魂筆使い草助

第十二話
〜光の柱(一)〜



「――そして朝比奈市に現れた光の柱のうち、特に大きなものがこの四カ所じゃ」

 八海老師は印が入れられた地図を見せ、それぞれの場所を指し示す。赤いペンで丸く囲まれている場所は、朝比奈市の中心にある鳩岡八幡宮、その東にある大霊園、観光地として有名な江ヶ島、そして梵能寺からほど近い、道楽坂切通しという古戦場跡であった

「八幡宮には草助と鞍真殿に向かってもらう。言うまでもなく妖の郷がある場所じゃが、どういうわけか妖怪たちが弾き出されてしまってな。その調査もせねばならん。大霊園には禰々子と明里お嬢ちゃん、江ヶ島には定岡とヒザマ、美尾が向かってくれ。残る道楽坂はワシが行く。他の小さな光の柱に関しては、蓮華宗の僧侶に任せればよい。これらの光の柱を消すことが出来れば、大地は安定を取り戻し、空間の歪みも収束に向かうはず。そうなれば黒崎の目論見も食い止めることが出来るじゃろう」

 目的地までは蓮華宗の車で運んでもらう手筈だが、禰々子だけは「こっちの方が早いから」と、普段乗り回しているバイクの鍵を指先で回して返事をした。八海老師の指示に異論を挟む者は無かったが、草助は心配そうな表情を浮かべている。

「なんじゃ草助、言いたいことがありそうな顔じゃな。不満でもあるんか?」
「不満というか、ちょっと不安で。老師なんて一人ですし、こんな少人数で本当に大丈夫なんですか?」
「ワシの心配など十年早いわ。それとも代わりに、お主が一人で行ってくれるんかのう?」
「うっ、それは……」
「よいか皆の者、ここからが正念場じゃ。黒崎も野望の成就のために、あらゆる手を打っておるはずじゃからな。これから向かう先には、相当手強い相手が待ち構えておるじゃろう。くれぐれも油断するでないぞ」

 話も終わり、それぞれが用意された黒塗りの車に乗り込もうとする直前、明里が草助に声を掛けてきた。彼女も不安を隠せない様子で、浮かない表情をしていたが、その理由は人数の少なさとは別の原因によるものだった。

「気をつけてね筆塚くん」
「僕なら大丈夫さ。すずりもいるし、心強い味方もいることだし」

 と、草助は傍らの鞍真に目をやって笑顔を作るが、明里の表情は晴れない。

「ううん、そうじゃないの。上手く言えないんだけど……悪い予感がするの。この先、今よりもっと大変な事が起こりそうな気がして」
「ああ、黒崎はまだ奥の手を隠しているに違いないからね。危なくなったら、とにかく逃げることだけ考えるんだ」
「うん……」

 そう言っているうちに、禰々子の跨ったバイクが排気音をうならせて近付き、急ブレーキを掛けて二人の前にピタッと止まる。禰々子はバイクに跨ったまま、草助の肩をポンポンと叩きながら言う。

「明里ちゃんの事は私に任せといて。そっちこそヘマするんじゃないわよ」
「分かってる。彼女のこと、よろしく頼むよ」

 明里は不安げに手を振ると、バイクの後ろに乗って禰々子にしがみつく。禰々子と明里を乗せたバイクは派手な排気音を響かせながらあっという間に走り去ってしまった。

「じゃあ俺たちも行くとするか。ここで派手に活躍して、一気に俺の名を上げてやるぜ。ガッハハハ!」
「後でワイの武勇伝にビビるんやないで。ほなな!」

 意気揚々と車に乗り込む定岡とヒザマに続いて、美尾が草助の前にやってきて、ぺこりとお辞儀をする。

「あのお調子者たちは、私がしっかり見張っておきますので。筆塚さまもご武運を」

 そう言うと美尾は、品のある動作で振り返って車に乗り込んだ。定岡たちを乗せた車が走り出すと、草助の乗る車が目の前にやってきた。すずりと一緒に後部座席のドアを開けて中に入ると、草助は運転手がどことなく見覚えのある後ろ姿をしていることに気が付いた。

「あれっ、あなたは確か……」
「よう、例の一件以来だな」

 肩幅の広い、がっしりとした体格の若い男は、朝比奈警察署の伊吹刑事であった。よく見てみれば、車内には無線機が取り付けられていたりと、普通の車とは少し違う雰囲気である。草助に続いて車内に乗り込んできた鴉天狗の鞍真を見て、伊吹は一瞬表情を引きつらせるが、すぐに気を取り直して前を向き、アクセルを踏んで車を走らせた。草助は人の気配が無い景色を眺めつつ、伊吹に訊ねた。

「どうして伊吹さんが梵能寺に?」
「状況の報告をしに来てたんだよ。この地域の警察官はみんな、避難する市民の誘導に当たってる。街中に妖怪が溢れるだなんて考えもしなかったが、こうした状況に備えた避難経路や市民の移動手段が、朝比奈市にはあらかじめ用意されてたんだよ。で、この話を警察の上層部や市長と取り決めていたのが蓮華宗という組織で、計画の発案者が八海の爺さんってわけだ。おかげで避難は順調に進んでるが、やはり蓮華宗が手を貸してくれているのが大きいな」
「そうですか。それじゃあ被害は少なくて済んでるんですね」
「それともうひとつ。お前らの行き先でなにが起きているのか、俺もこの目で確かめておきたい。もしかしたら小杉をやった奴がいるかも知れないからな」
「えっ、そりゃ危ないですよ。この前よりずっとまずい状況だし、肉吸い以外にもどんな妖怪が出てくるのか分からないんですから」

 伊吹はしばらく黙り込んでいたが、声のトーンを落として返事をした。

「分かってる。俺にはお前たちのように、妖怪をやっつける力なんてないからな。朝比奈署に取り残された同僚を迎えに行くついでだ」

 ほどなくして、草助たちを乗せた車は大通りを走り、八幡宮まで残り百メートルあまりの場所にある警察署へとやってきた。普段は観光客や地元の人間が絶えず行き交う光景は、様々な姿形をした妖怪の群れに取って代わられていた。草助と鞍真を降ろした後で車から出てきた伊吹は、変わり果てた周辺の光景を眺めながら忌々しげに吐き捨てた。

「ちっ、想像以上にウヨウヨしてやがる。とてもじゃないが仇を捜してる余裕はなさそうだな。すまんが俺が近づけるのはここまでらしい」
「ええ、もう充分ですよ。ありがとうございました」
「俺は署の中にいる同僚を拾ったら、一旦ここを離れる。お前らも気をつけろよ」
「伊吹さんも気をつけて。危なくなったらすぐに市の外へ避難してください」
「バカを言うな。警察官が先に逃げ出したら、誰が住人の命と安全を守るというんだ。全員が避難するまで、俺はこの街から出たりはしない」

 ジャケットの内側から拳銃を取り出して握りしめる伊吹を見ながら、あまり喋らなかった鞍馬が口を開く。

「頼もしいことだな、若き人間よ。しかし妖魔に抗う術を持たぬ身では、その意気込みも無駄になってしまうな。だが、お主の心意気は気に入ったぞ」

 鞍真が手をかざすと、伊吹の身体にぼんやりとした光が宿り、身体の中に吸い込まれていく。続けて鞍馬は拳銃の弾丸を渡すようにと言い、それを受け取ると手の中に握り締めて、短い呪文を唱えた。

「……うむ」

 鞍真は握りしめた手を開き、弾丸を伊吹に返した。不思議に思った伊吹が目を凝らすと、弾丸の表面にはびっしりと経文らしき文字が彫り込まれているのが分かった。

「そなたの身体と弾丸に、魔除けの術を施しておいた。妖怪の脅威が迫った時、これらが身を守る助けとなるであろう。だが決して過信はせぬことだ」
「なぜ俺を助けるんだ。お前は妖怪なんだろう?」
「わしはこの一帯に隠れ住む妖怪のまとめ役をしている、鴉天狗の鞍真という者だ。八海殿から、そなたの力になるよう頼まれている。それに、妖怪全てがあの肉吸いと同じだと思われては困るのでな」
「……」
「街の守りは任せたぞ、伊吹とやら。では草助よ、我らは行くとしよう」

 草助と鞍真は伊吹と別れ、八幡宮へ向けて足を進め始めた。往来をうろつく妖怪は、草助たちに気付くと素早く近付いて襲いかかって来たが、鞍真が団扇をあおぐとたちまち突風が巻き起こり、妖怪たちはまとめて吹き飛ばされていく。

「へへ、こりゃ楽ちんでいいや。鞍真、おかわりヨロシクー!」

 と、上機嫌なのはすずりである。文字通り神をも恐れぬ物言いに、草助は冷や汗をかきながらったしなめる。

「こら、妖怪のお偉いさんに向かって、なんて態度なんだ」
「態度? 別に普通じゃん?」
「普通ってあのな……」

 呆れる草助に、鞍真は少し笑って「構わぬ」と言った。

「そなたは知らぬだろうが、我らは古くからの付き合いでな。このような軽口はいつものことである」
「そゆこと。今じゃずいぶん出世したけど、アタシは鞍真がまだ駆け出しの下っ端だった頃からよーく知ってるんだから」

 ケラケラ笑うすずりとは対照的に、草助は目を丸くして唖然としている。

「で、妖の郷はどうなってるのさ?」

 すずりが訊ねると、鞍真の顔つきがにわかに険しくなる。

「分からぬ。突如として地の底より強大な力が吹き出し、妖の郷の住人は彼の地より弾き出されてしまった。再び足を踏み入れようとしても、妖の郷を守っていた結界が我らを拒むように働いて近づけぬのだ」
「あーあ、情けない。偉くなったクセに、結界のひとつも越えられないのかい」
「そう言うな。結界にはわしですら手を焼くほどの強い力が働いていて、中でなにが起きているのか見当もつかぬ。だから恥を忍んでお主の力を借りることにしたのだ」
「ったく、世話が焼けるね。誰かさんと同じで、いつまで経ってもヒヨッコなんだからさー」

 すずりは草助をチラリと見ながら、呆れた様子で呟く。真っ直ぐ延びた参道を進み続けると、ついに八幡宮の入り口である大鳥居の前へと辿り着いた。日が暮れたせいもあるが、それ以上に八幡宮の周辺は淀んだ空気に包まれ、遠くに見える八幡宮の本殿辺りから、天に向かって光の柱がそびえ立っている。ただならぬ雰囲気であることは草助にもすぐ分かったが、鞍真の言う結界については、見ているだけではよく分からなかった。

「あのー、結界はどういった具合なので?」
「まあ見ておれ」

 鞍真は術で使い魔のカラスを作ると、大鳥居に向けて飛ばす。カラスが鳥居を通り抜けようとしたその時、使い魔のカラスは雷に打たれたように激しく火花を散らし、一瞬で燃え尽きてしまった。

「見ての通りだ。並の妖怪では触れた途端に灰になってしまい、骨も残らん。この結界を正面から通り抜けようとしたのでは、消耗が激しすぎるのでな」
「なるほど。で、僕になにをしろと?」
「もう忘れたか? 魂筆使いは書いた文字の持つ力を実体化できる。つまり――」
「そうか! 結界を作るだけじゃなく、開けることも出来るのか!」
「そういうことだ。仕方がないとは言え、お前はもう少し自分の能力について知っておくべきだな」
「はは、面目ない。でも鴉天狗ですら苦労する結界を、僕の力だけでどうにか出来るんですかね」
「大丈夫だ。魂筆の技は、力ずくで結界を打ち破るものではない。性質そのものを変化させてしまうものだからな。我々が通る隙間を開く程度なら、霊力の消費も少なくて済む」
「な、なるほど。それじゃあやってみます」

 草助が合図をすると、すずりは紅い筆へと変化して彼の手に収まる。草助は意識を集中しながら、鳥居の真下に展開する見えない結界に「開」の文字を書き込む。するとたちどころに文字は青白い光を放ち、結界を中和して溶けていく。草助は鳥居の中の結界が消えたのを感じ取り、恐る恐る鳥居の向こうへと手を伸ばす。

「……ふう、どうやら成功したみたいだ。それにしても便利な力だなあ、我ながら」

 草助は鳥居の先に足を踏み入れ、鞍真を手招きする。鞍真が草助に続いて鳥居をくぐると、二人は眼前に広がる風景を眺めた。鳥居を越えた先は妖の郷であり、参道の脇には木造の古びた建物がずらりと並んでいる。普段はここで妖怪が暮らしているはずなのだが、今は草助たち以外に誰もいない。

「なんというか……思ってた感じと違うような。いつものパターンだと、敵が潜んでる場所は嫌な気配がプンプンしてるんですが」
「ああ、むしろ清らかな霊気に満ちておる。だがこれは……!」

 突如本殿へ向けて走り出した鞍真を追い、草助も走り出す。二人が本殿へと続く石段の手前に差し掛かった時、突然鞍真が立ち止まり、草助を制止した。

「止まれ草助よ。来るぞ!」
「え……おわっ!?」

 鞍真は草助の奥襟を片手で掴み、そのまま持ち上げて素早く後ろに飛び退いた。それとほぼ同時のタイミングで、突如地面から火柱が吹き出して来た。鞍真に引っ張ってもらわなければ、今頃炎に包まれていたはずである。安堵したのも束の間、鋭い視線を感じて階段の上を見上げると、狐のお面が宙に浮かんでいた。狐のお面は左右に大きく動きながら階段を下りてきたが、徐々に白く大きな獣の身体が浮かび上がり、火柱を飛び越えて草助たちの目の前に着地した。

「な、なんだ?」
「あ奴はこの地に祀られた神を守護する神獣だ。普段はあまり姿を現したりしないのだがな」

 お面がそのまま顔になったような白狐は、虎をさらに一回り大きくしたような身体を持ち、低く構えてじっと草助たちを睨み付けている。

「なんだかすごく威嚇してるように見えるんですが」
「下がっておれ。わしが話をしてみる」

 鞍馬は一歩前に出て、白狐に話しかけた。

「なぜ我らの行く手を阻む。大人しく主の番に戻るがよい」
「グルルル……!」

 鞍真の問いかけにも、白狐は唸り声を上げるばかりで、一歩も退く気配がない。やがて白狐が天を仰いで遠吠えをすると、青白い火の玉が二つ浮かび上がり、草助と鞍真めがけて飛んできた。

「むっ!」

 鞍真が左腕を振り払うと、火の玉は空中で弾け飛び、周囲に炎を撒き散らして視界を遮った。白狐はその機を逃さず、飛び散る炎の向こうから矢のように飛び掛かり、鞍真の左腕に食らいつこうと迫ったが、鞍真の右手が腰の刀を握り締めて斬り上げの動作に入っているのを見るや、素早く身を翻して方向転換し、再び間合いを取る。このやりとり全てが、ほんの一瞬の出来事であった。

「す、すごい……!」

 呆気に取られつつ感心している草助に、鞍真は険しい表情を白狐に向けたまま言う。

「様子がおかしい。話も聞かずいきなり牙を剥くなど、普段のあやつからは絶対に考えられぬことだ」
「しかし戦ったりして大丈夫なので?」
「うむ、出来れば傷付けたくはないが」

 その時、白狐の後方、石段の上の方から女の嗤い声が聞こえて来る。

「ホホホ、遠慮はいらないよ。思う存分戦ったらどうだい?」

 声がした方に目を向けると、翡翠色のドレスとヒールで着飾った女が、二人を見下ろしていた。その派手な姿と悪意が滲む声を、草助はハッキリと憶えている。

「お、お前は肉吸い!? なんでこんな所に!」
「思った通りノコノコやってきたわね、筆のボウヤ。ここはもう私のものになったんだよ。もっとも、こんな古臭い館や貧乏くさい妖怪の町なんて趣味じゃないけどね。後で全部ぶっ壊して、派手で豪華な屋敷でも建ててやるさ。それと私のことは翠子とお呼び」

 翠子の言葉に怪訝な顔をしたのは鞍真である。白狐の動きに気を配りつつ、鞍真は訊ねた。

「わしはお前のような下品な妖怪に、郷を明け渡した憶えはない。いつ、どこからここへ入り込んだ?」
「おや、誰かと思えば鴉天狗サマじゃありませんこと。腑抜けた妖怪どもをかき集めて面倒を見てやってたそーで、ご苦労さん。天狗ってのは暇なのかい?」
「質問に答えよ。白狐がこのような有様なのも、貴様の仕業か」
「さあて、どうかしらねえ。知りたければ力ずくで口を割らせたらどうだい?」
「よかろう。その言葉、後悔せぬことだ」

 鞍真は真っ黒な翼を広げ、羽根を数本引き抜くと、手首を返すようにして翠子に投げつける。妖力を帯びた羽根は弾丸のような速度で、眉間や心臓の位置を正確に狙って飛ぶ。しかし翠子に命中する直前、羽根は青白い炎に包まれて、空中で燃え尽きてしまう。白狐の神通力が、翠子を守ったのである。

「ホーッホッホ、残念ねボウヤ。先にこのケダモノを片付けなきゃいけないようだねえ」
(白狐が肉吸いを守った……やっぱり正気を失って操られているのか。しかし八幡宮の守護を任されるほどの神獣が、簡単に支配されたりするんだろうか?)

 草助が思ったのと同様に、鞍真の瞳にも疑惑の色が浮かんでいた。高笑いをする翠子に鋭い視線を送りながら、鞍真は後ろに立つ草助に小声で言う。

「白狐はわしが引き付けておく。お主は肉吸いを叩いてくれ。奴を倒せば、白狐も正気に戻るかもしれん」
「わかりました、やってみます」

 鞍真は白狐の注意を引くように、付かず離れずを繰り返して戦い始める。その隙に草助は、高みの見物を決め込む翠子に向かって駆けていく。

「今度は逃がさないぞ。お前たちの企みもここまでだ」
「それはこっちの台詞だよボウヤ。あの時の屈辱、倍にして返してやるよ!」

 翠子が掌を地面に向けて妖気を放出させると、地面がどす黒い色に染まって歪み、そこから身の丈が三メートルはあろうかという邪鬼が六匹も出現した。いずれも振り乱した髪の奥から真っ赤な瞳を光らせ、不潔な灰色の肌と、口から牙が飛び出した凶悪な面構えをしている。

「やっぱり仲間を呼ぶのか。ずるいぞ!」
「私はラクに勝つのが好きなのさ。手っ取り早けりゃ、方法なんてどうだっていいんだよ」

 翠子が草助を指すと、六匹の鬼が一斉に襲い掛かる。巨体ながら動きは素早く、猛獣のような爪が伸びた腕を振り降ろしてくる。以前の草助ならたまらず逃げ出していたところだが、鞍真との厳しい稽古がここで生きてきた。鞍真が繰り出す素早く無駄のない斬撃に比べ、邪鬼の大振りな攻撃はどれもスローに見え、落ち着いて見極めることが可能だった。

(よし、これなら全然大したことないぞ。確かこういう場合は――)

 距離を取ろうとすれば、別の邪鬼に行く手を遮られて追い詰められてしまう。そこで逆に、草助は自分から相手の懐に飛び込んだ。密着状態では小回りが利く草助の方が有利に動けるし、目の前の邪鬼の身体が盾になって、他の相手からの打撃も届かない。草助は間髪入れずに邪鬼の胴を筆で薙ぎ払うと、素早く次の邪鬼の懐に飛び込んで筆の一撃を見舞うという動作を繰り返し、四匹の邪鬼を続けざまに退治してしまった。あっという間に仲間がやられた事で、残る二匹の邪鬼は足を止め、動揺する様子を見せていた。

「ふん、雑魚とはいえ邪鬼をあっさり片付けるなんて、相変わらず忌々しい技を使うわね。だけどこれでも同じ顔してられるのかねえ」

 後ろで見ていた翠子は、舌打ち混じりに言うと、ロウソクの火を消すように口をすぼめ、邪鬼の背中越しに息を吹きかけた。翠子の息は緑色のガスとなって広がり、草助の目の前にいる邪鬼二匹を包み込む。その吐息に触れた途端、邪鬼は目や鼻、口から体液を吹き出して激しく苦しみ始めた。

「うっ!?」

 草助はすぐに袖で口と鼻を塞ぎ、後ろに下がって緑色のガスから距離を取る。

(草助、その息に触れるんじゃないよ! 肉を腐らせ、生き物を殺す魔風の術だよ!)
「ひええっ!?」

 青ざめた草助の目の前で、邪鬼はのたうち回ったあげく、体中の肉がドロドロに溶けて死んでしまった。後には白骨が残るばかりだったが、それも少しずつ崩れているのが見える。

「あ、危なかった。こんな奥の手を隠していたのか」
「舐めるんじゃないよボウヤ。私が肉を吸い取るだけの妖怪だと思ってたのかい。ちゃーんとこういう術も使えるんだよ」
「仲間を巻き添えにするとは、なんて非道な奴なんだ」
「ハッ、お笑いだね。図体がでかいだけで人間一人も仕留められないクズどもなんて、死んで当然じゃないか」
「お前……!」
「焦らなくても、すぐそいつらと同じにしてやるよ!」

 翠子は再び猛毒の息を吐き出した。草助は口元を押さえたまま走り出すが、ガスに周囲を囲まれてしまった。

「くっ……!」
「もう逃げ場が無いようだねえ。お前の肉も吸い取ってやりたい所だけど、その筆に近付くと面倒なのは知ってるからね。そのまま腐れ果てておしまい。ホーッホッホホ!」
「……それはどうかな?」

 草助は身構え、翠子に不敵な笑みを向ける。

「ふん、強がりはおよし。筆を振り回すしか能のないボウヤに、なにが出来るってんだい。私があと一息吹けば、お前はもうお終いなんだよ」
「試してみるかい? その代わり、覚悟はしてもらうぞ」
「ふん、やれるもんならやってごらん!」

 翠子はひときわ強く、草助めがけて息を吹き付けた。充満した緑色の毒霧に包まれ、草助の姿は見えなくなる。翠子は特に変化が無いのを見るや、勝ち誇ったように高笑いをした。

「ホーッホッホ、ハッタリなんてこの翠子様には通用しないのよ」
「……魂筆八法、犀角。邪鬼を払い、魔を浄化する!」

 翠子は耳を疑ったが、草助の声が聞こえると同時に、目の前の毒霧が割れて消滅し、筆を構える草助が現れる。彼の五体無事な姿が信じられない翠子だったが、その一瞬の動揺が大きな隙となってしまった。

「今だっ!」

 草助はすかさず、斬撃を飛ばす技「虎牙」を放った。逆袈裟に振り上げられた三日月型の軌道が、離れた翠子を斬りつけた。

「ぎゃああああっ!?」

 翠子は危険を感じて避けようとしたが間に合わず、右手首から先が飛び、顔と胸にも切り傷を負って絶叫した。

「男子三日会わざれば刮目せよ、なんてね。以前と同じと思って甘く見たのが敗因さ」

 厳しい修行が役に立ったと内心で喜ぶ草助だったが、この肉吸いという妖怪は油断ならない相手だと自分に言い聞かせ、じっと相手を見据えて次の動きに備えていた。

「ぐうううっ、私の手が、顔が……! このクソガキぃぃぃッ!」

 翠子の傷口から溢れるのは赤い血ではなく、ドロドロに溶けた汁だった。腐った肉とそっくりな臭いで、わずかに嗅ぐだけでもひどく不快な気分にさせられる。

「さあ観念するんだ。黒崎の居場所を教えてもらおうか」

 問い詰めようと草助が一歩踏み出したその時、石段の上にある神殿から、強烈な霊力の波動が放たれて空気を揺らす。すると翠子は突然、狂ったように嗤い始めた。

「アハハハハハハ! クク……ヒィーッヒヒヒヒ!」
「な、なんだ!?」
「やっとお目覚めかい。こんな目に遭ってまで時間稼ぎした甲斐があったってもんだよ……せいぜい粘って、これから出てくる奴の相手でもするんだね!」

 翠子はそういい残し、躊躇う素振りも見せずに跳躍し、池のある方角へと飛び去っていく。草助もすぐ後を追おうとしたが、凄まじい波動が地面を激しく揺らし、立っているだけで苦労するような有様だった。

「くっ、一体なにが起こってるんだ」

 草助は仕方なく、白狐の相手をしている鞍真の方に目をやった。鞍真は空を飛びながら、素早い動きの白狐と一進一退を繰り返していたが、白狐は急に戦うのをやめて、階段の上にある神殿へと引き返す。その直後、目を開けていられないほどのまばゆい光が、神殿から解き放たれて辺りを包み込んだ。

「ううっ……!」

 しばらくして草助が目を開けると、階段の上に見慣れぬ人物がいるのに気が付いた。神道の白い着物と朱の袴、金の髪飾りと玉石の首飾りを身に付けた美しい女性で、目を閉じたまま宙に浮かんでいる。普通の人間でないことはすぐに分かったが、草助には彼女の正体にまるで心当たりがなく、鞍真に近付いて訊ねた。

「あの女性、誰なのか知ってますか?」

 鞍真はいつになく強張った表情で女性を見つめながら、絞り出すような声で言った。

「おお、なんという事だ!」
「あの女の人は一体誰なんです?」
「あれは……あの御方は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)……人間に分かりやすい名前で呼ぶならば稲荷神だ」
「稲荷神って、よく神社で祀られてるあのお稲荷様ですか? だとしたら有名な神様じゃないですか」
「まずいぞ……もしもあの方が、白狐と同様に正気を失っているとしたら」

 鞍真の言葉が途切れると、階段の上にいた女性はゆっくりと両眼を開く。その瞳は秋の稲穂を思わせるような金色に燃えており、白狐の背に腰を下ろしながら言葉を発する。


「わらわを呼び覚ましたるは誰ぞ。ああ……我が身体に満ちたる欲と憎悪のうねりはなんとしたことか。母なる大地を穢す愚か者ども……その身を以て、我が憤りを思い知るがいい」

 底知れぬ威厳に満ちた声に、草助は思わず身がすくんでしまう。今まで出会ってきた妖怪とはまるで性質の違う、桁違いの迫力である。彼女の声は穏やかでありながら、同時に尋常でない不穏な気配を孕んでいた。

「あ、あのー、なんだかとんでもない雰囲気なんですが。こっち見てますよ」
「豊穣の地母たる神が姿を現し、まして正気を失う程の異変となれば、もはや人間や妖怪が単独で成し遂げられる範疇を超えている。となれば考えられる事はただひとつ……黄泉の岩戸が開きかけ、地の底で障気が溢れ出しているのだ。他の大きな光の柱でも、ここと同様に眠っていた神霊が目覚めている可能性は極めて高い。あの黒崎なる者がそう仕向けたのであろうが」
「そ、それじゃ他の皆は!?」
「……信じるしかあるまい、仲間を。我々とて他者を案じている余裕はないのだ」

 一段と険しい表情を浮かべた鞍真は、女性に向かって身構えたまま草助に言った。

「あの御方の相手をするには、人間のお主には荷が重すぎる。ここはわしが引き受けるから、草助は逃げた肉吸いを追え。迷い無く御霊の池に向かった所を見ると、そこに奴の狙いがあるはずだ」
「御霊の池って、以前僕が老師に突き落とされたあの池ですか?」
「そうだ。あそこは魂筆の始まりの地でもある。これ以上のことは、お前が自分自身の目で確かめるのだ。さあ、早く行け!」

 鞍真の言葉に従い、草助は走り出す。逃げた翠子の目的が言葉通りなら、草助たちを足止めをしておきたかった理由があるという事でもある。

(きっと……いや、間違いない。黒崎はここにいるんだ)

 核心に近付きつつあるという予感が、地を蹴る草助の足に力を込める。だがそれすらも仕組まれたものであるという事を、草助はまだ知る由もなかった。




 八幡宮から東に向かうと、朝比奈霊園という大規模な墓地がある。一周するのにバスで十五分という広大な敷地は、整然とした区画分けがなされ、隅々まで手入れが行き届いている。春であれば、中央を南北に流れる小川沿いに桜並木も見られる程で、昼間は墓地と聞いて連想される雰囲気とは無縁の場所である。だが日が暮れた今は墓地の例に漏れず、街灯のない墓地は暗闇と静寂ばかりが広がり、人間の本能に不安を抱かせる場所に違いなかった。

「うう、やっぱり怖いなあ」

 霊園の入り口では、バイクから降りた明里と禰々子が霊園の様子を窺っていた。光の柱は、ちょうど入り口とは正反対の、北東部にある山の上にあり、そこから空に向かって伸びていた。墓地は光の柱によって全体がぼんやりと薄紫の光を浴びて、ずらりと並んだ墓石が姿を浮かび上がらせている。そして得体の知れない大勢の人影が、墓地の中を彷徨っているのが見て取れた。彼らはボロボロの鎧兜に身を包み、剣や槍を手にしている。一部は墓地の奥へと向かう通路に陣取り、先に行かせまいと立ち塞がっていた。

「ねえ、あれってやっぱり……」

 困った表情を浮かべる明里に、携帯電話を手にした禰々子は、気怠そうに返事をする。

「光の柱の影響で、あの世から這い出してきた亡者の集団ってトコね。武装してる所を見ると、確か黄泉軍(よもついくさ)って連中だったかしら」
「ヨモツイクサ……日本神話で、黄泉の国から逃げるイザナギ神を追い掛けたっていう?」
「あら、よく知ってるわねえ」
「妖怪退治に役立つかと思って、色々と昔話や神話を調べてたから。美尾にも話を聞いたりして、色々勉強したのよ」
「えらいえらい。説明の手間が省けて助かるわ。墓地から外には出てこない所を見ると、誰かの命令に従って動いてるのは間違いなさそうだね」

 目に見える範囲だけでも、数十人以上という数である。墓地の広さを考えれば、百人単位で同じ亡者がいると考えるのが自然だろうと禰々子は続けた。

「で、でも、ここを通り抜けないと光の柱まで行けないんでしょ? こんなにオバケがいっぱい居るのに、私たち二人だけで大丈夫なの?」
「あんな雑魚がいくら集まったって負けやしないけど、さすがに全部相手してたら面倒だもの。ちゃんと手は打ってあるわ」

 禰々子がそう言ってからほどなくして、黒塗りの車が次々と現れ、彼女たちの近くに停まった。蓮華宗の車とは別物らしく、降りてきた連中の姿も袈裟姿の僧侶ではなく、黒いスーツに身を包んだ男たちである。最終的に数え切れないほどの人数が集まると、彼らは禰々子を前にして一斉に頭を下げた。

「お待たせ致しやした、お頭。きっちり全員揃ってやすぜ」

 一歩前に出て挨拶をしたのは、痩身で面長の、背の高い男だった。長く濡れたような髪で顔の上半分が隠れ、表情は見えなかったが、人数の多さに目を丸くしたままの明里に気が付くと、痩身の男は口元に愛想笑いを浮かべて見せた。

「ああ、驚かせちまったようで申し訳ない。あっしらは全員、お頭の舎弟でしてね。お頭が一声掛ければ、関東一帯からこれだけの仲間が集まるってワケでさ」

 言い終えた痩身の男が下がると、禰々子と明里はバイクから降り、

「さてお前たち。私はあそこに見える光の柱を消さなきゃならないんだけど、見ての通り邪魔な亡者どもがウヨウヨしててね。お前たちには連中の相手を頼みたいのさ。腕っ節で鳴らした禰々子一家に、怖じ気づいて逃げ出すような奴はいないだろうね?」

 禰々子が訊ねると、彼女の手下たちは声を揃えて「おう!」と威勢の良い返事をする。

「久しぶりの大一番だ。気合い入れなお前たち!」

 禰々子の号令で、手下たちは一斉に河童の本性を現すと、墓地を徘徊する亡者に飛び掛かっていった。武装した亡者も武器を振りかざして応戦し、夜の墓地は一転して乱闘現場と化していく。武装した黄泉軍と素手の河童では、こちらの分が悪い戦いになるかと思われたが、黄泉軍の動きは河童よりも遅く、身に付けた武器も古びていて質が悪いため、河童の甲羅を貫くどころか折れ飛んでしまうような有様である。つまり、状況は有利に進んでいた。

「さて、今のうちに私たちも急ぐよ」
「は、はいっ」

 指を鳴らしながら足を踏み出す禰々子の後を、明里も恐る恐る付いていった。周囲では河童と黄泉軍の戦いが繰り広げられており、その間を突っ切るようにして禰々子と明里は墓地を駆け抜けた。途中、墓石の間や地面から飛び出して襲いかかってくる黄泉軍もいたが、全て禰々子が自慢の怪力でことごとく投げ飛ばし、明里に矛先が及ぶような事は起こらなかった。禰々子と明里は無事に墓地を通り抜け、光の柱がそびえ立つ山の頂上へとやってきた。そこには伸び放題の雑草に埋もれた、小さな石造りの祠がひとつあるだけで、祠の後ろで巨大な光の柱が輝いている以外になにも見当たらなかった。

「ずいぶん寂れてるみたいだけど、こんな場所にお参りに来る人がいたのかしら。それに光の柱を消すには、どうすればいいんだろう」

 明里は祠に近付いて中を覗き込んでみたが、苔生した小さな石が積まれているだけで、手掛かりになりそうな物は見当たらない。それでも注意深く調べてみると、石の表面にうっすらと文字が刻まれている事に気がついた。明里はしゃがみ込んで石の苔を払い、文字を読んでみた。

「うーん、消えかかってて見づらいなあ……荒……吐……これ以上はダメね。それっぽい妖怪の名前はあったかしら」

 明里は肩に掛けていたバッグから手帳を取り出し、パラパラとめくり始める。手帳には妖怪の名前や特徴がびっしりと書き込まれていて、五十音に並べてあるという念の入りようである。何枚かページをめくった後、明里はそれらしき妖怪の名前を見つけた。

「あ、あったあった。荒覇吐神(あらはばきのかみ)……きっとコレね。えっと、なになに……荒覇吐とは、蝦夷の一族が信仰していた神で、道祖神の一種や製鉄の神であるとも言われているが、その由来や伝承には不明な点が多く、正体はよく分かっていない――」

 そこでメモは終わっていた。大した情報も得られずガッカリしている所で、急に禰々子が突叫んだ。

「明里ちゃん、こっちへ戻っておいで!」

 あまりの剣幕に驚いた明里は、言われるまま禰々子の所まで小走りで戻ったが、禰々子は光の柱をじっと睨み付けたまま険しい表情を崩さない。

「……そこにいるのは分かってるんだよ。さっさと姿を見せな」

 禰々子の言葉に応えるように、光の柱の中から人影らしきものが現れた。しかしそれは、人に似て非なる奇妙な姿をしていた。身の丈は二メートル半ほどだが、姿形は遮光器土偶によく似ており、全身が石か陶器のような硬い素材で出来ていた。身体の表面は茶色く光沢があり、細かい模様が刻まれ、金の縁取りがなされている。手も爪の形をした物が三本あるだけで、ガチャガチャと音を立てて歩くその様は、妖怪よりもロボットを連想させた。

「な、何?」

 戸惑う明里を後ろに下がらせ、禰々子は静かな気迫を込めながら話しかけた。

「ひとつだけ聞いておくけど、そこを退くつもりはないんだね?」

 土偶に似た妖怪は無言のまま両眼を赤く光らせ、右手を高く掲げる。すると突然、黒い剣が出現して右手に収まった。剣は不思議な形をしていて、刀身に蛇が巻き付いたような細工が施してある。妖怪は無機質な動きで、切っ先を禰々子に向けた。それが問答無用の意思表示であると、禰々子は受け取った。

「明里ちゃんは下がってて。こんな見た目だけど、コイツってばとんでもなく強いわよ。ヤバくなったら応援頼むからね!」

 言うやいなや、禰々子は土偶に似た妖怪――荒覇吐へと突進していった。




「――皆行ったか。ほいじゃワシもそろそろ向かうとするかのう」

 仲間を全員見送った後、梵能寺に残った八海老師は呟いた。最後の光の柱がある道楽坂は、梵能寺からさほど離れていないため、移動に大した時間はかからない。だが彼がこの場所を選んだのは近いからではなく、場所に問題があったからだった。八海老師が車に乗り込もうとした時、蓮華宗の僧侶の一人に呼び止められ、携帯電話を手渡された。

「ふむ、こんな時に誰からじゃ?」
「八空阿闍梨からでございます」
「む、尊(みこと)か」

 八海老師が電話を耳に当てて返事をすると、穏やかな口調の声が聞こえてきた。電話の相手は蓮華宗の幹部である八空阿闍梨という人物で、八海老師の異母弟に当たる人物である。

「ああ、間に合ってよかった。話を聞いて驚きましたよ。光の柱にあなた方だけで挑むなんて」
「なんじゃ、そんな事を言うために電話してきたのか。相変わらず心配性じゃのう」
「当たり前でしょう。他の方々も含め、街を揺るがす異変に立ち向かうには、あまりにも数が少なすぎる。もう少しの間、こちらが送った精鋭が到着するまで待ってください」
「それが出来んから、こうしておるんじゃろうが。のんきに応援を待っておる間に、朝比奈市は異界に飲み込まれて終わりじゃよ」
「ならばせめて部下を連れてください。一人で挑むなど無謀です!」
「現場はどこも人手が足りんのじゃぞ。ワシなんぞに蓮華宗の人員を割いてしまったら、誰が住民の避難をさせるんじゃ。それにのう……これからワシが向かう道楽坂のすぐ近くには、ちょっとばかり心配事があるんでな」
「道楽寺でしょう。妖怪を封じた巻物を安置、浄化する役割を持つ場所……もしそこの妖怪が蘇っているのなら、尚のこと増援を待つべきです」
「確かに言う通りじゃ。だがワシら法力僧にとって、最も厄介な奴があそこに眠っておるのも知っておろう。万が一の場合、蓮華宗の僧侶を集めておるとかえって都合が悪い。そういうわけで、ワシの事は気にすんな」
「待ってください兄さん、どうしていつもそうやって――!」
「お前が今まで、ワシのためにあれこれと手を回してくれた事には感謝しとるよ。だが今優先すべきは、部下を率いて住人を守り、被害を最小限に食い止める事じゃろうが。老いぼれ一人を気にして判断を誤るようでは、下の者は付いてこんぞ」

 返事を遮るようにして電話を切ると、八海老師は小さくため息をつく。

(気の優しさも昔から変わらんな。後の事は任せたぞ、我が弟よ)

 八海老師が行き先の方角を見上げていると、蓮華宗の車が目の前にやってきて止まる。乗り込んだ車が走り出そうとしたまさにその時、空を裂く殺気が襲いかかって来た。

「むおっ!?」

 八海老師の乗った車は真っ二つに切り裂かれ、運転席と後部座席とに綺麗に分かれてしまう。車から八海老師と運転手が這い出した直後、車のガソリンに火が付いて大きな爆発を起こした。その時、立ち上る炎と黒煙の向こうに揺らめく大きな影を、八海老師は見逃さなかった。

「まさかそっちから出向いてくるとは、恐れ入ったわい」
「ククク……待ってばかりいるのも退屈なんでな。こっちに強い人間の霊気が集まっているから来てみれば、知った顔がいるではないか」
「む、ワシを知っておるのか?」
「歳を取って耄碌したか。これなら思い出すであろう」

 大きな影はいきなり、強烈な妖気を吹き出した。それだけで辺りの物が吹き飛び、周囲にいた蓮華宗の僧侶達もことごとく弾き飛ばされてしまう。八海老師は辛うじて踏み止まったが、その妖力の波動が呼び覚ました記憶に、全身からどっと汗が噴き出すのを感じていた。

「お、お前は!?」

 鋼鉄の仮面に、炎のように赤く揺らめく髪。黒鉄の如き肌を持ち、髑髏の首飾りと異国の鎧を身につけた、片刃の剛刀を携えた屈強な鬼。数十年前、若き日の八海老師が仲間と共に封じたはずの鬼神が、そこに立っていた。

「ずいぶん老いぼれたようだが、我には分かる。貴様の霊力は衰えるどころか、あの頃とは比べ物にならん程に強くなっているようだな。ククク、嬉しいぞ」
「ワシは二度と会いたくなかったよ。お前さんを封じた巻物を道楽寺に安置した時、何重にも結界を施しておいたんじゃが。最悪の出来事が自分から歩いてやってくるとはのう、まったく皮肉なもんじゃ」
「何事にも不測の事態は起こりうるものよ。千年に渡って大地に溜め込まれた歪みを、人間の作った結界が受け止めるなど不可能だ。もっとも、かつてと同じく我が蘇る手引きをした者はいるがな」
「やはり黒崎か。そこまで分かっておるなら、ここは大人しく引っ込んでくれると助かるんじゃが。この異変を鎮めん事には、街どころか世の中が破滅しかねん。ワシらの決着ならその後でもええじゃろ」
「そうはいかん。我を目覚めさせた奴への借りもあるが、それ以上に――」

 羅刹は手にした剛刀を振りかざし、心底楽しそうな笑い声を響かせる。

「我自身が、今この場での戦いを望んでいるからだ!」

 愉悦を含んだ声と共に、羅刹は容赦無く剛刀を振り下ろす――。




 朝比奈市の西側にある江ヶ島の手前に、定岡とヒザマ、そして猫又の美尾を乗せた車がやってきていた。陸地と江ヶ島を繋ぐ橋の前で三人は車から降りたが、江ヶ島の様子を見た定岡は思わず顔を引きつらせた。島は全体が白く凍り付いており、その周囲を取り囲むようにして無数の妖怪や悪霊が空を飛び回っている。問題の光の柱は、定岡たちから見てちょうど島の反対側から、天に向かってそびえ立っていた。

「な、なんだこりゃあ……島が丸ごと凍り付いてやがる」
「雪女の親分でも居るんかいな」

 唖然としている定岡とヒザマの横で、美尾が江ヶ島を真っ直ぐ見つめながら言った。

「島全体から強い妖気を感じます。この現象は妖術によるものでしょう」
「へえ、見ただけで分かるのか。そういやあんたは一体何が出来るんだい、猫の姉ちゃんよ?」

 美尾は丸い宝石のような両眼を真っ直ぐに向け、丁寧な口調で答える。

「私は猫又の美尾。妖の郷の屋敷で使用人をしております。そして――」

 美尾が人差し指を立てた直後、にわかに両眼が輝くと、指先に青白い火の玉が現れた。

「特技は妖術全般でございます。この鬼火の術の他にも、いくつか術を扱えます」

 次の瞬間、火の玉は渦を巻く小さな竜巻となり、続いて氷の塊、最後は綺麗な羽根の蝶へと変身し、定岡の目の前で花火のような音を出して弾けると、火花を散らして消えた。

「以後お見知りおきを」
「お、おう……」

 火の粉を顔面に浴びて仰け反る定岡から視線を移し、美尾は再び江ヶ島に目をやって言う。

「ここでは様子がよく分かりませんね。島が凍った原因を突き止めるためにも、江ヶ島へ赴きましょう」

 定岡も注意深く島の周囲を眺めていたが、特に手強そうな妖怪が見えないと踏むや、美尾に見えないようにニヤリと笑う。

(くっくっく、こりゃあツイてるぜ。周りは雑魚だらけだし、ここでサクッと解決して手柄を立てれば、人生の一発逆転もあるんじゃねーか?)

 ニヤつく顔を手で直しつつ、定岡は真面目な表情を作って頷いた。

「よし、それじゃ行ってみるとするか。ヒザマも準備はいいな?」
「ワイはいつでも戦闘態勢やで! どっからでもかかってこんかい!」

 青いバケツに入ったヒザマは、宙に浮いたまま羽根でシャドーボクシングの真似をする。定岡は車のトランクから大きなジュラルミンケースを持ち出すと、不敵に笑いながら蓋を開ける。ケースの中にはマシンガンや拳銃、様々な種類の手榴弾の他、対妖怪用のお札などの武器がぎっしりと詰まっており、定岡はそれらを身体に括り付けて立ち上がる。

「ひっひっひ、今回は蓮華宗のおごりで、たっぷり武器を用意してもらったからな。遠慮無く暴れてやるぜ!」

 準備を済ませるとすぐ、定岡たちは江ヶ島に向かって足を踏み出した。橋を半分ほど進んだところで、羽根が生えた魚や人面を持つ大きな蟹、人間の水死体にそっくりな妖怪や、周辺を浮遊する悪霊が彼らに気付き、一斉に襲いかかって来た。

「へっ、来やがったな。オラオラ道を空けろテメーら! どかねー奴は蜂の巣にしちまうぞ!」

 定岡は飛び掛かってくる妖怪めがけ、銃弾の雨を浴びせて反撃する。ヒザマも口から炎を吐き出したり、近くの相手をクチバシでつついたりして追い払う。美尾は二人の後ろで、何もせずじっと様子を窺っていた。

「おい、なんでサボってんだオメーは!」

 怒る定岡の言葉をさらりと聞き流し、飛び交う妖怪の中で美尾は平然と答える。

「八海様から、お二人は性根が少々ねじ曲がっていると聞いておりましたので。どれ程の実力なのか確かめさせて頂きました」
「あ、あのジジイ……いつか毛を引っこ抜いてやる」
「戦い方はデタラメで、洗練されているとはとても言い難い……ですが逆に言えば、型にはまらず、予想外の展開が期待出来るといった所でしょうか。さすがにあの森で一ヶ月生き延びただけの事はありますね」

 悠長に語る美尾に、慌ただしく飛び回るヒザマは、トサカを逆立てて甲高い声を出す。

「褒めてんのか、けなしてんのかどっちやねん。つーか忙しいんやから手伝えや!」

 一匹一匹はさほど強くもない相手ばかりだが、とにかく数が多い。討ち漏らした相手の数が増えてくると、美尾がようやく動いた。

「まともに相手をしていてはキリがありませんね。さっさと片付けて先を急ぎましょう」

 美尾の両眼が輝いて妖力が溢れ出すと、妖術によって作られた青白い鬼火が現れる。しかし定岡とヒザマは、その数を見てぎょっとした。出現した鬼火は数十ほどもあり、美尾が指をかざすと一斉に飛んで行き、周囲の妖怪を一気に燃やしてしまった。

「……妖術、不知火。私が得意とする術のひとつです」
「す、すげえなオイ。これだけの実力があんのに、なんで使用人なんかやってんだ?」
「単なる趣味でございます」

 きっぱりと言い放つ美尾に、定岡は次の言葉も出ないまま唖然とする。

「さあ、今のうちに。じっとしているとまた増援が来ます」

 定岡とヒザマは驚きに目を丸くしながらも、美尾と共に橋の上を駆け抜けていく。辿り着いた島の中は、街灯や建物の電気が全て落ちていたものの、光の柱から注がれる薄紫の光が降り注いでいるおかげで、周囲の様子が分かるくらいには明るかった。細い道路の両脇に並ぶ土産物屋も人の姿は無く、氷で覆われた軒からは、大きなつららが垂れ下がっている。

「まるで冷凍庫やな。マグロでも並べて売ったら、具合ええんちゃうか」
「その前に客が来ねえだろ」

 軽口を叩く定岡とヒザマを尻目に、美尾は先へと足を進めるが、分厚く巨大な氷の壁が道を塞いでいた。

「通せんぼされてるぜ。どうするんだ?」

 定岡が訊ねると、美尾は返事をする代わりに鬼火を作り出し、氷の壁に撃ち込んだ。

「障害は排除するのが道理というものです」

 鬼火は小規模な爆発を起こして飛び散ったが、氷は傷ひとつ付いておらず、溶けて水になったような形跡も見られなかった。美尾は再び鬼火を作り、今度は氷の遙か上空へ向けて撃ち出したが、鬼火は氷の真上辺りに来た途端、見えない壁のようなものにぶつかって弾け飛んでしまった。

「……なるほど。これは普通の氷ではありませんね。おそらく島全体を覆う結界が、氷の形を取っているのでしょう。これを溶かすには、より強い炎を作り出す術が必要と思われます」

 美尾の言葉を聞いて、得意げに前へ出てきたのはヒザマである。

「つまりワイの出番っちゅうわけやな!」

 ヒザマが翼を広げると、羽根が燃え盛る炎へと変わっていく。続けてヒザマが激しく羽ばたくと、炎は竜巻のように渦を巻いて氷の壁に向かって飛んで行った。炎の渦に包まれた氷の壁は見る見る溶けていき、島の頂上へと続く階段が三人の前に現れた。

「ふっふっふ、これがワイの必殺技、その名もヒザマトルネードッ!」

 得意げに振り返るヒザマに、美尾は普段と同じ表情ながらも、感心した眼差しを向ける。

「なるほど、さすがは火の妖怪。その術も今後の参考にさせてもらいます」
「おう、ええでええで。その代わりワイを師匠と崇め奉るんやで」

 続くヒザマの言葉を聞き流し、美尾と定岡はスタスタと先へ進む。

「ここを登れば光の柱が見えるはず。新手の妖怪が来る前に登ってしまいましょう」
「ここは傾斜が急だから地味に面倒なんだよなあ」

 元々急な階段が凍り付いてしまっているおかげで、江ヶ島を登っていくのは想像以上に苦労した。途中には観光客用のエスカレーターもあるのだが、電源が落ちていて意味が無かった。やっとの思いで頂上まで辿り着いた三人は、島の反対側を見下ろしてみた。

「これは……」

 眼下に広がる光景に、定岡とヒザマはあからさまにうんざりした表情を浮かべていた。光の柱は海中から伸びており、その周囲には強い妖気に惹かれたのか、無数の雑魚妖怪や悪霊が集まり、イワシの群れを狙うカモメのように飛び回っている。

「おいおい、海の中なんてどうしろってんだ。まさか潜って調べろとか言うんじゃねーだろうな」
「ワイはお断りやぞ。水になんぞ浸かったら力が出せへんがな」

 美尾は耳を立て、じっと海面を見つめて何かを探っている様子だったが、やがて口を開いた。

「とても強い妖気を感じますが、それらしい妖怪の姿が見当たりませんね。近いような、遠いような……もう少し近付いて詳しく調べなくては」

 島の頂上には反対側に降りる石段が作られており、美尾を先頭に定岡とヒザマも後に続いた。一番下まで降りてみると、波で浸食された崖と、その崖に出来た洞窟の入り口が見える場所に出たが、やはり周囲は白く凍り付いており、洞窟の入り口も半分以上が氷で閉じてしまっていた。岩が剥き出しになった海岸には荒れた波が打ち寄せており、島から百メートルほど離れた海の上に大きな光の柱がそびえ立っている。潮風に混じって芯まで凍り付きそうな妖気が漂っているのは感じられるが、妖気の主は相変わらず姿を見せなかった。

「近くにいるのは間違いないはずですが……気配が大きすぎて正体が掴めない。嫌な予感がします」
「ちっ、いつまで隠れてやがるんだ。海坊主でもなんでもいいから、さっさと出てこいっつーの!」

 しびれを切らした定岡は、足元の大きな石を拾い上げると、海に向かって放り投げた。石はボチャンと音を立てて海中に沈んでいったが、やがて大きな地響きと共に海面が激しく波立ち始めた。立っているのがやっとの揺れに驚いたのも束の間、とてつもなく巨大な影が轟音と共に海中から飛び出してきた。光の柱と同様に、天を貫こうかというその姿を見上げ、定岡とヒザマは声を揃えて叫ぶ。

「ぎええええええっ!?」

 それから美尾も含めた三人は言葉を失っていたが、ようやく震える指先を向けて定岡が言った。

「お、おい……お前らアレがなんに見える?」
「ウロコだらけのながーい身体に、牙だらけの口、それから頭に角も生えとるし……例のアイツ以外に思い当たらん姿やのう」
「薄々そうではないかと思っていましたが、現実だったとは……まさか龍神を相手にしなくてはならないなんて」


 その姿は紛れもなく、伝説や昔話に語られる龍そのものであった。

「無理無理無理、絶対無理ッ! 妖怪ならともかく龍神なんて、どうひっくり返っても勝てるわけねーだろ! ふざけんな!」
「ア、アホ、そない大声出したら――!」

 案の定、定岡の声で龍神は彼らに気が付いたようで、真っ赤に燃える両眼で睨み付ける。とても正気とは思えないような、敵意が剥き出しの危険な目をしていた。

「グオオオオオオッ!」

 龍神が息を吸い込むとそれだけで突風が起きる程であったが、続けて吐き出された息は、身体が芯から凍り付きそうな冷気を含んでおり、恐るべき事に海面までもがみるみる凍り付いて、周囲の海が氷の陸地のようになってしまった。定岡たちは美尾が咄嗟に使った妖術の結界によって守られていたが、降りてきた石段は氷の壁で塞がれ、逃げ道を閉ざされた定岡は、血の気が引いていく音を確かに聞いた気がした。
   




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