魂筆使い草助

第十三話
〜『光の柱(三)』〜




 二メートルを超える身の丈に黒鉄の肌を持ち、髑髏の首飾りと異国の鎧を身につけた屈強な肉体。鋼鉄で出来た仮面の奥で黄色く光る、野獣の如き眼光。頭髪の一本一本は炎そのものであり、激しい闘志を表すように燃え盛っている。そして人間では到底扱えそうもない片刃の剛刀を手にした羅刹は、数十年前となんら変わらぬ姿と覇気を放っていた。


「ほっ!」

 八海老師は羅刹の斬撃を紙一重で避け、同時に独鈷杵(両端に槍状の刃が付いた仏具)を羅刹の眉間めがけて投げつけた。羅刹はそれを素手で難なく受け止め、歓喜の声を上げた。

「ククク……嬉しいぞ。そう来なくてはな」
「ワシゃちっとも嬉しくないぞい。いつもなら今ので勝負が付いておったんじゃがのう」

 八海老師の言うとおり、独鈷杵には妖魔撃滅の強力な法力が込められていたが、羅刹に対しては掌の皮を焦がす程度にしかならなかった。

「確かに並の妖怪であれば、これに触れた途端に灰となるであろうな……だが」

 羅刹は指に力を込め、独鈷杵を粉々に握り潰しながら、

「こんなもので我は倒せぬ」

 と、何事も無かったかのように言う。

「だからお前さんには会いたくなかったんじゃ」
「生きて二度も我に見えた人間など、片手の指の数ほどもおらん。滅多にない機会、存分に楽しもうぞ」

 言うなり羅刹は斬りかかってきた。羅刹の斬撃は洗練されているとは言い難く、膂力に任せた荒々しいものだったが、その太刀筋は剣の達人のそれと同じく、到底目視など出来ない程の素早さだった。叩き付けるように振り下ろされた剛刀は境内に敷いてあった石ごと地面を割り、大量の瓦礫と砂埃を巻き上げる。八海老師の姿は煙に巻かれて見えなくなったが、羅刹はわずかに顔を上げ、砂埃の向こうをじっと見つめる。視線の先には、錫杖を突き出し、木の葉のように宙を舞う八海老師の姿があった。

「ふむ。坊主に躱されるとは、我が剣先も鈍ったか」
「この数十年、ワシも遊んでおったわけじゃあないよ。どんな剛力だろうと、力の方向をちょいと逸らしてやれば簡単な事じゃ」
「フフフ、抜かしおるわ。半端な受けであれば、丸ごと叩き斬ってやったものを」
「ついでにこんなのはどうじゃ? オン・バサラ・ヤクシャ!」

 八海老師が空中で素早く印を結び、真言を唱えると、周囲に青白い閃光が集まり、一束の猛烈な電撃となって羅刹に降り注ぐ。金剛夜叉明王の威徳を以て放たれる法力は、一切の邪悪を打ち砕く雷であり、灰も残さず妖怪を焼き尽くす威力を誇る。

「むんっ!」

 しかし羅刹が天に向かって剛剣を斬り上げると、稲妻は真っ二つに引き裂かれ、羅刹の両脇の地面に落ちて消滅する。八海老師は軽い身のこなしで着地すると、丸眼鏡越しに様子を窺うが、羅刹には毛筋ほどの打撃も与えられていなかった。

「知っているはずだ。我に術の類は通じぬぞ」
「久々じゃからな、ちょいと確かめてみただけじゃよ。しかしまあ、こうもあっさり法力を破られると、少々ヘコむわい」
「その割に微塵も絶望した様子は見えんな。さしずめ我に対抗する秘策でも用意してあるという所か」
「やれやれ。ワシの台詞を先に言うとは、まったく嫌な奴じゃ」
「くだらぬ御託は無用。死力を尽くさねば、我に傷を負わせることすら叶わぬと思え」
「元からそのつもりじゃよ。ほいじゃボチボチ――」
「……待て」

 突然言葉を遮る羅刹に、八海老師は意外な表情を浮かべて次の言葉を待つ。

「以前我を斬った人間はどうした? それとあの小娘もだ」
「とうに死んだよ。残っているのはワシだけじゃ」
「そうか。骨のある連中だったのだがな。もう一度死合ってみたかったものよ」
「なに、二人の分までワシが相手をしてやるとも」
「よかろう。全身全霊を賭けてかかってこい!」

 羅刹が応じると同時に、八海老師は地面に錫杖を突き刺すと、腰を低くして両手を結び、凄まじい気迫と共に全ての霊力を解放した。膨大な霊力は暴風のような勢いで吹き荒れ、やがて渦を巻いてひとつに集まると、元の十倍以上もある巨大なエネルギーのうねりとなって、再び八海老師へと舞い戻る。

「かああああああああああッッ!!」

 地響きを起こすほどの凄まじい奔流が、八海老師の体内を駆け巡る。そして身に付けている八房の数珠が黄金の輝きを放ち、八海老師の姿は光に呑まれていく。驚きを禁じ得ない羅刹の目の前で、光は次第に収束し、袈裟を纏った八海老師が再び現れたが、その姿を見た羅刹は思わず声を漏らす。



「ぬうっ、その姿は……」
「やれやれ、上手く行ったようじゃな。お前もこの姿の方が憶えがあるじゃろう?」

 張りのある声で言う八海老師の姿は、初めて羅刹と出会った二十歳頃の肉体へと若返っていた。無論ただ若返っただけでなく、全身には神々しいまでの霊気を纏い、活力に満ちた眼光は羅刹でさえ重圧を感じるほどである。八海老師が一歩踏み出した途端、羅刹は反射的に身構え、驚いたように我に返る。

「凄まじいまでの気よ。こけおどしの手品とは訳が違うようだな。たった一人で我に挑むのも頷ける」
「限界を超えて増幅させた霊力によって、限り無く神仏に近い力を得ると同時に、肉体を最盛期まで若返らせる究極法力……名付けて過越逆常の術。勝ち目のない敵が相手だからといって、逃げちゃならん場面ってのが人生にはあってのう。今がその時っちゅうわけじゃ」
「ククク、ハァーッハハハハハハ! 面白い、実に面白いぞ人間! 我と戦り合うがために、人の境界すらも越えるか! この世に生まれ出でてより三千年、貴様のように面白い人間と出会うのは初めてだ!」
「お前さんは我々法力僧にとって最大の天敵。万が一にもあの羅刹が蘇ったらと考えた時、こうするしか方法が無かったんでの。おかげでこの数十年、お前さんと渡り合うための法力を会得するのに、ずいぶん苦労させられたよ。いずれも禁呪扱いの術ばかりじゃったからな」

 羅刹は剛剣を両手に構え、愉悦に満ちた目で八海老師を見つめながら言う。

「貴様の名を聞いておこう」
「……八房誠。しがない法力僧じゃよ」
「その名、我が記憶に留めておこう。では存分に死合おうぞ!」

 そこから先は、人智を越えた攻防であった。羅刹の剛剣がうなりを上げて振り下ろされれば、八海老師の錫杖が青白く輝いてそれを跳ね返す。すぐさま八海老師が錫杖で目の前に円を描くと、その場につむじ風が巻き起こり、舞い上がった砂塵が彼の姿を覆い隠す。羅刹は水平に剣を薙ぎ払ってつむじ風を断ち切るが、そこに八海老師の姿は無い。羅刹が素早く顔を上げると、右手に錫杖を握り締めた八海老師が、天高く舞い上がっていた。

「金剛力士法、オン・ウーン・ソワカ!」

 真言を唱えると同時に、巨大な仁王の像が虚空に浮かび、八海老師の身体に取り込まれる。直後、全身の筋肉が一回り以上も盛り上がり、しなやかな鋼のように強靱な肉体へと変化していく。そのまま頭上から錫杖を振り下ろすと、それを剣で受け止めた羅刹だったが、錫杖を通じて流れ込む霊力に全身を貫かれ、片膝を付きながら驚愕の声を漏らす。

「ぬうっ、この力は……!」
「やはり思った通りか。術が通じぬ羅刹と言えども、肉体を通しての直接攻撃なら効き目があるみたいじゃな」
「成る程。法力僧が我と渡り合うなら、確かにこうするしかあるまい。その負荷に耐えるための若返りでもあったわけか」
「一石二鳥のいいアイデアじゃろ?」
「クク、よもや人間相手に膝を付く事になるとはな。この代償は高く付くぞ!」

 羅刹が力を込めると同時に、両脚の筋肉が一回り近く膨張、溜め込まれた力が解放されると同時に爆発のような衝撃が起こり、羅刹は八海老師を一気に押し返す。そこへすかさず斬撃を叩き込むが、八海老師は木の葉のようにひらりと身をかわし、音もなく地面に着地して笑みを浮かべる。

「憶えのない支払いは踏み倒すまで!」

 羅刹と八海老師は互いに矢のようになって飛び回り、何度も激突を繰り返す。その度に衝撃波が広がり、境内に立ち並ぶ樹木や石灯籠をなぎ倒してしまう。あまりに人智を越えた戦いの光景に、梵能寺に集まっていた蓮華宗の法力僧も、まるで近づけずにただ息を呑むばかりだった。

「す、凄い……このような凄まじい法力、私は今まで見たことが無い。蓮華宗で……いや、世界中を見渡してもこれほどの使い手は見つかるまい。なのになぜ、八海様はこんな小さな寺の住職であられるのか……」

 法力僧の一人が何気なく呟いた言葉だったが、その場にいる誰もが同じ気持ちで頷いていた。

「――ところで羅刹よ、ちょっと頼みたいことがあるんじゃが」

 羅刹と打ち合いながら、八海老師は飄々とした口調で突然言った。

「ふざけているのか坊主よ」
「いやいや、大真面目じゃとも。なあに、大した事じゃあない」
「……話だけは聞いてやる。だがくだらぬ話であれば、報いを受けてもらうぞ」
「知っての通り、朝比奈市は大混乱じゃ。今はどこも忙しくて人手不足でのう。お前さんの相手はワシが引き受けるから、彼らを見逃して欲しいんじゃよ」

 そう言って八海老師は、境内に残ったまま状況を見守る法力僧たちに目をやる。いずれも修行を積んだ精鋭揃いではあるが、今回ばかりは荷が重すぎる者ばかりである。

「ふん、なにかと思えばそんな事か」
「強者を求めて来たんじゃろ? ならば彼らはお前の相手になるような連中ではない。こう言っちゃなんだが、ワシとしても彼らがいると色々やりにくくてな。このままだと遠慮なく戦えないんじゃよ」
「屁理屈を。しかし――」

 羅刹は剛刀の峰で八海老師を押し返すと、剛刀を地面に突き刺して腕を組む。

「ここは貴様に乗せられてやる。元より雑魚など眼中に無し。我の気が変わらぬうちに、連中を引き上げさせるんだな」
「そりゃ助かる。さあ皆の衆、聞いての通りじゃ。ここはワシに任せて、お前たちは助けを必要としている場所へ向かえ。余計な事は考えず、自分の役目を果たすことだけ考えるのじゃ!」

 八海老師の指示に戸惑いながらも、梵能寺に集まっていた法力僧たちは散り散りに去っていく。彼らの背中を全て見送ると、八海老師は錫杖を両手で構え、晴れやかな表情でこう言った。

「待たせたの。さあ、続きを始めようか」
「ぬんっ!」

 羅刹は無造作に剛刀を引き抜くと、頭上高く掲げて一気に振り下ろす。互いの間合いは刃の届く距離ではなかったが、半月状の軌道が剣先より放たれ、地面を切り裂きながら一直線に迫る。八海老師は錫杖を構え、先端で斬撃を受け流すと、ごくわずかな動きで軌道を逸らしてしまった。

「その技を見るのも数十年ぶりじゃ。直接受けたのは初めてだが、普通の斬撃と同じように逸らしてやれば問題無いようじゃな。少々手は痺れたが」
「フフフ、やはりこの程度では仕留められんか。ならばこれはどうだ?」

 言うなり羅刹は、巨大な剛刀を目にも止まらぬ速度で振り始める。その度に斬撃の軌道が羅刹の目の前に現れ、次々と重なって密集していく。最後にそれを水平に大きく薙ぎ払うと、塊のようになった斬撃が八海老師に襲いかかった。

「のわっ!?」

 多少の連撃なら受け切る自信のあった八海老師だが、この技を見た途端にそれが不可能であると悟り、錫杖を使って棒高跳びのように跳躍し、紙一重で斬撃を避けた。斬撃はそのまま背後にあった石灯籠を巻き込んで通り過ぎて行ったが、石灯籠はサイコロのように細切れにされ、跡形もなく崩れ去ってしまった。

「くっ、さすがにアレを受けるのは無理……のおおっ!?」

 八海老師の目に飛び込んできたのは、すでに次の構えを取っている羅刹の姿であった。剛刀を頭上高く上段に構え、筋肉が膨れ上がった両腕には渾身の力が込められている。

「ま、まず――!」

 八海老師が言い終わるよりも早く、特大の斬撃が彼を真っ二つに切り裂いてしまう。目を見開いたまま地に落ちた八海老師を見ながらも、羅刹は構えを解かぬまま顔を少し横に向ける。視線の先、真っ二つになった身体から少し離れた場所に、八海老師がふわりと降り立っていた。両の足でしっかりと立ち、身体には傷ひとつ負ってはいない。両断されて地面に横たわった身体は、半分に千切れたお札へ姿を変えていた。

「ふん、つまらぬ小細工に頼るのも相変わらずか」
「ずいぶんな言われようじゃなあ。だが、その小細工で戦局がひっくり返ったりするのがワシゃ好きなんでね。お前さんも身に覚えがあるじゃろ?」
「興味なし。我にとっての愉悦は、立ち塞がる敵を斬る事のみ!」
「大変分かりやすくて結構ッ!」

 八海老師と羅刹は同時に地を蹴り、何度も激しく武器をぶつけ合う。空気を震わすほどの激突が三度、四度と続くが、互いに一歩も譲らない。最後に錫杖と剛剣とで鍔迫り合いの状態になりながら、羅刹は八海老師に話しかける。

「我と互角に打ち合い続けるとは、侮れぬ力よ。人の身でその強さを得た事、素直に褒めてやろう」
「そりゃどうも。ついでにお茶と菓子も出してくれんかね」
「だがこれだけでは勝てぬぞ。お前も承知の上であろうがな」
「はあ……本当に身も蓋もない奴じゃ。まったくやりにくいのう」
「死力を尽くせと言ったはずだ」
「ならば望み通り、本気って奴を披露してやろうかね」

 羅刹の剛剣を押しのけて後ろに飛んだ八海老師は、首から下げていた八房の宝珠を左手で掲げ、念を込める。すると宝珠を繋ぎ止めていた紐が切れると同時に、拳と同じくらいの大きさをした八つの球が四方へ飛び、八海老師を中心にして空中に浮かび上がった。

「この宝珠は八房家の先祖が代々、生涯をかけて霊力を注ぎ続けて完成させたもの。八百年に渡って蓄積された力を持ってすれば、いかなる悪鬼魔神をも打ち破れよう。羅刹、覚悟!」

 八海老師が指先を羅刹に向けると、宝珠はそれぞれが強い霊力を放ち、赤や黄色、青や紫といった色にそれぞれ輝きながら、一斉に羅刹の元へと飛来する。羅刹はそれを一息に剛剣で跳ね返そうとするが、宝珠は目の前でそれぞれ違う方向へ飛ぶと、剣をかわして羅刹の身体へと激突し、胸や腹、両手足に次々とめり込んでいく。

「むうっ……!?」

 羅刹の身体は大きく後方へと運ばれるが、地面に足の爪を食い込ませて立ち止まる。身体にめり込んだままの宝珠を引き剥がそうと手を伸ばせば、宝珠は素早く身体から離れ、宙を舞っては再び羅刹の身体に激突する。しかし羅刹は

「何度も言わせるな坊主よ。この程度ではかすり傷も付かぬッ!」

 羅刹は妖力を込めた剛剣を振り上げ、宝珠めがけて素早く切り払う。宝珠を操る術そのものを断ち切る狙いの行動だったが、宝珠は何事も無い様子で宙を飛び回り、手応えの無さに羅刹は目を見開く。

「面妖な……これは一体」
「お前さんに法力が通じないのは百も承知。だが、そいつはちょいと違うんでな」
「なんだと?」
「言ったじゃろ? 宝珠のひとつひとつに、我がご先祖様が込めた霊力が宿っていると。ワシが宝珠を操っているのではなく、宝珠が自ら意志を持って動いているんじゃ。そしてそのどれもが、人の生涯分の霊力を蓄えている……今のは結構痛かったんじゃないかね?」
「ふん。たかが球如きで我が倒せると思うてか」
「そうかい、ならば遠慮は無用じゃのう」

 八海老師は矢のように飛び出すと、振り上げた錫杖を羅刹に打ち下ろす。不動明王の剛力が加わった一撃を見逃すことは出来ず、羅刹は剛剣で錫杖を受け止める。が、その隙を逃さずに、八房の宝珠が次々に羅刹の肉体へと直撃し、めり込んでいく。

「ぬうう……ッ!」
「ほうほう、どうやら結構効いてると見える。我慢強いのは結構じゃが、その宝珠は浮かんでぶつかるだけが芸ではないぞ」

 八海老師が念じた次の瞬間、羅刹の肉体にめり込んだ宝珠のひとつが青白く輝いたかと思うと、凄まじい電撃を放った。

「うおおおおッ!?」

 さすがの羅刹も直接雷撃を浴びてはたまらないらしく、傍目にも苦しんでいる様子が窺えた。

「やはり直接身体に叩き込むぶんには、法力も通じるようじゃな。宝珠はそれぞれ、ワシと同等の法力を放つ事が出来る。これがなにを意味するのか、説明するまでもなかろう。これからたっぷり痛い目に遭ってもらおうかね!」
「おのれこれしきで――ッ!」
「正法妙如来、天衣無縫の理! オン・アロリキャ・ソワカ!」

 八海老師の真言が唱えられると同時に、羅刹の身体に食い込んだ宝珠が、一斉に力を解放する。業火、氷牙、雷撃、鎌鼬、金剛槍、茨の蔓、日輪、月影――万物を象徴する八つの法力が、続けざま羅刹の肉体を貫いた。

「グオオオオオオオーーーーーーッ!!」

 野獣のような咆吼を発し、黒焦げになった羅刹は再び膝を付いた。最後の誇りからか、剛剣を地面に突き立て、それにしがみつくような姿勢のまま、うなだれて動かない。八海老師は間合いを取り、羅刹から目を離さずに様子を見る。羅刹の身体は稲妻と業火で焼かれ、鎌鼬や金剛(ダイアモンド)槍で切り裂かれた痕からは、赤黒い肉が見え、血が溢れ出ていた。破邪と抑制を示す日輪と月影の力を体内に直接流し込んだ事もあって、かなりの打撃を与えたのは間違いなかった。

(……やったか?)

 確かに羅刹の動きは止まっていたが、突如として膨大な殺気と妖気が膨らみ始め、羅刹の身体を中心に大きな爆発が起こった。羅刹の身体に食い込んでいた宝珠は全て吹き飛ばされ、八海老師自身も咄嗟に結界を作って防がなければならないほどの威力だった。

「なっ、なんだこの妖気は! 今までの倍……いやそれ以上の――!?」

 爆風の向こうで膨れ上がる羅刹の妖力に、八海老師は戦慄した。舞い上がった砂埃が晴れると、全身に妖力を漲らせた羅刹が立っていた。炎のような髪を逆立て、端が欠けた仮面の奥から、牙を剥き出しにした口元が露出していた。そして体中の傷跡が、みるみるうちに塞がっていく。

「先に詫びておこう。お前は過去を基準に我の力を計っていたようだが……あの時我は本来の一部しか妖力を戻されていなかったのだ。無論、奴が我を御しやすくするためだろうがな。結果、我は満足に力を取り戻さぬまま、青二才だった頃の貴様たちに敗れ、封じられたというわけだ」
「そんな事もあるだろうとは思っていたが……正直泣きたくなってくるのう、その凄まじい妖力は」
「そしてもうひとつ、我がまだ奥の手を見せていなかったことだ」
「なんじゃとっ?」

 聞き返してふと、八海老師はあることに気が付く。羅刹の手にあったはずの剛剣が、どこにも見当たらないのである。宙に浮かんでいるわけでもなければ、地面に隠されている様子もなく、忽然と剣だけが消えてしまっていたのだ。

「とはいえ正直な所、この技は性に合わぬ。出来れば使いたくはなかったが、手の内を隠したまま戦うのは、強者への礼を失するというものよ」

 羅刹は右腕を振り上げ、剣を持っているかのような構えをするが、八海老師とは十メートル以上も間合いが離れており、斬撃を飛ばしたとしても、余裕を持って回避できる距離である。しかし羅刹は、間合いなどお構いなしといった風に腕を振り下ろす。その瞬間、八海老師の直感が最大級の危険を告げていた。

(な、なにか知らんが、とにかくまずいッ!)

 形容しがたい悪寒を感じて飛び退く八海老師だったが、突如として彼の胸元は切り裂かれ、袈裟がはだけて鮮血が流れ出した。

「ぐぁ……ッ!?」

 その場に膝を付いた八海老師は、すぐさま左手を傷口に当て、法力で傷の治療をする。傷はあと数ミリで心臓に達するほど深く、一瞬でも反応が遅れていれば即死であった。八海老師は血の気が引いていく音を聞きながらも、傷の深さではなく、羅刹の攻撃がまるで捉えられなかった事に戦慄していた。

(な、なんだ今のは……斬撃を『飛ばした』のではない、姿も音もない何かに、いきなり斬られた……!?)

 自分と羅刹との距離を確かめる八海老師だが、やはりどう考えても羅刹の剣が届く距離ではなく、自分の身に起きた現象の説明がまるで付かなかった。

「ほう、運のいい奴よ。今ので仕留めるつもりであったのだが」
「くっ、一体何をした……!?」
「如意無明剣――読んで字の如しよ」
「っちゅうことは、まさか……伸縮自在の見えない刃じゃと? ちと洒落がキツすぎやしませんか?」

 自分で言葉を口にした途端、八海老師は恐るべき事実に気が付き、全身からドッと嫌な汗が噴き出していた。少しでも剣術の心得がある者なら、それがどれほど恐ろしい事実か容易に想像できる事であった。人間相手でも、剣の達人の太刀筋は目で追えるものではないが、長年の修行と経験を積んだ者であれば、武器の間合いと相手の構えや挙動から、斬撃の軌道を予測してある程度は避けることが可能である。だがこの技は、そうした理屈を全て覆すもので、剣術に長けた敵の技として、間違いなく最悪の部類に属するものであった。

「我が目の届く場所に居る者は、何人たりとも逃れること叶わぬ。こんな風にな」

 羅刹は身体の向きを変えて境内を見回すと、敷地の一番端、五十メートルほど離れた場所にある松の木に目を止める。そして頭上に掲げた右手を無造作に振り下ろすと、一瞬の時間差もなく松の木が真っ二つに割れ、同時にすぐ後ろの塀まで砕け散ってしまった。

「ちょ、ちょっと待った。いくらなんでも、こりゃあ反則過ぎるじゃろ」
「貴様の言い分も分からんではない。形は見えず、間合いは自在の必殺剣……まさしく鬼の仕業なれど、剣技と呼ぶにはあまりに無粋。強者との戦いを望む我にとって、こんなもので勝ちを得てもつまらぬのよ」
「だったらそれ、無しにせんかのう? そうしてくれるとワシ嬉しいなー。嬉しくて涙が出ちゃうなー。いやもうホントに」
「そうはいかん。貴様が身命を賭して挑んできた以上、それに応じてやらねば羅刹の名が廃るわ」
「ああもう、こんな時まで律儀なんだから……」

 八海老師が嘆息した途端、羅刹は腕を水平に薙ぎ払う。咄嗟に身を屈めた八海老師の頭上で、一束ほどの髪の毛が宙に舞い散った。

「あ、危なかった……な、なんて事をしてくれる! せっかく戻った大事な髪を!」
「さて、これをどう凌ぐ? 我にこの技を使わせた人間は、貴様が初めてなのでな。どう加減したら良いか分からん。くれぐれも一振りでくたばってくれるなよ」

 羅刹はその場から一歩も動かぬまま、続けざまに見えない斬撃を繰り出してきた。どうにか飛び回って直撃を避けてはいるものの、次第に切り刻まれて体中から血が溢れ出ていく。

(くうっ……やはり勘だけで避け続けるのは無理があるか……!)

 八海老師は空高く跳躍すると、飛散した宝珠に念を送り、羅刹めがけて放つ。宝珠は四方から羅刹めがけて飛来するが、羅刹の気合い一閃で生じた妖力の波動で、いとも簡単に跳ね返されてしまったうえ、彼自身も波動を浴びて飛ばされ、うつ伏せの状態で地面に落下した。

「効かぬ。それで手は打ち止めか?」
「……」
「これ以上抗う術がないのであれば、このまま首を刎ねるまで」

 八海老師は地面に伏せたまま動かず、返事もしない。羅刹がトドメを刺すべく腕を振り上げたその時、背後から素早く飛び掛かる影があった。

「むっ!?」

 素早く振り返った羅刹は、何者かの急襲を左手で受け止める。真っ赤に燃える両眼に映っていたのは、地面に伏していたはずの八海老師そのものであった。袈裟を纏い、手にした錫杖を羅刹の頭めがけて打ち込もうとしていた。

「なんと、いつの間に……」

 羅刹は少し首を動かし、今の今まで対峙していた八海老師に目をやるが、彼は元の位置で地に伏せたまま動いていない。飛び掛かって来たもう一人の八海老師は、すかさず懐からお札を取り出して投げつけ、羅刹の眼前で小規模な爆発を引き起こして視界を遮ると、すかさずその場から飛び退いて行く。

「今のは錯覚ではない。確かに奴は二人――」

 言いかけた途端、またも死角から何者かが突進してくる気配を羅刹は敏感に感じ取る。それらはやはり、いずれも八海老師と寸分違わぬ姿をした者たちであった。それぞれが錫杖を手に持ち、駆け抜けながら攻撃を繰り出していく。

「ぬううッ!?」

 八方からの切れ間無い連続攻撃である事に加え、並の妖怪なら一撃で灰になるほどの威力である。事実、羅刹の鋼のような肉体は次々に切り刻まれ、傷口は法力によって焼け爛れていく。羅刹は両腕を振り回して周囲を薙ぎ払うが、無数の八海老師らは素早く散って的を絞らせず、再び間髪を入れぬ攻撃を次々に繰り出し始めた。地に伏せていた八海老師は顔を上げて立ち上がり、血だらけの胸元に手を当てながら言う。

「威光陽焔、オン・マリシエイ・ソワカ。自分の姿と能力を完全にコピーした分身を作り出す、摩利支天(まりしてん)の法じゃよ。お前さんの如意無明剣を避けるのは不可能。ならば切れ間無く攻め続け、最初から技を出させなければいい」
「……ただの幻術ではないな。あの宝珠を使い、実体を持つ分身を生み出したか。しかもこ奴ら、気配から霊気の波動までそっくり同じで見分けが付かぬわ」
「八房の宝珠を受け継いでより五十年、ワシもずっと霊力を注ぎ続けてきたからな。ワシの気配をそのまま真似られるのは当然。そこへご先祖様の霊力も加わった分身が八体あれば、もはやワシに敵はなし。これが奥の手って奴じゃよ」

 摩利支天とは、光線や陽炎を神格化した天部の一人で、常に太陽の前に立ち、あらゆる障害を取り除いて光を地上に導く役割を持つ。また陽炎の化身であることから実体が無く、誰にも傷付けられないという事から、戦国時代の武士などに広く信仰されていた、必勝祈願の神でもある。

「端から見れば多勢に無勢じゃが、なにしろ鬼神が相手。卑怯とか言わんでくれよ」

 言うと同時に地を蹴り、彼もまた羅刹めがけて突進すと、総勢九人の連続攻撃が始まった。次々と繰り出される攻撃を跳ね返してみせる羅刹ではあったが、素早く動き回る分身の動きに攪乱されて狙いが定まらず、見えない斬撃も空を切るばかりであった。

「ええい、鬱陶しいわ! この程度で――ッ!」

 羅刹は苛立ちを顕わにし、周囲を薙ぎ払うように大きく腕を振り回したが、同時に決定的な隙が生じてしまい、この瞬間こそ八海老師が待ち望んだ千載一遇のチャンスであった。

「羅刹、覚悟!」

 刹那、四方から放たれた無数の独鈷杵が、羅刹の両手足や胴を次々に貫いた。そのいずれにも強力な法力が込められており、電撃や炎、冷気を発して羅刹に打撃を与えると同時に、動きを封じ込める。そして続けざま、正面から突進した八海老師の錫杖が羅刹の左胸を抉った。羅刹はすかさず錫杖を握って引き抜こうとするが、八海老師はありったけの霊力を流し込んでさらに錫杖を押し込む。

「千手千眼の大慈悲、蓮華王の法! オン・バサラ・タラマ・キリク!」

 千手観音の真言が唱えられると同時に、分身が羅刹の周囲をぐるりと取り囲むが、彼らの手元が眩い光を放つと、分身が手にしていた錫杖が、それぞれ千手観音が持つ法具へと変化していく。剣、弓、斧、小型の仏像、鐘、月輪(輪っか状の投げ刃)、そして鏡――これらの武器を用い、分身は一斉に羅刹への攻撃を仕掛けた。仏像、鐘、鏡の力によって羅刹の動きと妖力を封じ、刃が急所を刺し貫く。

「こ、これほどの術を操るとは……本当に人間か……!?」
「お前さんにとっては虫ケラみたいなもんだろうが、人間を侮ると痛い目を見るって事じゃ。この状態では、いかに羅刹と言えども逃れる事は不可能! このまま全霊力を注ぎ込み、塵も残さず祓ってくれる!」
「ガアアアアアアアアアア――――ッ!」

 膨大な破邪の霊力を流し込まれ、羅刹の絶叫が響き渡るが、途中でぷつりと途切れる。引き絞った弓から放たれた矢が、仮面ごと羅刹の眉間を打ち抜いていた。仮面の両眼部分からは涙のように血が溢れ、羅刹は石像のように固まったまま動かない。それを見ながらも、八海老師は霊力を送り込むのを止めなかった。

(まだだ、完全に仕留めるまで気は抜かん!)

 さらに踏み込んで錫杖を押し込もうとした八海老師だったが、羅刹の右手がわずかに動き、指先を地面に向けた直後、鋭く尖った五本の爪が槍のように伸びて、地面に突き刺さる。直後、爪を通って膨大な妖力が地面に流れ込み、足元に深い亀裂を生じさせながら周囲へ広がっていく。

(こ、これは――!)

 その技の威力は、数十年経った今でも鮮明に覚えている。当時の光景がフラッシュバックする八海老師だったが、亀裂の広がりは過去に見た時とは比べ物にならず、梵能寺の境内全てに至るほどの広範囲にわたっていた。刹那、亀裂の下から噴出した赤い閃光が大気を震わせ、八海老師とその分身を呑み込んだ。天を衝く破壊の奔流は境内の全てを巻き込み、木や石、自動車や建物に至る全てを上空へと吹き飛ばし、跡形もなく粉砕した。

「が……はっ……!?」

 咄嗟に法力を防御の結界に切り替えたものの、羅刹の持つ力によって結界は容易く打ち砕かれ、八海老師の身体は十メートル近くも舞い上げられた。凄まじい衝撃によって全身から骨の砕ける音が響き、分身も術の効力を失い、元の宝珠に戻って次々に落下していく。地面に叩き付けられた後、八海老師の上には舞い上げられた土や粉々に砕けた石や木の破片が雨のように降り注いでいた。

「う……ぐ……っ! ゴホ……ッ……!」

 辛うじて手足は繋がっていた八海老師だが、全身の皮膚はズタズタに裂けて鮮血に染まり、口からも大量のどす黒い血を吐いた。肘を付いて身体を起こそうとするが、腕の皮膚が裂けて血が溢れ、滑って血溜まりに倒れ込んだ。羅刹は眉間に突き刺さった矢を引き抜いてへし折ると、無造作に投げ捨てて言った。

「闘技、鬼神楽。この技はかつて見せたはずだがな」
「ば、馬鹿な……法力は完全に決まっていたのに……うぐっ……!」
「確かに凄まじい威力であった。我に術を裂く力が無ければ、どうやってあの呪縛から逃れていたか分からぬ。見分けの付かぬ分身にも手を焼かされたわ。だが決着を付けんと集結し、動きを止めた瞬間が命取りよ。我はあえて技を受け、腕一本のみに力を集めて機を待っていたのだ。とはいえ今のは効いたぞ……おかげで傷がまだ塞がらぬ」

 言葉通り、羅刹の額や身体には生々しい傷跡が残ったままになっている。羅刹に打撃を与えたのは間違いないが、それ以上に八海老師の負ったダメージは深刻で、立ち上がることもままならない程であった。

「くっ……まだ……終わる……わけには……」

 八海老師は必死に地面を這い、近くに落ちていた宝珠のひとつを右手で握り締めるが、羅刹はその手を踏みつけて制止する。八海老師は左腕を伸ばして羅刹の足首を掴むが、指先にまったく力が入っておらず、かろうじて掴んでいるだけに過ぎなかった。

「無駄だ。その有様、我の一撃だけが原因ではあるまい。限界を超えて戦い続けたツケが、いよいよ回ってきたようだな。お前の体は確実に砕け始めている」
「鬼神とやりあうなら、これくらいは当然……全部承知の上じゃとも……」
「よもやお前は、我を足止めし他の人間を逃がすため、自ら捨て石になったのではあるまいな」
「そんな格好いいもんじゃない……他にいい手があれば、迷わずそうしたわい」
「惜しいものよ。その様子では止めを刺さずとも、間もなく死ぬ。これほどの使い手を失い、人間どもはどうやってこの事態を収めるつもりなのだ」
「はは……鬼に心配されるとは、いよいよ世も末って奴かのう」
「お前ほどの者が無駄死にを選ぶとは思えぬ。この騒ぎを鎮められる人間が、他にいるというのか?」
「ああ、もちろんじゃ」
「何者だそいつは」
「知りたいか? だったら――」

 突然、八海老師の指に力が漲り、腕を踏みつける羅刹の足を持ち上げて跳ね退けると、目にも止まらぬ素早さで立ち上がり、羅刹を羽交い締めにする。

「もう少しだけ付き合ってもらおうか……!」
「まだこんな力を残しておったかっ」
「涓滴岩を穿つ……我が一族八百年の重みを知るがいい! 来たれ宝珠よ!」

 八海老師の声に反応し、周囲に散らばっていた宝珠が次々に飛来し、八海老師ごと羅刹の身体を縛るようにして取り囲む。そして八海老師の身体から溢れ出した霊力が青白い炎の形を取って噴き出すと、宝珠も次々に同じ炎を吹き出し始め、中心にいる羅刹を巻き込んだ巨大な火柱となって燃え上がる。自分の魂を巨大な炎に見立て、鬼神と言えども焼き尽くす力へと転嫁させた大技であった。

「一人で逝くのは寂しいんでの……お前さんが手傷を負っている今なら、抜け出される前に決着が付けられる。続きは向こうでやろうじゃないか」
「ぐうっ、こ、この熱さ……最初からこれが狙いであったか!」
「後のことは草助に任せてあるんでのう……ワシらはここで退場じゃよ」
「そ、それが例の人間の名か。そいつはお前よりも強いというのか?」
「ああ、まだ尻の青い未熟者だが、必要なことは全部叩き込んでおいたからの。すぐにワシなど追い越すだろうて」

 わずかに眼を細めながら、八海老師は草助の顔を思い浮かべる。そしてさらに力を込め、身体から噴き出す炎の勢いをさらに増していく。

「さ、さあ、お喋りも疲れてきたんでな……そろそろ終わりにしようか」
「残念だがそうはならぬ。なぜ我が鬼神と呼ばれるのか、今こそ教えてやろう!」

 羅刹は炎に包まれながら天を仰ぐと、両眼から金色の光を放つ。光が上空を覆う雲の中に吸い込まれていくと、空の向こうに見える光の柱がさらに眩い輝きを放ち、そこから放たれた光の筋が、羅刹の頭上から一気に降り注いだ。

「こっ、この力は……そんな、まさかっ!?」

 常識を遙かに超越した、絶望的な波動だった。光を浴びた羅刹は全身を金色に輝かせ、膨大な妖力の波動を解き放った。その途端、突如として暴風が吹き荒れ、八海老師の身体はいとも簡単に弾き飛ばされた。そして羅刹が自らを取り囲む宝珠を睨み付けて両眼を光らせると、宝珠は全て粉々に砕け、細かい砂のようになって四方に飛び散ってしまった。

「地脈に流れる霊気の一部を、我が内へと取り込んだ。地脈の霊気とは、自然の理。大地に命を芽吹かせ、同時に地震や洪水、嵐といった破壊を引き起こす根源的なもの。普段は長い年月と条件が揃わねば扱えぬが、地脈への扉が開かれている今なら、こうして引き寄せることも容易い。どれだけ技を極めようと、命を砕き極限まで燃やし尽くそうとも、人の身では決して辿り着けぬ領域……これが我ら神と祀られし存在の力なのだ」
「なんということだ……これではもう……」

 うつ伏せに倒れた八海老師は絶望の表情を浮かべ、地面の上に撒き散らされた宝珠の砂に指を伸ばすと、力なく呟く。もはや闘志は萎え、諦念の滲む声だった。

「この力は本来、人間相手に使って良い物ではない。だが、これまでの戦いぶりに敬意を表し、我も全力でお前を葬ろうぞ!」

 一歩前進する事に、羅刹の全身から凄まじい妖気が溢れ出し、地面の土が細かく砕け散って周囲に飛ぶ。八海老師は抵抗する気力を失ったのか、立ち上がろうともせずじっとしていた。羅刹は八海老師の元に近寄ると、片手で彼の首を掴み、目の前へ持ち上げる。

「さらばだ。お前との戦いは、永遠に我が記憶に留めておこう」
「くく……ははは……はっはっは……!」

 うなだれたままだった八海老師は、突然身体を小刻みに震わせて笑い始めた。

「あはは……くっくっく……!」
「なにを笑っている? 強がりだとしたら止めておけ。今のお前は消えかかった薪と同じようなもの。どう足掻いても手遅れよ」
「た、確かにその通りじゃが……だが羅刹よ、お前さんはひとつ大事なコトを忘れているなあ」
「なんだと?」
「消えかかった薪でも……火を付けるには充分なんじゃよ!」

 八海老師が手元で印を結ぶと、小さな光の雫が地面に落ちる。すると光は連鎖的に広がり、羅刹と八海老師を中心にして八つの梵字が地表に浮かび上がった。

「こっ、これは……ッ!?」

 その絵を目の当たりにした途端、明らかに羅刹の声色が変わったのを、八海老師は聞き逃さなかった。

「羅刹敗れたりッ――!」

 八海老師が続けて印を結んだ瞬間、八つの梵字から白金の輝きを放つ仏像が現れ、羅刹の回りを取り囲む。次の瞬間、同時に放たれた神聖な霊気の光が羅刹を貫くと、羅刹は八海老師の喉を掴んでいた手を離し、ピンで留めた昆虫のように固まって動けなくなっていた。

「ぐうううううっ、動かぬ、指一本動かせぬッ! なんだこの術は……どこにこんな霊力がっ! 我は一瞬たりとも目を離さなかったはずッ! どうやってこんな大掛かりな術を……!?」

 全身血まみれの八海老師は、気力だけで朽ちかけた身体を奮い立たせると、半ばから折れた錫杖を構えながら答えた。

「この法力は色々と特別でなあ……自分自身が使う霊力は、ほんのちょっぴりでいい。その代わりに準備が大変なんじゃよ。見ての通り、地面に八つの梵字を描き、相手をその中央に誘わなくてはならない。だが戦いの最中にそんな暇はないし、あらかじめ書いていればすぐバレてしまう。それを解決するために、ご先祖様が八房の宝珠をお作りになったというわけじゃ」
「宝珠だと? あれは我が全て砕いてやったはずだ!」
「そうとも。宝珠は砕かれ、砂となって飛び散った。だが、それは最初から計算の内だったのじゃよ。ワシは諦めた芝居を打ちながら、砂となった宝珠に念を送り、密かに八つの梵字を描いていたというわけじゃ。誰かさんが地面を砕いてくれたおかげで、めくれた土の下にそれを隠すのも簡単じゃったよ。全ては狙い通り……ここまで仕込むのに、死ぬほど骨を折ったがのう」
「馬鹿な、お前は我の行動を全て読んでいたとでも言うのかッ!」
「ワシは予言者じゃない。なにもかも見通せたりはせんよ。だが、かつてお前と戦ってから今日に至るまで……お前さんには一眠りくらいの時間だろうが、ワシはその間に何千何万と、最悪のシナリオを想定しては備えてきたんじゃぞ。この数十年、羅刹と戦えばこうなるだろうと、一度もワシが考えなかったと思うのかね」
「小賢しい真似を! こんな術などひと思いに砕いて――!」

 羅刹は怒りを剥き出しにし、大気が震えるほどの妖力を放出して術を破ろうと試みる。ところが法力は敗れるどころか、さらに威力を増して羅刹を縛り付けた。

「ど、どうなっている、呪縛がますます強く……ま、まさかこれはッ!?」
「ワシとお前を取り巻く八体の仏像は、胎蔵曼荼羅――その中央を成す中台八葉院(如来とその周囲に配置された菩薩)を表しておる。この法力は輪廻の真理によって、ただ敵を封じるのみならず、相手の力を倍以上にして送り返す。相手の力が強ければ強いほど威力は跳ね上がり、たとえ魔神であろうと逃れる術はないっ! 己の強さを示すため、地脈の霊気を引き込んだのが命取りよ!」
「ば、馬鹿なッ、人間にこんな芸当が――!」
「生涯を費やして会得したこの術じゃが、それでも上手く行くかは一か八かじゃった。おまけにほんの少しでも集中力を乱せば、たちまち梵字が歪んで術が成立しなくなるからのう。だが、どうやら賭けはワシの勝ちだったようじゃな。どうかね、小細工で勝負をひっくり返される気分は?」
「認めぬ……絶対に認めぬぞッ! この羅刹が人間の掌で踊らされていたなど、絶対にあってはならぬ! この身朽ちようとも、お前だけは八つ裂きに――!」
「見るがいい羅刹、これがワシの――人間の意地と誇りというヤツじゃ! 究極法力、護法八極陣ッ!」

 八海老師が最後の霊力を振り絞ると同時に、八体の仏像から放たれる光が天を衝いて広がり、八海老師もろとも羅刹を呑み込んだ。全てを包む光の中、羅刹の身体が徐々に崩れ消滅していくのを見ながら、八海老師の意識は急速に薄れていく。

(後は任せたぞ草助……最後まで一緒に見届けてやれないのは残念だが、もうお前は一人で歩いて行けるはず。魂筆にまつわる因縁は、自分自身で断ち切るのじゃぞ……)

 雷鳴のような羅刹の絶叫も、もはや耳には届いていない。暑さも寒さも感じず、全身の感覚が失われていく。その中で八海老師の脳裏に思い浮かぶのは、幼かった草助を引き取り、共に過ごした日々の記憶ばかりだった。泣いて帰ってきた草助をあやしたり、つまらない嘘をついた草助を叱り飛ばしたり、黙々と絵の練習に取り組む草助を見守ったり――そうした場面が、次々に思い浮かんでは消えていく。

(最後まで伴侶を持たなかったワシが、家族の幸福を知る事ができた……全てはお前のおかげじゃよ草助……これからは自分のために……龍之助や、香澄ちゃんのぶんまで……)

 八海老師の意識は、白金の光に溶けていく。やがてその光が収まった時、そこには両膝を付いたまま燃え尽き、うなだれた羅刹と、その様子を両眼に焼き付けたまま身構える八海老師の姿があった。羅刹は身動きひとつしなかったが、八海老師も構えを解かず、立ったままその場から動こうとしなかった。しばらくの沈黙が続いた後、一陣の風が吹き抜けた。風に吹かれて羅刹の角が片方抜け落ちると、地面に落ちて音もなく崩れ去る。その時、風の音に混じってかすかな声がした。

「愚か者め……」

 両眼に再び光を宿し、動いたのは羅刹だった。全身は焼け崩れ、甚大な打撃を受けてはいたが、完全に滅ぶまでには至らなかったのだ。羅刹は崩れかけた身体で立ち上がり、八海老師の元へ歩み寄る。八海老師は割れた眼鏡の奥で両眼を見開き、印を結んで身構えたまま微動だにしない。

「あとわずか……ほんのひと呼吸さえ持ちこたえれば、我を仕留められたものを」

 八海老師の心臓は止まっていた。虚空を見つめる瞳に光は無く、ただ目の前に立つ羅刹の姿を映しているに過ぎなかった。梵能寺の境内は今までの激しい戦いが嘘のように平穏を取り戻し、まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように静かだった。

「今こうして我が在るのは、単に体力の差。人間より頑丈な身体を持っていたからに過ぎぬ。条件が同じであったならば……」

 そう呟いた後、羅刹はしばらく黙り込んでいたが、やがてひび割れた仮面を脱ぎ、それを八海老師の顔にそっと被せた。

「受け取れ、これは餞別だ」

 羅刹は鬼の素顔を顕わにしたまま、天を仰ぎ言った。

「不思議なものだ。敗れたというのに、妙に清々しい。神代より闘争に明け暮れてきたが、こんな気分になったのは初めてよ。人間の意地と誇り……実に見事であった。地脈の扉――お前たちが光の柱と呼ぶ物の始末は、我が引き受けよう」 

 地面を蹴って空高く跳躍すると、羅刹は自らが守っていた光の柱へ向かって飛び去っていく。ほどなくして、空の向こうにそびえる光の柱は勢いを弱め、音もなく消えていった。
 




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