魂筆使い草助

第十四話
〜『魂振りの筆(前編)』〜



 およそ八百年前――長く続いた公家の世が終わり、武家の支配が始まった頃のこと。幕府のお膝元として急速な発展を遂げた朝比奈の町では、日が暮れると妖怪や魑魅魍魎が姿を現し、毎晩のように怪異を引き起こすという事件が起こっていた。役人たちは祈祷師や僧侶を呼び、また屈強な侍たちを集めたりと手を尽くしたものの、増え続ける怪異に対して対処も追いつかず、頭を痛めていた。事態を重く見た幕府は全国におふれを出し、妖怪を封じられる者を募ったが、妖怪の多さに恐怖して逃げ出す者、戦いを挑んで返り討ちに遭う者が続出し、目立った成果を上げられぬまま月日だけが過ぎていった。

 厳しい日差しが降り注ぐ八月初めの正午過ぎ、朝比奈の町に一人の男がやってきた。竹で作った背負子にたくさんの荷物を載せた、汚れた身なりの男だった。荷物が重いためか背筋は曲がり、服はあちこち破れてボロ切れ同然で、伸び放題の髪を振り乱したまま、落ち着きなく町を眺めながら大通りを歩いていた。やがて男は足を止め、しきりに辺りの匂いを嗅ぎ始めた。その様子が異様だったため、通行人からは遠巻きにジロジロ見られていたが、やがて大通りから横道へと入って行くと、そのまま匂いを嗅ぎながら歩き続け、やがてある屋敷の前に辿り着いた。屋敷はやや小さいながらもしっかりした造りで、頑丈な土塀で敷地を囲んでいる。それなりに地位のある武士の住処らしく、門には「三吉」と書かれた表札が掛けられていた。汚れた男が頭を掻きながら門を見つめていると、彼が来たのと反対側の道から、脇に包みを抱えた僧が近付いてきた。

「これ、そこでなにをしている。ここは幕府の御家人、三吉家に縁ある御方の屋敷だ。見たところ旅の者のようだが、そのような格好でこの回りをうろついていては、すぐに役人が来て捕らえられてしまうぞ」

 僧はまだ年若く、優男風の顔立ちではあったが、真っ直ぐな目元と真一文字に結んだ口元は、そのまま彼の人柄を表しているようであった。額から噴き出す汗を手ぬぐいで拭きながら、僧は汚れた男に向かって言った。

「いえ、こちらの方角から陰の気を強く感じたもので。気分を悪くされましたら申し訳ない」

 汚れた男は外見に似合わぬ滑らかな口調で答え、門の前から身を引いて道の脇に立つ。若い僧は少し驚いた表情を浮かべながらも、はぐらかすような男の返事に警戒の眼差しを向けた。

「なるほど、お前さんもおふれを知って集まってきた拝み屋の類だな。どこで聞いたか知らないが、ここはお前さんらの世話になるような出来事は起きていないよ。怪しまれぬうちに、早々に立ち去ることだ」

 きっぱりと言い放つ若い僧だったが、汚れた男は急に落ち着きなく周囲を見回し始めたかと思うと、おもむろに若い僧の方へと向き直り、垂れ下がった髪の隙間から鋭い眼光を光らせながらにじり寄った。

「な、なにをするつもりだ。こう見えても多少の心得はあるんだぞ私は」
「静かに。そのまま動かないでください」

 汚れた男はそう言って若い僧との距離を縮めると、前触れもなしに素早く腕を伸ばした。目で追えないほどの速さに若い僧は息を呑んだが、汚れた男は肩の上あたりでなにかを掴む仕草をしただけで、すぐに手を引っ込めた。若い僧は気恥ずかしさを誤魔化すように、ムッとなって汚れた男に詰め寄った。

「どういうつもりか知らないが、いきなり無礼じゃないかね。相手が私だったから良かったものの、もしもこれが――」

 若い僧が言い終わる前に、汚れた男は握り締めたままの手を差し出す。それに目を落とした途端、若い僧は引きつった表情で悲鳴を上げた。

「なっ、なんだそれは!?」

 汚れた男の手に握られていたのは、皮を剥いた芋虫に毛のない人間の顔がくっついたような、おぞましい生き物だった。それはギィギィと不快な鳴き声を発し、手の中でのたうち回っている。聞き返すまでもなく、この世の生き物でないのは明らかだった。汚れた男が聞き取れない声で呪文を唱えると、握られていた化け物は跡形もなく蒸発してしまった。

「ごく低級な魑魅魍魎の一種です。屋敷から漂う陰の気に惹かれて集まってきたんでしょう。他にもそこら中にいますがね。ほら、あそこの樹にもたくさんいますよ。見えますか?」

 若い僧は慌てて男が指した樹を見上げたが、けたたましい鳴き声を上げるセミがいるだけで、彼の目にはそれ以外の生き物は映らない様子である。

「ど、どこにもいないぞ。下手な嘘で人を驚かせて楽しいのか」
「ああ、そうだった。連中を見るにはコツが必要なもので……ちょっと失礼」

 汚れた男は左手をかざし、若い僧の眉間を人差し指で軽く押す。それと同時に、若い僧の身体に不思議な力が流れ込む。

「では、もう一度よく見てください」

 そう言われて目を凝らした若い僧は、近くの植え込みや草むら、木の枝から塀の上と言った至る所に、見たこともない奇怪な生き物がいるのを見て思わず腰を抜かして座り込んだ。

「うわわっ!?」
「やあ、すぐ見えるようになるとは大したものだ。あなたは結構素質があるみたいですね。ダメな方はどうやっても見えませんので」
「こ、これはまやかしではないのか? こんなおぞましい生き物、見たことも聞いた事もない!」
「これらは幽界(かくりよ)に住み、陰の気をすすって生きる浅ましき者どもです。一匹なら虫と同様に大した害はありませんが、多く集まれば人に害を成し、不幸を招き寄せる脅威となりましょう」
「こんなものが存在するとは……お前さんは一体何者なんだ?」

 そう訊ねられると、汚れた男は居住まいを正して答えた。

「私の名は筆塚草雲。京の都より十里ほど東の山里にて、お祓いや呪い事をしながら細々と暮らしておりました。一月ほど前、人づてに此度のおふれを耳に挟み、微力ながら私の力が役に立てばと思い、旅を続けてようやくこの町に辿り着いた次第です」

 若い僧は袈裟に付いた汚れを払いながら立ち上がると、顎に手を当て、草雲をつま先から頭の上までまじまじと見つめて考え込む。

「ふうむ」

 しばらくして若い僧は顎から手を離し、背筋を伸ばして言った。

「私は玄海。まだ修行中だが、一応は僧職の末席に名を連ねている者だ。三吉家と私の実家とは、古くからの付き合いでな。今は訳あって、毎日ここを出入りしているというわけだ」
「そうでしたか。しかしこの様子、屋敷の中はさぞ大変でしょう。一刻も早く陰の気の元を絶たねば、この先どんな災いが起こるやも知れません」
「筆塚草雲と言ったな。君なら、この有様をどうにか出来るのかね?」

 玄海の鋭い眼差しに、草雲はこくりと頷く。

「うちの家系は、代々それを生業としておりますので」
「……分かった。ここでしばし待っていてくれ。屋敷の者に話を通してくる」

 玄海は草雲をその場に残し、屋敷へと入って行く。しばらくして戻ってきた玄海は草雲を招き入れ、屋敷の中へと案内した。庭園には手入れの行き届いた松や紅葉、ツツジなどが植えられていたが、枝の間や茂みの中で、小さな魑魅魍魎どもが行き来している姿が草雲の目に入っっていた。建物は飾り気こそないものの、しっかりとした作りで障子も真新しかったが、玄海に案内されて廊下を歩くうち、徐々に妖気が濃くなっていく。やがて寝所の前にやってくると、障子の隙間からひときわ濃い妖気が漏れ出しているのを見て、草雲は表情を曇らせる。

「許可は取ってある。遠慮せず中に入ってくれ」

 玄海が開けた障子の向こうは、前が見えないほどに濃い緑色の煙が立ちこめていた。催す吐き気を堪えつつ寝所に足を踏み入れると、畳の床に敷かれた布団の上に、十六か十七歳くらいの若い娘が横たわっていた。娘は美しい顔立ちをしていたが、それ以上に彼女の異様さが草雲の目を引いた。娘は死人のように青白い顔色をし、口からは緑色の煙を絶えず吐き出し続けていた。

「これは……」
「彼女はこの屋敷の主、三吉光治殿のご息女で、灯(あかり)殿という。日頃は病と無縁なほど元気でおられたのだがな。十日ほど前に突然倒れてからというもの、ひどい熱に浮かされたまま一向に目を覚まさぬ。そればかりか日が経つにつれて、屋敷に色々な怪異が起こり始めるようになってしまってな。光治殿も奥方殿も、すっかりまいっておられるのだ。私は光治殿に頼まれて、様々な薬をお嬢さんに飲ませていたんだが、どれもさっぱり効き目がなくてな。いよいよさじを投げるしかないかと思っていたところだ」
「なるほど、そのような事情がおありでしたか。私の見たところ、これはただの病ではありません。薬で治療するのは難しいかと」
「やはり物の怪が取り憑いているのか」
「ええ。屋敷の様子やこの妖気といい、疫鬼と見て間違いないでしょう。ただ、ひとつお訊ねしたいのですが」
「なんだ?」
「ここまで酷くなる前に、祈祷や御払いはしておられないのですか? 玄海殿も護摩の儀式を執り行えるはずと思いますが」

 草雲が訊ねると、玄海は痛いところを突かれたという風に口元を曲げ、ため息をつきながら言う。

「隠しても仕方がないからはっきり言うが、私には物の怪を退けるような神通力は備わっておらん。形だけの儀式で病が治るのなら、いくらでもするがね。お前さんの他にも、祈祷師やら拝み屋を呼んでみたが、どれも舌先三寸のインチキ連中ばかりでな。だから君のことも最初から疑ってしまったわけだ」

 この玄海という人物は、草雲が知っている中でもすいぶん率直にものを言う男だった。しかしそれだけに、彼に余計な誤魔化しや打算がないことも分かり、草雲は少し安堵した気持ちになっていた。

「そうでしたか。これは私の責任も重いようで」
「これでダメなら万事休すだ。正直、藁をも掴む心境だよ」
「心得ました。しかし憑き物落としの前に、身を清めねばなりません。井戸をお貸し願えますか」
「ああ、庭に出て裏手に回ったところだ。自由に使ってくれ」

 草雲は一旦寝所から表へ出ると、井戸の前で身に付けていたボロボロの衣服を脱ぎ、桶に汲んだ水を頭から被り、身体にこびり付いた汚れを落とし始めた。髪を洗い、肌の泥や垢を落とし終えると身体を拭き、背負子に乗せていた箱の中から汚れひとつ付いていない着物を取り出し、慣れた手つきでそれを身に付け始めた。着替え終わった草雲は純白の狩衣と薄紫の袴に烏帽子という出で立ちで、再び寝所へと戻ってきた。草雲の姿を見るなり、玄海は目を丸くして言った。

「君は陰陽師だったのか。それにしても、さっきとはまるで別人だな。どうしてあんな汚れた格好をしていたんだ?」
「はは、大切な一張羅で旅は出来ませんよ。それに、あの格好の方が物取りに狙われにくくて楽なもので」
「それならそうと、早く言ってくれれば良かったものを。まあいい、とにかく始めてくれ」

 草雲は頷き、いくつかの道具を持って灯の前に座ると、まずはハサミで紙を切り、人形(ひとがた)を作ると、それを三方(木製の置き台)の上に置き、指で印を結びながら呪文を唱えた。すると、風もないのに部屋の障子がガタガタと音を立てて動き出し、さらに部屋全体が激しく揺れ始めた。座っていられなくなった玄海は、床に伏せて草雲の方を見た。彼は平然と座り続けたままで変わり無かったが、灯の身体は見えない力で引っ張られたかのように、横たわっまま何度も跳ねたりを繰り返していた。

「なっ、なんだ……!?」
「お静かに。これより彼女に取り憑いた疫鬼を、身体の外へ追い出します」
「わ、わかった」

 草雲は文字と模様が書かれたお札を取り出すと、それを灯の額に貼り付けた。

「娘の身の内に巣食う疫魔よ。我が命に従い、その姿を顕せ――急急如律令!」

 凜とした声が響き渡ると同時に、灯の口から吐き出されていた緑色の煙が一ヶ所に集まり、やがて人間の子供くらいの大きさの、醜い鬼の姿となった。

「こ、こいつが灯お嬢さんに取り憑いていた鬼の姿か!」

 疫鬼のおぞましい姿を目の当たりにした玄海が、青ざめた顔で言う。

「いかにも。これが人に病をもたらす疫鬼です」
「なんと醜い化け物だ。しかし、お嬢さんから追い出したはいいが、そいつは暴れ出したりしないのか?」
「ご安心を。私の霊力によって疫鬼は呪縛され、動くことは出来ません。しかし……」
「どうした、なにか問題でもあるのか?」
「今まで疫鬼は何度となく祓ってきましたが、わずか十日でここまで大きく育つなど聞いた事がない。普通ではあり得ないことです」
「たまたま育ちが良かっただけじゃないのか。なんでもいいから、早くそいつを封じるなりしてくれっ」

 疫鬼の姿が見るに耐えないらしく、玄海は目を逸らして口元を押さえながら懇願する。草雲が頷いて次の動作をしようとしたその瞬間、突然疫鬼が耳を突くような不快な叫び声を上げ、腕を振りかざして草雲に襲いかかった。

「危ないッ!」

 咄嗟の出来事に声を上げる玄海とは対照的に、草雲は眉ひとつ動かさずに疫鬼を見据え、指一本で疫鬼の爪を受け止めていなすと、疫鬼の身体は絞られた雑巾のようにねじれて床に転がり、口から泡を吹きながら苦悶の声を発するだけとなってしまった。

「我が呪縛に抗う力があるとは、やはり普通ではない……が、疫鬼ごときに遅れを取るようでは筆塚の名折れ。そのまま大人しく封じられるがよい」

 草雲が目の前に置いてある紙の人形を指して呪文を唱えると、疫鬼は耳障りな声で鳴き叫びながら、人形の中へ吸い込まれるようにして消えていった。それと同時に部屋の揺れは収まり、屋敷全体に漂っていた陰気な気配も、霧が晴れるように無くなっていた。

「お、終わったのか?」
「ええ、疫鬼はこの人形に閉じ込めました。これを供養すればひとまず終わりです。しかし、疫鬼が短時間でこれだけ成長したことについて、後で詳しく調べておいた方が良さそうですね。ともあれ、これでお嬢さんも快方に向かうことでしょう」

 青ざめていた灯の顔色はすっかり良くなっており、今にも目覚めそうな様子であった。

「おお、よくやってくれた。私は光治殿を呼んでくるから、君はこのままお嬢さんを見ていてくれ」
「分かりました」

 喜びながら部屋を出て行った玄海は、ほどなくして身分の高そうな武士と、その妻らしき女性を連れて戻ってきた。屋敷の主である三吉光治と、その奥方である。やがて皆が見守る中、灯はゆっくりと目を開いた。

「う……んっ……あれ、お父様、お母様……?」

 灯が目を覚ますと、三吉夫妻は大いに喜び、何度も何度も玄海や草雲に礼を述べた。光治は草雲に望みの褒美はあるかと訊ねたが、草雲は金などの話は一切口にせず、その日の昼食と大きな握り飯を三つほど包んでくれるように頼んだだけだった。光治は草雲の態度に感心し、玄海と供に昼食を振る舞った後、必要な事があれば力になると約束をしてくれた。




 昼食を平らげた後、三吉家を後にした草雲と玄海は、お互いの話をしながら大通りを歩いていた。

「――いやしかし、君の力は大した物だ。私の目に狂いはなかったな。今この朝比奈には、拝み屋や呪い師、それから君のような陰陽師が多く集まっているが、本当に力ある者は数えるほどしか居ない。その中の一人が君だ」
「買いかぶりですよ玄海殿。私程度の使い手など、世間にはいくらでも居ます」
「謙遜なさるな。他所から来た呪い師の大半は、金や財産を狙う詐欺師ばかりだ。だが君は、あれほどの力を持ちながら、そうした話をまるで口にしなかった。いやはや欲がないというのか、珍しい男だ」
「いえ……それは違いますよ」

 玄海の言葉に、草雲は陰りのある表情を浮かべて答える。

「過ぎた欲は人を滅ぼす――筆塚家に伝わる家訓でして。身の丈を超えた望みを持つ者や、無用な見返りを求める者は、いつか自らの行いによって身を滅ぼすものです。私は幼い頃より、祖父や父からそう言い聞かせられて育ちました」
「なるほど。君の祖父や父上は立派な方なのであろうな。是非一度お目にかかりたいものだ」
「その言葉を聞いたら、二人ともきっと喜びますよ」
「ところで、君はこれからどうするんだ? どこか宿を取ってあるのか?」
「いえ、蓄えも乏しいもので。今夜はどこか雨風が凌げる場所で過ごそうかと」
「それはいかん。悪いことは言わんから、野宿だけはやめておけ」
「物の怪が現れるからですか? それなら気になさらずとも」

 玄海は足を止めて辺りを見回すと、草雲を道の脇へ連れて行き、人の目を気にしながら小声で喋り始めた。

「そうではない。あまり大きな声では言えんのだが……実は今、幕府を取り巻く御家人の中で、不穏な動きがあると聞いている。先代様が亡くなられ、世継ぎ殿が将軍となられたが、そのことに不満を持つ者も少なくない。三年ほど前には、ある有力な御家人の一人が糾弾され、一族もろとも滅ぼされてしまった。そして今年に入ってからというもの、不吉な神託が何度も下りたといい、ついには将軍様までもが病で床に伏せられてしまってな。そうした事情もあって、役人が神経を尖らせているんだよ。宿も取らぬよそ者など、たちまち捕らえられて牢に放り込まれてしまうぞ。運が悪ければそのまま斬首だ」
「うーん、困りましたね。どうしたものか」
「それなら心配無用だ。私の寺に来るといい」
「そんな、よろしいのですか?」
「空いている部屋や納屋があるから、好きに使うといい。君が居なければ、灯お嬢さんを救えなかったからな。これは私からの礼だと思ってくれ」
「身に余る計らい、ありがとうございます玄海殿」
「構わんさ。それより気になっていたのだが、君ほどの実力を持つ陰陽師が、なぜ京から離れた山里で暮らしていたのだ?」
「それは……」

 草雲は口をつぐんだままうつむき、それ以上の返事をしなかった。その様子を見た玄海は少し怪訝な顔つきをしたものの、すぐ元の調子で続けた。

「まあいい。なにか事情があるのかもしれんが、今は聞くまい」
「玄海殿、もしも私に後ろめたい事情があるのだとしたら、その時はどうなさいますか」

 玄海は真っ直ぐな目で草雲をじっと見たが、今度は不機嫌そうな顔で返事をした。

「私も出家をする前は、色々とひねくれていてな。悪い連中とつるんだり、ずいぶん無茶な真似もしたものさ。その間に徒党を組む荒くれ者、甘言をぶら下げて人をたぶらかす者――悪い人間という奴はたくさん見て来たが、君がそんな連中とは違う事ぐらいは分かる。どんな事情があるにせよ、それを知って急に態度を変えるほど性根は痩せておらん。馬鹿にしてもらっては困る」

 ぶっきらぼうな口ぶりだったが、その言葉でこの玄海がどういう男なのか、草雲は分かった気がした。胸に熱い物がこみ上げるのを感じながら、草雲は言った。

「……お心遣い痛み入ります玄海殿。この恩は必ず、必ずやお返しいたします」

 草雲が深々とお辞儀をして顔を上げたその時、物陰から小さな人影が飛び出して近付き、草雲が持っていた握り飯の包みを掴むと、それを奪い取って素早く走り去っていった。その後ろ姿は、町に辿り着いたばかりの草雲と同じように、ボロボロの汚れた服を着た子供だった。背中が隠れるほど伸び放題になった髪は、あちこちに泥や埃が付いてずいぶん汚れていた。

「こらっ、待たないか!」

 玄海は声を張り上げて追いかけたが、子供は素早く身を翻し、あっという間に細い路地裏へと入り込んで姿が見えなくなってしまった。

「ええい、すっかりしてやられたな」
「面目ない。昼間からあんな童(わらし)が盗みを働くとは思いもせず、少し面食らってしまいまして」
「平家が滅びて世が定まったとはいえ、人の心はまだ荒んだままだ。戦で親兄弟を失った童は町をうろつき、ああやって物をくすねていく。生きるために必死とはいえ、なんとも嘆かわしいことよ」
「なるほど。しかし私も食わねば生きていけぬ身ですから。あの童の後を追いかけてみますよ」
「どうやって追うつもりだ? 連中は町の路地を知り尽くしているし、逃げ足の速さは役人でさえ手を焼くほどだぞ」
「ご安心を。手はあります」

 草雲が紙のお札を取り出して放り投げると、それは瞬く間に鳩へと変化し、草雲の包みを盗んでいった子供の後を追いかけて飛んでいった。その様子を見送ってしばらくすると、鳩が草雲の元へと戻ってきた。

「逃げた童を見つけたようです。それじゃあ行きましょうか」
「す、凄いな、紙が本物の鳥に変わったぞ」
「式神という陰陽道の術ですよ。色々と便利ですし、玄海殿も学んでみますか?」
「う、うむ。私にそんな才能があればいいのだが……とにかく今は追いかけるのが先だ」

 式神の鳩の後を追って裏路地をいくつか通り抜けて行くと、町外れへと続く道に、握り飯を盗んでいった子供の後ろ姿が目に入った。玄海は急いで追いかけようとしたが、草雲はそれを引き留めて言った。

「少し様子を見ましょう。どこかへ向かっているようです」

 二人は子供に気付かれないよう距離を取りつつ、その後を追いかけた。やがて町外れの森にある小さな神社の前に辿り着くと、子供は脇目もふらずに階段を上り始めた。辺りは民家のない寂しい場所で、風の音と蝉の鳴き声以外は何も聞こえない。草雲と玄海が階段を上り、半開きになった神社の扉の向こうをそっと覗き込んでみると、建物の隅の暗がりから小さな声が聞こえてきた。

「ほら、でっかいおにぎり持ってきたんだぞ。これ食えばすぐに元気になるからさ」

 それからしばらく耳を傾けていたが、喋っているのは一人だけで、もう一人の声がいつまで経っても聞こえてこない。不思議に思った草雲は玄海の方を見て頷き、扉の向こうに足を踏み入れた。

「だっ、誰だ!?」

 突然現れた大人二人に驚き、子供は耳に響くような大声で叫び威嚇する。そして手近にあった燭台や器などを投げつけて逃げようとしたが、一足早く玄海が子供を捕らえて押さえ込む。

「こらっ、暴れるんじゃない! じっとしていないか!」
「ちくしょう、役人に突きだされてたまるかッ! 離せ、離せよッ! わああああっ!」

 子供はとにかく叫んでは暴れ続け、なかなか言う事を聞こうとしない。手を焼いた玄海が困り果てて草雲に助け船を求めたが、草雲は部屋の隅の暗がりに向かってしゃがみ込み、なにかを調べていた。

「おい、なにをしているんだ。この童を大人しくさせるのを手伝ってくれ」

 草雲の様子に気付いた子供は突然目の色を変え、玄海の腕に噛み付いて逃れると、早雲が調べている物の上に覆い被さった。汚れた髪の隙間から見える子供の目はひどく荒み、野良猫のように怯えの色を滲ませていた。草雲は子供を驚かせないように、ゆっくりとした口調で話しかけた。

「安心しなさい。お前を役人に突き出したりはしないよ。握り飯を盗んだのはこのためだったんだな」
「……」

 子供はうつむき、口をつぐんだまま返事をしない。小さな身体の下には藁が敷かれ、その上には骨と皮だけに痩せ細った別の子供が横たわっていた。草雲はもう一度痩せた子供の様子を調べたが、すでに息を引き取っており、身体もすっかり冷たくなっていた。

「気の毒だが、もう手遅れだ。この子はお前の兄弟なのか?」

 草雲の言葉を聞いた途端、覆い被さっている子供は両眼に涙を浮かべ、首を横に振った。

「違うよ……でも、ずっと一緒に暮らしてた。前は他にも仲間がいたけど、みんな役人に連れて行かれたり、病気で死んで……とうとうひとりぼっちになっちまった」
「そうか。とにかくその子を葬ってやらねば。手を貸してくれ」

 草雲は立ち上がり、神社の裏の森に穴を掘って亡骸を埋葬した。近くには、粗末な作りの墓がいくつかあり、先に飢えや病気で死んだ仲間の物だと子供は言った。草雲からの頼みもあって、玄海が簡単な葬儀を執り行い、お経を唱えて子供たちの魂を弔うと、墓の前で手を合わせている子供の後ろで、草雲と玄海は聞こえないように話し合っていた。



「――で、ずいぶんあの童を気にしているようだが、どうするつもりだ? 半端に情けを施したところで、いずれ墓がもうひとつ増えるだけだぞ」
「そのことについて、さっきから考えていたのですが」

 草雲は少し言葉を句切り、一拍おいてから続けた。

「まことに勝手なお願いなのですが……しばらくの間、あの童を私と一緒に玄海殿の所で住まわせては頂けぬでしょうか」
「ほう、物好きな提案だな。世の中には孤児などいくらでもいるのだぞ。お前さんはそれら全ての面倒でも見るつもりかね?」
「いえ、そんな大それた真似はとても。ただ、こうして巡り会ったのもなにかの縁。それに、あの童は辛い境遇にありながら、自分以外の者を思う気持ちを持っています。それをこのまま死なせてしまうのは忍びなく思いまして」

 玄海はずっと険しい表情を向けていたが、草雲の言葉を聞き終えると、明るい表情を浮かべて草雲の肩を強く叩いた。

「はっはっは、いいだろう。一人増えるのも二人増えるのも大して変わらんさ。ただし、童の面倒は君がちゃんと見るんだぞ、いいな」
「はい、ありがとうございます。重ねてなんと礼を言えばよいか」

 草雲は墓の前で両手を合わせている子供に事情を説明し、しばらく一緒に暮らす意志はないかと訊ねた。子供は草雲の目をじっと見つめ、それからしばらく悩んでいたが、他に生きていく方法が無いと理解したようで、こくんと頷いて草雲の後に付いてきた。

 朝比奈の中心部から外れ、西へおよそ二十分ほど、田畑ばかりが続く道を歩いて行くと、玄海の住処である梵能寺があった。本堂や他の建物は質素だったものの、屋根には瓦が葺かれ、壁は漆喰できちんと塗り固められており、寝泊まりするには申し分のない作りであった。草雲は案内された部屋で旅の荷物を降ろすと、子供に握り飯を食べさせ、その後で風呂へと連れて行ったのだが、服を脱がせようとした途端に子供が猛烈に暴れ出した。

「やだ! 風呂なんか入らなくていい!」
「そんな汚い姿で居たら玄海殿に失礼だろう。ここで世話になるんだから、せめて身体くらいは清潔にするのが礼儀ってものだぞ」
「礼儀なんか知らねーや! 気安く触るなこの馬鹿! トンチキ! ハナクソーっ!」
「やれやれ、口の悪い奴だな……ほら、さっさと服を脱がないか」
「ギャーッ! やめろーーーッ!」
「あ痛だだだだだッ!?」

 引っかかれ噛み付かれ、散々に暴れ回る子供を取り押さえて服を引っぺがした草雲は、子供が顔を真っ赤にし、身体を隠すように座り込むのを見て首を傾げた。

「……ん?」

 心底恨めしそうな子供の視線に、草雲は「まさか」と表情を引きつらせる。

「お、お前は女の子だったのか!?」
「女で悪いか! だから触るなって言ったんだこの助平! 色魔! あほーーーー!」

 手近にあった桶を顔面に投げつけられ、草雲は鼻の頭を押さえながらため息をつく。

「いくらなんでも、まだ十かそこらの子供にそんな気持ちを抱くわけがないだろう。馬鹿なことを言ってないで、早く汚れを落としてしまうんだ。私は着替えをもらってくるから」

 玄海の元へ行って小坊主の衣をもらってきた草雲は、風呂場の近くにそれを置き、風呂の中に声をかけてから部屋へ戻った。しばらくして濡れた髪のままで子供が戻ってきたが、ヘソを曲げた顔をして、ぶっきらぼうにあぐらをかいて草雲の前に座った。

「よしよし、ずいぶん綺麗になったじゃないか」
「ふん、この恨みは忘れないからな!」
「無理に脱がせたのは悪かったよ。そういえばドタバタして聞いてなかったが、お前の名はなんというんだ?」
「……知らない」
「なに? 自分の名を知らないとはどういうことだ?」
「だから知らないんだよ。何年か前に戦があったらしくて、気付いたらその焼け跡に立ってたんだ。それより前の事はよく思い出せなくて……たまたま他の孤児連中に拾われて、それから一緒に暮らしてた。みんなお互いのことを好き勝手に呼んでたし、どれが本当の名前だったのか忘れちゃったよ」
「なるほど。しかし名前がなくては始まらないな。よし、私がお前に名を付けてやろう」
「へえ、どんなの?」

 草雲は少しだけ考えた後、手をポンと叩いて言った。

「すずり、というのはどうだ?」
「なんだそれ、ヘンなのー」
「すずりというのは、筆と対になる書の道具だよ。私の筆塚と合わせて、ちょうどいいだろう」
「ふーん。まあいいや、好きに呼んでくれよ」

 すずりと名付けられた娘は、足を投げ出してバタバタさせながら笑う。不幸な境遇に身を置いていたはずだというのに、不思議とそれを感じさせない笑顔だった。草雲はすずりの正面に移動して正座をすると、真面目な顔つきですずりを見た。

「さて、すずり。お前はこれから、世間で真っ当に生きていく方法を学ばなくてはならない。どのような事情があるにせよ、人の道を外れた行いの果てには、無残な最期が待っているものだ。それが自分自身だけならまだいいが、周囲の人間を不幸に巻き込むことも珍しくない。私とお前は玄海殿の好意でここに住まわせてもらうわけだから、そのためにいくつか約束をしてもらう」
「……うん、わかった」
「まず第一に、他人の物を盗まないこと」
「うん」
「第二に、人を騙して金や物を得たりしないこと」
「うん」
「それから最後に――」

 一拍置いた後、草雲は口元をわずかに緩め、穏やかな眼差しをすずりに向けた。

「遊びに出かけたら、暗くなる前にちゃんと帰ること。この約束、守れるな?」
「うんっ!」
「返事はうん、じゃない。はい、だ」
「はーい、わかりましたよっと」

 二人がそんな会話をしている所へ、玄海が顔を出して草雲の傍らに腰を下ろし、彼の方を見て言った。

「どうやら少しは打ち解けたようだな、結構結構。ところで草雲、肝心な事を忘れちゃいまいな?」
「もちろんです。この町に起こる怪異の原因を突き止めること……それが私の役目と心得ています」
「世間では平家の祟りだと騒ぐ者も多いが、仮にそうだとしても、今になって起こる理由が今ひとつ腑に落ちん。今年に入ってから不吉の神託が続くことといい、どうも気になってな。君の力でこの謎を解き明かしてくれ」
「はい、出来る限りの事はやってみるつもりです」
「ああ、それから灯お嬢さんの件も忘れないでくれよ。一度お祓いをして、病魔が育った理由を調べれば三吉殿も安心なさるであろう」
「もちろんです。数日待ってお嬢さんが元気を取り戻されたら、もう一度伺いに行きますよ」
「うむ、それではくれぐれも頼んだぞ。それから童、お前も草雲の言う事をよく聞くんだぞ」

 玄海がすずりに目を移して言うと、すずりは「あっかんべー」と舌を出す。

「童じゃねーや。アタシにはすずりって名前があるんだからな、忘れんなハゲ!」
「こら、誰がハゲだ誰が! どうみてもフサフサだろうがっ!」
「うっさいハゲ! べーっだ!」
「うぬぬ、なんと失礼な小娘だ。礼儀というものを叩き込んでやる!」

 目を釣り上げて怒った玄海が伸ばした腕をするりと避けて、すずりは素早く部屋の外に飛び出して逃げて行ってしまう。頭に血が上った玄海は袈裟の袖をまくり上げ、廊下をドタバタと走りながらすずりを追いかけて飛び出していった。

「は、ははは……」

 二人の姿を見送りながら、草雲はただ苦笑するばかりである。こうして草雲は玄海の協力を得て、すずりと共に梵能寺での生活を始めるのであった。その後は朝比奈に現れる妖怪を次々に退治して回り、筆塚草雲の名は住民の間でも評判となっていった。
 それから瞬く間に、一年の月日が流れた。




 ある日の午後、梵能寺の本堂で草雲とすずりが並んで正座をし、筆を握って書き取りを行っていた。伸び放題の髪をほったらかしにしているすずりは、あちこち寝癖が付いたままで、後ろから見るとミノムシのような姿である。むくれた顔で筆を握っていたが、とうとう我慢が出来なくなったらしく、両足を投げ出して大の字に寝転び騒ぎ始めた。

「あーもー、やってらんないよこんなの。つまんねー!」
「なにをいうんだ。いいか、読み書きが出来るっていうのはとても大事なことなんだぞ。つらくても我慢して、何度も練習して憶えるんだ」
「いーやーだー! 飽ーきーた−!」

 手足をバタバタさせて嫌がるすずりに、草雲はため息をつく。

「始めてからまだ半刻も経っていないじゃないか」
「毎日毎日同じことばっかりさせられてさー。手も汚れるし、イヤんなっちゃうよ」
「慣れればスラスラ書けるようになる。今のうちに身に付けておけば、後で困らなくて済むんだぞ」
「たまには別のことがしたい! っていうかさせろー!」

 駄々をこねるすずりに困っていると、開けたままの本堂の入り口から、誰かが入ってきた。草雲が顔を向けると、両手で布の包みを持った、淡い桜色の小袖を着た若い女が上がって来ていた。

「こんにちは、草雲様。すずりちゃんもこんにちは。今は休憩ですか?」

 笑顔を浮かべながら近付いて来たのは、草雲が疫鬼を払って元気を取り戻した、三吉家の娘の灯である。腰まで伸ばした綺麗な黒髪と、場が華やかになるような明るい笑顔が印象的で、その笑顔を向けられた草雲は、少し照れ臭そうに目を泳がせ、癖毛の頭を掻きながら言った。

「いや、こいつが書き取りはもう嫌だと駄々をこねはじめまして。面目ない」

 山里育ちで、美しい女性と接した経験が少ない草雲にとって、灯の顔を正面から見るのは照れ臭く、どうしてもじっと向き合っていられなかった。

「もう、ダメよすずりちゃん。ちゃんと草雲様の言うこと聞かなきゃ」

 灯は草雲と向かい合わせになるよう正座をすると、床に寝転がったすずりに人差し指を立てて「めっ」と軽く叱る仕草をした後、持っていた小さな包みを草雲に手渡す。

「あ、これ。おはぎ作って来たんです。みんなで食べようと思って」

 おはぎと聞いた途端、すずりは勢いよく飛び起きって包みを奪い取ると、目を輝かせて中身を確かめる。包みの布を取り、桐の箱の中に並べられたおはぎを見た途端、すずりはキラキラと両眼を輝かせて灯を見る。

「なあ、これ食っていいのか!?」
「うん、もちろんよ。たくさん作って来たから、すずりちゃんも遠慮しないで」
「やった! いっただきまーす!」

 すずりは手づかみでおはぎを頬張り、今まで見たこともない満面の笑みを浮かべている。

「やれやれ、あんなに手を汚して……申し訳ない灯さん、行儀の悪い娘で」
「いいんですよ。私もすずりちゃんくらいの頃は、いつもおしとやかになさいって怒られてましたもの」
「へえ、意外だなあ。とてもそうは見えませんよ」
「そう言う草雲様は、どんな子供だったのかしら」
「はは、私はずっと修行詰めで……子供らしい遊びをしたことがほとんどないもので」
「そんなあ。ずいぶん苦労なさったんですね」
「なに、今となってはそれも良き思い出、大したことはありませんよ。それよりも灯さん」
「はい?」
「私の名前に『様』を付けなくていいのですよ。灯さんの方が、ずっと身分が高い御方ではありませんか」
「だって草雲様は、私の命の恩人ですもの。それに京の方から来られたとも聞いてますし、きっと名のある家の人物だから失礼の無いように、ってお父様が」
「いやはや、恐れ入ります」

 草雲は縮こまりながら、差し出されたおはぎを手に取って口に運ぶ。たっぷりの餡の甘い味が口の中に広がると、草雲も日頃の疲れが飛んでいくような気分だった。おはぎは全部で八個あったが、草雲と灯がひとつずつ食べた他は、すずりが全て平らげてしまった。

「いやあ、これは美味しい。こんな美味しい物が作れるなら、灯さんを嫁に迎える人物は果報者ですよ」
「やだもう草雲様ったら、口が上手なんだからっ!」

 と言いつつ、灯は嬉しそうに照れ笑いを浮かべながら、草雲の背中を思いっきり叩いて突き飛ばす。勢い余って床に転がった草雲は、背中をさすりながら起き上がる。

「さ、さて灯さん。一段落したら、いつものを始めましょうか」
「あ、はい。よろしくお願いしますね」

 おはぎの箱を片付けて灯が姿勢を正すと、草雲は長方形の紙に文字を書き付け、一枚のお札を作り上げた。

「では目を閉じて」
「はい」

 言われたとおり目を閉じる灯の前で、草雲が印を結びながら呪文を唱え始めると、青白い霊力の光が現れ、彼の全身を包み込む。やがてそれに呼応するかのように、灯の身体からも霊力の光が現れ始めたが、草雲とは違って金色の大きな光だった。その輝きは草雲よりも大きく強かったが、常に明滅を繰り返し、不安定にゆらめいていた。草雲は灯の額にお札を貼り、再び呪文を続ける。すると灯の放つ光の明滅やゆらめきが無くなり、ゆっくりと小さくなっていき、最後には灯の身体の中へと収まっていった。

「――終わりました。もう目を開けて大丈夫」
「ふうっ。どうもありがとうございます。といっても、私にはよく分からないんですけど。お父様や玄海様が言うには、なんでも私の霊力を抑えるためだとか」
「ええ、灯さんは自覚されていないようですが、かなり強い霊力をお持ちです。しかし私のように、修行を積んだ陰陽師や呪い師ならばともかく、それらと無縁である人にとっては、強い霊力は危険を呼び込むこともあるのですよ」
「き、危険というのはどんな?」
「強く大きな霊力は、幽界に住まう者どもにしてみれば、明るい松明のようなものです。灯さんは霊力の扱いを知らぬ故、その光を常に身体の外へ出してしまっている。だから嫌でも目立ってしまい、物の怪や悪霊どもを引き寄せてしまうのですよ」
「そんなあ、どうにかならないんですか?」
「だからこうして、それを防ぐための術を施しています。もうしばらく続ければ、灯さんの霊力は普通の人と同じように目立たなくなり、いたずらに物の怪から狙われることもなくなるでしょう」
「そうですか、良かった」

 胸を撫で下ろす灯に、草雲は何枚か重ねたお札を手渡して言う。

「これを家の戸口や窓に貼ってください。そうすれば物の怪は中に入って来られないはずです。まだこの土地で起こる怪異の原因は分かっていませんから、用心するように」
「はい、ありがとうございます! あ、それじゃあ今日はそろそろ失礼しますね」

 胸の前でお札を大事そうに持ち、灯が立ち上がろうとしたその時、本堂の入り口から玄海が現れた。

「おお、やっているようだな。塩梅はどうだ草雲」

 玄海は笑いながら近づき、草雲の隣にどかっと腰を下ろす。

「ええ、もう何度か続ければ終わりです。それよりどうしました?」

 草雲が訊ねると、玄海は打って変わって険しい表情になって答える。

「ああ、実は昨夜、将軍の御所に化け物が現れたそうでな。幸い死人はいないが、御所では大騒ぎだ。いよいよお告げが本当になった、不吉の前兆だと騒ぎ出す者も出る始末でな。連中の口止めに幕府も苦労してるようだ」

 話を聞いた草雲は少し視線を落として考え、すぐに顔を上げて再び訊ねた。

「退治せよ、ということですね?」
「そうだ。三吉殿からの口添えもある」
「分かりました。ところでその化け物とやら、どんな姿形であったか分かりますか?」
「うむ、なんでも山のように大きな身体の、四本足の獣だそうだ。そいつには弓矢がまるで通じず、しばらく御所の屋根を飛び回った後、将軍家は先祖の報いを受け、災いが降りかかると言い残して消えたらしい」
「……なるほど、心得ました。準備が整い次第、すぐに向かいます」
「私も一緒に行こう。立会人がいなくては、御所への出入りができんからな」

 草雲と玄海が立ち上がると、話を聞いていた灯が心配そうな顔で草雲と玄海を呼び止めた。

「あの、二人とも気をつけて。どうか無事で帰ってきてくださいね」

 不安げな灯を安心させようと、草雲は笑顔を作って答える。

「これが筆塚代々の仕事なれば、心配御無用。玄海殿も必ず無事に連れて帰りますから、ご安心ください。それと私たちが留守の間、すずりの様子を見ていてもらえますか」
「は、はい」

 灯が頷くと、草雲はあぐらをかいて床に座ったままのすずりを見る。

「明け方までには戻る。それまで灯さんの言う事をよく聞いて、間違っても彼女を困らせたりするんじゃないぞ、いいな?」
「わかってるって。そっちこそオバケにやられて泣いて帰ってくんなよー」
「まったく、口の減らない奴だ」

 小さく嘆息する草雲に、すずりは小さな声で言った。

「……早く帰ってこいよな。一人でごはん食べてもおいしくないしさ」

 それっきりすずりはそっぽを向いてしまったが、それがこの娘なりの気遣いだということは草雲に充分伝わっていた。

「ああ、約束するよ。それでは灯さん、失礼します」

 草雲は灯に向かって会釈をし、玄海と供に本堂の外へと出て行く。その後ろ姿を灯とすずりはじっと見送っていた。




 梵能寺から東へ四、五十分ほど歩いた先に、将軍の御所はあった。ほぼ正方形の広大な土地を塀に囲まれた御所は、東西南北の四ヶ所に門があり、周囲には御家人の館が所狭しと立ち並んでいる。道路は綺麗に整備されており、脇には桜や銀杏といった木々が植えられ、ゴミひとつ落ちていない。その道を武士や貴族、あるいはその身内というような身分の高そうな人々が往来していた。草雲は玄海と供に歩きつつ、興味深そうに御所を眺めてはブツブツと呟いてた。

「どうした草雲、さっきから一人でなにやら言っているようだが」

 その様子が気になった玄海が怪訝そうに訊ねると、草雲はふと我に返ったように返事をした。

「ああ、ずいぶん立派な御所だと感心しておりました。帝が住むそれと同じように、風水もしっかりと考えられている」
「それはそうだ。御所を建てる時、京の陰陽寮から直々に陰陽師を呼んで占いをしたからな。今も何人かが御所の中にいるはずだ。これから連中の代表に会って、化け物の話を聞くつもりだ」
「陰陽寮の……」

 その瞬間、草雲の表情にわずかな影が差したが、玄海はそれを知ることはなかった。

「ん、なにか言ったか?」
「いえ、なんでもありません。先を急ぎましょう」

 草雲は何事もなかったように返事をし、玄海と供に御所の南門へと向かった。玄海が門番に話をすると、三十分ほど待たされてから、ようやく門の先へ入る事を許された。広い庭の中央に建つ館は壮大で、三吉家のそれとは比較にならない。敷地の中央に位置する巨大な寝殿は、樹齢百年をも超えるという大木の柱が何本も使われ、将軍の威容を充分に示すものだった。庭に作られた池のほとりを歩き、寝殿の目前までやってきたところで待っていると、建物の億から陰陽師らしき人物が姿を現し、寝殿の入り口にある階段の上から、玄海と草雲を見下ろしながら言った。

「ようこそおいでなさった玄海殿。聞けば化け物退治の心強い助っ人をお連れくださったとか」

 その男は艶やかで、しかしどこか冷たさを感じさせるような声で言った。その人物は線が細く、女性と見紛うほど中性的で整った顔立ちをしていたが、肌はおしろいを塗ったように白く、顔色も青ざめている。しかし唇だけは紅を差しているのか、血のように赤く染まっており、それがなんとも不釣り合いで、どこか得体の知れない印象を与えていた。

「いかにも。相手が化け物なれば、その道の専門家を連れて参りました。この者の実力、私が保証致しまする」

 玄海が慇懃な口調で答えると、細身の男は草雲に視線を移し、細い両目でじっと彼を見ながら言った。

「私は物部道暗。将軍様にお仕えし、御所の神事などを任されている身だ。このところ、朝比奈では怪異が立て続けに起こる故、我々だけでは手が回らずに困っていてな。一人でも人手が欲しいと思っていたところだ。して、そなたの名は?」

 道暗に訊ねられ、草雲は深く頭を垂れてから、ゆっくりとした口調で答えた。

「筆塚草雲と申します。この度、将軍様の御所に物の怪が現れたと聞き及び、微力ながら力添えをしたく馳せ参じた次第にございます」

 その言葉を聞き終えると、道暗は裾から扇子を取り出し、それを開いて口元を隠しつつ、なにか考え事をする仕草をしながら草雲をまじまじと見つめた。

「筆塚……どこかで聞いた名だ」

 道暗の視線は全てを見透かしているようで、草雲は息苦しさを感じながら頭を垂れる。

「恐れながら、お目にかかるのは初めてと心得ます。世間には似た名前の者がおります故、どなたか別の方とお間違えになられたのでは」

 それからしばらく道暗は、草雲の姿を舐めるように見つめていたが、やがて扇子を閉じると、甲高い声で笑い始めた。

「ククク、まあ良い。あの頑固な玄海殿が認めたのだ、実力は確かなのであろう。まずはその手並み、拝見させてもらうとしようか。化け物は日が暮れてから姿を現す。それまでは宿館で休んでおかれるがよい」

 どこか含みのある言葉を草雲に投げかけた後、道暗は笑みを浮かべたまま寝殿の奥へと戻って行った。ほどなくして侍従の者が現れ、二人を御所のすぐ東に位置する宿館へと案内するのだった。




 草雲と玄海は宿館の座敷に腰を下ろし、用意してもらった早めの夕食を口にしながら、先程出会った道暗という人物について話し合っていた。

「あの道暗という男、君はどう見る?」

 白飯の上に漬け物を乗せ、一緒に口に運んでからよく噛み、味噌汁と一緒に流し込むという動作を繰り返しながら、玄海は向かい合って座る早雲に訊ねる。

「どうと言われましても、ほんの挨拶くらいしか言葉を交わしておりませんし」
「……それだけか?」

 疑いの眼差しを向ける玄海に、草雲は箸を止め、他人に聴かれないよう小声で答える。

「詳しくは分かりません。ただ……あの身のこなしと気配、只者ではないかと」
「やはりわかるか。陰陽寮から呼ばれた連中はいずれも腕が立つ者ばかりだが、あの男だけは別格だ。数年前にここへ現れて以来、彼の占いや予言はことごとく的中しているし、御祓いをすればどんな病や怪異でも収まってしまう。そのおかげで将軍からの信頼も厚く、今では御所の中でも大きな発言力を持っている。それが物部道暗という男だ」
「なるほど、道理で」
「しかし、だ」

 玄海は箸でめざしをつまみ、それをなんの躊躇いもなく頭から囓りながら続けた。

「確かにあの男の術や予言は外れた事がない。が、それが逆に気になってな。私には道暗が未来を見通しているのではなく『奴の言葉に沿って事が起きている』と思えてならんのだ」

 玄海の発言に、草雲は血の気が引く思いをしながら部屋の出入り口を見回し、聞き耳を立てられていないか確かめてから、引きつった表情で言う。

「まったく、肝を冷やしましたよ。誰かに聞かれでもしたら、どうするつもりです。あらぬ疑いをかけられますよ」
「あいにく私は昔からこうでな。今さら直らんよ。わっははは」

 玄海の率直さは彼の長所であったが、それは同時に身の破滅を招きかねない危険なものでもあった。時には言葉を秘する事も憶えてもらわねばと、草雲は大きくため息をついた。

「とにかく危ない発言は控えてください。物部道暗がどのような人物なのか、憶測だけで判断するのは早計かと」
「ああ、わかっている。とにかくあの男には用心しろということだ。奴は私が見て来たような悪党とは違うが、少なくとも善人ではない。奴の目……あれは腹に一物抱えている者のそれだ」
「わかりました。肝に銘じておきます」

 それから食事を全て平らげた後、玄海は座敷にごろりと横になり、開けたままになっている西窓の外を眺めつつ欠伸をした。

「後は日が暮れるのを待つだけだな。草雲殿も今のうちに休んでおいたらどうだ?」
「ええ、そうさせてもらいます」

 草雲は部屋の壁に背を預けて座り、静かに目を閉じた。
 それから数時間が過ぎ、朝比奈の町が黄昏に包まれた頃、二人は動き出して宿館を後にした。それから一番近くの東門をくぐり、御所の敷地へと足を踏み入れる。砂利の敷き詰められた庭園に立つ二人の影は、どこまでも長く伸びて地面に貼り付いていた。

「さて、化け物は現れるかな。どうだ草雲殿、なにか感じるか?」
「いえ、今のところは。しかし大きな獣ということですし、現れればすぐに分かるでしょう」

 物の怪が出現するまでの間、二人は御所の中を歩き回り、建物の位置や構造を調べていた。ほぼ正方形の敷地の中央に、最も大きな建物である寝殿があり、その南には池のある美しい庭園が造られ、池のほとりには小さな仏堂も建てられている。西側には納屋や倉庫、東側には馬三十頭ほどを繋ぐ事が出来る厩があり、将軍の住処というだけでなく、武家屋敷としての機能性も兼ね備えられていた。建物を見て回っているうちにすっかり日は暮れ、頭上には煌々と輝く満月が浮かび上がる。その時、にわかに寝殿の方から騒ぎ声が聞こえ、草雲は声がする方向に素早く向き直った。

(これは――!)

 声が聞こえるのと同時に強い妖気を感じ、草雲はその気配がする方へと走り出す。慌てて後を追いながら、草雲の様子を察した玄海が走りながら言う。

「出たか!」
「ええ、それもかなり強力な。ただ、この気配……」
「どうかしたのか?」
「いえ、なんでもありません。それより玄海殿は安全な場所へ離れていた方が」
「そうはいかん。私には最後まで見届ける義務がある。君一人だけに任せて高みの見物をするつもりなどないぞ」
「しかし危険です。不用意に動いて目を付けられでもしたら」
「分かっているさ。どうせ私には戦う力などないんだし、ヤバいと思ったら先に退かせてもらう。それでいいんだろう?」

 草雲は頷き、普段とは打って変わって鋭い気迫のこもった声で返事をした。

「これより先、自分の身を守ることだけを考えていてください。戦いが始まれば、玄海殿を庇っている余裕がなくなるやも知れませんので」

 寝殿の前に駆けつけた草雲が見た物は、大屋根の上で満月を背に受け、こちらを見下ろしている巨大な四本足の獣だった。身体は虎に似て、人間の胴ほどもある太い足には鋭い爪が生えて瓦に食い込んでいる。そして猿に似た皺だらけの醜い顔が付いており、異様に大きくて丸い目玉が闇の中で輝いていた。

(あの姿は……)

 その異様な獣が持つ特徴は、かつて京の御所に出現したと伝えられる「鵺(ぬえ)」という魔獣によく似たものだった。ひとまず化け物を鵺と呼ぶことに決め、草雲は退魔の札を指先に挟んで身構える。周囲はすでに数人の陰陽師と、弓を構えた武士らが取り囲んでおり、そのうちの身分の高そうな一人が合図をすると、一斉に矢が射かけられた。しかしその瞬間、鵺の両眼が眩い光を放つと、矢は鵺に届く直前で制止し、そのまま瓦の上に落ちてカラカラと音を立てた。

「ええい、やはり弓は通じぬか!」

 身分の高そうな武士が悔しそうな声を上げると、今度は数人の陰陽師たちが口々に呪文を唱え始め、彼らの身体からは強い霊力が放たれ始めた。それを感じ取った草雲は、少しばかり感心した表情を浮かべながら陰陽師たちに目をやった。

(見事な霊力の練り上げだ。陰陽寮から直々に派遣されただけあって、いずれも優れた使い手のようだな)

 陰陽師たちは統率の取れた動きで鵺の四方へと移動すると、霊力を込めた退魔の札を、全員がまったく同時に投げつけた。もはや鵺に逃げ場は無く、一枚でもお札に触れれば無傷では済まいはずだった。

「なっ、なにっ!?」

 ところが鵺はお札を避けないばかりか、お札を身体に貼り付けたまま、鳥が囀るような気味の悪い声で嗤い始めた。するとお札に書かれた魔除けの文字がかき消され、お札はただの紙切れとなって舞い落ちた。これは陰陽師たちにも予想外で、普通の妖怪相手ならば到底考えられない出来事だった。

(どういうことだ? 今のは術が効かなかったというより、むしろ……)

 鵺の気配を感じた時からくすぶっていた疑惑が、今は重い暗雲のようになって草雲の胸中に広がっていた。鵺は足元のお札を踏みつけながら、巨体に似合わぬ素早さで跳躍し、大屋根から地面に飛び降りると、辺りの武士や陰陽師に突進して次々に薙ぎ倒していく。そして残るは草雲と玄海だけになると、鵺は二人の方に顔を向け、不気味な顔を歪めて威嚇するように鳴いた。

「玄海殿、なるべく物音を立てないようにして、ここから離れてください。こいつは私が引き付けます」
「う、うむ、そうするしかなさそうだな。しかし君は大丈夫なのか」
「あいつはどこか普通ではありません。私の術も通じるかどうか」

 自分の退魔札を頼りなげに見つめる草雲に、玄海は懐にしまっていた一振りの短刀を取り出し、それを草雲に投げてよこした。

「こいつを使え草雲。役に立つか分からんが、無いよりはマシだろう。檀家から供養を頼まれて引き取った物だが、なかなかの業物だぞ」

 玄海はゆっくりとその場を離れ、庭園に植えられた松の木の陰に逃げ込んだ。草雲は短刀を鞘から引き抜くと、鈍く輝く刀に目を落とす。刀身は分厚く頑丈に作られており、身を守るには充分過ぎるものだった。草雲は短刀と退魔札を手に、鵺と対峙する。

「人面獣身の姿、伝え聞く鵺に相違なし。いかなる理由で現れたのかは知らぬが、ここはお前の居る所ではない。大人しく去れ!」

 草雲は地を蹴り、矢のように飛び出した。鵺が草雲の胴ほどもある太い前足を高く持ち上げ、鋭い爪を振り下ろして草雲を迎え撃つ。普通の人間ならひとたまりもなく引き裂かれてしまう所だが、草雲は踊るような動きで爪を避け、羽根のようにふわりと跳躍すると、鵺のはるか頭上を飛び越えて背後に降り立たった。そして間髪入れずに退魔の札を投げつけるが、やはり文字がかき消されて効き目がない。ならばと草雲は、疫鬼を縛り付けた呪文を唱え始めた。

「グエーッ!」

 鵺は身体を縛り付ける草雲の霊力に対し、耳障りな叫び声を上げて抵抗する。やがて鵺が強い妖力を吹き出し始めると、どういうわけか呪縛の術が弱まり始めていく。鵺が放つ妖力を間近で感じたその時、濃い妖気の中でごくわずかに、不自然な気配が混じっているのを草雲は見逃さなかった。

(やはり間違いない、こいつは――!)

 その瞬間、疑惑は確信へと変わった。ならば躊躇は無用と、草雲は意を決して動き出す。疾風のごとき勢いで走って鵺の背中に飛び乗って跨り、片手で首元の毛皮を掴んで地面に抑え付けた。鵺はひときわ激しく暴れ出したが、草雲はまるで動じる様子がなく、自分の数倍はあろうかという大きさの鵺を、完全に手玉に取っていた。

「す、凄い、これが本当に人間の動きなのか……」

 草雲の戦いぶりを目の当たりにした玄海は、その凄まじさにただ唖然とするばかりである。それほどに草雲の身のこなしは、人間の常識を遙かに超えるものだった。草雲は握り締めた短刀を額に近づけ、呪文を唱え始める。すると短刀は青白い光を帯び、暗闇の中にぼんやりとその姿を浮かび上がらせた。

「この世ならざる異界の獣よ! 我が命に従い、汝の世界へ帰るがよい――急急如律令!」

 そして手を返して切っ先を真下に向けると、草雲は鵺の首筋めがけ、一気に短刀を突き刺した。

「ギエエエエエエーーーッ!」

 鵺はカラスの群れが集まった時のような悲鳴を上げ、口から血を噴き出してのたうち回った後、山のような黒い灰となって跡形もなく崩れ去ってしまった。

「……」

 草雲は灰の中に腕を突っ込み、その中に埋まっていた物を拾い上げると、誰にも見られないよう素早く懐にしまい込んだ。

「いやあ大したものだ! まさかこれほどとは思わなかったぞ!」

 松の木陰に隠れていた玄海は草雲の元に駆け寄り、上機嫌で笑いながら草雲の肩を叩く。

「ところで、どこも怪我はしていないな、ん?」

 周囲をぐるりと回ってジロジロと身体を眺める玄海に、草雲は苦笑いで応じる。

「大丈夫ですよ、どこもやられていません」
「君にもしものことがあると、私があの生意気なチビの面倒を見なくてはならんからな。それに灯お嬢さんも悲しまれる」
「はは、恐れ入ります」
「それはともかく、御所もこれでひと安心というわけだ。大手柄だぞ」

 興奮冷めやらぬ玄海が喋り続けていると、ふいに草雲が顔を動かして御所の寝殿の方を見た。視線の先にはいつの間に現れたのか、階段の上でじっとこちらを見つめている道暗の姿があった。暗闇の中で、やけにくっきりと浮かび上がるその姿は、幽霊かと間違いそうな寒気を伴っている。

「見ておられたのですか、道暗殿」

 草雲が訊ねると、道暗は真っ赤な唇の端を持ち上げ、不敵に笑う。

「見事な手並みであった。こうも簡単に化け物を仕留めるとは大したもの。そなたの実力、私の想像以上よ。此度の働き、私から将軍様へ伝えておこう」

 事務的にそれだけ言って去ろうとする道暗を、草雲は珍しく大きな声で呼び止めた。

「お待ちください道暗殿」

 道暗は足を止めて首だけを動かすと、まるで感情が読み取れない視線を草雲に向けた。

「まだ用があるのか?」
「恐れながら……」
「よかろう。申してみよ」

 草雲はしばらく黙り込んでいたが、やがて意を決したように話し始めた。

「あの化け物、普通ではありませんでした。あのような存在が自然に誕生するとは、考えにくいことです」
「ほう。どう普通ではなかったのだ?」
「……鵺には我々の術が通じなかった。しかしそれは、奴の妖力で術が跳ね返されたのではなく――」

 草雲はいつになく険しい表情で、彼の反応を見逃すまいと注目しながら続けた。

「鵺が我らの術を逆操作し、すべて無効化していたからです。無論、普通の物の怪に出来る芸当ではありません。陰陽の術を知り尽くし、そのうえで優れた力を持つ者でなければ、あのような術の返し方は不可能です。そもそもあの鵺自体、何者かによって――」

 草雲の鋭い視線をまるで意に介さぬように話を聞いていた道暗だったが、おもむろに高笑いをして草雲の言葉を遮ると、扇子を開いて口元を隠しながら語り始めた。

「フフフ、思い出したぞ。今から百年ほど昔、陰陽寮に驚くべき使い手が居たという話だ。その男は陰陽の術を極めるべく海を越え、数年の後に陰陽の神髄を身に付けて戻ってきたという。事実、男が操る技と術のいずれも凄まじく、それは人の領域すら越えるものだったそうだ。だが、あまりに強すぎる力を得たが故に、男は疎まれた。そして自らの立場を危ぶんだ公家たちにより、男は反逆者として都を追われ、いずこかへ消えた。その男の名こそ、確か筆塚であったな」
「……!」

 その話を聞いた途端、草雲は目を見開いたまま押し黙ってしまう。その様子を扇子越しに眺めながら、道暗は愉悦に満ちた表情を浮かべていた。

「この話が将軍様のお耳に入れば、なんと申されるであろうな?」

 黙ったまま答えない草雲に対し、道暗は元の冷たい表情に戻って言った。

「ククク、そう案ずることはない。お前がどこの誰であろうと、今宵の手柄は変わらぬ。今の話は我が胸の内に留め置くとしよう。では、またいずれ……フフフ」

 そういい残し、道暗は扇子を閉じて寝殿の奥へと消えていった。脇でずっと会話を聞いていた玄海は、無言のまま立ち尽くす草雲に、複雑な面持ちで話しかけた。

「おい草雲、今の話は本当なのか?」
「……申し訳ありません。出来ることなら知られたくはなかった」

 そう言ったきり、やはり草雲は黙り込んでしまう。

「むうっ、聞きたいことは山ほどあるが……突然すぎて考えがまとまらん。とにかく今夜は引き上げて、続きは夜が明けてからにしよう」

 玄海の提案に草雲も無言で頷き、二人は用意されていた宿館に戻って夜を明かした。
 翌朝、草雲と玄海は将軍との謁見を許され、再び御所の寝殿を訪れていた。まだ将軍の体調が優れないこともあり、二人は将軍の寝室に呼ばれ、謁見は非公式かつ手短に行われることになった。まだ若い将軍は顔色もあまり良くなく、ゆっくりと布団から身を起こし、やつれた顔を二人に向ける。彼の傍らには護衛の武士が固めており、その脇には道暗も座っている。

「昨夜の話は聞き及んでおる。その方の働き、まずは見事であった」

 将軍の言葉に、草雲は平伏して頭を下げる。

「しかし知っての通り、今や朝比奈の地は、いずこかより現れる物の怪が群れをなして闊歩しておる。その事態を収めるべく道暗に頼んではおるのだが、この男の腕を持ってしても、此度の件は手に余るようでな。その方には、この仕事に手を貸してもらいたいのだ」

 将軍が目をやると、道暗は薄い笑みを浮かべて応じる。感情が読めず、どこか冷たい雰囲気を漂わせているのは相変わらずである。草雲は伏したまま顔を上げ、神妙な顔つきでこう答えた。

「恐れながら申し上げます。私は陰陽寮にも属さぬ、田舎のしがない拝み屋にございます。その私に、このような大役を任せてよろしいのですか?」
「今はとにかく人手が足りぬのだ。実力ある者は一人でも多い方がいい。聞けばその方は、道暗すら唸らせる腕の持ち主らしいではないか。道暗も是非にと申しておるし、他に適任の者も見当たらぬ。どうだ、引き受けてくれまいか?」
「ははっ。私ごときでお役に立てるのであれば、喜んで」
「うむ。では筆塚草雲よ、そなたは道暗と共に、物の怪が溢れ出た原因を突き止め、これを封じよ。そのために必要な物があれば、なんなりと申すがよい」
「ありがたき幸せ。身に余る光栄に存じます」

 将軍はそつのない草雲の受け答えに満足げな表情を浮かべつつ、玄海に視線を移して言った。

「玄海、そなたはこの者の後ろ盾として助けになってやるがよい。では、良き報せを期待しておるぞ」




 将軍との謁見を終えた二人は、一日ぶりに梵能寺へ戻ってきた。寺の中にすずりの姿はなく、草雲が自分の部屋を覗くと、あまり上手くない文字で「灯のとろこで止まってくる」と、字の間違った書き置きがしてあった。草雲は玄海の座敷に呼ばれ、二人は向き合って座りながら話し込んでいた。

「都を追われた陰陽師の末裔とはな……道理で言いたがらぬわけだ」

 熱い茶の入った湯飲みを口に運びながら、玄海は憐憫の眼差しで草雲を見る。

「この話を知られれば、私に関わった人々にまで迷惑をかけてしまう。だから言えませんでした」
「だが、いつまでも隠し通せるものでもあるまい。表立って動いていれば、いずれ知られることだ。その君がこの地へ来たのは、なにか考えがあってのことだろう。手柄を上げて政(まつりごと)の世界にでも返り咲くつもりか?」
「い、いえ、決してそのような!」

 身を乗り出して取り乱す草雲を意外に思いつつ、玄海はしてやったような顔で笑う。

「ほう、珍しく慌てたな。お前さんも人の子だったか」
「私はただ……いつの日か、先祖の無念を晴らすことが出来ればと」
「そこで例のおふれを知り、遠路はるばるやってきたというわけか」

 玄海はお茶を飲み干して湯飲みを床に置くと、外の景色を眺めながら続けた。

「君の志は理解できるし、それで怪異が収まるなら願ったりだ。しかし……私が口を挟む問題ではないのかもしれんが、用心することだ。特に道暗は君の事情を知りながら、それを黙っているばかりか、自分の仕事の手伝いに君を指名したくらいだからな。まったく腹の底が読めん男だ」
「はい、充分気をつけます」
「そういえば昨夜、奴に言いかけたことがあったようだが、どういう話だったのだ?」

 玄海の問いかけに、草雲は少し沈黙してから答える。

「……いえ、ただの憶測です。それを口にしてしまうとは、私も軽はずみでした」
「そうか、ならば深くは聞くまい。この先どうなるかは分からんが、君にとって良い結果になるといいがな」

 ちょうど二人が話し終わったその時、廊下から座敷へ近付いて来る足音が二つ聞こえて来た。草雲と玄海が音のする方に目を向けると、灯が廊下から顔だけを出して座敷を覗き込み、二人の姿を見て表情を明るくした。

「あ、いたいた。おかえりなさい二人とも。オバケ退治はどうでした?」
「ええ、無事に終わりました。私も玄海殿も無事ですよ。ところでなぜ、そんな場所で部屋を覗いているんです?」

 草雲が訊ねると、灯はにんまりと笑って一旦引っ込み、誰かを引っ張るようにして戻ってきた。

「ほらほら、恥ずかしがらなくてもいいのよ」
「うう、でもさあ……」



 と、座敷の外から聞こえたのはすずりの声だった。すずりは草雲からは見えない場所にいて、なぜか姿を見せるのをためらっている様子である。玄海と顔を見合わせて不思議に思っていると、笑顔の灯が手を引き、座敷にすずりを連れて入ってきた。すずりは鮮やかな赤い着物を身に付けていて、ボサボサだった髪も綺麗に梳かれ、毛先を結んでひとつにまとめてあり、最初は別人かと錯覚するほどであった。草雲と玄海が目を丸くしていると、灯がニコニコしながら言う。

「いつも小坊主さんの格好してるから、わけを聞いたらこれしか服がないって。だから私が小さい頃に着てたのをあげて、髪も梳いてあげたんです。そしたら思った通り、こんなに可愛くなっちゃって」

 嬉しそうな灯とは対照的に、すずりは借りてきた猫のように大人しく、灯に背中を押されてようやく口を開いた。

「こんな格好したことないから、落ち着かないよ。それになんか二人とも黙ってるし。えっと……ヘンじゃ、ない?」

 伏し目がちに小さな声ですずりは言った。普段からは想像も出来ない態度に、草雲と玄海は顔を見合わせてから、笑顔ですずりを見る。

「よく似合っているじゃないか。急に見違えたから、少し誰だか分からなかっただけだ、ははは」

 と草雲が言うと、玄海も頷いて彼に続く。

「うむ、あの小生意気な童がよく化けたものだ。馬子にも衣装、というやつか?」

 そう言った二人が誤魔化すように笑い始めると、すずりは近くに重ねてあった座布団を両手に取り、それぞれの顔面に投げつけた。

「ぶっ!」
「な、なにをするかっ!?」

 顔面に貼り付いた座布団を投げ捨てて怒る玄海に、すずりも負けじと両眼を釣り上げて叫ぶ。

「オメーら褒めてないだろ絶対! 次に笑ったら噛み付いてやるかんね!」
「くっ、女らしくなるには、この性根を直すのが先のようだな!」

 取っ組み合いながら、互いの顔をつねりあっているすずりと玄海を横目に、草雲は頭を下げて灯に礼を言う。

「昨夜はすずりを泊めて頂いたそうで、ありがとうございました。しかも着物まで譲ってもらって」
「いいんですよ。着物も箪笥に眠らせておくよりは、この方がいいですし」
「ですが、なにぶんすずりもあの性格なもので。ご迷惑をおかけしてはいないかと」
「私の方こそ妹が出来たみたいで嬉しくて。草雲様さえよければ、また会いに来てもいいですか?」
「それは願ってもない。私は文字の読み書きは教えられますが、女性の身なりや作法には疎いもので。そうして頂ければ心強い限りです」
「よかった、断られたらどうしようかと心配で」
「断るなど滅相もない。どうかよろしくお願いします」

 照れ笑いを浮かべた後、草雲は着物姿になったすずりに目をやって考える。

(これで少しは自覚が芽生えればいいが……やれやれ)

 玄海の顔を裸足で蹴るすずりを見て、その日はまだ遠そうだと草雲はため息をついた。




 それから数日後のある夜――皆が寝静まった頃、草雲は奇妙な気配に気付いて目を覚まし、身を起こした。暗闇に包まれた部屋の中は、特に変わった様子はない。しかし、何者かに呼ばれているような気がして、どうしても寝付くことが出来なかった。草雲は隣で寝ているすずりを起こさないよう、静かに立ち上がると、服を着替えて部屋の外へ出た。すると庭の中程に、ぼんやりと光る人魂のようなものが浮かんでいた。草雲は物の怪かとそれを凝視したが、人魂が放つ気配は、妖気とは違っていることに気が付いた。そしてもう一度よく見てみると、人魂だと思った物は、身体から淡い光を放つ一匹の蝶であった。草雲が蝶に近付くと、蝶はゆらゆらと上下しながら、寺の外へ向かってゆっくり飛んでいく。

(普通の生き物ではない……後を付いてこいと言うのか)

 草雲は光る蝶が誘うまま、その後を追っていった。どのくらい夜道を歩いたのか、気が付くと彼の目の前には、大きな鳥居がそびえ立っている。そこは朝比奈の中心に位置する鳩岡八幡宮の入口で、光る蝶はさらに鳥居の奥へと進む。草雲がその後に続くと、光る蝶は大きな池の前までやってきて、そこで止まった。そして静かに宙を舞う蝶の傍らで、暗闇に映える白い狩衣を纏う者の姿があった。

「来たか……待っていたぞ」

 聞き覚えのある声で喋りながら振り返ったのは、道暗だった。草雲は警戒しながらも、ゆっくりと彼に近付いていく。

「やはり道暗殿でしたか」
「フフ、そう怖い顔をするな。互いに知らぬ顔ではあるまい」
「こんな時間に、しかも式神を使ってまで私を呼び出すとは、どんな用件があると言うのです」
「その件については詫びよう。どうしても他人の目に触れたくない事情があるものでな」
「事情とは……」
「感じないか? この地に広がるゆらぎを」

 草雲が感覚を研ぎ澄まして辺りの気配を探ると、目の前にある池の水面に、言い表せないような違和感を憶えて目を凝らす。すると水の中に見えたのは、有象無象の魑魅魍魎や、無数の亡霊が飛び交っている光景だった。

「……ッ!?」
「この場所は週に一度ほど、わずかな時間だけ別の世界へと繋がる。ちょうど潮が引くのと同じようにな。水面下に見えているのは、向こう側の住人どもだ」
「なんと濃い陰の気だ……これは黄泉の国ではないのですか?」
「少し違う。これは現世と黄泉の間に生じた隙間のようなもので、黄泉の国と違って場所や広さには限りがある。どちらとも異なる場所という意味で、異界と呼ばれるものだ。それ自体は珍しいものではなく、なんらかの理由で自然に生じることもあれば、強い力を持つ物の怪が作り出す場合もある。物の怪を祓い続けてきたお前ならば、すでにこれと同じものを知っていよう」
「しかし、これはあまりにも……」
「この場所は大地を流れる気の通り道――龍脈のちょうど真上に位置している。そしてこの異界は、拡散する異界の中心であり、他と比べて格段に陰の気が濃い。この奥を調べれば、異変の原因が掴める可能性は高いだろう。だが見ての通り、異界の中は亡者や物の怪、魑魅魍魎の巣窟となっていてな。私も何度か挑んだが、奴らに阻まれて途中で引き返さざるを得なかった。だから私はずっと、この地に挑む資格がある者を探していたのだ。そんな折、玄海の所に腕の立つ男がいると耳に挟んだのでな。少しばかり試させてもらったが、結果は思った以上だったよ」
「やはり御所での鵺騒動は、道暗殿が仕掛けていたのですね。私の力量を見定めるために……」
「いかにも。あの鵺は私が作り出した式神のひとつだ。あの程度も倒せぬようでは、異界では到底生き残れぬ。しかしお前の腕があれば、生きて異界の底に辿り着くことも夢ではあるまい。そして彼の地で何が起きているのか、その目で確かめて来い」
「……心得ました。どこまでやれるか分かりませんが、最善は尽くします」

 道暗は薄笑いを浮かべながら草雲に密着し、耳元で囁く。

「この仕事が上手く行けば、先祖の汚名を晴らすこともできよう。それが実現するかどうかは、お前の働き次第だ。良い報告が聞ける日を楽しみにしているぞ」

 そう言うと道暗は早雲から離れ、闇の向こうに溶けるように去っていった。草雲は視線を落とし、水面の下に広がる異界を眺めていたが、やがて水面はただの水に戻り、それ以上はなにも見えなくなってしまった。

 




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