魂筆使い草助

第十四話
〜『魂振りの筆(後編)』〜



 翌朝、梵能寺には大量の荷物が届いていた。それらは全て道暗からの贈り物だと伝え、荷車を引いてきた男たちは引き上げていった。草雲が山と積まれた木箱を降ろして開けてみると、中身は物の怪と戦うために必要な武具やお札、そして薬などがぎっしり詰め込まれていた。いずれも質が高く、思わず唸ってしまうほどの品々だった。その後、道具を部屋に運んで整理していると、するめを咥えたすずりが、荷物を眺めながら不思議そうな顔をしていた。

「なんだコレ? 露店でも始めんのか?」
「これは妖怪退治のための道具だよ。道暗殿が私のために用意してくださったのだ」
「ふーん。こんなにいっぱい用意するなんて、今度の相手はこーんなにでっかい奴か?」

 と、すずりは両手を広げて訊ねるが、草雲は苦笑しつつ首を振る。

「……いや、わからない。だから用意が必要なんだよ」
「なあ、草雲」
「ん?」
「このオバケ退治が終わったら、草雲はどうするんだ? やっぱり家に帰るのか?」
「どうしたんだ、急にそんなことを聞いたりして」
「アタシさ、前は生きてていいコトなんか無いと思ってたけど……今の暮らしは結構気に入ってるんだ。ご飯も食えるし、読み書きも教えてもらえるし、灯も優しくしてくれるしさ。だから……」

 すずりは珍しく遠慮がちに言いながら、言葉を詰まらせる。草雲は手にしていた道具を戻すと、すずりの頭を軽く撫でて言った。

「私は祖父や父の教えに背いて家を飛び出した。だからもう、戻りたくても戻れないんだ。この仕事が無事に終わったら、ここで腰を落ち着けようと思っているんだよ」

 その言葉を聞いたすずりの表情は、ぱあっと明るくなる。

「そっか! アタシも出来る事があればなんでも手伝うからさ、早く片付けよーぜ!」
「ああ、そうだな。それじゃあ早速だが手伝ってもらおうか。これとこれはそこに置いてくれ」
「がってん!」

 すずりの手を借りて準備を整えると、草雲は八幡宮の異界が再び開く日を待った。
 一週間後、再び八幡宮の池に異界の入り口が開く日がやってきた。前回と同じように夜も更けた頃、草雲は八幡宮へ赴き、池の桟橋に立った。夜空を見上げると、まばらな雲が浮かんでいるだけだったが、やがて風と共に雲が流れて月明かりが差し込み、辺りを照らし出す。すると池の水面がざわめき始め、目の前の水面に淡い光の輪のようなものが浮かび上がると、その向こうに洞窟のような風景が透けて見えていた。草雲は意を決し、水面へ向かって飛び込む。身体が水に触れたと思ったその瞬間、草雲は薄暗い洞窟の中に着地していた。周囲はごつごつした岩が剥き出しになっているばかりで、まさに地の底といった趣である。頭上を見上げてみると縦穴があり、その向こうに夜空と月が見えているが、水面に映る景色と同じようにそれはゆらぎ、不安定なものだった。

(よし……)

 草雲は洞窟の奥に目を向け、足を踏み出し始めた。所々の壁には松明が掲げられており、どうやら先に入った道暗が用意したものらしかった。それらに火を灯しつつ、草雲は洞窟の奥を目指す。ほどなくして、真っ暗な穴の奥から生ぬるい風が吹いたかと思うと、思わず顔をしかめる程の濃い妖気と共に、おびただしい数の悪霊や妖怪の群れが押し寄せてきた。

「むっ!?」

 草雲はその場で身構え、妖怪の群れを迎え撃つ。ところが数の多さもさることながら、一匹一匹が普通よりも強さを増しており、いきなり予想外の消耗を強いられた。なんとか群れを片付けた後、草雲は額に浮かんだ汗を拭いながら呟く。

「なるほど、道暗殿が手を焼いたのも頷ける。気を抜けば彼らの仲間になりかねんということか」

 草雲は再び歩き出したが、聞いた通りに洞窟は入り組んでおり、おまけに少し進む度に妖怪の群れが現れて行く手を阻まれてしまうため、大した距離を進むことも出来ずにその日は引き返すことになってしまった。

「――すると今回は収穫無しか」

 梵能寺に戻った草雲は、朝食の膳を挟んで玄海と向き合いながら話し込んでいた。具体的な場所は伏せつつ、物の怪の巣窟の奥深くまで潜らねばならないことを、草雲は彼に説明した。玄海は箸で漬物をつまんで口に放り込み、続けて飯を掻き込むと、湯気の立つ熱いお茶で流し込みながら、耳を傾ける。

「思った以上に手を焼きそうです。時間をかけて少しずつ進むしかありません」
「それはいいが、せっかく化け物どもを倒しても、時間が経てばまた増えているんじゃないのか? そうなったら堂々巡りだぞ」
「進んだ先には目印を兼ねて、魔封じの結界石を置いてきました。ああしておけば、一度辿り着いた場所までは物の怪も寄りつかず、楽に戻れるはずです」
「用意のいいことだな。それも道暗が送ってきた道具か?」
「ええ、あれほど質の高いものは、なかなかお目にかかれませんよ」
「奴もそれなりに本気というわけか。ま、使える物はなんでも使わせてもらえばいい」
「そのつもりです。ところで、玄海殿の方はどんな調子ですか?」
「む……ああ、少しは進歩したんだぞ」

 そう言うと玄海は部屋にあった一枚の紙を持ってきて、それを蝶の形に切って手のひらに載せ、じっと見つめて意識を集中させる。すると蝶の形をした紙は、本物のように羽ばたいて浮かび上がり、部屋の中を飛び回る。しかしそれも短い間で、紙の蝶はすぐに力を失って床に落ちてしまった。

「と言っても、まだこれが精一杯だが」

 そういって嘆息する玄海とは対照的に、草雲は感心した様子である。

「いやいや大したものですよ。まったくの素人が、わずか半年で式神の術の基礎を身に付けるとは、誰にでも出来る事じゃない。やはり私が見込んだ通りの素質をお持ちで」
「褒めてもなにも出んぞ。紙の蝶が空を飛ぶ程度では、ただの曲芸と変わらんよ。化け物と戦うにはまるで力不足だ」
「焦らず修行を重ねることです。この調子なら、そう遠くないうちに一人前の使い手になれますよ」
「そうだといいが……ま、ここで愚痴ても仕方がないな。その言葉を信じて頑張るとするさ。化け物退治を君一人に頼ってばかりでは、私の自尊心というモノが許さんのだ」
「はは、ありがたいことです。いつの日か玄海殿と肩を並べられること、期待してますよ」

 食事を終えると、玄海は読経のために本堂へと向かい、草雲は食器を片付けた後で、異界で見聞きしたことを書物に書き記す作業を始めるのだった。

 それから三ヶ月ほどの間、草雲は八幡宮の異界へと潜り続けた。一度に進める距離は短いが、何度もそれを積み重ねた結果、異界のかなり深い部分まで辿り着いていた。その頃になると、最初と比べて段違いに強力な妖怪が徘徊するようになり、わずかな距離を進むだけでもひどく消耗させられた。不思議だったのは、それらの強力な妖怪たちは、例外なく人間の衣類や道具を持っていたり、一部を身に付けていたことだった。いずれも人とは似ても似つかぬ彼らが、なぜ揃って人間の持ち物を持っているのか、その理由は不明のままだった。草雲は念のためにそれらを拾い集め、色々と推理をしてみたが、どれも確証を得るには至らなかった。
 その後、さらに異界の奥を目指す草雲の周囲で奇妙な出来事が起こり始めていた。というのも、異界の中で出会う妖怪が、過去に戦った事があるものばかりとなっていたからであった。手強い敵と戦う時は、以前に戦った同じような相手を思い出し、それを参考にして戦い方を決めるものだが、そうすると決まって思い浮かべたのと同じ妖怪が出現するのである。そしてそれは外見から動きに至るまで、何もかもが記憶とそっくりそのまま同じであった。

(これは偶然なのか? それとも侵入者を拒む何者かが、私の心を読んでそう仕向けているのだろうか?)

 草雲は考え込み、今の考えを否定するように視線を動かす。

(いや、侵入者を拒むのなら、最初から手強い守護者を置き、罠や仕掛けを施すのが道理。それらしい物が見当たらなかった以上、これは何者かの仕業ではなく……)

 草雲は足を止めて考え込んでいたが、答えは見つからない。そうしているうちに、腹の虫が鳴いた。すでに持ち込んだ食料は食べてしまっており、思った以上に長い時間を異界の中で過ごしている事に草雲は気が付いた。このまま進むか引き返すか思案している間にも、腹の虫はしきりに鳴き続ける。草雲は自分の腹をさすりつつ、ぼんやりと握り飯のことを考えていると、いつのまにか手の中に握り飯が収まっていた。

(こ、これは一体……!?)

 と、驚きの表情を浮かべたのも束の間、草雲の手に乗っていた握り飯は突然震え始め、細長い手足と小さな目玉がひとつ生えた、奇怪な生き物へと姿を変え、草雲の顔めがけて飛びかかってきた。

「ゲケケケケッ!」
「うわっ!?」

 反射的に左手で払い落としたそれは、地面の上で四つん這いの格好になると、不気味な笑い声を発しながら走り去っていった。

「な、なんだったんだ今のは……」

 草雲は理解を超えた現象に戸惑いながらも、今までの出来事を踏まえ、この場所は『自分の想像した物が実体となって現れている』のではないかと考えた。握り飯の形をした妖怪が現れた事も、その根拠として考えることが出来る。そしてこれが事実であれば、異界の深部は人にとって、あまりに危険すぎることも意味していた。光も届かず、物の怪や亡者の領域であるこの異界では、常に不安や恐怖が付きまとう。それが実体化するとなれば、本人にとって最も恐ろしい相手となって立ち塞がる事になる。あるいはそうした感情に自らを支配され、自分自身が怪物へと成り果ててしまう危険性も充分に考えられた。

(私は……触れてはならぬ物へ近付こうとしているんじゃないのか。このまま進めばどうなるか、誰にも分からないんだぞ。ここで引き返した方が――)

 草雲は自問自答を繰り返したが、やがて意を決した表情で異界の奥を見据えると、魔除けの呪文を唱えながら『奥を目指す』ことだけを考えて足を踏み出した。思い描いたものが現実になるのなら、困難を取り除いて目的地に辿り着くことだけを強く願えば、それが実現するのも道理というものである。雑念が少しでも混じれば、そこからどんな怪物が生じるか分からない。草雲はただ一心に念じ、魔除けの呪文を唱えながら歩き続けた。

「……」

 彼の予想は正しかった。長い距離を進んだにも関わらず、その間は妖怪と出会うこともなく、洞窟も一本道のままだった。そしてついに、草雲は行き止まりへと辿り着いた。そこは半球状の広い空間で、所々に剥き出しの岩が転がっている他には、なにも見当たらない。そして一番奥の方から、淡い光が差し込んでいる。光に誘われるようにして草雲が近付いてみると、十メートルほどの高さから壁が崩れ落ち、その向こうにまばゆい黄金の光が渦を巻いていた。

(確か道暗殿は、大地を流れる龍脈がこの地にあると言っていたな……これはその一部が剥き出しになっているんじゃないのか)

 草雲が考え込んでいると、急に洞窟全体が揺れ始め、目の前の光の渦が黄金から薄紫色へと変化していく。そしてまもなく、穴の奥から薄紫のガスのような物が大量に吹き出し始めた。草雲はすぐさま口と鼻を押さえ、真っ青な顔をして渦の前から逃げだすと、手近な岩陰に隠れて冷や汗を滲ませた。

(なんと濃い陰の気だ――!?)

 そのガスが周囲に充満し始めると、渦の向こうからは血まみれの鎧武者や、体中に矢が刺さった農民といった亡者の大群が飛び出し、それらは空中で醜い怪物へと変貌しながら、草雲の頭上を越えて通り過ぎていく。恐るべき光景を目の当たりにしている最中、突如として草雲の両腕が焼けるように痛み始め、急いで袖をまくると、腕の皮膚が剥がれ、その下から獣のような剛毛が伸びて腕全体を包み込もうとしていた。

(うっ――!?)

 指先は醜く曲がって変形し、爪は刃物のように鋭く尖る。草雲は必死に感情を抑え込みながら、手早く自分の腕に魔封じの札を貼り付けると、その上から瓢箪に入れてあった清めの水をかけ流す。すると変貌していた腕は元の姿へと戻っていったが、それも短い間のことで、すぐに再び獣のような腕へと戻ってしまい、腕のみならず身体や足まで変貌しかけていた。

(ダメだ、このままでは――!)


 全ての霊力と気力を振り絞っても、もはや耐えるのは限界であった。草雲が死を覚悟したその時、崩れた壁の前に一筋の光が走り、それは光の粒子を放ちながら、人の形へと変わっていく。やがてそれは、純白の着物に朱の袴を履き、玉石の首飾りと黄金の髪飾りを身に付けた美しい女の姿になると、穴の空いた壁に向かって手をかざす。すると噴き出していたガスの勢いは次第に弱まり、やがてぴたりと収まった。女は草雲の方へ顔を向けると、空洞全体を照らし出す黄金の光を放つ。その光を浴びると、獣のようになっていた身体が元通りになり、焼けるような痛みもすっかり和らいでいた。女は宙に浮かんだまま、じっと草雲を見つめながら口を開いた。

「ここへ辿り着く人間がいようとは……珍しいこともあるものよ」

 女はゆっくりとした口調で喋ったが、その声は彼女自身からというよりも、空間全体から聞こえてくるような、不思議な感覚のものだった。草雲はこんな場所で人の姿をした存在に出会うとは思っておらず、また彼女が身体から放つ波動は、人のそれを遙かに超えた強大なもので、それでいて包み込むように暖かかった。今まで経験したことのない感覚に、少なからず動揺の色が草雲の顔に出ていたが、そんな彼の気持ちを察するかのように、優しげな声が響いた。

「わらわは宇迦之御魂神。遙かな太古より、この大地を見守りし者なり」
「宇迦之御魂神と仰せられましたか!? 五穀豊穣を司る大地母神の――ま、まさかこのような地の底でお目にかかれようとは」

 草雲は驚いてその場に平伏し、顔中に冷や汗を浮かべながら「筆塚草雲と申します」と自らの名を告げる。宇迦之御魂神はわずかに口の端を持ち上げると、頭を下げたままの草雲に訊ねた。

「筆塚草雲とやら、そなたはなにゆえここへ来たのじゃ?」

 草雲は恐る恐る顔を上げ、自分がここまで来た経緯を詳しく説明した。すると宇迦之御魂神は、少し驚きつつも、感心した目つきで草雲を見た。

「それにしても、よく無事にいられたものよ。ここは本来、人の子が足を踏み入れてはならぬ領域。そなたも見たであろう。異形の姿となって彷徨い続ける、哀れな人間たちの末路を」
「まさか、ここへ来る途中で見た手強い物の怪たちは――!?」
「そう、そなたと同じように、この狭間へと入り込んだ人間じゃ。彼らも誰かの指図でここを目指していたようじゃが、己の欲や恐怖に呑み込まれ、あのように変わり果ててしまった」
(私以外にもここへ送り込まれた者がいたのか……)
「ここまで辿り着いた、そなたの意志と技量は大したものよ。しかしこの裂け目より溢れ出る力は、人の手には余るもの。まして今は、地の底に溜まっていた陰の気が噴き出しておる。それを浴びればどうなるか、身をもって味わったであろう」
「もしやこの凄まじい陰の気こそが、朝比奈に異変を引き起こしている原因ではありませんか?」
「なにを他人事のように言っておる。そもそもこれは、そなたら人間が招いた出来事でもあるのじゃぞ」
「なっ、なんと。一体どういうことでございますか」
「それをわらわに言わせるのかえ?」

 宇迦之御魂神の視線が、草雲に突き刺さる。それだけで全身にびっしょりと汗をかきながら、草雲は黙って視線を落とす。

「……まあよい。これよりわらわが語ること、心して耳を傾けよ」
「は、ははっ!」
「人間の強い情念というものは、魂が消え去った後も、長く現世に留まり続けるものじゃ。例えば洪水や飢饉――そして人間が起こす戦によって、多くの死者が出た時などには、膨大な無念と憎悪が生まれ、それらは流された血と混じり合って大地へと染み込んでゆく。それらは地の底で集まってひとつに混ざり合い、やがて大禍霊(おおまがつひ)となる。大禍霊とは、天変地異すら引き起こす禁断の力。そなたら人間が祟りと呼んでおるものよ。そしてそなたら人間が懲りもせずに戦を繰り返したおかげで、膨れ上がった祟りの力は龍脈の裂け目を生じ、そこから噴き出しておるのじゃ」

 龍脈の裂け目と、地の底に渦巻くという禁断の力――宇迦之御魂神が語った真実は、想像を遙かに超えたものだったが、それと同時にある疑惑が、草雲の心に重く立ちこめ始めていた。

「そのような恐るべき事態が起きていたとは、なんと詫びを申せばよいのか……しかしながら、地上に住まう人々のためにも、溢れ出す祟りの力を捨て置くわけにはいきませぬ。どうにかこの裂け目を塞ぐ手立てはないものでしょうか?」

 草雲の真剣な目つきを見て、宇迦之御魂神は感心した目を向ける。。

「手立てはあるが……わらわは裂け目の広がりを抑えるため手が離せぬ。それゆえ、そなたに全てを任せることになってしまうが、その覚悟はあるのかえ?」
「元より私は、この地に起こる異変を鎮めるために赴いた次第でございます」
「その言葉、嘘偽りはないであろうな」
「は、天地神明に誓いまして」

 宇迦之御魂神はじっと草雲を見つめていたが、しばらくして彼に人差し指を向けると、草雲の目の前に黄金の光が集まり、一本の巻物となった。

「裂け目を塞ぐ方法をそれに記しておいた。ただし……決して巻物の中身を他人に知られてはならぬぞ。もし約束を違え、その術が欲深き者に悪用されれば、恐ろしい災いがこの地に降りかかるであろう。よいか、決して忘れるでないぞ」
「ははっ!」

 草雲が頭を下げ、再び顔を上げたその時には、まったく気付かぬうちに八幡宮の桟橋の上にいた。今までの出来事は夢だったのかと思う草雲だったが、彼の手には宇迦之御魂神より授かった巻物が握られていた。




 その後、草雲は異界の奥で見た出来事を誰にも語ろうとはせず、自室に籠もって大きな図面を描いたり、様々な書物や材料を集めて、奇妙な道具を作ったりするようになり、その後も度々八幡宮の異界へと潜り続けるといった生活を、三ヶ月ほど繰り返していた。

「な、言った通りだろ? いつもこーやって、飯も食わずに本と一日中難しい顔してるんだ」

 草雲は書物に夢中になっているのか、二人が来たことにも気付いていない。すずりは彼に駆け寄って横から顔を覗き込み、反対側から同じように覗き込んだ灯は心配そうな顔をした。

「草雲様、あまり根を詰めすぎないでくださいね。私たちの声も聞こえていなかったようですし。顔色もあまり冴えないようですけど、ちゃんと食べてますか?」
「ああ、これは申し訳ない。ちゃんと食事はしていますから大丈夫ですよ」
「本当ですか? くれぐれも無理はしないでくださいね。もしもの事があったら……」

 言葉を詰まらせる灯に、草雲もバツが悪そうに頭を掻く。すずりも少しムッとした顔で、両腕を組んで草雲に言った。

「なー草雲、もうずーっと前から穴に潜るか、部屋に閉じこもってばっかりじゃん。いい加減に終わんないの? 怪我して帰ってくることもあるしさ、いつまでもこんなのが続くと、こっちもたまんないよ」

 少し拗ねた表情を浮かべるすずりの頭をポンポンと叩き、草雲は笑顔を作ってみせる。

「すまないな。もう少しで片が付く。それまで辛抱してくれ」
「それ前も聞いた。いつになったら終わんのさー」
「本当にもう少しなんだ。これが終わったら、もっと構ってやるから」
「本当に?」
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ腹一杯ごちそうが食べたいなー。それから遊びに行きたいところもいっぱいあるし。いいよなっ? なっ?」

 と言いながら、すずりはにんまりと笑いながら草雲の顔を見る。

「うっ……」

 底なし沼のようなすずりの食欲を知っている草雲は、笑顔を引きつらせた。そしてすずりに続き、灯もにんまりと笑って言った。

「じゃあ私も、一緒に買い物とか行きたいお店があるんですけど、いいですよね? ねっ?」

 と、口調まですずりの真似である。草雲がどうやってこの場を抜け出そうか考えていると、呆れた顔をした玄海が廊下に立ってこちらを見ているのが目に止まった。

「おおっ、これは玄海殿。いらしたのなら声をかけてくだされば」

 そう言われて玄海は、すこし眉を動かしてニヤリと笑う。

「ん、色男の邪魔をしては悪いと思ってな」
「玄海殿までなにをおっしゃるのです。そ、それより何か用事があったのでは?」
「ああ、さっきこれが届いたんでな。道暗からの手紙だそうだ」

 玄海から渡された手紙に目を通した草雲は、今までの明るい表情から一転、真剣な顔つきになっていく。

「で、なんと書いてあったんだ?」

 玄海が訊ねると、草雲は手紙を元通りに折りたたんで懐にしまい、立ち上がる。

「道暗殿からの呼び出しです。私はこれから御所へ向かわねばなりません」
「ずいぶん急だな。今までほとんど放っていたくせに、どういう風の吹き回しだ」

 来る物が来た、と草雲は思った。宇迦之御魂神と出会ってから、なにかと理由を付けて道暗への報告を誤魔化し続けてきたが、直接呼び出されてしまっては仕方がない。草雲は手早く身支度をすると、不満そうな顔をしているすずりと灯をなだめ、梵能寺を出ていった。
 御所に着き、道暗の座敷へ通された草雲は、道暗と向かい合って座っていた。

「こうして直に顔を付き合わせるのは数ヶ月ぶりか。長いこと連絡がなかったのでな、とうに死んだのかと思っていたぞ」

 道暗は皮肉混じりに笑いながら給仕を呼び、茶を草雲の前に湯気の立つ茶を運ばせた。互いにそれを同じ動作で口に運び、同じ動作で戻しつつ視線を合わせる。

「さて、ここへ呼ばれた理由は分かっているな? お前に頼んだ仕事について、状況を報告してもらおうか」

 草雲はしばし沈黙し、それから視線を床に落としたまま重い口を開いた。

「は……異界の迷宮は謎が多く、探索は困難を極めました。しかしながら、いくつか分かったこともありました。異界の奥へ進めば進むほど、物の怪や悪霊は手強くなっていきますが、それ以上に恐ろしいのは――」



 草雲は道暗の態度に気を配りつつ、続けた。

「彼の地では、思い描いた物がそのまま実物となって目の前に現れます。私も幾度となく、思い描いていた物の怪に襲われ、ずいぶん手を焼きました。あのような場所では不安や恐怖がつきまとうもの……それを克服するのは容易ではなく、実に恐ろしい場所でありました」
「思いが実物にな……そうか、奇妙なこともあるものだ」
「……」

 楽しげな笑みを浮かべる道暗を、草雲は黙ったままじっと見る。草雲の話を始めて知ったなら、多少なり驚きや興味を示すのが普通である。しかし道暗は、作り物のような笑い顔を崩さず、感情が動いたかさえ読み取れなかった。

「ところで道暗殿、異界での出来事について、ひとつ確かめたいことがございます」
「なんだ?」
「異界の奥へと潜った最中、私は手強い物の怪と何度も出会いました。そして『彼ら』は皆、揃って人間の持ち物を持っていた。これがなにを意味するのか、私はずっと考えておりました」
「フフフ、物の怪が人の姿を真似るなど珍しくもあるまい」

 扇子を口元に当てて笑う道暗に、草雲は確信を持った口調で言った。

「私の前にも異界に送り込まれた者がいた。そしてあの物の怪たちは、力尽きた彼らの成れの果て……そうではありませんか道暗殿」

 草雲の鋭い眼差しを向けられながらも、道暗は薄笑いの表情を変えない。だが細く開いた瞳の奥で、冷たい気配が膨れ上がっているのを草雲は見逃さなかった。

「あなたは異界の性質に気が付いていた。そしてそれを承知で、我々に指示を出して探らせていた……違いますか?」
「なにかと思えばそんな話か。それとお前に頼んだ仕事と、何の関係がある」
「なぜ人を使い捨てるような真似をなされた。異界があのような場所だと分かっていれば、無駄な犠牲を出すこともなかったはずだ」
「確かに……あの異界で何が起こるかは知っていた。が、それを御するは至難の業。最初から余計なことを知っていると、否応なく雑念に心を支配されてしまう。そうなったが最後、異界の先へ進むのは不可能となろう。人間とは欲深い生き物だからな、ククク」
「……それで何も教えず、私を異界へ向かわせたのですか」
「悪く思うな。全ては大願を成就せんがため。私はお前のように欲が無く、強靱な意志を持つ者をずっと待っていたのだ」

 眉ひとつ動かさずに語る道暗をじっと見つめながら、草雲は玄海の気持ちをようやく理解出来た気がしていた。理屈に一応の筋を通してはくるものの、底の読めない態度もあって、この道暗という男は信用が置けないのである。

「さて、話を戻そうか。お前ほどの使い手が、これだけ時間を費やしておきながら、まさかそれだけで終わりではあるまいな?」

 事実を答えるべきか草雲は迷ったが、こちらの出方を品定めするような道暗の前では、嘘は余計な疑いまで招く恐れがあった。草雲は少し間を置いて、異界の奥に辿り着き、龍脈の裂け目から膨大な陰の気が漏れ出していることを説明した。当然、宇迦之御魂神に出会ったことや、彼女との間に交わした約束は伏せたままである。

「――全ての異変は龍脈の裂け目によるもの。早急にこれを塞がねば、朝比奈は人の住めぬ土地になり果てましょう」
「フフフ、龍脈の裂け目とはな……それで、塞ぐ手立ては考えてあるのか?」
「は……その準備に手間取り、連絡が遅れました」

 草雲は頭を垂れ、道暗の言葉を待つ。報告が遅れた事を罪に問われれば、朝比奈での生活も異界での戦いも、全てが水泡に帰す。しかし今はただ、道暗の判断に委ねるより他に無かった。

「……よかろう。異界の奥に辿り着いたこと、大儀であった。龍脈の裂け目についても、始末はお前に任せるとしよう。将軍様に良い報告が出来るよう励め」
「は……ははっ」

 意外な返答に驚いたが、道暗はそれ以上の追究をしなかった。不審に思いはしたが、それ以上に目の前の危機を切り抜けられたことに、草雲は安堵していた。




 御所を出て、ついでの用事を済ませた頃には、夕暮れが近付いていた。草雲が梵能寺へ戻ると、台所の方からいい匂いが漂ってくる。窓から中を覗くと、山盛りの食材を前に、灯とすずりが料理の仕込みをしているのが見えた。不思議に思いつつ灯たちに「今日は特別な日でしたか?」と声をかけたが、彼女は「内緒です」と笑うばかりである。楽しそうにしている二人に水を差すのも悪いと思い、草雲はそのまま部屋へと向かった。辺りに誰もいないことを確かめると、草雲は部屋の戸を全て閉める。そして部屋の隅の床板を外すと、その下には小さな漆塗りの箱が隠されていた。草雲はその箱を大事に持ち上げ、そのまま部屋の中央まで運ぶ。正座をして箱をそっと開けると、中にはうっすらと黄金色の光を帯びた巻物が収められており、それを目の前で広げた。巻物に書かれていたのは、黄泉戸大神(よみとのおおかみ)という大岩を召喚する術であった。それは太古の神話において、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉への入り口を封じた大岩を指し、塞の神あるいは道祖神の始まりであるともされている。祟りが噴き出す裂け目を塞ぐのに、これ以上適した方法は考えられなかった。

(間もなく術も完成する。ここまで問題なく歩みを進められた事は幸運だった。気になることはあるが、それもあと少しの辛抱。ようやくこれで……)

 全てが終わるまで油断は禁物である。それを理解しながらも、草雲は体験したことのない高揚感に包まれていた。偉業を成し遂げ、先祖の汚名をそそぐ事が出来るという期待。。そして陰陽道の使い手として、大いなる術を執り行える喜び。素性を隠し、望みを隠し続けて生きてきた彼は、抑え難いこの感覚に戸惑っていた。

「おーい、草雲。部屋にいんのかー?」

 ふと我に返ると、部屋の外からすずりの呼ぶ声が聞こえた。草雲は手早く巻物を箱に戻し、元通りに床下へ隠すと、返事をして部屋の戸を開けた。

「ああ、すまない。ちょっと考え事をしていてな。何かあったのか?」
「飯が出来たから呼びに来たんだよ。灯がみんなで一緒に食べようって」
「それはありがたい。ちょうど腹が減っていた所なんだ」
「アタシだって仕込み手伝って腹ぺこだよ。ほらほら、早くいこーぜ!」

 すずりに腕を引っ張られ、草雲は座敷へと赴いた。座敷には豪華な料理の乗せられた膳が並べられ、玄海はすでに自分の席に座って待っていた。すずりも駆け足で自分の席に座ると、目を輝かせて目の前の料理を見つめている。

「全員揃ったな。では頂くとしようか」

 灯に酒を注いでもらい、玄海は上機嫌に笑いながら食事に手を付け始める。すずりも待ってましたとばかりに、勢いよく山盛りの米とおかずを口に放り込み始める。草雲も目の前の皿に盛られた、塩焼きの鯛の実を箸でつまんで食べてみる。

「ん、うまい」

 絶妙な塩加減と充分火が通った身は、思わず言葉が出るほど美味だった。松茸入りの吸い物や、他の小皿に入った品も少しずつ口に運んでみたが、どれも素晴らしい味である。久しぶりのきちんとした食事ということもあって、夢中になって箸と口を動かした。

「おかわりも用意してありますから、たくさん食べてくださいね」

 と、すずりが差し出した茶碗に山盛りのご飯をよそっている灯が笑う。それを受け取って再び勢いよく食べ始めるすずりを横目に、草雲はぺこりと頭を下げる。

「申し訳ありません。こんな事までさせてしまって」
「いいんですよ、好きでやってるんですから。それにお母様も、忙しい殿方を支えるのは女の役目だって言ってますもの」
「いやあ恐縮です。このお礼は必ず」
「それより草雲様、お料理の味はちゃんと口に合ってますか?」
「もちろんですよ。いつもながら見事な腕前で。それにしてもこれだけの食材、どこで手に入れたので?」
「草雲様が出かけた後、御所からの贈り物だって届けられたんです。草雲様が大きな仕事を成し遂げるから、その前祝いだって使いの人が」

 思い出すように語る灯の言葉を聞いて、草雲は箸を止めて呟く。

「御所から……道暗殿がこれを?」

 道暗は結果も出ないうちから褒美を寄越すような性格ではないし、仮にそうだとしてもずいぶん気の早い話である。どこか違和感を感じた草雲はしばらく考え込んでいたが、腹が満たされたせいなのか、急に強い眠気に襲われた。

「う……」

 意志に反して落ちてくるまぶたの向こうでは、すずりや玄海、そして灯が次々と意識を失い、畳の上に横たわる光景だった。

(こ、これは……しまった……!)

 草雲は必死になって意識を保とうとしたが、全身の自由が奪われるような感覚と共に、深い眠りへと落ちていった。




 目覚めた時、草雲は両腕を後ろ手に縛られ、真っ暗な座敷に寝転がっていた。手足が痺れて思うように動かせなかったが、やっとの思いで身体を起こし目を凝らすと、徐々に目が慣れてくる。周囲の様子は意識を失う前と変わっておらず、食事が乗った膳もそのまま残っている。すずりや灯、玄海も同じように横たわったままで、ぴくりとも動かない。草雲は何度か呼びかけてみたが、舌も痺れて上手く声が出せなかった。

「安心しろ。連中はただ眠っているだけだ。今のところはな」

 背後からの声に急いで振り返ると、鬼火のような青白い光を纏い、闇の中に浮かび上がる道暗の姿があった。

「ど、道暗……殿……!?」
「やはり毒や薬への抵抗力も鍛えていたか。並の人間なら、丸一日は目を覚まさぬはずだからな」
「な、何故……こんな……っ」
「よく働いてくれたお前に対する、心づくしというやつだ。気に入ったか?」

 道暗は貼り付けたような笑顔のまま草雲に近付き、ぞっとするような冷たい声で言った。

「さて、草雲よ……お前が異界の底で手に入れたものを渡してもらおう」
「なん……の……話を……」
「とぼけてもムダだ。龍脈の裂け目を封じるなど、人間一人で成し遂げられるわけがない。お前にその方法を教えた者がいるはずだ。さしずめ土地の神といった所だろうが」

 道暗の読みは鋭かった。身動きの取れない草雲を見下ろしながら、道暗は口元に薄笑いを浮かべている。

「様子を探る方法などいくらでもある。例えばこんな風にな」

 そう言って道暗は、一瞬にして無数の式神を作り出す。小鳥やネズミ、トカゲやクモ、果てはムカデやハエといった小動物や虫が、全て道暗の意のままに操られ動き回っていた。普通の式神なら気配を察することも可能だが、道暗の作ったこれらの式神は、まるで悟られることなく監視を続けていたのである。この事実は、道暗の術が並大抵のものではないことをはっきりと示すものだった。

「お前が私に黙って動いていたのは知っていた。しかし今日という日のお膳立てをしてもらうため、あえて放っておいたのだ。おかげで我が目的も、労せず果たされるというものよ」
「も、目的……我らの成すべきは……異変を鎮める事のはず」
「まだ分からんのか。そう思っているのはお前だけだ。地上にこれほどの異変を引き起こし、龍脈に裂け目を生じさせるほどの力……それを我が物と出来たなら、全て思うがままになると思わんか?」
「……!」
「お前は役に立ってくれたよ。他の誰よりもな……フフフ」
「それでは……全部……なにもかも……!」
「さあ、お喋りは終わりだ。私は同じ事を何度も言うのが嫌いでな。お前が口を割らぬのなら、そこで寝ている連中に聞くとしようか」

 道暗がゆっくり右手をかざすと、横たわっていたすずりの身体が宙に浮き、道暗の手元へ吸い寄せられていく。道暗は宙に浮かんだすずりの喉を掴むと、指先を軽く食い込ませながら草雲の方を見た。人間味というものがまるで感じられない目つきだった。

「よ、よせ……その子は関係ない!」
「どちらか選ぶがいい。この娘の命か、私の質問に答えるかを」

 少しでも言葉を濁せば、道暗は躊躇無く命を奪うだろう。その場凌ぎの嘘や言い訳が通じる相手ではなかった。宇迦之御魂神との約束は、決して軽い物ではない。しかし草雲にとって、朝比奈で過ごした心安らぐ日々と愛すべき人々の存在は、草雲が自覚する以上に心の大部分を占める程になっていたのである。

「わ、私の部屋の……床下だ……そこに……」

 絞り出すような声で答えると、道暗はすずりを床に放り投げ、小鬼の姿をした式神を作り出した。小鬼は素早い足取りで草雲の部屋へと向かい、ほどなくして床下に隠してあった箱を抱えて戻ってきた。道暗は受け取った箱から巻物を取り出し、それを広げて目を通すと、口元を歪めて笑い始めた。

「フハハハ、間違いない! ついに手に入れたぞ!」
「な、なにを企ん……で……」

 道暗は再び式神を作り出した。今度は大岩のような巨体をした鬼である。巨体の鬼は傍らで眠っている灯を片手で軽々と持ち上げると、肩に担いで外へ出て行く。

「ま、待て、灯さんを……どうするつもりだ……!」
「あの女はもらっていく。知りたければ後を追ってこい。その身体が動けばだがな……ククク」

 道暗は闇の中を滑るようにして移動し、いつまでも耳に残る笑い声だけを残して消えてしまった。

「ぐっ……!」

 草雲は今すぐにでも飛び出したかったが、手を縛られた上に身体が痺れて言う事を聞かない。草雲はその場にうなだれ、小声で解毒の呪文を呟き始める。舌が回らず苦労したが、数分ほど経つと、徐々に手足の力が入るようになってきた。草雲は袖の中に隠し持っていた小刀で両手を縛る縄を切ると、急いですずりと玄海の様子を確かめる。

(大丈夫だ、二人とも息はある……怪我もしていない)

 内心胸を撫で下ろしつつ、草雲はすぐに立ち上がり、姿を消した道暗の後を追って梵能寺を飛び出した。彼の行き先は分かりきっている。

(頼む、間に合ってくれ……!)

 草雲は祈るような気持ちで、暗闇の中を全力で走り続けた。




 八幡宮の池に辿り着き、湖面へと飛び込んだ草雲は、休む間もなく異界の中を駆け抜けた。異界の中には道暗が放った式神が立ちはだかっていたが、異界の探索で厳しい戦いをくぐり抜けてきた草雲を足止めするには、どれも力不足であった。無数の式神を退けて異界の最深部――龍脈の裂け目がある空洞まで辿り着いた草雲は、彼が三ヶ月を費やして書き上げた円い図形の中心に、道暗と灯の姿を見つけた。灯は目を閉じたまま図形の中心に横たわり、その傍らに道暗が立っていた。

「道暗! 一体何をするつもりだ!」
「来たか……だがもう遅い。術の書き換えはすでに終わった。後はこの女の魂を生贄とし、術は完成する」
「生贄だと……!? 何故だ、彼女に何の恨みがあるというんだ!」
「我が計画をより完全なものとするためには、質の高い霊力を秘めた魂は不可欠。お前が現れるずっと前から、この女には目を付けていたのだよ。全ては予定通り……些かの変更もない」

 草雲は灯に駆け寄ろうとしたが、地面に描かれた図形に沿って強力な結界が出来上がっており、稲妻を浴びたような衝撃と共に弾き飛ばされてしまう。草雲は宇迦之御魂神の力を借りられればと思ったが、どれだけ周囲を探してみても、彼女の気配すら感じることは出来なかった。

「土地神を当てにしているなら無駄だ。今夜は新月……陰の気が最も勢いを増す日だ。奴は裂け始めた空間を繋ぎ止めるのに手一杯で、ここに顔を出している余裕はあるまい」
「くっ……!」

 道暗が右手を頭上に掲げると、足元の図形が黄金の光を放ち、目も眩むほどに輝き始める。ついに術が発動を始めたのだ。

「くそっ、やめろ、やめてくれッ! 彼女だけは――!」
「所詮お前は、甘い夢や理想を語るだけのつまらん男よ。全てを犠牲にしてでも目的を成し遂げる……その覚悟も無いような奴に、私を止める事など出来ん。己の無力さを噛みしめながら、そこで眺めているがいい」

 道暗の掲げた右手に、青白い光の玉が現れる。そして道暗は、灯の心臓めがけて右手を振り下ろした。

「やめろーーーーッ!」

 草雲の絶叫と同時に、光の玉は灯の体内へと吸い込まれていく。灯の身体はしばらく痙攣を起こし、最後には糸が切れたように動かなくなった。すると図形が放つ黄金の光が、血の色のように真っ赤に染まっていく。それが図形全体へと広がった時、空洞全体が激しく揺れ動き、壁に開いた龍脈の裂け目が真っ黒な闇へと変化していった。

「フフフ、睨んだ通り。神話に語られる存在を呼び出すほどの術ならば、それと等しい別の物を召喚することも不可能ではない。さあ出でよ! 地の底に渦巻く大禍霊……その全ての器にして、我が新たなる肉体よ!」

 真っ黒な裂け目の向こうから、とてつもなく恐ろしい気配が近付いてくるのが感じられた。黒く塗りつぶされた暗黒の中で、黄色い巨大な目が浮かび上がる。そして途方もなく巨大な黒い腕が裂け目から飛び出し、道暗の頭上にまで伸びていくと、指先から伸びた影が道暗と繋がり、徐々にひとつになり始めていく。その光景を目の当たりにして、草雲は戦慄した。

「こ、これが……こんなものがお前の望みだというのか――!」

 草雲の震える声に対し、道暗は真っ黒な影と混じり合いながら、突如として大声で笑い始めた。今までの作られたような笑顔とは違う、悪意に満ちて歪んだ表情――ようやく草雲は、道暗の本性を垣間見た気がした。

「ククク、ハーッハハハ! 私はなあ草雲……窮屈な人間というものに、心底飽き飽きしていたのだよ。だがそれも今日で終わる。私は人間というちっぽけな存在を捨て、今こそ新たな存在として生まれ変わるのだ。もはや私に指図できる者はいない……そう、神の決めた運命であろうとな!」
「そのために皆を犠牲にしたのか……何も知らぬ者たちや、灯さんまでも!」
「当然だ。ネズミが何匹死のうが、私の知ったことではない」
「……貴様ぁぁぁッ!」

 草雲は逆上して再び走り出すが、やはり結界に弾かれて地面に叩き付けられてしまう。

「今までよく働いてくれた。これはその礼だ、受け取るがいい」

 道暗が睨み付けたその瞬間、草雲の全身に耐え難い激痛が走る。体内の血液が沸騰し、体中の皮膚を剥がされたような、気が狂わんばかりの苦痛だった。

「ぐああああああああーーーーッ!?」

 あまりの苦痛にのたうち回ることも出来ず、草雲は顔面からその場に崩れ落ちる。さらに見えない手のようなものが草雲の心臓を掴み、握り潰そうと力を込める。そしてあと一息で破裂するという直前、草雲はその場からかき消すように、忽然と姿を消した。




 黄金の光が満ちた空間に、草雲は横たわったまま浮かんでいた。不思議と心安らぐような感覚に身を任せていると、どこからか憶えのある女性の声がした。宇迦之御魂神の声に間違いなかった。

「……草雲……筆塚草雲よ……目覚めるのじゃ……」

 ゆっくり両眼を開けた草雲は、溢れる光に目が眩みながらも声の主を探すが、彼女の姿は見当たらない。

「こ、ここは……私は一体どうなったのでしょうか」
「そなたは心悪しき者の手によって、命を失う寸前であった。あの者は祟りの力とひとつになり、その力を使って黄泉の扉を開こうとしておる。強大な力を持つが故に、龍脈の裂け目程度では、身体がこちらの世界へ出てこられぬからじゃ。そして黄泉の扉の隙間から、あの世の亡者が這い出して地上に溢れ始めておる。このまま放っておけば、地上は間もなく地獄に呑み込まれよう」
「も、申し訳ありません。私は……取り返しの付かない事を……」
「そなたはわらわとの約束を違えた。それを助けた理由は分かっておるな?」
「は……もはやこの命、捨てる覚悟は出来ております。しかしどうすれば、道暗を食い止めることが出来るのか……私にはもう……」

 絶望混じりに吐き出した瞬間、草雲は心の中を覗かれるような感覚を憶えた。そして次々に過去の記憶が脳裏に蘇っては消えていったが、その中には自分の見覚えがない光景も含まれていた。草雲に似た男が海を渡って大陸へと辿り着く場面、長い旅を続けて不思議な老人に教えを請う場面、そして最後には神山で修行をする年老いた男の姿と、彼が老人からいくつかの術を授かって神山を下るという場面が次々に現れては消えていった。それが終わると、宇迦之御魂神の声は答えた。

「そなたの祖先が大陸より持ち帰りし秘術……これを用いれば、あの者を食い止められるやもしれぬ。だが心するがよい……その時そなたは、己の過ちの意味を知るであろう」

 そこまで聞こえたところで、辺りの光が急に消えていき、草雲の意識も遠のいていく。宇迦之御魂神が何を言おうとしたのか訊ねる前に、彼の意識は闇に溶けた。




「……ううっ」

 草雲が目覚めた時、心配そうに顔を覗き込むすずりと、安堵した表情の玄海が傍にいた。そこは見慣れた草雲の部屋であり、部屋がやや薄暗いという以外には、別段変わった様子も無いように思えた。草雲は今までの出来事が、悪い夢を見ていたのではないかと思ったが、自分の手元に目をやると、黒い箱をしっかりと抱えたままだった。

(……)

 深いため息をついて表情に影を落としながら、草雲は訊ねる。

「状況はどうなっているんでしょうか」
「それはこっちが聞きたいくらいだ。あの日――皆で食事をした後、我らは猛烈な眠気に襲われた。私とすずりは夜が明けてからようやく目覚めたが、お前と灯お嬢さんの姿が見当たらないのに気付いてな。お前たちを探そうと表に出たら、突然目の前に眩しい光が現れ、そこから気を失ったお前が出てきたのだ。あれから三日三晩、お前は眠ったままだった。そして……見るがいい」

 玄海は眉間に皺を寄せて立ち上がると、部屋の戸を開けて空を見上げる。空は不安を覚えるような紫の色に染まり、黒く濃い雲が生き物のように蠢きながら流れていく。外から流れてくる風が頬に触れた瞬間、草雲は思わず眉をひそめた。

(なんだ、この濃い妖気は……!)

 芯まで冷えるような冷たい風に混じって、濃い妖気が辺りに漂っている。草雲はふらつく足取りで立ち上がりながら、玄海の隣に並んで空を見上げる。

「これは一体……」
「わからん。お前を見つけてすぐ、町全体がこうなった。それからというもの、昼間だろうとお構いなしに、化け物どもが町をうろつくようになってな。さすがに寺の中までは入って来れないようだが、それもいつまで持つか」
「な、なんですって!?」

 草雲は着替えもせずに部屋を飛び出し、寺の門までやってきた。門の向こうに伸びている道には、無数の鬼や浮遊霊、空を飛ぶ怪物などがひしめいており、近くの民家の窓を覗き込んだり、道ばたに倒れた死体を貪っている様子が窺えた。

「すでに大勢が奴らの餌食になってしまった。しかもそれだけじゃない……奴らに食われた犠牲者は、すぐに奴らの仲間となって蘇り、次の獲物を探して歩き出す。まさにこの世の地獄というやつだ」
(なんということだ、こんな……)

 自ら招いた事態の深刻さを痛感した草雲だったが、遠くの方で怪物に追われている親子の姿を見つけ、考えるより早く飛び出していった。寺の敷地から出た途端、無数の鬼や物の怪の群れが草雲に気付いて襲いかかってきたが、それらを素手のまま術だけでいなすと、疲れた顔をした親子を保護して梵能寺の中へと連れ帰った。子供はすずりと同い年くらいの娘で、泣きじゃくりながらも安心した様子だった。玄海に言われて親子を本堂へ案内すると、中にはすでに大勢の町人がおり、座り込んだまま不安な様子で草雲たちの方を見ていた。

「彼らは……」
「今の親子と同じように、化け物に家を追われた人々だ。子供たちの面倒はすずりが見てくれているが、あいつも大勢の死人を見てしまったからな。普段は生意気な奴だが、さすがに今度ばかりは辛かろう。気を紛らわせる意味もあるんだろうが、こっちも助かっているよ」
「そうでしたか」

  用意した握り飯を配りつつ、自分より幼い子供の頭を撫でたり、不安で泣き出す子供をあやしたりしているすずりを見て、草雲も胸を締め付けられる思いだった。

「ところで草雲、灯お嬢さんがどうなったか知らんのか」

 玄海が灯の名を口にした瞬間、草雲は身を強張らせて拳を握り締める。

「場所を変えましょう。ここでは……言えません」

 草雲と玄海はすずりを残したまま、本堂を出て草雲の部屋へと向かう。部屋の戸締まりをし、互いに向き合って座ると、草雲はうつむいたまま重い口を開いた。

「灯さんは……道暗の手にかかり、命を落としました……申し訳……ありません……」
「なっ、何だと!?」

 玄海は草雲に詰め寄るが、草雲は視線を逸らしてうつむくばかりである。

「嘘だと……嘘だと言え草雲! なぜ灯お嬢さんがそんな目に――!」
「道暗の真の狙いは、地の底に眠る恐ろしい力を手に入れること……その生贄として、あの男は灯さんを攫って行きました。私もすぐに後を追いましたが……間に合わず……」
「何故だ! お前が付いていながらどうして――!」

 玄海は草雲を突き飛ばすようにして離れると、近くの柱に拳を叩き付ける。

「それで道暗は、奴はどうなった。今どこにいる?」
「まだ異界の底に。道暗は強大な力を手に入れてしまいましたが、そのせいですぐには動けないようです」
「……その話に間違いはないな?」

 そう言って座敷から出ようとする玄海の腕を、草雲は掴んで引き留める。

「どこへ行くつもりですか玄海殿」
「決まっているだろう。奴を殺るなら今しかない!」
「無茶です! あれはもう人の手に負える相手じゃない……私さえ近付くことも出来なかったんですよ」
「じゃあどうしろと言うんだ! お嬢さんの仇も討てずに逃げ帰り、お前はこのまま黙っているのか!? お嬢さんはな、お前を――!」

 言葉を荒げる玄海の腕に、草雲の指が食い込む。うつむいたままの草雲だったが、草雲の雰囲気に鬼気迫るものを感じた玄海は、冷静さを取り戻していく。

「分かっています。分かって……私も気持ちは同じです……!」
「草雲、お前……」

 身を震わせて耐える草雲の姿を見て、昂ぶっていた玄海の感情も鎮まっていく。玄海は自分の腕を掴む草雲の手をゆっくり外し、手首をさすりながら訊ねた。

「しかしどうする。近付くことも出来ん相手に打つ手はあるのか?」
「我が祖先が遺した書物の中に、道暗の力にも対抗できる手段が記されているはずです。実家から黙って持ち出したものですが、まさかあれを使う日が訪れるとは」
「なぜそれを早く言わん。で、そいつはすぐに使えるんだろうな」
「あれは我が一族に伝わる術の中でも、禁忌であり門外不出とされていたもの。妖魔や物の怪への絶大なる威力を持つが、同時に人の道を外れた業――すなわち外道の法であると、幼い頃に祖父より伝え聞いているだけです。それ以外の詳しいことは、私にも分かりません」
「外道の法か……どんな物かは知らんが、とりあえず確かめてみるしかあるまい」
「こちらです」

 草雲は立ち上がって部屋の隅にある棚の前へ移動すると、引き出しから一本の古びた巻物を大事そうに取りだした。

「どうした、悠長に眺めている時間はないぞ」
「もちろん分かっています。ただ、これを開いたら最後、私は後戻りが出来なくなる……そんな気がしてなりません」
「かもしれんが、他に方法はあるまい」
「はい……」

 草雲は頷いて巻物を開き、筆で描かれた文字に目を通す。だが、その内容を理解した瞬間、彼は愕然とした表情で、巻物を握り締めたまま座り込んでしまった。

「そ、そんな……これは……」
「おい、なんと書いてあったんだ。その術は一体なんなのだ?」

 草雲はゆっくりとした動きで顔を上げ、幽霊のような表情で玄海を見ると、巻物に記された一節を読み上げ始めた。

 ――外道の法とは即ち、人間や獣の生命を素材とし、生きながら道具へと作り変える術である。これによって生み出された物は、魔神や妖魔すらも封じ得る絶大な神通力を得るという。しかしこの術の扱いは極めて難しく、しかも必要な条件が揃わなければ、決して成功することはない。不完全なまま術を執り行えば、捧げられた者はそのまま命を落とすか、あるいは異形の怪物と化してしまい、二度と元には戻れぬであろう――

「馬鹿な、人を生きたまま道具に変える術だと!? しかも失敗すれば死ぬか化物になってしまうなど、鬼の所業そのものではないか!」
「こ、こんなものが筆塚家の……いや、だからこそ秘伝とされていたのか」

 二人は力なくその場に座り込み、顔を押さえて深いため息をつく。しばらくして、玄海が真剣な表情で訊ねる。

「仮に術が成功するとしても、誰を捧げる? 避難してきた町人から選ぶのか?」
「それは……」

 草雲はうつむいて塞ぎ込み、沈黙が続く。それから先に口を開いたのは玄海だった。

「……仕方あるまい。僧職にある者が身を惜しんだとなれば、いい笑い物になる。これも天命というやつかもしれんな」
「なにを言い出すのですか。まだろくに恩も返していないのに、私にそのような真似が出来るはずがありません。それにあなたは私と違い、この地の人々からも慕われている。玄海殿を失えば、大勢が悲しみます」
「朝比奈を救う人柱となるのなら、死に様としては上出来だ。幸いこの話を知っているのは私とお前だけ。誰の名前にも傷は付かんさ」
「しかし!」
「腹を決めろ草雲。お前はそのために戻って来たんだろうが」

 胸を貫かれるような気分で顔を上げ、草雲が口を開こうとしたその時、部屋の戸を開ける音がした。草雲と玄海が顔を向けた先には、大きな瞳でこちらをじっと見るすずりの姿があった。

「ど、どうしたんだすずり、いつからそこに……」

 震える声で草雲は訊ねるが、すずりは黙ったままじっと彼を見つめている。その瞳に宿っているのが恐怖や怯えの色でない事に気付いた時、草雲は「まさか!」と顔色を変えて立ち上がる。

「全部聞いていたのか!?」
「アタシ……やる」
「ダメだ! 子供のお前には関係のない話なんだ!」
「アタシなら家族も居ないし、誰も悲しくならないよ。それに生臭坊主のオジサンよりも、若いアタシの方がきっと上手く行くって」

 まるで普段の世間話をするかのように、すずりはニッと笑う。草雲は首を振って膝を付くと、すずりの小さな肩を両手で掴み、絞り出すように言う。

「やめるんだ、頼むから……灯さんを救えず、お前まで失ったら私は……」

 弱々しく呟く草雲の言葉に、すずりは一瞬だけ目を潤ませたが、すぐにはっきりした口調で言った。

「ダメだよ草雲。誰かがやらなきゃいけないんだろ? だったら――」

 すずりが答えた瞬間、草雲とすずりの身体が突然光に包まれ、暗い部屋の中を明るく照らし出す。

「なっ、なんだ!?」

 目が眩んだ玄海が顔を背けている間に、草雲とすずりの姿は光に飲まれて消え、二人は部屋から忽然と姿を消してしまった。




 気が付くと草雲とすずりは、石造りの祭壇がある広い部屋の中にいた。壁も天井も全てが石造りで、壁には火の付いた松明が並べられている。そして部屋の中央には、自然石を削り出して作られた長方形の台座があった。

「こ、ここは……?」

 草雲が辺りを見回すと、どこからともなく声が響いた。

「準備は出来たようじゃな」

 宇声は宇迦之御魂神だった。彼女の言葉にギョッとして、草雲は慌てて答える。

「お、お待ちください! すずりはまだ子供、自分の身になにが起きるか分かっていないのです!」
「ほう、では他の者なら構わぬと?」
「それは……!」

 言葉を詰まらせる草雲の横で、何が起きているか分からないすずりが言った。

「だ、誰? どこから喋ってんのさ。草雲の知り合い?」
「わらわは宇迦之御魂神……古よりこの大地を見守っておる者じゃ」
「それってもしかして、神様ってコト?」
「その通り。訳あって今は地の底から離れられぬが……そなたの純粋な思い、わらわの元へ確と届いたぞよ。だからここへ呼んだのじゃ」
「そっか、神様が付いててくれるんなら心強いや」
「すずりよ、今一度訊ねるが……これからそなたの身に起きる出来事は、思う以上に過酷でつらい結果となるであろう。それでも後悔はないのじゃな?」
「……うん」

 哀れみの情を含みながら、宇迦之御魂神はそう訊ねた。すずりは目に涙を浮かべ、それを腕で拭いながらも頷く。

「アタシさ、今までひとりぼっちで生きてきて、食うために盗んだりもしてたから、ずーっと嫌われてばっかりだった。でも草雲に拾われて、灯にも親切にしてもらってさ、凄く嬉しかったんだ。だからいつか恩返ししなきゃって思ってて……それにさ、一度くらいはいいコトして、みんなに褒められたいんだ。だから……」

 気丈なすずりの答えを聞き、宇迦之御魂神は一変して厳しさの滲む口調で言う。

「筆塚草雲よ。わらわはそなたを信じて術を授けたが、そなたは約束を守れなかった。地上がこのような有様となり、幼子にこれほどの覚悟を強いたこと……その始末は付けてもらわねばならん。目を逸らすことは断じて許さぬぞ」
「……!」
「もう時間は残されておらん。秘術の準備を」

 宇迦之御魂神に促され、すずりは石造りの台座に登り、仰向けに寝転んで目を閉じる。ついに意を決した草雲は、目の前に巻物を投げ出すように広げると、拳を強く握り締め、血が出るまで何度も地面に打ち付けた。そして血が滴る手で近くに落ちていた石を拾い上げると、巻物に描かれた図形を地面に書き写し始めた。全てを書き終えた後、指で印を結ぶと、所々に落ちた草雲の血がおぼろげな光を帯び始める。

「くっ……」

 うつむき唇を噛みしめて言葉を詰まらせる草雲に、すずりは目を開いて顔だけを動かし、笑顔を作って見せる。

「灯のカタキ、取ってくれよな。じゃあ……後は任せたからね」

 すずりの笑顔が、心に深く突き刺さる。心臓を刃物で抉られるような気分を味わいながら、草雲は霊力を込めた両手を地面に当てた。すると祭壇が青白い光に包まれ、すずりの姿は黒い影しか分からなくなる。周囲には激しい稲光が走り、空間が激しく鳴動する中で、すずりの影は次第に別の形へと変わり始めていたが、同時に草雲の身体にも異変が起きていた。

(力が根こそぎ吸い取られる……! 図形も手順も間違いは無かったはずだ。まさか記されていた方法が間違って――いや、あるいは元々こういう術だったとしたら……こんなもの制御できるはずが……!)

 草雲はありったけの霊力を振り絞るが、意志とは無関係に術が動き始めてしまう。もうダメかと思ったその時、宇迦之御魂神の声が響いた。

「この術は本来、我ら神々の力があって初めて成り立つもの。どういう理由で伝わったかは知らぬが、そなたら人間が正しく扱うには無理があるのじゃ。滅多に成功せぬというのも当然の話であろう」
「そんな、それではすずりは……ううっ」
「此度の件、わらわも責任を感じておる。それゆえ今回は力を貸してやろう」

 突然地面から金色の光が溢れたかと思うと、膨大な霊力が草雲へと流れ込む。異界の底で龍脈の裂け目から感じたのと同じ、膨大で暖かい力だった。身体が引きちぎられそうになりながら耐えているうちに、次第に術の光は収束し落ち着いていく。ようやく視界が元に戻った草雲が見たものは、台座の上で浮かび上がる一本の紅い筆だった。

「せ、成功したのか? これが……」

 草雲は鉛のように重い身体を引きずるようにして、筆へと手を伸ばす。そして筆に触れたその瞬間、この筆が持つ力とその使い方が、彼の心と体に流れ込んできた。この小さな筆に秘められた大いなる力に驚くと同時に、草雲の両目からは涙が溢れて止まらなかった。

「すずり……私は……」

 筆を手にしたまま動けない草雲に、宇迦之御魂神の声が語りかける。

「大地の力を注いだ直後の今なら、わらわの加護が強く働いておる。地上の亡者どもを一掃し、あの悪しき者とも互角以上に渡り合えよう。娘を憐れに思うなら、一刻も早く使命を果たすのじゃ――」

 声が聞こえなくなると同時に、近くの地面から光の柱が現れた。誘われるようにして草雲が光の柱に近付いて身体を重ねると、一瞬にして別の場所へと運ばれた。




 草雲が運ばれた先は、八幡宮の入り口にそびえる大鳥居の前だった。海岸の方へ向かって伸びる参道にはおびただしい数の妖怪が列を成し、奇妙な歌を口ずさみながら町中を歩き回っている。すずりが化身した筆を握り締めたまま、草雲はうなだれていたが、やがて涙の跡が残る顔を上げると、疾風の如き速さで妖怪の列へ突っ込んでいった。すぐに数匹の鬼や亡者が草雲に気付いて行く手を遮ったが、草雲は沈んだ表情の顔を向け、筆を目の前に突き出した。

「これより先へは行かせん。一匹残らず黄泉へと送り返してやる」

 直後、草雲めがけて妖怪たちが躍りかかるが、草雲が手にした筆をひと薙ぎにすると、筆の軌道が黄金の弧を描く。それに触れた途端、妖怪たちは一瞬にして身体が溶けて墨となり、黄金に輝く軌道の中へと吸い込まれて消えた。間もなく筆の軌道もゆっくりと消えていき、全て跡形もなくなってしまった。草雲は筆を振りかざし、次々に妖怪を薙ぎ払っては黒い墨に変え、光の向こうへと消し去っていく。その騒ぎを聞きつけて町中の妖怪が草雲めがけて殺到したが、草雲は不思議な筆を握り締めたまま立ち向かい、戦いは日が暮れた後も続いた。

 夜が明けた朝比奈の町は静まり返っていた。鳥の鳴き声もせず、虫の囁きさえ聞こえない。そして数え切れないほど歩き回っていた妖怪の群れも、さっぱり消えていなくなっていた。参道沿いの建物や道に植えられた桜は、あちこちが壊れたり焼け焦げており、夜通し繰り広げられた戦いの激しさを物語っている。そこにただ一人、全身がボロボロになり果てた草雲が一人、疲れきった足取りで八幡宮の大鳥居を目指して歩いていた。

「……」

 草雲が大鳥居の目前まで辿り着くと、道の脇から袈裟姿の玄海が現れ、息を切らしながら声をかけた。

「はあ、はあ……草雲!」

 呼び止められた草雲は、虚ろな目を向けて玄海を見た。まるで幽鬼のように変わり果てた彼の顔を見て、玄海はギョッとしながらも訊ねた。

「ぶ、無事だったか。お前とすずりがいなくなった後、物の怪どもがどこかへ集まって、それきり気配を感じなくなったんでな、町の様子を見に来たんだが……しかし、奴らの姿がまったく見えんのはどういうわけだ?」
「連中は私が封じました……人を襲う力のある物の怪は、もう残っていないでしょう」
「お、お前一人であの数をやったのか!? 一体どうやって……!」

 草雲は紅い筆に両手を添え、胸元で握り締めると、枯れ果てたような顔を歪めて嘆く。

「すずりが……この筆が力を貸してくれたおかげです」
「……そうか。成功したんだな、外道の法は」

 草雲の言葉を聞いた玄海もまた、悲痛な面持ちで目を伏せ下を向く。やがて草雲は顔を上げ、憔悴しきった様子で呟いた。

「まだ終わりではありません。元を絶たねば、再び異界より亡者が這い出してくるでしょう。行かなければ……」
「待て、そんな疲れきった身体でなにが出来る」
「大丈夫です、それほどヤワな鍛え方はしていませんよ。それに道暗も、今の私を見れば油断するはず……必ずや一矢報いてみせましょう」
「草雲、お前……」
「全ては私の愚かさが招いたこと……道暗の野心を見抜けず、罪もない人々を巻き添えにし、すずりや灯お嬢さんまでもをこんな目に遭わせてしまった。責任は取らなければ……」

 草雲の両目に宿る光を見て、玄海は彼の決意を感じ取ると、大鳥居に背を向けて空を見上げながら言った。

「私も一緒に行けば、少しは役に立てそうか?」

 草雲は少し微笑みながら、ゆっくりと首を振る。玄海は空を見上げたまま、息を吐いて目を伏せて呟く。

「そうか、残念だ……」
「玄海殿、最後にひとつお願いが」
「なんだ、言ってみろ」
「すずりのことを頼みます。全てが終わった後、帰る場所がないのでは寂しいでしょうから……」

 草雲は握り締めた筆に視線を落とし、哀れむようにそう言った。

「そうか、姿形が違っても、死んだわけではないんだな。わかった、後のことは任せておけ」
「最後まで借りを作るばかりで申し訳ありません」
「構わん。後のことは気にせず、お前の役目を果たしてこい」
「ありがとうございます玄海殿……この地で過ごした日々は、私の人生で一番幸せでした。そしてあなたの友でいられたこと、誇りに思います。どうかお体には十分お気をつけて……」

 草雲は深々とお辞儀をし、空を見上げたままの玄海の横を通り過ぎていく。しばらくして玄海は向き直り、大鳥居の向こうへと去って行く草雲の姿をいつまでも見送っていた。




 再び訪れた異界の底は、ずいぶん様子が変わっていた。広い空間は辺り一面が黒く塗りつぶされたようで、所々に稲妻のような光が走っているばかりである。その暗闇の中を一歩ずつ進んで行くと、どこからか重々しい声が響いた。

「誰かと思えば……土地神に連れられて逃げ出したお前が、また戻って来るとは思わなかったぞ」

 嘲笑う道暗の声に、草雲はうつむいたまま答える。

「道暗、姿を見せるんだ」

 草雲の呼びかけに応じたのか、暗闇の奥にぽつんと、道暗の青白い顔が浮かび上がる。よく見ると首から下の身体のほとんどは、暗闇と同化して見えなくなっており、道暗の顔にも無数の黒い血管のような筋が走り、不気味に脈打っている。宇迦之御魂神が言ったように、強大な力と融合している最中のせいか、道暗はその場から動こうとはしない。

「ククク、せっかく拾った命を捨てに来たか?」
「私の目的はただひとつ……全ての物の怪を封じ、そしてお前を倒すこと。そのためなら、私の命などいくらでもくれてやる」
「再び私の前に現れたことは褒めてやろう。だが絞りカスのようなその姿で、なにが出来るというのだ。今度は逃がさん。確実に息の根を止めてくれるわ」

 暗闇の中で、重く大きな物が動いた。暗闇だと思っていたものは、真っ黒な影が巨大な人の形を取ったような、まさに魔神と呼ぶに相応しい化け物の姿だった。道暗の顔はちょうど心臓に当たる位置にあり、上半身だけしか身体は出来上がっていないが、それでも山のように大きく、人間と子犬ほどにも背丈が違っていた。魔神と化した道暗は、太く巨大な黒い手を振りかざし、草雲の頭上に覆い被せて握り潰そうとしたその時、暗闇の中に黄金の光の筋が走った。



「……!?」

 直後、道暗の腕は黒い液状になって溶け始め、ドロドロになって流れ落ちていく。ここでようやく、道暗は草雲の手に見慣れない道具が握られているのに気が付いた。

「き、貴様、一体なにをしたッ!? その筆は一体……!?」
「お前の野望のために犠牲となった人々の無念……そして一人の娘の切なる願いが、私にこの力を与えたのだ」

 草雲は矢のように飛び出すと、道暗めがけて駆け出した。道暗は体中から無数の腕を伸ばしたり、身体の一部を槍のように変化させ、雨のように撃ち出すが、草雲の筆がそれらを薙ぎ払うと、全てが墨となって流れ落ちてしまう。草雲は筆を突き出して身構え、強靱な意志の宿る目を道暗に向けて言った。

「これはただの筆ではない。異界に通じ、その力を自在に操るもの。名付けて魂振りの筆……この筆は思い描いたものを現実とし、また人の情念より生じた妖魔の姿と力を奪うことが出来る。お前がいかなる魔神であろうと、どんな恐ろしい妖術を操ろうとも、今の私には通じぬと思え!」
「ふざけるな、全知全能を得た我が力が効かぬなど……そんなはずがッ!」

 道暗が両目を光らせて叫ぶと、吹雪と稲妻が突然現れ、嵐のように入り乱れて草雲を襲う。しかし草雲が筆先で目の前に円を描くと、吹雪は遮られ、稲妻も跳ね返されてしまう。道暗は続けざまに業火の壁を作り出して行く手を遮るが、草雲が業火の壁に向かって筆を振り下ろすと、炎の壁は真っ二つに割れ、道暗までの道が出来上がった。

「ば、馬鹿な、こんな馬鹿なことが――!」
「ただの死に損ないと侮ったのが、運の尽きだったな道暗……いざ、覚悟ッ!」

 草雲は飛び上がり、道暗の喉元よりやや下の位置めがけて筆を薙ぎ払う。黄金の軌跡が弧を描き、道暗の本体を切り裂くと、すぐに異変が起こり始めた。

「か、身体が崩れる……力が流れ出していく……! と、止められん、ぐわあああっ!?」

 部屋全体を覆っていた暗闇は液状となり、ズルズルと地面に流れ落ちて元の岩壁が顕わになっていく。そして道暗の背後にある大きな裂け目の向こうへと、吸い込まれるように流れていくのである。

(黄泉の世界への穴は、死者の魂や物の怪を強い力で引きずり込むと聞くが……道暗の力が失われたことで、本来の状態に戻ろうとしているのか)

 草雲は素早く状況を理解すると、悶え苦しむ道暗に目を向けて身構える。

「あ、有り得ない……私は全てを手に入れたはず……その私がなぜ負ける!?」
「お前には分かるまい。自分以外の全てを踏みつけ、利用することしか出来ないお前には……」

 崩れた身体に押し潰されていく道暗を、怒りや悲しみ、そして憐れみの入り混じった表情で草雲は見つめていた。やがて潮が引くように床一面の黒い影が消え、本来の地面が現れる。そこには書き換えられた大きな円の図形と、すでに事切れて動かなくなった灯の亡骸が横たわっているのだった。草雲は灯の傍に行って身体を抱き上げ、物言わぬ彼女に向かって何度も心の中で詫びた。

「……!」

 その時、猛烈な殺気を感じて振り返ると、黄泉世界へと続く裂け目から、身体の半分以上が崩れて白骨さえ剥き出しになっている、おぞましい姿の道暗が這い出そうとしていた。

「ぐ……許さん……絶対に許さんぞ……!」
「まだ生きていたか!」
「草雲、貴様も道連れに――!」

 道暗が白骨化した腕を伸ばすと、指先から数珠つなぎになった亡者が現れ、一瞬にして草雲の手足にしがみつく。土気色の肌は一瞬気を失いかけるほどに冷たく、触れられているだけでみるみる生気を吸い取られていくようだった。力が抜け、その場に座り込んだ草雲は、もう立ち上がるだけの体力さえ残っていなかった。

(いよいよ最期か……心の臓が止まる前に、最後の仕上げをしなければ)

 自らの最期を悟った草雲は、わずかに残された命の火を一気に燃え上がらせ、手にした筆に全てを注ぎ込む。筆は一回り以上も姿が大きくなると、草雲の手を離れてひとりでに宙を舞った。そして地面に描かれた図形に筆先を当てると、流れるように動いてそれを書き換えていく。それは元々、草雲が描いていた図形――塞の神を呼び出し龍脈の裂け目を閉じるために、宇迦之御魂神から授けられていた封印の術であった。

「し、しまっ――!?」

 道暗がそれに気付いた時、すでに術は完成していた。ふと頭上を見上げた道暗の、眼球が落ち込んだ眼窩に見えたものは、途方もなく巨大な要石が振ってくる光景だった。

「ぐあああああああああッ!?」

 落下した要石は道暗を丸ごと押し潰し、黄泉への穴を完全に塞ぐと、辺りはしんと静まり返り、あれほど濃く漂っていた邪な気配も、嘘のように全てが消え去っていた。

(終わったか……ようやくこれで……)

 灯の身体を抱いたまま、草雲はその場に座ったまま動かない。徐々に呼吸も弱くなり、いよいよ意識が遠のいてきたのだが、彼は再び異変を感じて顔を上げた。鎮座する要石の下から、怨嗟に満ちた恐るべき声が響いてきたからだ。

「ククク……この程度の封印で勝ったつもりか。この地にしがみついて数年も力を回復すれば、この石ころを動かす程度はわけもない。だがお前は間もなく死に、この頑張りも無駄になる。多少予定は狂ったが、結局は私が勝つと決まっていたのだ。人間という奴は悲しいな草雲よ、ハーッハッハッハ!」

 異界の底で、道暗の勝ち誇った笑いが響く。草雲はうなだれたまま動かなかったが、ほとんど聞こえないような声で呟いていた。

「お前こそ……私を甘く見過ぎているんじゃないのか」
「なんだと?」
「龍脈の裂け目とお前を封じるのに、塞の神だけで足りぬのは分かっていた。ならばどうするか……方法はただひとつ。我が魂と肉体を楔とし、封印に打ち込む。そうすればこの地の結界は何倍にも強固な物となり、我が魂がこの地に留まり続ける限り、決して破られることもない」
「なっ……まさか、やめろ草雲ッ――!?」
「これが私なりの……けじめだ……」

 最後に小さな呼吸を吐き出すと、草雲の手が力なく垂れ下がった。すると草雲の身体は白い光に包まれて輝き始め、大きな石へと変化していく。それは地面にどっしりと根を下ろしたように鎮座すると、全体に光の筋を浮かび上がらせる。光の筋は地面に伝わって広がり、塞の神を呼び出した図形と結びつくと、一筋の太い帯のようになって要石と繋がった。その途端、塞の神の要石が放つ霊気は格段に強力なものとなり、より深く地面にめり込んでいく。封印の向こう側で道暗が必死の抵抗を試みていたが、時すでに遅く、圧力を増した要石によって弾き飛ばされ、黄泉の世界へと吸い込まれていった。

「お、おのれ……私は死なん、絶対に死なんぞ! いつの日か必ず蘇り、貴様の一族をことごとく血祭りにしてやる! 忘れるな――!」

 それが物部道暗だった人間の、最期の言葉となった。そして筆塚草雲もまた楔の石へと姿を変え、二度と人々の前に戻ることは無かった。しかし黄泉の国へ堕ちてなお、憎悪と執念を燃やし続けた道暗は、数十年の後に思念体となって結界を通り抜け、地上へと舞い戻ることに成功し、以来自らの身体を取り戻すべく暗躍を始めるのである。




 草雲と道暗の戦いに決着が付いた頃、地上では地震のような揺れが数回起こり、それから淀んでいた空が急速に晴れていった。数日ぶりの朝日と、青く澄み切った空だった。朝比奈全体に広がっていた異界も消え、跋扈していた妖怪もさっぱり姿を見なくなった。人々は異変が収まったことに安堵し、そして喜び合った。ただ玄海だけは、人知れず友や親しい者を次々に失った悲しみに、人知れず胸を痛めていた。

 それから数日後、玄海は梵能寺の本堂に籠もり、朝から読経を続けていた。草雲や灯、そしてすずりの供養も兼ね、一心に経を唱え続けていると、急に誰かに呼ばれたような気がして声が止まってしまった。玄海は本堂の中を見回してみるが、彼の他には誰もいない。

「おかしいな、気のせいか?」

 首を傾げつつ読経へ戻ろうとしたその時、目の前の祭壇に蜃気楼のようなものが立ちのぼったかと思うと、それは稲穂の髪飾りを付けた美しい女の姿へと変わっていった。

「なっ、何事だ!? 貴女は一体……!?」
「わらわは宇迦之御魂神……この大地を見守る者である。そなたが玄海じゃな?」
「は、ははっ」

 宇迦之御魂神の放つ神々しい霊気に恐縮し、玄海は慌ててその場に座り頭を垂れる。

「あまり時間が無いので手短に話すが……そなたに預かって欲しいものがある」
「と、申されますと?」

 宇迦之御魂神が、胸の前で両手の平を上に向けて揃えると、周囲から光の粒が集まり、それは一本の紅い筆となって浮かび上がる。それはすずりが変化したあの筆であった。筆は宙を浮いて、玄海の前までやってくる。玄海が筆を大事に受け取ると、宇迦之御魂神は微かに微笑みを浮かべながら言った。

「己の身を捧げた幼き娘と、自らの安息と引き替えに悪しき者を封じた筆塚草雲によって、この地を覆わんとした異変は防がれた。せめて親しかった者の傍に戻してやろうと、こうして会いに来たわけじゃ」
「慈悲深きお言葉、まことにありがたく存じます。草雲も喜んでいるに違いありません」
「わらわもこの者らの働きには報いてやりたいと思っておるが、狂いかけた龍脈の流れを正すために、ほとんど力を使い果たしてしまってな。再び力を取り戻すには、数百年と眠らねばならぬ。その間、そなたら人間の手でこの娘を守ってやっておくれ」
「はっ、心得ました。我が身命を賭して必ずや」
「そろそろ時間が来たようじゃ。では、くれぐれも後のことは頼んだぞ――」

 そう言い残して、宇迦之御魂神の姿はかき消すように見えなくなった。ふと我に返った玄海は、手の内にある紅い筆を眺めつつ、すずりとの記憶を思い返していた。

(筆の姿になっても、すずりは生きている、か……しかし、あの生意気な声がもう聞こえないというのは、やはり寂しいものだな)

 玄海が感傷に浸っていたその時、突然筆がまばゆく輝き始め、驚いた玄海は思わず筆を落としてしまう。筆から発せられる光はますます強くなり、目も開けていられないほどであった。しばらく経ってようやく光が収まってくると、玄海は用心しながら目を開けた。すると目の前には、よく知った赤い着物姿の娘が立っている。まぎれもなくすずりであった。

「ま、まさか……お前、すずりか?」
「……」

 すずりは黙ったまま、じっと玄海を見つめている。それからしばらく彼女は返事をしなかったが、何度か自分の名を聞いた後、ふいに口を開いた。

「すずりって……それがアタシの名前なのか?」
「そうだとも。急になにを言い出すんだ」
「なにも憶えてないんだ、アタシ」
「な、なんだって?」
「なんか……大事なコトがあったような気がするんだけど、思い出せなくてさ。気が付いたらここに居たんだ。お前はアタシを知ってるのか?」

 すずりと視線が重なった時、玄海は深い赤の瞳と、彼女が放つ気配を感じ取り、目を見開く。

(そうか、姿は元のままでも……)

 玄海は少しばかり残念に思ったが、すずりが人の姿で戻って来たことに喜び、すずりの小さな両肩に手を置き、少し寂しげな表情を浮かべながら答えた。

「ああ、もちろん知っているとも。お前の名はすずり。そしてここが、お前の帰るべき場所だ。これからのことは私が面倒を見るから、安心するがいい」
「……なあ、なんで泣いてんの? どっか痛いのか?」
「いや、なんでも……ない。つい嬉しくて、な」

 玄海はこの後、妖怪退治屋としての修行を積んで頭角を現し、現代まで続く妖怪退治の名門、八房家の祖となった。すずりは再び梵能寺に引き取られ、長きに渡って手厚く保護されることとなったが、彼女の持つ力は秘密裏にされ、ごく一部の者を除いては、誰も知ることはなかった。そしてこの後すずりを扱い妖怪と戦う者を、魂振りの筆に認められし者――魂筆使いと呼ぶようになったのである。

 




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