魂筆使い草助外伝

(玄海)



 筆塚草雲と物部道暗が異界の底へと消えた後、玄海は友との別れを悲しむ暇も無く、忙しい日々を過ごしていた。妖怪の群れによって破壊された町の復興や、犠牲となって命を落とした人々の弔いをする毎日を送り、気が付けばあっという間に二ヶ月ほどの時が経っていた。その頃には復興と供養もひと段落し、町も再び平穏を取り戻しつつあった。落ち着いた時間が取れるようになると、玄海は後回しにしていた事を片付けることにした。

「……さて、どうしたものか」

 玄海は自分が暮らす屋敷の一室に立ち、腕組みをしながら呟いた。部屋の中にはさまざまな道具や書物が山と積まれて、部屋の隅に寄せてある木箱の中には、得体の知れない物が入った壷などが詰め込まれている。これらは以前、この部屋で暮らしていた筆塚草雲の持ち物であったが、持ち主を失ったこれらをどう処分すべきか、それが問題だった。蔵に保管しようにも、呪術に関わる道具は取り扱いの分からない物が多く、うかつに触れたり誤った取り扱いをすれば、どんな害が及ぶのか見当も付かない。それに妖怪退治に有益な物であるなら、自分の手元で腐らせてしまうよりは、その道をに明るい人間に任せて役立てるほうがいい。信頼が置け、かつ妖怪退治に明るい者といえば誰が居るか――しばし考え込んでから、玄海は顔を上げた。

「うむ、やはりこれが一番か」

 自室に戻って筆と紙を用意すると、玄海はすらすらと筆を走らせ始める。その傍らには、宇迦之御魂神より預かったすずりの姿もあった。すずりはただ黙って、じっと玄海を見つめている。赤い着物に長い黒髪の娘という姿こそ変わらないが、筆の化身へと転生したすずりは、文字通りに以前とは別人であった。あまり口を開かなくなり、表情もほとんど変わらなくなった。空腹になった時などにそれを伝える程度で、生意気な減らず口や雑談はすっかり聞けなくなっていた。すずりはずっと無言だったが、ふと口を開いて訊ねた。

「それ、なに?」
「見ての通り、手紙を書いているんだ」
「てがみ?」
「ああ。伝えたいことを紙に書いて、それを相手に送り届けてもらう。こうすれば相手と直接会わなくても、用件や自分の気持ちを相手に伝えることができるというわけだ。なかなか便利だろう?」
「ふーん」

 そっけない返事が少し寂しくも感じられたが、玄海はこれも仕方の無いことだと自分に言い聞かせる。

(すずりは生まれ変わったばかりで、まだ心が白紙のような状態なのだ。接し方を間違えれば、歪んでしまうかもしれん。焦らず慎重に付き合っていかねばな)

 玄海は手紙を書き上げると、早速それを馬で送った。手紙は京の都より東へ十里ほどの山里にある、筆塚家へ宛てたものだった。部屋に残された道具の中には、草雲が実家から持ち出した物もいくつかあった。草雲亡き今、それらは持ち主の元へ返すのが道理であるし、仮に受け取りを断られたとしても、処分の方法を教えてもらえば問題はない。筆塚家の人間に連絡を取ることにはいくつか気がかりもあったが、今の自分にはこれが最善だろうと玄海は思った。それから七日ほど過ぎた頃、筆塚家から返事の手紙が届いた。手紙には草雲の最期を知らせてくれたこと、そして持ち出された品の返却の申し出について、丁寧な礼が述べられていた。そして草雲の遺品を受け取るべく、身内の者を梵能寺に向かわせるといった内容が書かれていた。さらに十日ほど経ったある日の午後、旅装束の二人連れが梵能寺の門を叩いた。まだ年若い男女の二人連れであった。一歩前に立つ女性は藤色の、後ろの男は淡い若草色の着物を身に纏っている。玄海が二人を出迎えると、二人は丁寧なお辞儀をし、目深に被っていた傘を脱いだ。玄海はまっすぐな目をした女性の美しさにも目を引かれたが、それ以上に驚いたのは、もう一人が草雲にとてもよく似ていたことだった。女性は深々とお辞儀をし、丁寧な口調で言った。

「筆塚華澄と申します。その節は我が兄、草雲が大変お世話になりました。こちらは末弟の草紫です」

 自己紹介した華澄に続き、草雲によく似た顔つきの草紫もぺこりとお辞儀をする。

「私は玄海。この梵能寺を預かっている者だ。二人とも長旅でさぞ疲れたであろう。まずはゆっくり休まれるがいい」

 玄海は二人を座敷へ案内し、当時まだ貴重品であった茶と菓子を用意して二人をもてなした。

「――それにしても驚いた。さすが兄弟というべきか、よく似ているな」

 言いながら、玄海は草紫をまじまじと眺めた。草紫はまだ少年の面影を残しており、草雲とは別人と分かるのだが、雰囲気や時折見せる表情を見ていると、草雲が帰ってきたのではないかと錯覚しそうになるのである。

「最近じゃ父上にもよく間違われまして」

 と、草紫は陽気に笑いながら答える。一方で姉の華澄はというと、真面目な顔つきのまま表情を崩さずに言った。

「玄海様の便りによれば、兄上は妖怪との戦いで命を落としたとありましたが」
「ああ、残念なことだが」
「私にはまだ信じられません。兄上は我ら兄妹……いえ、筆塚家の中でも抜きん出た才と実力の持ち主でございました。ゆくゆくは筆塚家を背負い、盛り立ててくれると家族の誰もが信じておりましたのに。その兄上が落命したとなれば、相当な出来事があったはず。この地で何があったのか、詳しくお聞かせ願いたく存じます」

 いきなり事の核心を訊ねられ、玄海は返事に窮した。草雲は実家の名誉を取り戻すべく朝比奈の地へ来た。そして将軍の命を受けて妖怪が現れる原因を調査し、結果として町を揺るがすほどの異変を引き起こしてしまった。異変は彼自身が命を賭して始末を付けたものの、これは草雲の招いた不祥事と呼んでも差し支えない話である。遠路はるばる訊ねてきたこの姉弟に、この真実を告げてもよいものかどうか、まだ玄海は決めかねていた。

「……そうしたいのはやまやまだが、話せば長い。まずはゆっくり休んで、旅の疲れを癒されるがいい。詳しいことはそれからお聞かせしよう」

 華澄は少し不満げな顔をしていたが、黙って頷いた。玄海は草紫に目を移すと、微笑を浮かべて言った。

「君を見ていると、本当に草雲が戻ってきたように思えてしまうな。むさくるしい所だが、遠慮はいらん。のんびりしていってくれ」
「ご丁寧にありがたい限りです。実を言うと、けっこうくたびれてたんですよ。姉上が先を急ぐあまり、いくらか無理を重ねたもので」

 悪戯っぽく言う草紫に、華澄は顔を赤らめて「よしなさい」と叱る。ずっと張り詰めていた彼女の表情が変わったのを見て、玄海は内心安堵していた。

「夕飯まではまだ時間がある。その間、草雲の使っていた部屋を見てもらおうと思うのだが」

 そう言って玄海が立ち上がると、華澄は元の真面目な表情に戻って立ち上がる。草紫もすぐに立ち上がった。玄海の後に続いて廊下を歩き、二人は草雲が暮らしていた部屋へと案内された。部屋の窓は全て閉じられ、昼間だというのに薄暗い。玄海が部屋に足を踏み入れ、窓を開けて外の光を取り込んだ時、部屋の中央に浮かび上がったものを見て華澄と草紫は目を見張った。畳の上にはすずりが一人で座っており、まぶしそうに目を細めていた。

「誰、こいつら」

 見慣れない二人を見て、すずりは警戒心を顕わにする。それをなだめるように玄海が間に入り、しゃがみこんですずりに言う。

「この二人は私の知り合いだ。ちょっと用があってな、ここまで来てもらったのだ」
「……ふーん」

 とりあえず理解はした様子だったが、すずりはピリピリとした気配を隠そうともしない。一方の華澄と草紫は、真剣な顔つきになって玄海を呼び、すずりに聞こえないよう小声で訊ねた。

「あの子供……人ではありませんね。なぜここにあのような存在が」

 ひと目ですずりの正体を看破した華澄に驚いている玄海の横で、草紫もやや難しい顔をして呟く。

「確かに人とは違う。けど普通の妖怪とも何かが違っている……玄海さん、これは一体?」

 不思議そうに考え込む華澄と草紫に、やはり草雲の身内だけあって只者ではないのだと、玄海は改めて感じるのだった。

「この娘の名はすずり。素性は察しの通りだが、害はない。すずりについては草雲の事と一緒に話さねばならんのでな。今は気にせず、部屋の中を確かめてくれ」

 すずりのことは気にしつつも、二人は言われるまま部屋に入り、所狭しと置かれた道具を確かめた。

「間違いありません。これは兄上が使っていたものです。この筆も、こちらの茶碗も……ああ」

 草雲の遺品を胸に抱き、華澄は静かに嗚咽を漏らす。彼女の澄んだ両目には、うっすらと涙が滲んでいた。草紫は姉を慰めるように肩に手を置くと、顔を上げて玄海に言う。

「兄上が何も言わずに出て行かれて以来、姉上は誰よりも心を痛めておりました。いずれ便りがあるものと信じておりましたが、それが今生の別れとなってしまうとは」

 草紫は唇を噛み、無念そうにうつむく。玄海も寂しげな表情を浮かべ、言った。

「草雲は良き友だった。私にもっと力があれば、このような結果にならずに済んだかもしれん」
「いえ、玄海様のせいではありませんよ。妖怪を相手とする以上、我々も覚悟は出来ています」
「……すまん」

 草紫の言葉に、玄海は幾分救われた思いで頷く。

「この部屋の道具は、私には使い道がよく分からぬものばかりだ。役立ちそうな物があれば、君たちの好きにしてくれ」

 それから華澄と草紫は部屋の中をしばらく探し回った後、いくつかの書物や草雲の私物を持って座敷に戻った。二人が遺品を手に取りながら肉親を偲んでいるうち、やがて夕暮れが辺りを包み込んだ。玄海とすずり、華澄と草紫の四人で食事を済ませた後、玄海は長い道のりを越えてきた二人のために湯を沸かし、旅の疲れが少しでも癒えるようにともてなした。身体を温め、旅の疲れと汚れを落とした華澄と草紫は、ろうそくの明かりが点けられた座敷で玄海と向き合うと、彼の話に耳を傾けた。

「――この朝比奈の地では、ここ数年ごろから妖怪がやたらに現れるようになっていてな。その数たるや、いくら退治しても間に合わん程だった。この話を知り、己の力を役立てたいとやってきた草雲と私は出会い、友となった。そして御所に現れた怪物を草雲が退治したことで、将軍より直々に妖怪の始末を依頼されることになったのだ」

 二人の黒い瞳が、まっすぐに玄海を見ていた。その眼に宿る光は、草雲と同じように真っ直ぐで、世間の欲や穢れというものに染まっていない。出来るなら、彼女たちにつまらぬ嘘はつきたくないと玄海は思った。

「妖怪が頻繁に出現するのは、この土地に原因があったようだ。草雲はそれを調べていたが……あの日、突如として地の底より妖怪の群れが現れ、地上を覆い尽くさんばかりに溢れ出した。草雲はたった一人で妖怪の群れに立ち向かい、それら全てを祓い清めたが、彼もまた力尽きた……これが草雲の身に起きた事の顛末だ」

 話が終わった後、華澄はじっと彼を見据えながらも、草雲の死という事実にじっと耐えている様子だった。草紫は姉の様子を気遣いながらも、ふと玄海の隣でじっと座り込んでいるすずりに目を向けた。

「ところで玄海様、そちらの子は、兄上とどんな関係が?」

 草紫に訊ねられ、玄海も自分の隣で退屈そうにしているすずりに目をやりながら答えた。

「すずりは身寄りがなく、町でこそ泥のような真似をして暮らしていた娘だった。それを草雲が引き取って、ここで一緒に暮らしていたのだ。すずりという名も、草雲がつけてやったものだ。生意気で気が強く口も悪いが、優しいところもあってな。二人とも本当の家族のようだった」
「そうでしたか。兄上らしいですね」
「ほう、地元でもやはり似たような調子だったのか?」
「はい。怪我をして動けなくなった動物を見つければ、家に連れ帰って元気になるまで面倒を見ていましたし、たとえ小さな虫であっても、無駄な殺生を好んだりはしない人でした。僕も姉上も、そんな兄上の姿を見ながら育ちました」
「そうか。草雲らしい話で安心したよ」
「それで、この子の身に一体何が起きたというのです?」
「……うむ」

 玄海は腕を組み、少し難しい顔をしながら続けた。

「どれほど凄腕であろうとも、たった一人で妖怪の大群を相手に出来るはずもない。すずりは草雲の、そして人々の助けになるのならばと、自ら進んで命を捧げたのだ。その甲斐もあって妖怪は全て祓われ、大地の異変も鎮まった。その後、すずりの犠牲を憐れんだ大地の神の計らいによって、すずりは生まれ変わってここへ戻ってきた。残念ながら、人として過ごしていた頃の出来事は、何も覚えていないが」
「そんなことが……まだ幼子だというのに」

 草紫は言葉を失い、すずりをじっと見つめていた。彼なりにすずりの身の上に同情してくれている事に、玄海は少し安心した気持ちだった。だがその不意を突くように、華澄が問いを投げかけてきた。

「玄海様、つかぬことをお伺いしますがよろしいでしょうか?」
「あ、ああ。言ってくれ」
「兄上が家を出て行かれる際、我が家より持ち出した秘伝書がありました。本来それは、門外不出の禁忌の品……この話に心当たりはございませんでしょうか」

 突然の質問に、玄海は思わず息を呑む。出来れば触れずに済ませたい話だけに、内心では動揺が生まれた。その心を読まれまいと玄海は平静を勤め、静かに首を横に振る。

「いや、分からん。恥ずかしい話だが、私は妖怪退治の術といった類はからっきしなのでな」
「……そうですか、分かりました」
「すまんな、私に言えるのはこれが全てだ」

 語り終える頃には、夜空に月が輝いていた。玄海は寝床を用意した部屋に二人を案内し、自分も寝室に入った。すずりは転生して以来、人間と同じような睡眠は必要なくなったようで、寝ずに夜を明かすことも多かった。居心地がいいのか、過去の記憶がまだどこかに残っているのか、彼女は草雲の部屋で過ごす事を好んだので、玄海もそれを咎めたりはせず、自由にさせていた。やがて夜も更け、皆が寝静まった頃に、屋敷の廊下を歩く人影があった。人影は足音を立てずに進み、そして草雲の部屋の前へ来ると、そっと障子を開ける。部屋に差し込む月明かりに浮かび上がった人影の正体は、華澄だった。周囲の様子を伺いつつ華澄は部屋に足を踏み入れる。部屋の中には誰もいない。華澄は部屋に積み上げられた荷物の前に座り込むと、夢中になって何かを探し始めた。時が経つのも忘れて華澄が部屋の中を探し回っていると、突然背後から呼びかける声があった。

「何してんの?」

 飛び上がりそうになりながら驚いて振り返ると、開けっ放しになった障子の向こうにすずりが立っていた。月明かりに照らされたその姿は青白く輝き、ただならぬ異様な気配を纏っている。すずりは感情の読めない瞳を真っ直ぐに向け、もう一度華澄に言った。

「なあ、ここで何してんの?」
「私は……」

 驚きで声を詰まらせながらも、華澄は向き直って立ち上がると、凛とした態度で答える。しかしすずりは、不快の意思を瞳に色濃く表し始める。それと比例するように、すずりが纏う異様な雰囲気もますます増大していく。それは人ならぬ存在が持つ、妖気に違いなかった。華澄は袖に隠し持っていた呪符を指に挟み、素早く身構えながら険しい表情を浮かべる。

「やはり人に在らぬ妖……あなたは一体何なの」
「気に入らない。オマエの眼……嫌いだ」

 地を這いながら広がっていく冷たい気配に、華澄は嫌な汗を滲ませながらも気丈に答えた。

「私は兄上がここで何をしていたのか知りたいだけ。邪魔をしないで」
「その話は玄海が話してたじゃん。なんで勝手にここへ入り込んでるのさ」
「あの人は何かを隠しています。まだ全てを話していない……ここで何が起こり、どうして兄上が命を落とす事になったのか、私は真実が知りたいの。すずり……あなたは兄上と一緒に暮らしていたのでしょう? 本当は何か覚えているんじゃないの?」
「知らない。ここから出てけ」
「お願い、私はただ兄上の――」
「出てけ!」

 空気を裂くような叫びと共に、異変が起こった。すずりの足元から伸びた影がざわめきながら四方に広がり、それは一瞬にして部屋の中を覆い尽くす。蜘蛛の巣のように張り巡らされた黒い影は、華澄の足首に素早く絡みついてきた。

「か、髪が……!?」

 広がった影の正体は、生き物のようにうねりながら伸び続ける髪の毛だった。髪の毛は意思を持つように動き、華澄の身体を這い上がって巻き付き、ついには顔面を覆い隠そうと迫ってきた。辛うじて自由の利く指先で、華澄はまとわりつく髪の毛に呪札を押し当てる。すると一瞬、火花のような閃光が走り、華澄に巻きつく髪の毛が灰のように散って消えた。自由を取り戻した華澄は新しい呪札を取り出そうとするが、そこへすずりの髪が大きなうねりのようになって押し寄せ、華澄の身体を弾き飛ばした。

「うっ……!」

 身体が叩き付けられた瞬間、大きな音と振動が部屋の外まで鳴り響いた。痛む身体をかばうようにして起き上がろうとしていると、廊下から誰かが走ってくる音が聞こえてきた。

「なんだ今の音は!」

 血相を変えて部屋に飛び込んできたのは玄海だった。彼の後ろには、同じく物音で目覚めたらしい草紫もいた。寒気がするような殺気と、倒れ伏している華澄の姿を目の当たりにし、玄海は慌ててすずりに駆け寄って叫ぶ。

「よせ、すずり! 彼女に手を出してはならん!」
「こいつが勝手に入ってきたんだぞ。オマエ、こいつの肩持つのか?」
「落ち着け、すぐに連れて行く」

 玄海はうつぶせに倒れている華澄に駆け寄って抱き起こし、声をかけた。

「おい、大丈夫か。どこか怪我はしていないか?」

 華澄は片手がやや痛むような仕草をしながらも、こくりと頷く。

「は、はい」
「わけは後で聞く。とにかく今はこの部屋から出るんだ」

 玄海に肩を貸してもらって立ち上がった華澄は、仕方ないといった顔をしながらも、草紫と共に部屋へ戻っていった。玄海は未だに怒りが収まらないすずりに近づくと、膝を曲げて真っ直ぐに大きな瞳を見た。

「ここがお前のお気に入りなのは、よく知っている。だが感情のままに人を傷つけてしまっては、やがて身の破滅を招くことになる。あいつは……そんなことなど望んでおらん」
「あいつって誰のこと? 意味が分かんない」
「頼む、約束してくれ。腹の立つことがあっても、むやみに他人を傷つけたりしないと。お前が人間と共に生きていくのに、最も大切なことだ」
「……わかったよ。なんかシラケちゃったし」

 険しかったすずりの表情は穏やかになり、部屋中に広がっていた髪の毛も、かき消すように無くなって元に戻った。すずりは玄海を部屋の外に押し出すと、障子を閉めて引きこもってしまった。玄海は安堵しつつ、気を取り直して華澄たちの下へ向かった。草紫と一緒に座敷で待っていた華澄と向き合って腰を下ろすと、玄海は率直に訊ねた。

「――それで、草雲の部屋で何をしていたのだ?」
「探し物をしておりました」
「それは昼間に済ませたはず。まだ足りぬものがあるのか?」
「……」
「部屋の荷を引き取ってもらう以上、それ自体は咎めたりはせん。が、夜中に黙って部屋の中を探るというのは感心できんな」

 華澄はしばらく黙り込んでいたが、やがて畳に付くほど深く頭を下げて言った。

「盗人にも等しい所業。到底許されることではありません。今この場で手討ちにされたとて、それも仕方のないこと。ですが……その前にどうしてもお聞きしたいことがごさいます」
「物騒なことを言うな。で、聞きたいことというのは何だ?」
「兄上が命を落とす事になった、本当の理由をお聞かせください。私は偽りのない事実を知りたいのです」

 痛いところを突かれた、と玄海は思った。全てを見透かされていたうえ、これだけの覚悟を示されては誤魔化しにくい。しかし根負けして真相を語ってしまえば、落胆はさらに大きくなるだろう。ここで応じるわけにはいかなかった。

「真実もなにも、昼間に話した通りだ。あれ以外には何も知らんぞ」

 その言葉を聞くや、華澄は顔を上げて背筋を伸ばすと、じっと玄海を見据えてきっぱりと言った。

「兄上は考えもなしに突飛な行動をする人ではありませんでした。私たち家族に黙って里を出たのも、きっと考えがあってのこと。ですが玄海様の話を聞く限りでは、兄上がこの朝比奈の地のために、命を投げ打つほどの義理や理由があったとは思えません。きっと何かがあったはず……兄上が命を捨てねばならぬほどの、重大な何かが。なぜお隠しになるのです」

 返事に窮して黙り込んでいた玄海に助け舟を出したのは、華澄の横で話を聞いていた草紫だった。

「まあまあ姉上。仮に我々の知らない事実があったとして、玄海様は意地悪でそうしているのではなく、言えない事情がある……そうではありませんか?」

 目配せする草紫と視線を合わせたものの、玄海は口をつぐんだまま黙っている。しかし草紫にはそれで十分だったらしく、わずかに微笑んだ顔で華澄に顔を向けた。

「兄上のことは確かに気になりますが、玄海様にもご都合があるのでしょう。色々とお世話になっている以上、これ以上の文句は言えませんよ」

 釈然としない様子の華澄だったが、草紫と玄海の顔を交互に見た後、静かに眼を伏せる。やがてゆっくりその眼を開くと、意を決した表情で彼女は言う。

「分かりました。それならば玄海様が本当の事を話す気になるまで、私もここに留まらせていただきます」
「なっ、なにっ!?」
「もちろんその間、玄海様の身の回りのお世話は私が引き受けます。これでよろしいでしょうか」
「よろしいでしょうか、ではないだろう。なぜそういう話になるんだ。第一、嫁入り前の娘がずっと帰らぬのでは、実家の身内も心配されるだろう」
「私にも意地というものがございます。どうしても嫌だとおっしゃるのなら――!」

 華澄は懐から短刀を取り出し、それを玄海に握らせて自分の首筋に添える。髪が鼻にかかるほど近い距離でいい匂いがしたが、今の玄海はそれどころではなかった。

「うわっ!? 馬鹿な真似はやめろ!」
「いいえ、やめません。兄上が命を落とした真相も分からず、どうして両親に顔を合わせることが出来ましょうか。おめおめと恥を晒しに戻るくらいなら、いっそこのままっ」
「わかった! わかったから手を離せ! このままでは話も出来んだろうっ!」

 その言葉を聞くと、華澄は両手に込めていた力を抜き、短刀を鞘に納めて引き下がる。疲れたように天井を仰ぐ玄海だったが、ふと顔を下ろしてみると、華澄の隣で草紫が何故か嬉しそうな顔をしている。

「いやあ、とんでもないことになってしまいましたね玄海様。でも姉上がそうするなら、僕も残らなければいけませんね」
「なにっ、お前もか!?」
「だって、姉上を一人残して戻るわけにはいかないじゃないですか。いやーまいったなあ」

 まいったと言いながらも、草紫の顔は何故か嬉しそうである。華澄は弟の緩んだ顔に鋭い眼差しを向けると、きっぱりと言い放つ。

「なりません。これは私の身勝手を玄海様がお許しくださっただけ。あなたには関係の無いことです」
「そうもいきませんよ姉上。事が済んだ後、里まで一人で旅をするつもりですか? そんな無茶をさせるわけには」

 確かにその通りだと玄海も頷くが、華澄の意思は固いらしく、頑として諦めようとしない。

「兄上ほどではないにせよ、私とて筆塚家の人間。未熟者のあなたに案じられるほど落ちぶれてはいません」
「しかし姉上」
「あなたはいずれ兄上を越え、筆塚家を背負って立たねばならぬ身なのですよ。ここで油を売っている場合ではないでしょう」

 華澄の返す言葉も正論だったが、草紫もまた残るといって聞かない。なぜ食い下がるのか不思議に思い玄海が訊ねると、草紫は耳元に顔を近づけ小声で呟く。

「実はですね、里では地獄のような修行漬けの毎日でして。こんな風に里の外に出て世間を見て回れるなんて、この機会を逃したらもう二度とは……玄海様、どうかここは人助けだと思って」

 すがるような目で訴えてくる草紫と頑固な華澄の視線に、玄海は色々と疲れてしまい、難しく考えるのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。

「ああもう、一人も二人も同じだ。気が済むまでここに居るがいいっ」

 半ば投げやり気味に言うと、草紫は膝を打って喜び、華澄はそんな弟を視線で威嚇しながら、真っ直ぐ玄海を見て言った。

「……よろしいのですね?」
「好きにしてくれ。まったく」
「それならば、玄海様のご家族にも挨拶をしなければいけませんね。今はどちらに?」
「ああ、いらんいらん。父も母もとうに死んでしまったし、兄弟もいないからな。空いてる部屋を自由に使ってくれ」

 その言葉を聞いて、華澄はもう一度姿勢を正し、三つ指をついて深くお辞儀をした。

「玄海様。ふつつかながら、よろしくお願い申し上げます」
「はあ、なんでこうなってしまうんだ」

 玄海は手で顔を押さえながら天井を仰ぎ、盛大なため息をつくのだった。




 それから三人ともう一人の共同生活が始まった。華澄は意志の強い面はあるものの、細かいところにも気が回り、よく働いた。最初はいいようにしてやられた腹立たしさもあったが、真面目に身の回りの世話をしてくれる姿を見ているうちに、そうした気持ちも和らいできた。気がかりは一度怒らせてしまったすずりと彼女の関係だったが、すずりが華澄とあまり話したがらない以外はこれといった問題もなく、草紫がすずりの相手をしてくれるようになったこともあり、穏やかに日々が過ぎて行った。それから一ヶ月ほど過ぎたある昼下がり、屋敷の掃除をしていた華澄は草雲の部屋の前を通りかかった。すずりの機嫌を損ねて以来、あまりこの場所に近づけずにいた華澄だったが、障子が半開きになっていたのが気になり、近づいて部屋を覗き込んだ。すずりは草紫と一緒に町へ出かけており、当分戻らないのは分かっていた。前回の反省もあり、すぐに障子を閉めて立ち去ろうと思っていたのだが、ふと部屋の隅の床板が、微妙に浮き上がったままになっているのが視界に入った。

「あの場所は確か……」

 すこし気が引けたが、華澄は周りに人が居ないのを確かめると、素早く部屋の中へ入り込む。そして浮き上がった床板を両手で引っ張ってみると、あっけないほど簡単に板が外れた。床下には小さな木箱があり、その蓋は開かれたままになっていて、中身は入っていなかった。しかし違和感を覚え、箱の内側を手で探ってみると、箱は二重底になっており、そこに一冊の書物が収められていた。華澄は焦らないようにと自分に言い聞かせながら、書物に目を通す。

「――っ!?」

 その文字は紛れもなく草雲のものだった。華澄は手の震えを必死に抑えながら、箱と床板を元通りにし、書物だけを胸に抱いてすぐに部屋を出て行った。飛び込むようにして自分の寝室に戻ると、華澄は食い入るようにして書物を読みふけった。それは草雲が朝比奈の地へ来てから、異変が起きる直前までの日々を記した日記であった。

「……」

 日記の全てに目を通した後、ふらりと立ち上がると、そのまま部屋を後にした。そして、彼女は梵能寺から姿を消した。
 夕暮れ時、出かけていた草紫とすずりが帰ってきた頃になって、玄海は華澄がいなくなっていることに気が付いた。どこを探しても彼女の姿は見当たらなかったが、寝室を見に行っていた草紫が、顔色を変えて戻ってきた。

「玄海様、姉上の寝室にこれが」

 彼が差し出したのは、草雲の日記だった。ざっと目を通した後、玄海と草紫は顔を見合わせる。

「彼女はこれを読んで姿を消した。となれば考えられるのは、草雲が出入りしていた八幡宮の異界とやらに向かったということか」
「異界……現世と隣り合わせに存在する、妖怪たちの住処です。兄上はここで何かをしていたのですね」
「詳しいことは知らんが、その奥に何かとてつもなく恐ろしいものがあったらしい。草雲はそれを封じるための手立てを探っていたようだ」
「そんな場所に姉上が向かったとしたら、大変ですよ」
「ああ、女子が一人で妖怪の巣窟に入るなど、無謀にも程がある」
「姉上も陰陽の術の修行を積んでいますから、簡単にやられはしないはずですが」
「何が起こるか分からん場所だ。急いで後を追わねば」

 玄海は座敷に戻り、まんじゅうを食べているすずりに声をかけた。

「すまんが、また出かけなくてはならなくなった。お前にも付いてきてもらいたいんだが、頼めるか?」
「どこ行くの?」
「八幡宮だ」
「そこ、昼間に行った」
「行かねばならん事情があるのだ。いざという時には、お前の助けが必要となるかもしれん。頼む」
「……行ってやってもいいけど」
「おおっ、本当か!」
「そのかわり、うまいもん食いたい」
「ああ、無事に戻って来られたら腹いっぱい食わせてやるさ」
「じゃあ、行く」

 玄海は草紫とすずりを連れ、玄海は八幡宮へと急ぐ。空は燃えるように赤く染まり、東からは夜空が静かに広がり始めている。大鳥居の前まで辿り着くと、池の水面が夕日の光を反射して、どこか妖しい輝きを放っている。

「む……なんだこの異様な気配は。こんなもの、今まで感じたことがないぞ」

 玄海が池を覗き込むと、ゆらゆらと揺れる水面に映る自分の顔が、どこか歪に見えてくる。気味の悪さを感じながらも、玄海は日記に書かれていた内容を思い出し、池に渡された桟橋の上へやってきた。

「ここから異界へ入れるらしいが、どうすればいいのだ?」

 首を傾げて考え込む玄海の横で、草紫は日記をもう一度読み返しながら言う。

「この日記によれば、通過の呪を唱えれば異界への入り口が開くとあります」
「出来るのか?」
「やってみます」

 草紫は日記を玄海に手渡し、両手で印を結びながら呪文を唱え始めた。同時に草紫の身体からは強い霊力が現れ始め、それは不思議な力を持つ言霊となって響き渡る。すると赤く輝いていた池の水面が、深い瑠璃色へと変わっていき、その向こう側に池の底とは違う空間が透けて見えた。

「向こう側から、なんとも嫌な気配が漂ってくるな」
「ええ、普通じゃありませんよこれは。姉上が気がかりです」
「よし、とにかく入ってみるか」

 意を決して三人は池の中へと飛び込む。水に触れても濡れた感触はなく、少し肌寒くてまとわり付くような空気が漂う、洞窟のような空間に彼らは立っていた。

「これが異界か……表より一段と嫌な感じだな」
「ええ、これほど濃い異界の空気は僕も初めてですよ。何が出てくるか分からないし、用心しましょう」

 玄海はすずりの手を引き、奥へと歩き始めた。異界の洞窟は薄暗かったが、所々に松明が設置されており、そのどれもが赤々と燃えて辺りを照らしていた。

「明かりが……彼女が点けたものか?」
「そうだと思います。これを辿って行けば、姉上に追いつけそうですね」
「しかし妙だな。妖怪の巣だと聞いていたが、それらしい奴は見当たらんぞ」

 玄海が拍子抜けしたように首を傾げると、草紫は足元に置かれていた、七色に光る石を拾い上げて見せた。

「これは結界石と呼ばれるものです。この石が異界の淀んだ空気を清め、妖怪を退けてくれているんですよ」
「おお、そうだった。その名前、草雲から聞いたことがあるな。まだ効き目が残っていたのか」
「これなら姉上を無事に連れ戻せるかもしれません」

 玄海たちは先を急いだが、異界の洞窟はまるで果てがないかのように、どこまでも続いた。さすがに歩き疲れた三人は、松明の近くで立ち止まって顔を見合わせた。

「どうなっているんだこれは。行けども行けどもきりがないぞ。まるで同じ場所をぐるぐる回っている気分だ」

 玄海がため息混じりに言う傍らで、草紫は腕を組んで考え込んでいる。そしてふと顔を上げ、玄海の方を見て言った。

「待ってください。本当にそうかも知れませんよ。ざっと目を通しただけでしたが、兄上の日記に気になる一文がありました。この異界は、人の意思が現実となる場所であると。それが本当だとしたら……」
「我々を辿り着かせまいとする意思が働いている、ということか?」
「はい。これだけ歩いてまだ終わらないのは、単にこの場所が奥深いからだとは思えませんよ」
「しかし誰が、何のために……いや、彼女がそれを望んでいるのか」
「おそらくは。申し訳ありません」
「君が謝る必要はない。だが、なぜ我々を拒む必要があるのだ」
「分かりません……確かに姉上は兄上のことを慕っておりましたが、それにしても」
「いずれにせよ、このままだとキリがないな。どうにかして先に進む方法を見つけねば」

 草紫はしばらく難しい顔をして考え込み、それから言った。

「この場所が本当に人の意思を反映するというのなら、それを利用しましょう。我々がより強く願えば、きっと姉上の下へ辿り着けるはずですよ」
「なるほど、試してみる価値はあるな」

 玄海と草紫は頷き、再び歩き出す。今度はただ前へ進むのではなく、華澄のことを心に強く思い浮かべながら。そうしているうちに、ずっと変化のなかった洞窟の様子が少しずつ違ってきていた。暗い洞窟の中は次第に昼間のように明るくなり、ふと気付いた時には、どこかの山里らしき場所に三人は立っていた。

「ここはなんだ? 我々は洞窟の中にいたはずだが」
「こ、この景色は……」
「どうした、心当たりがあるのか?」
「心当たりもなにも、これは僕たちが暮らしていた里ですよ!」
「馬鹿な、我々は異界を進んでいたんだぞ。これも異界の成せる業だというのか」
「嫌な予感がします。急ぎましょう!」
「それはいいがどこへ向かう気だ。行く当てはあるのか?」
「我が家へ。きっと姉上もそこにいるはずです。我々にとって、一番思い出深い場所ですから」
「分かった、案内頼む」

 玄海は草紫の後に続き、のどかな風景が続く山里の中を進んでいく。素朴だが美しい緑の風景の中で、小川のせせらぎや小鳥のさえずりが心地よく耳に入ってくる。近くの野原にはレンゲがいっぱいに咲き誇り、その上を無数の蝶がひらひらと飛び回っている。そうした光景を目の当たりにしていると、ここが異界である事を忘れそうになるのだが、この穏やかさがかえって不気味だと玄海は思った。それから十分ほど進み、深い森へのちょうど入り口に当たる場所に、筆塚家はひっそりと建っていた。見た目は質素だがしっかりと作られており、暮らしていくには申し分のない造りだった。土間の窓からは薪が燃える煙が立ち上り、それに混じって米を炊くいい匂いも漂ってくる。周囲に気を配りながら家の中を覗き込むと、土間では鼻歌交じりに料理を作る華澄がおり、土間と繋がった部屋にある部屋では、囲炉裏に向かって座る男がいた。ちょうどこちらに背を向ける形で顔は見えなかったが、その人物の後ろ姿を見て、玄海と草紫は思わず声を漏らしそうになる。

(草雲!? いや、そんなはずは――!)

 信じられない気持ちのほうが勝っているものの、玄海とて直接草雲の死を確かめたわけではない。もしかしたらこの地で生き延びていたのではという考えが、わずかに脳裏をよぎる。それは草紫も同じ気分であったようで、まだ若い彼の表情からも動揺が見て取れた。やがて出来上がった食事を華澄が運び、囲炉裏で斜め向かいに座って箸を付け始める。華澄は見たこともないほど明るく笑い、楽しそうに草雲となにやら雑談を続けている。しかしあまりにもこの日常的な光景が、かえって玄海の心に疑惑を抱かせていた。

「草紫、状況は思った以上にまずいかもしれんぞ」

 玄海は険しい表情を浮かべ、続けた。

「ここはどうにも居心地が良すぎる。それが逆に引っかかってな。長く留まれば自分を見失いかねん危うさを私は感じるのだ」
「僕もそう思います。確かにここは里そのものですが、どこか作り物のような違和感を感じて仕方がないんですよ」
「よし、乗り込むぞ!」

 玄海と草紫は頷き、家の中へと飛び込む。食事中の華澄は驚いた顔を見せたが、後ろ姿の草雲は動じる様子もなく、動こうとしない。玄海は感覚を研ぎ澄まして気配を探るが、それらしい妖気を感じ取ることは出来なかった。直接最後を確かめていない以上、目の前の草雲が本物か偽物かを判断するのは難しくなった。

「心配しましたよ姉上。さあ、早く帰りましょう」

 差し伸べられた弟の手を、華澄は叩いて払いのける。

「食事中になんですか、行儀の悪い!」
「なにを言ってるんですか姉上、今はそれどころじゃ……」
「まったく、いつまでも子供気分が抜けないのだから。兄上の前で恥ずかしいと思いなさい」

 眉を吊り上げた華澄には、話が通じそうもない。一方の草雲らしき人物は、やはり背を向けたままで一言も言葉を発さない。玄海は草紫の前に出ると、ずっと背を向けている草雲に話しかけた。

「草雲、てっきりお前は死んだものと思っていたぞ。こんな所にいたとはな」

 玄海の呼びかけに、草雲はゆっくりと振り向いた。癖のある髪と穏やかそうな表情といい、まさしく草雲に間違いはなかった。

「久しぶりですね、玄海殿。私もこのような場所で会えるとは思ってもみませんでしたよ」
「ひとつ訊ねるが……お前は本当に草雲か?」
「変なことを聞きますね。他の誰かに見えますか?」

 座ったまま微笑を浮かべている草雲に、玄海はさらに続けた。

「いや、今の質問は忘れてくれ。だが草雲、生きていたのなら連絡くらいよこせ」
「申し訳ありません、ご心配をおかけして。ですが私はもう戻るつもりは無いのですよ」
「ほう、何故だ?」
「人間はあるべき場所に居るのが一番なのです。故郷を離れてはみたものの、ここへ来てそれに気が付いたのですよ」
「……お前がそう思うなら仕方あるまい。だが、せめて世話になった人へ別れの挨拶くらいしたらどうだ。灯お嬢さんもずいぶん心を痛めておられるんだぞ」
「申し訳ありませんが、彼女には玄海殿から伝えてください」

 その言葉を聞いた途端、玄海は素早く懐から短刀を取り出して鞘から引き抜き、身構えた。

「尻尾を出したな偽者め。姿こそ同じだが、貴様は草雲ではない!」
「急に何を言い出すんですか玄海殿。私が他の誰かに見えるとでも?」
「灯お嬢さんはもう生きてはおらん。ある者の手にかかって命を落とされたのだ。それを私に伝えたのは草雲、お前だったろう!」
「……!」

 記憶の食い違いを指摘されては言い逃れは出来ない。草雲の姿を借りた存在は歪んだ笑みを浮かべる。本当の草雲なら考えられない表情に、玄海は不気味さと同時に強い怒りを感じていた。

「ふふふ……これは失敗してしまったな」
「何者だ貴様は。草雲の姿を真似てどういうつもりだ!」
「私は誰でもない。しいて言うならば、筆塚草雲という人間の影……その女の強い願望によって私は生まれたのだ」
「なんだと!?」
「お前たちさえ来なければ、ここで理想の兄を演じ続けてやれたものを」

 穏やかな表情とは裏腹に、草雲の影が発する声はぞっとするような冷たさを孕んでいる。華澄の方を見ると、彼女は虚ろな目をして視点が定まらず、この会話さえまったく聞こえていない様子であった。そんな彼女の異変をいち早く指摘したのはすずりであった。

「なあ、あいつ魂を吸い取られかけてるぞ」

 すずりの言葉に驚き、草紫は華澄の前に駆け寄って肩を揺さぶる。

「姉上しっかりしてください! 僕の声が聞こえますか!?」

 何度声をかけても華澄は答えず、ただ虚ろな目をして黙ったままであった。

「おのれ妖怪! 今すぐ彼女を元に戻せ!」

 玄海は草雲の影に向かって短刀を振り上げたが、その眼が妖しく輝いた瞬間、強い妖気が衝撃となって玄海の身体を弾き飛ばす。玄海はそのまま壁まで吹き飛ばされ、強く身体を打ち付けた。

「ぐっ……!」

 両膝を付いて倒れ込む玄海を目の当たりにして、草紫は素早い動きで呪符を投げつけるが、草雲の影がひと睨みすると、札は空中で燃え上がり、瞬く間に灰となってしまう。

「ふ、符が……!」
「忘れたか? お前に稽古を付けてやったのは私じゃないか。何度も手合わせをしたが、お前は一度も私に勝てなかったなあ」
「……!?」
「この女の魂をゆっくりと吸い取り、それから地上に向かうつもりだったが丁度いい。お前たちの魂も抜き取って、我が糧としてやろう」

 そう言って立ち上がる草雲の影から、肌がヒリ付くような妖気が放たれる。危険を感じた草紫は、人の形に切り抜かれた紙を何枚か放り投げた。するとそれらは槍や金棒を手にした小鬼の姿となり、草紫の前に並んで壁を作る。人形(ひとがた)を依代に使い魔を作り出す、式神の術である。式神たちは武器を突き出して威嚇するが、草紫の影が腕をなぎ払うと、式神はことごとく元の紙切れに戻ってしまう。

「お前の術は全て知り尽くしている。つまり勝ち目はないということだ、我が弟よ」
「黙れ偽者め! お前に弟呼ばわりされる筋合いはない!」
「もはやどうでもいいことだ。お前たちはここで私の糧となるのだからな」

 草雲の影は不適な笑みを浮かべ、すずりへと視線を移す。
 
「そこの娘はすずりという名だったな。お前は人間だったはずだが……まあいい。私の邪魔をしなければ見逃してやろう。どこへなりと去るがいい」

 すずりはしばらく言葉の意味が理解できずに首を傾げていたが、やがて草雲の影に向かって訊ねた。

「オマエ、こいつらを殺すのか? なんで?」
「人間の魂を食らえばそれだけ強くなれるからだ。こいつらの魂は上等そうだからな、今の何倍も妖力を高められるに違いない」
「……ふーん。でもこいつら食べちゃったら、遊び相手もメシ作る奴もいなくなっちゃうだろ。オマエが代わりしてくれんのか?」
「おかしなことを言う奴だ。人間ではないお前が、人間の肩を持つのか?」
「さっきから腹の立つ言い方する奴だな。真っ黒い塊のくせに」
「……!?」

 すずりに言われた途端、草雲の影は顔を手で押さえ、動揺した様子を見せ始めた。指の隙間からは黒い煙が漏れ、同時に周囲の景色がゆらぎ、不安定に歪んでいく。

「ぐっ……お、おのれ小娘……!」

 叩きつけられた痛みがようやく抜けてきた玄海は、両足に力を込めて立ち上がり、草雲の影の様子をじっと窺う。

(急に取り乱し始めた……どういうことだ?)

 歯を食いしばりながら考え込む玄海の前で、草紫はすずりの方を見て叫ぶ。

「あいつの正体を見破ったのか、すずり!」
「正体? よくわかんないけど、あの黒い奴オマエらの知り合いか?」

 玄海は状況が飲み込めず、草紫に何が起きたのか訊ねる。すると草紫は顔だけを向けてこう答えた。

「人に化けたり幻を見せたりする妖術は、術者の正体を見破られた時にその力を失います。すずりには、あいつの術は通じなかったんですよ!」
「そうだったのか。よくわからんが、とにかく今のうちに逃げるぞ。体勢を立て直さねば分が悪い」
「賛成です。それより走れますか玄海様」
「大丈夫だ。この程度で音を上げるほどヤワな鍛え方はしておらんさ」
「安心しました。では!」

 草紫はぐったりとした華澄を抱き上げ、すずりに目で合図をして一目散に走り出す。体格は普通の若者だが、人を抱えているとは思えないほどの足の速さである。玄海も短刀を鞘に収め、草紫とすずりの後を追って走り出した。

(ここへ来たのと同じように、外へ出ることだけ考えろ。そうすればきっと……!)

 玄海は走りながら一心に念じ続けた。するといつの間にか周囲の景色が変わり、元の薄暗くて狭い洞窟へと戻っていく。そのまま走り続けるうちに、玄海たちは眩い光に包まれ、気付いた時には地上の池のほとりに飛び出していた。ひとまず難を逃れた彼らは、急いで梵能寺へと引き返すのだった。




 華澄を連れ戻すことは出来たが、状況は思わしくなかった。数日が経っても華澄の意識は朦朧としたままで、立つことはおろか喋ることも出来ず、日に日に衰弱していくという状態であった。床に伏せた華澄の横に座り、玄海と草紫は顔を突き合わせていた。

「まずいな、この様子では長く持たんぞ」
「吸い取られた魂を取り戻さなくては……姉上の命が」
「それには奴を倒すしかなさそうだが、また異界へ潜って戦うのか?」
「あいつに僕の術は通じませんでした。おそらくあの影の化物の強さは、僕や姉上が知る兄上そのままのはず。こっちの手の内も全部知られているに違いありません。そうなると……」
「やれやれ、面倒なことになった」

 玄海は腕を組んで考え込んでいたが、やがて意を決して顔を上げた。

「……すずりの力を借りるしか方法はない、か」

 玄海の言葉に、草紫は不思議そうに首を傾げる。

「すずりをあの化物と戦わせようというのですか?」
「戦わせる、というのは少し違うな。この話は黙っておきたかったが、仕方あるまい」
「どういうことです?」
「すずりは異変を鎮めるために身を捧げた、と言ったがな……すずりに術を施し、人でない存在へと生まれ変わらせたのは草雲なのだ。あの異変を鎮めるため、草雲はある術を使わねばならなくなった。筆塚家の秘伝とされていた業――外道の法というものだ」
「あ、兄上があの禁術を使ったというのですか!?」
「残念だが事実だ。無論、草雲にとっても苦渋の決断だった。そして外道の法は成功し、すずりは生まれ変わった……大いなる力を秘めた、命ある道具としてな。草雲はすずりが変化した筆を振るい、溢れ出した妖怪の群れを全て退治したのだ。すずりの力を正しく扱えたなら、あの影の化物も打ち破ることが出来るだろう」
「ですが、その方法も扱い方も分からないというのに、どうすれば」
「それでもやらねばならん。華澄どのの命運は我々が握っているのだぞ。ここで彼女を死なせてしまうようなことがあっては、私はあの世で草雲に合わせる顔がない」

 玄海の言葉に、草紫はしばらく黙り込んでいたが、おもむろに立ち上がった。

「すみません、少し一人にさせてください。すずりのこと、兄上のこと、色々ありすぎて」
「ああ。気持ちを落ち着けてくるといい。華澄殿は私が看ていよう」

 草紫は玄海に向かって頭を下げると、部屋から出て行った。玄海は濡らした手ぬぐいを絞り、華澄の額に滲んだ汗を拭いてやる。すると華澄はゆっくりと目を開け、青ざめた顔を玄海の方へ向けた。

「げ、玄海さま……やっと、本当の事を喋ってくださいましたね……」
「聞いていたのか」
「やはりあの子は、外道の法によって……兄上が、こんな恐ろしいことをするなんて。あの優しかった兄上が……」
「すまん。事実をありのままに伝えれば、お前たちの落胆も大きかろうと思ってな。だから言い出せなかったのだ」
「いいえ、謝るのは私のほうです。私の浅ましい思いが故、あのような怪物を生み出し、まやかしに囚われたまま抜け出すことも出来ず……そのせいであなたや弟を危険な目に巻き込んでしまって……なんとお詫びをすればいいのか」
「気にするな。華澄どのはなにも悪くはない。君も草雲も、ただ真っ直ぐだっただけだ」
「……」
「だが私は君たち兄妹の、その真っ直ぐさが好きなのだ。あの化物は必ず始末を付ける。我が命と、友の名誉にかけてな」

 玄海の言葉を聞いて、華澄の瞼にはうっすらと涙が滲んでいた。黒い瞳の中には、玄海の顔が映り込んでいた。しばらくして、華澄は幾分落ち着いた様子でこう言った。

「弟を……草紫のことを頼みます。まだ未熟ですが、素質は兄上にも決して劣りません……弟ならばきっと、この苦難を乗り越えられるはずです」
「ああ、分かった。後は我々に任せて、ゆっくり休むといい」
「はい……」

 華澄は微笑を浮かべると、ゆっくりと両眼を伏せた。玄海は物音を立てないよう静かに立ち上がり、草紫を探すべく部屋を後にした。草紫は庭先で一人、すっかり暗くなった空を見上げていた。

「気分は落ち着いたか」

 玄海が声をかけて近づくと、草紫は寂しそうな顔を向けた。

「ずっと疑問に思っていました。なぜ兄上が、外道の法を家から持ち出したのかと。あれは触れてはならず、決して術を用いるようなことがあってはならぬのだと、幼い頃から祖父に何度も聞かされていました。それなのにどうして、兄上はあの術を持ち出したのかと……」
「草雲には、この時が来る予感があったのかも知れんな。だが、起きてしまった事をいくら悔やんでも仕方がない。我々に出来るのはすずりを見守り、間違った方向へ進まぬよう導くことだけだ」
「……はい」
「今の我々がやらなければならんのは、すずりの力の使い方を見つけ、あの化物を封じることだ。悩むのはその後でいい」
「はい、分かっています」
「それにな……草雲の姿を真似た偽物が、調子に乗ってのさばっているのは気に入らん。手を貸してくれ」

 その言葉で覚悟が決まったのか、草紫も笑って頷く。二人は揃って屋敷に戻り、それからすずりの力を扱うための試行錯誤が始まった。草紫はすずりと向き合い、霊力を高めたり様々な呪文を唱えたりしてみたが変化はなく、夜が明けてからも、草紫は文献を読み漁ったりしていたが、すずりの姿を変えて力を引き出すにはどうすればいいのか、まるで見当も付かなかった。そうしているうちに、とうとう玄海の耳にある噂が飛び込んできた。朝比奈の町で夜な夜な人が倒れ、いずれも意識が戻らないという。全員に共通していたのは、どこにも目立った傷などがなく、倒れる直前まで病気などもせず、健康そのものだったということである。玄海は草紫を呼び、事件について説明した。

「――この事件、おそらく奴の仕業と見て間違いなかろう。そっちの按配はどうだ?」
「いえ、それが……」
「そうか。だが、もはや一刻の猶予もない。このまま奴を放って置けば、人間の魂に味を占めて手が付けられなくなる。そうなる前になんとしても決着を付けねばならん。華澄どのを救うためにもな」
「はい!」
「すずりの力も、ひょっとしたら戦いの中できっかけが見つかるかもしれん。今は残された希望に全てを賭けよう」

 二人は身支度をして日が暮れるのを待ち、すずりを連れて町へと赴いた。暗くなった町の通りはほとんど人気がなく、時折吹き抜ける夜風が、不気味な音を響かせているばかりである。注意深く辺りを見回しながら歩いていたが、怪しい人影や気配は感じられない。その静けさが逆に不穏な空気を煽っているようで、玄海は立ち止まり、振り返って今まで通ってきた道を見た。するとそこには、どこから現れたのか、物音ひとつ立てずに草雲の影が立っていたのである。

「なっ、なにっ!?」

 驚いているのも束の間、草雲の影は目にも留まらぬ速さで近づき、手で玄海の喉を掴み上げる。玄海は喉を押し潰されて声が出せなかったが、それ以上に驚きが彼の心を支配していた。

「誰を探しているんだ? こんな時間にご苦労なことだな、ふふふ」
「うぐ……っ!」

 玄海は懐に忍ばせていた短刀を抜き、喉を掴む腕を斬り付けた。刃は袖と肉を確かに切り裂いたが、傷口からは一滴の血も流れず、草雲の影もまるで痛みを感じる様子はなかった。しかし玄海の喉を掴む力は緩み、その隙を突いて玄海は手を振り払い、その場から飛び退いて咳き込んだ。

「ゲホッ、ゲホッ……そっちから姿を見せるとは好都合だ。近頃人間の魂を抜き取っているのは貴様だな!」
「お前たちの魂をもらい損ねた故、代わりに頂いたまで。それにしても僧のくせに刃物を振り回すとは、とんだ生臭坊主だ」

 草雲の影が斬られた部分を手でさすると、傷口は何事もなかったように綺麗にくっついて消えてしまう。

「ぬかせ。人でない相手に遠慮はせん!」

 玄海は短刀を振りかざして何度も斬りかかるが、ことごとく避けられてしまう。草雲の影は単に素早いというだけでなく、身体の軸を回転させる最小限の動きをしており、無駄がなかった。空振りを繰り返し、玄海の動きが鈍った瞬間、草雲の影は短刀を握る手首を掴み、身体の内側から外に素早くひねって玄海を投げ飛ばした。空中で勢いよく一回転した玄海は地面に腰から打ち付けられながらも立ち上がったが、顔を上げた瞬間に顎を掌打で跳ね上げられ、がら空きになった腹部に肘打ちを叩き込まれてしまう。

「ぐはっ!?」

 両膝を付いてその場に崩れ落ちる玄海を、草雲の影は薄笑いのまま眺めて言った。

「いつまでも暴れられては面倒だ。しばらく大人しくしていてもらおう」

 草雲の影の両目が妖しく輝いた瞬間、玄海の身体は金縛りにあい、指一本さえ動かせなくなってしまった。

「お前はあとでゆっくり魂を抜き取ってやる。もう一人の始末が終わるまで、そこで眺めていることだ」

 草雲の影はそう言って立ち上がると、ぞっとするものを秘めた視線を草紫の方へと向けた。

「さあ、次はお前だ。遠慮はいらん、どこからでも挑んでくるがいい。なあ弟よ?」
「黙れ化物! お前に弟呼ばわりされる筋合いはないッ!」

 草雲の影からは、異界で会った時とは比べ物にならないほど濃い妖気が溢れ出している。札や式神が通じないため、草紫は格闘を挑まねばならなかったが、打撃もまた空を切るばかりで、草雲の影に触れることも出来なかった。草紫の手の内が知られていることもあったが、それ以上に草雲の影のこなしは、人間のそれを遥かに上回るものだった。

「くっ……!」
「すぐに決着を付けてもいいが、せっかくの対面だ。我が術を堪能していくがいい」

 そう言って懐から人形の紙を取り出し、草雲の影は呪文を唱えて空中に放り投げる。紙はみるみる膨らんでいき、それは見上げるほどに大きく、真っ赤な肌をした赤鬼の姿へと変貌した。

「お前は童子で精一杯だったが、力があればこれくらいの術も使えるようになる。さて、こいつの相手が務まるかな?」

 筋骨隆々な赤鬼は、大木のような腕を振り下ろして草紫に殴りかかる。草紫は間一髪でそれを避けたが、巨大な拳は空気ごと押し潰さんばかりに轟音を上げ、地面を打ち砕いて大穴を空けてしまった。直撃すれば即死は免れないほどの威力に、草紫は驚きの表情を浮かべていた。

「兄上はこんな式神など使っていなかったはず。人の魂で得た力で、術を変化させているのか……!」

 そう呟いたのも束の間、赤鬼は巨体に似合わぬ素早さで一気に踏み込むと、今度は平手をなぎ払うようにして、近くにいたすずりを平手で打ち据えようとした。

「危ないッ!」

 草紫は咄嗟に飛び出し、すずりを突き飛ばす。反射的に身を守る体勢を取ったが、壁のように分厚い手が激突した瞬間、軽く意識を失いかけるほどの衝撃が全身を貫いた。

「ぐ……ッ!」

 草紫の身体は玩具のように地面を転がり、土埃にまみれながら十数メートルほども離れた場所でようやく止まった。立ち上がろうとする草紫を捕らえようと、赤鬼が右手を伸ばす。しかしその茶色い指が触れようとした刹那、暗闇に閃光が走り、赤鬼の指が消え失せていた。草紫は捕まる直前、呪符を突き出して反撃していたのである。

「……!」

 指先を失った赤鬼だったが、痛みを感じるような様子は無く、ただ少し驚いたような仕草をするだけだった。

「ほう、やるじゃないか。私が知っている頃より腕を上げたなあ弟よ」
「や、やめろ……僕を弟と呼ぶな……!」
「ずいぶんと嫌われたものだ。私はお前の兄と姿も声も、過去の記憶さえも同じだというのに」
「ふざけるな……姉上の願いを利用して生まれただけの化物が、兄上を騙るな!」
「ふふふ、それは残念。心を開いてくれれば、楽に魂を抜き取ってやったのに」

 草雲の影が口の端を持ち上げて冷たく笑うと、赤鬼は草紫の身体を蹴り上げる。

「うぐ……ッ!」

 草紫はまたも地面を転がり、口元からは血が滲んで流れ落ちる。赤鬼は左手で草紫の頭をつまんで起き上がらせると、草雲の影の前へと無造作に投げてよこした。仰向けに倒れた草紫を見下ろし、草雲の影は笑う。

「立派な口をきいてくれたが、私に手も足も出ないのでは説得力がないぞ。あの小娘とお前は何の関係も無いのだから、放っておけばよかったものを。その証拠に見ろ、お前がこんなに傷ついているのに、あいつは平気な顔をしているじゃないか」

 尻もちをついていたすずりは立ち上がり、着物に付いた汚れを気にするように手で払っている。それから傷ついた草紫を見たが、ただ不思議そうな顔をしているだけである。

「姿こそ人間だが、あいつも私と同じ化物。人間がどうなろうと知ったことではないのさ」
「すずりはまだ分かっていないだけなんだ……世の中のことも、自分がどうあるべきかも」
「じきに分かるとも。軟弱な人間など、我々の糧でしかないことが。はははは!」

 人間味など感じられない嘲笑が、闇に包まれた町に響き渡る。

「違う……すずりは誰かの犠牲など必要とはしていない。あの子が人でなくとも、お前のような怪物とは断じて違うッ!」

 草紫は歯を食いしばり、怒りを込めた瞳で草雲の影を睨み上げる。だが成す術がない今、それ以外にどうすることも出来なかった。一部始終を金縛りのまま見ているしか出来なかった玄海だが、必死に気力を振り絞って足掻いた結果、やっとの思いで声だけを発することが出来た。

「す……ずり、すずり!  頼む、頼むッ……草紫を助けてやってくれ!」

 玄海は勢い余って前のめりに倒れながら、必死にすずりに呼びかけ続けた。そんな彼の姿を見て、草雲の影は呆れた顔をする。

「己が何者かも分からぬ半端な存在が、この状況をどうにか出来るとでも言うのか?」
「華澄殿の記憶から生まれただけのお前は知るまい……数多の邪悪を討ち払い、人々を救う力を持つ存在としてすずりが誕生したことを! 貴様など初めから恐るるに足りん!」 
「その力とやらがどの程度のものかは知らないが、面倒が起こる前に二人ともあの世に送ってやろう」

 草雲の影は玄海の目の前まで音も無く跳躍すると、目を光らせながら頭を踏みつけた。それと同時に仁王の式神も草紫の身体を大きな足で踏みつけた。

「ぐあああッ!?」

 容赦なく襲い掛かる激痛と重圧に、玄海と草紫は苦痛に満ちた叫び声を上げた。骨が軋み、いよいよ砕けそうになったその時、ぽつりと呟く声が聞こえた。

「……やめな」

 草雲の影がそれに気付いて顔を向けると、異様な雰囲気を身に纏い、髪を逆立て始めているすずりの姿が目に映る。

「ほう、やる気になったのか」
「そいつらが痛めつけられてるの見てるとさ、なんか分かんないけどムカムカするんだ」
「これはこいつらが望んだ結果だ。私の前に現れなければ、こんな目に遭わずに済んだものを」
「いいから足をどけな。アタシはさあ、機嫌が悪いんだよ」

 すずりの感情が剥き出しになったその瞬間、夜の闇よりも黒いものが一気に広がり、一瞬にして草雲の影と赤鬼に絡みついた。華澄が部屋に忍び込んできた時と同じ、際限なく伸びるすずりの髪だった。髪は食い込むほどにきつく締め上げ、玄海と草紫を踏みつける者たちをその場に引きずり倒した。

「うっ!?」

 草雲の影は、顔に巻き付いてくる髪を手で掴んで止めようとしたが、到底間に合わずに顔中を髪で覆いつくされてしまった。巨体の赤鬼ですら同じように引き倒す髪の力は相当なもので、普通の人間であればすぐに窒息していただろう。しかし草雲の影が指先で何かの印を結ぶと、巻きついていた髪は内側から吹き飛ぶようにしてかき消されてしまった。草雲の影は肩や裾に残った髪の破片を手で払いのけながら立ち上がり、不敵に笑う。

「この姿が別人のものであったなら、抜け出すのに苦労したかもしれないが……私が得た姿と力は、妖怪退治の専門家のもの。残念だったな」
「ごちゃごちゃうるさい。さっさと消えな!」

 すずりは四方に伸びた髪を集めて束にすると、それを一気に叩き付けた。しかし草雲の影は髪が直撃する寸前で札をかざし、その力と勢いを受け流してしまう。

「なかなかの妖力だが、もう私には通じない」

 草雲の影は素早く踏み込むと、すずりを平手で殴り飛ばす。

「……!」
「人間などに肩入れするからそうなるのだ。無駄な真似をせず、どこへなりと去るがいい」

 倒れたすずりを見下ろしながら鼻で笑うと、草雲の影は草紫に目を移す。

「皮肉なものだ。お前たちが一番慕っていた人間が、お前たちに引導を渡す存在になるとは」
「くっ……」

 草紫は這いながらすずりに近づくと、彼女の手を握り言った。

「す、すずり……僕とお前で力を合わせれば、きっとあいつを倒せるはずだ。誰かのためでなくて構わない……おまえ自身のために、一度だけでもお前の力を見せてくれ……!」

 草紫は繋いだ手から、自分の霊力をすずりに送り込む。最後の希望をすずりに託しての行動だったが、それはすずりに思わぬ変化をもたらした。突然、すずりの身体が金色の光を放ち始めたかと思うと、すずりの姿は光に包まれ、次の瞬間には紅い柄の筆へと姿を変えていたのである。

「こ、これは……!?」

 驚くのも束の間、すずりが変化した筆は草紫の手に収まり、さらには筆から逆に強い霊力が流れ込んできて、傷ついた草紫の身体は嘘のように回復していた。自由を取り戻した草紫は素早く立ち上がると、自分でも何が起きたのか不思議そうに手の中の筆を見た。

「すずりが筆に……こ、これが本当の姿なのか。しかも力が湧き上がってくるような……!」

 筆から伝わる不思議な力の流れを感じて、草紫は確信したと後に語った。変化したすずりに満ちていたその力は、どんな怪物だろうと払い封じられるものだということを。

「ほう、それが小娘の本来の姿というわけか。だが、そんな筆ごときで何が出来るというのだ?」
「ならば試してみるがいいッ!」

 草紫は筆を構え、草雲の影へ向かって突進する。しかしその間に割って入ったのは、草雲の影が作り出した赤鬼だった。赤鬼は草雲の影を守るように立ちはだかり、真っ赤に燃えた眼で草紫を睨みつけると、足を振り上げて踏み潰そうとしてきた。草紫は素早くその場から飛び退くと、地面を踏みつけた赤鬼の膝に飛び乗り、そのまま真上に跳躍した。

「でやあああッ!」

 草紫は鬼の顔面に向けて、真一文字に筆をなぎ払う。使い方を知っていたわけではなく、自然と身体がそう動いたのである。しかし筆で触れただけでは、直接的な打撃があるわけでもなく、赤鬼も草雲の影も平然としている。

「ははは、何も起こらないじゃあないか。筆で戦おうと考えるのが無謀なのだ」

 しかし、その笑い顔は長続きしなかった。地面に着地した草紫が間合いを取って身構えていると、赤鬼は突如として顔面から黒い液体を噴き出し始めたのである。

「お、鬼が墨に……これは……!?」

 筆を振るった草紫でさえ、目の前で起きている出来事に驚きを隠せなかった。赤鬼の身体はみるみる墨となって溶け出して行き、あっという間に大きな墨溜まりになっていった。

「なんだこれは。何が起こったのだ!?」

 たった一振りで自分の式神を倒されてしまったことに、草雲の影は初めて動揺の色を浮かべていた。

「くっ、ならばこいつはどうだ!」

 草雲の影は、草紫めがけて数枚の札を同時に投げつける。札は空中で悪霊や火の玉に変わり、草紫に襲いかかる。草紫は落ち着いてそれらを筆で打ち返すと、火の玉や悪霊たちは筆先に触れた途端にその場で消え失せてしまった。

「ば、馬鹿な……陰陽の術とも違う、まるで別の……こ、こんな力が存在するなど聞いていないッ!」
「当然だ。姉上の記憶を利用しているだけのお前には、この筆が生まれた理由など分かるまい」

 続けて自分の術を打ち破られ、草雲の影は明らかに狼狽していた。相手を見下すような表情は消え失せ、身の危険に顔を引きつらせている。

「くそっ、予定外だ……ここは一旦退かねば……!」

 状況が不利であることをすぐに理解し、草雲の影は後ずさって逃げようとするが、その背後から何かがぶつかって足を止めた。

「おっと、悪いが逃がしてはやれんな」

 玄海の両手には短刀が握られ、草雲の影の腹部辺りを後から突き刺していた。しかし傷口から血は流れず、草雲の影も痛みを感じる様子は微塵も浮かべてはいなかった。草雲の影は振り返ることもせず、薄笑いを浮かべて言う。

「もう忘れたのか。私にこんなものは通じないと」
「ああ、思っちゃいないさ。だが私も霊力を扱う修行は欠かさず続けてきたんでな。これでも涼しい顔をしていられるかッ!」

 玄海が意識を集中して短刀の柄を強く握り締めると、練り上げられた霊力が短刀を伝って草雲の影へと流れ込む。それは相手に打撃を与えるほどの威力は無かったが、直接送り込まれた霊力は草雲の影を形作る妖力と交じり合うと、一種の拒絶反応を起こし、妖力の流れを阻害したのである。

「ぬ、抜けんッ……か、身体の自由が……ぐううっ……!?」
「目の前に気を取られて油断したな。お前を倒せなくとも、足止めくらいは出来るぞ」

 草雲の影は驚愕の表情を浮かべ、必死の抵抗を始めた。術の炎や雷を自分ごと玄海に浴びせ、息を吹いて無数の子鬼の式神を作り出し、玄海を襲わせる。子鬼の式神は玄海の手足や背中にかじりつき、爪や牙を突き立てて苦痛を与えてきたが、玄海は両足に力を込めて踏ん張り、どれだけ自分が傷つこうとも苦痛の声を上げず、一歩たりともそこから動こうとはしなかった。

「我が友の姿だけでなく、華澄どのの切なる願いまで利用して踏みにじった貴様は絶対に許さん。道連れにしてでも、ここでケリをつけてやる!」

 全身から血を流しながら、玄海は気力を振り絞って叫んだ。

「今だ草紫! 自分の手で兄の幻影を打ち破って見せろ!」
「はいっ!」

 刹那、地を蹴った草紫と草雲の影の身体が交錯し、草紫は駆け抜けざまに筆を払い抜けた。わずかな沈黙の後、一陣の風が吹き抜けると、草雲の影は腹部から黒い墨を噴き出してその場に崩れ落ちる。

「何故だ……せっかく素晴らしい身体と力を手に入れたというのに、こんな筆ごときに……」

 溶け出していく身体からは五、六ほどの人魂が抜け出し、四方へと飛んでいく。最後に一回り小さな人魂が草紫と玄海の近くを飛び回ってから、梵能寺の方角へと飛び去っていった。草雲の影の姿が完全に溶けてしまうと、玄海にまとわり付いていた子鬼の式神も消滅し、玄海は数歩後ずさって墨溜まりから距離を置くと、糸が切れたようにその場に膝を付いた。

「玄海様!」

 草紫が駆け寄って肩を貸すと、玄海は疲れた顔で笑みを浮かべる。

「やったな草紫……これで華澄どのも救われるだろう」
「はい。ですが玄海様こそ大丈夫なのですか。なんて無茶を」
「なに、大したことじゃない。それにしても墨になったはいいが、このまま残しておいて平気なのか? まだ妖気が残っているみたいだが……」

 玄海が言うと、草紫が握っている筆がひとりでに動き出し、赤鬼と草雲の影であった墨溜まりの方を指す。すると墨は筆先へと一気に吸い込まれていき、一滴残らずその場から消えてしまった。草紫は驚いたように筆を見つめ、自分の手から伝わる感触を確かめるように呟いた。

「そうか、こうやって妖怪を封じるのか。それに墨を吸い取ったせいか、筆の力が増したような気がします」
「妖気を吸い取って我が物とするということか。草雲もこの力で妖怪の群れを……」

 二人が納得していると、急に筆が輝いて草紫の手を離れ、二人の目の前ですずりの姿へと戻る。すずりは大きな瞳を二人に向けて言った。

「今ので分かったよ。アタシは人間と一緒に、こうしなきゃいけないってことが」

 玄海は微笑み、すずりの頭を撫でてやる。

「おかげで助かった。これからも我々の力になってくれ」
「うん」

 草紫も嬉しそうに頷き、それから墨溜まりのあった場所を見る。  

「すずりの力も驚きましたが、恐ろしい相手だった……姿ばかりか強さまで写した化物が、これほど手強いとは」
「あの異界はどうにかして出入口を塞ぐべきだな。それも……後で考えるとしよう……」

 そこまで言って玄海は気を失い、草紫に担がれて梵能寺へと連れて行かれた。
 翌日、玄海が目を覚ますと自分の寝床に寝かされ、体中に手当ての布が巻かれた状態だった。起き上がろうとすると体中に鋭い痛みが走り、玄海は思わず声を上げてしまう。

「うっ……!?」
「まだ起きてはいけませんよ。傷が塞がるまでじっとしていなくては」

 痛みに顔をゆがめる玄海をなだめ、再び寝かせたのは華澄だった。華澄は顔色もよく、すっかり元気を取り戻している様子だった。

「もう大丈夫なのか?」
「はい。私より玄海様の方がよっぽど大変です」
「そうか……」

 玄海は安堵した様子で息を吐くと、再び華澄の顔を見上げた。凛として綺麗な顔は相変わらずだったが、張り詰めた雰囲気が消え、カドが取れて穏やかな表情をしている。


「ともかく無事で良かった。君に万一のことがあっては、あの世で草雲に顔向け出来ないからな」
「申し訳ありませんでした。私などのために、こんな傷だらけになってまで……」
「構わんさ。今回のことは私にも責任がある。兄を想う君の気持ちをよく考えていなかった」
「いいえ……全ては私の心の弱さが招いたこと。弟ばかりか玄海様までこのような目に遭わせてしまい、詫びても詫びきれるものではありません。ですがせめて、玄海様の傷が癒えるまでは、お世話をさせてください」

 肩身の狭そうな華澄を責めるつもりなど毛頭なく、玄海は笑って頷く。

「今となっては隠す必要もないか。草雲がなぜ命を落としたか、私が知る全てを話そう」

 玄海は草雲の身に起きた全てを、華澄に話した。一族の汚名を晴らさんと朝比奈の地を訪れたこと、梵能寺での日々、道暗に利用され異界の秘密を奪われたこと、愛すべき者を失い、そして自らも命を投げ打って異変を食い止めたという事実を。

「――そうでしたか。兄上が家を出たのは、私たちのためだったことが分かっただけでも、嬉しく思います」
「ああ。結果として異変を引き起こす片棒を担がされてしまったが、草雲は素晴らしい男だったよ」

 それから二人は思い出を噛み締めるように黙り込んでいたが、先に華澄が口を開いた。

「……あの、玄海様」
「ん、どうした?」
「私はずっと、兄上の背中を追っていましたが……これからは自分で考え、自分の生き方は自分で決めようと思います。きっと兄上もそれを望んでいるでしょうから」
「ああ、それがいい」
「はい。本当に色々とありがとうございました」

 その時、玄海は自分を見つめる華澄の視線が少し違っているような気がした。急に気恥ずかしくなり、玄海は話題を変える。

「ところで草紫はどうしている?」
「今朝早くから薬草を摘んできて、今は薬を作っています。もうじき戻ると思いますが」

 そう話しているうちに、薬を乗せた盆を持った草紫が部屋に入ってきた。その後ろには干し柿をほおばるすずりの姿も見える。

「あっ、気が付かれましたか玄海様」
「起き上がるのも苦労する有様だが、どうにかな」
「ゆっくり養生していれば、じきに良くなりますよ。幸い傷はどれも深くないようですし」
「ではお言葉に甘えて、のんびりさせてもらうとするか。すずりもよくやってくれたな」

 干し柿をかじりつつ、すずりは言った。

「食い物の約束、忘れるなよ」
「もちろんだ」
「いっぱいだからな。いーっぱいだぞ!」

 すずりが真剣な顔で念を押すのを見た時、玄海は昔のすずりが戻ってきた気がして、思わず笑みがこぼれた。その後、玄海は傷口に薬を塗ってもらい、再び目を閉じて眠りについた。一週間ほど経つと玄海の傷も癒え、一人で歩き回れるほどに回復していた。ある朝、玄海が庭先を歩いていると、草紫が近づいて声をかけてきた。

「この調子ならじきに全快ですね」
「おかげ様でな。薬草が効いたのもあるだろうが、霊力を使った傷の治療というのは大したものだな」
「霊力を高めることで、人が本来持っている治癒の力を伸ばせますからね。玄海様は霊力を扱う修行もされていましたし、より効果が高まったのですよ」
「こんな形で修行が助けになるとは思わなかった。分からんもんだな」
「ええ、そうですね」

 しばらく話しながら歩いた後、草紫は笑いながら話を切り出した。

「――思えば長いこと、ここでお世話になってしまいました。僕は一度、里へ戻ります」
「それがいい。父上も喜ぶだろう」
「そうですね。ところで玄海様にお願いがあるのですが」
「なんだ、言ってみろ」
「僕は今回の件で、自分の力不足を痛感しました。里に戻ってからしばらくは、修行をやり直すつもりです。それで……すずりを預からせて欲しいのですが」
「里に連れて行くのか?」
「はい。僕はすずりと共に経験を積み、あの力を自在に扱う技を編み出して磨かなければなりません。きっとそれが、僕に与えられた使命……兄上もそれを望んでいるはずです」
「そうだな。ここで私とただ暮らすより、その方がいい。お前と同様、これもすずりの背負った定めなのだろう」

 玄海は少し複雑な表情で空を見上げ、遠くを眺めながらぽつりと呟く。

「……少しばかり寂しくなるな」
「修行を終えた暁には、すずりを連れてまたここへ戻ってきます。どうかそれまでお元気で」
「それはこっちの言うことだ。修行に音を上げたり、つまらん怪我をするんじゃないぞ」

 お互いに笑いあった後、草紫は続けた。

「そうそう、後で姉上にも声をかけてください。色々と伝えたいことがあるそうですから」
「ああ、わかった」

 玄海は草紫と別れ、華澄がいる草雲の部屋に足を向けた。華澄はきちんと正座をし、玄海を迎え入れた。

「なんだ、やけにあらたまった様子だな」

 草雲は華澄の前に腰を下ろし、彼女を真っ直ぐに見つめる。華澄は膝の上に両手を置き、はっきりとした口調で言った。

「すでに弟から聞いたと思いますが、私は里に戻り、ここでの出来事を報告しなくてはなりません」
「うむ。ずいぶん長く留まってしまい、父上も心配なさっているだろう。顔を見せて安心させてやるといい」
「はい、そのつもりです。何から何まで本当にお世話になりました」

 話を終えて玄海が部屋を出ようとした時、華澄は玄海を呼び止めた。

「あの、最後にひとつ教えて頂きたいことが」
「何だ?」
「私はまだ、玄海様のお名前を聞いておりません。法名ではない、本当の名前を」

 玄海は廊下に出て振り返ると、口の端を上げながら答えた。

「蓮(れん)だ。八房蓮。それが私の名前だよ」

 ぺこりとお辞儀をする華澄に軽く手を振り、玄海は部屋を後にした。
 翌朝、旅支度を終えた草紫と華澄は、すずりを連れて梵能寺の門の前に立っていた。見送りの玄海はすずりの前でしゃがみ込み、頭を撫でてやりながら言った。

「すずり、お前はこれから草紫と一緒に、世にはびこる邪悪な妖怪を封じて回らねばならん。それが持って生まれたお前の使命なのだ」
「アタシの使命?」
「そうだ。それはお前にしか出来ないことだ。だが……時には苦しいことや、人の醜さを思い知らされる時もあるだろう。もしも自分の道に悩み迷うことがあれば、いつでもここへ戻って来い。ここはお前の家なのだからな」
「……うん、分かった」

 すずりは玄海の顔をじっと見つめ、それからニッと無邪気に笑う。

「アタシさ、玄海のこと好きだよ。いい奴だからさ」
「そいつは良かった。草紫や華澄どのとも仲良くするんだぞ」

 頷くすずりを優しげに見つめながら、玄海は立ち上がる。ほどなくして華澄と草紫、すずりは筆塚家の里へ向けて旅立っていった。三人の後ろ姿が見えなくなるまでその場にいた後、玄海も自分の屋敷へと戻って行く。
 梵能寺を出た三人が半里ほど歩いたところで、草紫は立ち止まって華澄に声をかけた。

「姉上、よろしいのですか」
「何の話です?」
「里に戻れば当分の間、玄海様とは会えなくなるんですよ」
「……あなたには関係のないことです」
「そうはいきませんよ。このまま里に戻ったら、きっと姉上は後悔すると思うんです」
「いつからそんな生意気な口を利くようになったの。父上もちゃんと話せば分かってくださいます」
「今回の不始末が父上の耳に入れば、里から出ることを禁じられてしまうかも知れない。半年か一年か、それとも数年か……そうなってからでは遅いでしょう。報告なら僕一人でも大丈夫ですから」
「でも、私は……」
「姉上は今まで僕の面倒をよく見てくれました。だから今度は姉上に幸せになってもらいたいんです。それに玄海様は平気な顔をしていますが、親しい人を立て続けに失った悲しみは、そう簡単に癒えるものではありませんよ。だから姉上、玄海様の傍にいてあげてください」

 草紫の説得に、華澄はうつむいたまま黙り込んでしまう。しばしの沈黙の後、華澄は両目に涙を滲ませながら弟の顔に手を添える。

「ごめんなさい草紫。父上にはあなたから謝っておいて。親不孝な娘で申し訳ありません、と」

 草紫は嬉しそうに微笑んで頷くと、姉の手を握ってそっと送り出す。華澄は背を向け、来た道を早足で引き返していく。その姿を満足げに眺めた後、草紫はすずりの手を引いて再び歩き始めるのだった。
 誰もいなくなった屋敷に戻り、玄海は縁側に腰掛けて静寂を味わっていた。ほんの少し前まで賑やかな同居人たちが居ただけに、この静けさがひどく寂しいものに感じられた。一人ため息をついて空を見上げていると、砂利を踏みしめながら近づいてくる足音が聞こえてくる。不思議に思って音のするほうに顔を向けると、頬を紅潮させ、少し息を乱した華澄がそこに立っていた。

「おいおい、一体どうしたんだ。忘れ物でもしたのか?」
「い、いえ……私は、その……戻って来たのです」
「む? なぜ戻る必要があるんだ? 草雲の遺品は引き取ったし、もうここに用事は無いはずだが」
「そっ、それは、あのっ」

 首を傾げながら玄海が訊ねると、華澄は珍しく顔を赤くして、落ち着きの無い様子を見せる。

「玄海様には、ご家族もいらっしゃいませんし。身の回りの世話をする者が必要ではないかと。それに今回の恩返しがしたいのです。弟にもそうしろと言われて」
「それなら小坊主でも住まわせるから大丈夫だ。無理はしなくていい」
「……」

 華澄は言葉が続かず黙り込んでしまったが、ますます顔を真っ赤にしながら大きな声を出した。

「わっ、私がっ! お傍にいたいのですっ!」
「うわっ。急に大きな声を出すな、驚いただろう」
「私が傍にいては、ご迷惑ですか?」
「い、いや、別に迷惑ではないが……って、ん?」

 玄海は華澄の様子と言葉の意味を図りかね、首を傾げて考える。華澄は胸に手を当てて乱れる呼吸を整え、落ち着きを取り戻してからゆっくり語り始める。

「兄上の日記に目を通した時、玄海様のこともたくさん書かれておりました。玄海様は誰よりも信用できる方であり、玄海様の友でいられたことは、兄上の誇りだったと……」
「草雲め、そんな恥ずかしいことを書き記していたのか」
「私は最初、その言葉が信じられませんでした。ですが今は、兄上の気持ちがよく分かります。見捨てられても仕方の無かった私を、身の危険も顧みずに救ってくださいましたから……それに、一度も私を責めることもしなかった」
「なんだ、それは気にしなくていいと言ったろう。恩着せがましく思われるのは好きじゃない」
「それでも、簡単に出来ることではありません」
「なんというかだな……単純に言えば、私は格好を付けていたいだけでな。そんな立派なもんじゃない」

 照れくさそうに頭を掻く玄海を、華澄は好ましく思いながら見つめていた。口にするのは簡単でも、実行するのはそうした彼の飾らない態度や優しさが、華澄の心を動かしていることに、彼自身はまだ気付いていなかった。華澄は自然と浮かぶ笑みを隠すこともせず、玄海の隣に腰を下ろして訊ねた。

「玄海様……私はここにいてもよろしいですか?」
「君のことだ、思いつきで言ってるわけではないだろうが……本気なんだな?」
「はい」
「やれやれ、こういうのは普通、男の方から言うものだぞ」

 頷く華澄に観念したように、しかしどこか嬉しそうに笑いながら玄海は答えた。

「どうせ嫌だと言っても居座るつもりなのだろう。好きにしろ」
「はいっ」

 花が咲いたような華澄の笑顔に当てられ、玄海も珍しく顔を赤くしながらも、華澄の肩を抱いてやるのだった。その後、結ばれた二人は一男一女の二児をもうけた。息子の八房要は成人した後、妖怪退治を目的とする法力集団を立ち上げることになるが、その名を両親から一字ずつもらい、蓮華宗と名付けた。娘の八房明澄は母親似の美しい娘に成長し、朝比奈の有力者である風杜氏へと嫁ぎ、蓮華宗の活動を陰から支える役割を担うこととなる。そして最後に、すずりを連れて里へ戻った草紫は、厳しい修行と妖怪退治の経験を重ね、初代魂筆使いとして名を馳せ、ついには朝廷の許しを得て筆塚家の名誉を取り戻すことに成功する。魂筆使いとそれに関わる者たちの歴史は、ここから始まりを迎えるのである。
 




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