえんだし、ちと我慢すればいいだけだ。さっさと姉貴を成仏させて、俺が安心して表を歩けるようにしてくれ」
「分かりました。調査には少々時間が必要でしょうが、努力はしますよ」

 辰也は多少安心したのか、鉄格子から手を離して再び床に寝転がる。彼が握っていた場所は、手の汗で湿った跡がくっきり浮かんでいた。警察署を出る直前、誠は事件を担当している中年刑事から資料を受け取った。蓮華宗からの要請と、辰也から全面的に協力するよう頼まれたのだと語る刑事の顔色は冴えなかった。タクシーを呼んで雨宮邸へ戻ると、誠は用意された客室で資料に目を通し始めた。

「なるほど、すんなり資料を渡してくれるはずだ」

 殺害された辰也の仲間は、加瀬太一と遠藤昇平の二名。いずれも二十三歳。達也とは中学時代からの同級生で、もう一人の仲間である類家孝(るいけたかし)らと共に、窃盗や恐喝、暴力事件や飲酒運転などを頻繁に起こしていたという。最近は辰也と共にギャンブルにのめり込み、全員が多額の借金を抱えていた。辰也に至っては、一年前に死亡した父親から相続した遺産すら使い果たしてしまい、方々に借金をしていたらしい。二人とも死因はナイフで背後から刺されたことによる失血死だったが、ここで問題となったのは、凶器から発見された犯人と思しき人物の指紋である。数日前の事件で、現場に残されたナイフから検出された指紋は、雨宮めぐみのそれに間違いがないという。だが、めぐみは公式には死亡したことになっているうえ、現場で姿を目撃されながらも、その後は忽然と姿を消してしまい、誰一人として現場を離れる彼女を見ていないという。担当の刑事が、この事件の扱いに困っていたのは想像に難くない。

(ともあれ確かめるべきなのは、めぐみさんがなぜ蘇ったのか、そして彼女が本当に二人を殺害したのかということだ。残された証拠と目撃情報は決定的だが……記憶を失っているのに、彼らへの恨みだけ残っているというのは不自然だ。ここ数日の足取りも不明だし、現場から誰にも見られず姿を消したことといい、腑に落ちない点が多すぎる)

 一通り目を通した資料を片付けてテーブルに置くと同時に、部屋のドアをノックする音が聞こえた。壁の時計に目をやると、夜の九時を回ろうとしている。誠は立ち上がり、部屋のドアを開けた。そこには薄いピンク色の部屋着に着替えためぐみが居た。

「どうしたんですか、こんな時間に」
「あの、少しお話をしたくて。迷惑だったら戻りますから」

 めぐみの表情にどことなく沈んでいるように思え、誠は彼女を室内へ通し、ソファに座らせる。

「気分が良くありませんか?」

 誠は部屋に用意されていた紅茶を淹れてテーブルに置き、にこやかに話しかける。女性がこういう顔をしている時は、まず不安を和らげるのが先決だからだ。白磁のティーカップを手に取りながら、めぐみはうつむいて言う。

「ごめんなさい、急に押しかけて。ただ……自分でもよく分からないんですけど、私の部屋に一人でいると、無性に悲しくなってくるんです」
「そういえば、夕方頃もそんな事を言ってましたね」
「はい。どうしてあんな気持ちになるのか分かりませんけど、いたたまれなくて」
「めぐみさんの記憶が戻れば、その答えも分かるはず。明日は私と一緒に、記憶を無くす前の足取りを辿りましょう」
「ありがとうございます誠さん。でも……」
「なんでしょうか?」
「誠さんは何か用事があってここへ呼ばれたんですよね? 私、お邪魔になってるんじゃあ」

 申し訳無さそうにしているめぐみの問いに、誠は少し腕を組んで考え込んだが、すぐに顔を向けて答える。

「そんなことはありませんよ。あなたの記憶を取り戻すことは、仕事のうちに含まれていますからね」
「えっ、そうなんですか?」
「実は依頼人である辰也さんの友人二名が、立て続けに殺害されるという事件が起きていましてね。私はその調査を依頼されたんです」
「その事件と、私の記憶に関係が?」
「ええ。まだ詳しいことは申し上げられないが、あなたの記憶は重要な手がかりになる。そういうわけで、明日は私に付き合ってもらうことになりますが」
「……わかりました。よろしくお願いします」

 めぐみは頷いたものの、その声には不安が色濃く滲んでいる。記憶を失ったうえに殺人事件の調査となれば、彼女がそう思うのも無理はない。誠はめぐみの不安を和らげようと笑顔を作り、言った。

「時間が余ったら、気分転換でもしましょう。美味しいものを食べるのもよし、買い物するもよし。あまり思いつめた顔をしていると、幸運が逃げてしまいますよ」
「は、はいっ。ありがとうございます!」

 その気使いがよほど嬉しかったのか、めぐみの表情はぱぁっと明るくなり、嬉しそうに頷いた。彼女はずっと両手で持ったままだった紅茶に口をつけると、ニコニコしながら言った。

「ついでというか、もうひとつお願いがあるんですけど。今夜はここで寝かせてもらえませんか?」
「ああ、そのくらいは――」

 あまりに自然な口ぶりに、つい軽く返事をしそうになった誠だったが、ギリギリのところで踏みとどまって言葉を飲み込む。

「めぐみさん、それはどういうつもりでおっしゃっているのでしょう」
「ほら、誰か居てくれた方が安心して眠れるじゃないですか。あの部屋にいるとなんだか寝られる気がしなくて」

 屈託の無い顔でそう答えるめぐみに、誠は少々面食らう。個人的には望むところであるのだが、いきなり関係者に手を出すほど誠も馬鹿ではない。

「そういう事ではなくてですね。身内でもない男性の部屋で夜を明かそうというのは、いささか無用心かと」
「でもここは私のお家ですし、誠さんはお坊さんでしょう? なにか危ないことでも?」
「ええと、そうじゃなくて。つまりなんというかですね……」

 めぐみは誠を普通の僧侶だと思って信用している様子である。まさか自分の女癖について説明するわけにもいかず、誠は返事に困ってしまう。

「一緒の部屋に居てくれるだけでいいんです。だからお願い、ねっ」
(いや、それが一番まずいんだが。こりゃあ意味を分かってないな)

 内心ため息をつきながらも、誠はめぐみの頼みを断りきれなかった。仕方なくめぐみをベッドに寝かせ、誠は言った。

「今夜は安心してお眠りなさい。しかしこういう事は、あまり軽々しくしないように。あらぬ誤解を招きますからね。では明日からもよろしく」
「はい、ありがとうございます。それじゃおやすみなさい」

 めぐみが目を閉じ、寝息を立て始めるのを見届けると、誠はソファに腰掛けて天井を仰ぐ。

(やれやれ、無邪気というかなんというか。記憶を失う前からこうだったのか?)

 ともあれ今の状況であれこれ考えても、寝つきが悪くなるだけである。仕方ないと諦めながら眼鏡を外し、誠はソファに横たわって目を閉じた。




 翌朝、誠が目を覚ますと、めぐみはすでに部屋からいなくなっていた。眼鏡をかけ直して廊下に出ると、焼き魚と味噌汁のいい匂いが漂ってくる。匂いを辿ってダイニングルームまで足を運ぶと、奥のキッチンで動き回る女性の姿が目に映る。ひよこのアップリケが付いたエプロンをしためぐみだった。

「おはようございますめぐみさん」
「あ、おはようございます。よく眠れましたか?」
「ええ。しかし朝から料理とは驚きました。思ったより庶民的といいますか」
「えっと、気が付いたらこうしてて。記憶を無くす前も、きっと同じだったんじゃないかしら」
「なるほど。その格好、よく似合ってますよ」
「あら、嬉しい。もうすぐ出来るから、テーブルに座っててくださいね」

 言われた通りに席についていると、少し送れて辰巳がやってきて同じテーブルに座った。彼はすでに学生服に着替えていて、寝癖も残っていない。

「おはよう、お坊さん。やっぱり朝は早いんですね」
「これはご丁寧に。おはようございます」
「袈裟を着てないと、普通の人と見分けがつかないや」
「ははは、私は頭を丸めてませんからね。余計そう見えるんでしょう」
「……またこんな朝が迎えられるなんて思わなかった。あの日からずっと慌しくて、色々あったし」
「そうでしょうな。身内の方なら尚更です」

 気遣う言葉を言いながら、誠はそれとなく辰巳の様子を観察した。

(どうも彼は順応しすぎてる気もするな。よほど仲が良かったのか……)

 思案が過ぎると顔に出てしまいやすいと思い、誠はひとまず考えるのを止めて朝食が運ばれてくるのを待った。ほどなくして、めぐみが作った料理がテーブルに並べられた。焼き鮭と卵焼き、ほうれん草のおひたしに根菜の煮物、そして豆腐の味噌汁という品揃えである。特に珍しい献立ではなかったが、盛り付けも綺麗でどれも丁寧に作られていた。

「いただきます」

 両手を合わせて呟くと、誠は料理に箸を付ける。

「ほお、これはうまい!」

 思わず声が出るほど、めぐみの料理は美味しかった。

「いやあ、大したもんですよこれは」

 箸が進む誠の正面で、辰巳も笑みを浮かべながら朝食を口に運ぶ。

「姉さんは料理が得意だったんだ。昔から習ってたし、よくこうやって僕らの朝食を作ってくれてたから」
「なるほど。これを毎日食べていたご主人は幸せ者ですなあ」

 そう言った途端、辰巳の箸が止まり表情に一瞬影が落ちたのを、誠は見逃さなかった。

「おや、どうかしましたか辰巳くん?」
「あ、いや。なんでもありません」

 その態度が少し気になったが、今は深く追求すべきでないと思い、誠はそれ以上は問わなかった。それから朝食を終えて袈裟に着替え直すと、ロビーでめぐみと合流した。彼女の服装はお気に入りなのか、昨日とほぼ同じ白いワンピースである。

「お互い準備は出来たみたいですね。それじゃ出かけるとしましょうか」
「はい、よろしくお願いします」

 彼女を連れて雨宮邸の玄関を出たところで、二人は庭を横切っていく老婆の姿を見た。白髪で背は低く、薄紫の着物を身に着けている。木の杖を付きながら歩いてはいるが、足取りはしっかりしており、屋敷の脇へ真っ直ぐ向かい、やがて姿が見えなくなってしまった。不思議に思った誠は、めぐみと共に老婆の後を追いかけた。屋敷の裏手に回ってみると、雨宮邸から百メートルほど離れた雑木林へ続く細道があり、老婆はその先を歩いている。そのまま後に付いて行くと、湖が見渡せる開けた場所に、年季の入った社が建てられており、老婆は社の前で両手を合わせ、祈りを捧げていた。

(見た目は普通だが、この社の周りは清浄な気で満ちている。それもかなり強力な……これでは妖怪や悪霊は近づくことも出来ないだろうな。雨宮家にまつわる特別な場所ということだろうか)

 社が放つ神聖な雰囲気に内心驚きつつ、誠は目の前で祈り続ける老婆に訊ねた。 

「もし、そこのお婆さん。雨宮家の関係者の方ですか?」

 声をかけられ、老婆はゆっくりと振り返る。顔には深い皺が刻まれ、かなりの高齢であることが見て取れる。少なくとも八十歳はゆうに越えているだろう。老婆は目玉をぎょろりと動かして、誠とめぐみをジロジロ眺めると、ようやく口を開いた。

「お若いの、ここへ何しに来なすった」
「話せば長くなるんですが、雨宮家の人に呼ばれましてね。まあ御祓いの依頼みたいなものです。それよりお婆さん、この社は? 普通とは違う雰囲気を感じますが」
「ほう、分かるかねお若いの。ここは土地の守り神である蛇神様のお社じゃよ」
「ふむふむ、蛇神様ですか」
「ところでお前さん、そこのお嬢さんが誰なのか知っておるんか?」
「もちろん。雨宮家の長女、めぐみさんですよ」
「ふぇっふぇっ、それを知ってて御払いなんぞしようというのかい。物好きなことじゃな」

 めぐみを見ても驚かない態度と口ぶりから、この老婆は今回の出来事について何かを知っている様子である。

「どうやら色々とあったようですが……何か知っていることがあれば、話をお伺いしたいのですが」
「構わんよ。お前さんの手に負えるかは分からんがのう」
「私は八房誠。あなたの名は?」
「わしはチヨ。お前さんよりずっと若い頃からここの世話をしとる者じゃ」
「そんなに昔からですか。では雨宮家のことも詳しいんですね?」
「うむ、大抵のことは知っておる。じゃがお若いの、ひとつだけ忠告しておくぞ」

 チヨと名乗る老婆は刺すような視線を誠に向け、鬼気迫る表情で言った。

「今の雨宮家は呪われておる。半端な覚悟で首を突っ込むと、お前さんの命も危ういかもしれんぞ」
「……肝に銘じておきます。ところでチヨさん、呪われているというのは、どういうことでしょう」
「この土地には古い伝説が残っておってな。身の毛もよだつ恐ろしい伝説じゃよ」
「ほう、どのような?」
「その昔……もう何百年も前のことじゃ。この近くに若く美しい娘が住んでおってな。だがある時、娘は他所から流れてきた男に惚れてしまったのじゃが、これが悪い奴でな。最初のうちは男も優しかったのじゃが、働きもせずに酒を飲んで暴力を振るったり、娘が稼いだ銭を取り上げたり、挙句の果てには飽きて娘を捨ててしまったのじゃ。だが諦めきれない娘は、健気にも男にすがりついた。じゃが、娘を邪魔に思うようになった男は、あろうことか娘を数人の荒くれ者に差し出してしまった。そうすれば諦めも付くだろうとな。あまりにもむごい仕打ちを受けた娘は絶望のあまり、湖に身を投げて命を絶ったそうじゃ。ところが……葬式も済んだ数日の後、娘は帰ってきたのじゃ。まるで何事もなかったかのようにな」
「……!」
「蘇った娘は、すぐに復讐を果たした。彼女を捨てた男と荒くれ者たちは八つ裂きにされ、見るも無残な姿で息絶えていたそうじゃ」
「ふむ、そいつは確かにぞっとしませんなあ」
「話はまだ終わっとらん。復讐を果たして尚、その心は癒されなんだのか……やがて娘はこの湖のほとりに住み着き、近づいた者を見境なく襲っては、湖に引きずり込んで命を奪う怪物と成り果ててしまった。困った村の者は、遠くから偉いお坊様を呼んで、御祓いを頼んだのじゃ。お坊様は湖に潜む魔物が死者を蘇らせて操っていることを見抜き、湖のほとりに社を建て、土地の守り神である蛇神様の神通力を借りて、魔物の力を封じ込めたのじゃ。すると娘も糸が切れたように、もとの死体に戻ったということじゃ」
(この話……ただの偶然とは思えないぞ)
「雨宮家は代々、この蛇神様の社を守ってきた一族でな。その御利益のおかげで、雨宮家は栄え続けてきたんじゃ」
「しかし今の状況を見るに、その御利益も効き目が無くなって来たと見えますな」
「一年前に死んだ当主の辰蔵は、強欲な人間じゃったでな。大勢の恨みを買って財産を築いた、その報いを受けたんじゃろう」

 チヨはめぐみに目を向け、憐れむような表情を浮かべた。 

「わしにはその娘が不憫でならん。お前さんにも分かるじゃろう?」
「……ええ」
「気をつけなされよ、お若いの。これからもっと恐ろしい出来事が起こるはずじゃ」
「全力を尽くすつもりですよ。そのために私はここへ来たんですから」
「うむ、頼んだぞ。わしは毎日ここに通っとるでな、またいつでも来るがええ」
「貴重な話をありがとうございました。チヨさんも身体に気をつけて」

 誠は一礼すると、めぐみを連れて社を後にした。雨宮家の方へ戻る途中、めぐみは何度も首を傾げていた。

「さっきのお婆さんの話、不思議だったわね。生き返って復讐するっていうのは分かるけど、無関係の人まで襲う怪物になっちゃうなんて、どうしてかしら」
「人を殺め、己の魂を汚してしまったがゆえに、邪悪な妖怪へと堕ちてしまったのでしょう。哀れなことです」
「かわいそうね……」
「恨みや憎しみは、それほどまでに人を変えてしまうもの。我々も気を付けなければ」

 雨宮家の門を出たところで、誠とめぐみは待たせていたタクシーに乗り込んだ。行き先は雨宮家からちょうど湖の対岸に位置する、道路脇の崖である。その場所はやや急なカーブの途中にあり、車を止めて湖を一望できるよう、小さな駐車場のほかに柵やベンチも据え付けられていた。誠はめぐみと一緒に柵の前までやってきたが、丸太で作られた柵はせいぜい胸の高さくらいしかない。ちょっと身を乗り出せば、何かの拍子に崖下まで落ちてしまうのも不思議ではない場所だった。

「どうですかめぐみさん、この場所に見覚えは?」
「来たことがあるような、やっぱりないような……うーん、思い出せない。ごめんなさい」
「いやいや、謝ることはありませんよ。まったくの無駄足というわけでもありませんし」
「そうなんですか?」
「ええ、もちろん」
「次はもっとお役に立てるように頑張りますね!」

 少し残念そうに湖を見つめるめぐみからは、記憶が蘇った様子はまるで見受けられない。自分が死んだ瞬間の記憶ともなれば、本人が受けるショックも相応に大きいはずで、その瞬間を思い出しながら冷静でいられる人間など、多くはいないはずである。これといった手掛かりを得ることは出来なかったが、誠はめぐみの辛い顔を見ずに済んだ安堵を感じていた。

「それにしても綺麗な眺めですねえ、ここ。あ、ほら、今あそこで魚が跳ねましたよ」

 湖面を指しながら、めぐみは無邪気に笑う。湖面に反射する日の光と合わさってか、彼女の笑顔はとても輝いて見えた。

(……まあ、これはこれで)

 密かにそんなことを思いながら、誠は次の目的地へ向かうことにした。それは数日前、辰也の仲間であった加藤太一が殺害された現場である。余計な先入観や恐怖心を持たせないためにも、めぐみにはその事実は伏せたままにしておいた。だが、結果はやはりというべきか、めぐみはまるで覚えがないといい、特に何かを思い出すような兆候もなかった。その次に向かった公園近くの湖のほとりでも、返ってくる言葉はやはり同じであった。

(どうも変だな。現場ではいずれもめぐみさんの姿が目撃されているのに、彼女自身はそれらの記憶を一切持っていない。あるいは、彼女に成りすました別の誰かの仕業なのか?)

 湖の波打ち際に立ち、誠は腕を組んで考え込む。現時点で判明している情報だけで考えれば、いずれもめぐみが犯人である可能性を強く示している。その事実とめぐみの記憶との齟齬に、誠はどこか不自然さを感じていた。

(とはいえ、まだ確証はない。もっと情報を集めて、慎重に――)

 そんな事を考えている最中、突然背中を叩かれて誠は我に帰る。振り返ってみると、めぐみが少し怒ったような顔をしている。

「ど、どうしました急に」
「誠さんってば、朝からずっと難しい顔してるんですもの」
「いや、別にそんなことは」
「ずっとそんな風だと疲れちゃいますし、いい考えも浮かんできませんよ。少し気分転換したらどうですか?」
「気分転換ねえ。ふーむ」
「さっきタクシーの中から看板を見たんですけど、近くに遊園地があるらしいですよ。なんでもおっきなジェットコースターがあるとかで!」
「ああ、その話は聞いた事があるような。なんでも最近出来たばかりの遊園地だとか。しかし、やけに詳しいですね」
「実は、さっきそこでチラシを拾ったんです。ほら、このジェットコースター、ものすごいスピードとスリル満点なんですって。ね、面白そうだと思いません?」
「は、はあ」

 直接言葉にはしないが、彼女の両目は連れて行けと全力で訴えかけている。断るのも気が引けたのと、本人が知らないとはいえ血なまぐさい場所ばかり連れ回してしまった罪悪感も手伝って、誠はめぐみの願いを叶えてやることにした。遊園地は湖畔の公園からそう遠くない場所にあり、大勢の人々で賑わっていた。窓口でチケットを買い遊園地へ足を踏み入れると、めぐみは様々な乗り物に興味を示していた。

「わあ、乗り物がいっぱい! メリーゴーランドにコーヒカップに……ああ、どれから乗ろうかなあ」

 目を輝かせてはしゃぐめぐみに、誠は少々面食らっていた。年相応に落ち着いた雰囲気だったのが、今はまるで子供のようである。彼女に袖を引っ張られながら、誠は訊ねた。

「ええと、遊園地は初めてなんですか?」
「はい! あっ、本当に初めてか分からないんですけど、ずっと来てみたかったって思ってた気がします。ものすごく!」
「それはよかった。せっかくだし今日は楽しん……おわっ!?」
「最初はこれ乗りましょう! さ、早くっ!」

 言い終わる前に引っ張られ、誠は片っ端から遊園地の乗り物に付き合わされることになった。めぐみは見た目に似合わず動きの激しい乗り物が大好きで、コーヒーカップでどれだけ振り回されてもケロッとしているばかりか、目玉のジェットコースターに至っては三回も繰り返し乗って大喜びしていた。ベンチでぐったりしている誠と対照的に、めぐみはますます元気一杯である。

「あー、楽しかった! すごいスピードとスリルでしたねっ!」
「……た、楽しんでもらえたようで何より」
「嫌なこととかあっても、ジェットコースターに乗れば、パーッと吹っ飛んじゃいますね!」
(こっちは胃の中身が吹っ飛びそうだったぞ)

 言いかけて、誠は言葉をぐっと飲み込む。上機嫌でソフトクリームを舐めているめぐみを見ながら、誠は考えていた。

(無自覚だったとしても、黄泉帰るほどの未練や恨みを抱えた人間に、こんな顔が出来るだろうか。ひょっとすると、彼女が生き返ったのは本人の意思ではなく、別の誰かが仕組んだ可能性も考えられる。だとしたら何のために……?)

 晴れた青空を見上げて考えていると、視界を塞ぐようにめぐみの顔が被さってきた。

「うわっ!」
「もう、また難しい顔してる。もう一回スッキリしなくちゃダメみたいですね」

 めぐみは誠を強引に立たせ、引きずるようにしてジェットコースターの乗り場へと連れて行く。

「いや、もう私は満足なんだが」
「ダメです。こうなったら頭が空っぽになるまでとことんやりましょう!」
「ま、待っ……おおおおおっ!?」

 その後も三回ほどジェットコースターに付き合わされ、めぐみが満足して遊園地を出る頃には夕方の五時を回っており、誠はすっかりくたびれてしまっていた。帰りのタクシーの中でも、誠は青ざめた顔のままずっと無言であった。腹を立てていたのではなく、うっかり口を開くと胃の中身が飛び出してしまいそうだったからだ。雨宮家の屋敷へと戻る道中、傾いた西日が水面に反射して、茜色の美しい風景が窓の外に広がっていた。

「わあ、素敵。キラキラ光ってて、それに湖全体が真っ赤に燃えてるみたい」
「確かに見事なものです。風光明媚を謳うだけはありますな」
「私、以前のことは何も覚えてないけど……こんなに楽しかった一日は、きっと初めてだったと思うんです。だから私、今日のことはずっと忘れません」
「……ええ、それがいいでしょう。日頃忘れがちですが、今のこの一瞬は、二度とは得られぬもの。私も今日のことは心に留めておきますよ」
「本当ですか!? 嬉しい!」

 めぐみは胸の前で両手を合わせ、心から嬉しそうな笑顔を浮かべる。やがて雨宮家へと到着した二人がタクシーを降りると、屋敷のすぐ近くに黒塗りの高級車が止まっているのが目に入った。今朝までは見当たらなかった車に目をやりつつ屋敷へ戻ると、佐竹が出迎えてくれた。

「おかえりなさいませお嬢様、八房様。なにか収穫はございましたか」

 そう訊ねる佐竹に、めぐみが身を乗り出して応じる。

「ええ、今日は遊園地に行ってきたの! いっぱい乗り物があって、とっても楽しかったわ」
「は、はあ、遊園地でございますか。確か調べ物をなさるとお出かけになったはずでは?」
「そうなんだけど、色々あって誠さんに連れてってもらったの。それでね、おっきなジェットコースターとか――」

 興奮気味にまくし立てるめぐみの話を、佐竹は苦笑いしつつも耳を傾け、何度も頷いていた。こうして主人の話に付き合うのも彼の仕事なのであろう。そう思っていると、屋敷の奥から誰かが駆け寄って来た。七三分けの黒髪に、高級そうなグレーのスーツを見に着けた、三十代くらいの若い男である。ビジネスマン的な服装ながら、男っぽい印象の顔立ちの人物だった。彼は肩を上下させつつ、目を見開いてめぐみを凝視していた。

「めぐみ……戻っていたという話は本当だったのか」

 そう呟いて言葉を失った様子の男に、めぐみはただ不思議そうに首を傾げるばかりである。ここは自分が話を進めるべきだと踏み、誠はスーツ姿の男に話しかけた。

「すみません、あなたは雨宮家の方ですか?」
「あ、ああ」

 声をかけられて我に帰った男は、誠に気付いてネクタイを直す。

「私は雨宮達夫。雨宮めぐみの夫だ。佐竹から連絡をもらって、ようやく東京から戻ってきたところだ」
「これは失礼を。私は八房誠と申します。訳あって今回の怪奇現象を調査に来ました」
「怪奇現象? ああ……佐竹から話は聞いてますよ。義弟の辰也に呼ばれて来た拝み屋がいると」
「そうでしたか、それなら話が早い」
「あいつに何を頼まれたのかは知らないが、あまり真に受けないほうがいい」
「と言いますと?」
「あの男の素行を知っていれば、誰だって私と同じ言葉が出るはずだ。彼は自分の犯した過ちが明るみに出るのを恐れ、それを揉み消すのに必死になっている。例の噂が流れ始めてから、ずいぶん慌てていた様子だったからな」
「なるほど。しかし私から見れば、達夫さんは落ち着きすぎているように見えますが」

 そう切り返す誠に対し、達夫は動じる様子もなく言った。

「私は物事を合理的に判断するようにしているんでね。まったく信じ難い話だが、現実はこの通りだ。目の前の事実を受け入れずに騒ぎ立てるのは、ナンセンスというものだ」
「これはこれは、ずいぶんと肝が据わっていらっしゃる。雨宮家を引き継ぎ、背負って立つという話も頷けますな」
「おい、それは皮肉のつもりか?」
「いやいや、滅相もない。ただの褒め言葉ですよ」
「まあいい。ところで八房さん、あなたは今日一日、妻を連れ回していたとか」
「あっ、それはここ最近起きてる事件の調査に立ち会ってもらっただけで、決してやましい気持ちがあったわけでは。そりゃあもう、これっぽっちも考えたりなんかしてませんとも、ええ」
「なにを勘違いしているのか知らんが、私はそれを咎めるつもりはない。むしろその逆だ」
「えっ?」
「ここ最近、物騒な事件が立て続けに起きているのは私も聞いている。あまり大きな声では言えないが、雨宮家は敵の多い一族でね……目を放した隙に、どんな危険が迫るかも知れない。だから八房さん、妻の記憶が戻り真相が明らかになるまでは、あなたに妻の身を守ってもらいたい。もちろんそれに見合った報酬は払おう」

 達夫はそう言ってスーツのポケットから、分厚い札束を誠に手渡した。

「活動経費を含んだ前金だ。遠慮せず使ってくれたまえ」

 意外な申し出に驚いたが、誠にとっては願ってもないことだった。受け取った金はともかく、めぐみの夫から正式に、彼女を同行するお墨付きをもらった格好になるわけである。少々気前が良すぎる気もしたが、それを断る理由も見当たらなかった。

「ややっ、こんなにもらってしまっていいんですかね」
「構わんさ。それでは妻のこと、よろしく頼む」

 そう言って立ち去ろうとする達夫を、誠は慌てて呼び止める。

「おっとと、ちょっと待ってください達夫さん」
「まだ何か?」
「まだって、めぐみさんに声をかけてあげないんですか?」
「ん、ああ……」

 達夫は仕方なくといった様子で振り返り、めぐみの前に立つ。やや見下ろすような目線を彼女に向けると、彼は言った。

「記憶を失っていると聞いたが、本当か?」
「は、はい」
「自分が誰なのか、私が誰かも分からない。間違いはないんだな?」
「はい。あの、えっと」
「ならば一日も早く記憶が戻るように努力することだ」
「はい」
「わがままを言って八房さんを困らせないように。許可なく一人で出歩かないこと。それから――」

 結局、達夫はあれこれと言い聞かせるだけで、めぐみの言葉を聞こうともしなかった。めぐみは言い聞かせられるまま頷くだけで、その様子は気の毒に思えるほどだった。さすがに見かねて割って入ろうかと思った矢先、屋敷の奥から見知らぬ女が現れた。フォーマルな服装から達夫の秘書らしいが、服の上からでもはっきり分かる豊満な体つきと、思わず見とれてしまうほどの美貌と色香の持ち主であった。女は達夫の元へ静かに近づくと、艶かしい声で話しかけた。

「社長、そろそろお時間です」
「ああ、分かった。すまないが予定がぎっしり詰まっているんでね、ここで失礼させてもらうよ」

 秘書に言われてめぐみから離れた達夫は、挨拶もせずに屋敷の外へと出て行ってしまった。残った女は誠とめぐみの方に向き直すと、緩いウェーブのかかった髪をかき上げ、笑みを浮かべて挨拶をした。

「申し送れました。私は蒲生桂子。雨宮社長の秘書を勤めております」
「は、はあ。これはご丁寧にどうも」

 異様とも言えるほどの色気に少々戸惑い、誠はつい間の抜けた返事をしてしまう。

「ふふ……またいずれ。それでは御機嫌よう」

 桂子は振り返り、達夫の後を追うようにして屋敷から出て行く。誠はくねくねと動く彼女の腰つきに目を奪われていたが、桂子が立っていた場所から漂う匂いが鼻をくすぐった途端、一瞬で張り詰めた表情へと変化した。

(これは――!?)

 誠は急いで屋敷を飛び出して二人の後を追ったが、達夫と桂子はすでに車へ乗り込んでおり、そのまま走り去ってしまった。

「……」

 間に合わなかった誠はしばらくその場に立っていたが、やがて諦めて屋敷の中へ戻る。ロビーでは不思議そうな顔をするめぐみと、気まずそうな表情を浮かべる佐竹がそのまま残っていた。小さくため息をつく誠に、めぐみが近づいた。

「急に飛び出したりして、一体どうしたんですか?」
「いや、ちょっと聞きそびれた事がありましてね」
「そうですか。はぁぁ……」

 さっきの達夫との会話がこたえたらしく、めぐみはしょんぼりと肩を落としてため息をつく。

「私、あの人と夫婦だったんですよね? それなのに、なんていうか」
「ええ、確かに一方的といいますか、ただ命令してただけという印象でしたねえ」
「本当に私たち、夫婦だったんでしょうか? それにあんな綺麗な女の人と一緒だったし。うう……」

 涙ぐんですっかり落ち込んでしまっためぐみをソファに座らせ、誠は傍に立っている佐竹に話しかけた。

「佐竹さん、ちょっと聞きたいことがあるんですが」
「はい、なんでございましょう」
「さっきの桂子という秘書について知りたいんですが、どういった人物か分かりますか?」
「桂子様ですか。私も詳しくは存じ上げないのですが、確か一年ほど前から達夫様の秘書をされております」
「他には?」
「いえ、これ以上は……ただ」

 そこまで言うと佐竹は、めぐみに聞こえない場所まで誠を連れて行き、小声で喋り始めた。

「人づてに聞いた話ですが、達夫様が彼女を雇ってからというもの、二人は常に行動を共にしているようです。以前からお嬢様の前でも遠慮がなかったもので……気の毒でございました」
「どうもあの達夫という人は、めぐみさんに対しての態度が妙ですね。今の話といい、さっきの様子といい、夫婦としての接し方には見えませんよ。なぜ二人が結婚したのか不思議で」
「お二人の結婚は、めぐみお嬢様の父上である辰蔵様がお決めになられたのです。身体ひとつで会社を立ち上げ、目覚しい業績を上げて頭角を現した達夫様を、辰蔵様は大層気に入っておられまして。二人は懇意となり、やがて達夫様を婿養子として雨宮家に迎えたのでございます。達夫様の会社も身内として取り込み、さらにビジネスを磐石にするためだと辰蔵様は申しておりました」
「なるほど、政略結婚というやつですか」

 その言葉を口にした刹那、誠の胸に複雑な思いが去来するが、それを悟られないよう平静を努める。

「それで、二人の結婚生活は上手く行ってなかったんですか?」
「達夫様はあの通り、お忙しい身でございますから。いつでも仕事で飛び回り、ずっと東京のマンションで生活なさっておりました。この屋敷に訪れるのは、今日のように何かしらの用事があった時だけでした。私が言えるのは、これくらいでございます」
「そうでしたか。色々と教えてくれてありがとうございました。後は自分で調べてみますよ」

 礼を述べた誠に、佐竹は小さく首を振って微笑む。

「いえ、お礼を言いたいのは私の方でして。結婚なされてからというもの、お嬢様の笑顔はほとんど見ることはありませんでした。それが今日は、本当に楽しそうに笑っておられて……あんなお嬢様を見るのは久しぶりでございました。私がこのようなお願いをするのはおこがましいのですが、どうかお嬢様の力になってあげてくださいませ」

 深々と頭を下げる佐竹に、誠は暖かい気持ちになるのだった。

「ええ、任せてください。出来る限りのことはするつもりですよ」

 それから落ち込んでいるめぐみを慰め、夕食と風呂を済ませると、誠はある場所へ電話をかけてから寝室へ向かった。やはり昨日と同じようにめぐみが部屋を訪ねてきたので、誠は彼女にベッドを明け渡して、事件の資料にもう一度目を通していた。

(やはりあの二人の情報は少ないな。殺人事件が起きた時には、二人とも東京に居たようだし、死んだ二人との接点も見当たらないが……あの蒲生桂子という女、どうも気になるな)

 とはいえ、いくら考えても答えを導き出せるだけの材料は手元にない。誠は資料をテーブルに置き、背もたれに体を預けて天井を見上げる。そのまましばらくボーっとしていると、ベッドの方から声がした。

「あのう、誠さん」
「ああ、はい。どうしましたか?」
「なんだか眠れないので、少しお喋りしてもいいですか?」
「ええ、もちろん」 
「私、自分の部屋にいると寂しくなるって言いましたよね。あれ、理由が分かった気がするんです。私、ずっとあの部屋で一人だったから……それで寂しくて、悲しかったんじゃないかなあって。なんとなく、ですけど」
「達夫さんとの会話で、そう感じたのですか?」
「うん……あれって普通の会話じゃありませんよね? 言いたいことだけ言ってすぐ出て行っちゃったし。綺麗な女の人なんか連れてるし。夫婦ならもっとこう、会話のキャッチボールってものが必要じゃないですか! そう思いません!?」
「え、ええ、まあ」
「あーあ、誠さんみたいな優しい人が旦那様だったら良かったのに」
「ん? 今なんと?」
「なんでもありません。お話聞いてくれてありがとうございました。私、そろそろ寝ますから」
「おやすみなさい、めぐみさん」
「……寝てる間に、どこかへ行ったりしないでくださいね?」
「行きませんよ。こんな時間に出かけるアテもありませんし」
「ふふ、良かった。それじゃおやすみなさい、誠さん」

 めぐみはそう言って布団を被り直し、やがて静かに寝息を立て始めた。あれこれ考えるのは明日に持ち越せばいいと、誠もソファに横たわって目を閉じた。




 翌朝、誠は血相を変えた佐竹に起こされて目覚めた。やけに眠気の残る目元をこすって起き上がると、蒼白になった佐竹の顔が次第にはっきり見えてきた。窓の外はまだ薄暗く、早朝であるのはすぐに分かった。

「た、た、大変でございます八房様!」
「どうしたんですか佐竹さん、ずいぶん顔色が悪いですよ」
「それどころではありません! お、お嬢様が、めぐみお嬢様が……!」

 誠はすぐにベッドへ目を向けたが、めぐみの姿は見当たらない。近くにある時計の針は、午前五時半を少し過ぎた所である。

「めぐみさんに何かあったんですか?」
「それが……朝食の準備のため、私がキッチンに向かっておりましたところ、一人で屋敷を出て行かれるお嬢様を見かけまして。何度も声をおかけしたのですが、まるで返事がありませんでした。どういうわけか湖の方へ歩いて行かれるので、奇妙に思って後を追いかけたのですが――」

 佐竹はごくりと生唾を飲み込み、震える声を搾り出すように続けた。
 
「お、お嬢様は、湖の上を歩いて行ってしまわれたのです。私も最初は夢を見ているのかと、自分の目を疑いましたが……」
「なんですって! 彼女はどっちの方角へ向かいましたか!?」
「あ、案内いたします!」

 誠は佐竹と一緒に屋敷の裏手にある湖のほとりまで走ったが、あたりは濃い霧が立ち込めていて、遠くの方はほとんど何も見えない状態だった。めぐみは湖の上を北東に向かって歩いて行ったらしく、誠は急いで屋敷に戻って身支度をすると、タクシーを呼んで湖沿いに車を走らせた。二十分ほど過ぎた頃、誠は湖畔に佇むめぐみらしき人影を見つけてタクシーを降りた。波打ち際で足首まで水に浸かっためぐみは、背を向けてじっと立ったまま、その場から動かない。急いで誠が彼女に駆け寄ったその時、めぐみの足元に打ち寄せるさざなみに、赤い液体が混じっていることに気が付いた。

(これは――!?)

 誠が足元の小枝を踏み、乾いた音が響くと、めぐみはゆっくりとこちらに振り返る。彼女が身に着けている白いワンピースは、真っ赤な飛沫で染まっており、彼女の右手には鮮血が滴るナイフが握られていた。そして、めぐみのすぐ後ろには、全身から血を流して息絶えた男の死体が浮かんでいたのである。

「な、なんてことだ」

 めぐみの目は虚ろで、ただ呆然と立ち尽くすばかりである。誠は何度も彼女に呼びかけたが、まともな返事は返ってこなかった。めぐみに近づいてナイフを取り上げたその時、湖から吹く風に乗って例の甘ったるい匂いが漂ってきた。

(またこの匂い……それに彼女の様子、初めて出会ったあの時と同じだ。偶然にしては出来すぎだな)

 これからどう対応すべきかを考えていた矢先、遠くからパトカーのサイレンの音が鳴り響いてきた。タクシーを降りた道路の方を振り返ると、地元の人間らしき中年の女性が、めぐみの方を指して警察を手招きしている。誠が辿り着くより一足早く、この状況を目撃して通報していたのだろう。パトカーから降りてきた警官はすぐさま誠とめぐみの元へ駆け寄って現場を確かめると、無線を使って警察署へ連絡を取った。めぐみはその場で逮捕され、誠も参考人として警察署へ任意同行することとなってしまった。ナイフで腹部を数ヶ所刺されて死んでいたのは、持っていた免許証から雨宮辰也の仲間である類家孝だと分かった。誠はめぐみと別の部屋に連れてこられ、事情聴取で警察官の質問攻めに遭っていた。灰色のスチールデスクが置いてある取調室で、誠はデスクを挟んで警察官の質問を受けていたが、一時間ほど過ぎた頃、見覚えのある刑事が部屋のドアを開けて顔を出した。誠に殺人事件の資料を渡してくれた、あの中年刑事である。疲れた顔をした刑事は警察官と入れ替わりにデスクに座ると、ため息をついてうなだれた。

「やあ刑事さん。先日は資料をどうも」
「ああ……」
「どうしました、顔色が悪いですよ?」
「どうもこうもない。こっちは逃げ出したいよ」
「どういうことです?」

 中年刑事は他に誰も聞いていないのを慎重に確かめると、頭を抱えて言った。

「さっき逮捕した女の指紋と、雨宮めぐみの指紋が一致した。つまり彼女は、雨宮めぐみ本人に間違いない」
「はあ。でもそれはご存知だったのでは?」
「馬鹿をいうな。今までは残された指紋や目撃証言から、その可能性が示唆されていただけだ。だが本当に出てきてしまったら、誰がどう説明を付けるんだ。雨宮めぐみは正式に死亡扱いになっていて、死亡診断書にも偽造された形跡は無い。おまけにちゃんと火葬された記録もあるんだぞ。そんな人間が、この世に存在しているはずがないんだよ」
「つまり、今ここで取調べを受けている女性は、雨宮めぐみ以外の人間でなければならないわけですね」
「そうだ。なのに指紋が一致しちまったおかげで、瓜二つの別人だと言うことも出来なくなった。長年刑事をやってきたが、こんなのは初めてでな……」

 疲れた顔で呟く刑事を見ながら、誠はチャンスだと思っていた。矛盾に満ちためぐみの存在は、今の法律で扱うことは不可能である。

「刑事さん。これはもう普通の人間の手に負える事件じゃありません。ここから先は、いわゆる裏の世界。妖怪や悪霊といった化け物の領域です。私はそういった事件を解決するのが本業なんですよ。そこでですね、この事件と彼女の身柄、私に任せてもらえませんか」
「今までの自分なら、なにを馬鹿なと鼻で笑ってただろうが……もうあんたの言う事を信じるしかなさそうだ」
「いやあ、話が分かる人で助かりましたよ」
「だが約束してくれ。この話は俺とあんただけの秘密だ。これだけの事件を警察が放り出したとあっては、信用もあったもんじゃない。俺のクビと退職金もかかってるんでな、頼むぜ本当に」
「ええ、任せてください。仕事はキッチリ片付ける主義ですからね」

 笑顔を作ってみせる誠に、中年の刑事も自嘲気味な笑みを返す。彼に連れられて取調室を出ると、誠はめぐみに会わせてもらうことが出来た。誠がいたのとあまり変わらない狭い部屋の中で、めぐみは一人でデスクの椅子に座っていた。服は白いブラウスとグレーのスカートに着替えていたが、ずっとうつむいたまま動かずにいた。誠が声をかけるとめぐみは素早く顔を上げ、堰を切ったように両目から涙を溢れさせた。

「ま、誠さん……わ、わた、私……ちが、ちがう……違うんです……!」

 顔を両手で覆って泣きじゃくるめぐみに近づき、誠は膝を曲げて優しい口調で語りかける。

「分かっていますよ。あなたは誰も傷つけてはいない。これにはきっと理由があるはずだ」

 めぐみは何度も頷き、誠にしがみついて泣きじゃくった。しばらくして落ち着いためぐみは、渡されたティッシュで鼻をかみ、赤くなった目を向けて誠に訊ねた。

「うぅ、どうしてこんなことになってしまったんでしょうか」
「めぐみさん。まずは事件について、警察からどこまで話を聞いたか教えてもらえますか?」
「えっと、今日も含めて三件の殺人事件があって、そこで私が目撃されていることと、それから雨宮めぐみという人間は転落事故で死んでいて、もう生きているはずがないって。そんなのまったく覚えがないのに……これってどういう事なんでしょう?」

 時が来たと判断し、誠はめぐみに自分が知っている全てを話した。めぐみは黙って聞いていたが、以外にも取り乱したりせず、最後まで落ち着いた様子だった。

「――信じ難い話だとは思いますが、これらは全て事実です。私はとある仏門の一派から、この奇妙な事件を解決するために派遣されたのです。おそらくこの事件、裏に何らかの妖怪が絡んでいるはず。今朝、めぐみさんが湖の上を歩いて行ったのも、きっと妖術によるものでしょう」
「よ、妖怪?」
「ええ。自然の精気や、恨みや未練を抱いた人間の霊魂が変化した怪物のことです。私はそれらと戦う妖怪退治が本業なのですよ」
「あの、私には妖怪の話なんかは分かりませんけど、ひとつだけ教えてください。誠さんは……私が犯人だと思ってますか? 事故で死んでしまった復讐のために生き返ってきたと……」

 涙ぐんだめぐみの瞳には、不安が色濃く滲んでいる。誠は安心させるように微笑み、首を横に振る。

「めぐみさんが殺人犯である可能性は、限りなく低いと私は思っています。恨みや未練でこの世に舞い戻った者は、その感情や記憶に行動を支配されるものです。しかし、あなたには以前の記憶がない。ましてや女性一人で大の男三人を立て続けに殺害し、誰にも気付かれずに現場から消えたりするのは無理がある。それと、しばらく一緒に過ごして分かりましたが、あなたは人を殺せるような人じゃない。それは私が保証しますよ」
「あ、ありがとうございます、誠さん……私、自分の知らないうちに、とても恐ろしいことをしていたんじゃないかって。ずっとずっと不安で」
「そう、問題はそこなんですよ。めぐみさんには動機がなく、犯行時の記憶もない。にもかかわらず、殺人現場ではあなたの姿が目撃されていて、あなたの指紋が付いた凶器が残されていた。どう考えても不自然なんですよ、これは。普通なら犯人は、他人に見られるのを避け、証拠を残さないようにするはずですからね」
「それって、誰かが私のせいにしようとしているってことでしょうか?」
「ええ、おそらくは。そして我々はその人物を探し出さなければならない。あるいはそれは、人間ではないかもしれません」
「そんな……怖いわ。誠さん、私はどうすればいいんでしょう?」

 不安に押し潰されそうな顔で、めぐみは訴えた。誠は彼女の両肩に手を置くと、涙ぐむ瞳を真っ直ぐに見て言った。

「この先、我々は今よりもっと恐ろしい出来事に遭遇するでしょう。だが何が起こっても、私はあなたの味方だ。これだけは信じてもらいたい」
「はい……!」

 めぐみが安堵の表情を浮かべたのも束の間、にわかに警察署内が騒がしくなった。中年の刑事と共に廊下へ出てみると、どうやら留置場で騒ぎが起きている様子だった。留置場へと向かう途中、めぐみの着替えを届けてそのままずっと待っていた辰巳と出会い、彼も一緒に騒ぎの現場へと急いだ。

「うわあぁぁぁぁぁ! やめろ! 来るなッ! 誰か助けてくれぇぇぇッ!」

 大きな叫び声と物音が響いていたのは、辰也の独房だった。辰也はひどく取り乱した状態で、何かから逃げるように独房の中を這いずり回っている。だが独房の中には他に誰もおらず、辰也は一人で騒いでいるだけにしか見えない。

「おい、何があった」

 中年の刑事に訊ねられ、近くにいた担当の警察官が答える。

「それがいきなり騒ぎ出して、ずっとこの調子なんですよ。まるで見えない何かに怯えてるみたいな」

 困り果てた様子の警察官は、半狂乱の辰也に近付けず困り果てた様子である。

「これは様子が普通じゃありませんよ刑事さん。早く落ち着かせた方がいい」

 誠がそう言った直後、辰也はめぐみの姿を見つけて目を剥いた。

「あっ、姉貴!? お、俺は別にあんたを殺すつもりなんかなかったんだ! ただちょっと脅かして、親父の遺産を半分俺にくれるって言ってくれりゃ、何もせずに返すつもりだったんだよ! それなのによ、姉貴が勝手に足を滑らせて崖に落っこちて……だから頼む、勘弁してくれ! 殺さないでくれよおッ!」

 辰也は半狂乱になりながら、頭を抱えてあれこれと喋り始めた。ともかく大人しくさせようと、独房の鍵が開けられたその瞬間、突然辰也が立ち上がった。そして自分の喉を手で掻き毟るようにして苦しみ始めた。

「が……ごぼ……ッ! あが……ッ!?」

 辰也は水に溺れた時のような声を出しながら、床に倒れてのた打ち回る。

「なっ、何が起こったんだ!?」

 誠や刑事たちが慌てて独房に飛び込んだが、どういうわけか辰也の口からは大量の水が溢れ出して止まらない。あまりに異様な光景に誰もが絶句していたが、誠は独房の中に覚えのある匂いが漂っているのに気付いた。

(――またこの匂いか! それだけじゃない、匂いと一緒に漂うこの感覚……妖気だ!)

 思いながらも誠は辰也の元へ近付いたが、彼の顔はみるみる青ざめて、次第に手足も動かなくなっていく。 

「ま、まずい、救急車だ! 急いで!」

 すぐに救急車が呼ばれたが、救急隊員が駆け付けた時には、すでに辰也は息絶えていた。死因は肺と気道に水が溜まっていたことによる窒息死だった。辰也が常識ではあり得ない死に方をしたことで、警察署は大騒ぎになっていた。誠はめぐみと、彼女の着替えを警察署まで持ってきてくれていた辰巳の二人を連れて、雨宮家の屋敷へと戻った。人の死を、しかも記憶を失ったとはいえ弟のそれを目の当たりにしたショックは、決して軽くはない。すっかり怯えてしまった彼女を慰めつつ、誠は電話を借りてあちこちに連絡を取り、ようやく落ち着いた頃にはすっかり日が暮れていた。

「……ああ、やはりそうだったか。分かった、また何かあれば頼む」

 最後の電話を切り、誠はリビングのソファでじっとしているめぐみの隣に腰を下ろした。テーブルを挟んだ向かいには、弟の辰巳も座っている

「気分はどうですか?」
「あまり大丈夫じゃないですけど、なんとか」
「今日は色々とありましたからね。慣れていない人には辛かったでしょう」
「……誠さんは慣れているんですか、こういうの?」
「ええ、まあ。この仕事をしていると、関わらざるを得ませんから」
「どうしてこんなひどいことが起こるんでしょうか。何のためにこんな……」

 そう言って黙り込んでしまっためぐみに声をかけたのは、向かいにいる辰巳だった。

「もういいんだよ姉さん。きっとこれで最後のはずだから」
「そ、そうなのかな」
「だって殺されたのは、姉さんの事故に関わってた連中なんだろ? だったらもう、みんないなくなっちゃったし……でも、兄貴があんな死に方をするなんて信じられないよ。やっぱり町のみんなが言ってるように、うちは呪われてるのかな」

 辰巳も兄の不可解な死を目の当たりにしたせいか、辰巳の声も沈んでいる。

「明日になれば、いくつかの疑問も解けるでしょう。とりあえず今日は、二人ともゆっくり休んでください」

 そう言って誠は、二人をそれぞれ部屋に戻るように言うと、誠も寝室に向かった。その夜は同じミスをしないよう、一睡もせずにめぐみの様子を見張っていたが、異変は何も起こらなかった。やがて夜が明け、午前十時を回った頃、雨宮家の屋敷に黒い高級車がやってきた。辰也が死んだという連絡を受けて、達夫が再びやってきたのである。佐竹から事情を聞いた達夫は、てきぱきと葬儀の手配などを指示し、電話であちこちにせわしなく連絡を入れていた。一通りの電話が終わると、達夫はリビングに全員を集めて言った。

「皆も知っての通り、雨宮家では不幸な出来事が立て続けに起きている。一年前に先代夫婦が交通事故で亡くなられ、そして辰也までが不可解な死を遂げてしまった。私としてはこれ以上、家族が欠けてしまうことだけは避けたい。残された我々には、雨宮の家名と遺産を守っていく義務があるんだからな。当分の間は、それぞれ充分気を付けて過ごして欲しい」

 そう語る達夫の傍らには、やはり色香の漂う桂子の姿がある。話が終わった直後、誠は達夫に断ってから桂子に声をかけ、話があると屋敷の裏手へ呼び出した。誠が一足先に湖のほとりで立っていると、少し遅れて桂子がやってきた。彼女一人だけで、他に誰かが付いて来ている様子も無い。彼女の周囲には、やはり例の甘ったるい匂いが漂っている。今回は彼女との距離が近いせいか、いつもよりそれが濃く、どこか感覚が麻痺しそうな気分だった。

「私になにか御用でしょうか、お坊様」
「いやいや申し訳ない。ちょっと邪魔の入らない場所で話したかったものですからね」
「まあ、どんなお話をなさるおつもりかしら」
「そりゃもう大事な話ですよ。大事な……ね」

 相手の反応を見つつ、あえて含みのある言い方をする誠だったが、桂子は色っぽい笑みを浮かべているだけで、平然としている。

「お食事のお誘いでしたら、残念ですわ。達夫様に叱られてしまいます」
「残念だがそうじゃない。あなたのことについて、いくつか確かめたいことがありましてね」
「女の秘密を探ろうだなんて、見かけより大胆ですのね」
「蒲生桂子さん。あなたは一年ほど前に、達夫さんに雇われて秘書となった。これは間違いありませんね?」
「ええ、そうですけど」
「では、それ以前は何をしていたんです?」
「それ以前と言われても、普通の仕事をして暮らしていましたわ。それが何か?」
「それはおかしいな、桂子さん」
「何がおかしいんでしょう?」
「私にはちょっとした情報網がありましてね。その気になれば相手の生年月日や血液型はおろか、食べ物の好みから下着の色まで突き止められる、とても優秀な連中です。私は彼らに、あなたについて調べてもらったんですよ。で、調査の結果はこうです。蒲生桂子という女は、一切の経歴が不明で戸籍すらもない。つまり蒲生桂子という人間は、社会的に存在していないんですよ。妙な話だと思いませんか」
「まあ、面白い話だこと。でも、私がどこの誰だろうと、お坊様には関係ないことです」

 余裕の微笑を浮かべて切り返してくる桂子だったが、誠も動じない。眼鏡の奥で鋭く瞳を光らせながら、一歩桂子に近づいて匂いをかぐ仕草をする。

「ところで桂子さん、あなたからはいつも独特の香りがしていますね。甘く、かすかに薬のようにも思える独特の匂いだ。これは特別な香水か何かですか?」
「ええ、まあ。そんなところですわ」
「実はですね、私はこの匂いを前にも何度か嗅いだことがあるんですよ。めぐみさんを保護した時、そして二度の殺人現場に出くわした時だ」
「……」
「だが、めぐみさんはこんな匂いの香水など使っていない。ではなぜ、殺人現場であなたと同じ匂いがしたのか。これをどう説明したらいいのか、ずっと疑問だったんですよ」
「さあ、私には覚えのないことですから。関係ありませんわ」
「では私の考えを言いましょう。ようやく思い出したんですが、古い妖術などに使われる秘薬の中に、この匂いと似たものがありましてね。その薬の効能は、人心を操ったり、相手に呪いを仕掛けるといった類のものだった。あなたはこの薬を使い、何らかの形で殺人事件に関わっていたのではないか……と、私はそう考えているんですよ」

 桂子はずっと微笑みを崩さなかったが、瞳の奥には警戒心が色濃く浮かんでいる。それは深い闇の色で、瞳全体に広がって真っ黒に染め上げたかと思うと、強い殺気を放ち始めた。

「ふふふ、色々と頭の回る方だこと。だけど……もうお別れの時間なの」

 桂子が口元に大きな弧を描いたと思った刹那、誠は背中に重いものがぶつかった衝撃と、鋭い痛みを腰の辺りに感じて顔を歪めた。何者かが背後から、誠の体にナイフを突き立てていたのである。

「な……にっ……!?」

 目の前の殺気に気を取られ、背後への警戒を一瞬でも忘れてしまった事は、誠にとって一生の不覚であった。

(馬鹿な、この距離までまったく気付かなかったなんて――!)
「黙っていれば、もう少しだけ長生き出来たのに。余計なことに首を突っ込むからよ、ボウヤ」

 誠は振り返って襲撃者の姿を確かめようとしたが、長袖の黒い服を着込み、顔も覆面で隠しているという念の入れようである。抵抗しようとすると、相手は身体を寄せてナイフをより深く突き刺し、傷口を抉ってくる。激痛に目がくらみ、次第に全身の力が入らなくなってくる。覆面の人物はそのまま誠を湖の浅瀬まで押し込むと、一気に蹴り飛ばした。その瞬間、誠は隙を突いて覆面に手を伸ばして一気に剥ぎ取った。覆面の人物は慌てて顔を手で隠したが、一瞬だけ見えた素顔を誠は見逃さなかった。

(こ、こいつは――!?)

 湖に投げ出された誠は、霊力を集中させた手で傷口を押さえ、出血を防ごうと試みるが、深い傷口から溢れる血はなかなか止まらない。同時にもう片方の腕を伸ばしてもがき続けたが、やがて彼の姿は水中に沈んで見えなくなった。

「がは……っ! ゲホッ、ゲホッ、ぐっ……!」

 屋敷から百メートルほど離れた蛇神の社の近くに、ぬかるんだ泥の岸辺がある。誠は残る力を振り絞って水中を泳ぎ、必死の思いで岸に這い上がっていた。だが、刺された傷口からの出血が激しく、もう指一本すら動かす気力が残っていなかった。

「ま、誠さんっ!? どうしたんですかっ、誰がこんな……!?」

 悲鳴のような声の主はめぐみだった。彼女は泥の中を真っ直ぐ進み、血まみれで動かない誠の元へ近づくと、彼の体を引っ張ってぬかるみから引き上げた。彼女がここに来たのはまったくの偶然だったが、ともかく天の助けであった。

「はは、まだツキに見放されちゃいなかったか……」

 社の裏側でめぐみは何度も誠の名を呼んでいたが、どうしたらいいか分からず目元に涙を浮かべるばかりだった。するとそこへ、社へお参りに来たチヨが二人を見つけて近づいてきた。

「こりゃいかん、はやく救急車を呼ばんと!」

 チヨが振り返って助けを呼ぼうとしたその時、その腕を掴むものがあった。彼女が驚いて目を向けると、息も絶え絶えになった誠が歯を食いしばりながら目を開け、かすれた声で言うのだった。

「ま、待った。救急車は呼ばないでくれ……それよりも、どこか身を隠せる場所はありませんか」
「あるにはあるが、大丈夫なのかお前さん。ひどい怪我なんじゃぞ」
「ぐっ……こ、この程度なら自分で治せます。それより今は、私が生きていることを誰にも知られたくない。居場所が知れたら、相手は今度こそ止めを刺しに来る」
「どうやら事情がありそうじゃの。もう少しだけ辛抱するんじゃぞ」

 チヨがその場を離れてから十分ほど経つと、作業着姿で五分刈り頭の男性がやって来て、誠たちを車に乗せて運んでくれた。連れて来られたのは雨宮家の屋敷から三十分ほど離れた山中にある家へ運び込まれた。洋風でやや古びているが、ほとんど人が住んでいる形跡がない綺麗な家だった。ひとまず大きなソファに運ばれた誠に、チヨが鍵を投げてよこす。

「ここは雨宮家の元別荘でな。古くなったんで、たまに物置代わりに使ってたくらいじゃ。ここの事はわしと死んだ辰蔵くらいしか知らんから、安心して休むとええ」
「助かりました、チヨさん。うっ……」
「お前さんが大丈夫だというから連れてきたが、ここで死なれたら困るでのう。しっかりせえ」

 チヨは救急箱を持ってきてテーブルに置くと、血と泥で汚れた袈裟を脱がせ、めぐみと一緒に誠の手当てを始めた。身体の汚れを落として一通りの処置が終わると、腹部に包帯をきつめに巻いた姿で誠はベッドに寝かされた。

「それじゃ後はお嬢ちゃんに任せるでな。頼んだぞ」

 そう言って、チヨは別荘を出て帰っていった。ベッドに横たわっている誠は包帯の上からお札を貼り、数珠を手首に絡めて両手で印を結んで、小声で呪文を唱え続けている。その様子をめぐみは不思議そうに眺めていた。しばらくして呪文を唱え終わった誠は、めぐみの方を見て口を開いた。

「これは傷の回復を早める法力ですよ。詳しい説明は省きますが、このくらいの傷なら一晩も休めば動けるようになります」
「そ、そうなんですね。良かった」

 安堵のため息をついた直後、めぐみは両目からポロポロと涙をこぼし始めた。

「あれっ。なんでかな、止まんな……ぐすっ」

 両手で涙をぬぐうめぐみの姿に、誠は胸の奥に何かがこみ上げるのを確かに感じていた。

「ぐすん、安心したら、なんだか気が抜けちゃったみたいで。でも、助かってよかった……」
「めぐみさんがいなければ、私はあのまま力尽きていた。本当にありがとうございます」
「あの、誠さん。一体誰がこんなことを?」

 恐る恐る訊ねるめぐみに、誠は真剣な表情で応じる。

「湖に突き落とされる直前、一瞬だが襲ってきた相手の顔を見ました。あれは……いや、今はまだ知らない方がいい。傷が癒えたら、その人物に会いに行くつもりです」
「だ、大丈夫なんですか? 自分を襲ってきた相手なのに」
「今回は不意を突かれてこの有様ですが、油断さえしていなければ二度もやられはしませんよ。こう見えても実は強いんですよ、私は」

 寝たまま力こぶを作る仕草をする誠に微笑むが、 めぐみは再び両目を潤ませる。

「怖かった……誠さんが死んじゃったらどうしようって、私……」

 何度も目元をぬぐう彼女の姿を見上げ、 誠は口の端を少し持ち上げて天井を見た。

「その涙を見られただけで、もう思い残すこともない気分ですよ」
「なにを言ってるんですか、もう。誠さんにだって、悲しんでくれる家族がいるでしょう?」

 めぐみがそう言った途端、誠は複雑な感情の入り混じった表情を浮かべた。

「家族、か。私にとっては一番縁遠いものかもしれません」
「え? それはどういう……」
「私の家は少々事情が複雑でしてねえ。家族とは縁を切った状態なんですよ」
「そ、そうだったんですか。ごめんなさい。知らなかったから、つい」
「いいんですよ。別に大したことじゃありませんから」

 それからしばらくの間、二人の間に沈黙が続く。ずっと申し訳なさそうな顔をしているめぐみを見て、誠はふっと口元を緩める。

「そうだ。せっかくだし、私の身の上話でも聞いてもらえますか。今まで人に話したことが無いもので、上手く説明できるか分かりませんが」
「えっ、ぜ、ぜひ聞きたいです。聞かせてくださいっ」

 真剣な顔をぐいっと近づける彼女に苦笑しつつ、誠はゆっくりと語り始めた。

「私の父は蓮華宗という、妖怪退治屋の中でも特に大きな組織の当主でしてね。八房というのは蓮華宗の創立者の家系で、私の父はその直系の子孫に当たるというわけです。父には幼い頃から決められた許婚がいましたが、彼女との結婚を一年後に迎えた頃、ある女性と出会い、恋に落ちてしまった。それが私の母というわけです。二人は深く愛し合っていましたが、やがて私を身篭ったことが分かると、母は父の前から姿を消しました。立場の違いや父が背負う一族の重責、許婚の存在……それらを察して、自ら身を引いたわけです。母は私を産んだ後、女手ひとつで私を育ててくれました。しかし元々あまり身体が丈夫でなかった母は、私が六歳になったばかりの頃、ちょっとした風邪をこじらせて亡くなってしまった。父はその話をどこからか聞きつけたらしく、私を引き取りに来ました。当然、親類からは猛反発がありましたが、父はこればかりは譲れないと、強引に意見を押し通したそうです。だが、すでに八房家には父の許婚である義母と、まだ幼い腹違いの弟がいたのです」

 そこで話を一区切りして、小さく息を吐く誠だったが、めぐみは早く続きを聞きたいと言わんばかりにじっと誠を見つめている。誠は冷えた水を一杯頼み、それで喉を潤してから話を続けた。

「ですが、家族はみんな優しかった。弟は私を慕ってくれていたし、義母は私の身の上を知りながら、それでも私の境遇に同情し、弟と変わらぬ愛情で接してくれた。だからこそ私は思ったんです。自分はいつまでもここにいてはいけない、と」
「そんな……どうしてですか?」
「一度は家族の優しさに甘えようかとも思いました。しかし、私は気付いてしまったんですよ。自分の存在が何を意味するのか――」




「――兄は言っていました。自分の存在は、母の人生を否定してしまうからだ、と」

 遡ること数日前、誠が逃げ出した後の道場で、実は悲しげにうつむいて言った。草一郎も真澄も、驚いたような表情を浮かべながら、黙って次の言葉を待っていた。

「母は生まれ付いての霊力に優れ、蓮華宗の中でも名家の生まれでした。だから八房家の跡継ぎを生むのに相応しいと、白羽の矢が立てられたのです。幼い頃から八房家へ嫁ぐことを決められ、それに相応しい女となるべく、修行の日々だったそうです。普通の若い娘がするような恋愛や青春の全てを捨てて、八房家のために子を産んだ母の前に、夫と別の女性との子供が現れてしまった。その時の心情を思えば、絶対に八房家を継ぐわけにはいかないと……だから兄は家を出たのです」

 草一郎は腕を組んで黙ったまま聞いていたが、真澄は口元に手を当てて同情の色を浮かべている。

「誠さんにそんな事があったなんて、全然知らなかった。でも、お母様の気持ちを考えたら確かに……」
「ですが妖怪退治は実力主義の世界。やはり八房家を継ぐのは、真に実力ある者でなくては。お二人も既に知っているでしょうが、兄は八房家の歴史でも指折りの天才。あれほど術を使いこなし妖怪と戦える人間など、私は他に見たことがありません」
「でも、お母様はどう考えているの? やっぱり血を分けたあなたに家を継いでもらいたいんじゃないかしら」
「兄の思いは母にも伝わっています。ですが母は兄と私、どちらも自分の子供に変わりは無いのだから、誰が後を継いでも自分は胸を張れると、そう言っていました」
「そう……素晴らしい方なのね、お母様は」
「息子の自分から見てもお人よしというか……呆れるくらい優しいのですよ母は。ですが、それが私の誇りでもあります」

 少し嬉しそうにしながら答える実を見て、真澄も草一郎もわずかに笑みを浮かべた。

「生まれてきた腹は違えど、それだけの理由で兄の才能を埋もれさせてしまうのは、八房家や蓮華宗にとっても大きな損失です。だから遠慮などせず、兄には八房家を継いでもらいたいのです」

 実が話し終えた後、少し間を置いて草一郎がようやく口を開く。

「なるほど、事情はよく分かった。誠の女遊びもそれが原因だったんだな?」
「ええ、放蕩な振る舞いで自分の評判を落とし、弟の私が推薦されるようにと……」
「……半分はあいつの趣味でやってそうな気もするが、まあいい」
「そ、そうですか。では兄と会ったら、八房家を継ぐようにと言ってやってくれませんか」
「悪いが、そいつは約束できん」
「えっ?」

 意外そうな顔をする実と真澄に対し、草一郎は毅然とした態度を崩さない。

「ですが、兄と親しい草一郎さんの口添えがあれば!」
「これはお前たち家族が決めることだ。俺たち部外者が口を出す事じゃない」

 きっぱりと正論を述べられ、実は返す言葉も無く押し黙ってしまう。

「ただ、ひとつ分かったことがある。誠は決して不幸ではない。こんなにも素晴らしい家族に恵まれているんだからな。俺に言えるのはそれだけだ」

 その言葉に救われたのか、実は幾分か胸のつかえが取れたような表情になっていた。それから草一郎と真澄に何度も頭を下げ、実は最後に言った。

「では、また兄に会ったら伝えてくれませんか。たまには家に戻って元気な顔を見せて欲しい、そう母が言っていたと――」




 窓の外に向けていた視線をめぐみに戻し、複雑な胸中に苦笑しながら誠は続けていた。

「八房家で三年ほど過ごした後、私は妖怪退治の修行に志願して霊山に上りました。後で知った事ですが、私が適当に選んだ修行場は特に厳しく、脱落者や死者が後を絶たないという、世にも恐ろしい場所でしてねえ。私は何も知らず、毎日をただ生き延びるのに必死でした。今でもあの日々を夢に見て、うなされるくらいですからね。それから十年、ようやく全ての修行を終えて山を下りてきたわけですが、自由を喜ぶ暇もなく、また別の問題がやってきたんですよ。当時、蓮華宗の中では父の後継者選びの話が持ち上がっていましてね。私は当然、弟が家を継ぐものだと思っていたのですが、あろうことか私を次の当主にすべきだという声が、一部から出始めていたんですよ。皮肉なことに、あの厳しい修行を耐え抜いたことが、私を推薦する後押しにもなってしまっていた。当然、彼らと弟を支持する人々との対立が生じ、蓮華宗が真っ二つに分かれるほどの事態になりかけました。大きな権力の周囲には、強引な手段でそれを奪おうとする者も珍しくない。私や弟を亡き者にしようと暗躍し、あまつさえその話を私に持ちかけてくる輩さえもいた。義母の件も含め、いよいよ私は八房家と縁を切り、距離を置くことにしたのですよ。ところが当の弟は、私が後継者になるべきだと言って、家を継ぐのを嫌がっていましてね。まったく、兄の気も知らないで困った奴だ」

 語り終え、自嘲気味な笑みを浮かべる誠の手を、めぐみはそっと握り返す。

「私、安心しました。誠さんは私が思っていた通りの……ううん、もっと素敵な人だったんですもの」
「はは、そんな褒められたものじゃありませんよ。本当の私は、大嘘つきのひどい人間かもしれませんよ?」
「でも、見ず知らずの私に親身になってくれたじゃないですか。昨日、何があってもあなたの味方だって言ってくれたのに、あれも嘘だったんですか?」
「あ、いや。それはもちろん本当ですとも。神仏に誓って本当です」
「だったらご自分のこと、そんな風に言ったらダメですよ」
「人間には色々な一面がある。もっとよく相手を見てからにすべきだということですよ」

 そう言い聞かせたものの、めぐみは少し不満そうな目で誠を見つめ返し、呟いた。

「それでも信じます。誠さんのこと」
「なぜ、そう思うんです?」
「だって……誠さんは信じてくれたじゃないですか。あなたは誰も傷つけていないって。昨日、気が付いたら警察署にいて、服も血まみれだったし、殺しをやったのはお前だろうって急に言われて。それに、みんなが私を気味悪そうな目で見るんです。いくら違うって言っても、誰も信じてくれなくて。心細くて不安でたまらなかった……でも、誠さんが迎えに来てくれて、私のことを信じるって言ってくれた。だから私も誠さんを信じます。ご家族だって、今も誠さんが帰ってくるのを待っているはずですよ。だから……だから早く元気になってくださいね」

 柔らかなめぐみの笑顔と優しさに触れ、誠は心の奥が不思議と暖かくなっていくのを感じていた。こんな気持ちを抱いたのは、生まれて初めてのことだった。

「……ありがとう」

 それから再び目を閉じて呪文を唱え、傷を癒すことに集中しているうちに、彼の意識はまどろみの中に沈んでいった。




 翌日の夕方、動けるようになった誠は身支度を済ませ、めぐみと一緒に雨宮邸へ向かった。用心しながら屋敷の中へ踏み込んだが、出迎えに顔を出した佐竹によれば、達夫も辰也も外出中で屋敷にはいなかったが、スーツ姿の男がリビングでコーヒーを飲んでいた。年齢は五十代後半ほどで、頭の真ん中が光るほどに禿げ上がっており、スーツの襟には弁護士のバッヂが光っている。真面目そうな印象よりも、ギラギラと光る目の奥に、どこかしたたかさを感じさせるような人物だった。

「こいつは驚いた……ただの与太話だと思ってたが、ほんとにお嬢ちゃんが生きてたとはなあ」

 弁護士らしき男は飲みかけのコーヒーを置いて立ち上がり、めぐみに近づいてまじまじと姿を見る。

「あの、私の知り合いの方でしょうか?」

 どこかいやらしい視線に後ずさりながら、めぐみは訊ねる。

「記憶喪失ってのも本当らしいや。俺の顔を忘れるとは、おじさん悲しいなあ」

 大げさに落ち込む仕草をして、弁護士らしき男は肩を落とす。そこへ誠がめぐみと入れ替わって話しかけた。

「私は今回の雨宮家に関わる事件を調査している者で、八房誠と言います。あなたは?」

 そう訊ねる誠に対し、弁護士らしき男は手のひらを上に向け、親指と人差し指で輪っかを作る。

「俺ぁタダで話はしない主義でねえ。出すもの出せば、色々と教えてやらんでもないぜ?」

 きっぱりと言い放つ彼に対し、誠は目を丸くしながらも、仕方なく懐から取り出した数枚の一万円札を手渡す。すると弁護士らしき男は急に笑顔になり、腰を低くする。

「おっと、こりゃ挨拶が遅れましたな。私は権田という者で、八房家の顧問弁護士をしとります」
「今日はどういった用件でここへ?」
「そりゃもちろん、雨宮家の問題に関する相談事ですわな。しかしまあ、辰也坊ちゃんの件もあるし、この家はどうなっちまったんだか」
「権田さんは雨宮家について詳しいので?」
「一年前に死んだ辰蔵とは、若い頃からの遊び仲間でね。若い頃は色々と博打や悪さもしたもんだよ。弁護士になってからは、あいつの尻拭いも何度したか数え切れないくらいだ。それが恩も返さないうちに、あっけなく逝っちまいやがって」
「それじゃあ今日ここへ来たのは、達夫さんに呼ばれたからですか」
「ええ、まあ。遺産の相続とか色々とねえ」

 そう言うと権田は急にあたりを気にし始め、声の調子を落として続ける。

「続きが聞きたきゃもう一声。分かるだろ?」
「お金に困ってるようには見えませんけどね」
「ビジネスだよビジネス。おめぇは初対面の人間から、他所様ん家のあられもない事情を聞きだそうってんだぞ? それなりの誠意ってもんを示すには、これしかねえだろうよ」
「……あんた本当に弁護士ですか? やれやれ、仕方ない」

 さらに数枚ほど一万円札を渡すと、権田はそれを無造作にポケットに押し込んでニヤリと笑う。呆れる一方で、こういう金で動く人間は、ある意味では信用できることも誠はよく分かっていた。

「辰蔵が死んで、あいつの会社は婿の達夫のものになった。それだけでもう、死ぬまで遊んでも使い切れない金が転がり込んでくるってのに、なぜか達夫は雨宮家の正統な後釜に座りたいらしいんだよ。辰蔵の遺産はお嬢ちゃんたちが相続してるわけだしな。いまさら家の名前にこだわる必要なんか無さそうなもんだけどなあ」
「雨宮家の一員と認められるには、何か条件があるんですか?」
「なんでも雨宮家の当主となる人物には、代々伝わる印だか証が必要なんだと。辰蔵が死んだ後になってそれが分かったんだが、そいつの在処が不明らしくてなあ。達夫はそれを見つけ出そうと、あれこれ動き回ってたぜ」

 意外な話が聞けたことに少し驚きつつ、誠はもうひとつ聞き出せないか試してみた。

「ところで権田さん、雨宮家に詳しいのなら、辰巳くんについても聞かせてもらえますか?」
「ああ、小さい方の坊ちゃんか。じゃあこれだけでいいぜ」

 指を三本立てて突き出す権田に、誠は重ねた三枚の一万円札を手渡す。達夫からもらった資金がなければ、思わぬ赤字を被るところだったと誠は苦笑した。

「ひっひっひ、まいどあり。あの小さい坊ちゃんについてだが、お嬢ちゃんと一緒なら気をつけた方がいいぜ。普段は大人しくしてるが、頭に血が上ると何をしでかすかわからねえトコがあるんだよ。何年前だか、お嬢ちゃんが都会から来たチンピラに絡まれてな。一緒にいた辰巳坊ちゃんはまだ小学生だったが、お嬢ちゃんが突き飛ばされて怪我をしたのに逆上して、そいつの太ももに小刀を刺して、危うく死にかけるような怪我を負わせちまったのさ。あん時は揉み消すのが大変だったもんだ」
「そいつは穏やかじゃありませんね。私も気を付けるとしますよ。では、そろそろこの辺で……」
「ちょっと待ちな。あんたの金払いの良さに免じて特別サービスだ。もうひとつ聞いてけ」
「ほほう、どんな話でしょう?」
「辰蔵は事故で死ぬ直前、急に遺書を残したいって俺のとこに相談に来てなあ。で、遺産の取り分とか色々と決めた後に、こんなことも書き加えてたのさ。婿の達夫が使える奴だから、自分が万が一の場合は達夫に事業を任せるってよ。辰蔵の奴、酒が入ると達夫が本当の息子みたいに思えてならねえってよく呟いてて、ずいぶんな入れ込みようだったが……その直後に本当に死んじまうなんてなあ。どうもタイミングが良すぎる気がしてならんのさ」
「この話は達夫さんにしたんですか?」
「いいや。あいつは無駄話は嫌いだとか言って、なかなかこっちの話を聞かないんだ。ま、わざわざ伝える話でもないからな。ただのボヤキだと思って聞き流してくれてもいいぞ」
「いえ、貴重な話が聞けて助かりました。ありがとうございます」
「ま、せいぜい気をつけな若いの」

 話を終え、誠はめぐみを連れて屋敷の二階へ向かう。今のうちに確かめておきたいことがあったからだ。二人が足を止めたのは、辰巳の部屋の前だった。

「あの、誠さん。どうしてここに?」
「その答えはすぐに分かりますよ。さあ、入りましょう」

 辰巳の部屋のドアに鍵はかかっておらず、二人はそっと部屋に足を踏み入れた。部屋の中に辰巳がいる様子はなく、見た目も以前見た時とほとんど変わらない。誠はすぐに本棚や机を調べ始め、勉強机の横にあるチェストの前で足を止めた。美しい木目と深みのある茶色が特徴的な硬い木材で作られ、細かい細工と模様が彫られたチェストは、ひと目で高級品だと分かる。チェストには大きな引き出しが上下に二段あり、両方とも鍵穴が付いている。試しに誠が引き出しを動かそうとしたが、施錠されていてびくともしない。

「どれどれ、このくらいなら……むんっ」

 誠は鍵穴に左手を触れ、右手で印を作ると呪文を唱え始めた。すると鍵穴から小さな金属音が聞こえ、誠がもう一度引き出しを引っ張ってみると、するすると手前に動いてきた。

「わっ、すごい! 鍵が開いちゃった」
「複雑な鍵では、こう楽にはいきませんがね。さて、何が出てくるやら」

 誠はまず上段の引き出しを調べた。中には大きなアルバムが数冊と茶封筒がひとつ、それから薬品らしきものが入った茶色の小瓶が入っていた。まずアルバムを手に取って開いてみると、めぐみが写っている写真だけが何枚も貼り付けられていた。幼い頃の写真もあったが、大半を占めていたのは隠し撮りをしたと思われるようなものばかりである。中には下着姿や寝顔を撮影したものまであり、次もその次のページも、どこを見てもめぐみの写真だけがびっしりと貼り付けられていた。

「こ、これ、全部私の……!? ど、どうしてこんな写真がいっぱい」
「どうやら辰巳君は、ご自慢のカメラでこれを撮り続けていたようですね。見たところ何年も前から」

 写真の内容と枚数を見るだけでも、辰巳がめぐみに対して常軌を逸した感情を抱いていたのは想像に難くない。誠はアルバムを閉じると、横にある封筒を手に取った。中身は写真が数枚ほど入っているだけだったが、そこに映っていたのは、いずれも殺害された辰也の仲間であり、全員の顔には赤いマジックでバツ印が描かれている。

(たまたま持っていた、というわけじゃなさそうだな)

 封筒を元に戻し、続いて隣に置いてある茶色の小瓶に手を伸ばす。外からはよく見えないが、瓶の中身は液体ではなく、軟膏のようなものであると分かった。用心しながら瓶の蓋をほんの少し開けてみると、覚えのある甘い匂いが鼻を突いた。わずかに嗅いだだけだったが、それだけでも気分がぼんやりとして、意識が鈍ってしまいそうになる。

(間違いない、殺害現場で漂っていた匂いと同じだ。あの二人が裏で繋がっていたという証拠が手に入ったな)

 誠はすぐに瓶の蓋を閉じて手元に置くと、続けて下段の引き出しを開けた。そこには十本以上のナイフが整然と並べられており、そのうち三本ほどが持ち出された形跡があった。そして並んでいるナイフのうちいくつかは、辰也の仲間二人を殺害したものとまったく同じ形状をしている。今まで点と点でしかなかった出来事が、誠の中で全て繋がっていく。

「残念ながら、全て私の推測通りだったようです。後は持ち主が戻ってくるのを待って話を聞きましょう」

 それから二十分ほど経った頃、辰巳が部屋へと戻ってきた。ドアを開けて部屋に入った辰巳は、誠と開かれたチェストを見た途端、普段の大人しそうな顔つきから、一気に驚きと焦りに満ちた顔へと変貌していく。

「お、お前、なんで……!?」
「やあ辰巳くん。ちょうど君のことを話していたところだったんだよ」
「引き出しの中を見たのかッ!」
「いやあ、よく撮れてたねえあの写真。だが、いくら家族でもお姉さんのプライベートは尊重するべきだ」
「黙れ! それ以上喋ったら……!」

 辰巳は殺気を滲ませた目で誠を睨みながら、片から下げている鞄に片手を突っ込む。誠にはそれが、隠しているナイフを取り出す仕草なのはすぐに分かった。

「ああ、やめた方がいいと思うがね。一度私を殺し損ねた君に、二度目はもう無いと言っておこう」

 その言葉に目を丸くして驚いたのはめぐみだった。

「こ、殺し損ねたって、そんな……!?」
「残念ながら事実です。昨日私を刺した人物は、辰巳くんでした。おそらく――」

 言いながら誠は、手近に置いていた茶色の小瓶をつまんで見せながら続ける。

「この薬が放つ匂いには、人間の意識や感覚を狂わせる強い作用がある。辰巳くんはこの薬の性質を利用して私の背後に近づき、そしてグサリとやったわけです。湖畔で死亡していた辰也さんの仲間も、同じような手口で殺害されたのでしょう」
「そんな、どうして……」
「その理由は本人に答えてもらうとしましょうか」

 誠はそういうと、平然とした様子で辰巳の方へと近づいていく。辰巳は鞄に手を突っ込んだまま後ずさるが、顔色ひとつ変えずに近づいてくる誠に恐怖を感じたのか、とうとう鞄の中から手を出して身構える。その手には鈍く光るナイフが握られていた。

「く、来るな! お前さえいなければ、今頃は……!」
「全て予定通り、邪魔者はみんな消えて気兼ねなく過ごせていたかい?」
「っ……!?」
「だが、そうは問屋が卸さないってのが世の中ってものだ。観念して洗いざらい喋ってもらおうか」
「う、うるさいっ!」

 追い詰められた辰巳は、ナイフを腰に構えて突進してきた。単純に振り回すのとは訳が違い、確かな殺意を込めたやり方である。誠は素早く斜め前方に踏み込み、紙一重でその突進を避けると、すかさず彼の首筋に手刀を打ち下ろす。

「うっ!?」

 首筋への衝撃と同時に頭を揺らされ、辰巳はそのまま前のめりに倒れ込む。誠はすかさず彼の手からナイフをもぎ取って放り投げると、そのまま腕の関節を極めながら、身動きが取れないように押さえ込んだ。

「私の友人には日本刀を振り回すような奴もいるんでね。あいつとの稽古に比べたら、このくらいは甘い甘い」
「くそっ、放せ!」
「それでは最初の質問といこう。辰也さんの仲間を殺害したのは君だな?」
「……」

 辰巳はしばらく無言で顔を背けていたが、どう足掻いても誠を跳ね除けられないと悟ってか、やがてうわごとのように話し始めた。

「姉さんの葬式があった日、奴らが姉さんを突き落としたって話を聞いたんだ。あんなクズたちのせいで姉さんが死んだなんて、どうしても許せなかった……」
「だが、あの犯行は君一人じゃ無理だ。そもそも人間にやれることじゃない。君に手を貸していたのは、蒲生桂子だな?」
「そうさ。あの女は死んだはずの姉さんを僕の前に連れてきて、こう言ったんだ。この薬の匂いを相手に嗅がせれば、なんでも思い通りに出来るから、憎いやつらに復讐しろって。だから思い知らせてやったんだ!」
「そして君は、蘇っためぐみさんが彼らを殺害したかのように現場を装った。死んだはずの人間を裁く法律などありはしないからな。だが、何かの手違いでめぐみさんは君から離れてしまい、それを私が偶然見つけて保護したというわけか。めぐみさんを失った怒りや悲しみは分からないでもないが、そのせいで彼女がどれだけ苦しんだか分かっているのか?」
「知ってるさ。姉さんにはもうどこにも行き場なんてない。だから僕と一緒にいるしかないんだ。僕だけが姉さんを分かってあげられる……僕はずっと昔から姉さんだけを――!」

 身勝手な言い分を並べて喚く辰巳に対し、誠は怒りを抑えつつ言う。

「辰巳くん。君は越えてはならない一線を越えてしまった。そのツケを払う覚悟だけはしておくことだ。さて、もうひとつの質問をさせてもらおう。蒲生桂子は今どこにいる?」
「……!」

 桂子の居場所を訊ねた途端、辰巳の表情が強張って口をつぐむ。

「黙っていたらずっとこの格好のままで過ごすことになるんだが、それでもいいのかい? 私は平気だが」
「……言えない。言っちゃいけない契約になってるんだ」
「契約? まさか君は、妖怪と取り引きをしてしまったのか!?」

 誠が驚くのと同時に、辰巳は突然苦しみ始め、息を詰まらせて悶え始めた。

「うぐっ……ど、して……僕は何も……がは……ッ!」

 辰巳は両目を大きく見開いた後、口を大きく開けて痙攣を始めた。やがて喉の奥から白くて丸いものが出てきたかと思うと、それはふわふわと中を浮かび、尾を引いて部屋の外へ飛び去っていく。それきり辰巳はぐったりとしたまま、まったく動かなくなった。妖怪と契約を交わした人間は、代償として自分の魂を要求されるのが常である。辰巳もまた用済みと見なされ、魂を抜き取られたに違いないと誠は直感した。

「ま、誠さん、今のって……!」
「ええ、さっき出て行ったのは彼の魂です。急いで後を追わなくては!」

 二人は辰巳の魂の後を追いかけて部屋を飛び出す。魂は廊下を真っ直ぐ進み、階段を下ってさらに細い通路の先へと進んで行く。その先には暗くて狭い下りの階段があり、降りた先には閉じられた扉がある。魂はその扉を通り抜け、向こう側へと消えてしまった。騒ぎに気付いて顔を出した佐竹に訊ねると、この扉の先は倉庫になっていて、古いワインや道具などがしまってあるのだという。佐竹に鍵を借りて扉を開けると、暗い倉庫の奥でぼんやりと青白い光が漏れている。それを見た瞬間、誠の体をある感覚が貫いた。

(なんてことだ、屋敷の足元が異界に繋がっていたのか!)

 異界とは普通の空間と裏表のように存在する場所であり、妖怪を初めとするこの世ならざる者たちの住処でもある。普通は異界がこちらの世界と繋がることはないが、強い妖力を持つ妖怪などは、空間の壁をこじ開けて異界への穴を開き、自由に行き来することができる。この異界を使えば、神出鬼没に現れては消えていためぐみの目撃情報にも納得がいく。異界が放つ独特の空気や妖気を感じられなかったのも、それを作り出した妖怪が巧妙にカモフラージュしていたのであろうが、誠が気付かないほどの偽装を行うとなれば、相手の実力も相当なものである。誠は振り返り、めぐみを扉の外に戻して言った。

「この先は、普通の人間が足を踏み入れてはならない場所。ここから先は私が一人で追いかけましょう。めぐみさんは佐竹さんと一緒に待っていてください」
「で、でも一人で大丈夫なんですか?」
「万が一のつもりでしたが、すでに応援を呼んでいます。もうじき到着するはずですが、信用できる私の仲間ですよ。私が戻らない場合、彼らの言うとおりにすれば間違いはありません」

 誠は不安そうなめぐみに言い聞かせ、単身倉庫の奥へ乗り込んでいく。本来コンクリートで作られているであろう壁には立ったまま通り抜けられるほどの大穴が開き、その奥に洞窟がどこまでも続いている。洞窟の中は壁も天井も水が滴っており、所々の岩場に光る苔のようなものが生えており、照明が不要なほど明るい。洞窟は所々枝分かれしていたが、中央の一番大きな通路の奥から、かすかに甘ったるいあの匂いが漂ってきて鼻につく。

(方角からして、この洞窟は湖の底を通っているようだな。ここが湖のあちこちに繋がっているとすれば、辰巳くんがめぐみさんを連れて殺害現場に現れ、そして人知れず姿を消していたのも説明がつく)

 考えながら十分ほど歩き続けると、広く開けた空間に出た。天井は高く鍾乳石がいくつもぶら下がっており、地面の半分ほどは底が見えないほど深そうな地底湖だった。人や妖怪の気配は感じられないが、水中から異様な雰囲気がするのを感じて、誠は慎重に湖面を覗き込む。

「こ、これは……ッ!?」

 誠が目にしたのは、ゼリー状の物質に包まれた大量の魂だった。ひとつひとつがそれぞれバレーボール大の塊となっていて、その中で魂が悶えるように動いている。ざっと見渡しただけでも、百に近い数である。閉じ込められた魂は時折、生前の顔を映し出して息苦しそうな表情を浮かべていたが、その中には辰也やその仲間の三人のそれも含まれていた。

「こんなに多くの魂が……誰がこんなことを」
「ふふふ、もちろん私よ」
「!?」

 いつの間にか背後に女が立っていた。確かめるまでもなく、蒲生桂子の声である。誠は反射的に飛び退くが、桂子は彼を気にする様子もなく、ただその場に立って薄笑いを浮かべるだけである。そして彼女の左手には、辰巳のものと思われる魂が囚われていた。桂子は魂を手のひらで転がすようにしながら、粘つくような視線を誠に向ける。

「どう、綺麗でしょ? どんな醜い人間も、こうなってしまえばみんな愛おしいものよ……うふふふ」

 桂子はおよそ人間のものとは思えない笑みを浮かべると、辰巳の魂を一口で飲み込んでしまった。満足げな表情を浮かべ、妖しく舌なめずりをする桂子の姿に、誠は得体の知れない怪物の影を見た気がした。

「留置場で辰也さんを殺害したのもお前の仕業だな。あの時警察署には辰巳くんがいた。彼に薬を持って行かせ、それを使って妖術を仕掛けたってのが真相だろう」
「あら、よく気が付くわね。相手を呪い殺すのも色々と準備が必要なのよ。それよりもあなた、あの傷でよく生きていたものね。人間も意外としぶといじゃない」

 桂子はまるで他人事といった風に、マニキュアを塗った爪を眺めながら、手のひらをくるくると回して眺めている。

「これほど底の知れない邪悪さを感じたのは初めてだ。妖怪め、正体を見せろ!」
「イヤよ。私はこの格好が気に入ってるんだから」
「ならば力ずくで調伏するのみ!」

 左手に数珠を巻き付け、右手に錫杖を構えて踏み込もうとした矢先、洞窟の空気を引き裂くような乾いた音が響き、足元の小石が砕け散る。そのまま音のした方に目を向けると、壁際に何者かが立っているのが見えた。

「彼女に手を出してもらっては困る」

 そう言って暗がりから姿を現したのは、拳銃を構えた達夫であった。相変わらずのスーツ姿だが、両手には白い手袋をし、いつも以上に事務的で無機質な印象を受ける顔つきをしていた。およそ三、四メートルという距離まで近づくと、達夫は拳銃を向けたまま足を止めた。

「雨宮達夫……やっぱりこの事件に絡んでいたのか。だがこの女の正体をあんたは知っているのか? この蒲生桂子という女は、ただの人間ではないんだぞ!」
「確かにこの女は普通と違う。しかし彼女の正体が何だろうと、私には関係ないな」
「ついさっき、辰巳くんが死んだ。それがこの女の仕業でもか?」
「当然だ。あれは私が頼んだのだからな。用済みになった物は処分する。当然の成り行きだろう」

 平然と言い放つ達夫に、誠は怒りを込めた視線を向ける。

「辰巳くん一人だけで、あれだけの事件を起こせるはずがないと思っていたが……つまりあの殺人事件は、あんたが裏で絵を描いていたわけだ。辰巳くんに復讐を行わせて、自分は影で涼しい顔をしていたのか」
「復讐か。あいつはその復讐とやらに燃えていたようだが、私は違う。辰巳も含め、雨宮家の人間には全員消えてもらう予定だった」
「なにっ!?」
「辰也が借金で首が回らなくなったのも、あいつの仲間を買収してギャンブル漬けになるよう、私が仕向けたからだ。借金の取立てに追い詰められた辰也が、めぐみを死なせてしまったのは誤算だったがな。しかしそのおかげで、連中の始末を辰巳にやってもらう口実も出来た。憎しみに燃えている彼に話を持ちかけたら、喜んで引き受けてくれたよ、くくく……」
「くっ、なんて奴だ。それでも人間か!」

 語気を強める誠の足元に、二発目の銃弾が撃ち込まれる。一発目とほとんど変わらない場所に命中した痕が、達夫の腕が素人ではないことを物語っている。言葉を詰まらせる誠の心臓に狙いを定めながら、達夫は相変わらずのポーカーフェイスで言う。

「念のため聞いておこう。お前は雨宮家の後継者が持つ印のことを知っているか?」
「……さあね、初耳だよ」
「雨宮家には、代々伝わる秘宝があるという。遙か昔から、雨宮家はそれを守り続け、秘宝を手にするための鍵……すなわち後継者の印を持つ者が、雨宮の名を受け継いできたのだ」
「辰也さんも辰巳くんも死んでしまった今、雨宮家はもうあんたの思い通りだ。今さらそんなものを欲しがる必要はないんじゃないのかね」
「勘違いしているようだが、私は雨宮家を手に入れたいわけでなない。後継者の印が欲しいのは、その秘宝とやらを始末して、雨宮家という存在をこの世から完全に消し去るためだ」
「……!」
「雨宮辰蔵は、強引すぎるやり方で自分の会社を成長させ、莫大な資産を築いた男だった。だが、その影で奴に苦しめられ、踏みにじられた人間の数は数え切れない。中には全てを奪われ、自ら命を絶つ者も大勢いた。私の母もそうだったのさ」

 達夫からは表情が消え去り、無機質な機械のように語り始める。

「今から三十年ほど前のある夜……当時二十五歳だった雨宮辰蔵は、酒に酔って一人の女を乱暴した。たまたま近くを通りかかっただけの、なんの落ち度も無い若い女だった。さらに運の悪いことに、彼女は事故のようなそれで妊娠してしまったのだ。普通ならそんな子供は堕ろすものだが、妊娠に気付くのが遅れたこと、そして宿ってしまった子供に罪は無いと、周囲の反対を押し切って彼女は出産した。だが、不幸はそれで終わらなかった。彼女の両親が詐欺に遭い、経営していた小さな部品工場と財産の全てを失うことになってしまった。その詐欺を裏で仕組んでいたのは、他でもない雨宮辰蔵だったんだよ。奴は立ち上げたばかりの会社を大きくするため、暴力団とつるんで地上げをやっていたんだ。全財産を失い、女の父親は自殺……母も後を追うように死んでしまった。家族を破滅に追い込んだのが、かつて自分を辱めた男だと知ったとき、女は誓った。どんな手を使ってでも、雨宮家に復讐するとな。そして彼女は自分の息子を、そのための道具として育て上げた。それが私なのだ」

 恐るべき事実を語る達夫の両目には、深い闇がどこまでも広がっているようだった。

「な、なんだと……あ、あんたは雨宮辰蔵の血を分けた息子だったというのか」
「奴は死ぬまで、その事実を知らないままだったがな。腕ひとつでのしあがった資産家といえど、死ぬときはあっけないもんだ」
「もしや、雨宮辰蔵が死んだ一年前の事故も!」
「そうだ。辰蔵の車に例の薬を仕込み、眠ったままあの世へ直行してもらった。苦しまずに死ねただけ感謝してもらいたいくらいだ」
「だが、雨宮辰蔵への復讐が狙いだったのなら、そいつはもう果たされただろう。なぜ雨宮家にこだわる?」
「母は私に自分の復讐をさせたがっていたが、私は正直どうでもよかった。必死に勉強して大学を卒業し、自分の会社を立ち上げて大きくすることも出来た。それで私は満足だったのに、辰蔵は私の前に現れた。私と会社の話を聞きつけ、買収して抱き込むためにな。その時まで、私は辰蔵の名前など忘れていたというのに……運命というものは、まったく因果なものだ」

 その時、達夫の身体にまとわり付く、影のようなものが浮かび上がる。それは彼の背後から首に腕を絡み付けた、どす黒い亡者のような姿をしていた。それも一人ではなく、無数に分裂して膨れ上がったり縮んだりを繰り返す、おぞましいものだった。誠はそれが、辰蔵によって無念の死を遂げた人々の怨念が寄り集まったものだと理解した。

「ある酒の席で辰蔵は言ったよ。この世の中、食い物にされる奴が悪い。弱い連中の泣き言など知ったことじゃないとな。しかもそればかりか、辰蔵は私の会社を買収する手土産として、自分の娘との縁談を強引に決めてしまった。そう、めぐみとの結婚をだ。腹違いとはいえ、よりによって妹と結婚しろとは、とんだ笑い話じゃないか。これで分かっただろう。雨宮家とは、私にとって呪いそのもの。雨宮家という存在をこの世から消さない限り、私は永遠に解放されないんだよ!」
「達夫さん、あんたには同情する部分もあるが、だからといって何をしても許されるわけじゃない。それはあんたにも分かっていたはずだ」
「もう遅い。このおぞましい血の因縁は、私自身の手でカタを付ける。お前などに邪魔はさせん」

 そう言って拳銃の引き金を引こうとする達夫に先回りするように、誠はすかさず訊ねる。

「なるほど、ここまでの話でようやく合点がいったよ。事故で死んだはずのめぐみさんが生き返ったのは、秘宝を見つけるために、あんたらがやった事だったんだな」
「ふっ、そういうことだ。雨宮辰蔵は生前、すでに後継者の印をめぐみに譲っていた。ところがめぐみ自身は、いくら聞いても身に覚えがないと言うばかりでな。どうにかして在処を聞き出そうとしていた矢先に、あの事故だ。印の在処は闇に葬られたかと思っていたが、桂子が不思議な術を使って生き返らせたのだ。この目で見るまでは、私も信じられなかったがな。火葬されたのは、桂子がどこかから持ってきた別人の死体だ」
(妙だな。秘宝を自分の手で始末したいのはともかく、桂子がそれに手を貸す理由は何だ? 人間の魂を喰らう妖怪が、単なる物探しのためにめぐみさんを生き返らせたとは思えない。となれば、秘法を欲しがっているのは……)

 そう考えた途端、嫌な予感が誠の胸中をよぎる。誠は悟られないように足先を少しずつ動かすと、わずかな動きで小石を蹴飛ばした。それはさしたる勢いにはならなかったが、意表を突くには充分だった。拳銃を握る手に小石が当たった瞬間、達夫の注意がわずかに逸れる。そのチャンスを逃さず、誠は一直線に踏み込んで錫杖を振り上げた。同時に乾いた銃声が洞窟内に響き渡るが、弾丸は誠の袖をわずかにかすめただけだった。達夫の拳銃は錫杖の先端で弾き飛ばされ、地底湖に落ちて沈んで行く。

「くっ……!」
「あいにくだが、こういうのは慣れてるんでね」

 錫杖を構え直しながら誠が言うと、達夫は動揺の色を浮かべながら後ずさる。その間に割って入るように、桂子が薄笑いを浮かべながら立ち塞がった。

「社長、どうやらあまりのんびりしている時間は無さそうですわ。ここは私に任せて、彼女から印の在処を」
「ああ、頼んだぞ」

 達夫は桂子を残し、誠を迂回しながら走り去っていく。彼の足音が小さくなっていくのと対照的に、桂子が放つ妖気はぐんぐん膨れ上がっていく。

「ふふふ、これで二人きりね。今度は生き返らないように首をもいで、内臓も引きずり出しておかなくちゃ」
「綺麗な顔でおっかないことを言ってくれる。だが、そう簡単に行くかな?」

 誠は素早くお札を投げつけるが、桂子は見た目からは想像もできないほどの高い跳躍でそれを避ける。続けて二枚、三枚とお札を投げつけたが、やはり素早い跳躍で避けられてしまう。五メートルほど離れた場所に着地すると、桂子は髪を掻きあげながら言う。

「そんなもの、いくら投げつけても無駄よ。私を捕まえたいのなら、もっと素早く動くことね。こんな風に」

 そう語る桂子の唇が大きな弧を描いたと思った刹那、何かが目にも留まらぬ速さで飛んできた。回避が間に合わず左腕で防御したが、粘っこい縄のようなものが腕に絡みついたと思った瞬間、誠の体は足元から根こそぎ引き抜かれるように投げ飛ばされ、地面に叩きつけられた。

「ぐはっ……!?」
「ああ、いい声。もっと聞かせて頂戴」

 桂子は赤い唇を舐めながら、恍惚の表情を浮かべる。そして再び、目で追えないほど速い何かが誠の足を捕らえ、誠を持ち上げて地面に叩き付けた。

「がはっ!」

 全身がバラバラになりそうな衝撃に、誠は苦悶の声を漏らすのがやっとである。桂子は倒れたままの誠を見下ろし、ヒールを鳴らしてゆっくり近づいてくる。

「たったこれだけで死にそうになるなんて、みっともないわね。威勢がいいのは口先だけなの? 私に指一本触れることも出来ないなんて」
「な、仲間からもよく言われるよ。お前はのやりかたは回りくどいって」
「意味が分からないわね。あなたがやった事と言えば、のろまな動きでお札を投げただけじゃない」
「ああ、その通りだとも。だから後は待つだけだった。油断しきったお前が、そこに立ってくれるのをな」
「……!?」

 桂子が顔を上げて周囲を見渡すと、彼女の四方を囲む岩や地面に、誠が投げたお札が貼り付いている。それに気付くや否や、桂子の体は強力な結界によって金縛りに遭い、身動きが取れなくなった。

「こ、この結界……なんて強力な……ッ!」
「私は無駄撃ちをしない主義でね。さっきのお札は最初からこいつを狙っていたんだよ」
「ぐっ、こ、このペテン師……!」

 誠は錫杖を支えにして立ち上がると、桂子に向かって印を結び真言を唱える。

「我が法力を味わうがいい。インダラヤ・ソワカ!」

 雷を司る雷帝(インドラ)の真言が響き渡った瞬間、身動きの取れない桂子の身体を、強烈な電撃が貫いた。

「ぎゃあああああーーーーッ!?」
 
 桂子の悲鳴と共に、洞窟全体を照らすほどの閃光と轟音が炸裂し、周囲に砕けた石や砂が飛び散った。天井に届くほど舞い上がった砂煙が徐々に晴れていくと、体中が焼け焦げてしまった桂子が、立ったままうなだれていた。結界のお札が電撃の余波を受けて燃え尽きると、桂子はその場に崩れるように座り込んだ。電撃の威力は凄まじく、桂子の身体はところどころ肉が削げ落ちて骨が見える程で、決して軽くないダメージを与えたのは間違いない。

「文字通り骨身に染みたようだな。恐ろしく素早い身のこなしだったが、こうなっては無理だろう。観念するんだな」
「う……ふふ、ふふふ……よくもやってくれたわね……」

 ゆっくりと持ち上がってくる桂子の顔はひどく焼け崩れ、半分の皮膚が焼け落ちて頭蓋骨が露出してしまっていた。しかし桂子はぞっとするような薄気味の悪い笑みを浮かべて立ち上がると、不安定な足取りで地底湖へと向かい、そのまま倒れ込んで水の中に落ちてしまった。そのまま桂子は浮かんでこなかったが、水面に立った波紋が消えて静寂を取り戻したかと思ったその時、水中から強い妖気が湧き上がっているのを感じて誠は戦慄した。

「……!」

 水の底から、大きな泡が次々と浮かんでゴボゴボと大きな音を立て始める。泡の勢いは次第に強くなり、突如として巨大な水柱が出現したかと思うと、その中から桂子が姿を現した。水面に立つ桂子は相変わらずボロボロだったが、崩れかけた顔を歪ませて右手をゆっくり振り上げた。間もなく水中から、辰也の顔を映し出した魂が音もなく浮上し、桂子の手に収まる。桂子は上を向いて口を大きく開けると、喉を鳴らしながらその魂をひと口で飲み込む。すると、崩れかかっていた身体が、みるみる元通りになっていく。しかもただ回復するばかりではなく、桂子が放つ妖気の波動は、さらに強くなっていた。

「傷が一瞬で……!」
「残念だったわねボウヤ。私は不死身なのよ。誰も私を殺すことは出来ないわ」
「そうか、水中にあった人間の魂は、このために集めていたのか!」
「人間の魂さえあれば、私はこの美しい姿のまま永遠に生きられるの。ふふふ、素敵でしょう?」
「ああ、言葉も出ないくらいの悪夢だよ」
「それじゃ、さっきのお礼をしてあげなくちゃね」

 桂子の髪の毛が逆立ち、妖気が膨れ上がった次の瞬間、彼女の背後で噴出し続ける水柱から、細長い矢のような形をした水が無数に放たれ、誠の頭上から降り注ぐ。誠はすかさず飛び退いて水の矢を避けたが、水の矢は地面に深く突き刺さると、次々に弾け飛んで大きな穴を開けていく。飛び散る破片と飛沫で視界を奪われたその一瞬、両膝を抱えたような姿勢で跳躍した桂子が目前に迫っていた。桂子は全身のバネを解き放ち、両足で誠を蹴り飛ばす。華奢な見た目と裏腹にその衝撃は凄まじく、誠は自動車に跳ね飛ばされたかと錯覚するほどの勢いで地面を転がった。桂子は蹴りの反動を利用して、音もなく水面に降り立つ。

「な、なんて重い蹴りだ……!」

 やっとの思いで顔を上げた誠だったが、奇妙な気配を感じて地底湖に目をやる。水面には桂子の姿は映っておらず、代わりに幅四メートルはあろうかという、得体の知れない巨大な影が水中に潜んでいるのが見えた。

(あれが奴の本体か。だがこのまま戦い続けても、すぐに回復されてしまっては勝ち目はないな。となれば――)

 正面からぶつかる不利を悟った誠は、次の手を打つべく印を結ぶ。すると誠の体から閃光が生じ、洞窟全体が真っ白になるほどの光が溢れ出した。

「うっ……!?」

 視界を奪われた桂子は、両目を押さえてうめき声を上げる。しばらくして光が消え去った後、そこに誠の姿は影も形も無くなり、遠ざかっていく足音だけが響いていた。

「やってくれるじゃない。だけど簡単に逃げられると思ったら大間違いよ、ボウヤ!」

 桂子の両目が不気味に輝くのと同時に、地底湖の水面が大きく盛り上がり、ぬめぬめとした表面をした塊のようなものが姿を現した。それは地響きを起こしながら、洞窟の出口へ向けて動き出した。




「――はあはあ、ひとまずあの化け物は後回しにして、達夫を追わなくては。雨宮家の秘宝とやら、どうも悪い予感がする……!」

 誠は息を切らして走りつつ、通路の分かれ道に差し掛かるごとにお札をひとつ、壁に貼り付けていく。それは気配まで似せた分身を作り出すもので、後を追ってくる桂子の目を欺いて時間を稼ぐための仕掛けであった。しばらく走り続けると、湿っぽい洞窟の匂いが徐々に変わってゆき、外の空気が流れ込んでくるのが分かった。そのまま一気に駆け抜けると、誠は雨宮家の地下室に飛び出していた。地下室を抜けて階段を上ると、佐竹がうつぶせに床に倒れていた。

「佐竹さん、どうしました!?」
「うう……」

 幸い彼は気を失っていただけで、目立つような怪我はしていなかった。

「じ、実は先ほど、地下室から達夫様が現れまして。いきなりめぐみ様に拳銃を向けて付いて来いとおっしゃったのです。私は乱暴はいけないと言ったのですが、殴られてしまい……」
「そうでしたか。それで二人はどこへ?」
「気を失う間際、達夫様が無理やり腕を引いて、二階へ向かうのを見ました」
「分かりました。詳しいことは後で説明しますが、ここは危険です。ひとまずここを離れ、安全な場所へ避難してください」
「は、はい。お二人のこと、よろしく頼みます」

 佐竹に肩を貸して屋敷の外へ連れ出すと、急いで屋敷の二階へと駆け上る。長い廊下に出るとめぐみの部屋のドアが開けられ、中から物をひっくり返すような音が聞こえてきた。気付かれないようにそっと部屋を覗くと、達夫が部屋のクローゼットや戸棚を開け、何かを探している。

「どこだ! お前が辰蔵から受け継いだものがあるはず。それを思い出すんだ!」

 普段の表情少ない顔とは一変し、達夫は眉間に皺を寄せて怒鳴っている。彼の近くでは、髪が乱れためぐみが床に座り込んだままうなだれている。はっきりとは見えなかったが、一度か二度は殴られたらしい。こみ上げる怒りを抑えながら、誠は飛び出すチャンスを窺う。

「くそっ、後継者の印というのはどこにあるんだ!」

 引き出しを床に投げ出して中身を散乱させる達夫を、めぐみは悲しそうに見つめながら言う。

「どうしてこんな……私たち、夫婦だったんじゃないんですか?」
「書類の上ではな。だが私は、お前を妻と思ったことなどない」
「ひ、ひどい。じゃあどうして結婚なんか」
「全てはお前の父親が決めたことだ。文句ならあの世で辰蔵に言え」

 人の情というものを感じられない言葉に傷つき、めぐみはただ悲しげな顔をしてうなだれるのみである。直後、達夫が投げ捨てた木箱が床に落ち、めぐみの目の前に転がった。ぶつかった拍子に蓋がわずかに外れ、中身の赤い物がわずかに見えている。めぐみは木箱に手を伸ばして拾い上げると、蓋を開けて中身を取り出す。それは古びた赤い手毬で、色褪せ方を見てもかなり年季が入っている。めぐみは両手で鞠を持ち上げてじっと眺めていたが、やがて小さな声で手毬歌を歌い始めた。

「記憶が戻ったのか!?」

 駆け寄ってくる達夫には答えず、めぐみはじっと手毬を見つめる。

「懐かしいなあ。ずっと昔、幼い頃こんな歌を……」

 達夫はしばらく黙って手毬に視線を落としていたが、急に笑みを浮かべてその手毬を奪い取った。

「あっ……!」
「そういうことか。ただの玩具だとばかり思っていたが、親から子へ受け継がれるものといえば納得も出来る。こいつがそうだったのか」

 手毬に意識が向いたその瞬間を見逃さず、誠は一気に部屋に駆け込む。達夫とめぐみの間に身を滑り込ませ、錫杖を逆袈裟に振り上げる。めぐみの安全を優先したため、間合いが遠く空振りしてしまったが、牽制には充分だった。達夫は驚いて後ずさるが、その手にはしっかりと手毬が握られたままである。

「貴様、なぜここにいる。桂子はどうした!」
「しつこい女は苦手でね、さっさと逃げてきたよ」
「くっ、だが必要な物は手に入った。お前たちの相手をしてる暇はない」

 達夫がいきなり拳銃を撃ち、誠はとっさにめぐみをかばうようにして身を屈める。幸い弾丸は逸れて壁に当たっただけで済んだが、その間に達夫は部屋から抜け出し走り去ってしまった。

「すみません、戻るのが遅くなってしまって。怪我はありませんか」

 誠は身体を起こして呼びかけるが、めぐみは気力を失ったように座り込んだまま、うつろな表情で呟き始めた。

「私、思い出したんです。夫に必要とされないのは、どこか自分に悪いところがあるんだと思って、家事や料理も一所懸命に頑張りました。けれど、返ってくるのはあの冷たい眼差しだけ。どうすることも出来なくなって、この部屋でただ過ごすだけの毎日に、いつも押し潰されそうでした。あの日……崖から落ちて溺れたあの時、本当に怖くて苦しかったけど、心のどこかでこう思っていたんです。やっと楽になれる、もう寂しい思いをしなくて済むんだ、って。それなのに、どうして私は……」

 止め処なく溢れる涙と嗚咽を漏らし、悲しみに暮れるめぐみを、誠は静かに抱きしめた。

「しっかりなさい。気持ちは分かるが、あなたは雨宮家の人間として、この事件を最後まで見届けなければいけない。それが残された者の役目というものです」
「だけど私、つらいの。つらくて、もう耐えられないんです……」
「めぐみさん、そのままで聞いて欲しい。かつて私も、あなたと同じ気持ちだった。ただ生きているだけで、家族を危険に晒してしまう。それを分かっていながら、自ら命を絶つことも出来なかった臆病者……これが本当の私なんですよ」
「誠さん……」
「だが、一人きりになって見えてきたこともある。生まれた環境や運命は選べないが、どう生きるかは自分の意思で決められるはず。ここで立ち止まってしまっては、あなたの心は永遠に救われない。それとも、ここで諦めますか?」

 めぐみはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと首を振る。

「助けて……誠さん」

 涙をポロポロとこぼしながら答えためぐみの背中をさすってやりながら、誠は深く頷いて身体を離す。

「さあ、立って。達夫を追いましょう」

 誠に手を引かれ、めぐみは涙を拭いて立ち上がる。今の彼女にとって、繋いだこの手だけが支えに違いあるまい。そう思い、誠はめぐみの手をしっかりと握りながら部屋を飛び出した。そのまま二人で屋敷の外に出ると、裏手にある湖へ向かう達夫の姿が見えた。

「くっ、まずい!」

 急いで後を追うも、湖の底から強い妖気の塊が浮上してくる気配がしたかと思うと、水面が不自然に盛り上がり、その上に桂子が姿を現していた。桂子は水の上を当然のように歩きながら岸辺の達夫に近づき、彼が持つ古い手毬を見て満足げに笑みを浮かべる。

「ついに見つけたぞ。これこそが代々、雨宮家に受け継がれてきた印に間違いないはずだ」
「ふふふ、ご立派ですわ社長」
「これをどうすればいい?」
「お任せください」

 桂子は受け取った手毬に油のような液体をふりかけ、ライターで火を点けた。手毬はすぐさま燃え上がり、炎に包まれて地面に落ちた手毬は真っ黒に焦げていく。やがて火が消えた後に残ったその灰を突き崩すと、中から白蛇が巻き付いた装飾がされた、古い鍵が出てきた。達夫はそれを拾い上げ、不思議そうに眺めた。

「これは……妙な形をしているが、どこの鍵だ?」
「案内しますわ」

 桂子は達夫の手を引き、そのまま水面を滑るように移動していく。二人が向かったのは、蛇神が祭られている社がある方角である。誠は嫌な胸騒ぎが強くなるのを感じつつ、蛇神の社へと急ぐ。社の手前に差し掛かると、石を積んで作られた社の土台に向かって、達夫が大きなハンマーを振り下ろしているのが見えた。止めさせようと踏み出したその時、どこからともなく霧のようなものが漂ってきたかと思うと、それはひとつに集まって桂子の姿へと変わり、誠たちの前に立ち塞がる。

「ここから先は行かせないわよ。大人しく見てなさい」
「あいにくだが、目の前で罰当たりな真似をされて、黙ってるわけにはいかんのでね」

 誠が錫杖を握り締めて踏み込もうとした瞬間、先手を打つように桂子が動いた。桂子の髪が風もなく逆立つと、周囲にピンク色の霧のようなものが噴き出し、覚えのある甘ったるい匂いが周囲に広がっていく。誠はすかさず袖で口元を覆ってそれを防ぐが、わずかに吸い込んだだけでも視界が揺らぐ。すぐに解毒の真言を唱えて防御するが、突然背後から首を絞められて誠は呻いた。

「っ……!?」

 後ろから誠の喉元へ腕を伸ばしていたのはめぐみだった。彼女の顔はうなだれたままで見えないが、女性の細腕とは思えない強い力で、誠の首を締め上げてくる。すかさず足の力を抜いて身を屈め、体重と勢いを利用してめぐみの腕から抜け出すと、素早く間合いを取って身構えた。

「めぐみさん、どうしたんです!」
「……」

 めぐみは答えず、ゆっくりと誠の方へ顔を向けた。その瞳からは光が消え、焦点が定まっていないにも関わらず、真っ直ぐ誠に向かって近づいてくる。

(操られているのか……!)

 状況を悟り睨みつける誠に、桂子は不敵な笑みを浮かべて返す。

「その娘は私が生き返らせたんだもの。これくらい当然でしょ」
「くっ、卑怯な!」
「洞窟でおちょくってくれた礼よ。しばらく二人で遊んでなさい」

 めぐみの動作は大した脅威にはならないが、下手に取り押さえようとすれば、自分の身体が傷付くことも構わず抵抗する可能性がある。迂闊に手を出せず、誠は距離を取って逃げ回る事しか出来なかった。そうしているうちに、社の土台を打ち崩していた達也が、何かを見つけてしゃがみ込む。崩れた石の中から出てきたのは金属製の箱で、およそ三十センチ四方くらいの大きさがある。箱は頑丈に作られていて、素手ではびくともしそうにないが、小さな穴がひとつだけ空いている。達也が穴に白蛇の鍵を差し込むと、ガチャリと音がして箱の一部が浮き上がる。達夫が力を込めて箱を開くと、宝玉に白い蛇が絡み付いたような形をした物が入っていた。宝玉の大きさは握りこぶしほどだが、ほぼ黒に近い深い青色で、引き込まれそうな輝きを放っている。

「ついに見つけたぞ。こいつが……!」

 達夫は宝玉を両手で取り出し、頭上に掲げて笑みを浮かべる。

「それが存在し続ける以上、雨宮の名を継ぐ者が現れることでしょう。さあ社長、自らの手で決着を」

 ねっとりとまとわり付くような桂子の言葉に促され、達夫は宝玉を足元に叩き付けた。鋭い音と共に宝玉は砕け、絡み付いていた白蛇の台座も割れて崩れ落ちた。

「これで雨宮家もお終いというわけだ。勝った、ついに勝ったぞ。はは、はははは……!」

 達夫の笑い声が響く中、砕けた宝玉からどす黒いもやのようなものが噴き出し、あたりに立ち込めていく。にわかに周囲が夜のように暗くなったかと思うと、立ち込めた黒いもやは一斉に動き出し、湖のほとりめがけて移動していく。そのまま黒いもやは水中へと吸い込まれて消えたが、その直後に水面が激しくざわめき、水中から見上げるほど巨大な物体が姿を現した。

「な、なんだこいつは!?」

 驚きに目を見開く達夫の声に反応し、それはゆっくりと頭を動かす。それは体中にびっしりとイボがついた、山のように巨大なヒキガエルの化物――大蝦蟇――であった。大蝦蟇の背中には、ゼリー状の物質で出来た透明な球が無数にくっついており、その中に悶え苦しむ人間の魂が閉じ込められているのが見えた。

「フフフ、感謝しますわ社長。あなたのおかげでようやく、奪われた妖力を取り戻すことが出来たんですもの。ああ、最高の気分だわ」

 いつのまにか達夫の目の前に、桂子が立っていた。彼女が妖しい目つきで達夫を見つめると、達夫は全身から汗を噴き出しながらも、その場から一歩も動けなくなっていた。

「う、奪われたとか妖力とか、なんのことだ。そんな話は聞いてないぞ」
「そういえば言ってませんでしたわね。今から三百年ほど前、土地神と人間が手を組んで、私の妖力を取り上げてしまったの。私はなんとか生き延びたけど、それから屈辱の年月を耐え抜いてきたわ……少しずつ、少しずつ力を蓄え、湖で死んだ人間の魂を集めて、ようやく分身を自由に動かせるまでになった。それから奪われた妖力の在処を探したけど、私には手が出せない場所に封印されてしまっていた。だから人間の手を借りることにしたのよ。それが社長、あなただったというわけ」
「ば、馬鹿な! それでは、お前は最初から私を――」

 達夫が言い終わるよりも早く、彼の上半身に粘つく大きな舌が貼り付いた。目にも留まらぬ速さだった。

「……!?」

 達夫は声すら出せずにもがいていたが、すぐに両手をだらりとぶら下げて動かなくなってしまった。彼に貼り付いていた舌がゆっくり離れると、粘液にまみれた球のようなものが達夫の体から引きずり出されてくる。巨大な舌はそれを絡め取ると、舌を縮めてひと呑みにしてしまう。

「ああ、たまらないわ。穢れた人間の魂は、最高の美味。それを味わう瞬間こそ最高の快楽なのよ……憎たらしい雨宮家の人間もみんな始末してくれて、本当に役に立ってくれたわ。後は私の中で、ゆっくり養分におなりなさい。フフ、ウフフフフ……!」

 勝ち誇った笑いを浮かべる桂子の横で、達夫の体は糸が切れたように崩れ落ちる。桂子はくるりと振り返り、操られためぐみに手を焼いている誠の方を見た。

「さあ、次はあなたの番よ、フフフ」
「長い時を経て妖力を得た蝦蟇は、人の魂を抜き取ると聞いたが……まさしくその通りだったようだな」
「妖力を取り戻した今、もう恐れるものはないわ。私の怖さをたっぷり味わってから死になさいな」

 桂子が指を鳴らすと、めぐみはぴたりと動きを止めた後によろめいた。誠はすかさず身体を受け止めて支えるが、めぐみは気を失ってしまっていた。彼女を近くの木陰に隠すように移動させると、誠は一気に駆け出して雑木林を突っ切り、屋敷のすぐ近くの開けた場所まで飛び出した。

「ここで相手をしてやる。いざ!」

 身構える誠の目の前に、雑木林を飛び越えた大蝦蟇が振ってきた。その着地と同時に強い衝撃が地面に走り、周囲の地面に大きな穴が開いてしまうほどである。大蝦蟇の頭上には桂子が乗っているのが見えたが、その下半身は大蝦蟇と同化して繋がっている。誠は素早く印を結び、雷撃の真言を唱える。空を引き裂く雷が大蝦蟇に直撃したが、大蝦蟇は身じろぎもせず、頭から出っ張った両目で、平然と誠を見下ろしている。

「なにっ……!?」

 よく見ると大蝦蟇の体の表面には油が滲み出ており、それが電撃を逸らしたばかりでなく、身体に取り込んでさらに妖気を増していた。

「無駄よ。同じ術が二度通じるとでも思ってたの?」
「そいつは恐れ入った。それじゃこいつはどうかな。あまねく風よ、風天の名の元に吹き荒れよ! ナウマク・サマンダ・ボダナン・バヤベイ・ソワカ!」

 誠が真言を唱え素早く印を切ると、突風が巻き起こって竜巻となり、大蝦蟇めがけて吹き荒れた。激しい風の渦は周囲の石や草木を巻き込み、それら全てを引き裂いてしまうほどの威力である。大蝦蟇は竜巻に呑まれて姿が見えなくなったが、次第に風の勢いが弱まっていき、岩石の如き大蝦蟇が、何事もなかったかのように姿を現した。竜巻はさっきの電気と同じように大蝦蟇の体表を滑って、まるで打撃を受けていない様子であった。大蝦蟇は口を大きく開いて息を吸い込み始め、竜巻を全て飲み込んでしまった。

「くそっ、また吸収されたか!」
「人間にしてはそこそこ使えるみたいだけど、所詮はお遊びみたいなものね。術ってのはこう使うのよ!」

 大蝦蟇が口を閉じ、もう一度開いたその瞬間、口の中から猛烈な突風と電撃が逆流して襲い掛かった。

「うわあああっ!」

 自分で放った術の威力を、誠は文字通り身をもって味わった。術を吸収するばかりか、二つ同時に跳ね返してくるなど、普通では到底ありえないような離れ業である。術や霊力、妖力のコントロールに関しては、相手のほうが一枚も二枚も上手だと認めざるを得なかった。

「ぐは……っ!」
「ふふふ、みっともない姿。術で私に挑もうなんて、六百年早いのよ」
「六……百年だと?」
「そうよ。私は六百年もの昔から、この湖の底で不老不死の研究を続けてきたわ。人間の魂をただ食らうだけじゃなく、秘めた力を効率よく扱うためにね。死者を蘇らせて意のままに操るなんて、私にとっては造作もないこと。そして研究の過程で、あらゆる術への抵抗力も手に入れたわ。妖力を取り戻した今、私は限りなく不老不死に近づいた。ちょっと術が使えたところで、人間のボウヤに勝ち目なんてないのよ」

 法力などの術を頼みに妖怪と戦う誠にとって、その言葉は死の宣告に等しいものである。法力を取り上げられた誠に残っている物といえば、自分の肉体と錫杖くらいである。それだけで大蝦蟇と渡り合えるはずもなく、誠は確実に追い詰められていた。

「やれやれ。こんなことなら、体術をもっと磨いておくべきだった。今後の課題だなこりゃ」
「バカねえ。次なんかあるわけないでしょ。これから魂を抜き取られておしまいなんだから」
「悪いが、性悪ガマ女にくれてやる物など持ち合わせておらん。諦めてもらおうか」
「あら、つれない返事だこと。だったら力ずくで奪ってあげるわ!」

 大蝦蟇は大木のような前足を振り上げ、誠の頭上に振り下ろす。動きはそれほど速くないため、回避は容易であったが、前足が地面に叩きつけられた瞬間、地響きが辺りに広がる。その場から素早く飛び退いた誠だったが、着地して身構える間もなく、弾丸のような勢いで大蝦蟇の舌が飛んできて身体に直撃した。すかさず錫杖で身を守りはしたものの、芯に響く重い衝撃に貫かれて誠は吹き飛び、仰向けに倒れ込んでうめき声を上げた。

(や、やはり速すぎる。舌のスピードだけなら、いつぞやの鬼神並みだ。おまけに術は跳ね返されるし、他にどんな妖術を隠しているか見当も付かん。思った以上に厄介だぞこいつは)

 錫杖にしがみ付きながら立ち上がる誠の背後で、土を踏む音がした。

「珍しいな。お前がここまでやられるとは」

 振り返った先に立っていたのは、袴姿に日本刀を携えた筆塚草一郎と、すずりを連れた真澄であった。

「はは、来てくれたか草一郎。すまんが手を貸してくれ」
「ああ。湖に近づいただけで分かるほどの凄まじい妖気だ。こいつ、並の妖怪ではないな」

 草一郎は刀を鞘から抜き、切っ先を桂子へ向けて相手の姿を正面に捉える。そのすぐ後ろで真澄が合図をすると、すずりは赤い筆に変化して彼女の手に収まる。

「あら、お友達を呼んでたの。それにしても、二人とも活きのいい魂の持ち主だこと。これだけ霊力を高め練り上げてる人間は、なかなか出会えないのよ。それが三人も揃うなんて、私の復活に相応しい生贄だわ」

 桂子――と、その下腹部に繋がる巨大な蝦蟇の本体――は、低い姿勢を取って巨体を沈み込ませると、強靭な後ろ足で地面を蹴り、地面が爆発したかのような轟音と共に飛び掛ってきた。

「むっ……!」
「きゃあっ!?」

 身体の大きさからは到底想像も出来ない速度に驚き、草一郎も真澄も避けるだけで精一杯だった。大蝦蟇は体勢を崩し座り込んだ真澄の方に顔を向けると、頭から飛び出した両目でその姿を捉える。その瞬間、草一郎は真っ先に飛び出し、真澄の腕を掴んで引っ張る。その直後、真澄がいた場所に大蝦蟇の舌が伸びて地面を抉っていた。

「あ、危なかった……ありがとう草一郎さん」
「気を引き締めろ。こいつは思った以上に手強い。少しでも油断すれば食われるぞ」

 草一郎は真澄を後ろに下がらせ、大蝦蟇に向かって身構えた。

「俺が相手になってやる。もう一度かかって来い」
「ずいぶん自信があるようね。それじゃ――」

 言い終わる前に、大蝦蟇の口から弾丸のような速度で舌が飛び出した。常人なら身動きすら取れない速さだったが、草一郎はわずかな気配の動きを敏感に察知し、一瞬だけ先に動いていた。舌の先が草一郎の顔面に迫った刹那、何かが空を裂く音が響いた。

「……!?」

 直後、大蝦蟇の舌は左右に切り裂かれ、粘っこい音を立てて地面に落ちた。草一郎の刀が、目にも留まらぬ速度で大蝦蟇の舌を斬っていたのだ。しかもそれだけでなく、舌の裂け目は一直線に伸び続け、ついには大蝦蟇の頭部と、そこに繋がっている桂子の身体までもを真っ二つにしてしまった。裂け目から血を噴き出し、驚きの視線を向ける大蝦蟇を見上げ、草一郎は言った。

「霊力の刃を放ち、間合いの離れた相手を斬る。かつて戦った強敵から学んだ技だ。まだ未完成だが、効き目はあったようだな」

 刀を構えたまま、草一郎はじっと様子を見ていたが、間もなく大蝦蟇の身体が動き出した。

「フフフ、ちょっぴり驚いたわ。でも、この程度じゃ無駄よ」

 そう言った直後に噴き出していた血がぴたりと止まり、半分に分かれた身体は互いに近づき、元通りにくっついていく。

「そこのボウヤにも話したけど、私は不死身なのよ。どんな術や技を使おうと、私を殺すことは出来ないわ」

 身体が元通りにくっついた途端、大蝦蟇は伸びたままの舌を振り回し、草一郎の胴体を横なぎにした。咄嗟に横へ飛んで勢いを殺したものの、草一郎は脇腹を押さえて表情を歪める。

「くっ……」
「気をつけろ草一郎、奴の言ってることは本当だ。あいつはどんな傷でも一瞬で回復してしまう。おまけに私の術も通じなくてね、正直まいってた所なんだ」
「どうやら、まともにやり合って勝てる相手では無さそうだな。弱点はないのか?」
「奴が不死身なのは、背中に蓄えた人間の魂を取り込んでいるからだ。あれを切り離す事が出来れば、勝機があるかもしれん」
「分かった。俺は何をすればいい?」
「私が奴の注意を引き付けるから、後は君と真澄さんで上手くやってくれ。頼んだぞ」

 相手に聞こえないよう小声でそう伝えると、誠は汚れた袈裟もそのままに、錫杖を構え直して大蝦蟇を見上げる。

「さて、もう一度ばかり腕比べと行こうか」

 誠は数枚のお札を投げつけると、素早く印を結び呪文を唱える。大蝦蟇の身体に貼り付いたお札からは冷気が噴き出し、皮膚を凍りつかせていく。しかし大蝦蟇が身震いをすると、身体の表面に広がった氷は音を立てて剥がれ、地面に落ちてしまう。

「ふふふ、何をしてくるのかと思えば。こんな程度じゃ、風が撫でたくらいにしか感じないわ」
「そうらしいな、やれやれ」
「それじゃあ次は私の番ね。本物の妖術を思い知るがいいわ!」

 大蝦蟇が前足を踏ん張って口を大きく開くと、口の中に小さな火の玉が現れた。それは人間の背丈よりも大きな火球へと膨れ上がると、誠めがけて吐き出された。火球の速さはさほどでもなかったが、それが地面に落下した直後、空気を揺らすほどの轟音と共に激しい爆発を起こし、周囲が火の海になる程の炎が撒き散らされた。

「うわっ!?」

 あっという間に四方を炎で囲まれ、誠は身動きが取れなくなった。猛烈な熱気に押されながら、誠は妙な臭いが鼻に付くのを感じて足元を見る。すると周囲の地面や草に、ドロッとした液体が付着しているのが目に入る。炎はその表面から勢いよく燃え上がっていた。

(これは油……なるほど蝦蟇の油か。この炎だけじゃなく、人の意識を操るあの薬や霧も、奴が体内で作ったこの油で作っていたんだな。大した効能だ、まったく)

 半ば関心しつつも、誠を取り囲む炎の幅は徐々に縮まっていく。誠はさっき使った、突風を生じる風天の術を足元に放ち、その勢いを利用して空高く跳躍した。そのまま炎を飛び越え、大蝦蟇の頭上にまで達すると、誠はそのまま落下しながら錫杖を振り下ろす。

「覚悟!」

 大蝦蟇は油断していたのか、それとも最初から脅威と感じていないのか、特に取り乱した様子も見せず、顔だけを動かして誠を見上げた。直後、大蝦蟇が口を開くのと同時に、二発目の火球が放たれ、誠は大蝦蟇の眼前で炎に飲み込まれ、そのまま声もなく地面に落下した。

「甘いのよボウヤ。こんな見え透いた手でオンナに触れようだなんて」

 地面に落ちて燃え続ける塊を見下ろしながら、大蝦蟇の頭部に繋がっている桂子が勝ち誇った笑みを浮かべる。だが、それも長くは続かなかった。

「そいつはどうかな?」

 横から突然聞こえてきた声に大蝦蟇が目を向けると、そこには炎に包まれたはずの誠が、何事も無かったかのように平然と立っていた。

「なっ……確かに燃やしたはずなのにッ!」

 大蝦蟇は前足を振り上げ、誠の立つ場所を地面ごとなぎ払う。巨木のような腕の一撃をまともに受けた誠だったが、彼の姿は煙となって瞬く間に消えてしまった。

「こ、これはっ!」
「おっと、どこを向いているんだ? 私はこっちだぞ」

 今度は反対方向から誠の声がする。大蝦蟇が急いで振り返ると、さっきと同じように誠が五体無事のまま、口の端を持ち上げたまま立っている。

「どこを見ている、こっちだこっち」

 それだけでなく、前後左右の至る所から誠の声が聞こえ、その全てにまったく同じ姿をした誠が立っており、周囲を取り囲んでいた。

「ば、馬鹿な、どうやってこんなにたくさんの分身を! そんな暇など無かったはず!」
「やはり長生きしすぎると、物忘れも早くなるようだな。私は無駄撃ちをしない主義だと言ったろう?」

 そう語る分身の一人に、小さな氷の破片がくっついているのを見た時、大蝦蟇は仕掛けの謎を理解した。

「まさか、あの氷の術の時に!?」
「そう、分身のお札も一緒に重ねてあったんだよ。氷を作ったのは、そいつを誤魔化すためさ」
「ふん、小細工を。所詮はただの分身。いくら増えたところで――!」

 大蝦蟇は手当たり次第に周囲の分身に襲い掛かり、次々に分身をかき消していく。ところが分身は煙と消えたかと思えば、さらに分裂して数を増やしていく。それに辟易した大蝦蟇は、分身をまとめて始末せんと、再び大きな口を開けて、大火球を吐き出そうとした。その瞬間、足元の地面が音を立てて盛り上がったかと思うと、爆発のような突風と共に、誠が勢いよく飛び出してきた。

「っ――!?」

 周囲を取り囲む分身、地面に向けて撃たれた風の術――全てはこの瞬間のためだった。炎に囲まれたあの時、誠は風の術を足元に放ったが、分身をジャンプさせる一方で、自分は術で地面に穴を掘って地中に身を潜め、この好機を待っていたのである。 

「もらった!」

 誠は飛び出した勢いのまま大蝦蟇の下顎めがけて錫杖の先端を突き刺した。錫杖は薄い顎の肉を破って口腔に達し、まさに吐き出されようとしていた火球に直撃した。刹那、大火球はその場で爆発を起こし、大蝦蟇の頭部は内側から弾け飛んでしまった。頭部に繋がっている桂子の部分は跡形もなくなり、大蝦蟇は上体を炎と煙に包まれたまま、ピクリとも動かなかった。

「草一郎、真澄さん、今だッ!」

 その合図と共に、距離を取って様子を窺っていた二人が動いた。真澄はすずりが変化した筆を手に大蝦蟇の背中へと回りこむと、人間の魂が一体化している背中に向かって、素早く「分」の文字を書き込む。すると一体化していた人間の魂は、背中の皮膚を引っ張りながら、逃れようとするかのように真上へと浮き上がり始めた。しかし大蝦蟇の皮膚はゴムのように伸びながらも、人間の魂を逃さんとばかりに繋ぎ止めている。

「草一郎さん、あの皮を!」
「ああ、任せろ」

 草一郎は走りながら、刀を逆袈裟に振り抜く。その軌跡は三日月に似た霊力の刃となって放たれ、大蝦蟇の皮を切り裂いた。解き放たれた魂は、透明の泡のように漂いながら浮き上がり、次々に空高くへ上っては消えていく。

「よし、これで奴の不死身もお終いだろう。誠、止めを!」

 草一郎が呼びかけるも、誠は強張った表情のままこう言った。

「待て、様子がおかしい!」

 大蝦蟇の巨体がぐらりと動いたかと思うと、皮膚が破れて露出した背中の肉が、別の生き物のように激しく蠢いた。取り込まれていた魂のほとんどは背中を離れて消えてしまったが、残り三つほどの魂だけは、一部が周囲の肉と同化しかかっており、もがくように動きながらも離れられずにいた。そして地鳴りのような振動と共に、大頭部が砕けたままの大蝦蟇が動き出し、血や肉片を周囲に撒き散らしながら起き上がってきた。驚いたのも束の間、大蝦蟇の背中の肉が無数の触手のように伸び始め、残り三つの魂に絡み付いて、強引に体内へと押し戻していく。それは達夫、辰也、そして辰巳の魂であった。彼らの魂が体内に押し込まれていくと同時に、崩れていた大蝦蟇の身体が毒々しい紫に変色し、別のものへと変化していく。全身の皮膚は岩のように硬質化して盛り上がり、背中や手足には水晶のようなトゲが飛び出して鈍い輝きを放っている。砕けた頭部は内側から盛り上がりながら再生し始めたが、両目は真っ赤な血の色に染まり、さらには鬼のような太い角が二本生えたうえ、口の中には鋭い牙がずらりと並んでいる。その顔つきは怒りを表しているのか、険しく殺気立ったものへと変貌を遂げていた。

(な、なんだこれは……この変わり方は普通じゃない。いくら魂を三つ同時に取り込んだとはいえ――!)

 あまりの変貌ぶりに誠は息を呑むが、それは見た目の話だけではなかった。三人の魂を取り込んだ途端、大蝦蟇は寒気を感じるような禍々しい殺気と威圧感を放ち始めたのである。

「二人とも気をつけろ、妖気の質がさっきとはまるで違う!」

 誠が叫んだ直後、大蝦蟇は牙の生えた口を開き、鼓膜が割れんばかりの咆哮を上げた。三人が思わず耳を塞いで怯んだ一瞬のうちに、大蝦蟇は素早く跳躍し、大木のような両前足を地面に叩きつけてきた。それぞれがすぐに身を引いて直撃を免れはしたものの、大蝦蟇が着地すると、手足や背中に生えた水晶のようなトゲが砕け、一番近くにいた誠に鋭い破片が降り注いだ。破片に触れただけで袈裟はズタズタになり、いくつかは誠の手足や胴にまで達していた。すぐさま後退した誠だが、全身の傷口から血が滴り落ちて足元を赤く染めていく。

「くっ!」

 歯を食いしばる誠を見下ろし、大蝦蟇は恐ろしげな声を発した。

「よくもやってくれたな……ゴミのような人間が!」

 大蝦蟇は猛烈な勢いで突進しながら、火球を連続で吐き出してきた。周囲は一瞬にして火の海となり、誠たちは逃げ場を失ってしまう。だが、大蝦蟇の攻撃はそこで終わらない。四肢を踏ん張って頭を下げると、燃えるような両目のすぐ後ろにある大きな瘤が膨れ上がり、その表面が破れてガスが噴き出した。濃い紫色をしたそのガスは空気より重いらしく、ゆっくりと地面の上を広がっていく。そのガスに触れた植物は一瞬で枯れ果て、地面から這い出してきたガスに包まれた途端に動かなくなり、やがて肉が腐り落ちて崩れて行く。大蝦蟇の周囲にいた無数の分身も、ガスに包み込まれた途端に跡形もなく消滅してしまう。このガスが猛毒であることをすぐに理解した誠だったが、気付くのが一瞬遅かった。

「がは……っ!?」

 誠はガスに包まれはしなかったものの、ほんの一瞬だけ、撫でる程度に触れてしまっていた。咄嗟に身を引いたが、傷口から微量の毒が体内に入ってしまい、全身を内側から焼かれるような激痛に襲われた。たちまち目がくらみ、手足が痺れ意識が朦朧としてくる。誠はその場に膝をつき、苦痛に顔を歪めた。

「くっ……不覚……ぐああああっ!」
「大丈夫か誠、今行くぞ!」

 大蝦蟇を挟んだ向こう側にいる草一郎が異常に気付き駆けつけようとするが、炎と猛毒のガスが壁となり、誠に近づけない。炎を突っ切ろうとする草一郎に、真澄がしがみついて止めていた。

「待って草一郎さん、このまま突っ込んだら死んでしまうわ!」
「だが誠が!」
「分かってます、でもここからじゃ遠すぎて……!」

 必死の思いで草一郎を引き止めた真澄は、筆を使い結界の陣を描き、その中で身を守ることにした。しかし、一歩でも外に出れば炎と猛毒で命を落とすのは目に見えており、身動きが取れない状態であった。

「私を怒らせなければ、楽に死なせてやったものを。そのままもがき苦しんで地獄に落ちるがいい」
「ぐはっ……ゴホ……ッ!」

 咳き込む誠の口元からは血が垂れ、顔面は蒼白となっている。胸を押さえ血を吐く誠は、次第に全ての感覚が無くなっていく。そんな彼の耳に、自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。

「……さん……誠さんっ!」
「う……」

 声がする方に顔を向けると、炎と霞む視界の向こうに、必死で叫ぶめぐみの姿が浮かぶ。誠たちが戦っている途中で目を覚まし、激しい物音を聞いて様子を見に来てしまったのだろう。

「誠さん、大丈夫ですか!?」
「い、いけない、ここに近づいては……毒が……ごふっ!」

 猛毒によって蝕まれた誠の肉体は、すでに限界だった。多量の血を吐き出し、言葉を発することさえ困難になってしまった。ガスは尚も広がり続け、いよいよ誠の目前へと迫っていた。

「どうすればいいの、誰か……!」

 その場でただ祈るしか出来ずにいためぐみの横に、いつの間にか白髪の老婆が立っていた。気配に気付いためぐみが見たのは、片手に杖を付いて立つチヨの姿だった。

「チヨさん!」
「やれやれ、やっぱりこうなっちまうのかい」

 チヨは小さく嘆息しつつ、炎と猛毒のガスを撒き散らす大蝦蟇を睨み付けた。その視線に気付いた大蝦蟇はチヨの方へ巨体を向け、殺気に満ちた真っ赤な両目を向けた。めぐみはそれだけで気が遠くなりそうな悪寒を感じたが、チヨは眉ひとつ動く様子もなく、呆れた様子で言った。

「人間を誑かし、いたずらに命を奪い、借り物の力を振りかざす……三百年前から、ちっとも変わっとらんのう」

 その言葉に、大蝦蟇は嘲笑を含みながら答える。

「ゲッゲッゲッ、ようやく現れたか。あの時の恨みと憎しみ、一日たりとも忘れたことはなかった。今日こそ復讐を果たしてやる」

 大蝦蟇相手に平然と会話をするチヨに驚きながら、めぐみは訊ねた。

「チヨさん、あなたは一体……それに三百年前からって、どういうことなんですか?」
「まあ待て、すぐに分かる。それよりも――」

 言いながらチヨが杖の先で地面を突くと、あたりに突風が巻き起こり、周囲を包む炎や猛毒のガスを一気に吹き飛ばしていく。めぐみは突然の出来事に戸惑いながらも、すぐに誠の元へ駆け寄っていく。しかし誠は呼びかけに応じる体力さえ残っておらず、目に見えて呼吸が弱くなっていく。

「誠さん、返事をして! お願いっ!」

 めぐみは倒れ掛かってきた誠の体を抱き止めたが、徐々に命の灯火が消えていくその感覚が、肌を通じて伝わってくるのを感じていた。

「ああ、そんな……」

 両目にいっぱいの涙を浮かべるめぐみに、チヨは言った。

「めぐみよ、その男を助けたいか?」
「あ、当たり前じゃないですか! 何か方法があるなら、早く……!」
「ただし、それはお前の全てと引き換えじゃ。この男を救えても、お前の魂は再び暗闇の中を彷徨うことになるやもしれん。それでも構わぬという覚悟はあるのか」

 めぐみは息も絶え絶えの誠に視線を落とした後、躊躇うことなく答えた。

「私はの心はずっと、暗く寂しい場所で一人ぼっちでした。そんな私に誠さんは光をくれたんです。だから……だから、今度は私の番です」
「ならば願うがよい、雨宮の血を引く娘よ。真にその者を想う心があれば、そなたの望みは叶えられるじゃろう」

 めぐみは誠の身体を強く抱きしめ、目を閉じる。誠を救いたい――ただその思いだけを、ただ一心に願い続けた。すると不思議な光が辺りを包み、一筋の稲光がめぐみたちの頭上に降り注いだ。だが、不思議と熱や音のない、柔らかな光だった。その光が収まると、誠は目を覚まして顔を上げた。

「これは……何が起きたんだ」

 さっきまでの苦しみが嘘のように消え、それどころか身体の奥から力が湧いてくる。両足に力を込めて立ち上がろうとするが、それと入れ替わるように、自分の身体を抱きしめていためぐみが、力なく倒れ込んだ。すぐに手を伸ばして彼女の身体を受け止めたが、めぐみは気絶している様子で、目を閉じたまま動かなかった。

「めぐみさん!?」
「……」
「こ、この感じ……まさか!?」

 彼女の様子を確かめ、誠ははすぐに直感した。だがそれを確かめる間もなく、目の前にある邪悪な気配を察し、彼女を抱き上げて距離を取る。チヨの傍らまで引いた誠は、めぐみを地面に寝かせ、結界の札を彼女の胸元に貼って立ち上がった。

「チヨさん、あなたが放つその霊気……まったく気付けないとは、私も修行が足りませんでしたよ」
「話は後にせんか。力が満ちているうちに、あの外道に引導を渡して来い」
「……分かりました」

 それ以上は何も言わず、誠は大蝦蟇に向かって歩き出す。猛毒の影響はすでに消え去り、身体中の傷は塞がっている。自分の肉体に起きた変化を確かめながら、誠は思う。

(これが私の運命だというのか。これが……)

 湧き上がる力と、禍々しく変貌した大蝦蟇を見上げながら、誠は感情を押し殺すように唇を噛む。

「小娘め、余計な真似を。だが坊主、これでお前も私と同類になったわけだ。ゲッゲゲゲ!」
「黙れ!」

 誠は大蝦蟇の眼前に立つと、三枚の札を指先に挟んで身構える。

「三枚だ。この三枚の札で決着を付けてやる。来い!」
「ぬかせ、たかが小娘一人の命を取り込んだ程度で!」

 大蝦蟇は口を開き、瞬時に火球を吐き出してきた。身体よりも大きい火球が誠に直撃したかと思われたその時、誠は手にした札の一枚を突き出す。火球は札の力によって軌道を逸らして飛んでいき、後方にある雨宮家の屋敷に直撃して燃え上がった。轟々と燃え上がる屋敷を背に、誠は自分の足にお札を一枚貼り付けると、身を屈めて一気に跳躍し、大蝦蟇の頭部に素早く飛びついた。

「よし――!」

 だが大蝦蟇も、頭に取り付いた誠を振り払おうと腕を伸ばす。誠は這い回るように逃げ回っていたが、やがて頭部の両端にある毒袋が再び膨れ上がり、猛毒のガスを噴き出し始めた。至近距離では逃げ場もなかったが、その様子を見ていたチヨが言う。

「わしがおるのを忘れたか。見境もなく毒を撒き散らしおって」

 怒りをあらわにしたチヨの身体から、突然白い光が天に向かって放たれた。すると瞬く間に空を黒雲が覆い、大粒の雨が降り始めた。雨粒が猛毒のガスに触れると、毒々しい色が消えて中和されていく。さらにチヨが鋭い眼光を放つと、大蝦蟇の身体に巨大な蛇の幻影が巻き付き、その動きを封じ込めた。

「わしに出来るのはこれが精一杯じゃ。後は任せたぞ若いの!」

 チヨの合図で、誠は最後のお札を大蝦蟇の頭に貼り付け、その上から独鈷杵(両端の尖った法具)を突き刺す。それだけで大蝦蟇に打撃を与えることは出来なかったが、誠は突き刺した独鈷所を握り締めたまま、天を仰ぐ。

「おあつらえ向きの空模様だ。最大出力の法力をお見舞いしてやる。くらえ、インダラヤ・ソワカ!」

 誠が真言を唱えた瞬間、頭上の雨雲から大気を引き裂く稲妻が走り、誠が握っている独鈷杵めがけて落ちてきた。今度の稲妻は一瞬だけで終わらず、猛烈な電撃がずっと持続している。誠は自らの霊力で電撃の影響を避けてはいたが、それでも独鈷杵から伝わってくる衝撃や熱は、気を抜いたら自分までも焼き尽くさんばかりの凄まじい威力だった。

「ぬ……うおおおおっ……!」

 だが、一方の大蝦蟇は体表に滲む油によって電撃を逸らしており、やはり術の影響を受けていなかった。

「ハハハ、密着すれば術が効くとでも思ったか。バカな奴め」

 大蝦蟇が不敵に嗤うと、誠の足元がぐにゃぐにゃと変形を始めた。やがて皮膚の一部が泥のように変化すると、そこから三体の泥人形が現れて、誠の手足にしがみついてきた。

「うう、苦しい……苦しいぃぃ」
「ああ……なんで……どうしてこんな……」
「ちくしょう、どうしてだぁぁぁ……お前も来いいぃぃぃ」

 泥人形の頭部に浮かび上がったのは、苦痛に悶える達夫、辰也、そして辰巳の顔だった。彼らは溺れる者のように誠へしがみつき、そのまま足元の泥の中へと引きずり込もうとしてきた。

「そのまま取り込んでやる。じっくりと時間をかけて、私の中で溶けてしまえ」

 誠の手足はすでに半分ほど沈み込んでいたが、誠は電撃を受け続けながらも落ち着き払っている。そして独鈷杵を握る手に力を込め、呟いた。

「言ったはずだ。三枚で決着を付けてやると。最後に残したこの札は、炎熱の符……高熱を発する術札だ」
「なに……?」
「お前の身を守っているのは、この油だ。だったら、そいつをうんと熱すればどうなるかな?」
「ま、まさか……やめ――!?」

 誠が札に念を送り込んだ瞬間、札は周囲の雨が蒸発するほどの熱を放ち、さらに温度を上げていく。やがて大蝦蟇の体表から白煙が上がり始め、とうとう油は発火して燃え上がった。炎はすぐさま全身に広がり、大蝦蟇の身体を覆う油が燃え尽きていく。身を守っていた油を失った途端、大蝦蟇の身体を激しい稲妻が貫いた。

「ギャアアアアアッ! ア……ガ……グアアアッ!」

 凄まじい電撃によって全身が焼け焦げ、大蝦蟇は絶叫を上げた。誠は突き刺さった独鈷杵を尚も放そうとせず、大蝦蟇の身体が灰となって崩れ始めても、まだ手を緩めようとしない。

「馬鹿なッ! これだけの稲妻を浴びて、なぜお前だけ無事でいられるッ!?」
「我が身を守るのは、哀しいまでの純粋な願い……この力は、お前のように奪い取ったのではない。めぐみさんから託されたものだ」
「あの小娘が……生きる気力を失った魂に、こんな力があるなんて、そんな……ッ!」
「私と同じ……いや、それ以上にめぐみさんは孤独だった。それでも、いつか報われる時が来ると、わずかな希望にすがって彼女は耐え続けてきた。その心を踏みにじり、彼女の人生全てを狂わせたお前を……私は断じて許さん!」

 誠は腕に渾身の力を込め、独鈷杵をさらに深くへと食い込ませる。身体の内側を電撃で焼かれ、大蝦蟇は苦悶の絶叫を上げながらのたうち回り暴れたが、誠は決して力を緩めはしなかった。

「滅びる前に答えろ。ただ不老不死を求めるだけなら、他にも方法があったはずだ。お前が研究していたのは、人間の魂を自分と融合させ、飛躍的に力を高める術だった。そう、別物と言えるほどに自分を作り変えてしまうような……違うか?」
「グ……な、なかなか鋭いね……だが、人間がそれを知って……」
「お前のやっていたことは、天地の理に反する邪法だ。なぜこんな研究をしていた!」
「さ、三百年前……ある人間の男がヒントをくれたのさ。魂を上手く扱って取り込めば、世の中をもひっくり返せる存在になれるかもしれないと……だから私は、人間の魂を集めて研究した。結果は想像以上だったよ……中でも我ら妖怪と近い、穢れた魂ほど妖力を高めることが出来たよ……ガハッ!」
「この邪法を考えたのが、三百年前の人間だと……誰だ、そいつの名は!」
「クク……さあね……研究成果を教えたら、どこかに消えたよ……ああ、気が遠く……いやだ、死にたく……な……」

 その言葉を最後に、大蝦蟇は何も喋らなくなった。やがて稲妻が収まると、黒焦げになった大蝦蟇の上から誠は飛び降りた。そこへ、草一郎と真澄も駆け寄ってくる。

「無事だったか誠。しかし一体、何が起こったんだ? 離れていた俺たちにはさっぱりだ」
「あとで話すよ……真澄さん、念のために筆で奴を封じておいてくれませんか」

 真澄は頷き、目の前に横たわる大蝦蟇に向かって筆をなぎ払う。大蝦蟇の身体はドロドロの墨になって溶け出し、その全てが筆先に吸い込まれて消えた。

「よし。後はきちんと供養すれば終わりです」
「ああ、これで二度と蘇ることもあるまい」

 草一郎が頷いているうちに、誠は無言で踵を返し、地面に横たわっためぐみの下へ走っていく。誠が彼女の身体を優しく抱きかかえると、めぐみはゆっくりと目を開いた。

「誠さん……終わったんですね」
「ええ、全て決着が付きましたよ。めぐみさんのおかげです」
「あ……屋敷が……燃えて……」

 燃え続ける屋敷に目をやるめぐみに、誠は頭を下げる。

「申し訳ない。戦いの途中で火が回ってしまいました」
「ううん、いいんです。あの屋敷は……寂しい思い出しかないから」

 ゆらめく炎をじっと眺めながら、めぐみは語り始めた。

「私……昔から自分の気持ちをちゃんと言えませんでした。父が達夫さんとの結婚を決めた時も、彼がどんな人かも知らないのに……父が喜ぶなら、家の役に立つならと思って従いました。でも、それがこんな不幸を招いてしまうなんて。こんな事になるなら、家出してでも断れば良かった。私のせいで、みんな死んでしまった……」
「それは違いますよ。仮に達夫と結婚しなかったとしても、彼は雨宮家への復讐を実行したでしょう。それに御覧なさい」

 誠はめぐみの手を取り、その手のひらを彼女に見せる。

「あなたの手は、こんなにも綺麗だ。どこも汚れちゃいない。だから自分を責める必要など、どこにもないんですよ」
「ありがとう、誠さん。もっと早く、あなたに会いたかったな。そしたら私、ずっと付いて行ってたのに」
「……ええ、私も同じ気持ちですよ」

 誠はめぐみの身体を抱き寄せ、ただじっと彼女の顔を見つめていた。

「ごめんなさい。勝手にこんな事して、怒ってますよね……でも、誠さんを助けたくて、ただ必死で」
「いや……謝らなければならないのは、私の方だ。最初から……こうなることは分かっていた。術で蘇った者は、術者が滅びれば元に戻る。それを知っていながら、ずっと伝えることが出来なかった……すまない」
「ううん、いいんです。なんとなくだけど、そんな予感がしてたから……本当なら、私は誠さんと出会えるはずもなかったんですもの。だから、誠さんの役に立てて嬉しかった」

 だんだんと声が小さくなっていくめぐみは、微笑みを浮かべて言った。

「お願いがあるんです。最後まで……ずっとこのままでいてくれますか?」
「もちろん」
「ふふ、良かった。ああ、あったかいな……誠さん、ありがとう。私の分まで……幸……せ……に……」

 それきり、めぐみは言葉を発しなかった。そのままじっと彼女を抱きしめ続ける誠に、草一郎と真澄が近づく。雨に打たれるままうつむいている誠の前に立った時、二人は少し驚いた顔をした。

「誠、お前……泣いているのか」

 それは生涯で始めて、誠が他人に涙を見せた瞬間だった。

「雨宮の男たちは、誰も彼女を顧みなかった。誰か一人でも彼女への愛情があったなら、こんな結末にはならなかったはずだ。だから一人くらい、彼女のために泣く男がいてもいいだろう」

 割れた眼鏡の奥で、静かに涙が流れ落ちていた。やがて三人の前にチヨが歩み寄って言った。

「坊主よ、良くやったな。これで長きに渡る因縁も終わりを迎えた。もう分かっておろうが、わしは三百年前、大蝦蟇の妖力を封じ込めた白蛇の化身じゃよ。あの時は妖力を取り上げるのが精一杯じゃったが、奴がここまで執念深く復活を目論むとは計算違いじゃった。お前さんには苦労をかけてしまったな」
「いえ、そんなことは。ただ、恐ろしい相手でした……人の魂をこのように扱う輩がいるとは、思いもしませんでした」
「魂を物のように弄んだり、死者を蘇らせるなど、自然の摂理に背く行為よ。そんな方法でいくら力を得ようとも、一歩間違えれば破滅の道を歩むのみ。それが分からぬからあやつは滅んだのじゃ」

 チヨは誠の腕の中で眠るめぐみに目を落とし、皺だらけの顔に残念そうな表情を浮かべる。

「今度の出来事、その娘には気の毒な話じゃった。だが、悔いはないはずじゃ。お前さんへの一途な思いが、奇跡を呼んだのじゃからな」
「やはりチヨさん……蛇神様のおかげでしたか。命を他人に分け与えるなんて、普通の人間に出来ることじゃありませんから」
「この娘の魂は、わしが責任を持って送って行こう。色々とご苦労じゃったな」

 そういうと、チヨは一瞬にして巨大な白蛇へと姿を変えた。白蛇がめぐみに顔を近づけると、彼女の身体から魂が抜け出してくる。めぐみの魂は誠の周りを名残惜しそうに何度も回った後、白蛇と一緒に天高くへ上っていく。その姿が雨雲の向こうに消えると、雲はあっというまに消え失せ、晴れた青空が辺りに広がった。

「終わったな。これからどうするんだ、誠」

 草一郎が訊ねると、誠はめぐみを抱いたまま立ち上がる。晴れた空を見上げた後、大きく息を吸い込んでから言った。

「彼女を葬ってやらなくては。それが終わったら、またいつも通りさ」
「……そうだな。俺も手伝おう」
「私もお手伝いします」

 焼け崩れる雨宮家の屋敷を背に、誠たちは帰って行く。彼らと入れ違いに数台の消防車が駆けつけ、辺りは一時騒然となった。翌日の新聞では、達夫と辰巳の二人は行方不明で、火事に巻き込まれた可能性が高いと報道されていたが、最後まで彼らの遺体が見つかることはなかった。めぐみの亡骸は誠が暮らす朝比奈市の墓地に埋葬されることになり、葬儀が全て終わった数日後、誠は彼女の墓の前で、一人お経を唱えていた。しばらくすると、墓地に草一郎と真澄、その後ろからアイスキャンディーを舐めたすずりが姿を見せ、誠の後ろまでやってきた。草一郎は水桶を、真澄は菊の花束をそれぞれ手にしている。お経が終わると誠は立ち上がり、後ろで待っている三人の方へ振り返る。

「やあ二人とも、来てくれたのか」
「俺たちもいいか?」
「もちろん。めぐみさんも喜ぶ」

 草一郎と真澄は墓に花を供え、火のついた線香を立ててから、両手を合わせてめぐみの冥福を祈る。すずりが水桶の水を墓石にかけるのを真澄が手伝っている間、草一郎は誠の方に顔を向けて話を始めた。

「もう大丈夫なのか」
「なんだ、意外に心配性なんだな草一郎。まだ気にしていたのか」
「今回の事件の直前、お前の弟から八房家の事情を聞いた。誠、お前は自分と彼女の境遇を重ねていたんじゃないのか?」
「あいつめ、余計な事をペラペラと……」
「お前の女遊びについて、俺はもう口を出さん。ある程度は控えてくれれば嬉しいがな。とにかく、一人で思い詰めるなよ」
「分かってるさ。私の命は自分だけのものじゃない。めぐみさんが自分の命を投げ打って、私に教えてくれた。生きろ、と――」

 夏の日差しに照り付けられながら、少し寂しげに誠は笑った。話を続ける二人の横で、すずりはふと頭上に目を向ける。遠く離れた空の上で、若い女と老婆の霊が、自分たちの方を見ているのに気付いたからだ。じっと目を凝らすと、それは並んで立つめぐみとチヨの姿だった。めぐみは誠たちを見つめて優しい笑顔を浮かべていたが、やがてチヨと共に、静かに消えて行った。
 誠は生涯を通して伴侶を持たなかったが、お盆の時期に行うめぐみの墓参りと手厚い供養だけは、一度として欠かすことはなかった。




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