魂筆使い草助

第十三話
〜『光の柱(二)』〜



「ウオオオオオオッ!!」

 圧倒的な質量と威圧感、海のように巨大で底の知れない妖気。龍神は全ての次元が違いすぎた。龍神が天に向かって吼えると風が吹き、風に乗った冷気が容赦無く吹き付けてくる。顔を半分凍り付かせながら、定岡はヤケクソ気味に叫ぶ。

「おいぃぃぃっ! なんとかしやがれぇぇぇッ!」
「と言われましても……!」
「さっき妖術が得意ですとか言ってやがったろうがッ!」

 美尾は定岡を盾にして冷気を凌いでいたが、それでもヒゲの先が凍るのを見て表情を強張らせる。

「嘘は申しておりませんが、限度がございます。私では……いえ、誰であろうと龍神を力で抑えるなど不可能です」
「じゃあどうすんだ、このまま凍ってアイツのエサになれってか!?」
「ひとつ心当たりがございます。かつてこの地を荒らしていた龍神は、江ヶ島に降臨した弁財天様のお言葉によって改心して土地の守護者となり、やがて力尽きて眠りについたと聞いています。弁財天様の協力を得られれば、あるいは……」
「そ、その弁天はどこに居るんだ?」
「……さあ?」
「さあ? じゃねーだろ!」
「落ち着いてくださいませ。今度の異変で龍神が蘇ったのなら、この地を司る弁財天様も現れていなければ不自然です。なのに姿が見えないという事は、すでにこの地を去ったか……あるいは故意に、眠りから目覚めないようにされているとも考えられます。ただ、その場所がどこなのかまでは私にも」

 二人が言葉に詰まっているのを他所に、ヒザマは岸壁にある洞窟の入り口を塞ぐ氷めがけて、炎を吐きかけたりクチバシでつついたりしている。

「おいヒザマ、なにやってんだ?」
「見て分からんのかいな、この洞窟に隠れてやり過ごすんや。龍神かて、ねぐらの島に無茶は出来へんやろ」
「つーかお前、自分だけ助かろうとしてたんじゃねーだろうな?」

 ヒザマはピクッとトサカを反応させた後、白々しく目線を泳がせながら返事をする。

「そ、そんなワケないやろ。ええから氷を溶かすの手伝わんかい!」
「まあいいや、ちょっと退いてろ」

 定岡は身体に括り付けてあった手榴弾のひとつを外し、氷に向かって放り投げる。数秒の間を置いて手榴弾は破裂したが、直後に高温の炎を伴って激しく燃え盛った。定岡が使ったのは、化学反応を利用して発火現象を起こす焼夷手榴弾で、燃焼している時間は数秒程度だったが、鉄をも溶かすほどの高温を瞬時に生じさせる事が出来る。氷の壁は貫通こそしていないが、向こう側まであと一息といった所まで溶け、周囲には湯気がもうもうと立ち上っている。

「よっしゃ、後はワイに任せとき!」

 ヒザマは氷に空いた穴の奥へ向けて、両眼から熱線を発射する。ほどなくしてヒザマの熱線は氷を全て溶かし、向こう側へと繋がるトンネルが出来上がった。ヒザマと定岡は急いで穴の中へ飛び込んだが、穴の奥から流れてくる空気に触れた美尾は、目つきを鋭くさせて言った。

「この奥から神聖な霊気を感じます。もしやこの氷は、ここへ入らせまいとする封印だったのでは……だとすればこの奥には」

 美尾の言わんとする内容を察して、定岡が続ける。

「ここで龍神が隠したいモンなんざ、他に思いつかねえ。こりゃあひょっとするぜ」
「……ここから先はお任せします。私はここに残りますので」

 突然の言葉に、ヒザマは怪訝そうに訊ねた。

「残ってどないすんねん。ワイらと一緒に来たらええやんけ」
「龍神は天候を司る神でもあります。ここで津波や高潮を引き起こされては、洞窟自体が水中に沈んでしまうでしょう。ですから、誰かが注意を引き付けておかなくてはなりません」
「お前、ホンマにええんか? 下手したら死んでまうで?」
「他に適任者がいれば、喜んでこの役をお譲りするのですが。それとも、私に代わって龍神を引き受けてくれると?」

 美尾の問いかけに、ヒザマと定岡は揃ってブルブルと首を振る。

「では頼みましたよ。我々は一蓮托生……どちらかが失敗しても我々に未来はありません」
「まあええわ。サッサと済ませて戻ったるさかい、それまでテキトーに逃げ回っとくんやで」

 穴の向こうで答えるヒザマを、美尾は大きな両目でじっと見つめる。

「なんや、ワイのカッコよさに見とれたんか?」
「ええ、少し見直しました。なので非常食にするのはやめておこうかと」
「おんどれワイをそんな目で見とったんかい!」

 ぷんすかと怒るヒザマを引っ張りながら、定岡は洞窟の奥へと走り出す。それを見届けた美尾は妖術を使って宙に浮き上がると、龍神のいる海上へと飛んでいき、龍神の正面で静止する。龍神の体長は五十メートルをゆうに越えており、海に隠れている部分を含めれば、見えている部分の倍以上はありそうだった。龍神の両目は濁った血のような暗い色に染まっており、痛みを覚えるほどに冷たい殺気を放っていた。

(この眼は……大地の異変だけでなく、なんらかの理由で正気を失っている。これほどの術を扱う黒崎という人物、果たして本当に人間なのだろうか)

 素早く考えを巡らせつつ、龍神が正気でないと確認した美尾は、秘めた妖力を解放しつつ、口調で言った。

「我が名は猫又の美尾。畏れながら、しばしお相手させて頂きます」

 同時に、美尾の体がまばゆい光に包まれ、光は次々に増殖していく。やがて光が弱まってくると、そこに美尾とまったく同じ姿形をした十人ほどの分身が現れていた。

「私、猫又の美尾は御身に遠く及ばぬ妖なれど、百年以上の月日を妖術の修行に費やして参りました。我が幻術がどの程度のものか、どうぞ御覧あれ」

 美尾とその分身は声を揃えて言うと一礼し、龍神の注意を引くように周囲を飛び回り始めた。そしてそれぞれが指先に鬼火を作り出し、龍神の顔めがけて一斉に飛ばした。無論、この程度の術で龍神に打撃を与えられはしないのだが、注意を引き付けられればそれで充分だった。案の定、龍神は周囲を飛び回る美尾と分身に目を向け、唸り声を上げながら睨み付けていた。龍神が身体を震わせて吼えると、瞬く間に黒雲が空を覆い、雷鳴が轟き始めた。龍神は無数に分かれた美尾の分身を目で追っていたが、他と違う気配を持つ一人を視界に映したその瞬間、激しい落雷が美尾を貫いた。稲妻に撃たれた美尾は、灰も残さず蒸発してしまい、残った分身も次々に煙のようになって消えていく。龍神の目には勝利の色が浮かんでいたが、それはすぐ驚きへと変わっていった。

「グウウ……!」

 消えたはずの美尾とその分身は、位置を変えて再び姿を現し、何事も無かったように宙に浮いている。納得がいかない目つきをする龍神に、美尾が答えた。

「幻術や分身の術は、妖術の中でも基本的なもの。それゆえ使い手の技量が試されるものではありますが、本物と分身の気配を入れ替えるくらいの技は心得ております。じっくりと本物を探してくださいまし」

 龍神はその後もやみくもに落雷を生じさせたが、いずれも分身を蒸発させるばかりであった。しかし美尾は、落雷を呼び寄せるという圧倒的な妖力でさえ、龍神が秘める力の断片でしかない事に、戦慄を禁じ得なかった。

(まともにぶつかっても勝ち目はない。とにかく攪乱して、逃げ回っていればそう簡単にやられはしないはず……)

 望みを託す相手が定岡とヒザマである事に不安を感じつつ、美尾は分身を率いて飛び続けた。



 息が切れるまで走ってから立ち止まり、定岡は洞窟の中が異様な気配に満ちている事に気がついて顔を上げた。定岡とヒザマの目の前には、奥が見えない洞窟がずっと続いており、所々が凍り付いたままになっている。

「やっぱり変だよな……ぜえ、ぜえ」
「のう定岡、自分がどれだけ走ったか憶えてるか?」
「少なく見積もっても、二、三百メートル以上は走ってるぜ……はぁ、はぁ」
「せやな、どう考えても洞窟の長さがおかしいわ。ここも異界に飲まれとるみたいやな」
「ま、とにかく先に進もうぜ。奥まで行けば、弁天か龍神に関係する何かがあるはずだ」

 定岡はマシンガンを構えながら、さらに奥へと足を進める。洞窟は曲がりくねってはいたものの、ほぼ一本道で迷う事は無かったが、しばらく進むと浮遊する小型の妖怪や悪霊などが飛来し、それを迎え撃つというパターンが続いたが、やっとの思いで辿り着いた洞窟の最奥には、ドーム状の広い空間があり、他は剥き出しの岩壁があるばかりだった。

「おいおい、ここまで来てハズレとか嘘だよな?」
「せやけど、なーんも見当たらへんで」

 定岡とヒザマが呆然としている間にも、背後から妖怪の群れが近付いて来る。体力と弾薬ばかりを消耗してしまった事に辟易とした定岡は、妖怪の群れめがけて手榴弾を投げつけた。

「次から次へと出てきやがって! いい加減にしろテメーら!」

 手榴弾はまっすぐ飛んでいったが、そのうちの一匹が爆発する前に腕で弾き飛ばし、横の壁にぶつかって爆発した。すると壁の一部が崩れ、その向こうに別の空洞があるのが目に入る。

「おっ、なんだありゃ?」

 定岡は銃を、ヒザマが火炎を吐き出して妖怪の群れを一掃すると、二人は崩れた壁の向こうに踏み込んだ。そこには小さな部屋があり、四角く加工された石が積まれて作られた壁と、中央には細かな模様の彫り込まれた扉があったが、部屋全体は強い冷気に包まれ、壁や扉は分厚い氷に覆われていた。

「けっ、ご丁寧に隠してあった所を見ると、ここで大当たりってトコだろーな。こんな氷なんざ、あっという間に湧かしてやんぜ!」

 定岡は洞窟の入り口で使った焼夷手榴弾を扉に投げつけ、得意げな顔で燃え上がる火炎を眺めていたが、炎が消えた後の光景を見てぎょっとした。氷はまるで溶けた様子が無く、扉は分厚い氷に覆われたまま何の変化も起きていなかったのである。

「ど、どうなってんだ!?」
「……コレは普通の氷やないで。こいつも術で作られた封印みたいやのう。しかも表の氷とは別の術で作られとるな。普通の炎じゃ雀の涙ほども溶けへんやろ」
「溶かす方法はあんのか?」
「術には術や。ワイの妖力で作る炎なら大丈夫やで。ふっふっふ」
「なんだよその笑いは」
「かーっ、鈍いのう。ここから先はワイのさじ加減ひとつやで? もっとワイを尊敬して、食料も今までの倍持ってくるいうんなら、力を貸してやらん事もないけどなあ」
「あのな、このままだとみんなお終いだってのを忘れてねーか?」
「よく考えたらワイは妖怪やしー。世の中が異界になっても、実はあんまり困らへんしー」
「こっ、この野郎」
「ホレホレ、どないするんや? ん?」
「ああもう、わーったよ。ちゃんと腹一杯食わせてやるから、この氷をなんとかしてくれ」
「よっしゃ、忘れるんやないで!」

 定岡でさえ初めて見るような全力の笑みを浮かべながら、ヒザマは氷に向かって炎を吐き始めた。氷は少しずつ溶け始めていたが、進みは予想以上に遅く、全て溶かすまでにはまるで至らない様子だった。

「おい、まだ半分も行ってねーぞ。大丈夫なのか?」
「ホンマ腹立つでこの氷。途中で火ぃ止めると、すぐ元に戻ってまうんや。一気に全部溶かさんとあかんみたいやが、これは骨が折れるで」
「ああん、さっき偉そうに言ってたのはどこのどなたでしたかねえ? それとも口先だけかいな、ん?」

 定岡は嫌味っぽい表情を作り、ヒザマの顔を覗き込んでニヤニヤと笑う。

「やかましいわ! ていうか真似すんなっちゅうねん!」
「いいから早く溶かせよ。いつまた妖怪どもが湧いてくるかわかんねーんだぞ」

 言いながら定岡は、部屋の入り口から外を眺めつつ、煙草を咥えて火を付けようとした。その時、広い部屋の入り口方向から、新たな妖怪の集団が集まりつつあるのが目に飛び込んできた。しかもそれだけでなく、ひときわ大きな怪物が混じっているのを見て、定岡は思わず煙草を落としてしまった。その怪物は白く長い身体をしていて、形は土中にいるミミズによく似ていたが、問題はその大きさであった。体長は数十メートルはあろうかという巨大さで、胴回りも人間の倍以上はある。目や耳といったものはついていないが、頭全体が巨大な口になっており、十字に割れて広がる口の中には、ナイフのような牙がずらりと並んでいた。当然、噛みつかれたらどうなるかは想像に難くない。定岡はひとまず、その怪物を化けミミズと名付ける事にした。

「急げヒザマ、今度はでっかいミミズの化け物まで出てきやがった! そっちは後回しにしてこっちを先に片付けるぞ!」
「悪いけど、それは出来ひん相談やで」
「なっ、なにぃ!?」
「さっきも言うたやろ、火を止めたら氷が元通りになってまうねん。ここで止めて妖怪の相手なんかしとったら、さすがのワイも妖力が続かへん。なんとか一人で食い止めてや」
「ふざけんな! って言いてえ所だが、仕方ねーのか……くそっ、楽に片付くと思ってたのに、当てが外れちまったじゃねえか。どうしてくれんだ」
「ワイかて気張っとんのや、おのれもちっとはいいトコ見せたらんかい!」
「わかったわかった、こうなりゃヤケだ、とことんやったろうじゃねえかチクショー!」

 定岡は小部屋に妖怪たちが入り込まないよう、入り口に強力な結界のお札を貼り付けると、広い部屋に飛び出し大声で叫ぶ。

「おいノロマども、テメーらの探してる人間様はここにいるぜ! 捕まえられるもんなら捕まえてみな! 足りない脳みそと短い足じゃ無理だろうけどな、バーカバーカ!」

 小学生のような挑発をして注意を引き付けながら、定岡は広間の反対側を目指して走り出す。無数の小妖怪が先陣を切って定岡を追い始めると、それに続いて残りの妖怪達も定岡のいる方へと向かってくる。定岡は壁の近くまでやってくると素早く振り返り、飛来する小妖怪にマシンガンの銃弾を浴びせた。浮遊する小妖怪は次々に撃ち落とされていくが、途中で弾丸が尽きてしまう。定岡はマシンガンを投げ捨てると、引きつった笑い顔を作ってふてぶてしく言った。

「ふ、ふふふ……おいテメーら。ここで大人しく引き返すなら、見逃してやってもいいんだぜ?」

 直後、巨大な地竜が鎌首をもたげて叫び声を上げると、他の妖怪らと共に一斉に襲いかかって来た。

「へっ、そうかいそうかい、だったら仕方ねえ……食らえ俺様の必殺技! うおりゃあああああっ!」

 気合いの声と共に、定岡は全力で逃げ出した。妖の郷で過ごした一ヶ月のサバイバル生活は、彼に類い希なる脚力を与えていたのである。妖怪の群れを引き離し、定岡は広い空間を縦横に動きながら追撃をかわしていたが、ただ逃げていたわけではなかった。定岡はタイミングを見計らって、走りながらスーツの内側に施しておいた仕掛けの糸を引っ張る。すると身体に括り付けていた手榴弾のピンが全て抜け、地面に転がった。一カ所に集まっていた妖怪の群れはことごとく爆発に巻き込まれ、巨体の地竜も皮膚におびただしい傷を負い、地面に横たわって動きを止めていた。

「へっ、どーよ! おめーらとはココの出来が違うんだよ!」

 頭を指しながら勝ち誇る定岡だったが、突然背筋に冷たい物が走るのを感じ、咄嗟にその場から飛び退く。すると定岡が今まで立っていた地面から、横たわっている地竜と同じものがもう一匹、地面を食い破って飛び出してきた。あのまま立っていれば、つま先からひと呑みにされていただろう。全身からドッと汗を噴き出しつつも、一ヶ月の極限状態で鍛えられた定岡の直感は、まだ危険が去っていない事を全力で告げていた。事実、地面や周囲の壁からは、同じような化けミミズが次々と姿を現し、十匹近くにまで数を増やしていたのである。

「な、なんてこった、ここは奴らの巣だったのか。武器もほとんど残っちゃいねえし……か、帰りたい」

 化けミミズの群れに囲まれて、定岡は自分の運の無さを心底嘆く。もはや手持ちの武器はほとんど無く、仮に弾薬が揃っていた所で、これだけの化けミミズを相手にするには力不足だった。定岡は死にものぐるいで逃げ回るのが精一杯で、反撃に転じる余裕はまったく無かった。

「ち、ちくしょう、これだけは危なっかしくて使いたくなかったのによ……ぜえ、ぜえ」

 化けミミズに弾き飛ばされて地面に転がった定岡は、汗と埃にまみれた顔を上げて忌々しげに呟いた。定岡は周囲に悟られないよう、懐から伸びている糸に目をやりながらチャンスを窺っていた。周囲には化けミミズが集まり、周囲をぐるっと取り囲んで定岡を狙っている。

(まだだ、ギリギリまで引き付けねえと――)

 次の瞬間、化けミミズが一斉に雪崩を打ったその時、定岡も矢のように飛び起き、紙一重で化けミミズの噛み付きをかわすと、素早く頭の上によじ登った。

「くらえ、コイツが最後の奥の手だ!」

 定岡が懐の糸を思いきり引っ張ると、スーツの背中側から金属製の円盤のような物がするりと出て、地面に落下する。化けミミズはその物体を気にも留めず、頭上によじ登った定岡に食いつこうと殺到し、もつれたうちの一匹が円盤を踏みつけた。その途端、手榴弾とは比較にならない大きな爆発と轟音が響き渡り、その場にいた全てを吹き飛ばした。その衝撃は凄まじく、洞窟全体が震えて天井の一部が崩れ落ちてくるほどだった。定岡の姿も煙に巻かれて見えなくなり、後に残ったのは粉々に砕け散った化けミミズの残骸ばかりだった。定岡が爆発させた円盤状の物体は、対戦車地雷を改造した強力な爆弾の一種だった。

「なっ、なんや今のごっつい音と衝撃は!? おい定岡、無事なんか!?」

 小部屋で氷を溶かし続けていたヒザマも、この異変に驚きを隠せず、何度も定岡の名前を呼んだ。しばらくして、小部屋の入り口からゆっくりと中に入ってくる影があった。ヒザマは炎を吐いているために顔が動かせず、穏やかでない気分であったが、辛うじて視界の端に映るその姿は、生地があちこち破れて薄汚れたスーツ姿の定岡だった。

「あー、くっそ、体中が痛てえ……今度ばかりは本気で死んだと思ったぞ……」

 爆発の瞬間、定岡は折り重なる化けミミズの真上にいた。そうすれば地雷が爆発しても、足元の化けミミズが衝撃を引き受けてくれるだろうと、咄嗟に考えたからだ。それでも無事でいられるかどうかは、まさしく一か八かの賭けであった。爆風に巻き込まれた定岡は全身がちぎれそうな衝撃と音を浴び、玩具のように宙を舞ってから地面に叩き付けられはしたものの、紙一重の所で深刻なダメージを免れたのである。

「な、なんや生きとったんかいな。それならそうと、はよ言わんかい」
「あ? よく聞こえねえ。爆発のせいでさっきから耳がキンキン鳴ってるし、目も霞んでよく見えねえんだよ」
「おのれにしては珍しく、身体張ったみたいやな。ちょっとは根性あるやんけ」

 ヒザマは内心で胸を撫で下ろし、照れ隠しをするように小声で呟く。定岡は相変わらず目や耳の調子がよくないらしく、目をこすったり、耳の穴を指でほじったりしていて、まったく聞いていない様子であったが。

「それよりも、氷は溶けたんだろうな?」
「そ、それがやな……あとちょっとの所まで来てるんやけども」
「なんだとう!? 俺がこんな目に遭って頑張ってたっつーのに、まだ終わってねーだとう!? これはちょっと許されませんぜ、ヒザマさんよ?」
「まあまあ、落ち着きや。あと一息で溶かせそうなんやけど、これがまた最後の最後でしぶといんや。もっと大きな火でもあれば、一気に行けそうなんやけどな」
「……どこにそんなもんがあるんだ」
「せやから苦労しとるんやないかい」
「わーったわーった、俺は疲れたから、少し休憩させてもら――」

 定岡がその場に座り込もうとしたその時、小部屋の入り口に張ってあった結界に、何かが激しくぶつかる音が響いた。驚いてその方向に目をやると、魚や虫、鳥の死骸が奇怪に変形したような小型の妖怪が、結界にぎっしりと張り付いてこちらを睨み付け、ギャアギャアと騒いでいた。一匹一匹は大した大きさではないが、とにかく数が多く、結界の向こう側がほとんど見えない程である。

「どっ、どっから出てきやがったんだ!?」

 わずかな隙間から結界の向こう側を見る事が出来たが、妖怪は何もない所から湧いて出たのではなかった。バラバラに飛び散った化けミミズの破片が、小さな妖怪となって再び動き出していた。むしろ小さな妖怪が集まって化けミミズになっていたと言う方が正しい。妖怪が殺到した結界はあっという間に歪み、亀裂がどんどん広がっていく。すでに武器弾薬は尽き、これだけの妖怪を相手にする体力も定岡には無い。このままではすぐにでも結界は破られ、妖怪が一斉に雪崩れ込んできたら、骨も残らず食い尽くされてしまうだろう。

(くそったれ、いつもこうだ。あと少しの所でツキが逃げちまいやがる)

 外に通じている場所はこの入り口だけで、他に逃げ道はない。チラリと後ろを見れば、炎を吐き続けてその場から動けないヒザマの姿が見える。こういう場合、定岡の脳裏には反射的に閃く思考があった。どうやってこの状況から逃げおおせるか――ということである。極貧の少年時代、ひどいいじめを受け続けて育った定岡は、他人をまるで信用しない大人となった。だから我が身のためならどんな嘘も口にするし、平気で他人を裏切りもする。そうやって世を渡り歩きながら「騙される奴が馬鹿なんだ」と固く信じ込んで今まで生きてきたのである。

(いや、俺一人なら……悪く思うなよ)

 衝動的に手を伸ばそうとして、ふと定岡は動きを止める。

(泣きべそかいて逃げてるうちは、良いコトも近付いちゃ来ないって母ちゃんが言ってたっけな。なんで今頃こんな言葉を……)

 思い返してみれば、チャンスが逃げていくと思う出来事はいつも、先に定岡が諦めて逃げ出していた。口先と屁理屈で逃げ回ることは数え切れないほどあっても、全力で困難に立ち向かった事は一度も無かったのである。

(そうだよ、分かってたんじゃねえか。俺はずっと、負け犬になる事を自分で選んでたんだ。それを認めるのが嫌で、ツキがねえとか言い訳をしてたんだ)

 自分自身の不甲斐なさを自嘲する定岡だったが、ふと思い出して懐をまさぐってみると、ポケットの中から黄色っぽい透明の液体が入った小瓶が出てきた。

(確かこいつは……ちっ、いざとなったら妖怪にぶっかけてトンズラしようと思ってたのにな。ったく、やっぱり今日は人生最悪の日だぜ)

 定岡はすぐさま瓶の蓋を開け、中身を身体にふりかけると、ヒザマが吐き出している炎の中に突っ込んだ。その途端、身体にふりかけた液体は勢いよく燃え上がり、定岡の全身が炎に包まれた。瓶の中身は、悪霊や低級の妖怪が嫌う成分を含んで燃え上がるよう、調合した油であった。

「ちょっ、なにをしとんねん!?」
「ぐああああ……ひ、火を止めるんじゃねえぞヒザマ! これだけ火があれば一気に溶かせるだろ!?」
「せ、せやけどやな」

 定岡は扉を閉ざしている氷にしがみついて、ありったけの声で叫ぶ。

「やれえぇぇぇヒザマああぁぁぁぁ!! ぁぁああ熱ッぢいいぃぃぃぃぃッ!」
「待っとれや、すぐ終わらせたるさかいな! コケェェーーーーーッ!!」

 ヒザマは全ての妖力を放出し、定岡の身体で燃え上がる炎を何倍にも膨れ上がらせると、氷めがけて一気に吹き付けた。勢いを増した炎によって氷の表面は急速に溶け始め、最後は粉々に砕け散り、全て蒸発してしまった。定岡の身体を包んでいた炎も同時に消えていたが、彼の全身は焼け焦げており、ぴくりとも動かず前のめりに倒れ込んでいた。ヒザマは定岡の顔の前まで飛んでいくと、けたたましい声で呼びかけた。

「おい、大丈夫かいな! なんちゅう無茶するねん!」

 しつこく呼びかけると、定岡は火傷だらけの顔だけを向け、息も絶え絶えといった様子で返事をした。

「い、急げヒザマ。早く扉の向こうに行って、弁天を呼んで来い。結界もすぐに破られちまうぞ……」
「……お前、ホンマに定岡か? なんか拾い食いして当たったんとちゃうやろな?」
「いいから早く行けっつーの!」

 ヒザマは定岡の言葉に従い、目の前の扉を押して開くと、その奥へと飛んでいった。扉の奥には小さな祭壇があり、そこには一本の美しい琵琶が祀られていた。

「おーい、いてるんやろ弁財天はん! 表で龍神が暴れてるさかい、力を貸してや!」

 ヒザマが呼びかけると、立て掛けられた琵琶がひとりでに音を奏で始め、柔らかな光を放ち始めた。気が付くとそこには、美しい生地の着物と透き通る羽衣を身に纏い、濡れたように艶のある黒髪の美しい女が、琵琶を抱いて座っていた。



「よくぞ封印を解いてくれました。私の名は弁財天……この地を守護する女神です」
「えらいべっぴんさんやな、でへへ……って、それどころやないねん。表で龍神が暴れとって、それから仲間が死にかけとるんや」
「事情は察しています。少し前の事ですが……ある者がここを訪れました。姿こそ人と同じでしたが、人の領域を遙かに超える、恐るべき力の持ち主です。その者は眠りについていた龍神を目覚めさせるべく、色々と仕掛けを施していました。私がその事を咎めると、にべもなくここへ封じられてしまったのです」
「黒崎の奴やな。神様まで封じ込めるとは、とんでもないやっちゃで」
「それから大地の異変が起き、龍神が目覚めてしまったにも関わらず、私は身動きが取れないでいたのです」
「まあまあ、そないな話は後でエエから、ワイの仲間を助けたってや」
「ええ、それでは参りましょう」

 弁財天は宙に浮いたまま、滑るように移動すると、全身に火傷を負って倒れ込んだ定岡に手をかざした。すると焼けただれた肌は元通りに回復し、定岡は何事も無かったように起き上がり、不思議そうに自分の身体を確かめた。

「おおっ、痛くねえぞ? 一体どうなってんだこりゃあ。あんたが弁財天か?」
「それは私を解き放ってくれた礼です」

 立ち上がって、手足を振ったり飛び跳ねたりして調子を確かめる定岡に、ヒザマが近付く。

「そない動き回ってええんかいな。火傷は治ったみたいやけど」
「おう、すこぶる快調だ。腹一杯食って飲んで、たっぷり寝た翌日の目覚めみてーに、実に爽やかな気分だぜ」
「しかしまあ、おのれにあんな根性があるとは思わんかったで」
「妖怪にかじられて死ぬよかマシかと思ったが、生きたまま焼かれるってのも地獄の苦しみだな……もう二度とゴメンだぜ」
「ま、助かってよかったやないか。安心したでホンマ」
「お、なんだお前、俺を心配してんのか? クソ生意気なニワトリだと思ってたが、可愛い所もあるじゃねーか」
「違うわいボケェ! おのれがいなくなったら、ワイに食い物運んでくる奴がおらんくなるからや! か、勘違いするんやないで!」

 非常に分かりやすい台詞を吐きながら、ヒザマはムキになって羽をばたつかせる。

「さあ、それでは外へ行きましょう。二人ともじっとしているのです」

 弁財天が琵琶の弦を弾くと、定岡とヒザマの身体がふわりと浮き上がり、周囲が眩い光に包まれた。定岡とヒザマが目を開けると、いつの間にか洞窟の外に運ばれていた。空は真っ黒な雲に覆われ、激しい雨と稲妻が降り注いでおり、海の上では暴れ回る龍神の周囲を、分身した美尾が飛び回り続けていた。ところが龍神もとうとう腹に据えかねたのか、ひときわ激しく吼えて強烈な冷気を空に向かって噴き出すと、降り注ぐ雨がゴルフボールくらいの雹へと変化し、猛烈な勢いで辺りに降り始めた。雹のひとつが定岡たちの近くに落下したが、足元の岩が砕けて形が変わってしまうほどの威力だった。

「げっ!? こんなもんが直撃したら……冗談じゃねーぞ!」

 事実、龍神の周囲にいた無数の分身は、雹に身体を貫かれて次々と消滅し、その数を減らしていった。さらに追い打ちをかけるように、巨大な口から猛烈な火炎を吐き出し始めた。

「こらアカンで、ごっつ頭に来とるでアレは。猫の姉ちゃんもよう持ちこたえたもんやで」

 定岡を盾にして隠れるヒザマも、龍神の暴れようにすっかりトサカが萎えてしまっていた。弁財天は宙に浮かんだまま、暴れ続ける龍神の姿を悲しげに見つめていた。

「ああ、すっかり我を見失ってしまって。その様子では、あの時の誓いも忘れてしまったようですね……分かりました、なんとかやってみましょう」

 弁財天は音もなく空高くへ舞い上がり、龍神のいる方向へ飛んでいく。分身を全て破られ、龍神の猛火を耐えるのに妖力のほとんどを使い切ってしまった美尾の傍に、淡い光に包まれた弁財天が降り立った。

「よく耐えましたね、妖の娘よ。後は私にお任せなさい」

 弁財天は荒ぶる龍神を前にまったく臆する様子もなく、目を閉じて琵琶を奏で始めた。澄んだ音色が辺りに響き渡ると、荒れ狂っていた嵐が次第に弱まり、空を覆っていた雲が晴れていく。真っ赤に染まった龍神の両眼に弁財天の姿が映ると、瞳から急速に敵意が消えていく。龍神は響き渡る音色に聞き入っていたが、次第に異変が起こり始めた。体中の鱗が剥がれ、それは空中で人魂に変化して上空へと消え去っていく。美尾は激しく消耗していながらも、この光景に驚きを隠せないでいた。

(龍神の邪気が浄化されていく……それにしても、あの鱗が集められた魂で作られていたなんて。それもこの魂の匂い……どれも欲深い人間のものばかりだわ。黒崎が穢れた魂を選んで集めていたのは、これが理由だったというのか……)

 妖術に長けた猫又でさえ、聞いた事もない術だった。仮に思いついた所で、それを実現させるには途方もなく長い時間と労力が必要である。目の前で起きている現実に、美尾はあらためて黒崎の得体の知れ無さに戦慄していた。やがて全ての鱗が剥がれ落ちると、龍神の肉は光の粒となって消え、残った骨も崩れ去って、海中深くへと沈んでいった。弁財天は琵琶を奏でる手を止め、定岡たちに優しい眼差しを向け、告げた。

「今回のことは、本当に感謝しています。しかし、まだ大地の異変が収まったわけではありません。私は再び地の底へ赴き、空間の裂け目を繋ぎ止めるよう力を尽くします。人と妖の身でありながら、臆せず異変に立ち向かったそなたらのことは、私の記憶に留めておきましょう。それでは……」

 そう言い残して、弁財天は琵琶を弾きながら海中へと沈み、消えていった。ほどなくして、海にそびえ立っていた光の柱は徐々に小さくなっていき、やがて糸のように細くなって消えてしまった。

「やれやれ、やっと終わったか……今回ばかりは本気で死んだと思ったぜ」

 定岡は深いため息をつき、胸ポケットから潰れてグシャグシャになった煙草の箱を取り出した。中身は大半がバラバラになってしまっていたが、どうにか吸える一本を見つけ出すと、それを咥えてその場に座り込む。すると煙草の先端に火が付き、静かに煙を立ち上らせた。

「ま、今回は特別やで。久々に熱いモン見せてもろた礼や」
「へっ、お前こそ道ばたに落ちてるミミズでも食ったんじゃねえのか?」
「アホ、ミミズを馬鹿にするんやないで。人間だって漢方薬にしてるし、以外とイケるんやぞ。お前にも今度食わしたろか?」
「いらねーよそんなもん!」
「なんやその言いぐさは! ニワトリの主食ナメんなやコラァ!」

 二人がギャアギャアと言い合っている所へ、ようやく美尾が戻ってきた。着物の生地はあちこちが傷み、美尾もくたびれた様子ではあったが、大きな怪我などはしていなかった。

「よくやってくださいました二人とも。どうにか全員無事に役目を果たせたようです」
「当たり前やんけ、このヒザマ様がいてるんやで。ワイの活躍を見せてやりたかったわ」

 羽を広げて得意気な顔をするヒザマに、定岡が煙草の煙を吐きながら言う。

「オメーは火を吐いてただけじゃねーか」
「なんやとう! ワイがおったからこそ氷の封印を溶かせたんやないか!」
「その間、誰が命がけで時間稼ぎしてやったんだ? ん?」
「ほほう……ケンカ売っとるなら買うたるで?」

 お互いに額をグリグリさせながら睨み合う定岡とヒザマに、美尾は普段通りの平坦な口調で言い放つ。

「くだらない言い争いはお止めなさいませ。弁財天様が見ておられるのですよ」

 ヒザマの顔を手で押し返しつつ、定岡は疲れたように呟いた。

「ま、後は他の連中が上手くやってんのを祈るしかねーな……っていうか、あいつらがミスったら俺の手柄も意味が無くなるじゃねーか! 絶対にしくじるんじゃねーぞ!」

 いつもの調子に戻り、海に向かって力いっぱい叫ぶ定岡の後ろ姿を、ヒザマと美尾は呆れたように眺めるのであった。




 霊園奥の山頂では、禰々子と謎の妖怪が戦いを始めており、少し離れた樹木の影で明里が様子を見守っていた。明里は遮光器土偶にも似た姿の正体不明のこの妖怪を、祠に刻まれていた文字から「荒覇吐(あらはばき)」と呼ぶことにした。荒覇吐は黒塗りの剣を手に、無言のまま楕円形をしたの両眼を赤く光らせているばかりである。

「はぁ、はぁ、一体どうなってるんだい……!」

 怪訝な表情を浮かべているのは、終始攻めに徹していたはずの禰々子だった。禰々子は果敢に攻め続けていたのだが、何度殴りかかっても拳が空を切ってしまうのである。

「頑張って禰々子さん、ファイトよ!」

 後ろの方から声援を送る明里に、禰々子はうんざりした声で返事をした。

「やってるんだけど、妙な動きでスルスル逃げ回られて、ちっとも触れないのよ」

 禰々子の言う通り、荒覇吐の動きは不自然で奇妙なものだった。禰々子が踏み込むと、荒覇吐は地面を滑るように後退し、常に一定の距離を保っている。攻撃を受け流されるという以前に、荒覇吐との距離を縮めることが出来ないのである。



「せめて離れてても届く武器とか術でもあれば……」
「あるにはあるんだけどねえ。道具に頼るのはあまり好きじゃないんだけど、この際そうも言ってられないか」

 禰々子はポケットから小さな袋を取り出すと、縛ってある紐を解いて中身を左手に乗せた。それはパチンコ玉と同じくらいの鉄の玉で、そのうちの数発を右手親指の爪に乗せた。河童族には間合いの離れた敵への攻撃手段として、石などを高速で撃ち出す「飛礫(ひれき)」という技があるが、禰々子は携帯の利便性と貫通力に優れた小さな鉄球を用意していた。

「さてと。こいつを食らっても、まだ涼しい顔してられるかしらね!」

 いくつもの鉄球が、続けざまに親指から弾き出された。禰々子の驚異的な力で放たれるそれは、拳銃の弾丸を超える貫通力を持ち、打撃が通じにくい相手への有効な攻撃手段となる。しかし荒覇吐は特に避ける動作も見せず、直撃するかと思えた鉄球は全て荒覇吐の目の前で止まり、落下することもなく空中に固定されていた。そして荒覇吐の両眼が明るく光った途端、まるで逆再生のように禰々子が発射した軌道を同じ速度で、彼女めがけて跳ね返ってきたのである。

「な……うわっ!?」

 禰々子は咄嗟に横へ飛び退いて直撃は免れたが、一発が腕をかすめ、ツナギの下の皮膚が裂けて血が流れ出す。流れ弾のうち数発は、明里が隠れている樹木を直撃、ちょうど彼女の頭上あたりを貫通していった。恐る恐る幹を見上げると、綺麗にくり抜いたような穴がいくつも空いており、ゾッとした明里は慌てて頭を低くしてその場にしゃがみ込む。

「ひええっ、危なかった……」

 禰々子は荒覇吐から距離を取って身構え、険しい表情を浮かべていた。身体に傷が付いた事よりも、相手が何をしたのかまるで見えなかった事が問題だった。荒覇吐は彼女の鉄球に反応を示さず、結界で防御している様子もないが、玉は全て禰々子めがけて跳ね返ってきたのである。

「くっ、とりあえずもう一発っ!」

 禰々子は再度、走りながら一発だけ撃ち込んでみたが、やはり鉄の玉は荒覇吐の目前で止まり、狙い澄ましたように顔面めがけて跳ね返ってきた。禰々子は素早く顔を逸らして避けるが、髪の毛が数本切れて宙を舞った。

「……そう、小細工は通じないってワケ。面倒な奴だねえ」

 禰々子は破れたツナギの袖を引きちぎると、手を握ったり開いたりして傷の具合を確かめる。血は出たが大した事は無く、禰々子が腕に力を込めると血も止まった。禰々子が「ふぅ」と小さく息を吐いたその瞬間、彼女の腕が伸び、荒覇吐の頭部をわし掴みにしていた。

「う、腕が伸び……え!?」

 離れて見ていた明里には速すぎて何が起きたのかさっぱり見えなかったが、気が付くと禰々子の腕が倍以上に伸びて、荒覇吐を捕らえていた。荒覇吐の身体はひんやりとして冷たく、鋼鉄のように硬い感触だった。

「これがホントの奥の手、なーんてね。河童が手足をある程度伸ばせるって事、知らなかったみたいだねえ。こうなったらもう逃がさないわよ」

 禰々子が指先に力を込めると、金属が軋むような音が響き、荒覇吐の頭部に指がめり込んでいく。荒覇吐は三本の指しかない機械のような左手で禰々子の腕を掴むが、禰々子の腕はびくともせず、スッポンが食らいついたように離れなかった。その間にも禰々子の指が少しずつ食い込んでいたが、荒覇吐は取り乱した様子もなく両眼の奥を光らせた。

「えっ?」

 すると急に禰々子の身体が浮き上がり、まったく踏ん張りが効かなくなった。荒覇吐は禰々子の腕を掴んで軽々と彼女の身体を持ち上げると、弧を描いて反対側の地面へ叩き付けた。その勢いは凄まじく、禰々子の身体を中心に周囲の地面が窪んでしまう程だった。さらに何度も叩き付けられ、禰々子の身体は徐々に地面にめり込んでいく。

「ぐっ……ちょ、調子に乗るんじゃないよ!」

 地面に叩き付けられながらも、禰々子は手を離してはいなかった。伸ばした腕を一気に縮めて荒覇吐に近付くと、その勢いを乗せた強烈な頭突きを見舞う。荒覇吐の頭部は大きくへこんで変形し、そのまま後ろに倒れる体勢になったが、禰々子はすかさず荒覇吐の胴体を抱え、両手を組んで力いっぱい締め上げた。

「また距離を取られると面倒だからね。逃がしゃしないわよ!」

 禰々子の怪力によって、荒覇吐の胴体は激しく軋み、亀裂が生じ始める。荒覇吐が手にしている剣も、これだけ密着していれば振り回すことが出来ないのも計算のうちだった。ところが突然、鋭い何かが次々と禰々子の身体を貫いた。

「……ッ!?」

 それは荒覇吐の全身から飛び出した、無数の鋭い刃だった。全身を貫かれた禰々子は苦痛に顔を歪めながらも、荒覇吐の胴体を力一杯蹴り、後方へ飛び退いて刺さった刃を引き抜く。禰々子は体中から血を吹き出しながら、その場に片膝を付いてしまう。

「この置物野郎……よくもやったわね」

 憎らしげに呟きながら顔を上げる禰々子だが、それを見ていた明里はもっと驚いていた。

「ちょっと、大丈夫なの!?」
「へ、平気よ……妖怪はちょっと刺されたくらいじゃ死んだりしないわ」
「で、でも」
「危ないから顔出すんじゃないの。他にどんな攻撃をしてくるか分かんないんだから」

 禰々子は明里が顔を引っ込めるのを見届けると、注意深く荒覇吐の様子をうかがった。体中から飛び出した刃は音もなく引っ込んでいき、元通りの姿に戻っていく。荒覇吐は黒い剣を握りしめたまま、足音も立てずにゆっくりと近付いて来る。

「さて、どうしたもんかしら。鉄の弾は跳ね返ってくる、苦労して密着しても体中から刃が飛び出してくるし……反発する磁石みたいに逃げる動きさえどうにか出来れば、なんとかなるんだけどねえ」

 禰々子の呟きを聞いた明里は、ハッと思い付いたように自分の周囲の地面を調べ、普通の小石と、禰々子が弾いて反射された鉄の球を見つけ出した。明里はその二つを拾うと、こっそり荒覇吐のいる方向へ投げてみた。小石は荒覇吐の足元近くまで飛び、特に変化も無く地面に落ちた。続けて鉄の球を投げてみると、球が荒覇吐に近付いた途端、見えない何かに押し戻されるようにして跳ね返ってくる。それを見た明里は、目一杯の声で禰々子に言った。

「禰々子さん、金属よ! 荒覇吐はきっと、金属を自由にコントロール出来るんだわ。製鉄の神様だったって言うくらいだし、きっとそういうのが得意なのよ!」

 禰々子はツナギの袖が残っている右腕と、肩まで肌が露出した左腕を交互に見比べ、納得した表情を浮かべる。

「……なるほど、そういうワケかい」

 禰々子は残った右の袖を引きちぎり、荒覇吐めがけて無造作に投げつけた。すると荒覇吐の目前で袖は宙に浮いたまま止まり、一拍おいて跳ね返ってきた。禰々子はそれを手で受け止めると、袖のジッパーをみて確信を得る。

「やっぱり明里ちゃんの言う通りみたいだねえ。だから弾を跳ね返したのと同じように、金具の付いた服を着てる私も間合いに入り込めなかったわけだ。古い神様って事らしいけれど、歯ごたえがありそうじゃないか」

 禰々子はツナギの胸元を掴み、力ずくで生地を破りながら脱ぎ捨てると同時に、本当の姿である河童の姿へと変身していた。緑色の肌と頑丈な甲羅で身を包み、金色に光る両眼で荒覇吐を睨み付け、禰々子は言った。

「久々に本気で暴れられそうだわ。それなりに覚悟はしてもらうよ!」

 禰々子は地面を蹴り、放たれた矢のように突進した。金属製品を身体から外した事で、狙い通りに荒覇吐の懐へと踏み込んでも逃げられない。禰々子は一瞬姿勢を低くし、そこから伸び上がる勢いを利用した、天へ突き上げるような大振りのアッパーを放つ。荒覇吐は両脚を動かして素早く後ろへ飛び動き、紙一重でそれを避けたが、今までとは回避の方法が明らかに変わっていた。禰々子はチャンスと見るや、矢継ぎ早にパンチを繰り出して荒覇吐を追い詰めにかかる。

「す、すごい。もしかしたら……!」

 離れた場所で見守る明里も、禰々子の猛烈な勢いに「このまま押し勝てるのでは」と期待したのだが、そう簡単に事が運ぶほど甘くはなかった。荒覇吐は禰々子の拳を片手で受け止めると、両眼をひときわ赤く輝かせた。次の瞬間、凄まじい衝撃が周囲に広がり、続けて周辺の物を根こそぎ吹き飛ばすような暴風が巻き起こった。

「がはッ!」

 禰々子は身体の芯まで響くダメージを受け、勢いよく吹き飛ばされて地面に落下した。離れた場所にいた明里でさえ、まるで台風のような衝撃にとても立っていられず、近くの樹木にしがみついて耐えていたが、その木でさえ根こそぎ吹き飛ばされそうになっていた。

「くっ、明里ちゃん!」

 禰々子は口元に血を滲ませつつ、飛ばされそうになった明里の元へ駆け寄ると、彼女を抱きかかえて地面に伏せた。直後、明里がしがみついていた木は半分に折れたうえ、根こそぎ遠くへと飛んでいってしまった。

「大丈夫かい明里ちゃん」
「え、ええ、なんとか。助けてくれてありがとう」
「それにしてもなんて奴だい……妖力を解放しただけでこうなるなんて、神様の肩書きは伊達じゃないって事かしらね」

 禰々子や明里が浴びた衝撃波は、荒覇吐が妖力を解放した際に生じた、いわば副産物のようなものであった。それだけでこの威力という事実は、二人を戦慄させるのに充分すぎる程であった。禰々子は明里が狙われないようにとすぐにその場を離れ、明里も近くの茂みの影に身を隠した。荒覇吐にも明里の存在は見えているはずだが、明里のいる方向を一瞥しただけで、戦う力の低い彼女を積極的に狙う様子は見られず、戦う意志を剥き出しにする禰々子の方へと足を向けた。

「いい心がけじゃない……あんたが卑怯者じゃなくてちょっと安心したよ」

 そう言って笑う禰々子の口元には、血が滲んでいる。衝撃波の直撃を受けたために、骨や内臓に軽くないダメージを負ってしまっていたのである。荒覇吐は両眼を爛々と赤く輝かせ、動きの鈍った禰々子に向けて剣を振り下ろす。禰々子は全身に走る激痛に耐えながら飛び退いたが、剣の切っ先は地面から突き出した岩を真っ二つにし、そのまま地中深くまで切り裂くほどの威力だった。

「くっ、こいつ……!」

 土か鉄で出来たような外見を裏切るように、荒覇吐の剣は飛燕のように滑らかで素早く、隙がなかった。禰々子は全身を突き刺された事も含めてダメージが蓄積しており、避けるのが精一杯だったが、それをずっと続けるのも残された体力的に不可能だった。

(このままじゃジリ貧ね。手負いのままじゃどうやったって分が悪い相手だわ。一瞬でいいから時間を稼がなきゃ)

 禰々子は一計を案じ、荒覇吐が半分に叩き割った岩の片割れを土から引き抜いて持ち上げ、力任せに投げつけた。彼女の読み通り、金属でない岩は跳ね返って来なかったが、その代わりに荒覇吐は素早い連続斬りで応じ、人間と同じくらいの大きさもあった岩は、サイコロのように細切れになってしまった。

「……」

 荒覇吐は相変わらず無言だったが、岩から禰々子に視線を移すと、禰々子は明里が投げてよこした小さなバッグを受け取り、中から小さな瓶を取り出して飲み干した所だった。すると禰々子の身体にあった無数の刺し傷は綺麗に塞がり、顔にも生気が満ち始めた。

「河童印のドリンク剤、って奴さ。効き目は御覧の通りだよ」

 傷が癒えた禰々子は、バッグにもうひとつ入っていた大きめの水筒を手に取ると、蓋を開けて中身を一気に飲み干した。今度は薬ではなく、中身はただの水であった。

「ったく。丸腰の女に向かって、よくも刃物振り回してひどい目に遭わせてくれたわね。あんたの剣が凄いのはよーく分かったから、こっちもとっておきを見せてあげるわ」

 禰々子はそう言って口元に手を当てると、何かを掴む仕草をして腕を伸ばす。すると禰々子の口から、水で出来た槍のようなものが現れた。長さ一四〇センチ、直径は三センチほどで、両端が尖っているだけのシンプルな形をしているが、透き通った水の槍はほのかに青く輝き、宝石のような美しさを備えていた。禰々子は自ら作り出した水の槍を握り締めると、素早く数回振り回して荒覇吐に先端を向けた。

「私たち河童は水の妖。水を操るのは得意だけど、私ならこういう使い方も出来るのよ。忠告しといてやるけど、こいつをただの棒きれだと甘く見ないことだね!」

 禰々子は力強く地面を蹴り、裂帛の気合いを込めた突きを荒覇吐に見舞う。荒覇吐も素早く剣を振り上げて迎え撃つが、岩をも容易く両断する切れ味を持つ荒覇吐の剣は、水で出来た槍を切断する事が出来なかった。剣の切っ先は槍の側面に少し食い込んでいたが、一部が少し変形しただけで、槍自体にはなんの影響もなかった。

「……!」
「表情なんか無くても、驚いた顔してるのは分かるよ。水は刀で斬られても、形がちょっと変わるだけですぐ元に戻るんだ。自在に姿を変える水の恐ろしさ、これからたっぷり思い知らせてあげるよ!」

 禰々子は嵐のような勢いで、荒覇吐に向かって水の槍を打ち付けた。武術家のような洗練された動きではなかったが、元々の身体能力の高さと自慢の腕力が加わり、先程とは打って変わって、荒覇吐が守りを固めざるを得ない状況になっていた。禰々子の重い一撃を受け止めた荒覇吐は、両脚が地面にめり込んでしまい、腕や胴体にも細かい亀裂が走り始めていた。禰々子は荒覇吐を棒越しに両手で押さえ付けながら、相手の様子を確かめつつ言った。

「さすがに効いてきたみたいだね。私の打ち込みを全部受け止めたのは感心するけど、ただの槍じゃないって言ったのを忘れたんじゃないだろうね」

 突如、水の槍は蛇のように形が変わり、荒覇吐の顔面に巻き付いて締め上げた。荒覇吐がそれに気を取られた一瞬、禰々子は荒覇吐の胸元めがけ、渾身の力を込めた拳を叩き込んだ。寺の鐘を鳴らしたような重い音が響いた直後、荒覇吐の胸元に細かいヒビが走り、とうとう砕けて大穴が空いた。荒覇吐は糸が切れた人形のように仰向けに倒れると、その動きを止めた。

「お、終わった……のかな?」

 様子を見守っていた明里は、恐る恐る顔を出す。禰々子は荒覇吐をじっと見つめたまま動かず、近寄り難い雰囲気だったので、明里もその場から動こうとは思わなかったが、ふと後ろの方から気配を感じて振り返ると、禰々子の手下の河童たちが五、六人ほど集まって、山頂へ登ってくるのが見えた。

「お頭、こっちはあらかた片付きましたぜ! もうじき他の連中も集まってくるはずでさあ!」

 斜面を登っている河童の先頭で意気揚々と手を振るのは、霊園の入り口で明里に挨拶をした痩身面長の河童だった。墓地をうろついていた黄泉軍の群れを倒し、こちらへ加勢しようとやってきたのである。特に大きな被害もなく勝利出来たことにホッとしたのも束の間、突然山全体が鳴動して地面が揺れ、光の柱の輝きがさらに増し始めた。

「なっ、なんなの?」

 やがて揺れが収まり、しゃがみ込んでいた明里が顔を上げて周囲の様子を確かめると、墓地の方で何かが光ったように見えた。目を凝らしてその方向を見ていると、一筋の光が空に向かって走り、明里の目の前まで飛んできて地面に突き刺さった。

「うひゃっ!?」

 それは古びた剣で、墓地にいた黄泉軍らが手にしていた物であった。しかもそれだけで異変は終わらず、墓地の方から飛来した大量の剣や槍が、雨の如く空から降り注いできた。明里や禰々子は無事だったものの、加勢に来た河童のうち、何人かは手足に傷を負ってしまった。そして剣と槍の雨が止むと、桁違いの妖気が山全体を包み込む。

「ものすごい妖気だわ……なにが始まるの?」
「みんな気を付けな、なにか仕掛けてくるよ!」

 禰々子が叫ぶと同時に、仰向けに倒れていた荒覇吐は前触れもなく起き上がり、左手を前方にかざす。すると周囲の地面に突き刺さっていた剣や槍が、吸い付くようにして荒覇吐の左手に集まり、荒覇吐はそれらを一握りで粉々に砕き、胸に空いた穴の中へ放り込んだ。直後、荒覇吐の身体全体が高熱を帯び、赤々と輝き始める。風に吹かれて舞い上がった木の葉が荒覇吐に触れると、あっという間に燃え尽きて灰となってしまう。胸の穴に放り込まれた剣や槍は、熱した飴のように溶けていき、さながら溶鉱炉を思わせる光景だった。取り込んだ剣や槍が全て溶けると、荒覇吐の胸に空いた穴は元通りに塞がってしまい、そのうえ取り込んだ鉄の量だけ身体が巨大化し、最後には元の状態から二回り近くも大きくなってしまっていた。

「くそっ、亡者の兵隊を倒せば、それだけこいつが強くなるエサが増えるってわけ!?」

 荒覇吐を見上げながら吐き捨てる禰々子に向かって、文字通り真っ赤に燃えた荒覇吐の両眼が向けられる。そして音叉を鳴らしたような金属音が響き渡ると、その音に混じって無機質な声が聞こえてきた。

「遙カ昔……我ヲ祀ル民ハ討タレ、ソシテ我ノ名ト信仰モ忘レラレタ。虫ケラノ如ク蹂躙サレシ民ノ無念、ソシテ我ガ恨ミ、今コソ晴ラシテクレヨウ」

 荒覇吐が言い終わると、輝きを増した光の柱から無数の人影が現れる。それは墓地を徘徊していたのと同じ、武器を手にした黄泉軍の群れだった。彼らは雄叫びを上げ、明里や禰々子、手下の河童たちに襲いかかった。禰々子は大きく飛び退いて明里の近くに駆け寄ると、近くにいる黄泉軍を片っ端から蹴散らして明里を守っていた。周囲では墓地での戦いを終えた他の河童が次々と合流し、黄泉軍の大軍と正面から激突して乱戦状態となっていた。

「私は妖怪だし、あんたとその一族の恨みなんて知ったこっちゃないけどね……売られたケンカは買わせてもらうよ!」

 禰々子は高く飛び上がり、荒覇吐の頭部めがけて水の槍を振り下ろすが、荒覇吐が剣を払うだけで、羽虫のようにたやすく払い退けられてしまう。しかも身体が赤熱化しているために、近付いただけで皮膚が焼けてしまう程であった。

「くそっ、さっきとは速さも重さも桁違いじゃないの! こいつは今の今まで、まるで本気じゃなかったってのかい……!」

 続けて振り下ろされる荒覇吐の剣を槍で受け止めた禰々子だが、巨大化した荒覇吐の凄まじい圧力で、今度は彼女の両脚が地面にめり込んだ。並の武器であればとても耐えきれず、今の一撃で真っ二つにされていただろうと禰々子は思った。荒覇吐は剣に込める力を増しながら、ある変化を起こしていた。荒覇吐の身体は徐々に黒っぽい色へと変わりつつあったが、それは身体が冷めたのではなく、全身に帯びていた熱が剣へと移動していたのである。荒覇吐が握りしめる剣は全体が赤熱化して猛烈な熱を放ち、剣に触れている水の槍はあっという間に沸騰を起こしてしまう。妖力で形作っているおかげで蒸発こそしないが、槍を持つ禰々子の両手は焼け爛れていく。そしてもうひとつ、彼女にとって深刻な問題が起きていた。

「うぐっ……なんてこと……!」

 両手が焼ける痛みと同時に、高温によって身体の水分が失われていく。水の妖怪である河童にとって、水分を失うことは生命力を失うのと同じであった。手足からは力が抜け、視界も霞む。禰々子はその場に膝を付いてしまい、耐え続けるのも限界に達していた。

「くそっ、干上がって死んじまうなんて、河童のいい笑い物だよ」

 離れて見ていた明里にも、禰々子が絶体絶命の窮地に追い込まれている事が痛いほどに伝わって来る。禰々子を助けなければと思いはするのだが、それを実行しようとするとどうしても足がすくむ。

(ダメよ明里、ここで頑張らなきゃ。筆塚くんだって、ずっとこんな状況で助けに来てくれたんだもの)

 明里はなけなしの勇気を心の支えに、意を決して禰々子の元へ走り出す。力尽きかけた禰々子が、とうとう最期かと覚悟を決めたその時、背後から明里がしがみついてきた。

「なにしてるの明里ちゃん! あんたまで巻き込まれちゃうわ。今のうちに早く逃げるのよ!」
「ううっ……確かにものすごく熱いし怖いけど……でも何もしないで一人だけ逃げるなんてイヤよ」
「こいつは並大抵の妖怪とはワケが違うのよ、そんなこと言ってる場合じゃ――!」
「私だって一ヶ月間、術の練習してきたんだもの。お荷物になるために付いてきたんじゃないわ」

 明里は両手を禰々子の背中に当てると、素早く意識を集中し、腕を通して禰々子の身体に自分の霊力を送り込む。最初は何も起こらないように思えたが、わずかな間を置いて、禰々子の体内で異変が起きていた。

「こ、これは……力が漲ってくる……!?」
「あんまり長続きしないけど、これでパワーアップ出来たはずよ。今のうちにどっかーんとやっつけちゃって!」

 明里が言うように、禰々子の身体には不思議なほどの力が湧き上がっていた。霊妙力と呼ばれる明里の特殊な霊力が、禰々子の能力を倍加させていたのである。

(す、凄いわねこれは。剣の重さがずいぶん楽になったわ。だけどこれだけじゃ、荒覇吐を仕留めるのは無理そうね……ありったけの力をぶつけて勝負を決めるしかないわ。チャンスは一度――!)

 禰々子は自らの妖力を限界まで放出し、それを両手足に込めて爆発させた。

「うりゃああああああああーーーッ!」

 裂帛の気合い一閃、禰々子は大岩のような重圧で迫る荒覇吐の剣を押し戻すと、さらに力を込めて一気に弾き返した。

「もらったぁッ!」

 すかさず禰々子は、がら空きになった荒覇吐の胴めがけて水の槍を水平に叩き付けた。荒覇吐はトラックと正面衝突したように大きく吹き飛び、光の柱の中心に落下する。禰々子は間髪入れずに高く跳躍し、残った全ての力を水の槍の先端に込め、荒覇吐の胴体に突き刺した。串刺しにされて地面に縫い止められた形になった荒覇吐は、水の棒を引き抜こうと手を伸ばしたが、素早くその場から飛び退いた禰々子は口元に笑みを浮かべて言った。

「そうそう、さっき人間から聞いた話を思い出したんだけどね。狭い場所に閉じ込められたまま沸騰した水は、外に出て蒸発した途端に、凄い爆発を起こすんだってさ。私の槍も、あんたのおかげで死ぬほど熱くなってるんだけど……ここで私が術を解いたら、どうなるんだろうねえ?」
「……!?」

 荒覇吐が水の棒を引き抜くよりも早く、禰々子は水の槍を形作っていた妖力を解除した。刹那、轟音と共に荒覇吐の身体は粉々に砕け散り、破片が周囲に散乱した。形を保っていたのは荒覇吐の持っていた剣だけで、他はまるで原形を留めていないほどバラバラになっていた。光の柱が出現していた場所には魔方陣のような紋様が描かれていたが、爆発によって半分以上が消し飛んだせいか、光の柱は徐々に細くなりはじめていた。

「ふう、やれやれ。皮膚は焼けるわ髪は焦げるわで散々だったけど……仲間の犠牲もなく勝てたのはラッキーだったわ。もしも鉄だらけの街中でコイツとやり合ったら、とてもじゃないけど勝てる気がしないね。ありがとうね明里ちゃん、あんたの力は大したもんだよ」

 禰々子が振り返って笑顔を浮かべると、明里も緊張の糸が解けたのか、その場にへたり込んでため息をついた後、顔を上げて笑った。

「あー、怖かった。一時はどうなるかと思ったけど……これで光の柱も消えるのよね?」
「ああ、多分ね。思ったより単純な仕事で助かっ――」

 その時、禰々子の左胸から黒く尖った物が飛び出した。それが何なのか、明里も禰々子もすぐには理解出来なかったが、禰々子の背後に立つそれの姿を見て、明里は言葉を失った。

「……!」

 禰々子の後ろにいたのは、半身だけの荒覇吐だった。目を疑う明里が見たものは、ひとりでに集まってくっつき、元の形へと復元していく荒覇吐の破片だった。禰々子に突き刺さった剣は正確に心臓の位置を貫いており、荒覇吐は乱暴に剣を引き抜くと、禰々子の身体を掴んで無造作に投げ捨てた。

「な……こ、こいつ……不死身なの……か……」

 禰々子はなんとか立ち上がろうとするが、急所を貫かれてはひとたまりもなかった。妖怪であるが故に即死はしなかったものの、かろうじて意識を保っているのが精一杯であった。そして元の姿に戻りつつある荒覇吐を見て、ようやく禰々子は気が付いた。

(しまった、本体は剣の方だったのかい……)

 荒覇吐の妖力は、黒い剣からひときわ強く放たれており、それを浴びた破片が吸い寄せられるように集まっていたのである。禰々子は這うようにして近付こうとするが、身体を動かした途端、肺に溢れた血が口から噴き出し、大量に血を吐いて血溜まりに顔を埋めた。

「ごふっ……ガハ……ッ……!」
「あ……ああっ……!」

 完全に元通りの姿を取り戻した荒覇吐は、明里に向かって左手を伸ばす。その時、無数の影が素早く荒覇吐に飛び掛かった。

「この野郎、よくもお頭を!」

 それは異変に気付いた、数人の河童達だった。彼らは荒覇吐の手足にしがみついて動きを封じようとしたが、荒覇吐は慌てる様子もなく身体を赤熱化させて河童の身を焼き、さらに体中から刃を飛び出させて彼らを貫いた。

「ぐわあああっ!」

 たまらず地面に転げ落ちた河童達に、荒覇吐は容赦無く剣を振り下ろしていく。凄惨な光景に明里は気を失い、やがて動く者がいなくなると、荒覇吐は身体の発熱を止め、明里を捕らえて抱え上げたまま、音もなくその場から消えてしまった。

「ち……くしょう……明里ちゃ……みんな、ごめ……ん」

 その言葉を最後に、禰々子の意識はぷつりと途切れた――。
       




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