魂筆使い草助

第十一話
〜ヴェータラ〜



 六月半ば、朝比奈市の各地に植えられた紫陽花が鮮やかな花を咲かせ、景色を彩っていた季節。町の一角にある小さな道場に、二人の男の姿があった。一般に公開されてはおらず、看板も掲げていないその道場は、出入りする人間もごく限られており、個人のために用意された稽古場というのが正確なところであった。二人とも袴姿で刀を持ち、一人は刀の素振りをしている二十代くらいの若者、もう一人は鋭い眼光でその様子を眺める壮年の男だった。

「四百七十八、四百七十九……!」
「姿勢が少し乱れているぞ。素振りは基本の動きを決して崩さず、どんな状況でも確実に相手を斬る動作を身に付ける鍛錬だ。漫然と刀を振っているだけでは意味がない。終わりが近いからと気を抜くな」

 深みのある声でそう言った男は、草助の祖父の筆塚草一郎。鍛え抜かれた肉体が醸し出す刃のような佇まいは、若い頃よりますます磨きがかかっていた。一方、片手で刀の素振りを続けている若者は、首に掛かる程度の黒髪を左右に分け、背丈は草一郎と同じ一七五センチほど、体つきも草一郎とよく似ていて、無駄のない引き締まった体格をしていた。若者の顔には疲労の色と大量の汗が滲み、板張りの床には流れた汗で水溜まりが出来ていたが、芯の通った力強い眼差しは些かも曇る事はなく、腕の震えを気力で抑えつつ刀を振り続けた。

「――四百九十九、五百……!」

 若者はそこで手を止めて刀を鞘に戻すと、ばったりと仰向けになって倒れ込む。草一郎は若者の顔を覗き込み、ゆっくり頷きながら言った。

「左右それぞれ素振り五百回、合わせて千回。一言も弱音を吐かずにやり遂げたのは見事だった。ところでまだ稽古は続けられそうか?」
「はあ、はあ……だ、大丈夫です。まだ……やれます」

 草一郎は息も絶え絶えと言った若者をしばらく眺めた後、表情を変えずに言った。

「そうか。ではしばらく休憩するとしよう」
「せ、先生!? 俺はまだ……!」
「いいから休め。麦茶を持ってくる」

 草一郎は若者の言葉を遮り、一人で道場と隣り合った母屋の方へと向かって行く。若者がそのまま息を荒げながら空を眺めていると、丸い眼鏡をかけた男の顔がひょっこり視界に入ってきた。

「うんうん、ちゃんとやっているようじゃないか龍之助。調子はどうだい?」

 生え際が後退した頭と袈裟姿、そして独特の軽い言い回しは、草一郎と共に妖怪退治の世界で名を馳せた八房誠その人である。後に彼は八海と名乗る事になるが、この頃はまだ本名のままであった。若者は視線を動かして誠の顔を見ると、恨めしそうな表情を浮かべて呟いた。

「見ての通りですよ。くっ……こんな無様な姿を見られるとは、一生の不覚」
「おいおい、別に何も言っちゃいないだろう。そんなに邪険にしなくてもいいじゃないか。親類だというのに薄情な」

 誠がわざとらしく悲しむふりをすると、若者はうんざりした様子でため息をつく。彼は上田龍之助といい、八房誠の父方の祖父の弟の孫、すなわち「はとこ」に当たる。龍之助は二十五歳という若さながら、霊力、身体能力共にずば抜けた潜在能力を持ち、妖怪退治の一大組織である「蓮華宗」からも次代を担う逸材として大きな期待を寄せられていた。まだ荒削りな彼の成長を促すため、彼の親類であると同時に、「蓮華宗」の中でもトップクラスの妖怪退治屋として実力を持つと言われる誠に、龍之助の修行に手を貸すようにとの通達が届いた。
 誠はその話を承諾したが、異を唱えたのは龍之助の方であった。生真面目な性格の龍之助は、名門・八房本家の嫡男でありながら、その軽薄な態度、女性にだらしない誠の性格など常々苦々しく思っていたのである。そして龍之助の強い希望の結果、妖怪退治では誠と並ぶと評される存在であり、誠の長年の友人でもある草一郎の元で修行を受ける事になったのである。

「それで今日はなんの用があって来たんです。先生ならもうじき戻ると思いますが」
「なんの用って、ここはそもそも私の家が管理してる土地と建物なんだが」

 そんな話をしているうちに、麦茶が注がれた透明なコップを手にした草一郎が戻ってきた。草一郎は龍之助に麦茶を渡して飲ませると、誠の方を向いて訊ねた。

「なにかあったのか?」
「相変わらず話が早くて助かる。簡単に言うと、ここ最近になって人間を狙う妖怪どもの動きが活発化しているようなんだ。それに見慣れない妖怪の姿を見たという情報も入っている」
「見慣れない妖怪とはなんだ?」
「はっきりした事はわからない。ただ、もしかすると海を越えて渡ってきた魔物かも知れない、ということだ」
「……根拠は?」
「一週間ほど前、海外からの積荷を乗せた貨物船が港に着いたんだが、船から誰も下りてこず、無線にも応答がない。そこで船内の捜索が行われたんだが、乗組員が全員死亡していたというんだ。表向きは火災事故という事になってはいるが、実際には船内で人間同士が殺し合ったというのが真相らしい。ところが船の捜索の際、死体が突然動き出して暴れ始めたというんだ。しばらくして死体は元通り動かなくなったが、もう一度船を調べてみると、いくつかの死体と積荷のコンテナが足りなかったそうなんだ」
「消えた死体と積荷か。確かに怪しいな」
「その後から、朝比奈市内で人を襲う妖怪の活動が活発化し始めた。今のところ大きな被害は出ていないが、妖怪と接触した者の話によると、連中は妖怪退治屋の誰かを捜しているようなんだ」
「それでお前が警告に来たというわけか」
「お互いこの稼業も長いからね。今に始まった事じゃないが、狙われる理由は身に覚えがありすぎる。特に君の所はそうだろう」
「わかった。憶えておこう」

 誠はそこで一旦話題を区切ると、床に座ったままの龍之助に視線を向けた。

「ところで龍之助の様子はどうなんだい?」
「ああ、大した奴だ。真面目で吸収も早いし、素晴らしい素質を持っている。いずれ俺やお前を越える使い手になれるに違いない。剣と術をこれほど扱える人間は、俺の知る限り他にはいないはずだ」
「そりゃ凄い。草一郎が言うからには本物だな」
「だが欠点もある。技術より心の面だが」
「ほう、というと?」
「くそ真面目すぎる。特に自分に対する加減を知らんのが問題だな。やれと言われれば再起不能になっても音を上げんだろう。意志が強いのは結構だが、度が過ぎた頑固さは悪い癖でしかない」
「やれやれ、堅物なのは相変わらずか。カチカチなのは一部だけにしておかないと、女性にモテないぞ龍之助?」

 誠が冗談めかして龍之助の顔をつつくと、龍之助は両眼を釣り上げてその指を払い退ける。

「昔からそういう軽薄な部分が嫌だと、俺はいつも言ってるでしょうが!」
「おお怖い怖い。本当に冗談の通じない奴だなあ。まるで若い頃の草一郎みたいじゃないか、あっはっは」

 じろりと睨む草一郎の視線をさらりとかわし、誠は「気にするな」と草一郎の肩を叩く。

「あの頃に比べたら草一郎もずいぶん丸くなった。やはり守るべき者が出来るとそうなるものかね」
「そんな事はどうでもいいだろう」
「まあまあ、ヘソを曲げなさんな。ところで君の家族はどうしているんだ?」
「真澄は先月から体調を崩して、信州の別荘で静養している。すずりは妖の郷に預けてある」
「その事は他に誰か知っているのかい?」
「いや、娘とお前以外には知らせていない」
「うん、その方が利口だろうね。ともあれ用心に越した事は無いし、後で今後の対策を――」




 そこまで話を聞いた時、草助は話を遮って八海老師に訊ねる。

「ちょっと待ってください老師。僕のおばあちゃんは若い頃に亡くなったんじゃないんですか? 今の話だと普通に生きて……」
「うむ。その辺の事情もちゃんと話す。とりあえず最後まで聞くのじゃ」
「は、はい」

 草助は喉に出かかった言葉を飲み込み、姿勢を正して再び話に耳を傾ける。




 誠と龍之助が帰宅した後、草一郎も戸締まりをして道場を出た。すでに日は暮れ、往来は闇に包まれている。布袋に入れた刀を手に道を歩いていると、正面の街灯の真下で、じっとこちらを見つめている者の気配に草一郎は気が付いた。人物は灯りに照らされているのに黒い影のようにしか見えず、両眼だけが真っ赤に輝いている。そのただならぬ雰囲気に、草一郎は相手が妖怪であると即座に見抜き、袋から刀を取り出して影に近付く。

「お前は妖怪だな。そこでなにをしている」
「探したぞ、筆塚草一郎……」
「なんの妖怪かは知らんが、こっちはお前に用などない。早々に立ち去れ」
「大丈夫だ、すぐに終わる」

 黒い影は頭上高く跳躍し、草一郎めがけて飛び掛かった。長い腕を振りかざし、曲がった爪で草一郎に襲いかかるが、草一郎はつま先を軸にして身体の向きを変え、妖怪の一撃を最小の動きで避けると、素早く刀を鞘から引き抜いて斬りつけた。

「……!」

 妖怪は斬られる直前、不自然に滑るような動きで刃をかわすと、頭を逆さにしたまま近くの電柱に吸い付いた。街灯に照らし出された妖怪は、黒い肌に頑丈な爪が生えた手足、長く伸びた首の先に象の顔を持つという、醜悪な姿をした怪物だった。

「貨物船に紛れ、海の向こうからやってきた魔物というのはお前だな。こんな姿をした日本の妖怪など聞いた事がない」
「知る必要は無い。お前はここで死ぬのだから」

 黒い姿の妖怪が電柱から離れたと思った瞬間、姿が暗闇に溶け込んで消えた。草一郎は一瞬眉をひそめたが、すぐに全身の感覚に意識を集中させ、周囲の気配に全神経を傾けた。

「――そこか!」

 草一郎は素早く振り返ると同時に、背後の暗闇に刃の一閃を浴びせる。刀は鈍い音を立てて止まったが、肉を斬る手応えは感じられなかった。妖怪は両手の長い爪で、刀を受け止めていたのである。妖怪の両腕は塞がっていたが、間髪入れずに長い鼻で草一郎の腹部を殴りつけた。妖怪の怪力で草一郎は数メートルも吹き飛ばされたが、空中で体勢を立て直して上手く着地をする。殴られた部分は霊力によって防御をしていたが、着物の生地が破れて穴が空いてしまっていた。それから二度、三度と黒い妖怪は攻撃を仕掛けてきたが、草一郎はいち早く気配を察知して斬り返し、指一本触れさせる事はなかった

「話に聞いた以上の強さだ……素晴らしい」
「なんだと?」
「……」

 黒い妖怪は沈黙して暗闇に溶け込むと、様々な場所から現れては殺気を放って消えるという行動を繰り返し始めた。間合いを外して攪乱し、こちらがしびれを切らして動いた所で隙を突くという戦法だろうと草一郎は悟り、足を止めて正眼の構えを取った。
 妖怪は道路脇の電柱によじ登り、柱を蹴って勢いを倍加させて襲いかかった。仮に草一郎の刃が振り下ろされても、突進する勢いで強引にねじ伏せられると踏んでいたのだ。ところが草一郎は間合いに入る前から妖怪に向かって刀を振り上げ、虚空に向かって素早く振り下ろした。当然刀は届いておらず、妖怪は勝ち誇ったように笑ったが、次の瞬間には身体が頭から真っ二つに割れてしまっていた。

「……!?」

 湿った音を立てて地面に落下した妖怪は、半分に別れた自分の身体を見て戦慄の声を上げた。草一郎は刀を鞘に収めながら答えた。

「裏八法、虎牙。刃の届かぬ場所も斬る事が出来る技だ。俺を狙って来たという割には、勉強不足だったようだな」

 妖怪は不気味に光る瞳で草一郎を睨みながら、ぞっとするような不気味な声で言った。

「これは始まりだ。これより先、お前には決して安息の日は訪れない。憶えておけ……ハハハハ」

 そういい残し、黒い妖怪の身体はしぼんで小さくなり、やがて浅黒い肌をした人間の死体へと変わっていった。

(この妖怪は一体……)

 死体は二度と動く事はなかったが、胸の中に深い暗雲が立ちこめていくのを草一郎は感じていた。




 翌朝、草一郎と誠、そして龍之助の三人は道場で顔を付き合わせ、昨夜の出来事について話し合っていた。

「――夕べの妖怪の口ぶりからして、今後も妖怪の襲撃が続くと見た方がいいだろう。となれば一カ所でじっとしているのは得策じゃない。だから俺は、あえて単独行動を取って奴らをおびき出し、襲撃の首謀者を見つけ出して叩くつもりだ」

 草一郎の言葉に誠も龍之助も頷いたが、誠は付け加えるように口を開いた。

「少々無茶だが、確かにそれが一番確実で早い方法だろうね。私は妖怪の情報に通じている連中を当たって、あらゆる情報をかき集めておこう。いざという時はすぐに加勢できるようにもしておくよ」
「すまんな、助かる。それから龍之助、お前に頼みたい事がある」

 草一郎は龍之助に顔を向け、真っ直ぐ彼の目を見つめて言った。

「俺はしばらく家に戻れん。だからお前が娘の……香澄の護衛をしてやってくれ。香澄は争いに不向きな性格でな、我々の妖怪退治の事もほとんど知らないのだ。出来れば娘に気付かれないよう、それとなく守ってやって欲しい」
「分かりました、お嬢さんは俺が必ず」
「任せたぞ龍之助。くれぐれも気をつけてくれ」
「はい、先生もご武運を」

 その時、誠は思い出したように袈裟の袖に手を突っ込み、数枚のお札を取り出して龍之助に渡す。

「念のためにこれを持っていくといい。妖怪の目から姿を消すことのできる隠れ身の札だ」
「……隠れんぼの札ですか?」

 怪訝そうに札を見る龍之助に、誠はチッチッと指を振る。

「おっと、馬鹿にするもんじゃないぞ。これは自分で持っていても良し、建物に貼り付けて隠れ家にするも良しの優れものだ。敵を撃退するものじゃないが、それだけに効き目も長い。悪い事は言わないから、肌身離さず持っていろ。きっと役に立つ」
「わかりました」

 龍之助は頷き、誠からお札を受け取った。打ち合わせが終わると、三人は道場を後にして二手に分かれた。龍之助は二人を見送った後、白いワイシャツとスラックスに着替え、妖怪退治用の刀を袋に入れて朝比奈市内のとある場所へと向かった。そこに草一郎と家族が暮らす一軒家がある。周囲の家と比べても取り立てて変わった所はなく、平凡な一戸建てであった。

(本当に普通の家だな。先生らしいと言えば先生らしい)

 草一郎の妻である真澄は旧華族の風杜家出身であり、莫大な資産を受け継いでいる。本来なら草一郎の家族は風杜家の豪邸や、あるいはもっと大きな屋敷にも住めたはずだが、草一郎がそうした暮らしを望まず、真澄も彼の意見に賛同したため、夫婦はこの平凡な家を建て、ここで娘の香澄と共に暮らしていた。龍之助は少し離れた電柱の影から草一郎の自宅を眺め、腕時計に目を落とす。

(八時か……そろそろだ)

 それからほどなく、玄関を開けて若い娘が姿を現した。肩に届く黒髪の、美しい娘だった。ミントグリーンのワンピースに編みサンダルという軽装で、肩にトートバッグを提げている。草一郎の娘、筆塚香澄に間違いなかった。彼女は市内の女子大に通っており、今日この時間に講義を受けに行くという話は草一郎から聞いていた。この時代、世間の流行りもあって享楽的で軽薄な服装や振る舞いの若者が男女問わずに多かったが、香澄はそうした浮ついた流行に染まった様子はなく、穏やかで優しい雰囲気を纏っていた。龍之助は思わず彼女に見とれてしまっていたが、すぐに我に返ると、気付かれないように息を潜め、香澄の後に付いていった。筆塚家から十五分ほど歩いて市営のバスに乗り、それから十分ほどで朝比奈女子大前に辿り着いた。バスを降り、香澄が大学の中に入って行くのを確かめると、龍之助は彼女の後を追うのを一旦諦め、建物の位置や出入り口の場所、周囲の様子などを調べて回った。情報を一通り頭に叩き込んだ後は、正門が見える場所にある喫茶店に足を運び、アイスコーヒーを注文して時間を潰した。
 それから数日は何事もなく、遠くから香澄の様子を見守って一日が終わるという繰り返しだったが、週末を目前に控えた金曜日の午後、龍之助は喫茶店の窓から訝しげに大学の正門を眺めていた。

(今日はずいぶん遅い……居残りでもしているのか?)

 時計は午後六時を指しているが、香澄は一向に姿を見せない。奇妙に思って席を立とうとしたその時、喫茶店に入ってきたばかりの若い女が、龍之助の目の前にやってきた。サイドで分けたショートカットに、チェック柄のミニスカートと薄いピンクのシャツを身に付け、大きなサングラスと赤い口紅が目立つ女だった。女はサングラス越しに龍之助をジロジロと眺めた後、ぶっきらぼうな口調で言った。

「アンタでしょ、最近ウチの大学の回りでウロウロしてんの」
「いきなりなんの話だ?」
「とぼけてもムダムダ。アンタがここ最近、毎日現れてるの知ってるんだから。こないだグラウンドの中をチラチラ覗いてたでしょ!」
「いや、それは……」
「なにが目的なわけ? もしかしてナンパ? ナンパ目的の癖に、大学の回りウロウロしてるだけとか暗いわねえ。大体ね、そんなダサい格好でモテよーとか考えてる事が間違いなんだから」

 どうやら彼女は香澄と同じ大学の学生らしいが、見た目や雰囲気は香澄とずいぶん対照的である。言ってしまえば流行を気にしている、どこにでも居そうな今時の娘なのだが、頭の中身と同程度に口も軽いようで、頼まれもしないのに次から次へと言葉を並べ立て、店内の視線を一身に集めてしまっていた。なるべく目立ちたくない龍之助にとっては、一秒でも関わっていたくない困った相手だった。

「君が誰だか知らないが、用事を思い出したので失礼する。それじゃ」

 そそくさと席を立とうとする龍之助の袖を、若い女が掴んで引き留める。

「待ちなさいよ。アンタが追い掛けてる子なら、いくら待ってもムダよ」
「なんだって?」
「アンタが後を追い回してるのって香澄でしょ。あの子は大人しいけど、勘が鋭いのよ。知らない人に毎日見張られてるって言ってたから、私が確かめに来たってわけ。香澄は一足先に裏口から帰ったわよ。これ以上しつこく付きまとうと、警察呼ぶからね」
「……しまった!」

 龍之助は女の手を振り解き、釣りも受け取らずに会計を済ませて喫茶店を飛び出した。全力で大学の裏口を目指したが、香澄の姿は無い。龍之助は自分の不手際を呪いながら、香澄の自宅へと急いだ。タクシーを拾って筆塚家に戻った龍之助だったが、香澄はまだ帰宅しておらず、玄関も施錠されたままであった。

「くっ、まだ帰っていないのか……こんな時に限って」

 龍之助は筆塚家の周辺を駆け回り、香澄が訪れそうな場所を片っ端から調べて回ったが、彼女の姿を見つける事は出来なかった。そうしているうちに日も暮れ、あたりは真っ暗になってしまった。




 筆塚香澄は、数日前から自分を見張っている人物の目を逃れるため、裏口から大学を出ると、普段と違うルートを通るバスに乗り、最寄りから少し離れたバス停で降りた。その後は冷蔵庫の食材が足りない事を思い出し、やはり普段はあまり使わないスーパーに立ち寄って買い物をした。

(色々選んでたらすっかり遅くなっちゃったなあ)

 小さな不安を抱きつつ、香澄は真っ暗な帰り道を急いだ。周辺の地理はよく知っていたので迷う事はなかったが、自宅までは三十分ほど歩かねばならず、日が暮れた歩道には人通りがほとんど無かった。その途中、香澄は二人組の若い男とすれ違った。暗くて顔はよく見えなかったが、特に気に留める事もなく通り過ぎると、突然後ろから呼び止められて香澄は足を止めた。

「そこのお嬢さーん」
「……?」

 振り返ってみると、さっきすれ違った二人組が軽薄な笑みを浮かべながら近付いてきていた。一人は痩せた色白の男で、素肌の上に赤いアロハシャツを羽織り、ボタンも留めずに胸元をはだけさせたままである。日焼けした男もタンクトップにギラギラ光るネックレスを下げており、いかにも夏の海岸で大量に見かけるナンパ男といった連中だった。

「あの、なにか?」
「結構可愛い顔してるねーお嬢さん。よかったら俺らと遊ばなーい?」

 思った通りの言葉が返ってきて、香澄はため息をつく。

「すみません、急いでますから」

 短い返事をしてその場を立ち去ろうとした香澄だったが、男たちは香澄に付きまとい、いつまでもしつこく話かけてきた。香澄は無視を続けていたが、その態度に腹を立てたアロハシャツの男が、香澄の腕を掴んで強引に引き留めた。

「人が下手に出てやってんのに、すました顔しやがってよう。さてはいい気になってんな?」
「痛い、放してください」
「いいやダメだね。オメーみたいにお高くとまってる女には、世間の厳しさってのをたっぷり教えてやらねえと」
「やっ……嫌っ!」

 どうにか腕を振り解こうともがく香澄を、男たちは二人がかりで押さえ付けようとしてきた。恐怖と焦りでパニックになりそうだったその時、暗い道路の先にぼんやりと浮かび上がる影に気付いた時、彼女の心は急速に冷えていく。しかし香澄が冷静さを取り戻したのではなく、今の状況が些細な出来事に思えるほどの悪寒を感じたからだった。

「な、なんなの、あれ……」
「おいおい、そんな古い手に引っ掛かるかっつーの。どうせならもっとマシな手――」

 アロハシャツの男が喋っている途中で、香澄は突風のような衝撃に突き飛ばされて道路脇に座り込む。

「きゃああああっ!?」

 目を凝らして自分が立っていた場所を見た途端、香澄は思わず悲鳴をあげてしまった。見た事もない四本足の巨大な獣が、アロハシャツの男の喉元に食らいついていた。アロハシャツの男の首はだらりと折れ曲がり、目を見開いたまま口から血を垂れ流したまま動かない。そして人間の胴体よりも太い前足が、タンクトップの男を地面に押さえ付けており、背中に刃物のような鋭い爪が突き刺さっていた。

「グルル……ミツケ……タ……」

 ゆっくりと自分の方へ顔を向けながら、獣は言葉を発した。しかしそれ以上に恐ろしかったのは、獣の顔が人の顔をしていた事だった。状況が飲み込めない香澄でも、たったひとつだけ理解できるのは、目の前にいる獣がこの世の生き物でないという事だった。

(逃げなきゃ――!)

 頭ではそう思っていても、足がすくんで動けない。獣はゆっくりと向き直ると、咥えていた男の死体を吐き捨てた。獣は赤い体毛に包まれ、ライオンに似たたてがみを持っていたが、顔面は血走った目をした恐ろしい男のものだった。黄色く汚れた牙がずらりと並んだ口を大きく開き、獣が香澄に近付いたその時だった。

「それ以上近付く事は許さん!」

 突如、暗闇から白いシャツとスラックス姿の青年が飛び出し、驚くほど高く跳躍してから獣の頭上に落下した。彼の両手には、鈍く光る刀が握られていた。

「ギャアアアアーッ!?」

 人影は刀を獣の首に深々と突き刺し、獣の背中に乗ったまま叫ぶ。獣は首に刀を突き立てられながらも、息絶えるどころか咆吼を上げて激しく暴れ出した。

「早く逃げろ!」


 香澄はその男に面識はなかったが、不思議と彼の言葉に従うべきだと直感し、震える足で立ち上がると、力の限り走った。背後では身の毛もよだつ獣の叫び声と、見知らぬ男の戦う声が響いていたが、やがてそれらも聞こえなくなった。それからどこをどう走ったか憶えていなかったが、気が付くと自宅に辿り着いていた。

「はあ、はあ、はあ」

 玄関のドアを開けて家の中に飛び込むと、香澄は祈るような気持ちで鍵を掛け、ドアにもたれかかって座り込んだ。

(一体なにが起きてるの。それにあの人は……)

 香澄はしばらく息を潜め、明かりも点けずにただじっとしていた。しかしいつまで経ってもこれといった変化が起こらず、香澄は立ち上がって廊下の窓に近付いて、外の様子を確かめてみた。街灯で照らされている道路には、さっき見た四本足の怪物は見当たらない。安心したのも束の間、どこからか飛来した物体が窓ガラスに衝突した。

「ひっ」

 それは宙に浮いた女の生首で、恐ろしい形相で香澄を睨み付ける。思わず呼吸が止まりそうになった香澄は、窓から離れてその場に座り込んだが、窓の向こうにいる女の生首から目を離せないでいた。生首はこの世のものと思えない恐ろしい形相をし、首からは血の滴る臓物をぶら下げていた。あまりに不気味なその化け物は、キーキーと甲高い声を発しながら、何度も何度も窓ガラスにぶつかってきた。どうやら自力ではガラスを割る事が出来ないらしく、生首は恨めしそうに鳴き喚き、ゴツン、ゴツンと窓ガラスにぶつかる音が響き続けていた。

「お父さん、お母さん、助けて……!」

 藁にもすがる思いで香澄が必死に祈っていると、やがて窓にぶつかる音がぱったりと止んだ。怖くて今にも気を失いそうだったが、勇気を振り絞ってもう一度窓に近付いてみると、自分を逃がしてくれた青年が、刀を手にしたまま道路に立っていた。彼の足元には、宙に浮いていた生首が真っ二つに割れて転がっている。青年はしばらく香澄の家の様子を眺めていたが、やがて刀を鞘にしまい、背を向けて立ち去ろうとした。

「ま、待って!」

 香澄は思わず玄関を開けて飛び出し、去ろうとする青年を呼び止めていた。青年は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに表情を消して言った。

「……騒がせてすまなかった。それじゃ」
「待って。怪我をしてるじゃないですか。手当てしなきゃ」
「いや、これは」

 青年のシャツはあちこち破れ、血にまみれていた。右袖は肘の部分から先がちぎれ、真っ赤な血が滴っている。香澄は青年を引っ張るように自宅の中へ連れていき、リビングのソファに座らせて血まみれの腕を拭いた時、あっと声を上げた。彼の腕にはどこにも傷が付いていなかったのである。

「えっ、あれっ? こんなに血が出てるのに……」
「返り血だ。俺は怪我などしていない」
「あ……」

 香澄は自分の早合点を恥ずかしく思いながらも、気を取り直して青年に訊ねた。

「いつも遠くから私を見ていたのは、あなただったんでしょう?」

 青年は質問に答えず、立ち上がって香澄の顔を見ながら言った。

「今日のことは全て忘れるんだ。悪い夢を見たと思って」
「……あの二人はどうなったんです?」

 青年は返事をしなかったが、それだけで彼らがどうなったのかを察するには充分であった。

「忘れられるならそうしたいです。だけど私が家族や友達と一緒にいる時に、またさっきみたいな怪物が現れたら……」
「世の中には知らない方がいい事もある。真実を知ったが最後、君は不幸になるかもしれない。二度と今までの生活に戻れなくなるかもしれないんだぞ。その覚悟が君にあるのか?」

 香澄はしばらく考えた後、真っ直ぐに青年を見つめ、毅然とした態度で答えた。

「私には、自分の周りでなにが起こっているのかまったく分かりません。でも人が死ぬような出来事が起きているのに、見ないふりをして……なにも知らないまま過ごすなんて嫌です」
「……決意は固いか」
「はい」

 確かめるような青年の眼差しを、香澄もじっと見つめ返して頷く。

「仕方がない、確かに今回の事は俺にも責任がある。これから俺は君の想像を超えた話をする事になるが、まずは落ち着いて最後まで聞いて欲しい」

 青年は香澄と向かい合ってソファに腰掛け、上田龍之介と名乗ると、身の回りで起きている状況について語り始めた。




 同じ頃、草一郎は縦浜市にあるマンション建設予定地にいた。袴姿で刀を手にした彼の周りには、群れを成した妖怪が取り囲んでいる。龍之助と別れた一週間前から、妖怪に対する調査と準備を行い、全てが完了したこの日、わざと妖怪たちに見つかりやすいよう霊力を放ちながら街を歩いてみた。その結果、彼の周りに見慣れない姿の妖怪が雲霞の如く群がってきたのであった。草一郎は妖怪たちの攻撃をかいくぐり、この建設予定地に誘い込んだのである。彼の周りを取り囲むのは、巨大な仮面に手足が生えたような妖怪や、槍と腰みのを身に付けた妖怪、コウモリの翼をもつ女の妖怪などの姿もあった。

「日本では見かけぬ連中ばかりだな。お前たちも海を渡ってきた南方の妖怪か。俺を狙う理由など大体察しが付くが、問題はお前らを焚き付け、ここに集めた張本人だ。そいつの居場所を答え、大人しく自分の国へ帰れば良し、さもなくば――」

 草一郎はゆっくりと息を吸い込み、全身に霊力と気迫を漲らせる。

「人に害を成す前に斬る!」

 同時に、妖怪の群れが四方から襲いかかった。草一郎には慌てた様子など微塵もなく、突進してくる妖怪めがけて素早く刀を振り下ろした。その閃光のような斬撃は、巨大な仮面に手足が生えたような妖怪を真っ二つに両断するだけに留まらず、背後にいたコウモリの羽を持った女の妖怪をも切り裂いていた。包囲に穴が空くと、草一郎は迷わず突進して妖怪の隙間を突っ切り、すぐさま反転して片っ端から妖怪を斬り捨てた。あまりに素早く手慣れた動きに、寄せ集めでしかない妖怪の群れは体勢を立て直す事が出来ず、次々と討ち取られていったが、数の違いを覆すまでには至らない。散り散りでは太刀打ちできないと見るや、妖怪の群れは一カ所に寄り集まって巨大な塊となり、圧倒的な質量で押し潰そうと草一郎に迫り、勝ち誇ったような嗤い声を漏らしていた。

「ところがそうはいかないんだな、これが」

 と、積み上げられた資材の上に腰掛けて、不敵に呟く人影があった。その人物は右手に錫杖、左手に数珠を持ち、金糸が縫い込まれた袈裟姿の誠だった。草一郎が駆け抜けた地面には、膨れ上がった妖怪の塊がすっぽり入るほどの、大きな結界の紋様が描かれていた。妖怪の塊が紋様の上に差し掛かると、誠はおもむろに立ち上がり、八房の数珠を天高く掲げて念じた。

「破邪顕正。天と地と仏法の理にて、魑魅魍魎を打ち払うべし。喝ッ!」

 紋様は青白い輝きを放ち、光の柱となって天を貫く。結界に飲み込まれた妖怪は瞬く間に消滅し、後には妖怪の塊から弾かれて難を逃れた、子猿のような妖怪一匹が残るだけだった。草一郎はその小さな妖怪の首根っこを掴んで持ち上げると、凄味を利かせた目つきで睨みつける。

「もう一度聞く。お前たちを日本に呼び、俺を襲わせた奴は誰だ。そいつはどんな姿で、今どこにいる――?」

 洗いざらい白状した子猿の妖怪を解放すると、草一郎は険しい表情のまま刀を握る手に力を込めた。資材の上から飛び降りてきた誠は、数珠を腕に巻き付けながら草一郎に近付いた。

「なにか聞き出せたかい?」
「連中を煽動した妖怪の名はヴェータラ。姿形の特徴からして、俺を最初に襲った妖怪に間違いないが……奴はこの手で斬ったはずだ」
「ヴェータラ! また厄介なのが現れたな」
「知っているのか」
「ああ、仏教にも伝わっているインドの妖怪だよ。死体に取り憑いて自在に操るという、特に危険な悪鬼の一種だ」
「死体に取り憑く程度なら、似たような妖怪は今までにも相手にしてきたが」
「甘く見てはいけない。ヴェータラはマントラ(真言)を扱えるんだ。術の強力さは並の妖怪の比じゃないぞ。鬼神とまではいかないだろうが、かなり手強いと思っておくべきだ」
「……そうか。憶えておこう」
「で、奴は今どこにいるんだい?」
「信州行きの貨物に紛れて移動したらしい。狙いは……真澄だろうな」

 その言葉を聞いた途端、誠の表情も草一郎同様に険しくなった。

「馬鹿な、どうやってその情報を得たんだ。彼女の居所は我々しか知らないはずだぞ」
「他に考えられん。予想以上に悪知恵が働く奴だ」
「まずいぞ。すずりは妖の郷に預けたままだし、真澄さんは体調を崩している。今襲われたらひとたまりもない」
「すまんが誠、乗り物の手配を頼めるか。出来るだけ速いやつだ」
「任せてくれ。大事な友人の危機に間に合わなかったとあっては、一生の不覚だ」

 草一郎と誠は急いでその場を離れた。それからしばらくして、一機のヘリコプターが朝比奈市から長野県某村へ向けて飛び立っていった。




「――君の両親は、君が生まれる前から妖怪退治を生業としていて、この世界じゃ名を知らぬ者はいないほどの使い手だ。そして俺は、草一郎先生の元で剣術の稽古を付けてもらっていたんだ。にわかに信じられないだろうが、全て本当の話だ」

 全てを語り終えた龍之助は、小さく息を吐いた後、用意されたコーヒーを口に運ぶ。香澄は視線を落としたまま、戸惑いを含んだ声で言った。

「全然知らなかった。お父さんもお母さんも、厳しいところはあるけれど、とても優しかったし、そんな話は一言も……」
「君を気遣っての事だ。妖怪退治の世界は血生臭く、非情だ。優しい性格の君には到底耐えられまい」
「……」
「俺は先生が妖怪を追跡している間、君を守るようにと頼まれた者だ。不安かもしれないが、じきに決着がつく。それまで辛抱してくれ」
「いいえ、私のほうこそ。危ない所を助けて頂いて……本当にありがとうございます」

 香澄は膝と両手を揃え、ぺこりと丁寧なお辞儀をする。そんな彼女を、龍之助はしばらく不思議そうな顔で見つめていた。

「あの、どうかしましたか?」
「変わった人だな君は。俺の話を信じるのか?」
「えっ。でも本当の話だって言ってたじゃないですか」
「全部嘘だったらどうする。俺と君は初対面で、言葉を交わすのもこれが初めてなんだぞ。実は全て芝居で、君を騙すためにデタラメを並べ立てているかも知れないじゃないか」
「それは……ううん、きっとそんなことは無いと思います」
「なぜそう言い切れる?」

 訊ねられ、香澄は視線を落としながら答えた。

「あなたの手が、お父さんと同じだから」

 龍之助の手は長年の鍛錬によって爪の横の肉が削げ落ち、皮膚は分厚く、骨は盛り上がって岩のようになっている。これは刀の素振りの他にも、徒手格闘の稽古として数え切れないほど巻藁突きを繰り返した結果である。香澄は視線を戻し、龍之助を見上げてはっきりと言った。

「確かに私はあなたの事を知りません。でもそういう手になるには、毎日休まずに厳しい稽古を続けなければいけないってお父さんから聞きました。手を抜いたり、曲がった気持ちの持ち主では絶対にこうならないって……それに私だって、いい人と悪い人の見分けくらい出来ますよ」
「君は……」

 おっとりとしていながら、芯の通った香澄の態度に感心すると同時に、龍之助は急に自分が恥ずかしくなり、視線を外しながらソファに腰を下ろし、深く頭を下げて謝罪した。

「すまない、余計な事を口にしてしまったようだ。許してくれ」
「そんな、頭を上げてください」
「とにかくだ。今夜の事で妖怪は先生だけでなく、君たち家族も狙っている事がはっきりしたな」
「でも私、どうすればいいのか……」
「出来れば当分の間、俺の目の届く場所にいてくれると助かる。今日みたいに突然姿が見えなくなると、また今日のような事になって危険だ」
「あのう、ところで龍之介さんは今までどこで寝泊りを?」
「君が大学に行っている間は、近くの喫茶店で少し休めたが」
「夜はどうしていたんですか?」
「夜中は妖怪の活動が活発になるからな。ずっとこの家の周辺を見張っていた」
「それって全然寝てないってことじゃないですか」
「これくらいなんともない」
「ダメですよそんなの。もしかして、ご飯もちゃんと食べてないんじゃあ」
「いや、別に大した――」

 香澄は龍之助の返事を遮るように立ち上がると、ダイニングの椅子に掛けてあったエプロンを身に着け、慣れた手つきで料理を作り始めた。胃袋を刺激する心地よい匂いが立ちこめる中、龍之助は呆気にとられた表情で香澄の後ろ姿を眺めていたが、香澄はなにかを思い出した様子で一旦手を止め、別の部屋へ行き、着替えとバスタオルを持って戻ってきた。

「はい、どうぞ。ご飯が炊けるまでもう少し間がありますから、シャワー浴びててください。その……身体に血が付いたままとか良くないですし」
「あ、ああ」
「服はお父さんのだけど我慢してくださいね。多分サイズは合うと思うんですけど」

 そう言って香澄は再び台所に戻ってしまった。龍之助は返り血を浴びて汚れた自分の姿を眺め、観念したように浴室へと足を向けた。

(ついペースに乗せられてしまったな。不思議な人だ。しかし――)

 汚れた衣服を脱ぎ、浴室に入ってシャワーを浴びながら、龍之助は身体にこびり付いた血と汚れを洗い落とす。

(先生の言う通り、確かに争い事には向かない性格だ。出来るだけ危険から遠ざけてやらなくては)

 シャワーを終えて龍之助が浴室からリビングに戻ると、食卓にはきちんとした食事が並べられ、香澄が席について行儀良く待っていた。

「ちょうどご飯が出来たところです。一緒に食べましょう」
「あっ、ああ。えーと……い、いただきます」

 メニューは唐揚げと卵焼き、野菜のおひたしに味噌汁とご飯という、ありふれたものだったが、一口食べてみると、その味に思わず声を漏らしてしまった。

「美味い……!」
「よかった。昔からお母さんと一緒に料理作ってたから、ちょっとは自信があるんですよ」
「料理のことはあまり詳しくないが、これは店に出して金を取れる味だと思うぞ。例の喫茶店で食べたランチが犬のエサに思えてくる」
「やだ、大げさですよ。お世辞が上手なんだから」
「あいにく俺はお世辞や嘘が苦手でね。おかげで人生を損しているとよく言われる」
「なんだか龍之介さんって、お父さんにそっくり」

 香澄がごく自然に見せた笑顔に、龍之助は不意を突かれた気分になりながら、赤面して目を逸らす。

「い、いや、俺なんかまだまだ先生の足元にも」
「うふふ、そういう意味じゃありませんよ。あの、せっかくだし龍之助さんの事も聞かせてください」
「お、俺の事か?」
「はい。どこで生まれて、どんな暮らしをしてきたのか……これからお世話になる人のことをなにも知らないなんて、失礼ですもん」
「聞いても面白くないと思うが、それでもいいのか?」
「はい、もちろん」
「うーむ、どう話せばいいのか……ああ、そうだ。君は草一郎先生の友人で、八房誠という生臭――じゃない、僧侶がいるのは知っているか?」
「あ、はい。眼鏡をしてて、面白いお坊さんですよね。時々お尻を触ってきたり、エッチなコトも言ったりしますけど」
「くっ……申し訳ない。本当にすまん!」

 龍之助は震える手で箸を置き、頭をテーブルに打ち付けるようにして平伏する。

「えっ、どうして龍之助さんが謝るんです?」
「耐え難い事実だが、八房誠は俺の血縁なんだ。八景寺の八房家といえば、妖怪退治屋の世界では名の知れた実力者の家系でね。俺の実家の上田家は、八房の分家というわけだ。誠さんの腕は確かに認めるが、あの軟派で節操のない性格だけは――」
「な、なにか問題があったんですか?」
「問題どころじゃない! あの人が手を出した女性が、回り回ってなぜか俺のところに怒鳴り込んできた事もあった。おかげで周囲からは白い目で見られるし、見ず知らずの女性の愚痴を延々聞かされたりで、昔からロクな事がなかった」
「あはははは……」

 つい興奮してしまっていた龍之助は、我に返って誤魔化すように咳払いをする。

「と、とにかく。俺はそういう家に生まれ、物心ついた頃からずっと妖怪退治の修行を続けてきた。そして今は君の父、草一郎先生に稽古を付けてもらっている。それだけだ」

 そこまで喋って、龍之助は食事を口に運び始めた。いつまで経っても続きが始まらないので、香澄は首を傾げて訊ねた。

「あれっ、それでおしまいなんですか? もうちょっとこう……こんな友達がいたとか、あんな遊びをしたとか」
「俺の人生はほんの数年前まで、ずっと修行漬けの毎日だったからな。同い年の子供が遊んでいる間も、俺はひたすら修行ばかりしていた。うちの家系の人間はみんなそうだ。どれだけ鍛え抜いていても、妖怪と戦って次の朝を迎えられるかは誰にも分からない。だから厳しい修行が必要になる。誠さんはそういう生活の反動で、あんな性格になってしまったようだが」
「そうですか。とても大変なんですね……」

 うつむいて黙り込む香澄を見て、龍之助は申し訳なさそうに続けた。

「だから面白くないと言ったろう」
「いえ、知る事が出来て良かったです。私の身近な人たちが、そんなつらい世界に身を置いているなんて、想像もしていませんでしたから」
「気にしなくていい。我々の願いは、君が無事であることだ」
「はい……ありがとうございます、本当に」

 その後、食事を終えた龍之助は席を立ち、壁に立て掛けてあった刀を手に取った。

「ありがとう、色々と世話になった。おかげで力が出せそうだ」
「あの、どこへ行くんです?」
「表で見張りを続ける。俺の事は気にせずに休んでくれ」
「ま、待って。待ってください」
「どうかしたのか?」
「さっきあんな事があったばかりで、本当は……すごく怖いんです。だから一緒にいてくれたら心強いな、なんて……」

 龍之助はしばらく意味が飲み込めず、香澄の顔をじっと見ていた。彼女の顔をこうしてまじまじと眺めるのは初めてだったが、間近で見る香澄は思った以上に美しい娘だった。

「気持ちは分かるが、そうもいかないだろう」
「でもさっき、私を守ってくれるって言ってましたよね? だったらなるべく近くにいた方が良いと思いません?」
「それはそうだが……」
「だからお父さんが戻ってくるまで、この家に泊まっていってください」
「なっ、なにっ!?」
「そうすれば私も手の届くところにいますし、外で夜を明かす事もないですし。いいアイデアだと思いません?」

 なぜかニコニコしている香澄とは対照的に、龍之助は顔を引きつらせる。

「バ、バカを言っちゃいけない。家族でもない男女がひとつ屋根の下で過ごすなどと」
「私は平気ですよ?」
「君が良くても世間はそう思ってくれないんだッ!」
「大丈夫、信じてますから」

 再び向けられる香澄の笑顔に、免疫のない龍之助はノーと言う事が出来ない。

(世間知らずなのか大物なのか……先生になんと言えばいいんだ)

 とうとう根負けした龍之助は、諦めたように首を縦に振るのだった。




 長野県某村――午後九時に差し掛かろうとした頃、風杜家別荘の敷地にヘリコプターが着陸した。開いたドアから姿を現したのは、草一郎と誠である。二人は急いで別荘の館に駆け寄り、扉をノックした。しばらくして使用人が顔を出し、草一郎が事情を説明すると館の中へと案内された。奥の寝室に案内されると、ベッドの上で身体を起こした真澄が迎えてくれた。彼女も草一郎と同じように、年齢を感じさせない容姿を保っており、若々しく美しかった。館の様子も含めて、特に異常は見当たらず、草一郎も誠も内心で安堵していた。

「すまんな、こんな時間に突然」
「どうしたのあなた、ずいぶん慌てているみたいだけれど」
「ああ、実はな――」

 草一郎が説明を終えると、真澄はゆっくり頷いた。

「ごめんなさい、こんな大事な時に身体の自由が利かないなんて」
「お前が無事ならそれでいい。後は俺に任せろ」
「あなた……」

 二人の会話を横目にしながら、誠は咳払いをして窓の外を指す。

「仲が良いのは結構だが、どうやら敵も動き出したようだぞ」

 草一郎が部屋の窓に近付いて外の様子を伺うと、暗闇の向こうからオレンジ色の光が浮かび、それは数を増やしながら館のほうへ近付いてきた。目を凝らしてよく見ると、それは懐中電灯や松明を手にした、周辺の村人らしき人々だった。明かりを持っていない村人は、代わりに鎌や斧、鉈といった刃物を手にしており、ある者は首が異様な方向に折れ曲がり、あるものは衣服が血にまみれ、またある者は心臓に包丁が突き刺さったまま歩いていた。

「あれは……死人が動いているのか」

 尋常でない目の前の光景に、草一郎の表情はにわかに険しくなる。

「おそらくヴェータラに襲われた村人たちだ。奴のマントラによって死体が操られているんだろう。連中からは生者の気が感じられない」

 誠が答えるのと同時に、窓の外から男の悲鳴が響いた。ヘリコプターのパイロットが襲われたのだ。彼は機体に取り付いた無数の死人によって操縦席から引きずり出され、体中に鎌や斧を突き立てられて絶命した。死人はさらにヘリコプターにしがみつき、数に物を言わせて強引に押し倒してしまう。横転した機体のプロペラは地面に接触して粉々に飛び散り、エンジンも停止して動かなくなってしまった。

「くっ、やられた。真っ先に移動手段を奪いにくるとは」

 誠は使用人の若い娘を呼び、電話をかけさせてみたが、使用人は受話器を置いて首を振るばかりだった。

「こっちもダメか。完全に孤立させられたな」
「……妙だと思わんか誠」
「死体が現れたタイミングといい、我々が来るのを待ってましたと言わんばかりだ。奴らの狙いは一体なんだ?」
「まずはこの状況を切り抜けんとな。囲みを突破して、死体を操っている奴を叩く」
「ああ、しかしここの守りが手薄になってはまずい。私は館の結界を強化しておくから、それが終わるまで敵を引き付けておいてくれないか」
「うむ、任せろ」
「こっちが片付いたらすぐに加勢する。頼んだぞ」

 草一郎は館の外に飛び出すと、死体の群れに一人飛び込んでいく。誠は館の中を駆け回り、あちこちの柱や壁に魔除けの護符を貼り付けて回っていた。

「――むんっ!」

 振り下ろされた鎌を跳ね飛ばすと同時に、草一郎は死体の両腕を切り落とした。他にも無数の死体が武器を振り回してきたが、厳しい稽古と実戦を積み重ねてきた彼にとっては眠ってしまいそうな遅さである。それらを難なくかわしながら、草一郎は考える。

(一度にこれだけの死体を操るとは、確かに大した妖力だ。だが同時に、遠く離れてこれほどの力は使えまい。術者は必ず近くに潜んでいるはずだ)

 草一郎は感覚を研ぎ澄まし、周囲の妖気を感じ取る事に意識を集中させる。すると無数の死体に混じって、ひときわ濃い妖気を纏う影が、奥の方からじっとこちらを凝視している事に気がついた。

「そこか!」

 草一郎は一気に跳躍し、影に向かって落下しながら刀を振り下ろす。雑魚なら避ける暇も与えずに一刀両断にしていたところだが、黒い影は素早い身のこなしで斬撃をかわしていた。

「その気配にその動き……貴様は確かに斬ったはず」

 周囲の死体が手にした松明で照らし出されたのは、草一郎が以前にも出会った、黒い肌に象の頭を持つ妖怪、ヴェータラに間違いなかった。

「それくらいで俺を倒せると思ったか。それにしても、こんなに早く見つかってしまうとは。肉体だけでなく、優れた感覚の持ち主でもあるようだな」
「……くだらん御託など聞きたくはない。俺を狙う目的、洗いざらい喋ってもらおう」
「クク、話すと思うか?」
「だろうな。ならば外道に対する作法で臨むのみ」

 不敵な嗤い声を漏らすヴェータラに向け、草一郎は静かに刀を構える。すると虫の鳴き声や周囲の物音が、波が引くように消えていき、時間が止まったと錯覚するような静寂が辺りを包み込む。

「素晴らしい、人の肉体がこれほどの――」

 ヴェータラが驚きと賞賛の声を漏らした刹那、草一郎は肉眼では捉えきれない速さでヴェータラの懐に飛び込み、刀を水平に振り抜いていた。

「!?」

 これにはヴェータラも肝を抜かれたらしく、一瞬遅れてその場から飛び退こうとしたが、付いて来たのは上半身だけだった。下半身と切り離された上半身は、切り口から湿った音を立てて地面に落ちた。

「は、速い……ッ!」
「これで二度目だな。以前と同じ技で、まったく同じように真っ二つにされた気分はどうだ」
「クク、前回はお前の運が良かっただけ。この程度で勝ったつもりか」

 ヴェータラは真っ赤な瞳を輝かせ、両腕を使って草一郎の頭上高く飛び上がると、落下しながら襲いかかる。同時に下半身も動き出し、草一郎めがけて蹴りを放ってきた。上と下からの二段攻撃であったが、草一郎は動じることなく踏み込んで迎え撃つ。ヴェータラの上半身は目測を誤ったように落下し、近くにいた死体を巻き込みながら地面に激突、下半身は草一郎を見失ったように横を通り過ぎた直後、膝から上と下を切断されて倒れ、地面で痙攣するようにのたうっているばかりだった。

「バカな、たかが人間にこんな真似が……!」

 ヴェータラの上半身は起き上がって次の行動に出ようとしたが、手をついた瞬間に両肘と首が胴体から離れ、バラバラになって地面に転がった。草一郎は冷たい表情を浮かべたままヴェータラの頭に近付き、長く伸びた鼻に刀を突き刺して地面に固定する。

「さて、これで少しは口を割りたくなったと思うがな。なぜこんな回りくどい真似をする。俺の命が欲しければ、俺だけを狙えば良かろう」
「ハハハ、例え切り刻まれようと喋るものか」

 草一郎は黒い象のような頭を足で踏みながら刀を引き抜き、今度は切っ先を眉間に十センチほど突き刺す。

「ぐおおおッ!」
「だろうな。使い捨ての分身に聞いても無駄だということは分かった。どこかにいる本人を捕まえて締め上げるしかないらしい」
「な、なぜそれをっ!?」
「やはり図星か」

 ヴェータラの声に動揺の色が含まれていたのを、草一郎は聞き逃さない。

「前回貴様と同じ姿の妖怪を斬ったのは違う技、そして胴体ではなく頭から真っ二つにしたはずだ。俺の言葉に疑問を感じなかったということは、貴様は他の分身の経験を引き継いでいないという証拠だ。そして前の奴も同じだったが、貴様らは自分の身体が傷つくことに無頓着すぎる。身体をバラバラにされようが怯えもせず、肉体が傷つく事をまるで恐れていない。痛めつけられ命を失いそうになれば、普通はもっと必死になるものだ。特に貴様のような外道はな。つまり貴様は、あらかじめ本体から分かれていた分身の一人に過ぎまい。本体は別の場所にいて、どこかで貴様を操っていると考えるのが妥当だろう」
「ぬううッ!」

 ヴェータラが鼻を動かして最後の抵抗を試みようとした瞬間、草一郎は刀を持つ手に力を込めて止めを刺す。黒い肌に象の頭を持つ醜い怪物は人間の死体へと変わっていき、同時に動き回っていた死体の群れも、糸が切れたように次々と崩れ落ちて動かなくなった。間もなく、結界の強化を終えた誠が駆けつけたが、静まりかえった辺りの様子に、拍子抜けした表情を浮かべていた。

「なんだ、もう片付いてしまったのか。私の出番も残しておいてくれよ」
「……」
「その顔だと、まだ決着はついてないってっトコかい?」

 草一郎は、ヴェータラとの会話で得た情報と自分の考えを、誠に話して聞かせた。

「――ふむ。確かに君の命を狙うにしては、奴のやり方はお粗末すぎる。ここに来たのも命を狙ってではなく、我々をおびき出すためだとしたら……」

 誠が怪訝な表情で呟くと、草一郎も頷く。

「俺たちは一杯食わされたかもしれん。夜が明けたら急いで朝比奈へ戻ろう。龍之助と香澄が心配だ」

 草一郎は刀を鞘に収め、口元を真一文字に結んだまま館へと戻っていった。
 翌朝、草一郎たちは自家用車で村から出ようとしたが、村の外に通じる道や橋がことごとく破壊されており、さらにもう一日の足止めを余儀なくされてしまった。




 翌朝、筆塚家のリビングで眠っていた龍之助は、心地よい匂いと音で目を覚ます。ソファから身体を起こすと、キッチンに立つ真澄が、鼻歌を歌いながら野菜に包丁を入れているところだった。

(むう、まさか熟睡してしまうとは。いくら結界があるとはいえ……)

 昨夜、龍之助は寝る前に家の結界を張り直していた。草一郎の自宅には基礎の部分に魔除けの結界が施されており、力の弱い悪霊や妖怪などは家の中に入れないようになってはいたが、龍之助は今後の襲撃に備えて結界を作り直し、そのまま眠ってしまったのだった。自らの不覚に頭を抱えそうになっているところへ、香澄の声が聞こえてきた。

「あっ、目が覚めました? もう朝食出来ますから」

 香澄がテーブルに用意していたのはトーストとベーコンエッグ、トマトやレタスを盛りつけた野菜サラダにコーヒーというありふれた内容のもので、準備が終わると「さあどうぞ」と香澄は龍之助を席に座らせた。

「……いただきます」

 龍之助はトーストを囓り、ナイフで三分の一ほど切ったベーコンエッグを口に運ぶ。するとこんがり焼けた豚肉の風味と味が広がり、思わず声を出してしまう。卵も味付けが絶品で、ベーコンと一緒に食べると互いの味を引き立て、さらに味わいが増していく。その合間に瑞々しい野菜のサラダを食べると、油っぽさが中和され、いくらでも次が食べられそうな気がしてくるのである。

「凄いなこれは。特別な作り方をしてるようには見えないのに、本当に美味い」
「うふふ、ありがとうございます。味付けとか火加減とか、ちょっとしたコツでうんと美味しく出来るんですよ」
「そうか、大したものだ。君の料理を毎日食べられる人間は幸せだな」

 言いながらも食事を口に運ぶ手が止まらない龍之助を見て、香澄は嬉しそうな笑みを浮かべている。そんな彼女の表情に照れくさくなり、龍之助はコーヒーを飲んで一休みしながら訊ねた。

「ずいぶん機嫌が良さそうだが……俺が食べている姿を見ていて楽しいのか?」
「はいっ、もちろん」
「どうもよくわからんな……」
「こういうのって、なんだか新婚さんみたいですよね」
「うっ、ゴホッゴホッ!」

 龍之助はむせてコーヒーを噴きそうになりながら、目を丸くして香澄を見る。

「きゅ、急になにを言い出すんだ」
「ほら。映画とかドラマでこんなシーンがよくあるじゃないですか。私も一度、ああいうのやってみたいなーって思ってたんです。いつもお父さんとお母さんを見てるばっかりだったから」
「憧れるのはいいが、その台詞は恋人に言うものなんじゃないのか……?」

 しばしの沈黙の後、香澄はハッと気が付いたように頬を赤くする。

「ご、ごめんなさい、私ったら一人で勝手に」

 相当恥ずかしかったのか、香澄は耳まで赤くなってうつむいている。

「いや、そんな気にしなくても大丈夫だが」
「うう、でも……」
「とにかくだ。君の安全のために、先生たちが戻るまで俺と行動を共にして欲しい。不自由だとは思うが、しばらく我慢してくれ」
「私の方こそ、トロくて足手まといかもしれませんけど……よろしくお願いします」

 目の前で丁寧にお辞儀をする香澄を、龍之助は複雑な気分で眺めていた。妖怪との戦いと修行漬けの日々からは考えもしなかっが、こうして向かい合って食事をしていると、今まで感じた事のない穏やかな気持ちを感じるのである。深く息を吸い込んでこの感情を胸の奥にしまい込むと、龍之助は朝食を平らげて立ち上がった。

「ちょっと電話を借りる」

 リビングの端に置いてある電話の受話器を取り、龍之助は素早く数字ボタンを押す。電話先は蓮華宗の本部で、お互いに伝言があれば、K県を管轄する蓮華宗の支部に連絡する手筈になっていた。しかしいつまで経ってもコール音が鳴り続けるばかりで、龍之助は首を傾げる。

(変だな。普通ならとっくに誰かが電話に出るはずだが)

 二十回ほどコール音を聞いた後、ようやく電話が繋がった。

「もしもし、上田龍之介ですが」

 受話器の向こうからは大きな物音と、雑音ばかりが鳴り響いていて返事がない。その後も雑音とノイズばかりが聞こえて来たが、よく聞いてみると獣の唸り声のような音や、人間の悲鳴らしき声が混じっているのに気が付いた。

「おい、どうした! なにが起こっている!?」

 やがて誰かが受話器を手にしたらしく、息も絶え絶えな声が聞こえてきた。

「だ、誰か聞いているのか……誰でもいい、仲間に伝えてくれ……我々は妖怪の襲撃を受けている……ものすごい数の妖怪が……」
「馬鹿な、そこは強力な結界で守られているはずだぞ! 並の妖怪なら近付く事もできんはずだ!」
「分からない……奴らは突然、群れで現れた……仲間も大勢やられて……誰か……」

 その言葉を最後に、受話器の音が途切れた。龍之助は何度も電話をかけ直したが、それきり繋がらなくなってしまった。

「くそっ、一体どうなっているんだ」

 声を荒げて受話器を置く龍之介に、香澄がおそるおそる訊ねた。

「あの、なにかあったんですか?」

 振り返った龍之介の鬼気迫る表情に、香澄は戸惑いを隠せなかった。

「非常事態だ。すまないが、これから俺と一緒に来てくれないか」
「あっ、はい。分かりました。すぐ準備しますから」

 香澄は自室に戻って手早く身支度をし、リビングに戻ってきた。龍之助は愛用している刀を半分ほど鞘から抜いて刃を眺めていたが、香澄の姿が刃に映り込むと、刀を鞘に収めて布に包んだ。

「行こう。急がなくては」
「はい」

 香澄は龍之助を信頼した様子で、深く頷く。龍之助は朝比奈市内の駐車場に向かい、彼の愛車である黒い高級セダンに乗り込むと、助手席に香澄を乗せて走り出した。行き先はK県西部に位置する明神岳の山中、蓮華宗支部である。そこは蓮華宗の中でも規模が大きく、神聖な霊気が満ちている土地のひとつでもあった。それだけに、妖怪の集団に襲撃を受けたという話は、にわかに信じられるものではなく、草一郎や誠がいないこのタイミングで事件が起きたことを考えると、自分の目で状況を確かめなくてはならなかった。龍之助は焦る気持ちを抑えながら、アクセルを踏み込んだ。

 それから一時間ほどして、龍之助と香澄は明神岳山中にある、蓮華宗支部に辿り着いていた。表向きにはそれなりに規模の大きな寺で、周囲は森に囲まれているため、ここで騒ぎが起きても麓までは届かない。その証拠に救急車や警察といった連中の姿はまったく見られず、辺りは鳥の鳴き声さえ聞こえないほど静まり返っていた。鞘から抜いた刀を手にし、急いで境内へと向かうと、目の前に広がる凄惨な光景に龍之助は目を疑った。

「なんてことだ……」

 仰向けに転がり、腹部を食い荒らされて絶命した者、石灯籠に縋り付いたまま事切れた者、本堂の壁にもたれかかり、血溜りに座り込んでいる者、手水鉢の水に頭を突っ込んだまま動かない者――境内では至る所に死体が転がっていた。それらに混じって見慣れない妖怪の死体もいくつかあったが、人間の死体の方が数は多かった。さらに龍之助を驚かせていたのは、この土地に張り巡らされていたはずの結界が、消えて無くなっている事だった。

「あ……ああ……っ」

 詰まるような声に気付いて振り返ると、香澄は真っ青な顔をして身体を震わせている。龍之助は彼女への気遣いが欠けていた事を恥じつつ、彼女の目元に手を被せて顔を背けさせた。

「すまん、こんなものを見せるべきではなかった」
「ど、どうしてこんな……ひどすぎます」
「俺にもなにが起きているのかわからないんだ。それに残りの妖怪がどこかに潜んでいるかもしれない。俺の傍を離れるな」
「は、はい」

 香澄は龍之助の腕を掴み、目を閉じて恐る恐る後から付いてきていた。龍之助はひとひずつ建物を覗いて回ったが、生存者はなく、どこも死体と血の匂いで溢れかえっているばかりだった。一通り調べた後、普段は厳重に封印されているはずの奥の院の扉が開かれ、結界の力の源になっている黒瑪瑙の宝玉が、床に叩き付けられ砕け散っていた。

「誰が結界石を……ここは蓮華宗の中でも、ごく限られた人間しか立ち入る事の出来ない場所のはずだ。それがどうして……」

 疑問は尽きなかったが、答えは出ない。龍之助は砕けた黒瑪瑙の破片を集め、小さな布袋に入れて香澄に渡した。結界を作る力を失ってしまったとはいえ、この石には強力な魔除けの力が宿っているからだ。奥の院から長い石段を下り、再び本堂の手前まで戻ってくると、どこからともなく不気味な笑い声がした。

「フフフ、一足遅かったようだな」
「誰だ!」

 声が聞こえた方向に素早く身構えると、本堂の屋根の上に、黒い肌に長い手足、そして象の頭を持つ、奇怪な妖怪が座り込んでこちらを見ていた。長い鼻と腕をぶらぶらと動かし、真っ赤な瞳を光らせながら妖怪は喋った。

「我が名はヴェータラ。海を越えてきた妖怪……と言えば分かるかな」
「ということは、お前が先生を襲った奴か!」
「そうだ。あの男の肉体は素晴らしい。そしてあの強さは我々も手を焼くのでな、少しばかり遠くへ行ってもらった」
「お前の狙いは先生の命ではなかったのか」
「無論、奴の命も頂く予定に入っている……が、まだその時ではない」
「ということは、お前の本当の狙いは――」

 その先は言葉を続けるまでもない。ヴェータラは真っ赤な目で香澄の姿を捉えながら、不快な嗤い声を響かせた。

「そういうことだ。そしてお前たちはまんまと誘いに乗ってくれたというわけだ」

 龍之助は刀の切っ先をヴェータラに向け、刺すような目つきで言う。

「大層な自信だな。仲間の妖怪もほとんど見当たらないようだが」
「確かにここの坊主どもは手強かった。連れて来た手下のほとんどが倒されてしまったからな」
「……ひとつ腑に落ちん。お前如きでは近付く事も出来ぬ結界が、ここにはあったはずだ。どうやって結界をくぐり抜けた」
「簡単なことさ。外から入れないなら、中から入れてもらえばいい。ククク」
(くっ、信じたくなかったが……内通者がいるのか――!)

 その言葉を聞いた途端、自分たちが圧倒的に不利な立場に置かれていることを龍之助は理解する。妖怪と通じてこの状況を引き起こした裏切り者がいる以上、味方の応援は期待できない。そして単独で姿を見せたこの妖怪にも、自分たちを仕留めるための策があると見て間違いないと龍之助は悟った。

(まずい……厄介な事になった)

 龍之助は自分がすべきことを即座に判断し、香澄の手を取って走り出す。境内を駆け抜けて駐車場へ戻ろうとした二人だったが、突然起こった異変に足を止めざるを得なかった。境内に不気味な呪文らしき声が響いた直後、周囲に転がっていた死体が、息を吹き返したように起き上がり、二人に向かって近付いてくるのである。

「きゃあっ!?」

 血まみれの死体が動き出すという光景に、香澄は口元を押さえ、今にも気を失わんばかりに怯えている。龍之助は香澄を建物の壁際まで下がらせ、香澄に誰も近づけまいと刀を構える。やがて立ち並ぶ死体の奥から、砂利を踏み鳴らしてヴェータラが姿を現した。

「死体を操作する――それがお前の術か」
「いかにも。我が術は反魂のマントラ……あらゆる死体を意のままに操ることが出来るのだ」
「大した芸だな。だが死体を動かす程度で俺は倒せないぞ」
「では少し試してやろう」

 ヴェータラが両眼を光らせると、周囲の死体が龍之助めがけて襲いかかって来た。しかし彼は一切動じることなく、近付いてきた死体を烈風の如き素早さで斬り捨てた。手足や胴体を切断された死体はその場に崩れ、龍之助の周囲にはバラバラになった人間の破片が散乱していた。

「なるほど、確かに口先だけではない。ではこちらも本当の力を見せてやろう」
「なんだと?」

 ヴェータラが強い妖気を放つと同時に、身体から黒い煙が染み出して、地を這いながら辺りに充満し始めた。するとその黒い煙に触れた死体が、次々とヴェータラと同じ姿に変身していく。龍之助に切断された死体ですら、それぞれが磁石のようにくっついて元通りとなり、新たなヴェータラとなって立ち上がってくる。

「私は死体さえあれば、いくらでも自分と同じ能力の分身を生み出せる。ここには丁度、おあつらえ向きの死体がたくさん転がっているな。フフフ」

 突如、正面にいた分身の一体が飛び掛かってきた。龍之助は反射的に迎え撃とうとしたが、ヴェータラの分身は左腕を犠牲にしながら、強引に龍之助を殴り付ける。

「……ぐっ!」

 咄嗟に両腕で防御の体勢を取ったものの、重い丸太で殴られたような衝撃を受け、龍之助は数メートルほど吹き飛ばされた。敷き詰められた砂利の中に背中から落ちた龍之助だったが、すぐさま立ち上がって身構えた。だが刀を握る手が痺れ、感覚が鈍ってしまっている事に龍之助は戦慄した。

(なんて馬鹿力だ。動きも早いうえに、身体を斬られても動き続ける事ができる。こいつら全部が同じ力を持っているのか……!)

 驚く龍之助を見て、ヴェータラは愉快そうに嗤いながら、五、六体の分身をさらにけしかける。いくら腕の自信があるといえど、こればかりは龍之助も防御に徹するので精一杯であった。

「顔色が悪いぞ。さっきまでの威勢はどこへ行った?」
「くそっ!」

 反撃に転じようにも、敵の数が多すぎる。龍之助は次第に押し込まれ、徐々に体力を消耗し始めていた。

(ああ、なんとかしなくちゃ)

 必死に耐える龍之助だが、そう長くは持たないということは香澄にも見て取れた。なにか手助けが出来ないかと考えていると、自分が握りしめている布袋のことを思い出した。

(そうだ、魔除けの石ならあのお化けにだって効くはずだわ)

 真澄は袋を妖怪にぶつけてやろうと思ったが、同じ姿をしたヴェータラが大勢いては、どれを選んでいいのか分からない。少し迷ってしまったが、急がなくては龍之助が危ないと思い、もう一度ヴェータラの群れをよく見て、その中の一体めがけて袋を投げつけた。ヴェータラはその袋を手で受け止めようとしたが、袋に触れた途端に凄まじい悲鳴をあげて仰け反った。

「ギャアアアアアアッ!?」

 すると同時に、龍之介を襲っていたヴェータラの分身も動きを止めて苦しみ始める。龍之助はすぐさま間合いを取り、刀の切っ先を地面に向けた構えを取り、精神を統一し呪文を唱え始めた。

「ナウマク・サマンダ・ボダナン。ナウマク・サマンダ・ボダナン。ナウマク・サマンダ・ボダナン――!」

 呪文と共に膨れ上がった霊力を、龍之助は両腕に集中させる。そして左手の指先で刀の鍔から切っ先に向けて刀をなぞると、最後の言葉を唱えた。

「――インダラヤ・ソワカ!」

 すると刀身は青白い閃光を放ち、電線がショートした時のような音を立て始めた。

「上田家の守護神は雷を司る神。我が奥義は破邪の雷を刃に宿し、邪悪を撃つ!」

 龍之助は矢のように飛び出し、目の前にいたヴェータラの分身に斬り掛かる。刹那、斬られた分身は閃光に包まれ、空気が割れるような轟音と共に破裂した。飛び散った身体は芯まで焼け焦げ、ボロボロになって崩れ去った。

「いくら分身を増やそうとも、操る死体が炭になってしまえば二度と操れまい!」

 霊力を電撃に変換し、それを刀身に乗せて攻撃する。剣と術の両方を高度に扱える龍之助ならではの技であった。斬られた相手は斬撃と同時に強力な電撃も浴びる結果となり、その威力は強烈の一語に尽きる。師である草一郎は霊力を乗せた斬撃が得意であったが、龍之助は刀に乗せる霊力を術に置き換えることで、より強力で効率的な攻撃手段を得たのである。彼は手を休めず、続けざまヴェータラに斬り掛かっていった。斬られた分身はどれも消し炭のようになって崩れ落ち、次々と数を減らしていく。分身の全てを倒すほどの余裕は無かったが、相変わらず統制が乱れているらしく、龍之介に向かってはこなかった。

「お、おのれ、あと少しというところでッ!」

 袋をに触れて苦しんでいたヴェータラは、腕から白い煙を吹き出しつつ跳躍し、本堂の屋根に飛び乗って遠くへと逃げていった。龍之助は深追いはせず、地面に落ちた袋を素早く回収すると、香澄を連れて境内から脱出して駐車場に向かった。乗ってきた黒いセダンは幸運にも無事で、龍之助は香澄と共に急いでその場を離れた。

「――あの、龍之介さん。一体なにが起きているんですか?」

 山中を二十分ほど走り続けたところで、ずっと黙り込んでいた香澄がそう訊ねた。龍之助はハンドルを握ったまましばらく考え込んでいたが、やがて重い口調でこう答えた。

「俺たちは嵌められた。理由は分からないが、奴らの目標は君だ。一番の障害になる先生を君から遠ざけ、孤立させるのが本当の狙いだったんだ。そして妖怪と通じて結界を破壊し、この惨状を引き起こした裏切り者がいる。しかもそいつは蓮華宗の中でも、高い地位にいる人物だ」
「私たち、これからどうなるんですか?」
「街には戻れない。人が多い場所に行けば、さっきの妖怪はもっと多くの人間を死体に変えて襲ってくるだろう。それに裏切り者が次の手を打っている可能性も高い。山の反対側に出れば温泉街があるんだが、そこの外れに八房家の人間が使っている別荘がある。先生たちと合流するまで、そこで身を潜めてやり過ごそう」

 やがて車が長い下りのカーブに差し掛かった時、突然背後から大きな音と衝撃が起こった。龍之助がバックミラーで後ろを確かめると、車のトランクが中から突き破られ、ヴェータラの黒い上半身が這い出しているところだった。

「くそっ、トランクに潜り込んでいたのか!」

 ヴェータラは長い腕を伸ばして車の上によじ登り、フロントガラスに覆い被さって視界を奪うと、助手席のガラスを叩き割って香澄に腕を伸ばす。

「きゃあっ!?」

 香澄は咄嗟に身を縮めるものの逃げ場がなく、腕を掴まれ車外へ引きずり出されそうになってしまった。

「させるか!」

 龍之助は運転席の横に隠してあった短刀を抜き、素早く投げつける。刃が黒い腕に突き刺さった瞬間、青白い閃光と共にヴェータラの腕は焼け焦げて崩れ落ちた。

「……!」

 ヴェータラは崩れ落ちた腕に目をやった後、フロントガラスに牙を何度も突き刺して穴を開け、そこから滑り込んだ長い鼻が、龍之助の首に巻き付き締め上げた。龍之助は喉元に霊力を集中して防御したが、引っ張られただけでシートベルトの金具が弾け飛ぶほどの怪力で、普通の人間なら即座に首の骨が折れてしまうところであった。

「……ぐッ!」

 龍之助は太いゴムのような鼻を解こうと試みたが、単純な力のみではヴェータラの方が勝っており、素手ではびくともしない。残る武器は愛用の刀だが、後部座席に置いてあるうえに、狭い車内では鞘から出すことも難しい。呼吸ができないために意識が朦朧とし始め、車は制御を失ってガードレールを突き破り、道路脇の斜面へと落下していった。車は二、三回転ほど横転した後、斜面に生えた木に激突、そのまま引っ掛かるような形で止まった。

「ううっ」

 絞り出すような声を出しながらも、最初に目を開けたのは香澄だった。落下と横転でひどい衝撃を味わいはしたが、シートベルトのおかげで身体が固定され、幸運にも無傷に近い状態だった。後部座席に置いてあった龍之助の刀は、落下の際に刀身が外に飛び出してしまっていた。いったい何が起こったのかと顔を上げると、ひび割れて変形したフロントガラスの向こうで、車体と木に胴体を挟まれて動かなくなったヴェータラの姿が、視界に飛び込んできた。目の前に迫る怪物に悲鳴をあげそうになったが、もしかしたらまだ生きているのではないかと思い、香澄は必死に声を飲み込んで耐えた。龍之助はハンドルに覆い被さったまま動かず、額からは真っ赤な血が溢れている。目の前のガラスには血がべったりと付着し、衝撃の激しさを物語っていた。

(ああっ、大変だわ!)

 香澄は自分のシートベルトを外すと、龍之助の身体を抱きかかえて引っ張り始めた。運転席側は木に激突していてドアが変形し、そちら側からは外に出られなかったからだ。ぐったりした龍之助の身体は驚くほど重く、彼女が懸命に力を込めても、少しずつしか動かせなかった。

「しっかりして……目を開けて、お願い――!」

 あと少しで龍之助を外に連れ出せるというところで、ヴェータラの虚ろな両眼に不気味な光が宿る。

「逃がさん……!」

 車と木の間に挟まれて身動きの取れないヴェータラだったが、再び長い鼻を伸ばして二人に襲いかかる。咄嗟の出来事に反応できない香澄が、これで最期かと諦めかけたその時、突然ヴェータラの断末魔が響き渡った。

「ギャアアアアアッ!?」
「その薄汚い指で、彼女に触れるんじゃない!」

 意識を取り戻した龍之助は、後部座席の刀を手に取り、ヴェータラの眉間に突き刺していた。ヴェータラは痙攣した後に動かなくなり、やがて元の死体へと戻っていった。

「しっかりしてください、大丈夫ですか?」

 香澄は今にも泣き出しそうになりながら、血まみれの龍之助の顔を覗き込む。

「や、奴はまだ滅んでいない。早くここから離れよう。目的の場所まであと少しのはずだ……」

 龍之助は刀と鞘、そして小さなバッグに入れた持ち物を回収し、香澄の肩を借りながら斜面をよじ登っていく。それから二人で山中の道路を歩き続け、やっとの思いで八房の別荘へ辿り着いた。別荘は脚ノ湖という湖の畔にあり、湖が一望できる眺めと、小さいながらも立派な露天風呂があるという、なかなか豪華な建物であった。龍之助は合鍵で別荘のドアを開けると、倒れそうな足取りでソファに座り込む。香澄は別荘に置いてあった救急箱を持ってくると、龍之助の額の血を拭いて包帯を巻き、心配そうに訊ねる。

「大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ」
「ああ……アバラが五、六本ほど折れているようだし、内蔵も潰れかかった。頭の骨も多分ヒビが入っているだろうな」
「す、すごい重傷じゃないですか。救急車呼ばなきゃ」

 慌てて電話に向かおうとする香澄の腕を掴み、龍之助は「よせ」と呟く。

「今は入院している暇などない」
「でも、このままじゃ死んじゃいます」
「大丈夫だ、ちゃんと方法はある……奥の戸棚に入ってる物を持ってきてくれないか」

 言われた場所を探してみると、戸棚の中には数枚のお札の他に、束になったお香と香炉が置いてあった。香澄はそれらを持って、ソファの前のテーブルに置いた。

「ありがとう、助かる」

 龍之助は身体を起こし、香炉にお香を立てて火を付けた。それからお札を自分の額と胸に貼り付けると、疲れたようにソファに背を預けた。

「あの、これは?」
「治癒の術札と、霊力回復のお香だ。これで半日もじっとしていれば動けるようになる。我々妖怪退治屋は、こうやって傷の回復を早める訓練も積んでいるんだ」
「そうですか、よかった」
「それからもうひとつ、これを建物の入り口に貼り付けてくれないか」

 龍之助は自分の持ち物である小さなバッグの中から、種類の違うお札を取り出して香澄に渡す。これは以前、八海老師から受け取った隠れ身の札であった。

「そのお札があれば、妖怪からは我々が見えなくなる。これでしばらくの間はやり過ごせるだろう」

 香澄は言われたとおり、隠れ身の札を玄関に貼り付けてくると、安心した様子で龍之助の隣に座り、疲れたようにため息をつく。うなだれた彼女の横顔を眺めているうちに、龍之助の口から自然と言葉が漏れた。

「……すまなかった」
「えっ?」
「俺が未熟なばかりに、君をこんな危険な目に遭わせてしまった。やはり俺は、君の前に現れるべきじゃなかったのかもしれない」
「そ、そんなことありません」

 と、香澄は大きく首を振り、龍之助の手を握って続けた。

「私は龍之介さんに会えて良かったと思ってるんです。今でも不安でたまらないけど……あなたが話してくれたこと、私を守ってくれると言ってくれたことも全部、嘘じゃないって分かりましたから――」

 そこで緊張の糸が途切れたのか、香澄は龍之助の肩に顔を埋め、気を失うようにして眠ってしまった。龍之助も傷の治療に意識を集中させ、目を閉じた。




 二人が目を覚ました時、脚ノ湖の彼方に夕日が沈み、空と水面を赤く染め上げていた。風も緩やかで、昼間の出来事が全て悪い夢に思えてくるような美しい光景が、どこまでも広がっていた。

「綺麗……」

 別荘の窓から景色を眺める香澄に目をやりながら、龍之助は自分の身体の様子を確かめた。全快とは言えないものの、普通に動き回るには問題無い程度に傷は回復していた。彼は額と胸に貼った治癒の術札を剥がし、香澄の傍に近付いた。

「こんな時、君が安心できる言葉をかけてやるべきなんだろうが……前に言ったとおり、俺は嘘が苦手だ。だから落ち着いて聞いて欲しい」

 香澄は返事をせず、ただじっと窓の向こうを見つめている。しばし間を置いてから、龍之助は続けた。

「俺たちは当分の間、ここから出られない。うかつに表を歩き回れば、すぐに妖怪どもに見つかってしまう。一度失敗している以上、奴らも必死のはずだ。それにここは朝比奈市から遠く離れているから、先生たちが俺たちの居場所を見つけるにも時間がかかるだろうし、裏切り者の妨害があるかもしれない。俺たちの状況は圧倒的に不利だ」
「それって……もう諦めろってことですか?」
「違う」

 龍之助は香澄の肩に手を置き、迷わずに言った。

「言ったはずだ、君を守るのが俺の役目だと。どんな敵が相手だろうと、それは変わらない。俺が伝えたかったのはそれだけだ」

 香澄は少し困ったような表情を浮かべ、訊ねた。

「あの……聞いてもいいですか?」
「ああ」
「どうしてそこまでしてくれるんです? 私の事なんか放っておけば、あなたは助かるのに。いくら仕事でも、こんな死にそうな目に遭ってまで……」
「確かに最初は、仕事として護衛を引き受けただけだった……だが今は別の理由がある」
「え……?」
「俺の人生の中で、君と一緒にいる時ほど心が安らいだことはなかった。出来ればこの先もずっと、傍にいて欲しいと思っている。そのためなら、俺にとっては命を賭ける価値が充分にある。これが俺の正直な気持ちだ」

 龍之助が言い終えると、香澄はゆっくりと振り向いた。両眼には涙を浮かべ、笑顔と泣き顔が混じり合ったような表情をしながら、龍之助の胸にもたれかかるように身体を預けた。

「ずるいです……こんな時に」
「あ、いや。す、すまん」
「私だって、男の人とこんな風にお喋りしたり、一緒に過ごしたりするのは初めてだったのに。これで最後になるかもしれないなんて……」

 龍之助の胸に顔を埋めてしばらく泣いた後、香澄は自分の望みを伝える。龍之助は震える香澄を抱きしめ、静かに頷く。肌の温もりと、唇に触れる熱さ。そしてお互いの息遣いだけがその時の二人の全てだった。




 それから二週間ほど、龍之助と香澄は別荘で過ごした。別荘には地下室があり、こうした非常時のために一ヶ月分ほどの食料が備蓄されていたため、食べ物に困る事はなく、龍之助の傷もほぼ全快していた。誠が渡してくれた隠れ身の札のおかげで、幸いにも妖怪たちに居場所を知られずに済んでいたが、最後の札を使い切ってしまった翌日から、別荘の様子を遠くから窺う、不穏な気配が近づき始めたのを龍之助は感じ取っていた。同じ頃、草一郎たちも龍之助と香澄の行方を追い続けていたが、姿の見えない裏切り者の妨害に遭い、捜索は思うように進んでいなかったが、脚ノ湖周辺で発生した無数の妖気が、一カ所に集まりつつあるという報せを受け、そこに龍之助と香澄が居ると踏んで現場に急行していた。


 そして最後の夜、龍之助は別荘の表に出て、一人夜空を見上げていた。ついさっきまで満月が輝いていた空は、黒く重い雲に覆い隠され、湿った風が湖面から吹き始める。時折頬に水滴が当たり、本格的に降り始める前兆が見られたが、龍之助には都合がよかった。香澄は本人に悟られないよう術札で眠らせ、別荘には妖怪の進入を拒む結界が施してある。全ての準備は整っていた。

(俺がやるべき事はひとつだ。迷いはない)

 やがて湿気を含んだ風の中に、不快な妖気の匂いが混じり始めた。妖気は湖面を滑るように漂っており、ゆっくりと近付いて来る。やがて暗闇の向こうから現れたのは、観光客を乗せる遊覧船だった。もちろんこんな時間に遊覧船が出ているはずもなく、照明も点けられていない。だが龍之助には、船の中に邪悪な気配がぎっしり詰まっているのがはっきり感じられた。遊覧船は真っ直ぐ浜に突っ込み、斜めに傾いて止まった。その衝撃で割れた窓から、ゾロゾロと黒い影が這い出し、数え切れないほどの大群となって近付いてきた。龍之助は鞘から刀を抜き、群れを成す黒い影の群れ――ヴェータラと対峙する。

「来たか……」
「哀れだな。味方と合流することも出来ず、たった一人で我々に立ち向かわねばならんとは」
「貴様に哀れんでもらう筋合いは無い」
「強がりはよせ。この数を相手に、どうあがいてもお前の勝ち目はない。大人しく引き下がるなら、お前は見逃してやっても構わんのだぞ。どうだ、いい取引だろう?」

 ざっと見ただけでも、ヴェータラの分身は百体かそれ以上の数である。

「……俺一人を始末するだけのために、それだけの人間を犠牲にしたのか。そんな外道が取引とは笑わせる」
「ククク、交渉決裂だな。つまらん意地を張ったせいで、お前は惨めな死を迎えるのだ」

 ヴェータラは一斉に襲いかかった。数に物を言わせ、力ずくで押し潰そうとするが、闇に弧を描く軌道に触れた途端、身体を切り裂かれると同時に、強烈な電撃を浴びて消し炭となった。

「甘く見るな。俺がいる限り、一匹たりとも先には行かせん!」

 龍之助は地面を蹴り、ヴェータラの群れに突っ込み、無数のヴェータラに斬り掛かった。あっという間に十体ほどを灰に変えてしまう烈火の如き勢いは、数で圧倒的に勝るヴェータラたちが思わず足を止めてしまう程であった。

「俺を倒したいなら貴様も本気で来い。船の中に残している連中も含めてな」
「ぐっ……気付いていたのか」
「貴様のような奴が考える事は、大体相場が決まっている」
「いいだろう、ならば望み通り八つ裂きにしてやる!」

 龍之助の読み通り、遊覧船の中からはさらに数十体もの分身が現れた。龍之助は動き続けながら、遊覧船の方向に意識を集中させて気配を探る。

(もう船からは妖気を感じない。これで全部か)

 龍之助には最初から分かっていた。いくら腕に自信があろうと、この大群を相手に身体ひとつで戦い続けるのは不可能だということを。事実、彼の勢いは落ち始め、数の力で強引に押し返され始めていたからだ。続けざまに繰り出される攻撃を防ぎきれず、ついには立場が逆転してしまった。ヴェータラは自分が優位に立った余裕からか、すぐに止めを刺そうとはせず、わざと苦しむように手加減して痛めつけた。龍之助は玩具のようにあちこちに吹き飛ばされた後、背中から地面に叩き付けられた。

「ぐふっ……!」
「ハハハ、見ろ。我ら百体以上に対して、お前はたった一人。やはり無謀だったのだ。結局手も足も出ず、惨めに死んでいく気分はどうだ?」

 ヴェータラの群れは闇に浮かぶ赤い目を輝かせ、龍之助を取り囲んで下品に嗤った。その時、にわかに大粒の雨が降り始め、夜空に雷鳴が轟き始めた。

(よ、よし、絶好のタイミングだ……これなら――!)

 龍之助は震える脚で立ち上がり、うなだれたまま口元を動かして呪文を唱え始めた。ほとんど聞き取れなかった声は徐々に大きくなり、龍之助の霊力が体内で爆発的に高まっていく。

「なんだこの異常な霊力は。おい、一体なにをやろうとしている」

 ようやく異変に気づいたヴェータラだったが、すでに遅かった。雨に打たれながら顔を上げた龍之助の両眼には、決死の覚悟が宿っていたからだ。いち早く逃げ出そうとした分身もいたが、突然見えない壁に阻まれたうえ、瞬時にして蒸発し消えてしまった。

「なにっ……!?」
「気付くのが遅かったな……俺がただやられているだけだと思っていたのか。お前たちの足元をよく見てみろ」

 ヴェータラの周囲を取り囲むようにして、黒瑪瑙の破片が散らばっていた。龍之助は攻撃を受けながら、気付かれないようにずっとこの仕掛けを施していたのである。

「い、いつの間に!」
「我が宗家である八房には、古来より受け継がれた究極の結界術がある。俺はまだ未熟ゆえに術を使いこなせはしないが、この天気と結界石の助けがあれば、それに匹敵する法力を使うことができる。この結界の中にいる者は誰であろうと、雷の嵐に焼き尽くされて灰と化すだろう……もはや逃れることはできん」
「ば、馬鹿な、我らを道連れに差し違えようというのか!?」
「我が身だけを可愛がり、捨て駒の分身を山ほど用意しなければ人間一人殺せない……そんな最低のゲス妖怪には、俺の気持ちなど理解できまい」

 必殺の気迫を込め、龍之助はありったけの霊力を刀に込め、天に向かって打ち上げた。

「破邪の雷よ、邪悪な集団を打ち砕け――雷帝八極陣!」

 龍之助が叫ぶと同時に、八本の稲妻が結界石に落ち、それらは光と熱の巨大な壁を作り出した。その中を荒れ狂うように電撃が駆け巡り、ヴェータラの群れを次々に焼き尽くしていく。

「に、逃げられんッ! 人間がこれほどの術を使うとは……ッ!」
「ま、まだこの程度では終わらん……この法力は、八極に落ちた稲妻が互いの力を増幅させ、その威力を数倍にも増す。悪鬼外道、塵も残さず消滅せよ!」

 結界の中で渦巻く電撃は激しさを増し、そのエネルギーが限界に達した時、全てを貫く巨大な稲妻が天から降り注いだ。周囲は白以外の色が消え失せ、空気を引き裂く轟音と、大地をも揺るがす衝撃が全てを呑み込む。それは真夜中の夜明けのようであったと、対岸で落雷を見た者は語った。

「う……」

 その頃、別荘のベッドで横たわっていた香澄が目を覚ました。彼女は龍之助の姿が見当たらず、外から不穏な気配が色濃く漂っているのを感じ、急いで表に飛び出した。そこで彼女が見たものは、半径数十メートルにわたってすり鉢状にえぐれた地面と、その中央で両膝を付き、刀を手にしたまま、焼け焦げて動かない龍之助の姿だった。

「龍之介さん!」

 香澄は龍之助に駆け寄るが、龍之助はぴくりとも動かない。

「お願い、目を開けて! 返事をしてください!」

 香澄は目に涙を浮かべ、龍之助の肩を何度も揺さぶる。しかしいつまで経っても目を開けない龍之助の顔を見ているうちに、彼女は気付いた。目の前でうなだれる龍之助が、息をしていないことを。

「そんな……どうして……」

 絶望のあまり力が抜けていく香澄の目の前で、突然足元の地面が音を立てて盛り上がり、おぞましい姿をした生首が飛び出した。大半が焼け崩れ、顔面の半分ほど骨が露出したヴェータラのものだった。

「ハーッハハハ! 危なかったぞ……あの瞬間、分身どもを全て盾にして地中に逃れなければ、今頃消滅していたに違いない。だが、最後の最後で生き残ったのはこちらだったようだな」

 勝ち誇ったように嗤った後、ヴェータラの生首は宙に浮かんだまま香澄に目をやった。

「悲しくて仕方がないといった顔だな。お前にとって、この男の死はよほど辛いか。ならばその苦しみを消し去ってやろう」

 ヴェータラが残った片目を光らせると、黒い煙のような影が龍之助に乗り移った。すると今までぴくりともしなかった龍之助が、ゆっくりと顔を上げ始める。

「ほう、思ったより身体が痛んでいない。あの雷撃を霊力で耐え抜こうとしたが、力尽きたといったところか。これほどの肉体を得られるとは幸運だ、ククク」

 歪んだ笑みを浮かべる龍之助を見て、香澄は口元を押さえて絶句した。彼の口から発せられる声は、おぞましい妖怪のものに変わり果てていたからだ。

「どうした、喜ばないのか」
「や、やめて……その人から出ていって!」
「そうはいかん。使える死体はこいつが全て消滅させてしまったからな。当分はこの身体で楽しませてもらうとしよう。なんなら夫婦ごっこの続きでもするか?」

 龍之助に憑依したヴェータラが立ち上がり、香澄に腕を伸ばそうとしたその時だった。突然龍之助の肉体が硬直し、金縛りに遭ったように動かなくなった。

「な、なぜ動かんッ!?」

 その時、動揺するヴェータラの声に重なるように、龍之助本来の声が聞こえてきた。

「やはり思った通りか……もしも仕留め損なった時、貴様がどんな行動を取るかを考えなかったと思うのか。俺はあえて身体を明け渡すため、肉体から魂を切り離してこの時を待っていたのだ」
「ぐっ……恐るべき執念よ。だがこの死にかけた肉体でなにができる。こうして身動きが取れぬまま、我慢比べでもするつもりか? こちらは一向に構わんがな……肉体が死に至り、お前の魂が消え去るのを待ってから、あらためてこの身体を頂くのみ」

 ヴェータラの言葉通り、状況は圧倒的に不利であった。龍之助の肉体はとうに限界を超え、霊力もほとんど底を突いている。このまま時間が過ぎれば、なにもしなくとも死を迎えるのは確実である。だが龍之助には、こうなることも全て覚悟の上であった。

「……人間を舐めるな」
「なに?」
「貴様だけは絶対に逃がさん!」

 突然、龍之助の身体が動いた。刀を持つ手首を返し、自らの胸を刃で刺し貫く。あまりの出来事に香澄は悲鳴すら出せず、ただ目を見開いたまま震えていた。

「ぎゃああああッ!? な、なんだこれは、い、痛い……!?」
「ごふっ……こ、この刀は……降魔調伏の法力を込めて鍛えられたもの。冥府魔道の輩を始末するために作られた霊刀だ……貴様は俺の身体に縫い止められ、もはや逃げることは出来ん。自分が助かりたい一心でこの身体に入り込んだ、その浅ましさが貴様の敗因だ。二度とこの世に舞い戻らぬよう、地獄の底まで付き合ってやる」
「あああ、い、嫌だ、助けてくれえええッ!」

 怯えきった悲鳴を上げるヴェータラを押さえ込み、龍之助は傍らに座り込む香澄の顔を見つめて微笑を浮かべ、耳元で最後の言葉を伝える。

「すまない、こうするしか方法が無かった。わずかな間だったが、君と一緒に過ごせて楽しかった。もう君の料理を食べられないのが……本当に……残念だ」

 龍之助は残されたわずかな力を振り絞り、香澄から離れて呪文を唱えた。

「ナウマク・サマンダ・ボダナン……インダラヤ・ソワカ――!」

 刹那、天から雷光が降り注ぎ、龍之助の身体を貫く霊刀に降り注いだ。目も眩む閃光と轟音の中に、龍之助の姿は消えていった。

「あ、ああ……」

 一人取り残された香澄は、雨に打たれながら呆然としていた。ほんの少し前まで龍之助がいた場所には、黒く焼け焦げた刀の一部が残っているだけだった。香澄の嗚咽と涙は、勢いを増す雨に溶けて流れてゆく。だが、香澄を襲う過酷な現実は、まだ全てを終わらせてはくれなかった。

「自らを犠牲にしても使命を果たす……殊勝な心がけと言いたいところだが、フフフ。それにしてもヴェータラの奴め、あれだけ大量の死体を用意してやったのに、たった一人の人間と相打ちになるとはな。所詮はその程度の雑魚だったか」

 突然声がして振り返ると、いつの間に現れたのか、白装束に身を包んだ男が立っていた。顔立ちは二十代くらいの青年に見えるのだが、髪は真っ白で、肌が不自然なほどに白く、能面のように固まったまま動かない笑顔を貼り付けた人物だった。あるいはそれが本当に人なのだろうかと、香澄は直感していた。

「だ、誰……?」
「私の名か? そういえば自分がどんな名であったのか、すっかり忘れてしまっていたな……」

 白装束の人物は考え込む仕草をし、やがて顔を上げて言った。

「そうそう、思い出した。私の名は道暗(どうあん)。憶えなくても構わんがね」
「な、なにを言っているの……?」
「色々と手間取ったが、ようやく時が訪れた」
「手間取ったって……まさか」
「そうだ。全てはお前を手に入れるために私が仕組んだこと。ヴェータラがたった一人の人間に倒されるとは思いもしなかったが」
「そ、そんな……なんのためにこんなひどいことを!」
「……見るがいい」

 そう言うと、道暗と名乗った白装束の男は、着物の袖をまくり上げる。その腕は老人のように痩せこけ、骨と皮ばかりで筋が浮かんでいる。

「この身体はなかなか優秀だったが、すでに百年近く使っているのでな……そろそろ限界が来ているのだよ。そこで次の肉体に選んだのがお前というわけだ」
「どうして……どうして私が……」
「そうか、お前の家族はなにも教えていないようだな。お前自身が何者なのかを」
「え……」
「もっとも、これから消えてゆくお前がそれを知る必要はない。諦めて大人しくすることだ」

 言われるまでもなく、香澄の気力は尽き果てていた。彼女には今までの出来事が全て、悪い夢のように思えてならなかった。力なく座り込んだまま放心している彼女の耳に、道暗の唱える不気味な呪文が聞こえて来たが、どういうわけかなにも起こらなかった。

「……?」

 不思議に思って見上げると、道暗は表情を歪めて唇を噛み、憎らしげに香澄を見つめている。

「くっ、なんということだ。まさかこの短い間に……これでは術が効かぬ! なんと忌々しい。このままくびり殺してくれようか」

 道暗は憎悪を剥き出しにした表情で香澄の喉元を掴んだが、なにかに気付いた様子で力を緩め、香澄を解放した。

「ククク、そうか。これは面白い」
「……?」
「今は生かしておいてやる。だがそう遠くないうちに、お前は自らの命運を左右する決断を迫られることになるだろう。その時にお前自身がどんな選択をするのか、楽しみにしているぞ。では、縁があればまた会おう。さらばだ」

 そう言い残し、道暗はかき消すようにいなくなってしまった。そのまま香澄も気を失って倒れたが、直後に駆けつけた草一郎と誠によって彼女は保護され、病院へと運ばれた。




「――そしてワシらは、香澄嬢ちゃんからあの場所で起こった全てを聞いた。これが上田龍之助という男の生涯じゃよ」

 そこまで語り終えると、八海老師は湯気の立つお茶にゆっくりと口を付ける。草助も明里も、あまりに壮絶な話に言葉を失ったまま、八海老師を見つめていた。

「で、ここから先は後になってわかったことじゃが……道暗と名乗る人物が香澄嬢ちゃんに手を出さなかったのは、あの時すでにお前を身籠もっておったからじゃ。古い文献によれば、肉体転位の術は相手が妊婦だと霊魂が複雑に干渉してしまい、決して成功しないんだそうじゃ。つまり言い方を変えると、あの場面では草助が母親の命を救ったことになる、というわけじゃな」
「そ、そうだったんですか、そんなことが」

 草助はホッとした表情を見せたが、八海老師は残り少ない髪を撫で回しながら、言いにくそうにこう続けた。

「しかしのう……草助よ、この続きを聞きたいか?」
「えっ。そりゃあ聞きたいに決まってるじゃないですか」
「それはわかっておる。だが、ワシの話を聞いたらお主は後悔するかもしれんぞ。その覚悟はあるのか?」

 八海老師の様子から、それが母の死に関係ある事なのだろうと草助は思った。少しだけ考え、それから首を縦に振る。

「例えショックな事実だとしても、僕は全部きちんと知っておきたいです」
「よかろう。ならばあえて単刀直入に言うが……母の命を救ったのがお主なら、奪ってしまったのもお主なのじゃ」
「えっ? それはどういう……」
「香澄嬢ちゃんと龍之助の強い霊力を受け継いだお主は、生まれつき大きな霊力の器を備えておった。ところがそれが悪い方向に働いてしまってな……お主は胎内で成長するに従い、母体から霊力をどんどん吸い取るようになってしもうた。霊力を失えば肉体は衰弱し、そのままお前を出産すれば、香澄嬢ちゃんの命はすぐに尽きてしまう。だから自分の命を取るか、生まれてくる子供の命を取るか……どちらかを選ばなくてはならなかったのじゃ」
「そ、そんな……!?」

 立ち上がりそうになる草助をなだめ、八海老師は眼鏡の奥に悲しげな色を滲ませながら言った。

「香澄嬢ちゃんは迷わんかった。なにがあろうとお主を産むと、はっきりそう言っておったよ。優しく大人しい子だと思っていたが、芯の強さと、一度決めたら頑として曲げないところは草一郎にそっくりじゃった」
「母さんが死んだのは……僕の……僕を産んだせいだったなんて……」

 草助はその場に座り込み、うつむいたまま黙り込んでしまった。八海老師はおもむろに立ち上がって祭壇の奥に向かうと、綺麗な布に包まれた額縁らしきものと、一枚の封筒を草助に手渡した。

「この封筒は香澄嬢ちゃんから、お主へ渡すようにと預かったもの、こっちは真澄さんがお前のために描いたものじゃ。後で両方とも目を通しておけ」
「はい……」
「それと、ここからが肝心なのじゃが、なぜ香澄嬢ちゃんが狙われたのかという理由じゃ」

 八海老師の話によると、龍之助が命を落としたのと同じ頃、妖の郷が人間たちの集団に襲われ、それが引き金となってすずりの力が暴走するという事件が起きていた。その集団は蓮華宗の僧と同じ姿で、すずりを奪って強引にその力を使おうとしたが、制御しきれずに力を暴走させてしまい、妖の郷に暮らす多くの妖怪が犠牲となった。結果として、憎悪に駆られた一部の妖怪が、人間への報復を始めるという悪循環に陥ってしまったのである。無論、蓮華宗の本部はそんな指示を出してはおらず、なにより一番近い位置にある蓮華宗支部はすでに壊滅しているため、人員を集めて妖の郷を襲撃するなど出来るはずがなかった。しかし双方の主張は平行線のまま、とうとう人間と妖怪の全面戦争一歩手前という状態にまで発展してしまったのだった。

「――ここから先は長くなるんで簡単に説明するが、こちらも裏で糸を引いていたのは、例の道暗という奴じゃった。道暗は蓮華宗の幹部をそそのかして操り、すずりを手中にせんと暗躍しておってな。香澄嬢ちゃんを狙ったのも、すずりを扱うために都合の良い肉体が必要だったからじゃ。結局奴の目論見は失敗に終わり、妖怪たちも事実を知って矛を収めてくれたおかげで、どうにか最悪の事態は回避できたというわけじゃ。だがこの事件でワシらが失ったものはあまりに大きかった……特に真澄さんは強く責任を感じてしまってのう。二度と同じ悲劇が起こらぬよう、表向きは病気で死んだことにして、ずっと妖の郷に身を隠し、すずりと共に過ごしていたんじゃよ」
「えっ、ちょっと待ってください。それじゃあ僕の婆ちゃんって……」
「そうじゃ。つい最近まで真澄さんは生きておった。彼女が亡くなったことで、ワシがすずりを預かることになったのじゃ」
「どうして……生きてたんなら一度くらい会いにきてくれたって……!」
「真澄さんとて愛娘と夫に先立たれ、どれだけお主に会いたかったか……それが分からんお主ではあるまい。すずりと共に生きる以上、妖怪との戦いは避けられん。お前には両親のような運命を辿って欲しくないと、最後まで彼女は願っておったよ」
「婆ちゃん……」

 肩を落としてうつむく草助に、八海老師は言い聞かせるように言った。

「草助よ、大事なのはここからじゃ。あの一件以来、道暗の姿も名前も表舞台には出てきておらん。だが奴の残した言葉から察するに、別の肉体に乗り換えて今も活動しているのではないかとワシは思っておる」
「まさか……黒崎!?」
「うむ。この二人の間には色々と共通点が多い。黒崎は道暗の新しい姿か、あるいはその意志を受け継ぐ者ではないかとワシは見ておる」
「その話が事実だったとしたら……黒崎は僕らのことを知っていながら、ずっと他人のふりをして、心の奥で笑っていたってことか。くそっ、なんて奴だ!」
「落ち着け草助よ。心を乱しては勝ち目はない。怒りは胸の内に秘め、力とせよ。よいな」
「……はい」

 八海老師の話はそこで終わった。他の仲間との合流にはまだ少し時間がかかるらしく、その間に草助は、明里とすずりを連れて、両親の墓前へと足を運んでいた。壮絶な死を遂げた父と、自らの命を投げ打って自分を産んでくれた母――二人の過酷な運命を思い、草助は言葉もなく立ち尽くしていた。

「……船橋さん?」

 ふと気が付くと、明里が墓の前に順番にしゃがみ、両手を合わせてから立ち上がった。

「筆塚くんの家族って、みんな凄い人ばかりなのね。自分に同じ事が出来るかって言われたら、ちっとも自信ないもの」

 しみじみ呟く明里に対し、草助は沈みがちな声で答える。

「別に凄くなくていいから……僕は家族に生きていて欲しかったよ」
「うん……そうだね」

 明里は悲しげに微笑み、口を閉ざす。沈黙が続いた後、草助が布で包んだ額縁を脇に抱えているのを見て、すずりが思い出したように言った。

「なあ、じーちゃんから預かった手紙とか読んでみたら?」
「あ、ああ、そういえばそうだった」

 草助は言われるまま、まずは封筒から母親の手紙を取り出して読んでみた。


 ――草助へ。
 時間が残されているうちに、この手紙を書いておきます。
 この手紙を読む頃には、あなたは立派な大人になっていることでしょう。
 もう聞いていると思いますが、私はあなたを産むと決めた時から、長くは生きられなくなりました。でもそのことで、草助が自分を責めたりしていないか心配です。
 私は自分の選択に後悔していません。
 あなたのお父さんと一緒に過ごした時間はとても短かったけれど、私たちの心はしっかり通じ合っていました。だからこそあなたを授かったのだと、私は思っています。
 死ぬのが怖くないかと言われたら、本当はとても怖い。
 でも、自分の命とあなたの命、どちらかを選ばなければならなくなった時、あなたのお父さんが命がけで私を守ってくれたように、私は自分のやるべき事が分かったような気がしました。
 私もあなたのお父さんも、長生きしたとは言えなかったけれど、それでもあなたが産まれてきてくれるだけで、私たちの人生には意味があったのだと信じています。
 草助、あなたは私たちの生きた証です。
 寂しい思いをさせてしまってごめんなさい。
 母親らしいことをなにもしてあげられなくてごめんなさい。
 いつかあなたが大人になって、自分で選んだ道を自分の足で歩いてくれたら、こんなに嬉しいことはありません。
 胸を張って、真っ直ぐに生きてください。
 大切な人がいたら、うんと優しくしてあげてください。
 つらいことがあってもくじけないで、自分を信じて前に進んでください。
 いま、私の隣であなたが眠っています。
 ちっちゃくて、あったかくて、私たちの全てがここにあります。
 あなたが産まれてくれて、私は幸せでした。

                                  筆塚 香澄


 手紙を読み終えた草助は、いたって平静な様子だった。手紙を元通りにたたんで封筒にしまうと、次は真澄が描いた絵を見ることにした。額縁を包んでいた布を外すと、美しい色使いの油絵に、四人の男女が描かれていた。一組は若い男女で、もう一組の壮年の男女は草一郎と真澄である。

「ということは……こっちの若い二人が、僕の父さんと母さん……これが……」

 若い女性の腕には生まれたばかりの赤ん坊が抱かれ、全員が赤ん坊を見ながら微笑んでいる。そして絵の端に小さく「family」という文字が書き込まれていた。

「う……くっ……」

 平静を装い、ずっと耐えてきたものが堰を切って溢れ出す。必死に声を押し殺しながらも、抑えきれない感情が止めどなくこぼれ落ちた。すずりは背を向けて上を向き、明里もたまらなくなって口元を押さえ、頬を伝う大粒の涙を止められずにいた。

「――父さん、母さん。僕の力でどこまでやれるか分からないけど、とにかく精一杯やってみるよ。それでいいんだろ?」

 草助が両親の墓前に誓いを立てていると、横からすずりが落ち込んだような声で呟いた。

「ゴメンな、草助」
「え?」
「いつもこうなんだ。昔からずっと、アタシに関わるとみんな不幸になっていくんだ。オマエから家族を取り上げたのも、元はと言えばアタシのせいだし……嫌われてもしょうがないって思ってるよ」

 すずりの表情は暗く、初めて見るような悲しい表情をしている。

「で、でもさ、あと少しだけ……黒崎のヤローをぶっ飛ばすまで、もう少しだけ我慢してくれよ。全部終わったら、草助のしたいようにすればいいからさ……出て行けって言うならそうするよ。だから」

 草助は無言ですずりに目をやり、しゃがみ込んで顔を近づける。そして真顔でじっと彼女の顔を見つめたあと、いきなり鼻をつまみあげた。

「ふわっ!?」

 短い手足をジタバタさせるすずりを眺めながら、草助は呆れたように言った。

「お前の口からそんな台詞を言われると、なんだか気味が悪いぞ。大体どうして、お前に出て行けなんて言わなくちゃならないんだ?」
「ら、らって……」
「僕が安心してのんびり暮らせるようになるまで、お前にいなくなられたら困る。それともすずりを嫌いになって追い出せば、なにもかもぜーんぶ解決でもするのか?」
「……」

 すずりが黙り込んで目を逸らすと、草助は鼻をつまんでいた指を離し、すかさずデコピンを見舞った。

「いてっ! なにすんだよっ!」
「似合わないこと言ってないで、今まで通り力を貸してくれ。お前らしくないぞ」

 すずりはわずかに両眼を潤ませた後、顔を真っ赤にして髪の毛を大きな手の形に変え、草助の顔をひっぱたく。

「へ、へーんだ! ちょっと試してやっただけだよーだ! 草助のバーカ!」

 あさっての方向に回転してしまった首を元に戻しつつ、草助はため息をつく。腕組みをしてそっぽを向くすずりから本堂の方へ視線を向けると、妖の郷からの助っ人が到着するのが見えた。女河童の禰々子と配下の河童部隊、猫又の美尾、そして妖の郷の長、鴉天狗の鞍真である。

「――うむ、役者は揃ったようじゃの」

 八海老師は行動を共にする仲間を集め、今後の作戦を伝えた。メンバーは八海老師を筆頭に、草助、明里、定岡とヒザマ、禰々子、美尾、鞍真である。

「これからワシらがやるべき事は、朝比奈市内に出現した光の柱の勢いを弱めることじゃ。異界への穴を開き、それを維持するには強い妖力が必要となる。異空間の穴というのは、単純に一度開けたら開きっぱなし、というわけにはいかんのじゃ。黒崎が妖樹の力を利用したように、他の場所でも穴を広げ、それを維持している妖怪がいるはず。そいつらを見つけ出して叩けば、異界の広がりを抑えられるかもしれん。黄泉の岩戸が開く前なら、まだこちらにもチャンスはある。そこで我々は数チームに分かれて、光の柱の根本に向かい、これを処理するというわけじゃ。ただし光の柱のいずれかには、黒崎が待ち構えていると思った方がよいじゃろうな。さあ皆の者、大仕事じゃぞ」

 八海老師の号令に、その場にいる全員が頷く。
 朝比奈市の命運を賭けた戦いが、今まさに始まろうとしていた。
   




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