魂筆使い草助

第九話
〜妖の郷〜



「こ、殺される――!」

 砂利と石畳の参道で尻もちを付き、顔面蒼白となった草助の目の前には、身の丈四メートルを超す巨人が宙に浮かび、恐ろしげな形相で草助を見下ろしていた。巨人は隆々とした肉体に鴉の顔を持ち、黄金の着物を纏った山伏の姿で、右手に刀、左手に葉団扇を握っている。背中には漆黒の羽根を生やし、金色の瞳が爛々と輝いている。その姿は日本の伝承に幾度となく登場し、最も有名な妖怪のひとつとされる「天狗」そのものであり、それも下っ端の天狗などではなく、威風堂々とした佇まいと桁違いの妖力を備えた「鴉天狗」であった。

「さあ、覚悟はよいか。わしを退けられれば良し、出来ぬなら――」

 鴉天狗は刀を頭上にかざしてから大きく振り下ろし、両眼を見開いて宣告する。

「その命もらいうける」

 鴉天狗が左手の葉団扇を扇ぐと突風が巻き起こり、瞬く間に竜巻となって草助に襲いかかる。草助は為す術もなく巻き込まれ、軽々と空高く舞い上げられてしまう。木の葉のように揉みくちゃにされた後は、頭から地面に向かって落下しつつ「ああ、死んだな」と半ば諦めかけもしたのだが、幸い参道の脇に生えていた木に突っ込み、枝に引っ掛かって九死に一生を得た。だが全ての能力が桁違いな目の前の妖怪にどう対抗すればいいのか、草助にはまるで見当もつかない。時間を稼ぐ方法を考える暇もなく、彼が引っ掛かっている木めがけて大天狗の刀が振り下ろされた。当然ながら刀身は草助の身長より長く、そして分厚い鉄の塊であった。

「うわわわっ!?」

 無理矢理身体を反らして刃の直撃こそ避けたものの、木は根元まで真っ二つに切り裂かれ、倒れた片割れと一緒に草助は地面に投げ出された。

「む、無理だ、ケタが違いすぎる……老師、見てないで助けてくださいよっ!」

 草助が振り返って叫んだ先には、じっと成り行きを眺めている八海老師の姿があった。彼は袈裟を纏い、数珠と錫杖を持ったままの姿勢で動かず、真ん丸の眼鏡越しに草助を見てこう言った。

「すぐ他人に頼ろうとするでないわ馬鹿者。残念だがワシは一切手を貸さん。自分の力でなんとかするんじゃな」
「鬼! 薄情者! それでも育ての親代わりですかアンタは!」
「この試練を乗り越えられぬようでは、どのみち同じ事じゃ。例えこの場を逃げおおせたとしても、近いうちにお前は死ぬ。必ずな」
「ちょ、ちょっと老師、縁起でもないことを」
「お前だけではないぞ。ワシもお嬢ちゃんも、この街に暮らす皆がやがて同じ運命を辿る。その時がすぐそこまで迫っておるのじゃ」
「そ、そんなバカな……冗談でしょう老師?」
「残念ながら事実じゃよ。しかしまだ希望はある。そのためには草助、お前が魂筆の奥義を得なければならんのじゃ」
「きゅ、急にそんな事を言われても……ああ、どうしてこんな事になってしまったんだ」

 視線を戻して宙に浮く天狗を見上げながら、草助は今までの経緯を思い返していた。




 肉吸いとの一件を報告するために梵能寺へ足を運んだ草助だったが、そこには八海老師に呼ばれて一足先に来ていた明里と、異界と化した病院で行動を共にした刑事の伊吹がいた。草助の報告を一通り聞いた八海老師は、明里に目覚めた特別な霊力について語った後、朝比奈市周辺で暗躍する黒崎の目的が判明したと告げ、全てを語る前に皆を連れて行く場所があると言った。三人が連れてこられたのは朝比奈市の中心に位置する鳩岡八幡宮で、中央の参道が街の中心を貫き、海岸まで延びているのが特徴で、武士の総本山としても知られる日本有数の神社でもある。だが地元で暮らす草助や明里、伊吹らにとってはごく身近なものであって、なんの変哲もない場所である。揃って首を傾げる三人を尻目に、八海老師は八幡宮の入り口にある大鳥居の前にやってくると、懐から将棋の駒の形をした木の板に編み紐と鈴がくっついた物を取り出した。板はかなり古びており、筆で「通行手形」と書かれていた。八海老師はさらに懐から写真と紙切れを取り出し、指に挟んで伊吹の前に差し出した。

「いきなりですまんが、ここに写っている男を連れてきてくれんか。居場所はこのメモに書いてある」
「ちょっと待て。俺の話はどうなった?」

 伊吹が眉間に皺を寄せて問い詰めると、八海老師は人差し指を振って眼鏡を光らせる。

「大丈夫じゃ、ちゃーんと考えてあるわい。ちょっと耳を貸せ」

 八海老師は伊吹に何事か耳打ちをし、それを聞いていた伊吹は怪訝そうな顔をし、眉間に皺を寄せながらも渋々といった表情で頷いた。

「――ほいじゃ頼むぞ。一段落付いたら吉之助に挨拶に行くと伝えといてくれ」
「……わかった。俺の頼みも忘れるなよ」

 伊吹はぶっきらぼうに言うと、そのまま大通りを南に向かって遠ざかっていった。

「うむ、それじゃ二人ともワシの後にくっつけ」

 草助と明里が言われたとおり八海老師のすぐ後ろに並ぶと、八海老師は通行手形を突き出し、そのまま大鳥居をくぐり抜けた。すると彼らを取り巻く雰囲気が一変し、晴れていた空の色が一瞬にして夕暮れ時のような色に染まり、観光客や行き交う人々で賑わっていた参道は、忽然と人の姿が消えてしまっていた。その静寂と湿度の高いまとわりつくような空気を、草助は確かに知っていた。

「い、異界だ……!」

 思わず呟く草助に、八海老師は「左様」と頷く。異界と言えば悪霊や妖怪の住処であるが、草助は今まで自分が体験したそれとは様子が違うことに気が付き、辺りを気にしながら訊ねた。

「ここはなんというか、僕が知ってる嫌な感じがしません。異界なのは確かだと思うんですが……どうなっているんです?」
「まあ慌てるな。すぐに分かる」

 そうとだけ答えて先を行く八海老師の後を付いていくと、参道の彼方に小さな光がぽつんと点り、ゆっくりと揺れながらこちらに近付いてくる。やがて光が目の前までやってくると、それは提灯を手にした、黒地に牡丹の花をあしらった着物を纏った女性であることがわかった。女性は笠を被っていて顔はよく見えなかったが、落ち着きのある声と口調で挨拶をした。

「お待ちしておりました八海様。お連れの皆様方も、ようこそいらっしゃいました」
「うむ、出迎えご苦労じゃの。早速じゃがこっちのお嬢ちゃんを案内してくれんか」
「かしこまりました」

 女性はうやうやしくお辞儀をすると、しなやかな手つきで笠を脱ぐ。その下から現れた彼女の顔に、草助と明里は目を丸くして驚き、明里は思わず言葉を漏らしていた。

「ね、猫……顔が、猫……」

 彼女の素顔は、綺麗な毛並みを持つ三毛猫であった。透き通る宝石のような大きな瞳を明里の方に向け、丁寧な口調で返事をした。

「私は猫又の美尾(みお)。我が主より、あなた方の案内を仰せつかっております」
「主?」

 明里が聞き返すと、美尾はゆっくり瞬きをしながら頷き、答えた。

「はい。この妖の郷を統べる御方……それが私の主でございます」
「もしかしてここ、他にも妖怪が暮らしているの?」
「妖怪の中にも人間と争うことを嫌い、穏やかに暮らしたいと願う者たちがいるのです。ここはそうした妖怪たちが身を寄せ合い暮らす場所。朝比奈の土地に人間が多く住み着くよりずっと昔から、我らはこうして暮らしてきたのです」
「知らなかった……私たちが気付かないだけで、妖怪はいつもすぐ近くにいたなんて」
「それでは明里様、私に付いてきてください。あまり時間がありませんので」
「あっ、待って。気になってたんだけど、筆塚くんは私たちとは別なの?」
「筆塚様はこの後、我が主と直接お会いになって頂きます。それ故、立会人の八海様以外には席を外して頂かなければなりません」
「えーっ、そんなあ。私たちも一緒じゃダメなの?」
「ダメでございます」

 美尾は懇願する明里にぴしゃりと言い放つと、くるりと背を向けて歩き出す。

「では参りましょう。くれぐれも申し上げますが、この郷で勝手に歩き回らないでくださいね。ここに暮らす妖怪は進んで人間を襲いはしませんが、中には人間嫌いな者も居るのです。私とはぐれて彼らを刺激した場合、お命の保証はしかねますので」
「う……わ、わかったわ。じゃあまた後でね、筆塚くん」

 明里は仕方ないといった様子で肩をすくめ、美尾の後に付いていく。伊吹は終始落ち着かない顔をしていたが、特に反論することもなく彼女の後に続く。明里が遠ざかっていくのを見送ると、八海老師が言った。

「さて、ワシらも行くとしようかの」

 草助と八海老師は玉砂利と石畳が敷き詰められた参道を真っ直ぐ進み、八幡宮の本殿へ通じる階段の目前まで辿り着く。八海老師はそこで足を止め、階段の上に建つ本殿を見上げたまま黙り込んでいた。草助もしばらくはそのまま黙っていたが、やがて疑問が抑えきれなくなった。

「あのー、老師。さっきの話だとここの主とやらに僕は会うことになってるみたいなんですが、一体どういうことなんですか? これが黒崎の狙いとどんな関係が……」
「草助よ」

 言葉を遮るように八海老師が口を開く。相変わらず階段の上に視線を向けたままで、日頃とは違った真面目な口調で呟いた。

「人生にはどうしようもなく理不尽な目に遭う事があるもんじゃ。どんなにムチャクチャでも、乗り越えるしか道を選べぬ時がのう。つまりなにが言いたいかというと――」

 八海老師はスッと石畳の脇に移動し、はるか上空に目を向けながらこう続けた。

「今がその時っちゅうわけじゃ」

 その時、八幡宮の上空から巨大な影が飛来した。それは突風と共に現れ、稲妻のように地面に着地した。舞い上がる砂埃の向こうに見えたものは、身の丈四メートルを越す鴉天狗だったのだ。

「我が名は鴉天狗の鞍真(くらま)。この妖の郷を預かる者である。汝が我らの命運を託せる器かどうか、試させてもらうぞ」

 言うや否や、鞍真と名乗った鴉天狗は腰に差した太刀を引き抜き、背中の羽根を羽ばたかせて宙に舞い上がると、一気に妖力を解き放った。それは今まで出会った妖怪の妖力とは比べ物にならず、感じた瞬間に格の違いが理解出来てしまうほどに強大であった。圧倒的な力に押され、草助は大きく後ずさりして尻もちをついた――というのがここへ至るまでの流れであった。

(……ダメだ、思い出してみても唐突すぎてサッパリだ)

 草助は心の中で独りごちつつも、肝心な事をすっかり失念していた事に気がついた。

「そ、そうだった。いくら強そうでも妖怪なら、筆で払ってしまえば――」

 そう思い自分の右手を見た草助だったが、妖怪と戦う時にはいつもそこにあるはずの筆が見当たらない。よくよく思い返してみれば、今朝からずっとすずりの姿を見かけていなかったのである。

「こ、こんな時に冗談じゃないぞ! 老師、すずりはどこに行ったんですか!?」

 泣きそうな声で訊ねた草助に返ってきたのは、彼を絶望のどん底に突き落とす台詞だった。

「すずりはおらんぞ。自分の力で乗り越えよと言ったじゃろうが」
「む、無理無理、絶対無理ッ! すずり無しで妖怪と戦えるわけないじゃないですか! しかもよりによってあんなの相手に!」
「ならば諦めよ。大人しくしておれば、ひと思いに息の根を止めてくれるであろう」
「ううっ……」
「よいか草助。ワシはお前を預かってから今までの間、出来る限りの事を教えてきたつもりじゃ。それをよく思い出してみよ。後はお前次第じゃな」

 一瞬目の前が真っ暗になりかけた草助だったが、鴉天狗から放たれる妖気の重圧が否応なく現実に引き戻す。鴉天狗が再び太刀を頭上に構えているのを見た草助は、蒼白になりながら慌てて逃げ出した。

(と、とにかく逃げ回るんだ。そうすれば死にはしないはずだ)


 草助にしてみれば他に選択の余地がなかったのだが、すぐにそれが甘い考えだったと思い知ることとなる。鴉天狗はその巨体からは想像も付かぬほど素早く飛行し、ことごとく草助の行く先に回り込んで逃げ道を塞ぐ。さらに振り下ろされる太刀の速度も稲妻が落ちたのかと錯覚するほどの速度と威力で、とても見てから避けるなど不可能であった。運良く直撃を受けることは無かったが、草助は立ち止まらないように動き続けるだけで精一杯であった。

「ふん、時間稼ぎというわけか。しかし無駄な事……天狗礫(てんぐつぶて)の術でひと思いに送ってやろうぞ」

 鴉天狗が念じると同時に、周囲に強い妖力が放たれた。それは草助に打撃を与える物ではなかったが、拡散した妖力の波動は辺りの砂利や石畳、岩や木の枝といった物体に染み込んでいき、それらはやがて音もなく中に浮かび上がると、草助めがけて一斉に雪崩を打った。

「うわーっ!?」

 飛来する砂利の勢いは相当なもので、頭に直撃すれば頭蓋骨が砕けてしまっただろう。草助は咄嗟に両腕で頭を庇ったが、肉に石がめり込み、骨に亀裂を生じさせた。その苦痛を気にする暇もなく、回転する石畳が草助の胴体に直撃した。

「ぐはッ……!」

 草助は自分の胸のあたりで、固い棒が何本も折れたような音がしたのを聞いたが、身体の芯を貫く衝撃で意識を刈り取られてしまった。




 気が付くと草助は暗闇を漂っていた。身動きはまったく出来ず、どれだけ目を凝らしても辺りは黒一色で、なにも見えない。ここがどこで自分がどうなっているのかは、不思議と気にならなかった。やがて遠くに小さな光が現れ、自然と光が自分の方へと近付いて来た。光の中には膝を抱えてうずくまった幼い少年と、傍らに着物姿の老いた男がいた。草助はこの二人が誰なのかすぐに理解出来た。少年はかつての自分自身、そして老いた男は祖父の草一郎だった。幼い草助は声を押し殺して泣いており、草一郎は立ったままじっと草助を見つめていた。

「なぜ泣いているんだ草助」

 草一郎が訊ねると、幼い草助泣き腫らした目をわずかに上げて返事をした。

「みんなが僕を気持ち悪いって」
「ほう、なぜそんなことを?」
「オバケが見えるから……普通じゃないって。先生もみんなと同じ目で僕を見るんだよ」
「そうか」
「ねえじいちゃん、どうして僕だけこんな風なんだろう。みんなと一緒なら嫌われたりしないのに」

 草一郎は膝を曲げ、目線を草助に合わせてこう言った。

「人にはそれぞれ生まれ持った役割がある。それは他の誰にも替えが効かない、その人自身にしか出来ない事だ。だが大抵の人は、それを自覚しないまま一生を終えてしまう。草助に幽霊が見えるというのは、それがお前の生まれ持った役割だからだよ」
「そんなのいらないよ……」
「幽霊とは普通の人に見えぬもの。彼らは強い思いや無念によってこの世に留まっているのに、姿も声も普通の人々には伝わらない。それに気付いてやれるのは、お前の優しさなのだ」
「でも……」
「いいか草助、よく覚えておきなさい。見えないものが見えるということは、お前にはそれに形を与えられるという事でもあるのだ。形なき物が形を得た時、それは現実となって力を持つ。今は難しくてわからないだろうが、いつか大人になった時、その力がお前を助けてくれるはずだ――」


 草一郎の眼は最後まで優しかった。懐かしい気持ちに包まれながら、その光景は次第に遠ざかっていった。再び草助は暗闇の中を漂い始めたが、ほどなくして暗い洞窟の中に放り出され、寝転がっていることに気が付いた。そこはただ岩が剥き出しになっているばかりで、天井ははるか頭上に小さく見えるほど高い。物音はなく、地面は冷たくてごつごつしており、ひどく寂しい気分にさせられる場所だった。
 草助が立ち上がって周りを確かめると、目の前には切り立った高い壁があり、楕円形で途方もない大きさの石が、壁に密着して鎮座している。そして草助の目の前には、人間とほぼ同じくらいの大きさの石が、巨大な石を支えるようにして地面に突き刺さっていた。石の表面はすっかり風化して角が崩れ落ちており、それを見た草助の胸には、言いようのない寂しさがこみ上げてきていた。

「ここは一体」

 草助が呟くと、やがてか細い声がどこからともなく響いてきた。目の前の石が喋っているのか、それとも別の場所から聞こえているのか、まったく判断が付かない声だった。

「ここは……の淵……お前に見えているのは……の心に……眠る場所……」
「ちょっと待ってくれ、意味がよく分からない。心に眠る場所?」
「そうだ……」
「僕はこんな場所知らないぞ。なにかの間違いじゃあないのか」
「お前の記憶ではない……魂筆を手にした者……お前は命の火を失いかけ、魂だけがこの地を訪れているのだ……」
「命の火を失うって……ああっ、思い出した! いきなりとんでもない妖怪と戦わされて、確か……」

 ようやく草助は、自分がどんな状況にいたのかを理解する。刹那、意識を刈り取られる寸前の耐え難い苦痛を思い出し、草助は膝を折ってその場にうずくまった。

「ぼ、僕はもう死ぬのか?」

 草助の問いかけに、謎の声は言った。

「それをこれから決める……このまま黄泉へと旅立つか、より過酷で苦悩に満ちた生にしがみつくか……選ぶのだ」
「い、嫌な言い方をするなあ。大体選ぶって、そんなの決まって――」

 言いかけて草助は口をつぐむ。自分が意識を失う直前の出来事を思い出してみると、仮にこのまま目を覚ましても、すぐにまたここへ戻ってくるだろうという流れしか考えられない。

「う、うーん……これは困った。あのー、せっかく生き返ったとしてもまた死にそうなんだけど」
「生を望むなら……魂筆の奥義を得よ……ただし……試練を受けねばならぬ……」
「試練ってどんな?」

 謎の声は答えず、しばらく辺りを沈黙が覆う。やがて再び声が響き、告げた。

「試練に挑むか?」
「ああもう、挑むしかないじゃないかそんなの!」

 選択の余地がない草助が叫ぶと同時に、彼の視界は真っ白の光に包まれた。

「う……」

 気が付くと、そこは石壁で覆われた四角い部屋だった。部屋の中には照明の松明が壁に掛けられているくらいでなにもなく、出入り口の扉もない。すると背後から、突然子供の笑い声がした。

「来たね草助。尻尾巻いてあの世に逝っちゃうんじゃないかって、少し心配してたんだけどね」

 ケラケラと笑っていたのは、おかっぱ頭の後ろ髪を、筆のように一房だけ長く伸ばした髪型で、赤い着物を身に着けた少女、すずりだった。

「どうしてすずりがこんな所にいるんだ? お前がいないおかげで僕はえらい目に遭ったんだぞ。それにさっきからよく分からない事だらけで……僕は一体どうなったんだ?」
「ここは魂の修行場さ。草助は今、魂だけになってこの場所に来てるんだよ。ここに生身の人間は入ってこられないからね」
「やっぱりアレは夢じゃなかったのか、とほほ」
「のんきに喋ってるヒマはないよ。足元をよく見てみな」

 言われて草助が自分の身体を確かめると、足先から徐々に自分の姿が消え始めている。

「うわっ、これは!?」
「完全に姿が消えたら今度こそお陀仏だよ。その前になんとしても技を身に付けることだね。待ったなしの一発勝負、覚悟はいいか?」
「いや、ちょっと待っ――!」

 言いかけた途端、部屋は突如として炎に包まれた。炎は猛烈な勢いで燃え盛り、四方から徐々に草助のいる中央へと迫ってくる。

「うわあっ!?」
「それじゃこの炎を消してみな。もちろん草助だけの力でね」
「ムチャクチャ言うな! 道具もないのにどうやって火を消すんだ!」
「あっそ。それなら燃えカスになるだけさ。魂が焼き尽くされたら二度と生まれ変われずに、永久に灰のまま苦しみ続けることになるだろうけどね」
「ううっ……老師といいお前といい、どうして急に無茶なことばかりを。そもそも今まで妖怪と戦ってこられたのも、お前がいたからなんとかなってただけじゃないか。現に今だって、あのとんでもない妖怪に手も足も出ずにやられたわけで」

 半分泣きの入った草助の言葉にため息を付きながら、すずりは腕を組んだまま草助をにらみ上げる。

「まだ分かってないのかい。いくらアタシが手を貸したって、まるっきり見込みの無い奴に妖怪退治なんかできっこないんだよ。アタシは使い手の手助けをするだけ。妖怪と戦う為に必要なのは、あくまで本人の技量さ」
「だからって……!」
「ったく、仕方ないねー。ま、確かに草助にはこの事を説明してる暇も無かったし、ちょっとヒントを出してやるよ。まず最初に、火を消すのに必要なものはなにかな〜?」

 四方から迫る熱気に包まれている草助の脳裏には、すぐにその名前が浮かんだ。

「み、水だ。水さえあれば」
「で、その水はどこにあるんだい?」

 草助は部屋の四隅を見るが、炎が迫る岩壁の部屋に、水など存在するはずはない。

「やっぱりどうにもならないじゃないか!」
「大の男が取り乱すなっての。水がなけりゃ出せばいいんだよ」
「ど、どうやって」
「よく思い出してみな。草助の特技はなんだったのさ」
「特技といっても、僕はせいぜい絵を描くのが取り柄なだけで」
「そうだよ、よく分かってるじゃん。で、魂筆使いってのはどんな技を使うんだっけ?」
「そりゃあ退治した妖怪を絵にして封印を……って事は、いつもと逆に描いたものを実体化させろって事なのか!?」
「ピンポーン、大正解。筆の神髄を以て魂を吹き込むから、魂筆使いって呼ぶんだよ。そこまで分かれば後は実践するだけさ」
「ちょっと待ってくれ、描くと言っても何に描けばいいんだ。ここには紙もなにもないんだぞ」
「だからアタシがいるんだよ。魂筆は描く物や場所を選ばない――虚空より真を取り出す業こそ魂筆使いの奥義なのさ」
「虚空から真を……出来るのか、僕に」
「アタシを使う資格があるのは、それが出来る素質を持った人間だけ。いくら霊力が強くても、それだけじゃダメなんだよ。八海のじーちゃんは草助が魂筆使いになるまで代理でアタシを使っていたけど、この技だけは使えないんだ。大事なのは想像力と集中力だよ。心を空っぽにして、ひとつの事だけを思い浮かべるんだ」

 そう言うとすずりは紅い筆へと変身し、草助の手に自ら収まる。草助は筆を握り締め、徐々に狭まりつつある炎と対峙しながら考えていた。

(しかしどうする? とてもじゃないが水の絵を描いている時間はない。それに形のない水を表現するのに一番効率的なのは――)

 草助は四方から迫る炎の熱が徐々に高まってくるのを感じながら、握りしめた筆に目を落とす。その時ふと、八海老師の言葉が蘇ってきた。

(焦るな、落ち着いて考えろ。老師に教えられたことを思い出せ……)

 祖父の草一郎が亡くなった後、八海老師は彼に代わって草助に教育を施していた。特に熱心だったのが絵と書道の練習で、特に筆の扱いにはうるさく、筆の由来や歴史、持ち方や作法、そして描く時の心構えを日頃から徹底的に教え込まれた。それらの日々を思い出した時、草助の中で全てが直列に繋がったような閃きが走った。

(そうだ、老師はいつも答えを教えてくれていたんだ。僕が気付いてなかっただけなんだ!)

 草助はただ握りしめていた筆を持ち替え、心を落ち着かせて自分に言い聞かせる。

(筆は元々文字を書くための道具だ。文字は様々な物や出来事を表した絵から発展したもの……ということは、イメージを形にするって意味ではどちらも同じなんだ)

 草助は筆を構えると、目の前の空間を紙に見立てて筆を滑らせる。筆先に魂を込め、迷いのない心で線を引く――八海老師から幾度となく聞かされてきたその動作が霊力を生み、草助の身体を通して筆先に霊力が流れ込む。すると次の瞬間、目の前の空間には「水」という文字が見事に書かれていた。

「やった、出来たぞ!」

 文字は最初、書道の時と同じ色形をしていたが、すぐに変化が現れた。文字の輪郭は波打ち、透き通った液体へと変化し始めると、大量の水へと変化して部屋に溢れたのである。水は瞬く間に炎を消し、熱気に満ちた部屋を急速に冷やしてゆく。

(ま、ひとまず合格ってトコかな。『幽玄の書』の奥義、確かにモノに出来たみたいだね)
「すごい、本当にこんな事が起こるなんて」
(さあ、後は目を覚ますだけだよ)
「そうだった忘れてた。またアレと戦うのか……」
(ここに来る前よりはマシになるはずさ。それから目を覚ましたら、すぐに傷の手当てするんだよ。この技を上手く使えば怪我だって治せるし、無限の使い道があるんだからね)

 すずりの言葉を聞きながら、草助の意識はまどろみに溶けるように遠のいていった。




 再び意識を取り戻した時、草助は全身が砕けたような激痛に見舞われた。霞む視界で自分の様子を確かめると、仰向けに倒れた全身には細かい石がめり込んでいる他、身体の上に大きな石の板がのしかかり、尖った出っ張りが胸に突き刺さっていた。まったく呼吸が出来ず、手足も思うように動かせない。少しでも気を抜けば即座に意識を失ってしまいそうな苦痛だった。

(ま、まずい……急がないと……)

 草助は力を振り絞り、胸にめり込んだ石畳を押し返す。指先には重くて冷たい石の感触と、傷口から流れた血の生暖かさが伝わって来る。歯を食いしばって刺さった部分を抜くと、草助は一心に念じながら、自分の血で左の手のひらに「治」の文字を書き、それを傷口に押し当てた。

(これでいいのか分からないが……頼む、効いてくれ)

 今の草助にはそれだけ動くのが精一杯で、後は祈るような気持ちだった。やがて草助は呼吸が楽になり、苦痛を感じなくなった。最初は失敗して感覚が消え始めていると思ったが、そうではなかった。胸の傷は癒え、意識もはっきりと戻っていた。草助が上体を起こすと、目の前には宙に浮く鴉天狗と、様子を見守る八海老師の姿が映り込んだ。

「おお、目覚めおったか! やれやれ、どうにか第一段階は乗り越えたようじゃの」

 表情こそ丸い眼鏡に隠れて見えなかったが、八海老師の声は安堵に満ちていた。自分が命拾いをしたのだと確信すると、草助はゆっくり立ち上がる。傷は「治」の文字でどうにか回復したが、身体の奥深くに刻まれたダメージは消えていないらしく、骨という骨が軋んで音を立て、鈍い痛みが手足に残っていて消えない。

(新しい術も万能じゃないってことか。このぶんだとあまり長持ちしそうもないな)

 息を吹き返したのはいいが、追い詰められた状況に変わりはなかった。鴉天狗の妖力は圧倒的であり、対する草助はダメージを受けている上に、相手を退ける武器が無い。草助の手に筆はなく、すずりの姿も見当たらなかったからである。鴉天狗は蘇った草助を眺め、クチバシを撫でながら言った。

「よくぞ立ち上がったものよ。魂の試練によって得た技、どの程度か試させてもらうぞ」

 左手の羽団扇を振り、鴉天狗は二度目の竜巻を繰り出した。竜巻は最初の時と些かも勢いは衰えず、壮絶な急流の渦となって押し寄せる。草助にはそれを走って避ける余裕はなかった。

「んぬぬっ……!」

 草助は自分の胸に刺さっていた石畳を地面に垂直に立たせると、着物に染み付いた血を指先に塗り、一心に祈りながら霊力を込め「反」の文字を石の表面に書く。石の板一枚程度では心許なかったが、すずりがいなければ空間に文字を書く事が出来ず、もはや新たに会得した技の効果に期待するより他に無かった。

(これがダメなら最後だな)

 草助は覚悟を決め、石の板の陰に身を潜める。猛烈な空気の渦があと一歩という所まで迫った瞬間、書かれた「反」の文字が光を放つ。すると文字の書かれた石畳を中心とした小さな結界が現れ、結界に触れた竜巻は真逆へと方向転換し、鴉天狗めがけて跳ね返った。

「ぬうっ!?」

 自ら作り出した竜巻に飲まれ、鴉天狗は妖力を解除して竜巻を消すと目を見張った。

「ついさっきまで逃げ回っていただけの若造が、我が妖力を跳ね返すとは。いつもながら人間の成長速度には驚かされる。ならばもう一度確かめさせてもらおう!」

 鴉天狗は右手の刀を構え、猛禽のように急降下しながら草助に斬りかかった。無防備であったなら為す術無く真っ二つにされていたであろう太刀筋だったが、草助の周囲に張り巡らされた結界は、その重い斬撃をも跳ね返した。反動を受けた鴉天狗の太刀は宙に舞い、弧を描いて地面に突き刺さった。同時に「反」の文字の効力も限界に達したらしく、石畳に書かれた文字はかき消すように無くなってしまった。

「……」

 草助には反撃をする力も武器もなかったが、鴉天狗はそれ以上攻め立てようとはせず、引き返して地面に刺さった自らの刀を取り、腰の鞘に収めてから言った。

「我が太刀を弾かれてしまっては認めざるを得んな。そなたの器、確と見届けた」
「そ、それじゃあ」
「ようこそ客人よ。改めて自己紹介をするが、わしはこの妖の郷を預かる鴉天狗の鞍真と申す。普通の人間はこの郷に足を踏み入れることは出来ぬが、そなたらは別である。やむを得ぬとはいえ、突然の無礼は許して頂きたい」
「は、はあ……」
「では一旦、我が屋敷へ参られよ。全てはそこで説明しよう。先にお仲間も待っておるはずだ」

 人間と同じ大きさに縮んだ鴉天狗の鞍真に案内され、草助たちは敷地の奥にある屋敷へと辿り着いた。建物は木造の古めかしい作りで、通常の八幡宮では文化財として保存されているものであったが、漆塗りの柱や金箔を張り付けた彫り物が並んでおり、豪華な内装が目を引いた。板張りの廊下を通って広い座敷に案内されると、そこには座布団に正座した明里がいた。

「あっ、やっと来た。ねえねえ筆塚くん、今までなにしてたの?」

 まさか死にかけて新たな技を身に付けていたなどと言えず、草助は適当に言葉を濁して誤魔化す。明里の隣に用意された席に草助が腰を下ろし、八海老師と鞍真は二人と向かい合うように並んで座った。

「うむ、待たせたのう」

 八海老師は袈裟の裾を正しつつ言うと、正面に並んだ草助たちを見た。

「それぞれ聞きたい事はあるじゃろうが、まずは順を追って説明せねばな。まず最初に、黒崎と名乗る人物の狙いじゃが……奴は異次元の扉をこじ開け、黄泉の岩戸を開こうとしておると見て間違いない」
「黄泉の岩戸?」

 草助が聞き返すと、八海老師は眼鏡の奥で鋭い眼差しを光らせながら頷いた。

「黄泉の岩戸とはその名の通り、現世と黄泉の国を隔てているものだと伝えられておる。が、生身の人間でそれを確かめた者はおらん。黄泉の岩戸へ辿り着くには異界の更なる深淵へと潜らねばならず、またそこへ至る道もすでに失われてしまったと言い伝えられておる」
「待ってください。その話だと、黄泉の岩戸とやらを開くのは不可能だということになりませんか?」
「……そのはずじゃった。ところがここ最近の出来事を整理しておるうちに、大変なことが分かってきたのじゃ」
「というと?」
「草助よ、お主は今までの妖怪退治で何か気になることはなかったか?」
「うーん、そう言われましても。とにかく妖怪をやっつけるのに必死で……」
「よく思い出してみるんじゃ。お前が出会ってきた妖怪のほとんどは、異界を作り出すか、それに関わる奴ばかりだったじゃろう。特に黒崎が関わった連中は全てそうじゃ」
「確かに言われてみれば」
「ワシも奇妙に思って調べてみたんじゃよ。果たしてこれは偶然かとな……黒崎は人間の魂を奪い取っておったから、ワシも最初はそれが奴の目的だと思っておったが、本当に注目すべきは場所だったのじゃ」
「場所、ですか」
「本来隔てられた世界が繋がる時、その空間には深刻な亀裂が生じる。例え穴を塞いでも、空間自体に生じた影響は簡単に修復できん。深い傷の跡がなかなか消えんのと同じように、完全に元に戻るには長い時間が必要となるんじゃよ」
「それと異界が出現した場所と、どう関係が?」
「異界に繋がった場所をよく思い出してみよ。街外れの祠、マンション、高速道路、病院――これらは全てバラバラに思えるが、実は全て朝比奈市を流れる龍脈の上に位置しておるのじゃ。龍脈は大地の霊力が流れる血管みたいなものでな、龍脈の気が滞ると天変地異が起きたり、時空に大きな異変が生じる原因となる。的確に龍脈を刺激する場所を選んでおる所から見ても、黒崎が龍脈に関する知識を持っている事が裏付けられるな」
「異界を作り出す事そのものが目的だった……それじゃあ僕がいくら妖怪をやっつけても、奴の目的は達成されていたというわけですか。しかしこんな手の込んだことをして、黒崎は一体なにをやろうとしているんです?」
「うむ、話はここからじゃ。そもそもなぜ朝比奈の土地に妖怪が多く現れるのか、まずはそこから語らねばならんな」

 八海老師が言葉を句切ると、代わって鞍真がクチバシを開いて言葉を続けた。

「ここから先はわしが話そう。そなたらはこの地に伝わる魂筆の伝承を知っていよう? 妖怪の群れが地上に溢れ、それを旅の僧が魂筆の力で封じたというものだ」

 鞍真の黒い瞳に見つめられ、草助たちは頷く。

「あれはただの物語ではなく、現実に起きた出来事だったのだ。時が経つにつれ、少しずつ形を変えて伝わってはいるがな。遙か遠い昔、この朝比奈の地で黄泉の岩戸が開いたことがあった。地上には亡者の群れと数多の妖怪が溢れ、生ある物は虫や草木に至るまでことごとく魂を奪われた。空は闇に包まれ、大地は穢れて草木は死に、人間も滅びに瀕した――その時、命を投げ出して妖怪の大群を封じ、黄泉の岩戸を閉じたのが初代魂筆使い、筆塚草雲という男であった」
「筆塚……つまり僕のご先祖様ということですか」
「いかにも。だが黄泉の岩戸が開いた影響は大きかった。時空の裂け目が生じた事で現世と異界との境にゆらぎが生じ、朝比奈の土地には多くの異界や邪悪な妖怪が出現することとなってしまった。他所と比べて朝比奈に寺社が数多く存在するのは、それを抑える目的もあっての事なのだ」
「そうだったのか、全然知らなかった」
「黄泉の岩戸が閉じられてからちょうど千年が経つ。時の潮は満ち、大地の気が最も高まる時期でもある。このタイミングで黒崎とやらが朝比奈の龍脈に手を出し、妖怪を使って人間の魂を集めているのは、単なる偶然ではなかろう」

 物々しい雰囲気で語る大天狗に、怪訝そうな顔で明里が聞いた。

「あのー、もしもその黄泉の岩戸が開いちゃったらどうなるの?」
「ひとたび黄泉の岩戸が開かれたならば、地獄がこの世に現れる。地上は亡者が列を成して歩き、恐ろしい妖怪や魔物が跋扈して生者を襲う。それを人間は百鬼夜行と呼んでおるようだが。黄泉の岩戸から溢れ出した地獄は際限なく広がり、やがて地上全てを覆い尽くす。そうなれば今の世は滅び去るであろう」
「ええええっ!?」
「無論それは妖の郷に住む妖怪にとっても滅亡を意味する事である。このまま見過ごすつもりはない」
「そっかあ、よかった」

 安堵する明里に、今度は八海老師が言葉を続けた。

「蓮華宗もこの件に関してはすでに動き始めておる。市内に不穏な動きがあり次第、すぐにワシの所へ連絡が来る手筈じゃ。が、黒崎の目論見――黄泉の岩戸に関わる企てを防ぐには、魂筆使いの力とそのサポートが必要じゃ。そのためにしばらくここで、自らの技と力を磨く為の修行をしてもらうぞ」

 鴉天狗が立ち上がって合図をすると、座敷に二人の人影が現れた。一人は明里をここへ案内した美尾という猫又、もう一人は緑がかった深い色の黒髪に薄い紫のルージュを引いた、黒い革のツナギを着た女で、彼女は草助と明里を見て笑顔を見せた。

「はぁい、元気してた?」
「あ、あんたは禰々子じゃないか。どうしてここに」

 禰々子は河童一族を束ねる女親分で、凶悪な河童の一種である水虎と共に戦った事がある。普段は色気漂う女の姿をしていて、胸元を大胆に開いている。

「どうしてもなにも、ここが私の住処だからさ。前にそう言わなかったっけ?」
「えーっと……」
「それはともかく。話は聞いてるよ。私にもあんたらの修行を手伝えってね」
「そ、そうか。よろしく頼むよ」
「ま、私が面倒見るのは後から来る奴らしいけど。死なない程度にイジメちゃっていいって言われてるから、楽しみだわあ。じゃあ二人とも、また後でね」

 禰々子の背中を見送りながら苦笑いをしていると、美尾が透き通る大きな瞳を明里に向けて口を開いた。

「明里様は私とご一緒に。これより霊力の扱い方を学んで頂きます」
「う、うん。でも大丈夫かしら」
「こう見えても私は妖術を得意としております。一通りの事は十分お伝えできるでしょう。というか必ず身に付けてもらいますが」
「お手柔らかにお願いします……」

 明里は不安そうにしながらも立ち上がり、美尾に従い座敷を出ようとした。

「えっと、筆塚くんも気をつけてね」

 最後に振り返ってそう言うと、明里も座敷を後にした。

「さて、それじゃワシらも始めるとするかの」

 伊吹と明里が去った後、八海老師は座敷の中心に書道の道具を広げ、草助に筆を握らせてこう言った。

「さて草助よ。先程の試練で身に付けた『幽玄の書』の奥義、もう一度ワシに見せてもらえんかのう。まずは火の文字を書いてみよ」
「は、はい」

 草助が筆を手に取り、火をイメージしながら霊力を指先に込め、用意された紙に「火」の文字を書き入れる。草助がその紙を両手でつまんで持ち上げると、書き込まれた文字がひとりでに燃え上がり、紙はじわじわと燃え尽きて灰となった。

「……ふむ、なるほどのう。どうにか形は出来とるようじゃな」
「おかげで生命の危機に晒されましたけどね。いくら何でも横暴ですよあんなやり方は。もうちょっと他に方法は無かったんですか」
「ん、あるぞ。身を清めてから儀式を行い、自力で幽体離脱をして試練の場に向かうのが正しい方法じゃからのう」
「あるんなら最初からそう言ってくださいよ。ったく、この人は可愛い弟子をなんだと思ってるんだろう」
「そうボヤくな。本来は試練に挑む前の準備だけで数ヶ月もかかるのじゃ。今の我々にはそんな猶予は無い。それに失敗したら命を落とすというのはどっちでも同じじゃ。生きるか死ぬか、ふたつにひとつだと聞かされて草助はこの試練に挑んだか?」
「多分逃げると思います」

 草助が真顔で即答すると、八海老師のゲンコツが草助の脳天に落下する。

「ワシの判断に間違いは無かったというわけじゃ。めでたしめでたし」
「おっおおお……」
「冗談はさておき、この技を使いこなしてこそ真の魂筆使いと言える。今までの草助は、いわば鞘に収まったままの刀で戦っていたようなもの。それくらいこの技は強力な武器になるという事じゃ」
「そ、そんなに?」
「証拠を見せてやろう。もう一度今と同じ文字を書いてみせい」

 そう言うと八海老師は草助の横に移動し、肩に手を置いて精神を集中し始めた。草助が再び「火」の文字を書き上げると同時に、八海老師が草助の身体に霊力を注ぎ込むと、草助の身体を伝った霊力が文字に注ぎ込まれた。その途端「火」の文字は激しく燃え上がり、火柱となって立ち上ってから消えた。

「わわっ!?」
「今回はワシの霊力をチョイと足しただけじゃが、それでもこれだけの変化がある。草助が己の霊力を完全に使いこなし、その上で空間に文字を書けるすずりの力が加われば、百人力じゃ。逆に言えばこの技を身に付けぬうちは話にならんというこっちゃ」
「なるほど……」
「黒崎の狙いが成就するまで、あまり時間は残されていまい。手遅れになる前に、草助にはワシと鞍真どのでみっちり霊力の扱いを叩き込む。覚悟せいよ」
「ええーっ!?」

 こうして草助と明里は、朝比奈市の中心部に位置する妖の郷で、自らの能力を高める為の修行をする事となるのであった。




「――心を落ち着けて深呼吸を。精神統一することが霊力を操る基本です」

 屋敷の離れに位置する庵の中で向かい合い、明里と美尾は正座をしていた。明里は言われた通りに目を閉じてみたが、そこからどうして良いのか分からず目を開けた。目の前には毛並みの綺麗な三毛猫の顔があり、黄色く透き通る瞳に明里の姿が映り込んでいる。

「う、うーん。私みたいな素人に出来るのかなあ」

 明里が首を傾げて苦笑すると、美尾は表情を微動だにせず返事をする。

「ただ目を閉じるだけでは無意味です。まず心を落ち着けて、私の言葉に耳を傾けてください。例えば書物を読んでいる時など、集中すると周囲の音が聞こえなくなり、意識が文章の内容だけに集中する事がありますが、あの状態に素早く入れるようになるのが最初の課題です。最初は私がお手伝いをしますが、最終的には自力でやれるようになって頂きます」
「な、なんかいきなりハードル高そうな気が」

 困った顔をする明里の前で、美尾はゆっくりと人差し指の先を自分の口元に当て、ふっと息を吐いた。すると突然、部屋の中を埋め尽くすほどのロウソクが一瞬にして現れた。火は付いておらず、特に変わった様子もない普通のロウソクではあったが、手品のような術に明里は呆気にとられていた。

「まず最初に、明里様のお力についてもう一度説明いたしましょう。明里様の持つ力は、霊妙力と呼ばれるもの。この力を持つ者は万人に一人と言われるほど珍しく、また強力な力を秘めています。効果は人によって様々な形で発露いたしますが、明里様の霊妙力は『他者の霊力や術を増強する』という能力であり、妖怪退治を行う物にとって、これ以上ないほどの助けとなります」
「う、うん」
「しかしながら同時に、現在の明里様には大きな問題がございます。それがなんなのかお分かりですか?」
「えーっと……なんだろう?」
「霊妙力を制御せずに解放した場合、激しく消耗し行動不能に陥ってしまうことが一点。それからもっと問題なのは、能力の及ぶ範囲の全てに区別無く効果が現れてしまうこと。それが故に明里様はこの力に無意識に目覚めるにつれ、妖怪や悪霊に付け狙われやすくなっていたのですよ。影響を受けた妖怪や悪霊は活発になってしまうのですから」
「あ、あらためて聞くとぞっとしない話ね」
「そのため霊力の扱いを会得し、霊妙力が及ぶ相手を自分で選べるようになる事が必要なのです」
「なるほど……分かりやすい説明で助かったわ」
「このロウソクは霊力を注ぐことで点くようになっています。狙った場所に明かりを灯すことが出来るようになれば、この修行は終わりでございます。霊妙力の具体的な使い方は、その後でお教え致しましょう」
「そっか。筆塚くんはもっと厳しい訓練してるって聞いてるし、私も少しくらい頑張らなくちゃ。自分の為でもあるもんね」
「はい。それではもう一度。精神を統一して霊力の流れを感じ、それを操るのです。まずは霊力を引き出すところから」

 明里は気を取り直し、再び目を閉じて心を落ち着かせる。美尾は落ち着きのある声で「ゆっくりと呼吸をして……深く吸って……深く吐いて……自分の内側にある、深い深い場所を想像するのです」と、何度か繰り返し告げた。明里は心の中で、自分の中にどこまでも広がる水面を思い浮かべた。それから波ひとつない静寂の水面に潜り、明里の心は音もなく、より深い場所へと沈んでゆく自分をイメージした。やがて自分の呼吸音だけに意識を傾けていると、次第に身体が水そのものへ変わっていく感覚に包まれた。身体の輪郭が無くなり、より深い水の底から暖かな流れが湧き上がっているのを感じられた。

「――さあ、ゆっくり目を開いて。身体の奥から湧き上がる流れを解放するのです」

 美尾の言葉に導かれ、明里はゆっくりと両眼を開く。視界が戻っても心は水のような気分で、呼吸を吐きながら溢れる力の流れに身を任せた。その瞬間、明里を中心として部屋中に霊力が解き放たれ、部屋中のロウソクに火が点った。

「……!」

 明里はそこで我に返り、部屋中のロウソクを見てあっと驚きの声を上げた。

「これ、私がやったの?」
「はい。霊力の引き出しは上手く行ったようですね。今の感覚を忘れないようによく憶えておいてください。では続いて、狙った場所のロウソクに火を付ける訓練に移りましょう。これが出来れば、霊力の出力調整も同時に身につきますので」

 明里は頷き、霊力を扱う為の修行を続けた。




「ギャーーーーッ!?」

 妖の郷の一角には樹齢百年以上と思われる大木が立ち並ぶ林があり、その奥から男の悲鳴が響き渡る。グレーのスーツに黄色いネクタイを締め、品の悪い茶髪に根性が曲がっていそうな顔つきをした男、定岡である。林の中には様々な罠が施され、あたふたと走り回る男が周囲の枝に触れたり石ころを踏む度に、次々と罠が作動していく。木の枝にぶら下げた無数の丸太や大きな石が振ってくる物もあれば、雨のように矢が降ってきたり、穴の中に隠れていた無数の獣や妖怪が飛び出して襲いかかるなど、種類も様々である。少し離れた場所にある岩の上で、足を組んで座った禰々子がその様子を眺めていた。

「ほら、モタモタしてると死んじゃうわよ。キリキリ走りなさーい」
「すでに死にそうだっつーの! 俺になんの恨みがあるんだチクショー!」

 妖怪の群れに追い掛けられ、定岡は全力で逃げ回りながら禰々子に向かって叫ぶ。

「別に恨みなんてないわよう。むしろアンタの将来の為に手を貸してやってるんだから、感謝してもらわないと」
「くそー! いきなりサツに呼び出されてドジ踏んだかと思ったら、超ボインのいい女を紹介されてラッキー、ってホイホイ付いてきたらこれだよ!」
「定岡って言ったわね。あんたがぐうたらの根性曲がりだってのは聞いてるわ。技だのなんだのって前に、しばらくその訓練場で鍛え直すのね。ちなみに私が見張ってるから、逃げようとしても無駄よ」

 禰々子は自分の傍らに積んである小石を拾い、定岡の近くにあった岩めがけて投げつける。すると岩はぶつかってきた小石もろとも砕けてバラバラに粉砕されてしまった。

「あわわわ……!」
「ちなみにひとつ教えておいてあげる。その訓練場には、あちこちに人間が使う道具や武器が置いてあるわ。生き残りたかったらそれを上手く使うことね」
「ぎえーっ! 助けておかーちゃーん!」

 定岡が妖怪に追い回される姿を禰々子が眺めていると、彼女の近くに浮遊する青い物体が近付いてきた。ポリバケツに入って頭だけを出した、丸々太ったニワトリである。羽ばたかずに浮遊している様子を見れば、一目で普通の鳥でないことは見て取れる。

「エグい真似しよるのー。下手したら死んでまうでホンマ」
「……ここじゃ見ない顔ねえ。どこの妖怪だっけ?」
「ワイはヒザマっちゅーもんや。そこで鼻水垂らして逃げ回っとる定岡に取り憑いとる、ごっつい妖怪様やで」
「あ、そうなの。ふーん」

 禰々子はヒザマの姿をじっくり眺めたあと、

「急に特訓だのなんだの始めるっちゅーのは、近いうちにデカいヤマでもあるんかいな」
「まあね。あんたはこの土地の妖怪じゃ無さそうだから知らないだろうけど」
「しかしアレやな、この朝比奈っちゅう場所は次から次へと事件が起こりよるのう。ちょっと前にもここらの妖怪と人間で大騒ぎしとったらしいやんけ。ワイが封じられる前の、確か二十年くらい前に――」

 ヒザマが言いかけた途端、禰々子はポリバケツの取っ手を握ると、にっこり笑顔を作る。

「ずいぶん物知りなニワトリさんねえ。だけどあんまりペラペラお喋りするのは好きじゃないわ。アンタもあっちで鍛えてきたら?」

 そう言うと、禰々子は力いっぱいヒザマを定岡のいる方向へ放り投げた。ヒザマの入ったバケツは定岡が走る目の前に落下し、ヒザマが顔を上げるとすぐ目の前に、妖怪の群れと丸太と落石と矢が迫っていた。

「のわーーーーっ!?」
「一緒に運動すればダイエットできるんじゃない? ま、ご主人様と一緒に力を合わせて頑張ってちょうだい」
「なにさらすんじゃいボケェ! 大体誰がご主人様やねん! こいつがワイの下僕やっちゅーねん!」

 林の中に作られた訓練場を逃げ回る定岡とヒザマを眺めながら、禰々子は小さくため息をつくのだった。




 草助は一日の前半を妖怪退治の武術稽古、残り半分を八海老師との瞑想による霊力修行に費やす事となり、妖の郷にある修行場で鞍真は草助にこう告げた。

「これより草助には、魂筆使いが身に付けるべき技を伝授する。試練にて得た『幽玄の書』とこの技を組み合わせて使いこなせたなら、いかなる強敵も打ち破れよう」
「ま、まだ憶えることがあったんですか。一体どんな技だって言うんです?」
「永字八法という言葉、おぬしも知っておるであろう」

 永字八法とは書道で使われる言葉で、永という文字の中に、書に必要な八種の技法が含まれているという意味である。八海老師に書道を学んだ草助も、当然ながら永字八法の事はよく知っていた。

「書道の基本ですよね。老師が日頃から、文字を書く時は永字八法の基本を大事にしろって口を酸っぱくして言ってましたから」
「いかにも。だがわしの言うのは魂筆使いの技。裏八法とも呼ばれる妖魔撃滅の技法である」
「な、なんか難しそうなんですけど」
「心配はいらぬ。永字八法の動きをそのまま武術に置き換えただけと思えばよい。詳しいことは順を追って教えてゆくつもりだ」

 そう言って、鞍真は草助に木刀を投げてよこす。

「あれ、筆じゃないんで?」
「稽古は木刀にて十分。まずは基本の動きを身体に叩き込む。さあ構えよ」

 そこからはひたすら、八通りの動きだけを教え込まれる日々が続いた。一通りの型を憶えた後は、鞍真と直接向き合い、霊力を込めた木刀で打ち合うという実戦形式に変わったが、草助の攻撃はほとんど受け止められるか払い除けられるばかりで、半月が過ぎてもまともに触れることが出来ないままだった。

「――うわっ!?」

 打ち込んだ木刀を払い除けられた草助は、弧を描くように宙を舞い、背中から地面に叩き付けられた。草助の全身は汗まみれで、呼吸も乱れに乱れて疲れきっていた。一方の鞍真はまるで動じる様子もなく草助を見下ろしている。妖の郷を統べるという鴉天狗の威厳を、草助は嫌というほど思い知っていた。

「どうした草助よ。わしに傷のひとつも付けられぬようでは、この先見込みは無いぞ。さあ立て。立ってもう一度打ち込んでみよ」

 言われるままに草助は立ち上がったが、もはや木刀を落とさないよう握るのが精一杯で、体中にまったく力が入らなかった。撃ち込む度に消耗し続け、残る霊力も限界であった。

(こうなったらもう、なにも考えずに……)

 草助は頭を空っぽにし、一番楽な動きで踏み込みながら木刀を右斜め上に斬り上げた。傍目からはまるで力の入っていない打ち込みで、容易く木刀で防がれる程度のものだった。

「むっ」

 だが次の瞬間、鞍真は目を剥いた。木刀が届いていないはずの腕が深々と切り裂かれ、着物の袖が自らの血で染まっていったからであった。

「や、やった、ついに一太刀浴びせ……」

 疲れ果てた草助が倒れ込むと、鞍真は草助の鼻先に木刀の切っ先を突きつける。

「これが真剣勝負なら、おぬしは死んでいる。矢尽き刀折れたその時こそ、本当の力が試されるのだ。とはいえ、わしに傷を付けたのは見事」

 鞍真はそう言いながら、着物の袖をめくって草助に傷を見せる。

「おぬしはこれがなにを意味するのか分かるか?」
「さ、さあ。よく分からないけど、とにかく当たったのでは?」
「いや、おぬしの木刀はわしに届いてはいなかった。それが証拠に見よ、我が着物は斬れておらぬであろう」

 確かに着物はどこにも切れた跡が無く、血で染まっている以外の変化は無い。鞍真は自分の傷口を軽く撫でると、裂けた腕は何事もなかったように元通りとなっていた。

「おぬしが最後に見せた斬撃は、裏八法の虎牙という技に相当するもの。虎牙は物質を通り抜け、霊体や妖力だけを斬る技である。疲弊を極め、余計な雑念が消えたことで無駄な力みが消え、おぬしもようやく真髄に至ったというわけだ。だが今の一撃はそれだけではないぞ。おぬしの太刀筋は、刃を止めたはずのわしの身に届いた。このような芸を再び見られるとは、やはり血は争えぬということか」
「再びって、どういう事です?」
「斬撃を遠くの間合いへ飛ばすというのはな、おぬしの祖父が得意としていた技なのだ」
「じいちゃんが?」
「草一郎曰く、若い頃に出くわした鬼神の技を参考にしたらしいがな。本人は鬼神のそれには遠く及ばぬと言っておったが、奴の一撃も並大抵の妖怪であればたちどころに両断するほどの威力があったぞ」
「ど、どんだけ凄いんだうちのじいちゃんは……」
「うむ、人間でありながら大した男だった。お前も祖父に負けぬよう精進することだな」
「と言われても、僕はじいちゃんみたいに剣術が専門だったわけじゃないし、なんだか異様にハードルを上げられている気が。付け焼き刃の稽古だけじゃあ、とても追いつける気がしませんよ」
「まだ分かっておらんのか。おぬしの師匠が、日頃教えていた事を思い出せと言っていたであろう」
「教えられたと言っても……絵や書道の他には、小さな頃から怪しい健康体操だとか、ひたすら毎日砂浜を何キロも走らされたりとかくらいで」
「いかにも。それら全ては、おぬしが妖怪と関わる道に足を踏み入れてしまった時のために、八海どのが密かに仕込んでいたのだ」

 日常化していた無茶な体力作りや稽古の日々が、ひとつに繋がった瞬間だった。しかし草助は複雑な気分に頭を抱えてしまう。

「ああっ、薄々感づいていたけどやっぱりそうかっ!」
「健康体操と称していたのは武術の型。書道や絵は集中力と想像力を養い、霊力と魂筆の技を操るため。そして過剰なほどの体力作りは、それらの技と術に耐えうる肉体を養うため。自分が知らぬだけで、おぬしには妖怪と戦うのに必要な土台が築き上げられていたのだ。そうでなくては今頃、妖怪の餌食となっていたに違いあるまい」
「うーん、ありがたい反面、子供の頃から非常識を常識と思い込まされていた僕は一体……」
「新たな技を身に付けたとて、それを扱うのに必要なのはやはり基礎である。わしと八海どのの稽古を続けた事で、おぬしの技術と霊力は以前と比べて飛躍的に高まっておる。まだまだ足りぬ部分はあるが、よくぞ今まで耐え抜いた」
「耐えたというか、逃げられなかっただけというか」
「よろしい。ここからは本格的に裏八法の修行に移るとしよう。さっきの呼吸は全ての基本、忘れるでないぞ」

 その日から鞍真は、裏八法の本格的な技術を教え込み、それと平行して八海老師の霊力修行も続けられた。日頃から知らず基礎を叩き込まれていた草助は、本来なら習得に数年はかかるという裏八法の技をわずかな期間の間で身に付けていった。厳しい修行を続ける草助と同様に、明里は日帰りで郷に訪れては霊力制御の修行を、定岡は林の中で罠と妖怪をかいくぐるサバイバルを続け、それぞれが来るべき時に備えて力を磨き続けていた。




 修行が始まって一ヶ月が過ぎた頃、八海老師は鞍真と向き合って木刀を打ち込み続ける草助を眺めていたが、草助が力尽きて仰向けに倒れるのを見ると、口元に笑みを浮かべてしゃがみ込み、草助の顔を指先でつつく。

「うむ。いい具合にくたびれとるのう。体力も残りわずかっちゅう所か?」
「あのー、そろそろ助けて欲しいんですが。これ以上こんな稽古続けたら確実に死ぬ、死んじゃうッ!」
「だからいいんじゃよ。余裕があるとつい手を抜いたりするからのう。極限状態に置かれなくては、本当の力というのは出てこんものじゃ」
「まさか……まだなにかやれと?」
「なに、難しい事ではない。すずりを迎えに行ってもらいたいだけじゃ」
「そういえばあいつ、ずーっと姿を見せませんでしたけど、元気でやってるんですか?」
「ピンピンしとるぞ。とある場所でお前を待っておるから、さっさと起きんか」

 八海老師は草助の着物を剥がし、ヘソの部分に霊力を込めた掌底を叩き込むと、草助は身体をくの字に曲げて飛び起きる。

「げほっげほっ!? な、なんて事するんですかあんたは!」
「ちょっと気合いを入れてやったんじゃ。ほれ、動けるようになっておるじゃろ」

 言われて自分の身体を確かめてみると、草助の体力は戻っていた。万全の調子とはいかないまでも、普通に動き回るのは充分である。痛む胃袋をさすりながら、草助は訊ねた。

「もうちょっと優しくやってくれればいいのに……それで、すずりはどこに?」
「すぐ近くじゃ。付いてこい」

 八海老師の後に続いて歩き出すと、細い小径を歩いて石段を下り、郷の中心に位置する大きな池の前にやってきた。池の端には桟橋があり、池の中心近くまで行けるようになっている。八海老師は桟橋の先まで草助を連れてくると、桟橋の先端に草助を立たせた。

「あのー、ここは一体?」
「ん、まあ入ってみれば分かるわい」

 そう言って八海老師は草助の尻を蹴り飛ばす。

「うわーっ!?」

 草助が顔面から水面に落下した瞬間、そこは水の中ではなく、周囲を岩壁に囲まれた暗い洞窟の中にいた。完全に暗闇というわけではなく、周囲の様子を確かめられるくらいの明るさはあったが、奥の方はまったく見通せない。

「痛てて……どこだここは?」

 立ち上がって辺りを見回しても、さっきまで立っていた桟橋の上とは似ても似つかぬ場所である。足元も砂利や小石が散乱しているばかりで、水もなければ植物も生えていない。戸惑っている草助の頭上から、八海老師の声が響き渡った。

「聞こえるかのう草助よ。すずりはその洞窟の一番奥におるから、一緒にここまで戻ってくるんじゃぞ」

 見上げてみると、はるか頭上に小さな窓のような穴があり、そこから八海老師の顔だけが見えた。

「老師、ここは一体どこなんですか。どうして池の中にこんなものが」
「詳しい話は後じゃ。さっさと行かんと面倒な事になるぞい」

 言われた途端、草助は自分の回りに不穏な気配が集まっているのに気が付く。岩陰や奥の暗がりから、じっとこちらを見ている存在がいるのだ。

「げっ、これはもしや……」
「うむ。そこは迷い込んだまま出られなくなった亡者や妖怪がウヨウヨしとるでな。捕まるとどうなるかはワシも知らん」
「ちょっと、このところ弟子の扱いが酷くないですか老師!?」
「だからちゃーんと鍛えてやったろうが。ほれ、とっととすずりを連れてこい」
「わ、分かりましたよもう!」

 すずりがいない状態で妖怪の群れと戦うのはさすがに分が悪いと判断し、草助は走って洞窟の奥を目指す。洞窟は入り組んだ迷路になっている上に、進めば進むほど妖怪の数は増していき、最後には雪崩のような大群が草助の後を追い掛けてくるという有様になってしまった。

「ひいぃぃーーーっ!?」

 気が付くと草助は石造りの祭壇のような場所に転がり込んでいた。空間はドームのように広がり、壁には火の付いた松明が規則正しく取り付けられている。床には見慣れない文字が描かれた紋様があり、その中央に大きな石を削りだして作られた長方形の台座が置かれていた。その台座の上で、すずりが横たわっているのが草助の目に飛び込んできた。

「ああっ、いた!」

 草助は息を切らしながら祭壇に駆け寄ったが、すずりは眠っているのか、目を閉じたまま動かない。草助はすずりの肩を揺らし、慌てて揺り動かすと、すずりの髪がするすると動き出して指の形を作り、草助にデコピンを食らわした。

「痛でっ!?」
「もうちっと優しく起こせないかねー、まったく。一ヶ月ぶりだって言うのにさ」
「それどころじゃないんだよこっちは。後ろに悪霊の大群が!」

 草助の言う通り、部屋の入り口からは数え切れないほどの妖怪が乱入し、部屋の中をどんどん埋め尽くしては縦横に飛び回り始めた。

「なんだ、雑魚の群れじゃん。あんなの相手に取り乱してるんじゃないよ。今まで修行してたんだろ?」
「丸腰じゃ無理だっての! 新しい技だって、結局ろくに使いどころも教えてもらってないわけだし」
「はいはい、世話が焼けるね。そんじゃあ寝起きの運動に、軽く遊んでやろうかなっと」

 すずりはぴょんと跳ねて飛び起きると、身体を輝かせて紅い筆へと変化し、草助の手の中に収まる。

(さてと草助、まずは修行の成果を見せてもらおうじゃん。どれだけ霊力を高められるようになったのかな?)
「よ、よし、霊力だな?」

 精神統一し、草助が霊力を目一杯まで引き出すと、すずりは感心した様子で返事をした。

(へえ、なるほどね。ま、合格ってトコかな)
「合格はいいが、この後はどうする?」
(せっかく実験台が向こうから寄って来てるんだし、修行の成果でも確かめさせてもらおうじゃん。まずは裏八法をどれだけ使えるようになったか見せてごらん)
「よ、よし」

 草助は筆を構え、迫り来る妖怪に立ち向かう。最初に襲いかかったのは、巨大な体躯を持つ岩のような妖怪だった。

「裏八法その一、怪石。抉るように点を穿つ――!」

 草助は迫り来る妖怪の急所を狙い、真っ直ぐ抉るように筆を突き出した。岩のような身体に筆先がめり込んだかと思うと、一点に集中した霊力は妖怪の身体に綺麗な穴を開け、背中まで貫いた。

「どうだすずり、僕だってやれば出来るというわけだ。少しは見直したか?」
(はいはい、えらいえらい。ほら次が来るよ)

 すずりの言葉通り、得意げな草助の顔面めがけて小鬼が飛び掛かる。草助はすかさず身体を回転させて避けると同時に、素早く小鬼の身体を筆で横に薙ぐ。

「その二、玉案。動きを止め制御するッ!」

 その途端、小鬼の身体は空中で固定され、ピンで貼り付けたように動かなくなった。続けざま、背後から巨大な獣の妖怪が、直径三メートルはあろうかという岩を投げつけてきた。草助は素早く振り返り、筆を縦に真っ直ぐ振り下ろす。

「強靱な杭を打ち盾とせよ――鉄柱!」

 垂直に振り下ろされた軌道に頑丈な霊力の柱が現れると、重量と圧力をものともせずに岩の直撃を受け止めた。草助は動きの止まった岩の表面に「左跳ね」を書き込む。

「鉤の如く曲がり、高く躍り出て跳ね返す――蟹爪(かいそう)!」

 次の瞬間、岩は弧を描いて飛び上がり、それを投げつけてきた妖怪の上へと落下し、周囲の妖怪も巻き込んで押し潰した。意表を突かれて妖怪たちが驚いている隙に、草助は素早く駆け出して、妖怪の群れめがけて続けざまに筆を振るった。

「その五、虎牙は実体無き邪気を断ち、その六、犀角は穢れを祓い清めん」

 草助の立ち回りによって、妖怪の群れは完全に勢いを削がれた形となった。たった一人の人間を相手に、無数の妖怪が取り囲んだまま押し切れないのだ。やがてしびれを切らしたのか、真っ赤で巨大な顔だけの妖怪が、憤怒の形相で草助の目の前に近付いて、大声で威嚇した。だが草助は動じることなく、小さくため息をつきながら筆の先端で巨大な顔を素早くつつく。

「その七、啄木鳥。クチバシの響きは幻を暴く。妖怪変化の正体見たり」

 その途端、巨大な顔は煙に包まれて消え失せ、頭上に葉っぱを乗せた子狐の妖怪が姿を現した。子狐の妖怪は正体を見破られると、慌てふためいて洞窟の奥へと逃げていった。

(なるほどね、一通りは使えるようになったってワケだ。で、最後の八つ目はどうなのさ?)

 すずりが問いかけると、草助は視線を逸らして苦笑する。

「あーっと……最後の技はまだ出来てないんだ。こればかりは簡単に狙って出せるものじゃなくてさ。限界を超えた境地に辿り着いたら使えるようになるらしいけど」
(やれやれ、そんな事だろうと思ったよ。ま、それでも草助にしちゃよく憶えたもんだね。ご褒美にアタシのおやつ分けてやるよ)
「……そりゃどーも」
(さて、残りの雑魚をいちいち相手してるのも面倒だし、幽玄の書でパパッと片付ちまいな)
「そうだな、どれだけ修行の成果が出たか僕も興味があるし」

 草助は燃える炎をしっかりとイメージしつつ、筆先に霊力を込めて「火」の文字を書いてみた。すずりの筆先はなにもない空間に色を付け、火という文字がその場に出来上がった。果たしてどうなるだろうかと草助は見守った。無数の悪霊は草助が文字を書いている隙を逃すまいと飛び掛かって来たが、それと同時に「火」の文字の力が発動した。刹那、猛烈な轟音と熱が周囲に広がり、近付いてきた悪霊は一瞬にして燃え尽きてしまった。

「なっ、なんだ今のは!?」
(なにって自分でやったんじゃん)
「いやいや、最初は紙をチョロっと燃やす程度だったんだぞ。まさかこんな風になるとはビックリだ」
(それだけ込める霊力に違いがあったってコトだよ)
「確かに最初の時よりは霊力を込めたけど、それほど使っちゃいないはずだぞ。せいぜい大きな火が出て、妖怪が嫌がって逃げたらいいなー、とか」
(霊力ってのはそのまんま放出するより、力の方向を決めてやると効率がいいんだよ。今まで大技使う度に霊力が空っぽになってたのは、草助が霊力の扱いやクセを知らずに、全部そのまま使い切ってたからだよ。だからじーちゃんは草助に霊力の修行ばっかりやらせてたってわけ。逆に言えば、この技は理屈だけ知ってても、基本が出来てなけりゃ役に立たないんだよ)
「な、なるほど」
(さて、曲がりなりにも草助はこの技を扱えるようになったわけだし、こんな雑魚どもぱぱっと片付けちまいなよ)
「そうだな、これだけ数が多いといちいち全部相手にしてられないし、一カ所にまとめてしまえば……」

 草助はふと閃き、今度は「集」の文字を目の前に描き、石の台座の陰に隠れた。文字の効力が発動した途端、文字から放たれた波動が部屋中に行き渡り、それを浴びた悪霊は磁石に引き寄せられるかの如く、一カ所にどんどん吸い寄せられて塊となっていった。最後には草助が見上げるくらいの大きさとなった塊は、その場から動く事も出来ずに鎮座していた。

「こりゃ壮観だな……悪霊玉とでも呼ぶべきか」
(感心してないで、とっとと片付けちまいな)
「ええと、どうすればいいかな……悪霊ってくらいだし、恨みの心を浄化とかそういう感じかなあ」

 しばらく考えた後、草助は塊になった悪霊に「浄」の文字を書き込んでみた。文字はすぐさま輝きを放ち、悪霊たちを包み込む。

「オオオオーーーーー……」

 悪霊の塊は尾を引く声を発しながら、光と共に蒸発して消えてしまった。

「す、凄いなこれは。アイデア次第でなんでもありに近くないか?」
(まあね。だけどイメージがちゃんとしてないと効果は出ないし、複雑で長い文章とかは使えないから気をつけるんだね)

 そう言うとすずりは変化を解き、元の赤い着物姿に戻って笑った。

「ふう。とりあえず助かったか。それにしてもすずり、ずっと姿を見かけなかったから気にしてたんだぞ」
「仕方ないだろー。アタシは妖怪の天敵で、ここは妖怪の郷なんだから。アタシがウロウロしてるとここの連中が嫌がるんだよ」
「あっ、そうか」
「てなわけで、アタシはみんなが修行してる間、ここでゴロゴロしてたわけ」
「ゴロゴロしてたって、一ヶ月ずっと一人だったのか?」

 一瞬表情を曇らせた草助に、すずりはあっけらかんと答える。

「ん、メシの時はじーちゃんが来てたよ」
「……そうか。とにかく早く帰ろう。みんな待ってる」
「はいはい、分かってるってば!」
「痛でっ!?」

 すずりは草助の背中を思いっきり平手で叩くと、あっかんべーをして出口の方へと走っていく。草助も口で怒りながら、すずりの後を追い掛けた。洞窟の入り口まで戻って頭上を見上げると、八海老師が上から縄ばしごを投げ入れたので、それを伝って表に出た。桟橋で待っていた八海老師は、すずりの姿を見て深く頷いた。

「戻ってきたか。どうじゃすずり、草助の仕上がりは」
「ま、いーんじゃない? なんとかカッコだけは付いてると思うよ」
「うむ。では今回の修行はひとまず終了じゃな。皆ご苦労じゃった。一旦戻って腹ごしらえでもするかのう」

 全員が桟橋から鞍真の屋敷へ向かおうと足を進めると、近くの茂みから黒い影が急に飛び出してきた。草助はとっさに身構えたが、それの姿をしばらく見てあっと声を出した。

「ぜえ、ぜえ、ぜえ……こ、ここはどこだ……俺は逃げ延びたのか?」
「食いもん、食いもんはどこにあるんやあ」

 服はボロボロで泥にまみれ、髪の毛と髭が伸び放題でボサボサになった男と、ガリガリに痩せこけたニワトリに、草助は見覚えがあった。すっかり変わり果ててはいたが、定岡とヒザマに違いなかった。

「あ、あんたらこんな所でなにやってるんですか」
「あ、ああ? おっ、おおっ、おおおおおお……!!」

 草助の声を聞いた途端、汚れきった定岡と痩せこけたヒザマは、草助にすがりついて号泣し始めた。草助が戸惑っていると、遅れて禰々子が皆の前に現れた。

「みんなお揃いね。修行が終わるって聞いたから、こっちも切り上げて来たわよ」
「禰々子も戻ったか。そっちの様子はどうじゃった?」
「なんだかんだで生き残ったわけだし、前よりは使いモノになるんじゃない? 思ったよりもタフなのねえこいつ」
「素質自体はそれなりにある奴じゃからな。途中で脱落しなかったのはワシも予想外じゃ」

 散々な言われようではあったが、定岡とヒザマは言い返す気力もないらしく、終始メソメソと泣きながら屋敷に付いてきた。屋敷では明里と美尾が御馳走を用意して待っており、草助たちは腹一杯食べ、温泉に入って身体の汚れを落とした後は、疲れ果てて泥のように眠りにつくのだった。八海老師は草助たちが眠りについた後、一人で縁側に腰を下ろし、夜空に浮かぶ月に杯を掲げた。

(草一郎よ。ワシは出来る限りの事を草助に伝えたつもりじゃが、この先に待ち受ける苦難は、ワシらの若い頃よりずっと厳しいものとなるであろう。どうか彼らを見守ってやってくれ)

 胸中で語りかけると、八海老師は杯に満たされた酒の向こうに、今は亡き友の姿を思い浮かべるのであった。
 




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