魂筆使い草助

第十五話
〜『最終章』〜




「来たれ我が身体よ! 長き眠りから目覚め、我らはひとつになるのだ!」

 道暗の歓喜に満ちた嗤い声は、剥き出しの岩壁に当たって幾重にも反響し、岩戸の向こうに潜む得体の知れない物を呼び寄せていた。岩戸は地響きを起こしながら少しずつ横へ移動し、その隙間からは暗黒の霊気が溢れ出してくる。やがて岩戸の向こうに広がる暗闇から、顔のない巨大な人影が、のそりと腕を伸ばして這い出し、道暗の元へと近付いてきた。

「ククク、この瞬間をどれだけ待ちわびたことか。いかに優秀な肉体であっても、人間では代わりが務まりはしないのだ」

 草助の身体を乗っ取っている道暗は、抜け殻となって倒れた元の身体に近付き、服のポケットから小さなナイフを取り出す。刃渡りは五センチほどで、折りたたみ式のアウトドア用品だが、人間の皮膚を刺し貫くには充分である。

「もはやこの肉体も用済みだが、このまま捨て置くわけにはいかんな。筆塚一族の執念には、昔から手を焼かされてきた。しぶとく私の邪魔を続けてきた礼はさせてもらおうか」

 道暗はニヤリと笑みを浮かべると、おもむろにナイフを逆手に持ち替え、躊躇なく首筋に突き刺した。直後、傷口から鮮血を溢れさせながら、草助の肉体は仰向けに倒れた。

「ククク、身体は返してやる。死にゆく感覚を存分に味わえ」

 そう言い残して草助から離れた道暗の霊体は、巨大な人影の元へと飛んで行き、溶けるようにして同化していく。その刹那、脈動のような衝撃が辺りに広がると、洞窟全体が大きく揺れ始めた。道暗と融合した巨体はついに黄泉の岩戸から全身を顕わにして抜け出すと、ゆっくり天を仰ぎ、巨体を揺らして吠えた。

「ウオオオオオオオッ!」

 恐怖の悲鳴、絶望の嘆き、恨みの慟哭――そうした暗い感情の全てを混ぜ合わせたような叫び声と共に、ついに道暗の身体は長い眠りから目覚めたのである。道暗の肉体を形作るのは、戦によって生じた無数の怨念や、成仏できない魂がひとつに寄り集まったもの。それが動き出すということは、即ち全ての破滅を意味していた。やがて顔の無かった部分に、白い面のようなものが浮き上がり、口を大きく開いて息を吸い込むと、天井めがけて一直線に伸びる波動を吐き出した。波動は天井に丸い穴を開けて打ち抜き、その影響で洞窟の天井は大きく崩れ、無数の岩が雨のように降り注ぐ。白い面のような道暗の顔は、穴の向こうを見て口元に弧を描くと、両手をついて四つん這いになり、背中を丸めて全身を震わせた。すると黒い巨体の背中に巨大な翼が生え、それを羽ばたかせて一気に跳躍すると、自らが開けた穴を通って飛び去っていった。

「……」

 一方、崩れる洞窟の中で草助の肉体は倒れたままぴくりとも動かない。道暗の呪縛から逃れられはしたが、命はまさに燃え尽きる寸前であった。

(寒い……息も出来ないし、力も入らない……このまま死ぬ……のか……)

 全身の感覚が急速に薄れていく中、草助の心に語りかける声があった。

(草助、私の声が聞こえているか)
(こ、この声は、さっきの……)
(我が名は筆塚草雲。たった今、魂筆使い誕生の秘密をお前に伝えた者だ。お前にはまだ、立ち上がる意志は残っているか? 道暗の野望を食い止め、この地を救わんと願い戦う意志が)
(身体が動くなら、今すぐにでも追いかけたいですよ。このままじゃ地上がメチャクチャに……)
(分かっている。だが奴の力はあまりに強大だ。ここで立ち上がったとしても、苦痛と絶望の淵へ突き落とされ、ここで緩やかに死を迎えた方が幸せだったと後悔するかも知れない。さあ草助……お前はどっちを選ぶ?)

 すぐに言葉は出せず、草助はうっすらと目を開ける。最初に崩れ落ちてくる天井が目に入り、視線を横に動かすと、抜け殻となった黒崎の肉体が横たわっている。それから反対側に目をやると、うつ伏せに倒れたまま気を失った明里と、自分の手からこぼれ落ちて転がったままの紅い筆が見えた。

(彼女は……巻き込まれただけなんです。僕と関わりさえしなければ、こんな目に遭うこともなかった。すずりだって放っておいたら、こんな場所に閉じ込められたままで……それに)

 草助は遙か頭上に開いた大穴に目をやり、霞む視界の向こうを見て言った。

(僕は今まで、争うのが嫌いだった。絵を描けていれば、それでよかったし、勝ち負けでムキになったり、一番になって目立ったりしなくてもいいやって思ってた。でも、あいつだけは……道暗にだけには負けたくない。他人から全てを奪って、人の心や魂を弄んで笑っているようなあいつには、絶対に……!)

 命尽きかけた草助の身体に、ほんの小さなものではあったが、再び命の火が燃え始めたのを草雲は感じていた。それは草助が見せた意地と、そして道暗への怒り。確かな意志の手応えを感じつつ、草雲は言った。

(もう一度聞こう、草助。お前は己の全てを賭けて、道暗と戦う覚悟はあるか?)
(やります……あいつだけは、このままにしておけない。そのためなら僕は……!)
(お前の覚悟、確と受け止めた。私も出来る限りの協力はしよう。必ず役に立てるはずだ)

 草助は自らの意識が消える前に、静かに頷いた。その意志を確かめた草雲の魂は、傍らに倒れている明里に近付いて呼びかけた。

(目覚めよ……目覚めるのだ……)
「うーん……」

 草雲の魂の呼びかけで、明里は意識を取り戻す。自分がなぜこの場所にいて、なにが起こったのかも分からぬ明里に、草雲の魂は草助の方を指して言った。

(言いたいこともあると思うが、それは後だ。草助の命が、今まさに尽きようとしている……そなたの助けが必要だ)
「えっ!?」

 驚いた明里が目をやると、首からおびただしい血を流して倒れている草助が目に入る。急いで草助の元へ近付くが、顔はすっかり青ざめていて、ほとんど呼吸もしていない。

「た、大変!」

 明里は草助の傷口に両手を当てると、焦る気持ちを必死に押さえながら目を閉じ、意識を集中する。

(深呼吸して、心を落ち着ける……霊力の流れを感じて、そこに自分の霊力を――)

 明里が精神統一を始めると、手のひらが光と熱を帯び始め、それが草助へと伝わっていく。その力が身体の隅々にまで行き渡ると、落ちかけていた草助のまぶたが見開かれた。そして明里の手の上から自分の手を重ねると、草助は呟いた。

「快癒の術――!」

 その直後、止めどなく溢れていた血がぴたりと止まり、真っ青だった顔色も赤味が差して元に戻っていく。明里は驚きながらも恐る恐る手を離したが、首筋の傷跡は綺麗さっぱり消え去っていた。草助の意識がだんだんはっきりしてくると、彼はいきなり飛び起きて激しく咳き込んだ。

「うっ……ゴホッ! ゲホッ、ゲホッ……!」

 気道に溜まっていた血を何度も吐き出してむせる草助の背を、明里が心配そうにさする。しばらくして落ち着きを取り戻した草助は、何度も大きく息を吸い込んで肩を落とす。

「はあ……死ぬかと思った……」

 安堵のため息をつきながら、なにが起こったのか不思議に思っていると、草助の頭の中に早雲の声が響いてきた。

(どうにか間に合ったな。尽きかけていたお前の霊力を、この娘の力が増幅させてくれた。その霊力で私が術を使い、お前の命を救うことが出来た。彼女には後で礼を言っておくように)
「出来るんだったら最初からやってくださいよ、人が悪いなあ」
(心折れてしまった者を蘇らせても意味は無い。我々には儚い可能性を繋ぎ止める、強い意志が必要なのだから)
「ま、まあそりゃそうですが……」
(遠い昔、私は道暗を封じることに成功した。だが奴が恨みを募らせ、肉体と精神を切り離して地上へ逃れてしまったあの時から、いずれこの日が来ることは予感していた。だから私は、その時々で魂筆を振るう者の魂を呼び寄せ、彼らが磨き上げた技と術を蓄積し、次代の魂筆使いへと伝えてきたのだ。お前が妖の郷で修行を行った際、生死の狭間で魂筆使いの試練を受けたはず。その時に語りかけていたのは私だ)
「あ、あの声はご先祖様だったんですか!」

 その時、筆になっているすずりが会話に割って入る。

(そうだよ。こいつってばずっと昔から、死にかけた魂筆使いの魂をあそこに呼んで稽古付けてたんだ。アタシのことも色々知ってたみたいだし、ヘンな奴さ)
「ヘンな奴ってお前、この人は……」

 言いかけた草助の言葉を遮るように、草雲が再び言った。

(さあ、もう時間が無い。急いでここを抜け出して道暗を追い、奴の野望を食い止めるのだ)
「わ、分かりました。じゃあとにかく今は」

 草助は急いで筆を拾い、頭上を見上げる。崩れた天井から降ってくる岩は次第に大きさを増し、空洞は本格的に崩れ始めていた。草助は明里の手をしっかりと握り、訊ねた。

「急いで逃げなきゃ。ご先祖様、どっちへ行けば?」
(こっちだ。私の言う通りに進むがいい)

 草雲が示した方角には、ほんのわずかだが小さな光が見えた。草助は頭の中に聞こえる声の示すままに、崩壊する空間に背を向けて走り出す。点のように小さな光は次第に大きくなり、最後はトンネルのように広がっていた。草助は明里の手を引いたまま、無我夢中で光の中へと飛び込んだ。




 ふと気が付くと、そこは八幡宮の入り口である大鳥居の前だった。地面に倒れていた草助はすぐに起き上がり、隣で倒れている明里と、人の姿に戻っているすずりを揺り起こした。

「二人ともしっかりするんだ」

 目を覚ました二人と一緒に辺りの様子に目をやった草助たちは、あまりの変わりように唖然とするしかなかった。八幡宮の池には巨大な黒い穴がぽっかりと開き、そこから紫色のガスのようなものが溢れており、それに触れた植物はみるみる茶色く変色して枯れていく。しかしそれより異様だったのは、その穴の遙か上空に、真っ黒い雲の塊が浮かんでいたことだった。表面には幾重にも紫色の稲光が走り、とてつもなく不吉な予感を放つものが、その中で蠢いているように思えた。

「あ、あれは……!?」

 驚いている草助たちに向かって、黒い翼を広げた物体が飛来する。正気を失った宇迦之御魂神を食い止めるため、この場所に残った鞍真である。草助たちの前に降り立った彼は、衣服のあちこちが擦り切れていたり、翼が傷んでいたりはするものの、堂々とした佇まいは健在であった。

「戻ったか草助。娘は無事に救い出せたようだが、どうやら一足遅かったようだな」
「すみません。僕が道暗の術に落ちたせいで、黄泉の岩戸が開いてしまいました。どう詫びたらいいのか……」

 暗い表情でうつむく草助に視線を向け、鞍真は毅然としてこう言った。

「起きてしまったものは仕方あるまい。過ぎたことを悔やむ前に、この状況をどうにかするのが先だ」
「しかし、あの禍々しい妖気……あまりにも」
「ああ、これだけ離れていても肌が焼けそうなほどの邪気だ。しかし、我らはなんとしても奴を倒さねばならん。それに散っていた仲間たちも、無事に役目を果たしていればここへ戻って来るはずだ。お主とすずりが無事であれば、まだ希望はある」
「よし……!」

 草助はすずりの方を向くと膝を曲げてしゃがみ、真っ直ぐにすずりの顔を見る。

「正直これからなにが起こるのか、まったく想像もつかない。身体を取り戻した道暗に、僕らの力が通じるのか……それでも一緒に戦ってくれるか?」

 すずりはどこか不安と焦りを滲ませた草助の顔をじっと見つめ返すと、いきなり草助の鼻をつまんで引っ張った。

「あだだだだだ!?」
「なーに辛気くさい顔してんのさ。アタシがいればどんな妖怪だって怖くないって、今まで何度も言ったろ? 最後までどーんと任せとけばいいんだよ!」

 すずりは相変わらずの調子で笑ってみせると、自ら筆の姿に変身して草助の手に収まる。それをしっかり握り締める草助を、明里も頷きながら見つめる。彼女の表情にも、まだ希望の色は失われていない。

「すまない船橋さん、こんなことになってしまって。出来れば安全なところに避難させてあげたかったけど……」
「今更言いっこなしよ。私だってまだ役に立てるはずだもの。ここまで来ちゃったらもう、最後まで付き合うわ」

 明里の答えに申し訳ないと思う一方で、草助は内心救われていた。頷いてからもう一度空を見上げると、黒い雲の塊は依然としてその場に留まり続けている。

「あの中で嫌な気配がどんどん膨れ上がってる……早くなんとかしないと!」
「うむ。すぐに動く様子は無さそうだが、それを待っている必要もあるまい」

 言うなり鞍真は、左手の羽団扇を大きく一振りした。すると一瞬にして小型の竜巻が目の前に現れ、それは猛スピードで黒雲の塊めがけて飛んでいく。

「……むっ!?」

 竜巻は黒雲の塊に直撃したが、表面を覆う紫の稲妻が激しい光と音を出した次の瞬間、竜巻は跳ね返されて真っ直ぐ草助たちの方へ飛んできた。

「うわっ!?」

 咄嗟に散って草助たちは難を逃れたものの、通り過ぎて行った竜巻は、先にあった松の木にぶつかり、ズタズタに引き裂いてから消えてしまった。

「なるほど、あの黒雲は術を跳ね返すのか」

 真顔で見たままの感想を述べる鞍真に、草助は呆れ顔で安堵のため息をつく。

「しかし困ったな、術が跳ね返されるんじゃ、どうやって――」

 鴉天狗の妖術さえ跳ね返すとなれば、あの黒雲を生半可な方法で破ることは不可能である。ただ見ているしか出来ない悔しさを噛み締めていると、鳥居の目の前に猛スピードで黒塗りの自動車が近付き、けたたましいブレーキ音を立てて草助たちの近くに停まった。

「よう、生きてたかオメーたち。なんかヤバイ状況なんじゃねえのかこれ?」
「ごっつい妖気が膨れあがっとるで。なんやねんアレは」

 車から降りてきたのは、定岡とヒザマ、そして美尾だった。空を見上げて顔を引きつらせる定岡とヒザマを他所に、美尾は鞍真と草助、明里の三人に近づいて挨拶をした。

「皆様ご無事だったようですね。しかしこの様子、もしや……」
「面目ない。黒崎――いや、道暗の策略にやられて、あいつは黄泉の岩戸を開き、まんまと自分の身体を取り戻してしまった」

 上空に浮かぶ黒雲の塊を指してそう言う草助に、美尾は冷ややかな視線を送る。

「私たちは自分の役目を果たして参りましたが、それも無意味に終わってしまったということですね」

 返す言葉もなく黙っている草助に、助け船を出したのは鞍真である。

「よさんか美尾。彼らも精一杯やったが、奴の方が一枚も二枚も上手だったということだ。それほどに狡猾な奴が、とてつもない力を手に入れてしまった。この意味が分からんお前ではあるまい」
「はい、目眩がしそうなほど素敵な気分でございます」

 美尾は小さくため息をつくと、空に浮かぶ黒雲の塊に人差し指を向ける。

「鬼火の術!」

 美尾の指先から火の玉が出現し、真っ直ぐ黒雲の塊に向かって飛んでいく。そして鞍真の時と同じように、火の玉はそのまま反射されて草助たちの方に戻ってきた。

「だああっッ!?」

 跳ね返ってきた火の玉は、草助の前髪をかすめて毛先を少し焼いた後、竜巻によってボロボロになってい松の木にぶつかって弾け飛び、残った木の幹を燃やしてしまう。

「なるほど。あの黒雲は妖術を跳ね返すのですね」

 表情ひとつ変えずに鞍真と同じ台詞を吐く美尾に、草助は疲れたように肩を落とす。ふと背後から、ガチャガチャと金属音がして振り返ってみると、定岡が車のトランクルームから長い筒の先に四角い箱のような部品がくっついた武器を取り出し、なにやら準備をしている所だった。

「えーと、その物騒なものは一体」
「見りゃ分かんだろ。携帯式の地対空ミサイルってやつよ」

 砲身を肩に担ぎ上げ、定岡は空を見上げてニヤリと笑う。

「なるほどなー、術がダメと来たかい。だが、こいつはどうかな?」
「どこからこんなモノを……」
「ひっひっひ。こんな事もあろうかと頼んでおいたのさ。ま、緊急事態だからって本当に持って来やがったのは驚いたけどな。普通じゃねえのは知ってるが、蓮華宗ってのはおっかねえ集団だぜ」
「ていうか、妖怪退治にミサイルって」

 呆れを通り越した表情を浮かべる草助に、定岡は心外だと言わんばかりの視線を向ける。

「あのな、前も言ったがオメーらが普通じゃねえんだっつーの。まあ見てろ、現代兵器はちゃーんとバケモノにも通用するのを見せてやるからよ。というわけでホレ、危ねえから下がってろ。ちゃんと耳も塞いどけよ!」

 蜘蛛の子を散らすように草助たちが離れると、定岡は上空に浮かぶ黒雲の塊を照準に収め、躊躇わずにトリガーを引いた。発射されたミサイルは一瞬にして黒雲に命中し、空を引き裂く轟音と共に爆発した。

「き、効いた!?」

 空中に広がる爆煙を凝視しながら、草助は声を漏らす。ミサイルが跳ね返されなかった事もあるが、黒雲の向こうから感じていた禍々しい妖気に、何らかの「ゆらぎ」を草助は感じたからである。しかしそれはわずかな間に過ぎず、そればかりが妖気が爆発的に膨れ上がり始めていく。

「ううっ……!」

 胃袋を圧迫されるような悪寒に、草助は口元を押さえながらも目が離せない。やがて少しずつ煙が流れ去っていったその場所には、普通の人間と体格は同じだが、灰色の全身に薄紫の筋が幾重にも走った、奇妙な姿となった道暗が、淡い紫の光を放ちながら宙に浮かんでいた。

「フフフ……」

 その顔はいつも通りの貼り付いたような笑みであったが、その作られた表情の裏に秘められた威圧感は、今までの比ではなかった。妖気によって逆立つ髪を揺らめかせながら、道暗は目を閉じたままゆっくりと口を開く。

「実に良い気分だ。これほど清々しい感覚は、何百年ぶりか」

 まるで何事も無かったかのように、道暗は天を仰ぐ。すると遙か上空から幾重も稲妻が降り注ぎ、道暗に直撃する。しかし道暗はそれをものともしないばかりか、さらに妖気を膨れ上がらせて周囲に放ち、大気を震撼させた。それから顔を元に戻し、道暗は平然と言い放つ。

「なにやら回りで騒いでいたようだが……私にそんな玩具は効かんぞ」

 定岡は口を開けて唖然としながら、発射済みの砲身を投げ捨てて後ずさる。

「お、おい、ピンピンしてやがるぞアイツ……」

 顔中に冷や汗を浮かべている表情を見れば、今すぐここから逃げたいと全力で思っているのが見て取れたが、誰もそれを責めることは出来なかった。

「臆するな、こちらにはまだ草助と魂筆がある。奴が黄泉の国より出でし存在である以上、お前たちの力は必ず通じるはずだ」

 鞍真は皆の心を奮い立たせようとした鞍真の言葉を耳にしたからか、道暗は顔を草助に向け、凍り付きそうな殺気を放ちながら続けた。

「確かに頸動脈を裂いておいたはずが、あの状態から息を吹き返してくるとはな。我らの間に横たわる因縁は、思った以上に根深いようだ。今度はその首を切り落とし、確実に息の根を止めてやろう」

 道暗はゆっくりと、細めていた両眼を開き始める。彼の瞳は深く透明な紫で、夕暮れ時の空に闇が広がる時のような、不安を掻き立てる色に染まっていた。やがて道暗が完全に目を見開くと同時に、目の前で大きな爆発が起こったような、凄まじい圧力と妖気の波動が草助たちを襲った。

「うわっ!?」

 草助と明里は立っていられず、その場にしゃがみ込んでやり過ごす。定岡は少し離れた植え込みに頭から突っ込み、傍らの枝に青いバケツに入ったヒザマも引っかかっていた。鞍真と美尾は宙に浮かんで持ちこたえていたが、二人の表情には陰りが色濃く浮かんでいた。

「なんと禍々しく、そして底の知れぬ妖気だ。あの方の力とはまるで逆の……!」
「はい。久しぶりに最悪という気分でございます」
「もはや一歩も奴を進ませてはならん。美尾、手を貸せ!」
「承知致しました」

 鞍真は数枚の羽根を引き抜き、それを道暗めがけて手裏剣のように投げつける。手元を離れた羽根手裏剣は、一枚が二枚、二枚が四枚と倍々に増えていき、最後には帯のように広がり、渦を巻きながら嵐の如く降り注ぐ。美尾もそれと当時に、大量の鬼火を一斉に出現させる妖術「不知火」で道暗の周囲を取り囲み、鬼火を一斉に破裂させた。道暗の姿は渦を巻く羽根と大量の火炎に呑み込まれ、まったく見えなくなった。その様子を見上げながら、ようやく起き上がった定岡とヒザマがはやし立てる。

「へっ、見た目がちょっと変態っぽくなっただけで、大したことねーじゃねーか」
「昔の映画に出て来る宇宙人みたいやったなアイツ。今時そんなカッコ流行らへんちゅうねん……って、なんやアレ!?」

 言いかけて、ヒザマはヘンな声を出して言葉を詰まらせたが、それは状況を見守っていたその場の全員が、まったく同じ感覚を味わっていた。

「あ、あれは……!?」

 明里を助け起こしながら、草助は青ざめた顔で叫んだ。未だ吹き荒れる羽根と燃え上がる炎の向こうで、なにか巨大な物が動いたのだ。それは異界の底で見た巨大な影――黄泉の岩戸の向こう側にあった巨体とよく似ていたが、背丈は三十メートルほどに膨れ上がり、うっすらと透き通る表面には、苦悶と慟哭に悶える亡者の顔が蠢き合い、一面に浮かび上がっては消えていく。道暗は空に浮いていると言うよりは、その半透明の巨人の心臓に当たる部分に収まっている格好だった。あまりのおぞましさに明里は目を背け、草助も思わず鳥肌が立ったまま固まってしまう。透き通る巨人は、ゆっくりと片手を持ち上げると、道暗のいる胸元を無造作に手で握り込む。その瞬間、羽根の渦も妖術の炎も一瞬にしてかき消され、まるで何事もなかったかのように道暗が姿を現した。しかし鞍真と美尾の術をかき消した後も、透き通る巨人は意味もなく手を振り回したり、指を握ったり開いたりを繰り返していた。

「なるほど。大きすぎる力を扱うというのは、少しばかり慣れが必要らしい」

 感覚を確かめるように、道暗は自分を包む巨体を眺めながら呟く。そして再び草助たちに目を向けると、両手を広げて余裕に満ちた笑みを浮かべた。

「寝覚めの運動代わりに、もう少しだけ遊んでやろう。どこからでも攻めて来るがいい」

 道暗は草助たちを見下ろしたまま、まったく動こうとしない。明らかにこちらを侮っている態度に少し腹を立てながらも、鞍真と美尾の術を一瞬で消し去り、まるで傷を負った様子も無い相手をどう攻めるべきか、残る方法はひとつだけだった。

「普通の術では歯が立たぬ以上、後は魂筆の力に託すのみ。我らが奴の目を引いている間に近付き、一撃をくれてやれ!」

 鞍真の言葉に皆が頷き、草助を見る。視線に込められた責任の重さに少し尻込みしながらも、草助は握り締めた紅い筆に目を落としてから言った。

「ここまで来たらもう、僕は信じるだけですよ」

 草助が答えると、すずりの声が頭の中に響く。

(ガツンといくよ草助。あの余裕ぶった顔を慌てさせて、思い知らせてやりな!)

 こんな状況でもいつも通りなすずりに、草助も勇気付けられる。

「それじゃ援護を頼みます!」

 草助が顔を上げて頷くと、その場に居た全員も一斉に動いた。まず定岡が足元に煙幕弾を投げ、道暗の視界から自分たちの姿を隠すと、立ち上る煙の後ろでは美尾に合図をもらった明里が精神統一をし、鞍真と美尾、そして草助の順に手を触れる。すると明里が注ぎ込んだ『霊妙力』によって、三人の力が増幅されていく。

「これは大したものだ。失った妖力が再び湧いてきおったわ」
「ご立派です明里様、この状況でも心は乱れていませんね。霊力操作を教えた身として、嬉しゅうございます」

 背を向けたまま言う美尾の褒め言葉に、一瞬だけ嬉しそうな顔をしつつ、明里は再び真剣な顔つきで意識を集中させる。充分に妖力が高まった鞍真と美尾は、両手で印を結び術を発動させる。

「妖力、分身の術――!」

 すると一瞬にして、彼らと同じ姿の分身がその場に数十体ほども出現し、すぐさま道暗めがけて飛び立っていく。分身たちは透き通る巨人ごと道暗の周囲を取り囲むと、四方から一斉に攻撃を仕掛けた。鞍真の分身は突風を巻き起こし、さらに天狗礫の術で浮かび上がらせた石や瓦礫を次々に浴びせていいく。続く美尾の分身は、道暗に向けて鬼火の術を撃ち出す他にも、蛍の光を野球のボールほどに大きくしたような光の玉をいくつも作り出し、それを周囲に漂わせていた。その光は不安定な波長の妖気を含んでおり、周囲の気配がまったく掴めなくなっていた。

「す、すごい……!」

 自分の出る幕など無いんじゃないかと思う草助だったが、すぐ目の前にいる美尾が空を見上げながら言った。

「見てくれは派手ですが、所詮は目眩まし。頼りはあくまで筆塚様なのです」

 美尾の言葉に続いて、鞍真が言う。

「うむ、奴の元へはわしが飛ばしてやろう。行くぞ草助!」

 鞍真が大きな手で草助の背中を叩くと、草助の身体はふわりと宙に浮き上がり、矢のように真っ直ぐ飛び出した。

「おわあっ!?」

 予想外の勢いに空中で体勢を崩しながら、草助は道暗の透き通る巨体に近付いていく。道暗の本体は動く様子も無かったが、透き通る巨人が大きな右腕をゆっくり薙ぎ払うと、それだけで鞍真と美尾の分身が半数ほども消滅してしまった。その威力もさることながら、それ以上に草助をゾッとさせたのは、巨体が動く度に全身から撒き散らされる、恨みと絶望に満ちた念であった。

(ううっ、近付いただけで目眩が……なんて凄まじい妖気なんだ!)

 歯を食いしばりながら、草助は透き通る巨体の姿勢が元に戻らないのを見て、今が絶好のチャンスだと筆を振りかぶる。

「でえええええいっ!」

 勢いに乗ったまま、草助は自分より巨大な腕めがけて一気に筆を振り下ろした。筆先が触れた瞬間、透き通る表面が裂け、そこから黒い墨が溢れ出して地面に流れ落ちていく。

「効いたぞ!」

 裂けた部分はどんどん広がり、溢れ出す墨の量も増えていく。確かな手応えに草助は思わず叫んだが、道暗の本体はまるで何事も無かったかのように、平然としている。

(な、なんだ……? どうして無反応なんだ?)

 息を呑む草助たちの前で、道暗は溶け出していく巨体の腕に目をやりながら言った。

「やはりこの身体でも、その筆の力には耐えられんか」

 透き通る巨人は、溶け出す右腕を左手で掴むと、力任せに引きちぎってその場に投げ捨てた。地面に落ちた右腕はみるみるうちに腐った肉のような色へ変貌し、大量の亡者が溶けて繋がったような、醜い塊となっていく。それらは墨になっていく部分から逃れようと、我先に争いながらもがき続けていたが、間もなく全てが溶け、大きな墨溜まりとなって動きを止めた。

「その筆の力、忌々しいが大した物よ。だがこの程度では、私に傷を付けた事にはならん」

 透き通る巨体がちぎれた右手を掲げると、八幡宮の池に開いた漆黒の穴から、大量の亡者や怨霊が飛び出して右腕に集まり、瞬く間に右腕は元通りになってしまった。

「なんて奴だ……!」

 悔しそうな表情を浮かべる草助に、道暗はさらに言う。

「筆が我が身体に触れたところで、今のように付け替えれば問題はない。素材などいくらでも手に入るのでな」

 目の前で起きた現象と道暗の言葉から想像すれば、道暗は亡者の魂などを自在に操り、自らの一部としているのは間違いない。そして黄泉の岩戸が開いたままである以上、道暗はほぼ無尽蔵にそれらを呼び出せるということになる。それだけでも絶望的ではあるが、草助の心にはある疑問がずっと引っかかっていた。

(やっぱり変だ。付け替えれば済むとか、そんな話じゃない。あれだけ用意周到な奴が、自分の弱みを残したまま、しかもそれを僕らに教えたりするのか?)

 くすぶっていた疑惑は、やがて黒い暗雲のように重く立ち込め、広がっていく。嫌な予感に焦る草助の心情を見透かしてか、道暗は不敵な笑みをもらす。

「いいか小僧、私は全てをぶつけてこいと言ったはずだ。お前に色々と手を貸し、入れ知恵をしている奴がいるようだが、小細工は無意味だと伝えておけ」

 分かりやすい挑発ではあったが、道暗の言葉通りにするしか道は残されていない。しかし相手はあまりに巨大なうえ、筆の一撃でさえすぐに回復してしまう。

「くっ……」

 どう攻めるべきか悩んでいると、草助の心に声が響く。

(ここまで露骨に呼ばれては、出て行くしかないな。道暗め、やはり最初から気付いていたか)

 草雲は気配を隠すのをやめ、音もなく草助の背後に浮かび上がった。いきなり現れた草雲の魂に、草助の周りにいた皆が驚きの目を向ける。その中でも鞍真は草雲を見るなり声を上げた。

「おお、懐かしいですな初代殿。この度の決戦、必ずや加勢してくれると信じていましたぞ」
「ああ、久しぶりだね鞍真。最初に会った時は、まだ君が若く血気盛んな頃だったか……妖の郷のこと、そして筆塚の血筋のこと、君にはずいぶんと世話になった。だが積もる話は後にしなくては」

 草雲は顔を上げ、空中に浮かぶ道暗に真っ直ぐ目を向けて言う。

「久しぶりだな道暗。完全に気配は断っていたはずだが、よく見破ったものだ」
「それで隠れたつもりとは、相変わらず間の抜けた奴よ。その小僧が生きている以上、お前が手を貸したと考えるのが自然というものだろう」

 嘲笑うような視線を向ける道暗を気に留めず、草雲は続ける。

「こうして面と向き合うのは八百年ぶりか。二度と会いたくは無かったが」
「そうでもないぞ草雲。この数百年、筆塚の一族とそれに縁ある者どもが、幾度となく私の邪魔をしてくれたおかげでな。潰しても潰しても這い出してくるウジ虫のように、実に目障りな奴らだったぞ」
「長い時を経ても尚、その歪んだ心は変わらなかったか。いや、どす黒さは比べ物にならない程に増している。道暗、お前はここに辿り着くまで、どれだけの犠牲を積み上げてきた!」
「憶えておらんな。全ては取るに足らぬ、些細なものよ。今更お前が出てきたところで、我が歩みを止めることは出来ん。せいぜい大人しく見物でもしていろ」
「そうはいかない。忌まわしきあの日より続く我らの因縁、今こそ清算させもてらうぞ!」
「いいだろう。地の底で朽ちかけていただけのお前に、何が出来るのか見せてもらおうか」

 せせら笑う道暗に対し、怒りを湧き上がらせていたのは草助だった。

「許せない……」

 草助にとって、過去の魂筆使いがどんな人々だったのかまでは分からない。それでも彼らの生涯を侮辱されるということは、祖父や祖母、そして命がけで自分を産み落としてくれた、両親への侮辱と同じだった。

「取るに足らないかどうか、もう一度試してみたらどうだ!」

 こうなったら考えるより動けとばかりに、草助は道暗めがけて突っ込んでいく。地面を蹴って矢のように飛び出すと、目の前の空中に向けて『跳ね』の動きで筆を振り、空中に描かれたその軌道に飛び乗る。すると身体が弾かれるようにして舞い上がり、道暗のいる高さまで一気に跳躍した。魂筆八法の技のひとつで、触れた物を弾く蟹爪という技である。

「そりゃあああっ!」

 草助はみるみるうちに接近し、心臓部にいる道暗めがけて筆を振りかぶる。しかし一瞬早く、道暗の透き通る巨体が手で行く手を塞ぐ。勢いづいた草助は止まる事なく、そのまま筆を振り抜いた。筆の一撃は丸太よりも太い指を一気に切り裂き、地面に落ちた指の部分と切断面は、墨となって溶け崩れていく。

(そうさ、筆の力が効いてないわけじゃないんだ。再生するよりも早く、あいつの身体を削ぎ落としてやる――!)

 地面に着地した草助は、再び同じように蟹爪の技を使い、高く飛び上がって道暗に攻めかかる。道暗はといえば、本体がいる部分を両腕で守るようにしているばかりで、動く気配がない。ならばと草助は連続で攻め続けるが、それは相手の懐に飛び込んでいることを草助は失念してしまっていた。

(待て草助、近付き過ぎだ!)

 心に響く草雲の言葉に、草助はふと我に返る。それと同時に、今までじっとしていた透き通る巨体がいきなり両腕を開き、その向こうで道暗が両眼を輝かせているのが見えた。

「ま、まずい――!?」

 道暗に向かって真っ直ぐ飛びかかっていた草助は、身の危険を感じて無理矢理身体をひねる。その直後、道暗の両眼から一直線に伸びる光線が放たれ、草助の脇をかすめていく。光線は近くにあった石灯籠を、まるで豆腐のようにたやすく切断するほどの威力だった。バランスを崩した草助はそのまま、背中から植え込みに落下して無事だった。

「あ、危なかった……」

 顔中を小さな葉っぱまみれにしながら、草助は青ざめる。もしあの光線に触れていたら、胴体が真っ二つに分かれてしまうところである。

(だから待てと言ったんだ。無事だったから良かったが)

 頭の中で響く草雲の叱責に、頭に血が上った自分を振り返りながら草助も頷く。

「すみませんでした、つい」
(不用意に相手の懐へ飛び込むのは自殺行為だ。魂筆使いなら、それらしい戦い方をしなければ。今のお前は私を通じ、歴代の魂筆使いが編み出した技が身に付いている。巨大な敵と戦う方法を求めれば、自然に答えが思い浮かぶはずだ)
「巨大な敵と戦う方法か……」

 冷静さを取り戻した草助は、起き上がりながら妖の郷での修行を思い出す。特に力を入れて鍛えたのは、全ての基礎となる魂筆八法だが、それ以外にも空中に書いた文字の力を現実とする『幽玄の書』についても、いくつかの技は練習していた。その修行の中で学んだ技のうち、使えそうなものを思い浮かべて草助は道暗を見上げる。すると草助の脳裏に、技のイメージと必要な文字が自然と浮かんでくる。

「……よし、やってみよう!」

 草助は気を取り直し、道暗の出方を注意深く窺いながら、素早く目の前に『煙』の文字を書く。するとたちまち大量の煙が辺りにたちこめ、草助の姿をすっかり覆い隠す。その煙の中で草助は大きな円を描き、その内側に『鎖』の文字を書き込んだ。それを打つようにして筆を払うと、文字は道暗の足元へ飛んで大きくなり、道暗をぐるりと取り囲む形になる。そして円の内側にある『鎖』の文字から、長大な鎖が次々に飛び出し、生き物のように動いて道暗の巨体をがんじがらめに縛り上げた。透き通る巨体は鎖を外そうとするが、頑丈で複雑に絡みついた鎖はびくともしない。

「まだまだ、これで終わりじゃないぞ!」

 すかさず草助が『浄』の文字を書き、やはり筆で打つように送り出すと、文字は鎖にぶつかって光の粒となり、その光は鎖全体に広がって吸い込まれていく。刹那、鎖全体が青白い光を帯びたかと思うと、鎖が触れている全ての部分で光が弾け飛んだ。飛び散る光は互いに混じり合ってより大きくなり、その光に巻き込まれた部分は邪悪な気配が浄化され、抉り取られたようになって消えていく。あきれるほどに巨大だった透き通る身体は、そのほとんどが失われてしまっていた。

「魂筆使いの技は、文字を組み合わせることでさらにその威力を増すことが出来る。幽玄の書の複合技、浄めの鉄鎖……これでもまだ涼しい顔をしていられるか道暗!」

 大技を披露した草助は、筆を構えながら叫ぶ。ほとんど吹き飛ばされてしまった巨体のうち、無事だった心臓部に浮かぶ道暗は、それでも悠然とした態度を崩さない。そればかりか自分の身体に受けた損害を、あれこれと値踏みするように眺めていた。

「なかなかの威力だ。一瞬でこれだけ身体が消し飛ぶとはな」

 決して軽くはない打撃を受けているのに、道暗は笑みさえ浮かべている。道暗に対する疑惑は頂点に達し、草助は思わず呟く。

(やっぱりおかしい。これだけダメージを受けていながら、あの余裕は何なんだ?)

 そんな疑問を見透かしてか、道暗は笑みを浮かべつつ視線を合わせる。

「フフフ……己を知るというのは重要なことだ。自分の身体がどこまで耐えられるのか、知っておいて損はない」

 意味ありげに言う道暗だが、それが本心などではないことは、草助にも分かりきっている。しかし道暗を包んでいた巨体がほとんど消滅した今、本体を叩くチャンスなのは間違いない。

「また再生する前に、お前の本体ごと祓ってやる!」

 自らを奮い立たせるように言い、草助が動こうとした矢先、突然道暗は高笑いを始めた。

「フフフ……ハハハハハ!」

 いきなり笑い始めた道暗に、草助は気勢を削がれてしまう。

「なんだ……?」

 直後、凄まじい妖力が道暗の本体から解放され、その圧力で草助は弾き飛ばされてしまう。鞍真の妖力のおかげで地面に落ちることはなかったが、身体の芯に響く重い衝撃だった。歯を食いしばりながらも耐えた草助が道暗の方に目をやると、道暗を包む透き通る巨体に異変が起きていた、残っていた部分は音もなく剥がれ落ち、亡者の悲鳴やうめき声を包み込んだまま、塵となって消滅していく。やがて道暗を覆っていた全てが消えて無くなると、道暗は自分の手を動かし、指を握ったり開いたりを繰り返しながら言った。

「お前たちには礼を言わねばな。少し動かしてみて分かったが、あれは私にとって余計なもの……強大な力にこびり付く不純物だったのだ。それを削ぎ落とすために、少しばかり協力してもらったというわけだ」
「なんだって!?」
「お前たちは相変わらず筆の力に頼っているようだが、そんなものは儚い望みでしかない。それをこれから教えてやろう」

 道暗が両眼を輝かせると、急に地面が盛り上がり、刀身に蛇が巻き付いた形をした、一本の剣が飛び出してきた。その剣は青白い妖気を漂わせて宙に浮かんでいたが、道暗が剣に向けて右手をかざすと、吸い寄せられるようにして道暗の右手に収まった。

「フフフ……」

 剣を手にした道暗が笑った次の瞬間、彼は音もなく草助たちの背後に立っていた。そして道暗が剣を持っていない左手を軽く薙ぎ払っただけで、その場の全員が木の葉のように軽々と吹き飛ばされてしまう。

「うわあっ!?」

 背中から地面に打ち付けられ、そのまま数度転がってようやく止まった草助は、ぐらぐら回転する視界に頭を抑えながら顔を上げる。目の前には、自分を見下ろすように立ち、剣先を突き付ける道暗の姿があった。鞍真や美尾といった他の仲間もすぐに体勢を立て直そうとしたが、道暗がひと睨みしただけで身体の自由を奪われ、石像のように身体が固まって、声を出す以外に身動きが取れなくなってしまった。

「ぐうっ、わしの動きをこうも完璧に封じるとは、なんという妖力……抜かったわ……!」

 呪縛を逃れようと全身に力を込めながら、鞍真は目を血走らせて恨めしそうな声を漏らす。妖の郷を束ねる鴉天狗さえ、いとも簡単に封じてしまう道暗の妖力に、草助は戦慄した。

「ううっ……!」
「このままお前の首を刎ねてもいいが、一度だけチャンスをくれてやる。これから三分間、お前が私に一度でも触れることが出来たなら、お前とその仲間は見逃してやろう」
「それを信用しろって言うのか?」
「動きたくなければ好きにしろ。ただしその場合、一分ごとに仲間を一人ずつ始末する。まずはその小娘から――」
「ま、待てっ!」

 あえてこんな条件を付けてくる時点で、道暗の本心など透けて見えるようなものである。だが、それに応じるより他にどうしようもなかった。

「ええい、こうなりゃやってやる――!」

 草助は南無三と心の中で念じながら、道暗めがけて突っ込んでいく。指一本動かそうとしない道暗の正面に素早く踏み込み、一気に筆を振るう。ところが筆が触れたと思った次の瞬間には、道暗は音もなくその場から消え、草助の背後に立っている。

「……!?」

 とっさに振り向いて飛び退く草助を、道暗はただ笑いながら見つめている。

「どんなに強力な武器や技があろうと、当たらなければ意味がなかろう。さあ、もっと必死に向かって来い。仲間の命はお前が握っているのだぞ」
「く、くそっ……!」

 草助はがむしゃらに突っ込んでは筆を振り回すが、全て虚しく空を切るばかりで、消えては現れる道暗にはまるで届かない。それでも息を切らしながら筆を振るう草助の心に、草雲の声が語りかけてきた。

(焦るな草助。どんな苦しい状況でも、最後まで諦めずに相手を見るんだ。必ず隙はある)

 草雲の言葉に落ち着きを取り戻し、草助は呼吸を整えながら考える。

(そうだ、よく考えろ……道暗は自分の力に絶対の自信を持ってる。つまりそこに油断があるはずだ。チャンスを待って、奴の意表を突くんだ――!)

 ひたすら修行した魂筆使いの技のうち、重点的に鍛えたのは、全ての基礎である魂筆八法である。その中でも特に、斬撃を飛ばす虎牙という技を鞍真に叩き込まれた。筆を武器とするがために、間合いを詰めて戦わなくてはならない魂筆使いにとって、間合いの離れた相手に一撃を加えられるこの技は、非常に有効な攻撃手段だからである。これなら道暗に一撃を加えられるかもしれない。草助は密かに思いながら、道暗に向かって突進する。

「でやあああっ!」

 がむしゃらに突っ込みながら、草助は道暗が消えて次に現れる場所について数えていた。正面に再び現れることは稀で、ほとんどが横や背後から現れる。そこでおおよその見当を付け、次に背後に現れるだろう瞬間を待った。

(――今だっ!)

 道暗が目の前から姿を消したその瞬間、草助は腕を振り抜いた勢いを利用してそのまま身体を反転、振り向きざまにすかさず筆を水平に薙ぎ払う。弧を描いた筆の軌道は、背後に現れた道暗の元へ一瞬で届き、彼の胸の下辺りを真一文字に斬り付けていた。

「これでどうだっ!」

 手応えを感じ、草助は思わず声を上げた。事実、道暗の身体には確かに傷が付いている。筆を使った技が当たった以上、道暗もただでは済まないはずだからだ。

「フフフ……まずは見事、と言っておこうか」

 だが道暗は動じるどころか、何事も無かったようにただ薄笑いを浮かべている。そんな馬鹿な、と草助は目を凝らしたが、やはり道暗は平然としているだけだった。

「くっ、確かに手応えはあったのに……どうしてお前は平気なんだ!」

 腑に落ちない草助と対称的に、道暗は余裕に満ちた表情で答える。

「その筆の力、確かに侮れん。しかし私も長い付き合いなのでな。見るがいい」

 道暗が手にした剣を振りかざすと、灰色だった全身の表面が一気に剥がれて飛び散った。そしてその下からは、黒く光沢のある鎧が現れ、頭を除く全身を隙間なく包んでいた。その鎧からは、道暗とは別の強い妖気が感じられ、陽炎のように立ち上る妖気の中から、遮光器土偶に似た人形の姿が浮かび上がる。その土偶を見て、金縛りのままの明里は声を上げる。

「あっ、あれは――!?」
「知っておられるのですか、明里様」

 聞き返す美尾に視線で答え、明里は不安げに言う。

「霊園の向こうの山にあった光の柱で、あの土偶みたいな怪物が私たちを襲ったの。それで禰々子さんが戦ったけど、やられちゃって……それで私だけ、ここの地下に連れてこられたの」
「そうでしたか。怪力だけが取り柄とはいえ、禰々子は腕っ節ひとつで河童の一族を束ねていたのです。それを倒した相手となれば、相当な実力の持ち主なのでしょう」
「うん、荒覇吐って名前で、忘れられてしまった古い神様らしいんだけど」

 荒覇吐の名を聞いた途端、鞍真の目つきが険しくなる。

「なんだと! 荒覇吐といえば、古代に広い信仰を集めた神ではないか。それを己が野望のため、いいように操るとはなんたる侮辱!」

 殺気立って全身の羽毛を逆立てる鞍真だったが、道暗の強力な呪縛は、彼らが動く事を決して許さない。そんな様子を意に介する事もなく、道暗は草助に訊ねる。

「私のこの姿がなにを意味するか、お前には理解出来ているか?」
「意味って……鎧を着て頑丈になったとかでは――」

 深く考えずに答える草助の背後で、草雲が急に姿を現し、険しい表情を浮かべていた。

(道暗め、今までの余裕はこれが理由か!)
「ど、どうしたんです、ご先祖様」
(この世に完全無欠なものなど存在しない。お前が手にしている魂筆もそうだ。確かにこの筆は魔神すら封じる力があるが……魂を持たぬ、ただの物質に魂筆の力は及ばないのだ)
「えっ。それじゃまさか……」
(あの鎧はおそらく鋼鉄。つまり筆を使った術や攻撃は、奴に通じないということだ)
「そっ、そんな!?」
(荒覇吐は武器や製鉄を司る、古き戦の神。道暗は今の姿になる直前、筆の力を封じることを見越して、その力も取り込んでいたんだろう。抜け目のない奴だ)

 一気に顔色が青ざめていく草助に、道暗は一歩ずつゆっくりと近付き始める。

「つまり最初から……お前たちには勝ち目など存在していなかったのだ」
「ま、待てっ。筆の力はともかく、お前に触ったのは本当じゃないか。約束通りみんなを解放するんだ!」
「フフフ、私は約束を守るのが苦手でな。最初の予定と違ってしまうのは、よくあることだ」
「やっぱり嘘だったんだな!」
「私がお前たちを見逃しておくと思うのか。異界の底で、お前の死を確認せず放っておいたのも、一秒でも復活を遅らせたくなかったからだ。力を取り戻す前だろうと、お前たちをひねり潰すなどわけもない。だが、ただ殺すだけでは駄目なのだ」

 その時、道暗の周囲が一気に冷え込み、どす黒い暗黒の冷気が溢れ出す。

「魂筆使い……いや、人間というのは厄介でな。たとえそいつを始末しようと、どこからかその意志を継ぐ者が現れては、しつこく立ち塞がってくる。だからお前たちを根絶やしにするには、その心を絶望で満たし、刃向かおうという意志を根こそぎ刈り取る必要がある。だからあえて、お前を今まで生かしておいてやったのだ」

 草助の目の前まで近付き、道暗は立ち止まる。引きつった表情のまま動けない草助の心に、なぜか急に八海老師の顔が思い浮かんでいた。

(駄目だ、どうやってもこの状況を抜け出せる気がしない。こんな時に老師がいてくれたら……)

 そんな思いを見透かすように、道暗は冷酷な笑みを浮かべながら訊ねる。

「ところでお前の仲間のうち、老いぼれが一人いただろう。奴はいつここへ来るのだ?」
「いつって、もうすぐ来てくれるはずだ」
「フフフ、果たしてそうかな」
「ど、どういう意味だ!」
「あの老いぼれは死んだ。羅刹との戦いで力を使い果たしてな」
「う……嘘だ! デタラメを言うな! し、信じないぞ……あの老師が死ぬなんて!」
「嘘ではない。式神を通じ、私は全てを見ていたのだからな」

 道暗は手の平を上に向け、一匹の蛾を出現させる。蛾は羽ばたいて手の平から舞い上がると、薄紫色の光を周囲に放つ。するとその光の中に、羅刹と戦う八海老師の姿が映し出される。その映像で戦いの結果までは見られなかったが、現場を目撃していたという裏付けには充分だった。

「そ、そんなはずが……あのしぶとい老師が、そんな簡単に死ぬもんか!」
「どれだけ否定したところで結果は変わらん。もう誰も来ない。その筆も役には立たない。これが現実だ」
「う、嘘だ、嘘だ……そんな……」

 激しく動揺する草助を楽しげに眺めながら、道暗は続ける。

「老いぼれの死がよほど堪えたようだな。だが案ずることはない。すぐにお前たちも同じ場所へ送ってやる。真の絶望をその魂に刻みながら、仲良く奈落の底を彷徨え」

 道暗がさらに一歩を踏み出すと、草助も同じだけ後ずさる。それを何度か繰り返した後、草助の中で何かが堰を切ったように溢れ出す。

「く、来るな……来るなッ!」

 草助はすっかり怯えきった表情を浮かべ、闇雲に筆を振り回す。虚しく空を切る筆を眺めながら、道暗は嘲笑う。

「無様なものだな。八百年間続いた魂筆使いの最期がこの有様では、お前の先祖どもも浮かばれまい」
「うわああああっ! 来るな、近寄るなッ!」

 すっかり冷静さを失ってしまった草助の心に、草雲とすずりの叱咤の声が響き渡る。

(落ち着きな草助! そんなんじゃ雑魚妖怪だって倒せやしないよ!)
(自分を見失ってしまっては、万に一つの勝機も消えてしまう。それが分からないのか!)

 しかしすずりや草雲の呼びかけも虚しく、草助は怯えきった目で筆を振り回すだけである。道暗は素早く踏み込んで草助の腕を払い退けると、がら空きになった胸元に左の掌底を叩き込む。道暗にとっては撫でる程度のつもりが、その一撃で草助の肋骨は数本が折れ、身体の内側を滅茶苦茶にされたような衝撃が走る。苦痛のあまり、草助はたまらずその場に崩れ落ちた。

「がは……ッ!?」

 呼吸ができずに悶絶する草助を、道暗はじっと見下ろす。その視線は痛いほどに冷たく、確かな殺意に満ちていた。

「さて、そろそろ茶番も終わりにしようか」

 道暗が草助の喉に剣の切っ先を突き付けたその時、草助の手に握られていた筆が輝いて元の姿に戻り、すずりが道暗の前に立ち塞がった。

「待ちな! これ以上はアタシが許さないよ!」

 威勢よく言い放つすずりに対し、道暗はゆっくりすずりに視線を移す。苦痛の中でそれを目撃した草助は、感覚が失せかけている身体を起こそうともがいた。

「や、やめ……ろ……すずり……!」

 しかしいくら必死になろうと、呼吸が上手くできない状態では、霊力の練り上げもままならない。治癒の術を使う余裕もなく、草助は手を伸ばすのがやっとだった。

(逃げろすずり! お前がやられてしまっては、最後の可能性すら失われてしまうんだぞ!)

 草雲も叫ぶが、すずりは頑としてその場から動こうとしない。道暗はそうした声を楽しむかのように聞きながら、すずりに向かって言う。

「ずいぶんと勇ましいことだ。人間ならばこの場合、美しい自己犠牲とでも言うのだろう。だがすずりよ……お前の我が身を省みぬその気性こそ、我々の数百年にわたる因縁を作り出した原因なのだぞ。お前のおかげで私は肉体を失い、人から人へ乗り移る生活を強いられた。魂筆使いどもはお前の力に翻弄され、妖怪と戦っては次々に死んでいった。ずいぶんと酷い話だとは思わんか、なあ?」

 道暗は粘っこい言い回しで、すずりの心を抉るように言う。

「そうだよ。アタシに関わった連中は、みんな戦って戦って、傷つきながら死んでいくんだ。だからアタシだって、最後くらい身体張らなきゃ……みんなに会わせる顔がないんだ!」

 道暗に向かって啖呵を切るすずりは、少しだけ顔を草助に向けて言った。

「草助……アタシやじーさんがいなくたって、オマエはもう自分の足で立てるはずだよ。どんなに苦しくたって、最後の最後まで望みを捨てちゃ駄目だよ。今までアタシが見て来た……魂筆使いはみんなそうやって生き抜いて、次の時代に思いを繋いできたんだ。草助も男なら、自分で決めた事は最後まで貫きな。いつまでもみっともない顔してたら承知しないよ!」

 口調は厳しかったが、すずりは微かな笑みさえ浮かべた顔をしていた。それも一瞬のことで、すぐさま道暗を睨み付けた。

「フフフ……小僧を奮い立たせるために、自分を盾にするとはいい心がけだ。だが分かっているのか? お前が消えれば、もうこの世に私を脅かす物は存在しなくなるのだぞ」
「そうだとしても、草助はオマエなんかに負けたりしない。なんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いだよ!」

 言い終わると同時に、道暗は目にも止まらぬ速さで左手を伸ばし、すずりの喉を掴んで持ち上げる。

「うっ……!」
「いいだろう。では私が、お前を忌まわしい運命から解き放ってやろう」

 冷たくて固い鋼の指が、すずりの喉に容赦無く食い込む。わずかなうめき声を上げながら、すずりは道暗の腕を掴むが、それが精一杯だった。草助はわずかな力を振り絞って地面を這い、道暗の足元に縋り付く。

「やめろ……すずりを……離……!」

 道暗は草助をつま先で軽く押し退け、満足げに冷たい笑みを浮かべて言い放つ。

「どれだけ足掻いたところで、お前たちに残されているのは破滅と絶望だけ……さらばだ」

 道暗の左腕に妖力が込められた瞬間、すずりの身体は光の粒となって弾け飛んだ。それは音もなく舞い散り、音もなく降り注ぐ。

「あ、あああっ……うあああああ……っ!」

 手のひらに落ちてきた光の粒を握り締め、草助は声にならない声で叫ぶ。道暗はゆっくりと左手を下ろしながら、大声で笑い始めた。

「フハハハハハ! これで目障りな物は消え失せた! 残る邪魔者は土地の神どもだが、奴らの力を削ぐことなど難しくもない。出でよ!」

 道暗がそう叫ぶと、池の水面に開いていた黒い穴が急激に広がり始め、地響きと共に巨大な物体がせり上がってきた。徐々に姿を見せ始めたその物体は、異界の底にあった黄泉の岩戸と、それを塞いでいた巨石であった。岩戸は依然として開かれたままで、暗黒の闇である岩戸の向こうからは、死の瘴気と黄泉の亡者たちが溢れ、一斉に飛び出してくる。その様子を満足そうに眺めた後、道暗は打ちひしがれた草助を見下ろし、さらに言う。

「お前の心が恐怖で満たされ、絶望の闇が広がっているのがよく分かる。すでに死んだも同然だが、最後のダメ押しをしておこうか」

 道暗はおもむろに手を伸ばし、草助の身体を手のひらで握り込む。身体のどこかを掴んだのではなく、草助の身体全体が道暗の手で握り締められているのである。

「……!?」

 一体何が起きたのか、すぐには理解出来なかったが、よく見ると道暗の身体が不自然なほど大きくなっており、見ている間もどんどん巨大化していく。

「間もなくこの地は地獄へと変わる。ひとかけらの希望すらも無くなったところで、止めを刺してやろう」

 数十メートルにも巨大化した道暗と、黄泉の岩戸から溢れ出す亡者や悪霊の群れは、先を争いながら手近な植物や動物、果ては建物に至るまでを貪り始めた。

「フフフ、荒れ狂え黄泉の亡者どもよ。生あるものを食らいつくし、地上を死と怨念で埋め尽くせ」
「お、お前は……人の世界を滅ぼして、神様に成り代わるつもりなのか……」

 建物や木々を踏み潰しながら進む道暗の手の中で、草助はかすれた声で呟く。それが聞こえたのか、道暗は手の内にいる草助に目を向けた。

「違うな。私は神の座も人間の支配などにも興味はない。我が望みは……誰からも、あらゆる運命からも干渉されぬ存在となることだ。どこへ行き、何を考え、どう振る舞うか……そしていつ滅びるのかでさえも、全ては私が決めるのだ。何人たりとも、それが天の定めた運命であろうとも、この世のあらゆる出来事において、私の意志が及ばぬ結果など絶対に許さん。絶対にな」
「そ、そんなの無茶苦茶だ……どうしてそんな……誰からも何からも干渉されないなんて、そんなこと……」

 道暗はわずかに不愉快そうな顔をしたが、気が変わったのか薄笑いを浮かべる。

「そうだな。我が宿敵の末裔であるお前には、教えてやってもよかろう。私がこの考えに至った理由をな」

 手の内に草助を握り締めたまま、道暗は語り始める。

「はるか昔……都より遠く離れた山奥に、誰も知らぬ小さな村があった。閉鎖的でよそ者を寄せ付けぬその村では、各地から霊力に優れた子供が連れて来られ、神童として崇められながら育てられていた。子供は己の霊力を高めることだけを教えられ、服の着替えから食事に至るまで、身の回りの全ては村の老人たちが世話をし、不自由のない暮らしを送っていた。そして子供は十五の元服を迎えると、古くから続くという儀式によって生まれ変わり、村の守り神として永遠に生き続けるのだという。それ故に儀式は極秘とされ、儀式を受ける子供と、儀式を執り行う数名の村人以外、決して儀式を見てはならぬという厳しい掟があった。子供らもそれを疑わず、儀式に選ばれることは最高の名誉だと誰もが信じていた。しかしある時、一人の少年が村人の目を盗み、その儀式を覗きに向かった。純粋な好奇心からと、その年の儀式に選ばれたのが、姉弟のように育ったひとつ年上の娘だったからだ。本当に彼女は守り神となって生まれ変わるのか、自分の目で確かめたいと少年は思ったのだ。だが……祭壇である洞窟に辿り着いた彼が見たものは、山と積まれた子供の骨と、八つ裂きにされた娘の肉を貪る、血にまみれた老人たちの姿だったのだ。それだけではない……彼女の肉とはらわたを食らうたび、老人どもの顔は若返り、精気がみなぎっていくではないか。それを見て少年は全てを理解したのだ。村人たちは人間の血肉を食らい、その若さを吸い取って生き長らえるおぞましい怪物――そして自分たちは特別な存在などではなく、奴らの家畜として飼われているだけに過ぎなかったのだと。この世の全てがまやかしに過ぎぬと悟った少年は、生まれて初めて感じる激しい怒りと憎悪によって、自らの内に眠っていた強大な霊力を噴出させた。そしてその力によって、目の前の老人たちと村人全てを皆殺しにしたのだ」
「そ、その少年というのが……」
「そうだ。ゴミ共の返り血にまみれながら、私は心の底から思った。私の意志や行動を束縛し、運命を勝手に操る者は誰であれ――たとえ神だろうと、天の定めだろうと絶対に許さんとな。あの時より私は、ただ一心にそれを実現する方法を求め続けてきたのだ」

 道暗のどす黒い心の一端を、草助は垣間見た気がした。しかし巨大化した道暗の手に握り締められた草助には、もう道暗を止める手段も気力も残っていない。道暗は八幡宮の敷地から数歩ほど歩くと、ほど近い商店街にある一筆堂に目を向けて立ち止まる。

「そういえばここは、お前の住処だったな」

 そう言って、道暗は一筆堂を蹴飛ばしてから、一気に踏み潰す。分厚い古木で出来た一筆堂の看板も、無残に折れて地面に転がってしまっていた。

「帰る場所を失った気分はどうだ? お前はそこで、自分の生まれ育った土地が滅んでいく様をゆっくり眺めているがいい」

 踏み潰されていく町並みと同じに、草助の心の中では、草助という人格を支えている大切な物が、音を立てて崩れ落ちようとしていた。どこまでやれば気が済むんだと叫びたかったが、その声すら出てこない。

「しかし常々感じていたことだが、こう人の家が多くては歩きにくい。少しさっぱりさせておこう」

 そう言った道暗が右手に持っていた剣を振りかざすと、剣は真っ赤に燃え上がり、凄まじい高熱を放ち始める。その剣を水平に薙ぎ払った途端、高熱の波が弧を描いて放たれ、一直線に突き抜けていった。その波が通り過ぎた場所にあった物は、全てが切断されたうえ、高熱によって建物は燃え上がり炎に包まれていく。

「フフフ……滅びるがいい。命が生まれ、その全てが例外なく死に行くのが天の理であるなら、私はそれすらも壊してくれる。死者が命ある物を食らい、その死者が再び動き出して地上を歩き回る……生と死の境界が崩れ去り、世の理が狂ってしまえば、土地の神も力を失って滅びる。そうなればもはや、誰も私を止めることは出来ん」

 道暗は勝ち誇り、高笑いを辺りに響かせる。もはや怒りや悔しささえ湧き上がってこない草助だったが、ふと遠くの景色に目をやると、遙か遠い山の上空で、黒い小さな粒のような物が無数に現れ、徐々にその数を増やしていくのが見えた。

(なんだあれは……向こうにもたくさん……)

 ふと視線を海の方に映すと、空や海面にも同じような粒が現れ、数を増やしている。不思議に思ってじっと見ていると、それが粒ではなく、無数の妖怪の群れであり、いずれもこちらに向かって移動しているのだと分かった。空や海を埋め尽くすほどに増えた妖怪の群れを見て、草助は思った。

(あの連中も道暗が呼び寄せたのか……これでもう本当の終わりか……駄目だ、もう意識が……)

 視界がぼやけて気を失いかけたその時、耳をつんざくような轟音と共に、激しい衝撃が繰り返し草助を襲った。わけも分からず耐え、やっとの思いで目を開けてみると、周囲を取り囲んだ大量の妖怪たちが、空から海から一斉に火の玉や水の球、石つぶてや竜巻などを道暗めがけて放っていた。

(ど、どうなってるんだ?)

 飛び散る火の粉や暴風、そして水飛沫の中で、必死に目を開けて様子を探ると、空を飛んでいる妖怪の中に、鞍真とよく似た格好で、真っ赤な顔に長い鼻を伸ばした、大きな体躯の天狗が数人ほど見えた。その時の草助は知らなかったが、いずれも普通の天狗よりも位が高い、それぞれ名のある大天狗である。彼らは刀や槍を手に武装し、同じく武器を構えた大勢の妖怪を率いている。そのうちの一人が、大きな声で言った。

「我らはこの国に住まう妖怪の軍勢である。妖の郷の長にして我らが盟友、鞍真の求めに応じ、貴様を討つ!」

 天狗が号令をかけると、妖怪たちの攻撃はさらに苛烈さを増し、目を開けている事さえ困難だった。怒濤の集中砲火を受け、道暗の巨体は煙に巻かれて姿が見えなくなる。

「ううっ……!」

 呼吸をすることさえ困難な中、道暗は身じろぎひとつせずにじっと立っている。やがて天狗が手を上げて攻撃中止の指令を出すと、妖怪の軍勢は天を突く柱のような煙が晴れるのをじっと見守った。

「ぬうっ!?」

 煙が風に流れ去った後、そこから現れた物を見て、妖怪たちはどよめいた。煙の向こうから現れた道暗には、傷ひとつ付いていなかったのだ。道暗は口元に笑みを浮かべ、まるで何事も無かったかのように言う。

「我が身体を包む鎧は、ただの鉄の塊ではない。我が妖力が合わさることによって、あらゆる術を弾くことも出来る。雑魚がどれだけ集まろうと、私に傷を付けることすら出来んのだ」

 道暗は剣を頭上に振りかざし、無造作に振り下ろす。剣先から放たれた熱波の斬撃は、空を飛ぶ妖怪の三分の一ほどを焼き尽くし、彼らを真っ二つに分けてしまった。

「感じるぞ……お前たちの間に恐怖と戸惑いが広がっているのがな。どれだけ足掻いても無駄だという絶望を拡散するがいい」

 たった一振りで勢いを削がれてしまい、軍勢の進みが止まってしまう。

「怯むな! 皆で総攻撃をかけよ!」

 大天狗は再び進撃の号令をかけ、文字通り命知らずの妖怪たちは、道暗めがけて雪崩を打つ。しかし道暗が剣を振るだけで、群がる妖怪たちは次々に蹴散らされていく。

「弱いなあ妖怪どもよ。何百年と生きて妖気を得てもこの程度では、存在する価値もない。目障りなゴミは私が掃除してやろう」

 道暗は愉悦に満ちた表情で、妖怪を屠り続ける。ひたすらに突撃を繰り返しては塵と化していく妖怪たちを見ながら、草助は思った。

(だ、駄目だ、力だけじゃ勝てない……でも、どうすれば道暗を……老師、僕はどうすれば……!)

 藁にすがるような気持ちでそう思った時、遠くからひときわ巨大なカラスが近付いて来た。その背中には、ボロボロの僧衣と錫杖、そしてひび割れた鉄の仮面を身に付けた人物が乗っている。背格好は草助とあまり変わらず、体格だけでみるとまだ若い男である。彼を乗せたカラスは、まっすぐ草助のいる方に近付いて来た。

「よく喋るのう道暗よ。いつからそんなに口が軽くなった」

 仮面の男の声は若かったが、口調は年寄りのそれである。道暗は仮面の男に顔を向けると、わずかに表情を動かした。

「お前は……なぜここにいる。どうやって戻ってきた?」

 道暗の問いに、男はひび割れた仮面をコンコンと指で叩きながら答える。

「敵味方や損得を超えたものが、世の中にはあるっちゅうコトじゃ。敵を増やすばかりのお前さんには分からんだろうがね」

 飄々と答える男の口調に、草助は慣れ親しんだような感覚を憶えずにはいられなかった。しかし喋っているのは、自分の記憶にある人物とはまったく違っている。

(だ、誰だ……? でもこの喋り方は……)

 仮面の男は錫杖を両手で持ち、構えを取りながら続ける。

「大きな力を手に入れて、ずいぶん浮かれておるようだが……完全無欠な存在など、どこにもありはしないんじゃぞ道暗よ」
「そんな台詞を言うためにわざわざ現れたのか。だが見るがいい。これだけの妖怪が揃っていても、私に触れることさえ出来ないのだ。それをたった一人、しかも人間ごときがどうにか出来るとでも思っているのか」
「うぬぼれの強い奴じゃな。そんじゃ教えてやるとするかのう」

 錫杖を構えたまま、仮面の男は霊力を解放する。その圧力は人間離れした凄まじいもので、草助は圧倒されそうなその霊力に驚愕した。

(やっぱりこの霊力……でもそれだけじゃない、もうひとつの凄い妖気が混じってる。あの仮面から出ているのか――!?)

 仮面の男が錫杖を上段に構えたその時、彼の背後に巨大な幻影が浮かび上がる。それは燃えるような髪を振り乱し、恐ろしい形相の鬼そのもので、右手には分厚く巨大な剛剣を握り締め、仮面の男と同じように剣を振り上げている。

「なにっ、その力は――!」

 その巨大な幻影を見た道暗は、初めて驚きを顕わにする。

「むんっ!」

 錫杖が振り下ろされると同時に、背後の幻影もまた剛剣を振り下ろす。その斬撃は実体ではなく、道暗の身体を直接傷付けることは出来ないと思われたが、意外にも道暗は咄嗟に剣を構え、防御の態勢を取ったのである。

「くっ――!」

 幻影の斬撃を道暗が防いだ直後、硬質な物が割れたときのような、乾いた音が辺りに響き渡った。一拍の間を置いてから、道暗が手にしていた剣に亀裂が走る。そして剣は刀身の中央から、真っ二つに折れてしまった。

「……!」

 すると道暗に異変が起こる。全身を包み込んでいた鎧のあちこちに隙間が生じたかと思うと、浮き上がって剥がれ落ちていく。鎧の崩壊を止められず、道暗は忌々しげに仮面の男を睨み付けた。

「今の一撃、私ではなく剣を狙っていたな……どこでこいつの正体を知った!」

 露骨に怒りを顕わにし始めた道暗に、仮面の男は遅れてやってきたもう一匹の大カラスを指した。その背には胸元を手で押さえ、少し疲れた顔をした禰々子が乗っていた。荒覇吐に不意を突かれ、胸部を刺されて虫の息だった彼女だが、子分の河童が持ってきた秘薬によってどうにか一命を取り留めていたのだ。

「私が教えたのよ。女の身体に風穴開けてくれたお礼、受け取ってもらえたかしら?」

 そう言って上空を旋回する禰々子を、憎々しげに見上げていた道暗の身体はどんどん小さくなり、元の大きさへと戻っていく。身体を掴まれていた草助も解放され、空中に放り出されてしまう。そのまま為す術なく瓦礫の山に落下していく草助だったが、仮面の男が乗った巨大なカラスが間一髪で草助を背中で拾い、そのまま地上に降り立った。仮面の男は焼け野原になった辺りを見回して、溜息混じりに言う。

「やれやれ、派手にやられたようだの。草助も無事とは言えんか」

 少し遅れて着地した禰々子は、草助たちのいるカラスの背に飛び移ると、横たわったままの草助の具合を確かめる。

「見た目は大したことないけど、身体の内側がひどくやられてるわ。さ、これを飲んで。苦いけど我慢するのよ」

 そう言って禰々子は、黒い丸薬を出して草助の口に放り込む。あまりの苦さに草助はバネのように飛び起き、その勢いで丸薬を一気に飲み込んでしまったが、我に返ると打撃を受けて砕けたはずの肋骨や、内臓の痛みが嘘のように消えていた。

「ひぃーっ、苦かった! っと、それよりも……禰々子さん無事だったんですね。船橋さんだけ連れてこられたというから、心配してたんですよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。でもあいつを倒さない限り、のんびり喋ってるヒマもなさそうよ。キミだけが頼りなんだから、頑張ってね」

 禰々子に背中を押されて立ち上がった草助は、じっと成り行きを見守っていた仮面の男に視線を移す。初めて見る相手のはずなのに、ずっと昔から知っている気がしてならないその人物を、草助は複雑な思いで見つめながら訊ねた。

「あの、あなたは一体……?」
「話は後じゃ。やっこさんも頭に来とるようだからな」

 仮面の男が指す方を見ると、鎧を失った道暗が膨大な妖力を燃え上がらせながら、草助たちの方を睨み付けていた。

「坊主、なぜお前がその力を扱える。それは羅刹にしか使えんはずだ」
「見ての通りじゃよ。この仮面には、あやつの妖力が蓄えられておってな。おかげで三途の川を渡る前に戻ってこれたわい。とはいえ、この力は今の一撃で打ち止めだがのう。そうそう、ついでにお前さんへの伝言も預かっとるぞ」
「なんだと?」
「借りは返した。今までコキ使ってくれた礼、遠慮せずに受け取れ――だそうじゃ。お前が羅刹を手駒にしていた理由もこれでよく分かったよ。どんな術や妖力でも断ち切る奴の能力、お前さんにはさぞかし邪魔だったろうからの」
「……」

 道暗はしばらく黙っていたが、荒覇吐の本体である折れた剣を無造作に投げ捨てると、平静を取り戻した様子で答えた。

「それについては認めざるを得んな。だがあの鎧など、単なる保険に過ぎん。私はこのままでもお前たちをたやすく握り潰せるが、お前たちには私に対抗する手段はない。お前たちに勝ち目がないこの現実は、依然として変わらぬままだという事を忘れるな」

 事実、すずりがいない状況では、道暗に打撃を与える方法がない。圧倒的に不利な状況は変わっていないのである。草助はすずりを失った瞬間を思い出し、沈んだ表情でうなだれる。

「顔を上げよ草助。そんな顔をしていても、すずりは戻らんぞ」

 仮面の男から、自分の名前とすずりの名を聞き、草助は驚いて彼の顔を見る。

「どうして僕の名を……それにすずりまで。あなたは一体……?」
「ワシが誰かなんぞ気にしとる場合か。今こそ、お前が真の魂筆使いとして試される時なのじゃぞ」
「で、でも……魂筆使いって言ったって、すずりがいないんじゃあ、もう……」
「お前は今まで師匠から何を学んで来た? お前の師匠が伝えたのは、妖怪と戦う技術だけだったのか? お前が自分の人生で培って来たもの――その中にこそ答えはある。それを思い出せ」
「そ、そんな事を言われても。すずりもいない、老師もいない。道暗には自分の思い通りに出来る力があるけど、僕にはなにもない……それなのに一体何が出来るって言うんだ」
「甘えるな!」

 突然の喝に、草助は驚きのあまり目を見開いたまま固まってしまう。

「確かにお前は全てを失ったかもしれん。ならば自分の力で取り戻して見せよ。それが出来るのが本当の魂筆使いなのじゃ。一点の曇りも無き願いにこそ、最後の希望は残されておる」
「一点の曇りも無き、願い……」

 仮面の男に諭され、草助は少し黙り込んだ後、立ち上がって巨大カラスの背から地面に降り立つ。

「今更どうするつもりか知らんが、無駄なあがきよ。筆の無い小僧に何が出来るというのだ」

 道暗を前にして心の落ち着きを保つのには苦労したが、それでも神経を研ぎ澄まし、草助は意識を集中させる。そして自分が今まで生きてきた記憶を、ひとつひとつ手繰るように思い出し始めた。両親の顔も知らず、祖父と一緒に過ごした幼年期。誰に言われるでもなく、草助は筆を握り絵を描き始めた。霊感が強く、幽霊が見えてしまうために孤立し、孤独だった少年時代。その寂しさを紛らわせるように、草助はひたすら絵に没頭した。風景や動物、名も知らぬ家族連れ――目に映るものは片っ端から描き続け、そうして積み重ねた草助の絵は、いつしか人に認められる物になっていた。人と関われないが為にのめり込んだ絵が、人との繋がりを生み出したのは皮肉であったが、草助にとって絵は自分が生きた証であり、思い描いた望みの全てが彼の絵には込められていた。

(僕に残っているのは、もうこれしか……だけど、ほんの少しでも希望があるんだとしたら……!)

 草助は静かに両眼を閉じ、霊力を高めながらゆっくりと右腕を持ち上げる。指は筆を掴んだ形にして、筆を持っているような構えを取る。そしてそのまま、ゆっくり手を動かし始めた。

「なんの真似だそれは? 追い詰められてとうとう気でも触れたか」

 怪訝そうな道暗の言葉も、草助の耳には届かない。草助は素手のまま、虚空に向けて手を動かし続ける。

(戻ってこい……戻って来るんだ……まだ僕は、お前と――)

 草助は道暗の存在も忘れて、ただ一心に願いながら描き続けた。すると次第に変化が起こり始める。草助の指が通った空間に、うっすらと線が浮かび上がり、次第に色濃くなっていく。その線が描くのは、すずりの姿だった。

「こ、これは――!?」

 道暗はそれがなにを意味するのか理解し、草助へ攻撃を仕掛けようとするが、そこへ仮面の男が立ち塞がる。

「残念だが、そうはさせんよ。まだワシにはこの仮面の力が残っておるんでな。お前さんを倒せずとも、少しくらい時間稼ぎは出来るぞ。それに……ほれ、妖怪の軍勢もまだ残っておるからな」
「ええい、邪魔だ!」

 道暗は掌から、圧倒的な妖力の波動を放つ。普通なら、触れただけで何もかも消し飛んでしまうような威力だったが、仮面の男がすかさず作り上げた結界の壁と、空と海を埋め尽くす妖怪たちの作った妖力の壁がそれを押し留め、打ち消しは出来ないまでも方向を逸らし、草助への直撃を防いだ。とはいえ仮面の男の錫杖は砕け、袈裟も焼け焦げてさらに破れてしまい、ボロボロの肌から滴り落ちる血が、その衝撃の凄まじさを物語っていた。時間にすればほんの僅かの間だったが、それでも草助が全てを描き終えるには充分だった。刹那、辺りに無数の光の粒が出現し、それは描かれたすずりの絵に集まっていく。絵は次第に色づき、ひときわ眩しい輝きを放つと、黒髪に赤い着物姿のすずりが、本物となってその場に現れた。すずりは宙に浮かんだまま目を閉じており、その身体にうっすらと黄金の光を纏っている。

「ふざけるな、こんな馬鹿げたことなど許さんぞ!」

 怒りを顕わにする道暗は、再び妖力の波動を草助たちに向かって撃ち出すが、すずりが纏う光によって切り裂かれ、草助たちに傷ひとつ付ける事が出来なかった。

「くっ、その光は――!?」

 すずりが放つ光は、かつて魂筆が誕生した際、龍脈の気を注がれ大地の加護を得ていた時のそれによく似ていた。すずりの全身からは膨大な霊力が溢れ出し、後ろの髪留めが外れて黒髪が広がっていく。すずりはゆっくりと目を開くと、草助を見て口を開いた。

「草助……」
「すずり……お前、本当に――」




 言い終わらぬうちに、草助の頬にすずりの小さな拳がめり込んでいた。

「ごはっ!?」

 思わず尻もちをつく草助を、すずりは般若のような形相で睨み付けて声を張り上げた。

「このトンチキ! オマエが取り乱したせいで、アタシ一回死んじゃったじゃん! もし生き返れなかったら、どうしてくれるつもりだったんだこのバカ! トンマ!」

 目を釣り上げ、全力で罵声を浴びせてくるすずりを見ながら、草助の表情には明るさが戻って来る。頬を抑えながら立ち上がると、草助は笑みさえ浮かべて言った。

「その生意気な態度と口の悪さ、やっぱり間違いない……戻って来てくれたんだな」
「当たり前じゃん。こんなヒヨッコ残したまま死ねるかっての」
「ひとこと余計なんだお前は。でも、その光は一体……」
「アタシも一回死んでみてさ、色々分かったんだよ。人間だった頃の事もさ……全部思い出しんだ」

 すずりが草助の背後に視線を移すと、姿を消していた草雲の霊が浮かび上がる。

(すずり……私の事はさぞ恨んでいるだろう。八百年もの間、お前に重荷を背負わせ続けた仕打ちを許せとは言わない。ただ、あと少しだけ力を貸してくれないか)

 慚愧の念に満ちた草雲に対しても、すずりは目をつり上げて叫ぶ。

「だーから、そんなのより先に言うコトがあるだろ! ほんっとに二人揃ってバカなんだから!」

 大声で怒鳴ったおかげで少しスッキリしたのか、すずりは振り返って道暗を睨み付ける。

「まだ色々と言い足りないけどさ……とりあえずはあのヤローをぶっ飛ばすよ!」

 道暗は不愉快そうな顔をしていたが、すぐに余裕の態度に戻って笑い始める。

「少しばかり予定外の出来事だったが、落ち着いて処理すれば問題は無い。たかが筆の化身と人間の小僧一人……今度はその魂ごと八つ裂きにし、二度と蘇らぬよう奈落の闇へと撒き捨ててくれる!」

 道暗が腕を振り上げると、目の前に天を突くほどの巨大な竜巻が三つ現れ、空には急激に暗雲が立ち込めて激しい稲妻を落とし、地面が割れて大きな火柱が吹き上がる。この世の終わりのような光景が広がる中、すずりは怖じ気づく様子もなく言い放つ。

「いくら偉そうなコト言ったって無駄だよ。借り物の力を振りかざしてるだけのオマエじゃ、アタシたちには勝てない……それをたっぷり教えてやるよ!」

 すずりは身を翻して黄金の筆へと姿を変え、自ら草助の右手へと収まる。その筆を握った瞬間、草助は筆から溢れる霊気の正体を感じ取り、思わず呟いた。

「こ、この感じ……そういうことだったのか……」

 驚きの表情を浮かべる草助の背後で、草雲が頷く。

(そうだ草助。魂筆の中には、かつてこの筆と共に戦い、生涯を終えた魂筆使いたち……そして彼らと共に在った人々の記憶と意志が眠っている。一度破壊されて蘇った際、草助の純粋な願いに触れたことで、それが再び目覚めたのだ。私もようやく理解出来たよ……魂筆の誕生に人間を捧げねばならなかったのは、人の思いを宿す器――『心』が必要だったからだと)
「今なら分かる……ご先祖様や、僕のばあちゃん、そして魂筆使いと共に生きた人たち――みんながどんな思いで戦い、そして何を願っていたのか――その心が全部、僕の中に伝わって来ました」
(すずりの復活も、決して偶然じゃない。黄泉の岩戸が浮上し、異界の底と地上が繋がっているということは、純粋な願いや強い意志は、我々にとっても大いなる力として作用するということなんだ。奴が草助をすぐに殺さず、徹底的に心を痛めつけたのも、それを分かっていたからだろう。道暗の邪な力が勝つか、それとも我々の意志が勝つのか……私はただ信じるしかない。後は頼んだぞ、草助)
「はい!」

 草助が構えを取ると、道暗は作り出した竜巻や稲妻、火柱を一斉にぶつけてきた。草助は筆を一文字に薙ぎ払って竜巻のひとつを切り裂き、筆を縦に振り下ろす防御の技『鉄柱』で稲妻や火柱を防ごうと試みたが、道暗の繰り出す妖術の威力は凄まじく、残った竜巻に巻き込まれてしまう。

「うわっ――!?」

 空高く跳ね飛ばされた草助は、回転しながら地面へと落下していく。地上までは数十メートルほどの高さがあり、地面に叩き付けられれば即死は免れない。道暗はその様子を眺めながら、高笑いを響かせる。

「力の質や手に入れた方法など、どうだろうと構わん。幾千万の恨みと憎悪より生じ、天変地異をも引き起こす祟りの力――それを我が物とした私に、ちっぽけな虫けらが勝てる道理などありはしないのだ!」

 草助がいよいよ地面と激突しようというその時、草助の真下の地面から柔らかな光が溢れ、彼の身体は落下を止めて制止する。光は明るさを増し、そこから力強さと優しさを兼ね備えた、暖かな気配を持つ人影が姿を現した。

「どうやら間に合ったようじゃな」

 光の中から声を発したのは、稲穂の髪飾りを身に付けた女神、宇迦之御魂神である。彼女が右手をゆっくり下ろす仕草をすると、草助はふわりと地面に降り立った。宇迦之御魂神が姿を現したことに対し、驚きを隠せない様子だった。

「なぜだ……土地神であるお前が、なぜ地上に出てこれる! 乱れきった龍脈を抑える役目を、お前が放棄できるはずがない!」

 宇迦之御魂神は冷ややかな視線を向け、道暗に言う。

「わらわとて同じ轍は踏まぬ。八百年前に力を使い果たした時、同じ事が起きた場合の備えは考えておいたぞよ」

 宇迦之御魂神が指した西の山脈には、尾根の向こうから姿が見えるほどのとてつもない巨人がおり、続けて指した水平線の彼方からは、島と見間違うほどの大きな海獣がその背を顕わにしていた。

「彼らはこの国の山と海を司る大神……再び龍脈に異変が起きた時には、彼らの力を貸りる約束を取り付けておいた。彼の者たちの力があれば、わらわもしばらく自由に動ける。このくらいの手を打つのは当然であろう」

 宇迦之御魂神が両眼を閉じ、指を組み合わせて祈りのポーズを取ると、彼女の全身から莫大な霊力が放出され、辺り一面の空間を包み込んでいく。淀み荒れ狂う異変が嘘のように、穏やかささえ感じる空気が満ちあふれていた。

「空気が澄んでいく……まるで心と体が洗われていくような気分だ。それに身体も軽くなってきたような」

 実際、草助の身体からは疲れが消え、身体の奥底から霊力が湧き上がってくるかのようである。それも宇迦之御魂神が放った霊力のおかげに間違いないと、草助は感じ取っていた。それとは対称的に、道暗は不快な表情を浮かべ、今までになく険しい顔つきになっていく。

「おのれ、こうも早く邪魔が入るとは……もはや遊んでいる暇はなくなったようだ。今すぐ小僧を始末し、黄泉の領域を拡大せねばならん。お前ともケリをつけてやるぞ土地神よ」

 宇迦之御魂神は道暗の殺気を受け流しつつ、凜として答えた。

「そなたは今の自分に絶対の自信を持っているようじゃが、その程度で揺らぐほど、大地も命の営みもヤワではないのじゃ。憶えておくがよい」

 宇迦之御魂神は草助に向かって手をかざすと、暖かくも力強い霊力が、草助の中へ大量に注ぎ込まれる。

「す、すごい、力が無限に湧いてくるみたいだ――!」
「わらわの施した大地の加護があれば、奴の妖力にも耐えられよう。頼んだぞ人の子よ」

 言い表せないような安心感に包まれながら、草助は両足をしっかりと地面に付けて前を見据える。すると筆はひとりでに大きくなってゆき、草助の身長と同じくらいまでに巨大化した。

「形が変わった……」

 驚いている草助に、背後で浮かぶ草雲が言う。

(魂筆は用途に応じて形を変えることも出来る。それを使い手の意志で制御するのも奥義のひとつなんだ。これで草助は、筆の扱いの基礎を集めた魂筆八法、描いたものを実体とする幽玄の書と合わせて、三つの奥義を得たことになる。今のお前なら、魂筆使い究極の技を繰り出すことが出来るはずだ。お前の……いや、この筆に託された全ての思いと共に、全身全霊を賭けて道暗を討て!)
「ええ、もう二度と負けたりしませんよ。今度こそ僕は……あいつに勝つ!」

 草助は頷き、筆を両手でしっかり握ると、青眼の構えを取る。静かに精神を集中していくと、大地から押し流されそうな龍脈の気が流れ込み、草助の身体を伝って溢れ出す。そしてその力とは別の、不思議な光の粒が引き寄せられるようにして集まり始めた。

「調子に乗るのもそこまでだ小僧!」

 道暗は苛立ちを隠そうともせず、渾身の妖力を草助に向けて放った。それは途中で嵐や稲妻、炎に変わって草助に襲いかかる。その威力や大きさは先程の比ではなく、草助の身体は一瞬にして無数の竜巻や炎に包まれ、まったく見えなくなる。近くにあった瓦礫や折れた植物も吸い込まれていたが、それらは一瞬にしてバラバラに引き裂かれ、残った破片も全て焼き尽くされてしまう。

「そのまま塵となって消え去るがいい!」

 勝利を確信した道暗だったが、目の前の嵐から感じる気配に目を見開く。

「ばっ、馬鹿な、何故効かん!? 我が妖力をまともに受けて無事でいられる奴など――!?」

 突如、嵐の中から光が煌めいたかと思うと、光は竜巻や炎を切り裂いて、瞬く間にかき消してしまう。その中から現れたのは、大地の加護によって傷ひとつ負っていない草助だった。草助は筆を構えたまま、真っ直ぐ道暗を見据えていた。

「道暗……お前はずっと誰かから奪うばかりだった。魂を、身体を、力を――欲しい物は他人から取り上げるだけで、自分でなにも作り上げてこなかった。そんな奴に願いは叶えられない。お前の理想なんて、最初から間違っていたのがまだ分からないのか!」

 草助の放った言葉に、道暗は目に見えて表情を険しくさせた。両眼を釣り上げ、大地が震える程に激昂していた。

「黙れ! 八百年だぞ……この八百年、私は屈辱に耐えながらこの日を待ち望んでいたのだ。それを……お前らのような虫ケラのために台無しにされるなど、あってはならんのだ!」

 道暗は叫びながら、ありったけの妖力を放出すると、紫色の禍々しい光を両手に集め始めた。空気が震える程の凄まじい妖気を浴びながらも、草助は動じることなくその場に立ち、ゆっくりと筆を上段に構えた。誰かに教わったのではなく、自然と身体がそう動いたのである。

「おお、あの構えはまるで……!」

 少し離れて見ていた仮面の男は、草助が取った構えを見て、驚きと懐かしさの入り混じった声を出す。道暗が力を膨れ上がらせているのと同時に、草助の周囲に集まっていた光の粒が、その数を一気に増して集まり、次々と形を成して現れ始めた。それは、かつての魂筆使い、そして彼らと共に戦った者たちの姿だった。彼らは言葉を発しなかったが、その願いと意志は筆を通して草助の中へ伝わって来る。そうした人々の姿は数を増やし続け、最後には膨大な人数が、草助の背中を支えるように浮かび上がっていた。

(今ならきっと出来るはずだ。一度も成功しなかったあの技が――!)

 やがて草助の全身は金色の輝きを放ち、全てを眩く照らし始める。道暗の持つ膨大な怨念にも負けない程の強い意志の力が、そこにあった。お互いの力が臨界に達した瞬間、先に動いたのは道暗だった。

「死ねいッ!」

 道暗の両手から放たれた邪悪な波動は、一直線に草助めがけて襲いかかる。迎え撃つ草助は、ただ全ての願いを込め、上段から筆を振り下ろした。

「魂筆八法、その八! 黄金の太刀――!」

 弧を描く黄金の軌跡は、道暗の放つ波動とぶつかって激しくせめぎ合う。ほんの一瞬でも気を抜けば吹き飛ばされそうになりながら、草助は両足を踏ん張って耐え抜く。しかし道暗の波動も衰えることを知らず、改めてその執念と深い心の闇に驚愕させられた。

「ハハハ、やはり我が力に勝るものなどありはしない! そのまま塵となれ!」
(ぐっ、うう……っ!)

 ジリジリと押され、草助は苦しげに声を漏らす。顔や腕の皮膚は裂け目が入り、そこから真っ赤な血が流れ落ちていく。それでも草助は、意識を乱すまいと必死だった。

(あと少しだけ……みんな、僕に力を――!)

 耐えるのも限界が近付いてきたその時、草助の右肩を優しく掴むものがあった。草助がその方向に目を向けると、そこには懐かしい顔の男と、年老いてはいるが整った顔立ちの女性が立っていた。

「じ、じいちゃん!? それにおばあちゃんも……!?」

 草助の祖父、草一郎は頷き、優しげに微笑む。祖母である真澄も草一郎の手に自分の手を重ね、優しい笑顔を向けてくれた。

(よく頑張ったわね草助……私たちも一緒に頑張るから、諦めないで)

 優しげな真澄の言葉に続いて、草一郎が言った。

(どんな苦難があろうとも、お前なら自分が望んだ道を切り開いていける。それに我々だけではない。彼らもずっと、お前のことを見守っている)

 草一郎に言われて反対側を見ると、そこには写真でしか見たことのない草助の両親、龍之助と香澄が並んで立ち、草一郎たちと同じように左肩に手を置いて支えてくれた。

「父さん、母さん……!」

 草助は両眼から溢れる涙を止められなかったが、今は亡き家族の励ましは、絶対の信頼と自信となって両足を支える力となり、草助が放つ霊力をさらに強靱なものへと練り上げていく。

(さあ、俺たちの自慢の息子がどんなに成長したか、あいつに思い知らせてやれ)
(草助、あなたは一人じゃないわ。父さんも母さんも、いつも傍にいるから……負けないで)




 もう迷いはない。草助は静かに両眼を閉じた後、振り下ろした手に力を込めると、素早く逆袈裟に切り上げた。二度目の斬撃は一度目の斬撃と十字に重なり、道暗の妖力を一気に切り裂いて突き抜けた。




「み、認めんぞ、こんな、こんなァァァァ――ッ!?」

 道暗は黄金の太刀を避けきれず、十字に身体を切り裂かれて弾け飛んだ。彼の身体が砕け散った次の瞬間、おびただしい怨念や亡者の魂が解放され、それは一斉にある場所を目指して飛んでいく。

「た、倒した……や、やっと……」

 草助は安堵してその場に座り込むが、心の中ですずりの声が響く。

(休むのはまだ早いよ。アイツの身体は砕けたけど、まだ黄泉の岩戸が残ってる。キッチリ向こうの世界に送って岩戸を閉じないと、また誰かに乗り移って逃げられちゃうよ)
「そ、そうだった」

 立ち上がって八幡宮目指そうとする草助に、成り行きを見つめていた宇迦之御魂神が言う。

「黄泉の岩戸まではわらわが送ってやろう。急ぐがよい」

 宇迦之御魂神が指で印を結ぶと、草助は身体が浮いたような感覚に包まれ、気が付くと八幡宮の鳥居の前に立っていた。傍らには仮面を着けた袈裟姿の男もいた。

「岩戸はどうなってる?」

 すぐに池のある方へ走っていくと、池の上に浮上していた黄泉の岩戸は、亡者を吐き出し続けていた先程とは逆に、猛烈な勢いで怨念や亡者の魂を吸い込み始めていた。

「ど、どうして急にこんな……?」

 不思議そうな草助に、仮面の男が答える。

「むしろこれが正常なのじゃよ。死者には死者にふさわしい世界があり、みだりに他所の世界へ出て来るべきではない。道暗の力で逆流させられていた黄泉への流れが、あるべき姿へ戻ろうとしておるのじゃ」

 頭上では依然として、各地に散らばった亡者たちが、黄泉の岩戸に向かって吸い寄せられてきており、文字通りこの世のものとは思えない光景が続いていた。草助が唖然と見上げていると、後ろから誰かに急に抱きつかれ、草助は思わず倒れそうになる。

「おわっ!?」

 踏ん張って顔を向けると、自分に抱きついていたのは明里だった。背中に顔を埋めたまま、彼女は震えそうな声で呟いた。

「よかった……無事に戻って来てくれて、本当に……」
「……ありがとう。色々あったけど、なんとか道暗はやっつけたよ」
「すずりちゃんも無事なの?」
「うん。この通りちょっと大きくなってるけど、ピンピンしてるさ」

 草助が大きな筆を明里に見せると、明里はようやく安心したらしく身体を離す。少し遅れて定岡も姿を現したが、ヒザマの姿は見えない。鞍真と美尾、そして禰々子の姿も見当たらなかった。

「よっ、悪運のつえー野郎だ。あの状況から生きて戻ってくるとは大したヤツだぜ。一生分の運を使い果たしたんじゃねーのか?」
「最後の一言は余計でしょうが。ところで定岡さん、ヒザマは? それに他の妖怪連中も見当たりませんけど」
「ああ、急にそこの岩戸が吸い込みを始めただろ? 近くにいるとあいつらも吸い込まれちまうから、ちょっと離れたところに避難してるぜ」
「そうだったんですか。それじゃ早いところ岩戸を閉じないと。すずり、もうひと働き頼むぞ」

 草助が言うと、すずりも「任せときな!」と返事をする。岩戸を閉じる封印の陣の作り方は、草雲が知っているということで、草助は彼の指示に従い、黄泉の岩戸を取り囲む巨大な円陣を描いた。

「よし、これで陣は完成したかな。後は岩戸を閉じるだけ――」

 草助は巨大な岩戸を眺めつつ、少し腑に落ちない表情で考え込む。

(しかし道暗の魂はどこへ行った? ずっと気配は探っているのに、あいつの波動をまったく感じないなんて)

 もっと慎重に様子を探りたいところだったが、黄泉の岩戸を元に戻さなければ、地上の混乱も収まらない。草助は気を取り直し、術を発動させる準備に取りかかった。霊力を使って池の水面に立ち、黄泉の岩戸の正面に立って術を始動させるための霊力を練り上げると、それを封印の陣に送り込む。すると描かれた陣は光を放ち、開かれていた岩戸は少しずつ動き、その口をゆっくりと閉じ始めた。

「よし、このまま……」

 後は岩戸が閉じるのを見届けるだけだと思った次の瞬間、恐ろしい出来事が起きた。岩戸の向こうから、大量の亡者が寄り集まって出来た巨体が這い出し、狂ったような叫び声を上げながら草助を腕で掴んだのである。

「こ、こいつは――!?」

 巨大な怪物の心臓あたりが蠢いたかと思うと、そこから巨大な顔がひとつ浮かび上がり、怒りや恨みの感情を全て顕わにしたような、凄まじい形相で草助を睨み、言った。

「認めんッ! 絶対に認めんぞこんな結果など! 私の結末は私が決める……お前のようなゴミなどに滅ぼされるなど、断じて認めんぞぉぉぉぉッ!」

 不意を突かれた草助は、全身を握り締められて身動きが取れない。道暗の魂は岩戸に吸い込まれながらも、息を潜めてこの一瞬だけを待ち続けていたのである。恐るべき執念に草助は戦慄を覚えずにはいられなかった。封印の術も草助の霊力が途切れたためか、岩戸が閉じる速度も極端に遅くなってしまう。道暗も草助を捕らえる以上の身動きは出来ない様子だったが、草助は道暗の不気味な巨体と共に、漆黒の闇が広がる黄泉の穴へと引き寄せられていく。

「くっ、腕が使えないんじゃあ……!」

 草助は必死にもがくが、道暗も決して逃すまいと握り締め、その力は弱まるどころか強くなる一方である。さらに草助の身体に触れている亡者の集合体からは、紫色の血管のような物が伸びて草助の胸元に貼り付き、皮膚の下へと潜り込んで広がっていく。

「ち、力が吸われる……こ、これは……!」

 皮膚の下を冷たい何かが這い回るおぞましさに、草助は思わず叫んだ。紫の筋は草助から力を奪っていたが、同時に強い力で自分自身の意識や感覚が引っ張られて行くようだった。異界の底でも道暗に身体を乗っ取られたが、今回は魂を抑え付けられているのではなく、互いの身体を入れ替えていると表現するのが正しかった。他人の身体を奪い取るのは、道暗の得意技である。彼がそうやって生き長らえてきた事実を、わずかな間とはいえ忘れてしまっていたことを、草助は激しく後悔した。

(身体が動かない、声も出せない……このままじゃ……!)

 道暗の浸食は想像以上に早く、一刻の猶予もない。ここまで来て終わってしまうのかと思ったその時、視界の端で何かが光ったのを草助は見た。

(あれは……!?)

 池のほとりで大砲のようなものを担いで立っていたのは定岡だった。彼は弾頭に大量のお札を巻き付けたロケットランチャーを構え、ニヤリと笑う。

「へっへっへ、これでひとつ貸しが増えたな。ありがたく思えよ!」

 言うが早いか、定岡は草助のいる方向に向けて、躊躇なくロケットランチャーを発射した。草助は覚悟を決める間もなく、思わず目をつぶる。派手な爆発音が響いたが、衝撃は思っていたほどでもなく、草助は目を開ける。すると辺りに飛び散った大量のお札が、草助を握り締める道暗の腕や身体に貼り付き、その途端に表面で蠢く亡者たちが一斉に悲鳴を上げて苦しみ、ボロボロに崩れ始めていく。

「切り札ってのはなあ、最後の最後まで取っておくもんだぜ。憶えときな!」

 ビシッと決めポーズを取りながら、定岡は素早く遠ざかって行く。草助の自由を奪う圧力は確かに弱まったが、それでも逃がすまいと道暗も必死である。草助がもがいてなんとか抜け出そうとしていると、仮面の男が素早く草助の元へ飛び、草助の身体を掴んでいる道暗の指を、霊力を込めた手刀で切り裂き、草助の身体を引きずり出す。道暗、というよりそれを形作る身体は崩壊を起こし、悲鳴を上げながら岩戸の向こうへと吸い込まれて見えなくなった。

「間一髪じゃったな。定岡のヤツもたまには役に立つのう」
「す、すみません、助かりました」
「礼などいらん。それより今のうちに岩戸を閉じきってしまえ」

 草助は頷き、霊力を高めて封印の術を続行ずる。岩戸は再び動きを早め、開いている部分も残りわずかとなった。そして、あと少しで岩戸が完全に閉じるというまさにその時、急に激しい地響きが起こり、岩戸の向こうから崩れかけた巨大な手が飛び出して岩戸を掴むと、それを無理矢理こじ開けようとし始めた。

「ぐおおおおおおおおッ! 諦めんぞッ! 私は……私は誰の指図も受けんのだッ!」

 再び這い出ようとする道暗の姿は、もはや人の形を成しておらず、灰色で粘り気のあるドロドロしたものが不規則に蠢いては変形する、筆舌に尽くしがたいおぞましさだった。それは岩戸に吸い込まれて集まってきた亡者や悪霊たちを次々に取り込み、ひたすら膨れ上がっていく。

「このままでは済まさん……特に小僧、お前だけはッ! 」

 もはや道暗の顔は周囲の悪霊たちと混ざりかけ、その体内では中心部の一点に妖力が集中し、莫大なエネルギーが蓄積され続けていた。

(いかん草助、道暗は全てを道連れにするつもりだ! これだけの妖気が一気に解放されたら、この一帯全てが灰となってしまう。それにこれだけ膨大な妖気が撒き散らされれば、当分の間は生き物が住むことさえ出来なくなるぞ!)

 道暗の狙いに気付いた草雲の叫びに、草助は戦慄する。

(これが……こうまでしてあいつは――)

 頑なに他の干渉を拒み、望まぬ結果は全て否定し、自らの思い通りにするためにはどんな行動も躊躇わない。目の前で膨らみ続けるこの醜い姿が、道暗の執念を越えた狂気であり、本質が形を得た姿なのだろうと草助は思う。

「我が意志の及ばぬ結果など、絶対に認めん、絶対に……! あらゆる運命も、偶然でさえも我が物とする……それこそ……!」

 道暗の異常に強固な意志には感心すら憶えたものの、草助もまた絶対に引くまいと、ひたすらに呪詛の言葉を吐き出す道暗を睨んだ。

「許さん……こんな現実など、存在してはならんのだ……! 意のままにならん世界など、全て消え去ってしまえ……ははは、はははは!」

 あまりに身勝手な道暗に対し、草助の感情も堰を切って溢れそうになる。しかし、ここで感情に身を任せて心を乱せば、道暗の二の舞である。草助は怒りに身を任せそうになるのを踏み止まり、培って来た全てを信じて道暗に向き合う。

「僕の人生だって、ずっと思い通りになんてならなかった。家族も友達も、欲しい物はいつも遠くにあるばかりで――僕だけじゃない、誰だってみんな同じだ。つらいことや悲しい事があって、なかなか思うように行かなくて……だから一生懸命に努力して、夢や理想を実現できた時の喜びや、生きる楽しみが生まれるんだ。なにもかも思い通りになって、不自由や失敗が無くなるってことは、喜びも楽しみも無くなるのと一緒じゃないか!」

 草助は両の拳を握り締め、一人嗤い続ける道暗に向けて叫ぶ。

「今ならよく分かる……魂筆使いが妖怪の絵を描くのは、ただ紙に封じるだけが目的じゃない。恨みや無念、いろんな願いから生まれた妖怪の姿を残すことで、人が遺した思いを拾い上げていくからなんだ。都合の悪い事を全部否定して、ずっと目を逸らし続けているお前なんかに、僕は絶対に負けない。お前の狙いは必ず食い止めてやる!」

 草助が口にしたのは、怒りや憎しみといった感情とは別の、確固たる意志――覚悟であった。その言葉を聞いて、すずりも嬉しそうに声を出す。

(へへ、やっと頼もしい台詞が言えるようになったね。二度とアイツの顔を見なくて済むように、とことんまでやるよ草助!)

 お互いの意志を確かめて意気込む二人に、草雲が言う。

(今の道暗に手出しをするのは危険だ。今の奴は膨らみきった風船のようなもので、下手に刺激を与えれば暴発の危険がある。このまま封印の術を完遂し、奴を完全に向こう側へ追いやるしかない。岩戸が閉じてしまえば、こちらの被害も最小限で済むはずだ)

 その言葉に納得はしたが、封印の術を行う間、草助の手が空かない事が問題だった。道暗を押し返し、かつ術を完成させるなど不可能である。せめて身体がふたつあればと思った矢先、仮面の男が草助の隣に飛んできて法力の印を結び、道暗の動きを封じようと試みる。

「やれやれ、やっぱり一人ではキツイもんがあるのう」

 手応えの重さに辟易しながら、仮面の男は呟く。するとその声を聞きつけたかのように、鞍真と美尾、そして禰々子がどこからともなく姿を現し、仮面の男の隣に並び立つ。

「お前さんたち、ここへ近付いて大丈夫なのか?」

 仮面の男が訊ねると、鞍真は頷く。

「岩戸が閉じかけている今なら問題は無い。これしきで臆するようでは、鴉天狗の名折れよ。それに、あの方も我らを後押ししてくださっている」

 鞍真が見上げた視線の先には、遙か岩戸の真上に浮かぶ宇迦之御魂神の姿があった。彼女もまた膨大な霊力を放ち、膨れ上がる道暗の身体を押さえ込んでいた。同じように宇迦之御魂神を見つめながら、美尾と禰々子も頷く。

「私もただ傍観しているだけでは、後で皆様に弱みを握……いえ、借りが出来てしまいますので。それに私たちの妖力は、道暗の操るそれと基本的には同質のもの。つまり我々妖怪なら、多少派手にぶっ叩いても影響は少ないでしょう」
「そーゆーコト。ここで私が踏ん張れば、河童の株も上がりそうだしね。それにサボったりしたら、後で美尾にどんな嫌味を言われるか分かんないもの」

 言い終えると、美尾は妖術で巨大な猫の手を出現させ、道暗を力一杯殴り飛ばす。禰々子は荒覇吐との戦いで使った水の槍を投げて突き刺し、圧縮された水を一気に解放して爆発を起こす。続けて鞍真も特大の竜巻や岩石の礫をぶつけるが、攻撃はそれだけでは終わらない。いつ出てきたのか、青いポリバケツに入ったヒザマも列に加わり、両眼を爛々と燃やしながら、大量の炎を吐いて道暗の一部を追い払う。

「ワイのことも忘れんなよ! 妖の郷の連中や、国中から集まってきた妖怪もまだまだおるでえ!」

 ヒザマの言葉通り、黄泉の岩戸を中心とする八幡宮の上空や周辺には、数え切れないほどの妖怪が集まり、道暗を押し返すべく妖力を放出し始めていた。不気味に蠢く道暗の身体は徐々に押し返されていき、とうとう岩戸の向こう側にまで追いやられた。

「今がチャンスだ! 行くぞすずり!」

 草助は全ての霊力を振り絞り、残らず封印の術に送り込む。岩戸はさらに動き続け、確実にその入り口を狭めていく。ありったけの妖力を放出して道暗の膨張を食い止める妖怪たちも、思うことはひとつだった。

(行け、行け……! 行ってしまえ――!)

 黄泉の岩戸が閉じることを一心に願いながら、草助は霊力を放出し続ける。しかしあと数十センチというところで、閉じていた岩戸はぴたりと動きを止めてしまう。

「くっ……」

 頬に汗を滴らせ、草助は歯を食いしばりながら声を漏らす。

「どうした、岩戸が止まっておるぞ!」

 仮面の男が草助の方を見て叫ぶが、彼の表情を見てすぐに異変を察した。

「まさか霊力が足りんのか!?」
「すみません、目一杯やってるんですけど、これ以上は……!」

 岩戸が動きを止めると、その向こう側に押し込められていた道暗の一部が、隙間から這い出そうと盛り上がってくる。

「なんて奴だ、これだけ押さえ込まれてもまだ動けるのか!」

 想像を遙かに超える道暗の粘り強さに、草助は一瞬負けそうな気分になる。その背中を支えるように草助の元へ飛び込んできたのは、明里だった。

「私も手伝えばきっと上手く行くはずよね! みんなで一緒に、あいつを追い返しましょ!」

 明里は草助の後ろからしがみつき、自分の霊力を草助の身体に送り込む。明里の持つ霊妙力が、草助の霊力を増幅させ、更なる力を彼に与える。

「これなら行ける……今度こそ最後だ道暗ッ!」

 ありったけの霊力を、草助は封印の陣に送り込む。そしてついに、黄泉の岩戸は鈍い音を響かせながら、その入り口を閉じた。岩戸の向こうから流れ出していた黄泉の気配も、急速に晴れ渡っていく。

「お、終わった……」

 岩戸を閉じきった安堵からか、草助は大きなため息を漏らす。しかしそれも束の間、黄泉の岩戸を含む周辺が大きく揺れ動き、水中へと沈んでいく。地上に浮上させられていた異界の空間が、元へ戻ろうとし始めていた。

「ここに留まっていると危ない。すぐに離れよう」

 草助の言葉に、仮面の男や鞍真、美尾も頷き、黄泉の岩戸から離れて距離を取る。しかし草助はその場で立ったまま、いつまでも動こうとしない。

「どうした草助、早くこっちへ来るのだ!」

 鞍真の呼びかけにも振り返らず、草助はそこから動かない。皆が不思議に思ってよく見ると、草助の足元から枯れた木の根のようなものが無数に生え、草助を逃すまいとするように、両足に絡みついていたのである。

「だ、駄目だ、足がまったく動かない……これも道暗の妖術なのか?」

 冷や汗を浮かべながら、草助は自分の足に絡みつく物を見る。枯れた木の根に似たそれは、不気味な乾いた音を立てながら、しかし強い力で草助を捕らえて離さない。

「ど、どうなってるのこれ!?」

 草助と一緒にいた明里は無事だったが、足元に蠢く物を見て青ざめた顔をしている。そこから発せられる不穏な気配を感じ取り、声を上げたのは鞍真だった。

「そいつは呪いだ! 道暗め、どうあってもただでは死なんつもりか!」
「の、呪いって、妖術とは違うんですか?」
「妖術は本人が死ぬ、あるいはその力が及ばぬ場所では持続しない。だが呪いは、距離も本人が滅びようとも関係なく残り続ける。おそらくお前を捕まえて触れたあの時、奴はすでにお前に呪いをかけていたのだ!」
「な、なんてことだ……」
「龍脈が乱れ、異界が地上に浮上していた今、空間がどんな風に歪んでいるか想像も付かん。このまま引きずり込まれたら、二度と戻って来れなくなるかもしれんぞ!」

 そうしている間にも、周囲の空間は徐々に沈み始めていく。草助は筆で足元に絡みつく呪いを断ち切ろうとしてみたが、どういうわけか効果が薄く、ほんの少ししか傷を付けることが出来なかった。よく見ると枯れた根のような物の表面は微かに光を反射しており、それは細かく砕けた鉄の粒が集まったものだった。このせいで、筆の力が通じにくくなっていたのである。

(もう執念深いとか狂ってるとかじゃない。これが道暗の――)

 呪いだというなら、それは奈落の底よりも深く暗い、道暗の意志そのものだろうと草助は思った。この呪いを克服するには、もう術や技ではなく、どちらの意志が勝るか――それしか無いと草助は悟った。

(封印はまだ完成してない。このまま不完全に終わらせたら、あいつはきっとまた戻って来るだろうな)

 それがいつになるのかは分からない。数ヶ月先か、数年先か。いずれにせよ道暗が舞い戻って来れば、全てを台無しにされた復讐のために動き出すはずである。そうなれば、草助の回りの仲間や友人達が真っ先に狙われるのは目に見えている。そしてまた、長きに渡る因縁と悲劇か繰り返されてしまうだろう。

(それだけはさせない、絶対に――!)

 草助は両手に持った筆を大きく振り上げ、目の前の岩戸に向かって大きく『門』の文字を描く。それはこの場所がこの世と黄泉の出入り口であるという意味を示すもので、空中に描かれた文字は巨大化して岩戸に貼り付き、黄金の光を放ち始める。だが、これはまだ封印の仕上げではない。草助は筆を構え直し、呼吸を整えながら背後の明里に頼んだ。

「船橋さん、最後にもう少しだけ……力を貸してくれないか」
「もう、水くさいことは言いっこなし。私だって、最後まで付き合うって決めてるんだから」

 草助は自分の背中に、申し訳なさと頼もしさを感じつつ、明里から送られてくる霊力と、自分の内に残された全ての霊力と意志を振り絞り、全身全霊を込めて筆を真一文字に薙ぎ払った。

「でやあああああああっ!」

 気合い一閃、草助の一振りで『門』の字に『一』が書き加えられ、岩戸には『閂(かんぬき)』の文字が完成する。すると文字は黄金から白金の輝きへと変わった後、光は徐々に抑えられて安定する。どこか浮いたようだった岩戸も、がっしりと地面に沈み込んでびくとも動かなくなった。確かな手応えと岩戸の沈黙を、草助は全身で感じ取っていた。

(手は尽くした……これで後は)

 草助は静かに息を吐き、ゆっくり目を閉じる。そのままぽつりと、彼は呟いた。

「ごめん船橋さん。ここでお別れだ」

 草助は筆の形を変形させ、伸びた毛先を巻き付けて明里の身体を掴むと、筆先の毛を一気に伸ばし、彼女を鞍真と美尾のいる場所まで移動させた。

「えっ!?」

 自分だけ遠ざけられたことに驚き、明里は草助の元に戻ろうとしたが、美尾が素早く腕を掴み、首を振って制止する。

「な、なにしてるの筆塚くん。私だけこっちに戻ったって意味ないじゃない。筆塚くんも早くこっちに来てよ」
「……道暗の呪いは、ちょっとやそっとじゃ外れそうもない。他に仕方なかったんだ。岩戸と一緒に沈むのは、僕とすずりだけで充分だよ」
「嫌よそんなの! せっかくみんなで力を合わせてここまで来たのに……!」
「僕は最後まで見届けなくちゃならない。ここで目を離したら、またあいつに逃げられてしまうかもしれないだろ? それだけは絶対にあっちゃいけないんだ」
「だからって……!」

 明里はふと、思い出したように空を見上げ、黄泉の岩戸の上に浮かぶ宇迦之御魂神に言った。

「お願い神様、筆塚くんを助けて! こんなのあんまりだわ!」

 明里の必死な叫びにも、宇迦之御魂神は無情に首を振る。

「残念じゃが、まだわらわは力を緩められぬ。岩戸の向こうの妖気はまだ膨れ上がり続けておるのじゃからな。それに道暗という輩の呪い、なかなかに頑固でな……仮に手が空いたとて、もはや間に合うまい」
「そんな……」

 望みを絶たれ、明里は力なくうなだれる。足元から水中へと沈みながら、草助は困ったように笑顔を作る。その時、美尾の手を振り解いた明里が、池のほとりに近付いて悲痛な声で叫ぶ。

「待って、待ってよ! どうして……どうして筆塚くんだけ、いつもこんな目に遭って……魂筆使いだからって、ここまでしなくちゃいけないの……!?」

 目に涙を浮かべる明里をじっと見つめ、草助は自分の正直な気持ちを口にする。

「船橋さん。僕は犠牲になろうとか、最後に格好付けたいとか思ってるんじゃない。この土地に生まれて、いろんな事があったし、つらいこともいっぱいだったけど……でも、僕の好きな人や、好きな物、好きな景色……ここには僕の大切なものが全部ある。僕は僕のために、出来ることを最後までやりたいんだ」
「嫌! 嫌よそんなの! だって、だって私まだ……!」

 草助の身体は、すでに胸の辺りまで水面に沈んでいる。辺りの地響きも激しくなり、池の近くに立っていることさえ困難となってきた。

「いかん、離れるんじゃ嬢ちゃん!」
「離して! お願い!」

 草助を追い、池に入ろうとする明里を仮面の男が引き留める。ついに首を残すのみとなった草助は、離れて見守る仲間に向けて告げた。

「みんなありがとう。この先で何が起こっても、僕は必ず帰ってくるよ。だから……僕が無事に戻れるように祈ってて欲しいな。それで無事に戻れたら、お腹いっぱいご飯を――」

 その言葉を最後に、草助の姿は見えなくなった。続いて黄泉の岩戸の全てが水面下に沈み、ついに跡形もなく消え去った直後、地の底から大地を揺るがす激しい振動が起こった。その大きさは池の水面を持ち上げるほどで、その衝撃は大きな地震が起こったのかと思うほどだった。

「この揺れは……」

 仮面の男が呟くと、鞍真が言う。

「岩戸の向こうで、道暗が膨れ上がった妖力を解放したようだ。空間を隔ててなお、これほどの衝撃なのだ。岩戸の目の前にいる草助は……」
「あの……罰当たりめが……」

 二人は互いに悔しそうな声を漏らし、押し黙る。その会話を聞いていた明里はその場で泣き崩れ、草助の名を大声で叫んでいたが、ついにその返事を聞く事は出来なかった。空を覆う重い雲が晴れ、月や星々の煌めきが地面を照らす中、辺りには朝比奈に集まった妖怪達の、勝利の歓声だけが響いていた。




 朝比奈の街は平穏を取り戻していた。あの夜に起きた出来事は、いち早く住人の避難が進んだこともあって、犠牲者や目撃者はほとんどなく、蓮華宗が政府に掛け合ったこともあって、異常気象による竜巻や暴風、落雷による災害として世間には報道された。中には山より巨大な人影を見たという者もいたが、突然の災害でパニックになり、幻覚でも見たのだろうと思われるのが関の山であった。翌日からすぐさま破壊された街の復興が始まり、あっという間に一ヶ月が過ぎていった。

「……」

 ある昼下がり、八幡宮の本宮に明里はいた。彼女は賽銭箱の前で手を合わせ、目を閉じて祈り続ける。その後ろから、白いスーツ姿の定岡と、彼がぶら下げているバケツに入ったヒザマが近付いてきた

「よう、またやってんのか。あんたも律儀っていうか、結構根性座ってるところあるよな」

 定岡がそう言うと、明里は目を開けて彼とヒザマを見た。

「筆塚くん言ってたもの。なにがあっても帰ってくるから、無事に戻れるように祈ってて欲しいって」
「その話は前に聞いたけどよ。もう一ヶ月経ったのに、まだ戻ってねえんだろ?」

 困り顔でヒザマを見る定岡に、ヒザマも頷き返す。

「せやで嬢ちゃん。その一途なトコは立派や思うけどな、振り返らずに前を見るのも大事やで」

 珍しく気を効かせたヒザマの言葉にも、明里は寂しげな笑顔を返すだけである。

「あの、なにか用があったんじゃ?」
「おっと、そうだったそうだった。こいつを渡すように頼まれてよ」

 定岡はそう言って、一枚の封筒を明里に手渡す。明里が封を切って中身を取り出すと、折りたたまれた和紙に「一筆堂へ」とだけ書かれていた。

「これは?」
「俺に聞くなって。ただ渡せとしか言われてねーんだからよ」
「……わかった、行ってみる」

 手紙を丁寧に封筒に戻し、明里はその場から背を向けて歩き出す。定岡は頭を掻きながら彼女の後ろ姿を眺めつつ、後を追いかけて言った。

「ま、俺も暇だし付き合ってやるよ」

 八幡宮からほど近い商店街に向かった明里と定岡は、一筆堂があった場所まで足を運ぶと、あっと声を上げる。道暗に踏み潰されて跡形もなくなっていたはずの建物が、すっかり元通りになっていたからだ。

「これは……!?」

 一筆堂の看板を見上げながら明里が驚いていると、中から人間姿の美尾が顔を出してお辞儀をする。

「お久しぶりでございます明里様。こうしてちゃんと顔を合わせるのも、一ヶ月ぶりですか」
「どうしてあなたがここに? それに建物が元通りになって……」

 明里が不思議に思っていると、美尾の背後から「その質問にはわしが答えよう」という声が聞こえ、鴉天狗の鞍真が一筆堂の奥から出てきた。

「な、なんでこんな所に……!?」

 店の中から妖怪の頭領が出て来るというシュールな光景に、明里はポカンとしてしまい、定岡は顔を引きつらせている。そんな二人の様子を他所に、鞍真は言った。

「あの騒ぎを無事に収められたのも、そなたらの懸命な働きがあってのこと。これは心ばかりの礼だ」

 そう言った鞍真の横で、美尾が続ける。

「この建物の再建には、妖の郷の者が働いた……ということでございます」

 するとまたしても店の中から、大工道具を持った小さな妖怪たちや、道具そのものに手足や目が付いたような連中が、行列を作って外に出ていき、八幡宮の方向へ向かって去って行った。

「あ、ありがとうございます。きっと筆塚くんも喜ぶと思うな。でも……」

 嬉しそうな顔をしたのも束の間、明里は草助のことを思い出して沈んだ顔をしてしまう。

「そんな顔をするな。わざわざお前をここに呼んだのは、家を建て直した報告だけではないぞ」
「えっ?」

 鞍真の言葉に、明里は顔を上げて続きを待つ。

「あの日以来、地の底では空間の繋がりが変わってしまった。おかげで気配を探るのにずいぶん苦労したが……ようやく見つかったのだ」
「ほ、本当ですか!? い、今どこに――!?」

 大きな声を出し、明里は鞍真に詰め寄る。少し背を逸らし気味にしながら、鞍真は言った。

「そう慌てるな。焦らずともじきに……おお、向こうを見よ」

 彼が指した方向に明里が目を向けると、ボサボサの頭でずいぶんと汚れた草助が、同じように汚れたすずりを連れて歩いている。彼は明里たちの姿を見ると、疲れたように手を上げて「おーい」と言いながら近付いてきた。

「やあ、みんな揃って何を――」

 言い終わらぬうちに、明里は草助に向かって走り、彼の胸にしがみついた。

「遅いよもう……バカ……!」

 草助の胸元に顔を押しつけたまま、明里は声を押し殺して嗚咽を漏らす。草助もしばらくそのままにさせていたが、そんな空気を吹き飛ばすかのように、草助の腹の虫が大きな音を立てた。

「いやー、もう三日三晩なにも食べてなくて……」

 そう言って笑う草助に、明里は顔を上げて不思議そうな顔をする。

「え……三日?」
「岩戸の向こうで凄い衝撃があって、気が付いたら異界に投げ出されてたんだ。それから三日三晩、ずーっと出口を探して歩きづめで……お腹が空いてもう死にそうだよ」

 草助の話がいまいち飲み込めない明里に、鞍真が納得したように言う。

「草助が彷徨っていた異界と、地上では時間の流れが違うのだ。草助が過ごした異界での三日は、地上での一ヶ月に当たるのだろう」

 ようやく話が見えてきた所で、すずりがイライラした様子で叫ぶ。

「あーもー、話は後でいいからメシ食わせろー!」

 その一声で、ひとまず草助の家で皆が食事を取ることになった。料理は美尾と鞍真が術でこしらえてくれたおかげで、ほとんど待ち時間もなかった。

「うまい、こりゃうまい!」
「おかわり!」

 猛烈な勢いで米やおかずを掻き込みながら、目の前の椀や皿に盛られた色とりどりのごちそうを、草助とすずりはあっという間に平らげていく。ちゃっかり定岡やヒザマもたくさん食べてはいたが、草助とすずりの勢いには、図々しい彼らでさえ呆れる程だった。

「ふー、食べた食べた」
「うーん、もう食えないよ……」

 まん丸に膨れ上がった腹を叩き、草助とすずりは満足げな表情である。食後のお茶を飲みながら、草助は元通りになった我が家を眺め回して言った。

「しかし今更だけど、どうしてこの家が元に戻ってるんだろう。確かにあの時、踏み潰されてしまったのに」

 見慣れた柱の傷から、天井の染みに至るまで、一筆堂の中身は完全に元に戻っていた。不思議そうに考える草助に、鞍真が答えた。

「これは我々からの礼だ。それにしても人の身で、よくあの逆境に耐え抜いたものだな」
「ああ、家が元通りになって本当に助かりますよ。ありがとうございました」

 草助は深々と鞍真に頭を下げた後、異界の底に沈んだ直後のことを思い出しながら話し始めた。

「あの時――岩戸の向こう側でもの凄い爆発が起きた後、僕もなにがなんだか分からなくなってしまって。でも気を失ってる間、ご先祖様たちが守ってくれたような、そんな気がするんです。それに異界に放り出されて彷徨っている間、ずっと僕を呼んでる声がして……その声のする方に向かって歩いていたら、異界を抜け出せました。あの声は誰だったんだろう。よく知ってる気がするんだけど」

 首を傾げている草助の隣で、明里は照れ臭そうに顔を赤くしている。不思議に思って彼女に訊ねても、なんでもないと笑うばかりだったが、彼女の嬉しそうな笑顔を見ていると、草助はあの声の主が誰だったのか、分かった気がした。

「……ただいま。僕が道暗を倒せたのも、またここへ帰って来られたのも、全部みんなのおかげだ。本当にありがとう」

 言い尽くせない感謝を込めて頭を下げる草助に、皆が笑顔で頷く。顔つきでは機嫌が読み取りにくい鞍真も、晴れ晴れとしたような口調でこう言った。

「道暗の執念は恐るべきものがあったが、最後の最後まで道暗は一人だった。だが草助と共にあったのは、魂筆使いとすずりが紡いできた願いと希望……奴は人と人との絆に敗北したのだ」

 鞍真の言葉に、その場に居た全員が納得したように頷く。

「ところで鞍真様、黄泉の岩戸はどうなったんで? 龍脈とか呪いとか、その後の事はさっぱりで」
「そのことについては安心せよ。黄泉の岩戸は、もう二度と開くことはあるまい。少なくともこの朝比奈の土地ではな」
「ほ、本当ですか!?」
「道暗は最後に、全てを道連れにせんと自爆した。あの時集まった膨大な妖力は凄まじく、この世の境にも大きな影響を及ぼしたが……それがかえって良い結果となった。奴にとっては皮肉であろうがな」
「というと?」
「奴の起こした大爆発によって、周囲の空間は大いに歪み、ねじれた。その結果、黄泉とこの地を繋いでいた空間の裂け目が崩壊し、完全に閉じてしまったのだ。異界の底にある岩戸を動かしたところで、その向こうに空間の裂け目は存在しておらん。つまり道暗は、己の執念ゆえに、自分にトドメを刺してしまったということになるな」
「それじゃあもう、二度とあいつは戻って来ないんですね!? よかった……本当に……」

 鞍真が確かに頷いたのを見た草助は、今までの疲れがどっと出たように、畳に仰向けに倒れ込む。草助の脳裏には、筆を通して伝わって来た様々な想いと、今まで自分の辿って来た道のりが次々に思い浮かんでは消えていく。そして知らぬ間に、両眼から熱いものが溢れ頬を伝う。それを袖でぬぐい取ると、草助は起き上がって顔を上げた。

「つまりこれで一件落着! 僕も平穏な生活に戻れるし、いやーよかったよかった。ばんざーい! 平和っていいなあ!」

 嬉しそうに万歳をする草助に向かって、綺麗な姿勢で正座をしていた美尾が言う。

「残念ながら、そうは参りません」
「え?」

 固まったまま顔を向ける草助に、美尾は平淡な口調で続ける。

「話をよく聞いておられましたか? 道暗が最後に起こした爆発は、空間を大いに歪ませたと。黄泉の岩戸が開く心配は消えましたが、その衝撃は地の底に走る、無数の龍脈にも刺激を与えました。とりあえず大きな災害が起こる心配は無いそうですが、これだけの異変が起きてしまった以上、今後はさらに多くの妖怪がこの地に姿を現すでしょう。筆塚様には今まで以上に、妖怪退治に専念して貰わねばなりません」

 美尾の言葉に、草助はぴくりとも動かずに沈黙し、まったく同じ姿勢のまま聞き返した。

「ま、マジですか?」
「マジでございます」

 間髪入れずに返ってきた言葉に、草助は頭を抱えて叫ぶ。

「うわああああああっ!? せっかく平和な日々が戻ってきたと思ったのに!」
「やっと戻ったと言うから来てみれば、なにを騒いでおるか」

 泣きそうになりながら草助が一人で騒いでいると、突然後頭部をピシャリと叩かれた。驚いて振り返ってみると、そこには袈裟姿に眼鏡をかけた若い僧と、元気そうな姿の禰々子が立っていた。叱りつける若い僧を軽く視線でなだめ、禰々子はずいと草助に身体を近づける。

「あらあら、ずいぶん元気そうじゃない。疲れてたら癒してあげようと思ってたのに」

 意味深な表情で迫る禰々子だったが、明里やすずりにじろりと睨まれ、笑いながら身を引いてさらりと視線をかわす。

「それしにても、綺麗どころに囲まれてずいぶん良い身分じゃのう」

 若い僧は、見た目に反して年季の入った口調で呆れたように言う。どこか見覚えのある顔立ちと彼の雰囲気が気になり、草助は訊ねた。

「あ、あの……どこかで会いましたよね? あなたは一体……」
「まだ分からんのか? ワシじゃワシ。お前の師匠の八海じゃ」

 自分の顔を指して笑う僧侶に、草助はしばらくポカンとしていたが、突然僧侶の身体が白い煙に包まれ、ボワンという音と共に姿を変えた。すると煙の中から現れたのは、禿げ上がった頭のてっぺんだけに毛が残り、まん丸な眼鏡をかけた八海老師だった。

「ろっ、老師!?」
「ほっほ、タイムリミットが来てしもうたか」
「どっ、どどど、どうなってるんですか!? 確かに若返って……っていうか老師、生きてたんですか!?」
「勝手に殺すでない。この通りピンピンしとるわい」
「で、でも羅刹との戦いで死んだって……」
「まあのう。確かにワシは奴と戦い、力を使い果たして一度は死んだ。しかしワシは日頃の行いがええんでな、不死鳥の如く蘇ったのじゃ」
「……真面目に答えてくださいよ」

 ジトっと見つめる草助に、八海老師は袖下から、ひび割れた鉄仮面を取り出して草助に見せた。

「これに見覚えがあるじゃろう。この仮面に宿っていた羅刹の妖力が、燃え尽きたワシに再び命の火を灯してくれたんじゃ。しかも凄いことに!」

 そう言って八海老師は術の印を結ぶ。すると再び身体が煙に包まれ、若返った姿になって現れた。

「ほれこの通り、自在に若返りが出来るようになったのじゃ。副作用的なものじゃろうが、嬉しい誤算だったわい。ただし制限時間付きで消耗も激しいから、乱用は出来んがの」
「それじゃあの時、僕を助けてくれた仮面の男は――!」
「うむ、ワシじゃ。弟子のピンチを救うのも、師匠の役目じゃろ」
「生きてたんならそう言ってくださいよ! 僕はてっきり……」

 涙ぐんで鼻をすする草助に、八海老師も少し嬉しそうに頷く。そして八海老師は感慨深そうに窓の外に目を移し、ぐっと拳を握り込んで力強く言う。

「これでまた、若い女の子にブイブイ言わせられるぞい……!」

 その言葉を聞いた全員が、白い目で八海老師を見た。直後、すぐに術の効力が切れてしまい、八海老師は再び煙に包まれて老人の姿に戻った。その場の全員から痛い視線を浴びた八海老師は、そそくさと座って目を泳がせ、誤魔化すように茶をすすり始めた。

「ま、まあともかく。お前が戻ってきてなによりじゃったわ。これでお前の両親も、草一郎や香澄さんも安心して眠れるじゃろう。ご先祖様の墓前にも、よーくお参りしておくんじゃぞ」

 草助が頷き、全員が安堵する中、草助の背後に人の姿が浮かび上がる。今まで草助と共に過ごしていた、草雲である。草雲は全てを成し終えた満足を噛み締めながら、その場の全員に聞こえる声で言った。

「皆、本当にありがとう。私の長きに渡る役目も、ようやく終わりが来たようだ。全てに決着が付いた今、もう思い残すことはない……草助、お前は私たちが掴めなかった分まで、幸せになっておくれ。それから……」

 草雲はすずりに視線を移し、すずりもまた草雲をじっと見つめ返す。八百年ぶりに記憶が戻ったばかりだというのに、別れをしなければならないすずりの気持ちを思うと、草助や明里は声が出なかった。

「すまなかった。八百年前、私が犯した過ちのために、お前には、そして魂筆使いの血筋の者たちには、重すぎる苦難と悲劇を背負わせてしまった。許してくれと言えた身じゃないが……これからは誰のためでもない、自分のために生きてくれ。それが私の……最後の頼みだ」

 草雲は暖かな表情で微笑むが、すずりは大きな瞳から粒の涙をポロポロとこぼしながら叫んだ。

「それじゃアタシが今までずっと不幸だったみたいじゃんか。確かにつらいこともたくさんあったけどさ……楽しいコトやいいコトだっていっぱいあったんだ。勝手に決めつけるな、この……バカ親父!」
「……そうだったな。すまない」
「草雲こそ、アタシより貧乏くじ引いて、ずっとずっと暗い地下に閉じ込められて……やっと自由になったんだろ!? 最後まで謝ってばっかりいないでさ……少しくらい自分の……」

 堰を切ったように泣きじゃくるすずりに近付き、草雲はしゃがみ込んで小さな身体をそっと抱きしめる。

「永遠に続く暗闇の中で、私が自分を正しく保てていたのは、お前との繋がりが支えになっていたからだ。お前の存在は私にとって光であり、希望そのものだったんだ。そして今日という日を迎えられた事に、私は本当に満足しているんだよ。ありがとう……本当にありがとう、すずり」

 その場の全員に見守られながら、草雲の姿は光の粒子となって消えていく。無限の光に包まれ、全てに満ち足りた気分のまま、草雲はどこかへと運ばれていったが、その向かう先に、とても懐かしい人の姿があった。

「玄海どの、それに灯さんも……みんな……待っていてくれたのか……」

 懐かしくも鮮明に思い出せるその顔は、当時となにも変わっていない。そして彼らのさらに向こうには、草雲の家族や子孫達が、笑いながら迎えてくれている。彼らと共に行き、そして草雲たちはひとつの大きな光の中へと飛び込んで混じり合い、そして広がりながら全ての上に降り注ぐ。そして新たな命、新たな形を得て、再び地上へと――。




 それから数日後、草助はすずりを連れて妖の郷へ足を運んだ。宇迦之御魂神が、二人に話があるからと呼んだのである。妖の郷に建てられた宮殿の前で、宇迦之御魂神と面会した草助たちは、驚くような話を聞かされた。

「――つまり、すずりは一度破壊されて蘇ったことで、今までと少し体質が変わっておる。これは奇跡と言うしかないのじゃが……存在としては、より人間に近くなったと言える。もしその気があれば、わらわの力ですずりを完全な人に戻してやる事も可能じゃぞ?」

 宇迦之御魂神の言葉に、草助もすずりも大いに驚いたが、草助はすぐに喜びながらすずりに言った。

「良かったじゃないかすずり! さっそく戻してもらって、それで――!」

 浮かれる草助の言葉を遮って、すずりは首を振る。

「なにを言ってるんだ、人間に戻れるチャンスなんだぞ?」
「ううん、アタシはまだこのままでいーよ。まだ妖怪はいっぱい出てきそうだし、アタシが人間になっちゃったら、こーんなヒヨッコなんてすぐやられちゃうよ」
「すずり……」
「そんな顔するなって。別に二度と人間になれないワケじゃないんだろ?」

 すずりが訊ねると、宇迦之御魂神は頷く。

「うむ。真に人間に戻りたいと思った時、またわらわの元へ来るがよい。それまでこの件は保留にしておこう」
「うん、ありがと。そんじゃアタシたち帰るからさ、鞍真とか美尾にもよろしく言っといてくれよな」
「色々とご苦労であったな、二人とも。それでは表へ送り届けてやろう」

 宇迦之御魂神がそう言うと、草助とすずりの回りの景色が変わってゆき、八幡宮の境内に立っていた。草助は少し難しい顔をしながら、すずりに訊ねる

「本当にいいのか?」
「んもー、いいって言ってんじゃん。アタシは当分、このままでシアワセだからさ」
「……そうか。じゃあ帰ろうか。僕らの家へ」

 そう言って振り返り、草助とすずりは二人で並んで歩き出す。そして八幡宮の大鳥居までやってくると、明里がそこまで迎えに来ていた。笑顔で手を振る明里に、草助とすずりも笑いながら手を振り返す。

「お帰りなさい。神様のお話はなんだったの?」
「ああ、実はね――」

 朝比奈の土地を舞台にした大騒動は、こうして幕を閉じた。それから三人は一筆堂に戻り、今までの事やこれからの事をいつまでも語り合った。翌日、一筆堂の入り口には、こっそりとこんな張り紙が出されていた。

『妖怪退治、始めました』

 一風変わったその張り紙は、密かに地元の人々に知られ、いつしかこんな噂が立つようになった。朝比奈の商店街に、一本の筆を手に妖怪と戦う男がいる。どんな妖怪が相手でも、たちどころに祓うというその人物は、魂筆使いと呼ばれる凄腕の妖怪退治屋であるという――。
 




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