魂筆使い草助

第十話
〜妖樹〜



 草助は刈り込まれた芝生の上に腰を下ろしてスケッチブックを開き、親指を添えた鉛筆を立てながら周囲の風景を眺めていた。縦縞のシャツにブラウンのズボンを身に付け、白いスニーカーを履いた両足を芝生に投げ出している。彼は今、市内の小さな自然公園の片隅にいた。草助が妖の郷で修行を積んでいる間、八海老師と深い繋がりのある妖怪退治屋の組織「蓮華宗」が黒崎や妖怪の動向を監視していたのだが、なぜかこの一ヶ月、朝比奈市内に人を襲う妖怪が現れたという報告が無く、黒崎も消息を絶ってしまっていた。監視はそのまま継続していたが、特に目立った動きも見られないことから、八海老師の計らいで草助たちに束の間の休息が与えられたのである。

 空は雲ひとつ無い快晴で、穏やかな日差しが心地よい。公園は草助のいる場所から奥へとなだらかな坂になっていて、坂に沿って小さな川があり、公園の中央に広がる池へと流れ込んでいた。水面ではアメンボが滑るように動き回り、その真下では小魚が群れてせわしなく泳ぎ回っている。視線を公園の両脇に移すと、緑の葉が茂った木が立ち並ぶ森が広がっており、花がすっかり散ってしまった桜の他に、クヌギやミズナラ、モミジやカエデといった様々な木が入り混じっていた。森のすぐ手前には小さな歩道が作られていて、道に沿って手入れの行き届いたツツジが植えられ、ピンク色や白の花が帯のように連なっていた。鉛筆の向こうに見える風景を一通り眺めてから、草助は自分のすぐ隣を見た。彼のすぐ左隣にはチェックのハンチング帽を被り、七分袖の白いブラウスを着た明里が座っていた。彼女は足首の締まったタイトジーンズを履いた両脚を曲げ、そこにスケッチブックを立て掛けるようにして、近くにある球のようなツツジをスケッチしていた。普段の好奇心旺盛な明るいお喋りもいいが、熱心に絵を描いている姿もサマになっている。あどけなさを残した大きな瞳は、ピンク色のツツジの球とスケッチブックを交互に映していた。彼女の隣には自分の顔ほどもある大きなおにぎりを頬張るすずりと、飛んできたモンシロチョウを興味深そうに鼻先で追い掛ける火鼠のハナビがいる。そんな穏やかな光景を眺めていると、地獄のような一ヶ月の日々がまるで夢の中ことのように思えて、草助は空を仰いで目一杯空気を吸い込むと、両手を空に突き上げて伸びをした。

「んん〜っ」

 突然声を出した草助の顔を覗き込み、明里が目を丸くしている。

「どうしたの? 急に変な声出しちゃって」
「いやあ、久々の感覚につい。このところずーっと妖怪だの修行だので、自分が絵描き志望だって事を忘れそうになってたなあ、と」
「あはは、言われてみれば。色々あってそれどころじゃなかったもんね」
「……なにがどう間違って、こんな生活に突入してしまったんだろう」

 草助が腕を組んで考え込んでいると、額に小さな固い粒が当たった。それをつまんで拾い上げてみると、赤い色をした梅干しの種だった。

「こんな天気のいい日にしかめっ面してんじゃないよ。おにぎりがまずくなるだろー」

 口の周りをご飯粒だらけにしながら、すずりはぶっきらぼうな口調で言った。

 可愛らしい顔立ちをしていはいるが、大きな目の端は切れ上がっていて、気の強さは大人顔負けである。見た目は十歳くらいの娘であるすずりだが、人間の寿命など比べ物にならぬほどの長い時を生きてきた妖怪であり、妖怪退治に絶大な効力を発揮する力を備えた筆の化身なのである。が、日頃はそんな有り難みを微塵も感じさせないほどの口の悪さと大食らいが、草助の頭痛の種でもあった。

「こら、行儀の悪い真似をするんじゃない」
「なんか草助が腹の立つことを考えてるような気がしてさ」
「なんなんだそれは」
「ほらほら、アタシのことなんか気にしてないで描いた描いた」

 気を取り直してスケッチを再開し、紙に向かって鉛筆を走らせていると、いつの間にか太陽は真上近くに昇り、時計の時刻は正午を指そうとしていた。草助たちは芝生の上に柄の入ったシートを敷き、その上に明里が持ってきた弁当箱を広げて昼食を取る事にした。大きめの弁当箱がひとつ、普通のサイズの弁当箱がふたつあり、大きめの弁当箱はすずり専用である。弁当箱の中身は卵焼きや唐揚げの他、煮物やホウレンソウのおひたしなどで、残りのスペースは白米が詰めてあったが、どれも明里の手作りで、味付けも申し分がなかった。

「このところはずっとうちの大食らいの面倒見てたから、誰かの手料理を食べさせてもらうのがこんなに嬉しいとは思わなかったよ」
「ふふ、ありがと。お母さんにも手伝ってもらったんだけど、失敗してなくて良かったわ」
「いや、しかし……うん、美味いなあ。この煮物なんか味がしみていて……」

 感心しながら箸を付ける草助を嬉しそうに眺めた後、明里も自分の作った卵焼きを口に運ぶ。弁当箱の中身を半分ほど食べたところで、明里が何気なくこう訊ねた。

「そう言えばさ、筆塚くんのご両親ってどんな人なの?」
「えっ!? ぼ、僕の親かい?」

 両親の話が出た途端、草助はあからさまに視線を泳がせて困った笑顔を浮かべる。

「あれ、どうしたの?」
「あっ、いや、なんでもないんだ、ははは」
「筆塚くんが住んでる一筆堂はお祖父様が残したもので、実家じゃないのよね?」
「う、うん、まあね」
「一度くらい挨拶しておきたいなあ。ダメ?」
「ダメというわけじゃないんだけど……うーん」
「あ、もしかして遠くに住んでるとか」
「いや、そういうわけじゃないよ。ただ急な話だったから」

 草助はしばし考え込んだ後、明里に顔を向けて言った。

「それじゃあ昼ご飯を食べ終わったら行ってみようか。すぐに会えるから」
「わ、やった。どんな人なのかしら」

 草助は困り顔で笑いつつ、残った弁当に箸を付けた。弁当を平らげた後、スケッチブックをたたみ、草助たちは公園を後にした。




 草助に連れられてやってきた場所を見て、明里はきょとんとしたままだった。そこは彼女にとっても見慣れた、梵能寺だったからである。すずりは梵能寺に辿り着いてすぐ、八海老師の所でおやつを食べてくるといい、一人で勝手に行ってしまった。ハナビは明里が肩から下げたトートバッグの中に入り、首から先だけをちょこんと出している。明里は見慣れた景色に首を傾げつつ、草助に訊ねた。

「ねえ、ここに筆塚くんのご両親がいるの?」
「こっちだよ」

 草助が案内したのは、八海老師の住居とは反対方向にある墓地だった。墓地は山と森の一部を切り開いた場所にあり、周囲は森の木々に囲まれていた。その一角に「筆塚家之墓」という墓石が建っており、側面に「筆塚香澄」という名前が彫ってある。その隣に並ぶように「上田龍之助之墓」と文字が刻まれた墓石が建てられており、草助は水汲み場から水の入った桶を持って来ると、それぞれ墓石に水をかけ、両手を合わせて目を閉じた。

「これって……」
「こっちの筆塚香澄が僕の母さんで、隣のお墓が父さんのだ」
「ご、ごめんなさい。私、無神経なことを言っちゃって」
「いいんだよ。父さんは僕が生まれる前、母さんは僕が生まれてから数年くらいで死んでしまったんだ。父さんに至っては写真も残ってなかったらしいから、どんな人なのかさっぱり分からないんだよ」
「そっか……私にはパパやママがいるのが当たり前だったから、全然想像付かないな……寂しくなかった?」
「そりゃあ小さい頃はね。だけど爺ちゃんがいたし、老師に預けられてからは寂しいとか思うヒマもなく色々やらされてたからなあ」
「でもおかげで絵が上手くなったわけだし、いいじゃない」
「非常識な特訓を常識だと思い込まされるおまけ付きだけどね……」

 明里に聞こえないように草助が呟いていると、今度は墓地の入り口から定岡がやってくるのが見えた。修行をしていたこの一ヶ月、定岡とはほとんど顔を会わせることがなかったが、茶色く染めた髪、グレーのスーツに黄色いネクタイと、セコそうな顔つきといった特徴は相変わらずのようである。右手には青いポリバケツをぶら下げ、その中から丸々と太ったニワトリが顔を覗かせている。これはなぜか定岡と行動を共にしている火の妖怪で、名前をヒザマと呼ぶ。

「よー、探したぜお二人さん。久しぶりの休みだってのに、墓場でデートとは色気がねえなあ」

 ニヤニヤと口元に笑みを浮かべながら、定岡は草助たちの傍へとやってきた。

「いきなりなにを言ってるんだアンタは」
「まーまー、気にすんなって。お互いあの地獄のような一ヶ月を過ごした仲じゃねーか。あー、思い出しただけでも泣けてくるぜまったく。なんだって俺があんな目に……」

 有無を言わさず妖の森へと放り込まれ、生きるか死ぬかのサバイバルを強いられた日々を思い出して身悶えする定岡に、草助は呆れ顔で訊ねる。

「あのー、なにか用があるんじゃないんですか?」
「おっと、そうだった。おめーに伝言があるんだよ。ほれ、朝比奈署の伊吹って刑事を憶えてるだろ」
「伊吹さんから?」
「なんでもこの一ヶ月、市内で行方不明者が急増してるんだとよ。あんまり捜索願が多いんで集計してみたら、なんと二十人近くに上るらしい」
「ふーむ、それはただ事じゃない」
「だろ。蓮華宗の坊主どもの話じゃあ、妖怪は見かけなかったって話だが、これだけ人が消えるなんざ尋常じゃあねえ。それで調査の依頼が回ってきたってワケだ」
「なるほど。なにか手掛かりはあるんですか?」
「行方不明になった連中のうち、何人かが街外れの森に入って行くのを見たって証言がある。それともうひとつ、消えた連中は『願い事の樹』がどうとか身の回りの連中に言ってたらしいって事だ」
「願い事の樹……?」
「俺も伝え聞いただけで、これ以上は知らねえよ。街を見張ってたって割には、蓮華宗もあんまりアテになんねえよな。それじゃ、確かに伝えたぜ」

 草助の肩を叩いて立ち去ろうとした定岡を、草助は呼び止める。

「あれっ、定岡さんも手伝ってくれるんじゃないんですか?」
「俺は別の用事があるんだ。そっちが片付いたら顔を出してやるよ」

 定岡はそう言い残し、墓地を去った。その時、ふいに生ぬるい風が吹き抜けて草木の葉を揺らしていく。草助の耳には、ざわめく葉の音がいつまでもこびり付いて離れなかった。




 翌日、草助と明里は定岡が言った「願い事の樹」という言葉を頼りに聞き込みをし、夕暮れ前に駅前の喫茶店で合流した。お互いに得た情報をまとめた結果「朝比奈市の東にある森に願い事を叶える木がある」という噂が、特に高校生くらいの若者の間でまことしやかに囁かれている事が分かった。行方不明になった者は噂を信じて東の森へ行き、一度は戻って来たものの、数日から一週間の間に忽然と姿を消してしまったというのである。草助と明里はテーブルを挟んで向き合い、注文したコーヒーにもほとんど口を付けないまま怪訝な表情を浮かべていた。

「――うーむ、にわかに信じられない話だなあ」
「そうよね。今まで聞いた事がないのに、急にそんな噂が広がるなんて不自然よ」
「それに願い事が現実になるなんてことが、本当にあるんだろうか?」
「なんだか気味が悪いわね……」

 互いに浮かない表情の草助と明里を他所に、すずりはメロンクリームソーダに浮かぶアイスクリームをスプーンで丸ごとすくい、ひとくちで丸呑みにしてしまうと、ストローでソーダをあっという間に飲み干してこう言った。

「ま、とりあえず街外れにある森に行ってみれば? 願い事の樹とやらを確かめれば分かるだろ」

 すずりの言葉に頷くと、草助は立ち上がってレジへ行き、精算を済ませて喫茶店を出た。


 東の森へやってきた草助と明里は、すぐに奇妙な違和感を憶えた。ここは小さな山を包み込んだ森となっていて、自然公園として整備されている。そのため草助も明里もこの場所には何度か足を運んだこともあったのだが、かつてこの森に「願い事の樹」などと言うものがあったという話は聞いた覚えが無いのである。そして違和感の原因は、目に映る周囲の風景であった。森の入り口から奥に向かって歩道があり、その両脇には様々な種類の木々が立ち並んでいる。見た限りでは特に珍しくもない普通の森だったが、それが二人の記憶と噛み合わない。歩道の脇に生えている木々の中に、いくつか見慣れない種類のものが混じっているように思えたのだ。明里のトートバッグに入っているハナビも、しきりに顔を出しては周囲の匂いを嗅いでおり、すずりも奇妙な雰囲気を察したのか、口元を結んだまま黙り込んでいる。

「ふーむ、どーも前に来た時と違うような気がするんだが」
「うん。言葉じゃ上手く言えないんだけど、私もそう思う」

 草助と明里はしばらく景色の違和感を探ってみたが、結局満足な答えは出てこなかった。

「ここで考えていても仕方がない。まずはその願い事の樹とやらを見てみよう」

 草助は気を取り直し、暗くなり始めた森の奥へと足を踏み入れた。歩道は整備されているものの、舗装されていないため、靴の裏に踏みしめられた固い土の感触が伝わって来る。森の入口から程近い場所までは森の一部を切り開いて整備されており、手入れの行き届いた芝生の公園になっていた。日中であれば、この森を訪れた人々がここで休憩をしている姿が見られたことだろう。しかし今は、完全に日が落ちていないにも関わらず、誰の姿も見る事が出来ず、不気味に静まりかえっている。そこからさらに進んで山道へと入っていくと、丸太を組んで作った階段があり、十分ほど急な斜面を登っていくと、山の頂上へと辿り着いた。頂上周辺は森が切り開かれて小さな公園のようになっていて、切り立った斜面の上から朝比奈市内を一望することが出来る。頂上まで山を登り切った草助と明里は、二人並んで公園の中央をじっと見つめていた。そこには高さ五メートルほどの、緑の葉を生い茂らせた広葉樹がそびえ立ち、風を受けてざわざわと音を立てていた。

「……変だな。ここにこんな木なんかあったっけ?」
「ううん、無かったはずよ。これはちゃんと憶えてるわ」
「やっぱり記憶違いじゃなかったか。それじゃ最近になって植えたのかな? それにしてはやけに大きいような」

 草助の言葉通り、その木はどっしりと地面に根を下ろし、まるで昔からここにあったかと言わんばかりの存在感を放っている。仮にこの木が最近植えられた物だとして、ここまで運んでくるのは相当骨が折れるだろうし、人手や機材も必要となる。そんな作業があったとすれば、自分か明里の耳にも入っていなければおかしいと草助は思った。

「これが噂になってる願い事の樹なんだろうか」

 草助が木の周囲をグルリと回って眺めていると、頭上から奇妙な気配を感じて草助は枝を見上げる。風に吹かれて揺れる枝葉の中に、黒い影が動いた。草助は素早く身構え、声を張り上げた。

「誰だ!」

 影は草助の声に驚いたのか、バランスを崩して草助たちの目の前に滑り落ちてきた。草助は最初、影の正体が黒い色をした獣かと錯覚したが、よく見てみるとそれは学生服を着た少年だった。年齢は中学生くらいで、身長や体格は草助より一回り小さく、まだ幼さが抜けきらない、真面目で大人しそうな顔つきの少年である。

「痛てて……」

 地面に打ち付けた尻をさすりながら、少年は立ち上がる。傍にいる草助や明里、すずりの顔を見て、少年は軽く驚いている様子だった。

「こんな時間に木に登ったりして、一体なにをやってるんだい?」
「えっと、その」
「僕は筆塚草助。最近噂になってる願い事の樹とやらを見に来たんだ」
「あっ、木下友樹っていいます。ここに来たのはその、あなたと同じ理由で……」
「君は噂が本当だと信じてるのかい?」
「は、はい。この木に願い事をして、それが聞き届けられるとドングリが落ちてくるから、それを持っていれば願いが叶うって……」
「ふーむ、その話は初耳だなあ。それで、ドングリは降ってきたのかい?」
「いえ、それがまったく……だから枝に登って探していたんですけど」
「見つからなかった、と」
「はい……」

 常識に当てはめて考えれば、こんな時期ドングリが実を付けているはずがなく、当然降ってくる事もあり得ない。奇妙に思いつつも、草助は話を続けた。

「ちなみに君は、願い事を叶えた人たちがどうなったのか知っているのかい?」
「えっ、なにかあったんですか?」
「実はね、朝比奈市ではこの一ヶ月の間に、行方不明者が二十人も出ているんだよ。そしてそのうちの何人かは、願い事の樹という言葉を口にしていたこと、そして姿を消す直前にこの場所を訪れていることが分かっている。僕にはこれが、単なる偶然とは思えなくてね」
「そんな、まさか……」
「詳しいことは言えないが、この木は普通じゃない。この木に頼んで願い事が叶ったとしても、君に待っているのは他の連中と同じ結果だろう。悪い事は言わないから、大人しく帰った方がいいと思うな」

 友樹はうつむいてしばらく黙り込んでいたが、やがて重い足取りで草助たちがやってきた道を引き返して去っていった。彼の姿が見えなくなるのを確かめると、そびえ立つ謎の木を見上げ、右手で後頭部を掻きながらこう言った。

「さて、それじゃ次は僕が試してみよう。例えばそうだな……願い事の樹の正体が知りたい、という願いは聞いてもらえるのかな」

 草助が言い終わった途端、山頂を突風が吹き抜けた。風に煽られた枝葉は、にわかにざわざわと音を立て、同時に頭上からおびただしい数のドングリが降ってきた。その途端、草助は周囲の気配が一気に変化したことを敏感に感じ取った。

「みんな気をつけろ、ものすごい妖気だ……!」

 草助が急いで木の根元から距離を取ると、落ちたドングリがひとりでに地面に埋まってゆき、そこからツタのような根が一気に伸び、イソギンチャクの触手のように木を取り囲んで蠢いていた。

「カカカ……小賢しい小僧め。余計な事に気付かねば良かったものを」

 葉のざわめきに合わせるように、どこからともなくしわがれた声が響いてきた。

「やはり妖怪だったのか。願い事を叶えるなんて噂を広めて、人間をおびき寄せていたんだな」
「人間は愚かよのう。普通なら信じないような噂でも、自分の欲望が満たされるとなれば疑いを持たなくなるのじゃからな」
「行方不明になった人たちをどうしたんだ」
「答える必要は無かろう。なぜなら……お前たちはここで死ぬからだ!」

 辺りに生えた新芽は、一斉に草助たちに襲いかかった。

「すずり、行くぞ!」

 草助の合図で、すずりは一瞬にして紅い筆へと変化して彼の手に収まる。草助は筆を構え、襲いかかる根を薙ぎ払った。筆で払われた無数の新芽はその部分から溶けて千切れ、地面に落ちてあっという間に枯れてしまったが、切り口から次の根が再び生えて復活し、さらに地面からは、腕ほどの太さもある別の根が次々に飛び出し、草助たちを取り囲む。

「やれやれ、願い事の樹どころか妖怪の樹とは、笑えない冗談だなあ。さしずめ妖樹ってとこか」
「ほほう、やはり妖怪退治屋であったか。ならばますます生かして帰すわけにはいかんな。大人しくわしの養分となってしまえ」
「そいつは遠慮するよ。僕にはまだやりたいことがたくさんあるんでね」
「ふん、これでも強がっていられるか!」

 蠢く新芽や根が雪崩を打って襲いかかった瞬間、草助は目の前の空間に「刈」の文字を書き込んでいた。これはすずりの持つ不思議な力のひとつで、空間に直接文字を書く事が出来るという能力である。そして文字に込めた霊力を解放することで、文字が表す事象を実体化させるのが、魂筆使いの奥義「幽玄の書」なのである。

「さて、修行の成果をお披露目だ」

 文字が刃物に似た銀色の輝きを放ったかと思うと、閃光が円を描いて周囲を駆け巡り、草助たちに迫る根は、全て鎌で刈り取られたように切断されていた。

「おおっ、思いつきで書いたにしては結構いいかも」

 自分で出した技に思わず感心する草助だったが、やはり根は斬られた部分から素早く再生しているのが目に飛び込んだ。

「ただの生意気な小僧ではないというわけか。よもやそのような芸を見せられるとはな」
「むう、斬るだけじゃ効き目がないのか。それじゃこいつはどうだ!」

 草助はすかさず「火」の文字を目の前に描き、霊力を解き放つ。文字から溢れ出た炎は帯状に広がって根を焼き払った。炎が消え、熱気が収まった辺りには黒こげになった燃えかすばかりが積み上がっていたが、その下から新たな根が次々と飛び出してきた。

「カカカ、斬ろうが焼こうが無駄よ。わしの根はいくらでも再生出来るのだ」
「こいつは思ったより手強いぞ。一旦引いて対策を考えた方がいいな」

 次々に地面から飛び出してくる妖樹の根を払い除け、公園の出口を目指そうとする草助だったが、その手前に一本の木が道を塞ぐように立っていた。幹の太さは人間の胴体とほぼ同じで、左右に伸びた二本の太い枝に緑の葉を生い茂らせている。もちろんここへ辿り着いた時には、こんな木を見た覚えなどなかった。

「さっきはこんなもの無かったはずなのに、どうなってるんだ」
「ふ、筆塚くん見て! 木が……!」

 明里の声で正面に目を向けると、道を塞ぐ木が枝や幹をくねらせて動き出し、地面から二本の太い根を引き抜いて幹を支えると、生理的な嫌悪感を与える動きで草助たちの方へと迫ってきた。

「き、木が歩いた!?」
「そう簡単に逃げられると思われては困るのう」

 妖樹が不適な笑い声を響かせると、周囲の森から同じような歩く木が数体現れ、やはり生理的嫌悪を催す動きをしながら近付いてきた。歩く木は扇状に広がって行く手を遮ると、枝を伸ばして覆い被さろうとしてきた。動きは緩慢で避けるのに苦労はしなかったが、その姿や動きを見ていると、なぜか形容しがたい不安がこみ上げてくる。草助は歩く木をブーツの底で蹴飛ばし、その隙に包囲を突破しようと試みたのだが、明里が木の根につまずいて転んでしまい、近くにいた歩く木が明里に覆い被さろうとした。

「よせっ!」

 明里に向かって伸びる枝めがけて、草助は筆の一振りを見舞った。筆に触れた部分は黒い液体となって溶け出し、枝は中程で折れてぼとりと地面に落ちた。歩く木は伸ばした枝を引っ込めて仰け反ると、すすり泣くような悲鳴を上げた。

「アァァ……痛イィィ……」

 その時、樹皮がにわかに変形し、人の顔のような物が浮かび上がった。それは苦痛に歪んだ表情をしばらく見せた後、再び樹皮の下に埋もれて見えなくなってしまった。

(ま、まさかこいつは――!)

 目の前にいるモノの正体を想像した時、草助の背筋を冷たい物が駆け抜けた。そして大抵の場合、この悪い予感は的中してしまうのである。草助は急いで明里の手を引くと、他の歩く木に体当たりや蹴りを見舞いながら強引に突っ切った。

「ねえ、さっきから様子が変よ筆塚くん。一体どうしたの?」
「とにかく逃げるんだ。こいつらと戦っちゃいけない!」

 焦りの色を浮かべながら、草助は下りの道を駆け下りた。階段を下り、芝生が植えられた公園の場所まで必死の思いで辿り着く。

「はあ、はあ、ここを抜けさえすれば出口は目の前――」

 言いかけたその時、草助と明里の耳に悲鳴が飛び込んできた。声がした方に目を向けると、芝生に尻もちを付いた学生服の少年に、歩く木がゆっくりと近付いているところだった。その少年は草助たちより先に山頂を降りて行った友樹に違いなかった。

「まだ森を抜けていなかったのか! それに歩く木がこんな所にも……!」

 草助は座り込んでいる友樹の元に駆け寄り、彼の肩を掴んで無理矢理立たせると、歩く木から距離を取った。

「大丈夫かい、怪我は?」
「えっ、あっ、大丈夫です。だけどあの怪物は……」
「詳しい説明は後だ。とにかく今はこの森を抜け出さなくては」

 森の出口を目指して進もうとしたその時、草助は信じられない物を目の当たりにした。それは歩道脇に生えていた木が次々に動き出し、草助たちのいる方へ向かって歩き始めた。その数は十数体にも及び、山頂の方から追い掛けてきた連中を加えると二十体近くになっていた。追い詰められ蒼白となった草助の耳に、森全体から発せられるような声が飛び込んできた。

「愚か者め、それで逃げおおせたつもりか。わしの力はこの森全てに及ぶ。さあ我が分身どもよ、奴らの血を残らず吸い取ってしまえ!」

 妖樹の指令が響くと同時に、歩く木は草助たちをぐるりと取り囲み、じわじわと輪を縮めて迫ってきた。

「し、しまった……!」
「囲まれちゃったわ、どうするの!?」

 不安そうな明里の声を聞いても、草助は動くことを躊躇ってしまう。

「だ、ダメなんだ、僕には出来ない。彼らとは戦えないんだ」
「どうして? さっきから様子が変な事と関係があるの?」
「……あの歩く木は……人間なんだ」
「えっ!? ほ、本当なの!?」
「一瞬だけど、木の表面に人の顔が浮かび上がるのを見たんだ。彼らはきっと……行方不明になった人たちに違いない」
「そ、そんな……でもどうするの? このままじゃ――」

 明里の言葉通り、歩く木の包囲はすぐ近くまで迫っている。他に選択の余地はないと分かっていても、草助の両脚は地面に張り付いたように動かなかった。

(なにやってんのさ草助! さっさとしないとみんなやられちまうよ!)
「わかってるさ! わかって……でもダメなんだ! 彼らを倒してしまったら、僕は……」

 筆を握る草助の手は微かに震えていた。そうしているうちに、とうとう明里の背後から歩く木が襲いかかった。

「危ない!」

 草助はとっさに明里をかばい、左腕で歩く木の枝を受け止めた。すると枝からは無数の細いツタのようなものが素早く伸び、草助の左腕に巻き付くと、先端が次々に肉へ突き刺さった。痛みはさほどでもなかったが、刺さったツタは大きく脈動を始め、草助の血を一気に吸い上げ始めた。

「うわあっ!?」

 草助は反射的に右手の筆を振るい、ツタを切り落として歩く木を蹴り飛ばして押し返す。そして腕に残ったツタを引き抜いて投げ捨てると、地面に落ちたツタはみるみるうちに茶色く枯れて朽ち果ててしまう。だが血を吸い取られた草助の左腕は老人のように細くなってしまい、痺れて自由が利かなくなってしまった。

「くっ……ううっ」
(いい加減に覚悟を決めな。さもないと自分どころか、明里だってそうなっちまうんだよ!)

 頭に響くすずりの言葉に、草助は唇を噛みしめて顔を上げる。

「やるしかないのか……なんとか元に戻す事は出来ないのか?」
(……本当は分かってるんだろ? もう手遅れだってこと。あいつらはみんな魂を抜かれちまってる。残った身体も完全に乗っ取られて、もう元には戻れないんだよ)
「……」
(楽にさせてやんなきゃ。それが出来るのは草助しかいないんだよ)

 草助はしばらく黙り込んだ後、筆を構えながら明里に言った。

「僕が囲みを崩すから、船橋さんは友樹くんを頼むよ」

 それから矢のように飛び出した草助は、歩く木めがけて筆を振るった。およそ二十体もの歩く木に囲まれ、数の上では圧倒的に不利ではあったが、一ヶ月の厳しい修行の日々と身に付けた技の数々は、草助に不安を抱かせることがなかった。

(大丈夫だ、数は多くても相手の動きは鈍い。あの打ち込み稽古に比べたらこのくらいは)

 鞍馬との稽古で学んだ妖怪退治の技法「裏八法」は、乱戦でも有効だった。草助は手近にいる数体の歩く木の幹に素早く横線を引いて回ると、線を引かれた歩く木はその場から動けなくなってしまう。筆に触れた物をその場に固定する「玉案」という技で、釘付けにされた歩く木を壁として、四方から攻められるのを防ぐ。直後、草助の背後から吸血ツタを絡ませた枝が伸びてきたが、草助はくるりと反転し、相手の攻撃を受け止める垂直の振り下ろし「鉄柱」で防御する。その隙に歩く木の懐に飛び込み、相手を両断する気迫で筆を薙ぎ払う。同じように目の前の数体を筆で払って倒すと、歩く木の包囲に穴が空き、草助は明里に合図をした。

「よし、今だ二人とも!」

 二人の後を歩く木が追えないよう、草助は筆を構えて立ちはだかる。

(そうだ、彼らはもう人間じゃないんだ――!)

 心の中で何度も呟きながら、草助は追いすがろうとする相手を次々に倒していった。普通の妖怪とは違い、歩く木を筆で払うと、体中から黒い液を吹き出して倒れはするが、一部の枝や木の皮はそのまま残っていた。それが元は人間の残骸かと思うと、草助は尖ったもので心を刺されるような気分になって仕方がなかったが、それを胸の内に押し込めながら草助は戦った。気が付くと周囲を取り囲んでいた歩く木は全て倒れ、起き上がっては来なかった。

「や、やったか……」

 額に汗を滲ませながらも、草助の呼吸は乱れていない。吸い込んだ息を吐いて気持ちを静めている草助の耳に、明里の悲鳴が飛び込んできた。

「なっ、なんだ!?」

 慌てて明里と友樹が逃げた方向に振り向くと、何者かに羽交い締めにされた明里の喉元に、ギラリと光るナイフが押し当てられていた。

「だ、誰だ!」

 目を凝らして明里の背後にいる人物を確かめたその時、草助は思わず声を上げた。明里にナイフを突きつけていたのは、友樹だったのだ。気弱そうな顔つきから一変し、鬼気迫る険しい表情になっていた。

「おっと、動かないでくださいよ。お姉さんの命が惜しいなら、大人しく俺の言う事に従ってもらう」
「友樹くん、君は……!?」
「こんな事が出来る人間がいるとは思いませんでした。だけどこれ以上好き勝手にされちゃあ、俺が困るんですよ」

 友樹は明里にナイフを押し当てたまま、草助の方へと近付いて来る。

「……ここらでいいか」

 友樹がぽつりと呟くと、一瞬にして周囲の景色が入れ替わった。そこはさっきまで草助たちがいた、妖樹がそびえ立つ山頂の公園であった。

「ど、どうなってるんだ!?」

 目を丸くしている草助たちの耳に、妖樹のしわがれた声が響く。

「ご苦労じゃったな友樹よ。やはり人間を動かすには人間の方がいいらしいのう」
「お前、友樹くんになにかしたのか!?」
「そうではない。わしとそこの子供は取引をしたまでのこと。わしは奴の願いを叶え、奴はわしの手足となって働く……思った以上にこやつはよくやってくれたぞ」
「そんな、まさか……それじゃ願い事の樹の噂も、ここへ人を呼び込んだのも君の仕業だったのか!?」

 友樹は黙って頷き、明里を連れたまま妖樹の隣へと移動する。草助は視線をわずかに動かし、妖樹に訊ねた。

「……聞きたい事がある。僕らを一瞬でここまで連れてきたのはお前の力なのか?」

 草助が訊ねると、妖樹は葉をザワザワと揺らしながら答えた。

「この森でわしの意のままにならぬ事はない。その気になればいつでもお前たちをここへ呼び戻すことは出来たというわけじゃ」
「それならどうして最初は僕たちを逃がしたんだ」
「見せてもらいたかったからじゃよ、お前たちの弱みをな。そう、例えば……小僧、貴様は人を殺したことがないようじゃな」
「そんなの当たり前だ!」
「カカカ、甘いのう」

 妖樹から波動のような妖気が吹き出すと、草助の周囲に歩く木の残骸が突如として現れた。地面に散らばる枝や木の皮には、黒く溶けた身体の一部が血のようにべっとりと付いており、夕日を浴びて赤黒い血のようにも見える。再び妖樹が妖気を吹き出すと、その波動を受けた残骸は地面の土を取り込み、人の形になって膨れ上がった。

「なっ……!?」

 人の形をした土の塊はゆっくりと立ち上がり、全てがゆらりと草助の方を向く。やがて土の表面が生き物のように脈を打ちながら剥がれ落ち、下から人間の肌が露出していた。両手を突き出して迫る彼らは、死の世界から蘇った亡者そのものであった。

「こ、こんな事があるわけが……幻かなにかに決まってる!」
「ならば試してみるがいい」

 土から生まれた亡者は一歩、また一歩と草助に近付き、歩く度に生前の姿を取り戻しつつあった。ほとんどが若者で、中には学生服やブレザーを着た者の姿も複数混じっている。姿を変えられた犠牲者の、生前の姿であることは疑いようもない。彼らは全て虚ろな眼をして、ブツブツとなにかを呟きながら草助に迫った。

「……も……よくも……殺し……たな……」

 そう言いながら、土が付いた髪を振り乱した若い女が、草助の喉を両手で掴み、締め上げる。草助はその腕を掴み返して解いたが、その感触が冷たい土のそれではなく、人間の肌そのものだったことにひどいショックを感じていた。

「痛い、苦しい……よくも私を殺したわね……」


「あ、あれは違うんだ!」

 のろのろした動きで近寄る亡者に、草助は嫌な汗を滲ませながら逃げ回る。その様子を見て、妖樹は嘲笑う声を響かせた。

「どうした、手を出さんのか。助かりたければ遠慮はいらん。そいつらを殺せば済む話じゃて……ついさっきそうしたようにのう」
「ぐっ……!」

 嘲笑う声とあり得ない現実が、ぬるりとして冷たく、そしておぞましい手のように幾重にも絡みついてくる。草助は必死に声を頭から振り払おうとするが、肌に残るおぞましい感触が、彼の心をじわじわと蝕んでくるようであった。

「それともお前は、妖怪を殺すのは構わないが、人間を殺すのは罪悪だとでも思っておるのか。ずいぶんと手前勝手な――偽善者の考えそうな事じゃ」
「黙れ! お前がみんなをあんな姿にしたんじゃないか!」
「少なくとも、わしは貴様より公平じゃ。わしは相手が人間だろうと区別はしない。その証拠に、奴らの願いをちゃんと叶えてやったのだからな。その代償として魂を頂いただけのこと。それのどこが悪い」
「みんな知らなかったんだ。あんな結果になると分かっていれば、誰も願いを掛けに来たりなどしなかった!」
「口に出さずとも、人間は皆それぞれ根の深い願いや欲を抱えておる。他人に認められたい、他人よりいい暮らしがしたい、他人にあって自分にないものを手に入れたい……わしはチャンスを与えはしたが、選んだのは人間自身よ」
「ふざけるな! お前がそうさせるように仕向けたんじゃないか!」
「果たしてそうかな? 現にここにいる友樹は、自らの意志でわしのために働くことを選んだのだぞ」
「ま、まさか……本当なのか友樹くん!?」

 友樹は凍り付いたように硬い表情のまま頷くと、暗く重い声で語り始めた。

「……俺の母さんは重い病気なんだ。うちは母子家庭で、母さんは必死で働きながら俺を育ててくれた。それなのに先月、急に倒れて病院に担ぎ込まれて……検査をしたらもう手遅れだって。余命幾ばくもないって医者に言われたよ。長年無理し続けたせいだ」

 友樹はナイフを握る手を震わせ、突如堰を切ったように叫ぶ。

「母さんはずっと苦労ばかりの人生で、いいことなんかちっともなかった。俺もあと少しで高校を卒業できて、そうすれば働いて恩返しが出来ると思ってたのに……どうして母さんばかりこんな目に遭わなきゃならないんだ。俺たち家族がどんな悪い事をしたっていうんだ!」

 大人しそうな外見に似つかわしくない、剥き出しの感情がそこにあった。やがて落ち着きを取り戻すと、友樹は再び淡々と続けた。

「なにもかも恨めしかったよ。家族がいてお金があって、大した不自由もなく暮らしているくせに、不平不満を平気で口にする連中が憎くてたまらなかった。そんな時、この場所に黒いスーツの男が現れて、木の苗を渡してこう言ったんだ。こいつをここに植えて人の魂を喰わせれば、どんな願い事も叶うって」
(黒崎――やっぱりあいつが関わっていたのか!)
「あと少しで母さんの病気も治るんだ。そのためなら……どうなろうと構うもんか!」

 そう言い放つ友樹の表情に滲むのは、決意ではなく深い絶望と怒りだった。荒みきった両眼が、草助を非難するように見つめていた。

「あんたたちに恨みはないけど、邪魔をするんなら消えてもらう。この木が育ちきるまでには、もう少し養分が必要だから」
「友樹くん聞いてくれ、君は――!」

 草助が言いかけた途端、妖樹がザワザワと葉を鳴らし嗤い始めた。

「これ以上の話は時間の無駄じゃな。小僧よ、お前は自分が手を出すことを躊躇した人間の手で死んでいくのだ……カカカ!」

 妖樹の指令によって、亡者たちは一斉に草助に襲いかかった。そのまま押し潰されてしまうかと思われた刹那、聞き覚えのある訛った声と共に、二筋の赤い光線が草助の頭上をかすめ、亡者の身体を貫いた。

「必殺、ヒザマビィィィィィムッ!」

 その途端、亡者の身体は炎に包まれ、瞬く間に元の土くれとなって崩れ落ちていった。声がした方に目を向けると、グレーのスーツに黄色いネクタイ姿の定岡と、青いバケツに半分入ったまま宙に浮かぶニワトリの妖怪、ヒザマがいつの間にか姿を現していた。

「あーあー、様子を見に来てみればこんなに追い込まれちゃってまあ。やっぱ俺が面倒見てやらねーとダメだな。お前もそう思うだろ筆塚?」
「定岡さん、来てくれたんですか!?」
「ちょうど野暮用も片付いたんでな。それにしてもなかなかえげつない真似してくれてんじゃねーの、今度の妖怪は」

 定岡はスーツの懐に右手を突っ込みながら、いつもの軽い口調で続けた。

「よい子のお前じゃあ、こういう相手は荷が重いだろーよ。ま、ここは俺に任せとけ」
「定岡さん……」

 思いもよらぬ言葉に、草助は思わず声を詰まらせながら続ける。

「なにか変な物でも拾い食いしたんじゃないですか?」
「やっかましい! もうちょっとマシな言葉は出てこねーのか、ったく」

 唾をまき散らしながらまくし立てた後、定岡は懐に入れていた右手を引き抜く。彼の手には、鈍く光る銀色のオートマチック拳銃が握られていた。

「よーしヒザマ、連中に俺様たちのグレイトな実力を拝ませてやろーぜ」
「言われるまでもないわい。こちとらこの一ヶ月、散々な目に遭わされてごっつストレス溜まっとんのや!」

 定岡とヒザマは二手に分かれると、素早い身のこなしで亡者たちに戦いを挑んだ。定岡の拳銃で眉間を撃ち抜かれた亡者は、瞬時に土くれへと戻って崩れ落ち、ヒザマは両眼から発する光線で亡者を焼いていく。一ヶ月もの間、妖怪や悪霊が跋扈する森の中を生き抜くという極限状態を乗り越えた定岡とヒザマにとって、動きの鈍い亡者を相手にするのは朝飯前といったところだった。

「ヒュー、本物はやっぱり手応えが違うぜ。さすが米軍基地の横流し品、安物の改造エアガンなんかとは比べ物にならねーな」

 拳銃の手応えを確かめながら定岡が感心していると、

「振り向きからのー、ヒザマビィィィィィム!」

 ヒザマの両眼から発せられるのは、睨んだ場所に火を付ける発火能力が進化した、ヒザマの火炎光線である。妖力を収束して放っているため貫通力が高く、途中で視線を動かせば広い範囲もなぎ払うことが出来る。新たに身に付けた技を武器に、今までの鬱憤を晴らすべくヒザマは暴れた。気が付くと、辺りには崩れ落ちたり黒焦げた土の塊が散らばっているばかりとなっていた。

「さーて、残りはおんどれだけやのう、ウドの大木。どない焼いて欲しいか言うてみいや。レアでもウェルダンでもリクエストに応えたるで!」

 ヒザマは興奮冷めやらぬ様子で強気な発言をしていたが、妖樹のすぐ傍には明里と、彼女にナイフを押し当てている友樹がいる。うかつに手を出せば彼女にも危険が及びかねないが、次の手を考えあぐねている草助とは対照的に、定岡は相変わらず気楽な表情のままである。そこへ妖樹が再び声を発した。

「ほう、妖怪連れの人間とは珍しい。それにずいぶん欲深い……いや、欲の塊といった顔をしておるな。どうじゃ、お前もわしと取引をせんか?」

 妖樹は葉を揺らしながら定岡に語りかける。定岡は空になった拳銃の弾倉を入れ替えながら、斜に構えつつ答える。

「取引ねえ。ま、内容次第だな」
「さ、定岡さん、あんた――!」

 止めに入ろうとした草助の口を塞ぐと、定岡は不敵な笑みを浮かべたまま続けた。

「聞いた話じゃお前は、ここへ来た連中の願いを実現させてやってたらしいが……願い事を実現させるなんて真似が本当に出来んのかよ」
「無論じゃ。金が欲しい、恋人が欲しい、車が欲しい、整った容姿が欲しい――わしは全ての願い事を叶えてやった。この土地ならばそれらの奇跡も容易いことよ」

 刹那、話を聞いていた草助の脳裏にとある言葉が引っ掛かる。

(この土地ならばって……やはりこの場所に特別な物があるってことなのか?)

 相変わらず定岡に口元を押さえられて声を出せなかったが、定岡は草助に「俺に任せとけ」と目配せをする。妖樹はその身体全体からまとわりつくような濃い妖気を放ちながら、心の中に滑り込むような声を響かせた。

「さあ、お前の願いを言え。望みが強ければ強いほど……欲が深いほどわしの力も現実へと近付くのだ。さあ、どうした。お前の願いはなんだ?」

 ざわつく葉の音と不気味な声が重なり合い、正常な判断を鈍らせる言霊となって定岡たちを包む込む。我を失い誘いに乗ったが最後、その人間は魂を抜き取られてしまう。その手口を理解した草助の目の前で、定岡は平然と言い放つ。

「ふっ、そりゃあもちろん決まってらあ……頂点よ」
「なんじゃと?」
「おいおい、急に耳が遠くなったのか? 俺は頂点って言ったんだぜ」
「なにを馬鹿げたことを。もっと具体的な、貴様の望むものを言わんか」
「さっきテメーも言ったろうが。俺は欲の塊みてーな男なんだぜ? 金、名誉、いい女にうまい食い物――そして全知全能の力! この全部を手に入れたこの世の頂点! それが俺の野望よ!」
「ぐっ、なんと呆れた奴じゃ。そんなものは単なる妄想ではないか」
「本気も本気、俺は大真面目だぜ。途中で諦めるくらいなら、ハナからこんな稼業続けてねーっつうの」
「ぬううっ……馬鹿か貴様は!」
「どうした、願いを叶えてくれるんじゃねーのか? でかいのは口先と図体だけかい、妖怪さんよ」

 定岡の言葉と共に、妖樹から吹き出す妖力が弱まっていくのが草助にも感じられた。事実を看破されたことで、妖樹の心に動揺が広がっているのに違いなかった。

「所詮テメーは口先だけの三流妖怪よ。人間様をナメんじゃねーぞ、このウド野郎」
「おのれ、人間の分際で!」

 妖樹が激昂した瞬間、定岡はほくそ笑んでいた。小声で草助に耳打ちすると、懐から銀色の丸い筒を取り出して頭上高く、妖樹の枝葉めがけて放り投げる。筒は金属製で塗装はされておらず、胴体に火を模った赤いマークが描かれていた。

「今だ、やれヒザマ!」

 合図に合わせてヒザマが円い筒を睨んで火を付けると、爆音と共に激しい炎を撒き散らした。枝葉は一瞬で炎に包まれ、あっという間に全体へと燃え広がる。頭上から雨のように降ってくる火の粉を避けるため、明里を人質に取っている友樹も妖樹のそばから離れていった。

「どうだい、対妖怪用特殊焼夷弾の味はよ。おめーらみたいなのを相手にするために作られた特注品だぜ」
「お、おのれえええええッ! この程度の炎など――!」

 妖樹は妖力で自らの身体に燃え移った火を消そうとしたが、勢いが強いためか手こずっている様子であった。その、妖樹の注意が逸れたのを見計らい、草助は矢のように飛び出していた。妖樹に燃え移った炎が消えるのと同時に、妖樹の幹に「枯」の文字が描かれていた。文字が輝いてその力を発揮した途端、妖樹の表面は黒っぽく変色し、ひび割れて崩れ落ち始めた。

「油断したな。いくら燃え尽きた部分を再生することが出来ても、自分自身が枯れてしまったらどうにもならないだろう!」
「ぐおおおおっ、つ、強い、なんという術の力……か、枯れる! わしの身体が、根が……おのれ貴様らああああッ!」

 定岡と草助の連携攻撃に動揺していたのは、妖樹だけではなかった。激しい異変を起こす妖樹の姿を見て、友樹の注意は明里から逸れていた。明里のトートバッグでじっとチャンスを待っていたハナビは、ここぞとばかりに飛び出して、ナイフを持つ友樹の手に噛みついた。

「うわっ!?」

 友樹の手からナイフがこぼれ落ちると、明里はその隙に彼の腕を振り解き、草助の元へ戻ってきた。明里の無事を確かめた後、草助はトートバッグから顔を出すハナビの頭を撫でてやる。

「えらいえらい、でかしたぞハナビ」
「ププイッ!」

 後はこのまま妖樹が朽ち果てていくのを待つばかりと思われたが、突如地の底から唸るような地響きが起こり、山全体を揺るがした。地面には大きな亀裂が走り、裂け目からは紫色をした霧のようなものが広がり、同時に強烈な妖気があたりに漂い始めた。

「なんだこれは? 異界に充満している空気に似ているが」
「カカ、カカカ……お、おのれ……よもや奥の手を使う時が来ようとは……」
「おい、いったいなにを始めようとしているんだ!?」
「お前にはわからんか? 地の底より湧き上がる、強大なる力のうねりが」
「地の底の力……老師が言っていた、龍脈という大地の霊力のことか?」
「カカカ、惜しいが違う。この場所……人間どもが朝比奈と名付けたこの地の奥底には、もっと特別な……恐るべき力が眠っておる。もしもその力を得、我が物と出来たなら、この世の王となる事も容易かろう……」
「な、なんだって!? 一体なんなんだ、その力というのは!」
「意志を現実に変える、全ての根源たるもの……それが力の正体よ。人間どもはこの力を、タタリと呼んでいたようだがな」
「タタリ……祟りのことか? そんなものが」
「わしはこの場所の地底深くにある異次元の隙間から、ほんのわずかに漏れ出していたそれを吸い上げて利用していただけ……それでも人間どもの願いを実現させるには充分であったがな。その隙間をたった今、広げてやったのだ。この力を扱うのは至難の業……わしとて生き延びられるかは五分五分よ。仮に生き延びても、再び蘇るまでに百年か、二百年か……あるいはそれ以上の眠りにつかねばなるまい。だが……このまま滅び去るよりはいい!」

 枯れ始めていた妖樹は、少しずつ生気を取り戻しつつあった。地の底より湧き上がり、意志を現実に変えるという力が、妖樹の助かりたいという願いに作用しているのだろう。ところが妖樹の身体全体にも、異様な変化も起こり始めていた。枝や葉が際限なく生えては枯れ、生えては枯れを繰り返し、幹は異様に膨れ上がって、あり得ない形に歪んでねじれていく。タタリの力に頼ったはいいが、制御しきれずに暴走してしまっているのだと草助は直感した。

(ダメだ……こんなものが地上に溢れたら、大変なことになるぞ。なんとか食い止めなくては!)

 草助は筆を握りしめて駆け出し、膨張していく妖樹の幹や枝を払った。ところが払った部分が溶け出しても、その部分を押し出して新たな身体が生まれ、まったく効き目がなかった。

「なんやコイツ、いきなりハジケおって。筆がダメなら焼いたれ!」

 草助の背後からヒザマが火炎光線を放ったが、燃えた場所から新しい枝や幹が飛び出し、ますます変形して奇怪な姿へと変貌していく。

「こらアカンでえ! おい筆のボン、どないかせえや!」
「筆のボンって……しかしこいつはまずいぞ、どうすればいいんだ」

 次に打つ手に悩む草助に、横から声をかけたのは明里だった。

「ねえ筆塚くん、あれを見て」

 彼女が差す場所を見ると、妖樹の幹で今だ光を放つ「枯」の文字がある。他の部分は盛り上がったり新たな枝などが生えてどんどん表面が入れ替わっていくのに、文字が書かれた部分だけはそのままの状態で変化をしていない。

「つまりまだ文字の効果は生きていて、木のオバケは必死に抵抗してるからあんな風になってるんじゃないかしら」
「ああ、確かにそのようだね」
「だとしたら……私やってみる!」
「あっ、待つんだ!」

 明里は草助の制止も聞かずに走り出し、妖樹の元へと近付いた。幸いにも妖樹は自分の事で手一杯で明里の接近に気が回っていなかったらしく、彼女が自在に動く根や枝に絡め取られるような事はなかった。

「えいっ!」

 明里は自分の右手に意識を集中させて霊力を集め、掌で「枯」の文字に触れた。その途端、文字は強烈な輝きを放ち、文字の周囲が勢いよく枯れ始めていく。明里は光に驚いてその場に尻もちをついてしまったが、妖樹は耳を覆いたくなるような悲鳴を上げた。

「ぎゃあああああっ!? い、嫌……じゃ……枯れとう……な……」

 もはや抵抗も間に合わず、膨張や分裂を繰り返していた妖樹はまったく動かなくなり、周囲に発せられていた濃い妖気も消え失せていった。枯れ果てた枝からは大量の葉が舞い落ち、それが断末魔代わりだったのだろうと草助は思った。

「そうか、船橋さんは他人の霊力を増幅させる力があるんだった。それを僕が書いた文字に送り込んで、効果を倍加させたのか」
「どう、私だってただの付き添いじゃないんだから」

 明里の元に駆け寄って彼女を立たせながら、草助は明里の能力に舌を巻いていた。自分たちの助けになるとは聞いていたものの、こうした使い方が出来るとは思ってもみなかったからだ。文字が表す意味を実体化させ、その効果を明里が強化する――この組み合わせの相性は抜群であった。

「フフフ、見事だ」

 突然、草助たちの背後から拍手の音と共に男の声がした。草助が素早く振り向くと、黒いスーツ姿の男がいつの間にか立っており、仮面のように張り付いた笑顔のまま手を叩いていた。

「く、黒崎!」

 無論、今まで黒崎が潜んでいる気配など微塵も感じられなかった。森に隠れていたとしても、この距離に近付く間に草助や明里、定岡のうちの誰かが気付くはずである。以前に出会った時もそうだったが、黒崎は気配を消してどこかに潜んでいるのではなく、突如としてその場に姿を現すのである。草助は明里をかばうように立ち、黒崎のわずかな動きさえ見逃すまいと身構えた。

「いつからそこにいた!?」
「たった今さ。そろそろお前たちが来る頃と思ってな」
「それなら一足遅かったな。妖怪はもうやっつけたぞ」

 黒崎は帽子のつばを指先で持ち上げ、枯れ果てた妖樹を眺めると、草助の書いた「枯」の文字に目を留めて言った。

「なるほど。以前会った時よりマシになっているようだな」
「お前が妖樹を使って人の魂を抜き取っていたのは分かってる。だけどそれもここでお終いだ」
「フフ、妖樹が倒されたところで、私にとっていささかの問題もない」
「なにっ?」
「仮にお前たちが現れなくても、こいつは始末する予定だったのだよ」
「馬鹿な、どういうことだ。お前たちは仲間なんじゃないのか?」
「我々の関係は利害が一致しているというだけのこと。仲間などではない。妖樹が追い詰められた時、奴が我が身可愛さに異次元の隙間を広げるであろうことは、最初から分かっていた。むしろそれが本当の役割……この地にある異次元の隙間は地底深くにあり、私一人で隙間を広げようとすると、力を消耗する上にリスクも高いのでね。そこで地中に根を伸ばせるこの妖樹が適任だったというわけだ。そして役目を果たした以上、もはや用はない。用が無くなれば始末するのが道理というもの。違うか?」
「くっ……貴様!」
「おかげで手間が省けた。礼を言うぞ」

 黒崎は身構える草助の横を素通りして妖樹の元に近付くと、おもむろに枯れた幹に手を突き刺した。

「お前たちはよくやった。その褒美に、これから面白いものを見せてやろう」

 言うと同時に、黒崎の全身から底知れない霊気が溢れだした。その圧力は草助と明里を数メートルも後ろに追いやってしまうほどで、定岡やヒザマも弾き飛ばされ、地面に転がっていた。

「な、なんなんだあの力は!? 凄まじい霊力……いや、まるで――」

 黒崎が放つ霊力は非常に強いが荒々しいものではなく、静かに周囲の全てを凍り付かせてしまいそうな、静寂の冷気を帯びている。その冷たい気配は霊力というより、どちらかと言えば妖力に近いものだった。

(い、異常だ。この禍々しい気配と圧力を、人間が出せるものなのか――!?)

 戦慄する草助などお構いなしに黒崎はさらに霊力を高め、その全てを妖樹に突き刺した右手から放出した。その力は妖樹の幹から根へと伝わり、そして地中の一番奥深くへ伸びた先端へと到達する。そこには妖樹によってこじ開けられた小さな穴があったが、黒崎の霊力は、その穴を一気に広げてしまう。草助たちにその一部始終は見えなかったが、直後に妖樹の枯れた幹は、地中から噴出した紫色の光の柱によって崩壊し、バラバラに砕け散ってしまった。紫色の光の柱はまっすぐ天へと伸びていき、先端は空気に混じって拡散を始めていた。

「こ、これは異界……!? いや、違う。よく似ているが、もっと深い別の――」
「せっかくだから教えてやろう。この朝比奈の地は大地を流れる龍脈の関係で、大地に気の淀みが溜まりやすい。淀みには穢れ――人が遺した欲や未練、執着心といった意志の残滓――が蓄積される。やがてそれらはひとつに混ざり合い、膨大な意志のうねりとなって異次元に干渉し、大地に眠る禁断の力を呼び寄せるのだよ」
「もしや、さっき妖樹が言っていた祟りの……お前の目的は黄泉の岩戸を開いて、地獄の入り口を出現させる事じゃなかったのか?」
「ふっ、地獄などただの副産物に過ぎん。そもそも祟りとは、神や精霊、妖怪、あるいは怨霊などの強い意志が具現化した事象を指す言葉。規模の違いはあるが、神の奇跡も怨霊の呪いも、元を辿れば同じものだったのだ。その力に至る扉が、朝比奈という土地に眠っている――もしもそれを開くことが出来たとしたら、どうなるかな?」
「思った事が現実になる力が溢れたら、地上は混乱する。混乱は疑いと恐怖を生み、それは妖怪となって人を襲い、それは際限なく連鎖する……そうか、黄泉の岩戸が開いて地獄が現れるとは、こういう意味だったのか!」
「私はこの時をずっと待っていた。ちょうどここは朝比奈市を見渡せる山の上、お前たちにも見えるだろう」

 黒崎が指した展望台の先には、夜になり始めた朝比奈市が広がっていたが、その各所から目の前のものと同じ、紫色の光の柱が天に向かって伸びているのが見えた。

「あの全ての場所で、私はここと同じ出来事が起こるように仕掛けを施しておいた。各地に開いた異次元への穴は連鎖反応を起こし、より大きなゆらぎと歪みを引き起こす。つまり――」

 黒崎はまったく人間味のない両眼を光らせ、せせら笑いながらこう告げた。

「異次元への扉が完全に開ききれば、朝比奈市全体が異界に飲まれ、やがてはその最奥へと至る道が開かれる。全ては動き出したのだ……お前たちの運命も、そこでお終いというわけだ」
「くっ……そう簡単に終わってたまるか!」
「そう慌てるな。あいにく私は忙しい身でな、これ以上お前たちに構っているヒマはない。そこの少年の相手でもしていてもらおうか」

 黒崎が身代わりに立てたのは、地面にうずくまった友樹だった。明里を取り戻した後は目立った動きがなく、黒崎が現れたのも重なって失念していたが、友樹はずっと近くにいたのである。黒崎の声に反応して友樹は立ち上がったが、彼の姿を見て草助たちは思わず息を呑んだ。顔や手足の皮膚を突き破って植物が生え、ツタのように伸びて友樹の身体に絡みついていたのだ。

「う……うう……
「こ、これは!?」

 変わり果てた姿の友樹を眺めながら、黒崎は変わらない表情のまま言った。

「どうやら手遅れのようだな。こうなってはもう分離は不可能だ。妖樹はこの少年の肉体も、いずれ自分の分身として乗っ取るつもりだったのだろう。私にとってはどうでも良いことだが、丁度いい。彼の処分はお前たちに任せよう」
「なんだと!?」

 黒崎は声を張り上げる草助を意に介さない様子で、友樹に話しかけた。

「どうだね少年。皮膚の下を木の根が這いずり回る気分は」
「た、助け……!」
「君が犠牲にしてきた人間たちも、全て同じ気分を味わった。それとも自分だけは特別で、こんな目に遭うはずがないと高をくくっていたのか? だとしたらずいぶんと都合のいい考えじゃあないか」
「うう……ああああっ」

 冷たく突き放すように言うと、黒崎は草助を見てこう告げた。

「彼にはまだ人間の意識が残っているようだが、それもいずれ消える。そうなれば新たな妖樹として再生し、新たな獲物を求め始めるだろう。そこで筆塚草助、お前に選ばせてやる。少年を人のまま死なせるか、それとも妖怪として生まれ変わらせるか、好きにするがいい」
「ふ、ふざけるな、そんなこと――!」
「お喋りは終わりだ。朝比奈市全体が完全に異界と化すまでには、まだ時間がある。もし私に会いたければ、その間にせいぜいあがいてみることだな。はははは――!」

 黒崎は耳にこびり付く嗤い声を響かせた後、忽然と姿を消してしまった。現れた時と同じように、前触れもなく黒崎はそこからいなくなってしまった。残された草助は、よろよろと歩き回る友樹に視線を移したが、もはや手の施しようもないほど肉体が変質しているのが見て取れた。

「友樹くん、君は……」
「あ、ああ、嫌だ……苦しいよ……助け……助けて母さん……」

 母に助けを求める友樹の声は、あまりにも幼い。友樹の行いは許されるものではないが、そうさせたのは母親を思う心を利用した、妖樹と黒崎に他ならない。自分がやるべき事は分かっていたが、あまりの無念さに草助はこれ以上ないくらいの苦い表情を浮かべ、唇を噛みしめていた。

「大丈夫か筆塚? なんなら俺が――」

 そう言って草助の肩に手を置いたのは、定岡だった。いつになく真剣な表情の定岡だったが、草助は首を横に振った。

「いえ、僕がやります……これ以上目を逸らすことは出来ませんから」
「……そうかい。ま、頑張んな」

 草助は筆を水平に構えると、徐々に肉体を浸食されつつある友樹の姿を両の眼に焼き付ける。そこにいたのは、母の姿を求めて闇を彷徨う、哀れな子供の姿だった。

「……!」

 気迫と共に草助は、友樹の身体を一直線に薙ぎ払う。

「ウワァァァァーーーーッ……!」

 友樹の身体から生えていた植物は真っ黒になって溶け出し、友樹はうつ伏せに倒れ込む。悲鳴は徐々にか細くなり、黒い液溜まりの中で少年は事切れた。草助はその場に両膝を付くと、うなだれて両肩を震わせていた。見かねた明里が草助の顔を覗き込むと、彼の頬に一筋の涙がこぼれ落ちていくのが見えた。

「筆塚くん……」
(この悔しさは忘れないぞ……黒崎め……!)

 涙を拭いて草助が立ち上がると、すずりは草助の手から離れて人の姿に戻り、黒崎が消えた場所をじっと見つめていた。

「どうしたんだ、すずり?」
「あの黒崎ってヤツ、どこかで……」
「なにか知ってるのか?」
「ううん、逆なんだ。アイツと出会ったのはこれで二回目で、他に憶えなんか無いはずなんだけど……今日の物言いや行動を見てたら、なんか引っ掛かってきちゃってさ。タタリの力って言葉も、どこかで聞いたような気がするんだよ」
「そうか。とりあえずここで考え込んでていても仕方がないし、一旦引き上げよう」
「これからヤバい事になるよ。みんな覚悟を決めておきなよ」
「……行こう」

 重い気分を引きずるようにして、草助たちは自然公園の山頂を後にした。妖樹を倒しはしたが、この戦いの結果が敗北である事は全員が理解していた。




 梵能寺に戻ると、周辺はにわかに騒がしくなっていた。境内には見慣れない僧侶たちが大勢集まり、草助の帰りを待っていた様子であった。八海老師のいる本堂に顔を出すと、袈裟を纏った八海老師が草助たちを出迎えた。八海老師の傍らには錫杖と数珠、積み重ねられたお札が置いてあり、いつでも戦える準備が整っていることを物語っていた。草助から一部始終の説明を聞いた八海老師は、丸眼鏡の位置を指で直しながら、単刀直入に言った。

「ふーむ、地の底に眠る力か……黒崎が語ったことが事実として、そんな力を手に入れたとしたら、全能の神にも匹敵する存在となるであろうな」
「すみません老師。僕はすぐ近くにいたのに、止めることが出来ませんでした」
「仕方あるまい。奴は神出鬼没なうえ、今度のことも周到に計画されておった。誰が行っても結果は同じだったであろうよ」
「それに妖怪になりかけていたとはいえ、僕は人をこの手で……」

 そう言ったきり塞ぎ込む草助に、八海老師は深く言い聞かせる口調でこう告げた。

「草助、お前は自分の判断が間違っていたと思っておるのか?」
「それは……でも正しかったのかも分からないんです」
「命は尊い。が、苦しむ者に引導を渡してやることもまた情けよ。なにがなんでも生きることだけが正しいとは、ワシは思っておらんよ」
「老師もこういうことがあったんですか?」
「まあのう。妖怪退治なんぞやっておると特にな」

 八海老師の口から吐き出された言葉が、両肩に重くのしかかってくるような気分を感じて、草助は塞ぎ込む。

「さて、いつまでもヘコんでおる場合ではないぞ。あの黒崎の事じゃ、次の手を仕掛けてくるじゃろう。表にいる蓮華宗の僧侶たちもその対策を打つために集まっておる」

 八海老師が言った途端、慌てた様子の若い僧侶が本堂に駆け込んできた。

「八海様! 朝比奈市内に大量の妖怪が出現しました! 時間は紫色の光の柱が発生したのとほぼ同時、大量の邪鬼を始め、強力な妖魔や魔獣の姿も確認されているとのことです!」
「ついに始まったか。蓮華宗の者は街に現れた妖怪どもを食い止め、市民を避難させるのじゃ。警察の関係者にもすでに話は通してある。ワシと草助たちは、これより妖怪側の協力者と合流し、事件の首謀者を追跡する」
「はっ!」

 若い僧侶は頭を深く下げ、本堂の外で待機していた仲間たちに素早く指示を下していた。

「草助よ、心を強く持て。この先なにが起きようとも、決して取り乱してはならん。恐怖に飲まれたら魂ごと魔物に喰われてしまうでな」
「はい」

 返事をした後で、草助はふとすずりを見た。黒崎に対する違和感を気にしてか、すずりはずっと神妙な顔つきのまま、窓の外に見える空を見上げている。もう夜だというのに、朝比奈市の空はぼんやりと薄紫の光を放っていた。

「どうしたんだ、なにか気になるのか?」
「ちょっとね……」
「そういえばすずりって、大昔に起こった百鬼夜行を魂筆様と食い止めたんだよな。前はどんな風だったんだ? もしかしたら今回の参考になるかもしれないし」

 草助の問いに、すずりは視線を合わせないまま首を振る。

「悪いけど憶えてないんだ。今までにも同じことは何度も聞かれたけど、アタシの記憶に残ってるのは言い伝えになってる話の後からで、その時の様子がどうだったとか、ちっとも思い出せないんだよ」
「そうか、仕方ないな。とにかく最善を尽くすしかないってことか」
「うん、だけど……なにか大事なことを忘れてるような気がするんだ」

 すずりの呟きの後、しばしの沈黙を経て八海老師が口を開いた。

「その事についてじゃが、ワシからも話がある」
「というと?」
「すずりの生い立ちについては、かねてから大いなる謎であった。その目的が黄泉の岩戸を閉じるためであったにせよ、いつ、どうやって生まれたのかは誰も知らん。過去にすずりの力を真似た武器を作ろうとした者もあったが、どれも失敗に終わったようじゃ。だから妖怪にも人間にも恐れられ、その力を狙われ続けてきたし、時に大きな騒動の火種ともなってしまった。このことはすずりが一番よく知っておるはずじゃな」

 八海老師が視線を向けると、すずりは表情に影を落としながら頷く。

「すずりが誕生して以来、朝比奈の地で人間と妖怪との大きな衝突が起きるたび、そこには必ずと言っていいほど、すずりや魂筆使いを狙う者の思惑が絡んでいた。ところが今回、黒崎は黄泉の岩戸を開くという途方もない行動に出ておきながら、草助やすずりに対して直接的な行動をなにひとつ取っておらん。それがどうも気になるんじゃ」
「うーん……大きな力を目の前にして、僕らのことには興味が無くなったのでは?」

 草助が言うと、八海老師は静かに首を振る。

「それはありえん。魂筆使いの力とは、黄泉の岩戸を閉じる唯一の手段でもあるのじゃからな。龍脈の位置や黄泉の岩戸のことを熟知し、誰にも悟られずに暗躍し続けた黒崎という狡猾な男が、最大の障害となる存在を無視するとは思えん」
「確かにそうですが……」
「ワシがこう言い切るにはそれなりの根拠がある。それはお前の両親の事じゃ」
「僕の……父さんと母さんが?」
「いかにも。二人が出会い、そして若くして亡くなった理由……これが最後のチャンスかもしれんし、ここで話しておいてやろうと思う。構わんな、すずりよ?」

 さらに濃い影を落とした顔をしながら、すずりは無言で頷いた。八海老師は彼女の返事を確かめると、重い口調で語り始めた。
 そして物語は二十余年前に遡る――。
           




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