魂筆使い草助

第八話
〜肉吸い〜



 冬の寒さが本格的になりつつあっても、縦浜市の繁華街はいつも人でごった返している。午後九時を過ぎても明かりと人通りが途絶えることはなく、建ち並ぶビルには無数の飲食店やスナックの看板が並び、ビルとビルの隙間には細い路地が縦横に伸びている。街灯もなく、暗闇と静寂だけが漂うその空間に、ひっそりと佇む女の姿があった。ウェーブのかかった金髪を背中まで伸ばし、豊満な肉体を翡翠色のドレスとヒールで着飾った、水商売風の女だった。彼女はビルの壁に背を預けて通りの方を眺めていたが、やがて丸々と太った中年サラリーマンが目の前を通りかかる。酒臭い息を吐き、顔を赤らめておぼつかない足取りの男を見るや、女は口の端を持ち上げて薄笑いを浮かべ、腕を組んだまま中年に近付いて声をかけた。

「ねえオジサン。火貸してくんない?」

 気怠そうな口調で、女は指に挟んだ煙草を見せて催促した。大きく開かれたドレスの胸元には谷間が作られており、中年の注目を集めるにはちょうど良いポーズになっていた。

「ああん? 今の若い娘は年上に対する頼み方も知らんのかっ」

 中年はあまり回らない舌で喋りながら、女の身体を粘っこい目つきで眺める。

「まったく、どいつもチャラチャラした格好しおってけしからん!」
「そんな事よりさー。火貸してって言ってんの。そしたらいいコトしてあげるから」
「い、いいコト?」
「そ。オジサンも好きでしょ。気持ちいいコト」

 女は悩ましげな吐息を吹きかけながら、中年の頬を指先で撫でる。中年はすっかり興奮した様子でせわしなくポケットをさぐり、ズボンのポケットから百円ライターを見つけ出すと、鼻の穴を膨らませながら女に差し出した。

「うひひ、あ、あったぞ」
「ありがと。これはもらっとくから」

 女はライターを受け取ったが、煙草に火を付けようとはせず、煙草と一緒に背後の路地裏に投げ捨ててしまった。

「なにをするんだ。せっかく渡してやったのに」
「私さあ、もう我慢できなくなっちゃった」



「が、が、我慢が出来んだとっ」
「オジサンてば好みなんだよねー。そのコロコロして丸い身体……」
「うひひひ、そうか?」
「そうよ、たくさん肉が付いてて……ああ、とっても美味しそう」
「おぢさんも積極的な娘は好きだぞー、ひっひっひ」
「それじゃあ早速――」

 女が中年の首に両腕を絡めて抱きついた直後、気怠そうだった女の声が豹変する。

「吸わせてもらうとするか、お前の肉をな……!」

 女は猛然と中年の肩にかぶりつく。皮膚が破れるほどに強く噛みつくと、ずるずると音を立てて肉を吸い始めた。中年は蛇に睨まれた蛙のように硬直して動かずにいたが、みるみるうちに身体がしぼんでゆき、最後には骨と皮だけを残して崩れ落ちた。女はつま先で中年の成れの果てを道の脇に蹴飛ばすと、口元をぬぐいながら甲高い声で嗤った。

「ホーホホホ、結構な足しになったわオッサン」

 女が歪んだ笑みを浮かべていると、彼女の背後に続く暗がりから、ふいに一人の男が姿を現す。黒い帽子に黒いスーツ姿で、四角いケースを左手に持ったセールスマン風の男である。口元に薄笑いを浮かべてはいるものの、表情は型で押したように張り付いて動かず、瞳は暗い色に染まっている。彼は冷気にも似た異質な雰囲気を漂わせながら、低く抑揚の少ない声で言った。

「こんな所でなにをしている」
「……なんだアンタか。見りゃわかんでしょ、食事さ」

 女は黒いスーツの男を一瞥し、面倒くさそうに返事をする。

「遊んでいる暇は無いぞ、肉吸いよ」
「だからその名前で呼ぶんじゃないよ。人間の間じゃ翠子(みどりこ)ってミヤビな名前で通ってんだからさあ」
「お前の名前などどうでもいい。例のものは集まっているんだろうな?」
「はいはい、分かってるって」

 翠子と名乗る女は、やれやれと肩をすくめる仕草をした後、右の手のひらを表に向ける。するとそこに、数本の透明な小瓶が現れた。どこかから取り出したのではなく、手品のように何も無いところからそれは突然に現れた。彼女が右手を軽く動かすと、無数の小瓶はふわりと宙に浮き、黒いスーツの男の前に移動した。彼はそれらをひとつずつ手にとって吟味すると、無言で頷きながらケースの中にしまい込む。

「……よかろう。当分は自由に過ごすがいい」
「しかしまあ、人間の魂なんぞかき集めてさあ、一体なにをやらかすつもりなのかねえ。おお怖い怖い、クククク」

 翠子は黒いスーツの男を挑発するように呟くが、彼は意に介さず続ける。

「だがその前に、もうひとつ仕事をしてもらう」
「ちょっと待ちな。約束は果たしたんだ、いくらアンタでもそれは許されないよ?」

 口調が豹変した翠子は両眼を殺気でみなぎらせ、男の喉元にマニキュアを塗った爪を突き立てる。彼女の爪はみるみるうちに鋭く尖り、先端が僅かに刺さって血が流れ出すが、黒いスーツの男は眉ひとつ動かさずに言った。

「状況が変わった。お前にとっても悪い話ではない」
「……内容次第だね。とりあえず話を聞かせてもらおうか」

 翠子は彼の喉に突き立てていた爪を抜き、いくぶん落ち着いた顔つきに戻る。

「次の満月が訪れる日、朝比奈市の海岸沿いにある病院を異界に落とせ」
「そりゃ水虎の仕事だったはずだろ。なんで私がやらなきゃいけないのさ」
「水虎が倒されたからだ。妖怪退治屋によってな」
「ちっ、役立たずが……自分の仕事を片付ける前にくたばるなんて、とんだマヌケだよ。どいつに殺られたんだい?」
「水虎は例の魂筆使いに破れたようだ。他の妖怪の手助けもあったらしいが」
「確か今度の魂筆野郎は、まだ尻の青いヒヨッコだって聞いてたんだけど。あのカッパ、威勢が良かったのは口先だけじゃないか」
「それだけあの筆の力が絶大だという事だ。小僧が再び邪魔をする可能性は高い……と私は見ているがな」
「てことは、私の仕事が増えたのはそいつのせいって事じゃないの。そのガキを見かけたらねじり殺して肉を吸い取ってやるわ」
「病院を異界に落とした後は、お前の好きにするがいい。労せず多くの人間を食えるはずだ」
「ほ、そりゃあ確かに美味しいわねえ。しかしあの病院丸ごと異界に包むには、ちょいと妖力を蓄える必要があるわ。となると少し派手に動く事になるだろーけど、それでもいいんだね?」
「手段は問わん。お前は目的を果たす事だけ考えればいい」
「そうこなくっちゃ。いいわ、この仕事は翠子様が片付けてやろうじゃない。じゃあまたね、黒崎のダンナ。ホーッホホホ――!」

 翠子は高笑いを響かせながら夜空へと舞い上がって消えた。黒いスーツの男――黒崎が血の滴る喉元を軽く手で触れた途端、傷口はぴたりと閉じて元通りに塞がってしまった。黒崎もまた、大通りに背を向けると、細い路地裏の暗闇へと溶けて見えなくなっていった。




 それからしばらく経ち、満月を目前に控えたある日、筆塚草助は朝比奈警察署の取調室にいた。コンクリートの壁で囲まれた狭い部屋には、灰色のスチールデスクがひとつ置かれており、他は小さな窓があるくらいである。デスクを挟んだ草助の正面には、捜査一課の伊吹と名乗った若い刑事がいた。髪は短く、年齢は二十五、六くらい。背丈は百八十五センチほどでたくましい体つきをしており、紺のスーツに赤いネクタイを身に付けている。強い意志の宿った目に、骨張った鼻筋や口元、ジャケットの上からでも分かる立派な体格も手伝って、男らしいという形容がよく似合う人物だった。彼は眉間に皺を寄せて太い眉を釣り上げ、厳しい表情で草助を睨み付けながらデスクを叩く。草助が何気なく彼の手に目を落としてみると、拳の骨が盛り上がって分厚くなっており、なんらかの武術で鍛え上げられたそれだと一目で分かった。

「いい加減に吐け! 貴様はなにを知っている!」
「だーかーらー、僕はただの野次馬だと何度も言ってるじゃないですか」

 もう何度聞かされたかわからない台詞にうんざりしながら、草助もまた同じように返事をする。

「もう一度聞くぞ。ここ最近、朝比奈市では立て続けに十三件もの猟奇殺人事件が起きている。犠牲者の遺体はどれも骨と皮しか残っておらず、肉だけが綺麗さっぱり消えているという異常な死に方だ。残された皮にも切断された形跡がなく、一体どうすればああなるのかまるで見当もつかん。そして! それらの現場でことごとく貴様の姿が目撃されているのはどういうわけだ?」
「だから偶然ですよ、偶然」
「偶然がそう何度も続いてたまるか! 警備に当たっていた警官らの証言では、貴様はもう一人の胡散臭い男と共に、殺害現場の周囲をうろついていたらしいじゃないか」
「さあ、そうでしたっけ」
「いくら誤魔化しても無駄だぞ。貴様は間違いなくこの事件に関わっている……そうだな?」
「あのですね刑事さん、僕には人を殺す動機なんてないし、そもそも人間の肉だけを抜き取るなんて手品みたいな方法、誰が出来るっていうんです」
「ぐっ……ええい、言い逃れようとしてもそうはいくか!」
「はあ、まいったな」

 草助は軽い頭痛を感じながら、がっくりとうなだれてため息をつく。草助がこのような状況になってしまった事の発端は、半月ほど前に遡る――。




「――肉吸い?」
「うむ、手口からして間違いなかろう」

 育ての親代わりであり、絵と妖怪退治の師匠でもある八海老師に呼び出された草助は、梵能寺にあるお堂で仕事の依頼を受けた。お堂では見事な袈裟を纏った八海老師が、護摩の儀式を行いながら草助を待っていた。六十半ばを過ぎてもすこぶる元気な老人で、頭頂部を残して禿げ上がった頭と真ん丸眼鏡が彼のトレードマークである。八海老師の話によれば、縦浜市の繁華街で、中年男性が肉だけを吸い取られて殺されるという事件が起き、その犯人が「肉吸い」という名の妖怪であろうと彼は告げた。

「肉吸いねえ。なーんか昔、どっかで聞いたような気がするんだけど」

 と、草助の隣で供え物のまんじゅうを頬張りながら言うのは、赤い着物を着た十歳くらいの娘、すずりだった。おかっぱ頭の後ろ髪を、筆のように一房だけ長く伸ばした髪型で、普段は人間の子供の姿をしているが、彼女もまた妖怪であり、草助が妖怪と戦う際には紅い漆塗りの不思議な筆へと変化し、妖怪退治に絶大な効果を発揮する心強い味方なのである

「その肉吸いとはどんな妖怪なんです?」

 草助が訊ねると、八海老師は頭頂部に残った毛を撫でながら難しい顔で答える。

「うむ、肉吸いは若い女の姿で男に近付き、肉だけを吸い取ってしまうという妖怪でな。妖怪退治屋のブラックリストにも名前が載っておる凶悪な相手じゃ」
「うわあ……」
「奴は悪知恵が働くうえに、うかつに触れられたが最後、身体の肉を吸い取られてしまうからのう。しかも恐ろしく逃げ足が速くてな、とにかく面倒くさくて厄介なのじゃ。つーわけで頼むぞ草助」
「いやいやいや、待ってくださいってば。そんなの僕一人でどうにか出来る気がしないんですが。なにか弱点とか無いんですか?」
「弱点はある。火じゃ。奴は昔から火を嫌うと言われておる。定岡を呼んでヒザマの力を借りるのが良かろうな」
「はい、わかりました」

 定岡とは、火事を引き起こすニワトリの妖怪ヒザマと共に行動している三十代の妖怪退治屋の男で、口が達者で金にせこい性格の持ち主であるが、草助と対決して破れてからは協力的な態度を取っており、世間慣れした定岡とヒザマの能力は、まだ駆け出しの草助にとって頼りになるものでもあった。草助が定岡を呼んで事情を説明すると、ここしばらくは仕事にあぶれていたという定岡も喜んで話に乗ってきた。早速二人は肉吸いの調査を始めたものの、事件の現場を訪れていた伊吹に見つかり、強引に任意同行させられてしまったのである。ちなみに定岡とすずりは、伊吹の接近に気付いたときには忽然と姿を消しており、草助は呆れるやら驚くやらで目が点になってしまった。


「――いい加減に観念して洗いざらい吐け!」

 狭い取調室では、相も変わらず伊吹の怒鳴り声が響いていた。草助は両耳に指を突っ込んで耐えていたが、おもむろに背後のドアが開き、伊吹と同じ紺のスーツを着た若い刑事が入ってきた。彼は真ん中で髪を分け、縁のある四角い眼鏡をかけており、知的で柔和な表情をしている。ネクタイも青のストライプで、目の前にいる伊吹とは様々な点で対照的である。

「伊吹刑事、少々やり過ぎだ。廊下まで声が響いてるぞ」

 眼鏡の若い刑事はなだめるように言うが、伊吹はぶっきらぼうに返事をする。

「なんだ小杉か。今は取り調べ中だぞ」

 乱暴な物言いにも慣れた様子で、小杉と呼ばれた眼鏡の刑事は表情を崩さず続ける。

「悪いがそうもいかない。彼を釈放するんだ」
「出来ない相談だな。こいつは間違いなく事件に関わっている。それを認めさせるまでは一歩も外に出さん」
「根拠は?」
「現場での目撃証言がある。それと俺の勘だ」
「やれやれ、話にならないな」
「俺は忙しいんだ。小言なら後にしろ」
「もう一度言うぞ伊吹刑事、彼を釈放しろ。これは署長命令だ。更に付け加えると、県警のお偉いさんからの通達でもあるらしい」
「なにっ!?」

 小杉の言葉で、伊吹の顔色が一気に変わった。そのまま硬直して動かない伊吹を横目に、小杉は草助に声をかけた。

「君、もう帰ってもらっていいよ。身元引受人が来ているんだ。八海という和尚さんだが」
「ああ、助かりましたよ。この人、ちっとも僕の話を聞いてくれなくて」

 疲れた様子の草助に、小杉刑事は苦笑いを浮かべて言った。

「すまないね。彼はいい刑事なんだが、こうと決めたら突っ走りやすいのが玉に瑕で」

 小杉に連れられて取調室を出ると、草助はロビーへと案内された。八海老師は受付の女性警察官と雑談をしていたが、草助の姿を見つけると彼の元へ近付き、持っていた樫の杖で脛を叩いた。

「痛っ、なにをするんですか急に」
「余計な手間をかけさせるでないわ。ほれ、さっさと帰るぞ」
「言われなくたって帰りますよ。ひどいなあ」

 八海老師と草助が並んで警察署を出ようとしたその時、背後から大声で呼び止められた。振り返ると、血走った目で息を荒げる伊吹が立っていた。

「誰が帰っていいと言った。まだ取り調べは終わってないぞ!」

 伊吹は草助の元へ駆け寄ると、太い腕で乱暴に胸ぐらを掴む。気付いた小杉が慌てて止めようとしたが、彼を乱暴に払い除けて伊吹は叫んだ。

「たとえ署長の命令でも、こいつは絶対に逃がさん!」

 感情を剥き出しにする伊吹に困惑する草助だったが、胸ぐらを掴んでいる腕に八海老師が手を置いて話しかけた。

「まあ落ち着け若いの。こんなザマを善良な市民に見られては、他のお仲間も迷惑するじゃろ」

 兵悟の腕と比べると、八海老師の腕はずいぶん細く華奢に見えるが、見た目からは想像も出来ない力で、いとも簡単に伊吹の腕を草助から引き離してしまった。

「……あんたも武道の心得があるみたいだな。こいつの身元引受人らしいが、この男が口を割るまで帰すわけにはいかん」
「うーむ、そいつは横暴が過ぎるのう」
「黙れ! これ以上邪魔をするなら、公務執行妨害で――!」

 伊吹が八海老師の腕を振り解こうとした瞬間、八海老師が手首を僅かに動かすと、伊吹の身体は一回転して背中から床に転がされてしまう。この技は古武術などに伝わる物で、身体の軸を安定させて大きな力を発し、同時に相手の重心をコントロールして投げ飛ばすというものだが、八海老師の動作があまりにも小さく速すぎたため、周囲の人間はおろか、投げ飛ばされた本人でさえなにが起きたのか分からず、ただ目を丸くするばかりだった。

「なっ……!?」
「意気軒昂なのは結構。しかし物事は筋を通さねばな。自分の思い込みを無理矢理押し付けておるようでは、吉之助のような刑事にはなれんぞい」
「親父を知ってるのか!?」
「ワシは奴がお前さんくらいの頃からの馴染みじゃよ。十年ほど前まで、ワシはここで警官に武道の稽古を付けてやっておったからな。吉之助は若い頃の教え子の一人じゃよ。今じゃ出世して県警のお偉いさんになったようじゃが、まだ身内には甘いと見えるな。後できついお灸を据えておくよう伝えておこうかの」
「げっ」

 八海老師はカラカラと笑うと、そのまま背を向けて警察署を出て行く。草助も背後を気にしながら、八海老師に続いて警察署を後にした。
 朝比奈警察署は市の中心にある大通り沿いに面しており、草助の自宅がある商店街ともさほど離れていない。草助の自宅である古物屋の一筆堂に辿り着くと、店の鍵は開けられており、奥の居間ではすずりと定岡、そして丸々とした身体を青のポリバケツに収めたニワトリの妖怪――ヒザマが卓を囲み、インスタントのカップそばをすすっていた。

「やーっと帰ってきた。遅いよ草助」
「よっ、勝手にやらせてもらってるぜ」
「しかし食い物がこれしかないとはシケとるのー。もうちょい買い置きしといたほうがええでホンマ」

 などとそれぞれが勝手な言葉を口にすると、草助は口元をヒクつかせて反論する。

「あのね……他に言うべき事があるんじゃないかいアンタら。僕一人を置いて逃げるなんて、こんな薄情な連中だとは思わなかった」
「バカ、あんなの気付かない草助が悪いんじゃん。危機感が足りない証拠だね」
「俺たちの稼業にとっちゃあサツは天敵だ。なにしろまともな言い訳ができやしねえからな。連中の気配を感じたら即トンズラが鉄則だぜ。大体だな、オメーがしょっぴかれたのを八海のじーさまに連絡したのはこの俺だぞ? むしろ礼を言ってもらいてーくらいだ」
「他人にブツクサ言う前に、おのれの注意力不足を呪う事やな」

 と、ぐうの音も出ないカウンターパンチを浴びて草助は沈黙する。

「で、お主ら肉吸い退治の方はどうなっとるんじゃ」

 八海老師が訊ねると、そばをズルズルとすすりながら定岡が答えた。

「事件が起きた間隔を見てもよ、人を襲うのは腹が減ったからじゃなくて、急いで力を付けてるみたいな感じだぜ。こういうのって大抵ヤバい事の前触れだったりするんだよな」
「ふむ……」

 定岡の言葉を聞きながら、八海老師は頭頂部の毛を撫でつつ考え込む。一方の草助は疲れたように腰を下ろすと、顔を上げて訊ねた。

「だけど驚きましたよ老師。警察に知り合いがいるとは聞いてましたが、まさか県警の幹部だったなんて」
「ワシも昔は警察との鬼ごっこなぞ日常茶飯事じゃったからの。長く付き合っておれば、お互いの事情が嫌でも分かってしまうもんじゃよ。ま、そのおかげで連中の捜査資料などをこっそり回してもらえるわけじゃがな。草助も警察の知り合いを作っておくと便利じゃぞい」

 警察署での一方的な取り調べを思い出し、草助はゲンナリした表情で舌を出す。

「警察はしばらくお腹いっぱいですよ」
「とにかくじゃ、この様子だと肉吸いは近いうちに行動を起こす可能性が高い。十分準備を整えて、いつでも戦える準備をしておけ。今回はどうにも嫌な胸騒ぎがしよるでな」

 八海老師はそう言い残すと、一筆堂を出てタクシーを拾い、梵能寺へと帰って行った。草助は最後に残っていたカップそばにお湯を注いで食べ終えると、再び定岡らと共に肉吸いの追跡を再開したが、肉吸いの行方は杳として知れなかった。




 翌日の夕方、船橋明里は朝比奈市の南西にある海沿いの病院へとやってきていた。治療を受けるためではなく、祖母の定期検診の付き合いで、いくつかの検査が終わればそのまま帰宅するだけの予定であった。明里は草助と同じ美術大学に通う普通の女子大生であったが、草助が妖怪退治をしていると知ってからは、草助の助手として情報収集を手伝う役を買って出ていた。しかし肉吸いに関しては悪知恵の働く妖怪ということで、なまじ情報を探ってしまうと、逆に向こうから目を付けられてしまう危険性があるため、草助は彼女にその事を伝えていなかった。
 明里は白い廊下に並べられた椅子に腰掛けて、持ってきた文庫本を読みながら祖母を待っていた。淡いブラウンのカーディガンの上に白いジャケットを羽織り、デニムのズボンを履いた格好で、傍らにはやや大きめのトートバッグが置いてある。時間は四時半を過ぎ、窓の外に広がる海は、夕暮れの朱に染まって輝いている。

「すっかり日も短くなっちゃったなあ」

 祖母はまだ戻らない。文庫本も読み終えてしまった明里は時間を持て余し、やがて心地よい眠気に誘われた。まどろみに身をゆだねかけていたその時、にわかに周囲が騒がしくなって明里の意識は引き戻された。

「……?」

 目を開けて顔を上げると、周囲の様子がおかしくなっていた。空調が効いていたはずの空気はひんやりと冷たく、窓の外に見える空は青と紫と朱の色が渦を巻いて滅茶苦茶に混じり合っている。直後、病院全体が大きく横に揺すられたような衝撃があり、フロアーの照明が全て落ち、非常灯に切り替わった。

「な、なんなの? 地震?」

 明里は姿勢を低くして椅子にしがみついたが、揺れはそれっきりだった。ほっと胸をなで下ろしたのも束の間、更なる異変が彼女を襲う。病院中央にある階段の方向から、数人の看護師や患者が悲鳴を上げてこちらへ走ってくる。彼女たちが駆けてきた方に目をやると、地下に続く階段から紫色の霧が床に沿って溢れ出し、続けて獣のような唸り声と、湿っぽい足音が階段を上って近付いて来るのが聞こえるのである。

「まさか……」

 不自然な肌寒さに肌は粟立ち、悪寒が背筋を貫く。霧の向こうから漂うおぞましい気配は、何度か出会った妖怪が放っていたそれと、まったく同じものだったからだ。やがて階段を這い上がるようにして、子供ほどの背丈をした怪物が現れた。肌は黄土色で生気が無く、人間と同じように二本足で立ってはいるが、背骨は大きく曲がって身体は痩せ、あちこちに骨が浮かんでいる。頭髪のまばらな頭頂部には小さな角が生え、顔面は片目が飛び出して醜く歪み、曲がったままの指には汚れた爪が伸び放題になっている。小さな姿の鬼――まさしく小鬼と呼ぶにふさわしい姿であった。

「よ、妖怪だわ。どうして……!?」

 言いかけて、明里は周囲の様子がおかしい事も含めてすぐに理解する。理由は不明だが、たったいま病院が異界に飲み込まれたのだと。原因はわからないが、ここが危険な状態に陥ったのは確かである。明里はすぐ近くの検査室に飛び込み、辺りを見回しながら祖母の姿を探した。

「おばあちゃん、どこ?」

 祖母は入り口にほど近い場所で、自動の血圧測定器に右手を入れたままじっとしていた。六十半ばを過ぎ、髪にもグレーの色が混じってきたがまだまだ元気で、ベージュの上着に濃い色のセーター、膝下までのスカートという服装で、年齢よりは若く見える。

「おばあちゃん、ここでじっとしてたら危ないわ」
「なにが起きたの明里。さっきから揺れたり暗くなったりで」

 祖母の口調はいつもと同じようにゆっくりで優しいものったが、事情を丁寧に説明している暇はない。とにかくこの場から祖母を連れ出そうと手を引く明里だったが、祖母の腕は血圧測定器に入ったまま抜けなかった。

「おばあちゃん、早く!」
「待って、機械が締まったままで腕が抜けないのよ」

 明里は慌てた手つきで測定器のスイッチを押してみるが、彼女の意に反して測定器はなかなか祖母の腕を放そうとしてくれない。焦って機械を叩いたりしているうちに、紫色の霧が検査室の中にも流れ込んできた。

「ゲゲ……ゲゲゲゲッ……」

 どんな動物とも違う不気味な声が背後から聞こえた。明里がゆっくり振り返ったそこには、さっき見かけた黄土色の肌をした小鬼が立っていて、飛び出した目玉でこちらを眺めていた。やがてまばらに牙の生えた口を開き、よだれを垂らしながらニタニタと嗤い始めた。

「やっ、ダメ、こっち来ないで。来ちゃダメだってば!」

 明里の言葉と裏腹に、小鬼はペタペタと湿った足音を立てて近付いて来る。すぐ目の前まで小鬼が迫り、もう間に合わないと思ったその時、明里のトートバッグから一匹の動物が飛び出し、小鬼に体当たりを食らわせた。それは体長四十センチ程もあるネズミで、身体は雪のように白い体毛に覆われているが、背中の部分だけは真っ赤に染まって炎のような模様になっている。このネズミはハナビという名前で、とある事情から明里の自宅で飼われている「火鼠」という妖怪の子供であった。火鼠は竹取物語に名を見る事ができ、神山の火口に住み、その毛皮はどんな炎の中でも燃え尽きる事がないと言い伝えられている。ハナビの毛皮も同様で、燃えさかる炎の中でも平気で活動できる他、炎を吸収して自分の妖力としたり、背中の一部を炎に変化させて相手を威嚇したりするのである。

「プーーーーイッ!」

 ハナビは四肢を踏ん張って毛を逆立て、小鬼に向かって激しく威嚇する。病院に動物を連れ込む事が厳禁なのは明里も承知の事だったが、この日に限ってハナビが明里にまとわりついてどうやっても離れず、仕方なくバッグに入れて連れてきていたのだった。体当たりを受けた小鬼は仰向けに倒れていたが、すぐに起き上がって恨めしそうな声を上げる。

「グゲゲゲゲッ」

 人に似た姿をしていても言葉を喋れないらしく、小鬼は腹を立てた様子でハナビに視線を向ける。小鬼が爪の伸びた手を伸ばしてハナビを捕らえようとするが、ハナビはすばしっこく走り回って指一本触れさせない。逆に小鬼の脛に思いっきり噛みつくと、小鬼はすすり泣くような悲鳴を上げて一目散に逃げ出してしまった。

「た、助かった……ありがとね、ハナちゃん」
「ププイッ」

 明里は安心した表情で胸をなで下ろして落ち着きを取り戻すと、血圧測定器から祖母の腕を抜いた。

「ねえ明里、さっきからなにが起きてるの? 私にはさっぱりだわ」

 状況が飲み込めない祖母はしきりに訊ねてきたが、この状況を到底一言で説明できるはずもなく、明里は言葉を遮って「とにかく逃げなくちゃ」とだけ答えた。祖母の手を引いて病院の正面玄関まで走ってみたが、出入り口には逃げてきた人々が殺到していた。明里は人混みの横に回り込んで様子を窺ってみたが、ドアは全て開かなくなっているようだった。近くにある窓から出られないかと試している連中もいたが、全て板で打ち付けたようにびくともしなかった。

「ダメだわ、外に出られない。これも異界に飲み込まれたせいなの?」

 自分の置かれた状況をいち早く察した明里だったが、ここから抜け出す方法はさっぱり思いつかない。どうすればいいのか立ち尽くしていると、廊下に並べられた椅子のひとつに腰掛けている女の姿が目に入った。翡翠色のドレスとヒールを身に付けた、病院にはそぐわない水商売風の格好をしている。女は騒然としている人々とは違って落ち着き払っており、明里と視線が合うと薄笑いを浮かべて立ち上がり、ゆっくりと近付いてきた。

「へえ、あんたは他の連中と違って落ち着いてるようだね」
「あなたは?」
「私は翠子。ま、憶えなくていいけど」
「そ、そう」
「ところでさ、あんた火持ってない?」

 翠子と名乗った派手な女は、指で煙草を挟む仕草をする。

「えっ。ごめんなさい、煙草吸わないから」
「あっそ。無ければ別にいいんだよ」

 翠子は不気味な笑みを浮かべたまま、どんどん明里に近付いてくる。そして手を伸ばして彼女に触れようとしたが、二人の間に飛び込んだのはハナビであった。ハナビは小鬼の時よりもさらに激しく声を出し、全力で翠子を威嚇する。やがてハナビの背中にある赤い毛皮が炎に変わって燃え上がると、それを見た翠子は目を剥いて大きく後ろに飛び退く。並の人間では到底不可能な跳躍であった。

「……あなた何者? ここが異界に包まれた事も、あなたが関わっているんじゃないの?」
「へえ、ただの素人じゃ無いってわけだ。こんなムカつくネズミまで飼い慣らしてるなんて思わなかったよ」
「どうしてこんな事をするの? 早く元に戻して!」

 明里が精一杯の勇気を振り絞って訊ねると、薄笑いを浮かべていた翠子の顔つきが、恐ろしい形相へと豹変する。

「ナメんなよ小娘が。ここを異界へ落とすのにどれだけ苦労したと思ってんだい。綺麗な顔してるから皮でも頂いてやろうと思ったけど、お前は邪鬼どもに襲わせてその顔を台無しにしてやる」

 翠子が右手を振り上げると、彼女の足元から紫色の濃い霧が吹き出して広がり、その中から這い出すようにして、十匹ほどの小鬼が現れた。

「お前たち、その小娘を八つ裂きにして喰い殺しな。それが済んだら他の人間も喰っちまっていいからね」

 翠子が指で合図をすると、小鬼たちは一斉に明里の方へと向かってきた。ハナビが背中の炎を大きく燃え上がらせると、小鬼たちは一旦怯みはするものの、再び明里の元へ近付こうとしてくる。明里は廊下の壁際に据え付けてあった消火器を見つけ、それを手に取ってピンを抜き、ノズルを小鬼たちにむけてレバーを握った。吹き出した消化剤で小鬼が怯んでいるうちに、明里は祖母とハナビを連れてその場から逃げ出す。しかし彼女の胸中には最悪の予感ばかりがどんどん色濃くなっていた。

(ダメだわ、このままじゃおばあちゃんまで巻き込まれちゃう。私は妖怪に狙われやすい体質って聞いてるけど、それが本当なら――)

 自分と一緒にいる限り妖怪に襲われる。といって祖母一人だけで別行動させても、到底無事でいられるとは思えない。外来のある中央棟から連絡通路を通り抜けて西側の棟に辿り着くと、そこは病院に勤める看護師たちの更衣室や当直室が集まる区画だった。当直室を覗いてみると、部屋はベッドと小さなテーブル、テレビが置いてあるだけの空間で、入り口以外に出入り出来る窓もない。明里はしばらく考えた後、意を決して祖母に伝えた。

「詳しくは上手く説明できないけど、大変な事が起こってるの。このままじゃ私たち、どんな目に遭うか分からないわ。おばあちゃんはここに隠れてて。ハナちゃんも一緒に」

 明里は抱きかかえたハナビを祖母に託し、当直室に入るよう促す。それを見届け、外からドアを閉めようとする明里に、祖母は心配そうに聞き返す。

「待ちなさい、明里はどうするつもりなの?」

 明里は言葉に詰まって沈黙したが、ドアを閉めながら困った笑顔を作って言った。

「私は助けを呼んでくるわ。ハナちゃんと一緒にいればきっと大丈夫だから。すぐ戻ってくるから待っててね。中から鍵をかけて、誰かが来ても開けちゃダメよ。ハナちゃんもおばあちゃんのことお願いね」

 明里はドアを完全に閉じ、中から鍵の掛かる音を確かめると、その場から急いで駆け出した。その場に留まっていれば祖母が狙われてしまうかもしれない。走りながら携帯電話を取り出して草助に連絡を取ろうとしたが、電波も遮られてしまっているらしく、常に圏外表示のままでまったく使い物にならなかった。明里は再び外来や病棟のある中央棟に戻ってきたが、さっきまで出入り口付近に集まっていた人の姿はなく、所々に倒れたまま動かない人の姿が見えた。彼らの身体には無数の噛み傷があり、床は血で染まってひどい有様であった。

「ひ、ひどい」

 思わず口元を押さえる明里の視界には、さらに信じられないものが映る。広い待合ホールの向こう側に、身長が二メートル以上もある巨大な鬼がいたからだ。鬼は動かなくなった男性の足を無造作に掴み、床を引きずって遠ざかっていく。引きずられた人物の生死は分からないが、これから辿る運命は容易に想像出来ることだった。

(まるで地獄だわ……なんとかして助けを呼ばなくちゃ)

 立ち止まっているうちに、数匹の小鬼が明里の姿を見つけて追い掛けてきた。ゆっくり考える暇もなく、明里は走り出した。同じ階に留まっても逃げ場はなく、地下は謎の霧が湧き出しているため、階段を上って上の階へと向かった。三階ほど駆け上った後、近くのナースステーションに駆け込んで電話をかけてみたが、これもやはりダメだった。とにかく外部に異常を知らせる方法があればと思った矢先、廊下の壁にくっついている赤いランプを見つけた。大きなビルや施設には必ずある消火栓のランプで、その下には非常ベルのスイッチが付いている。明里は考えるより早く、最後の望みを込めて非常ベルのスイッチを押した――。




 八海老師から緊急の連絡を受けた草助と定岡は、異界に飲み込まれた病院を見上げて息を呑んでいた。草助は肌に密着する黒い胴着の上に、紺の着物と茶袴を身に付け、組紐のブーツといういでたちで、これらの衣装は全て祖父の遺品でもある。草助の右隣にいるすずりは病院の奥をじっと眺めており、左隣の定岡はいつもと同じグレーのスーツに黄色いネクタイをし、右手には丸々と太ったニワトリが入った、青いポリバケツをぶら下げている。このニワトリこそ定岡の相棒にして、炎を操る妖怪ヒザマである。午後五時を過ぎ、日が落ちてすっかり辺りは暗くなっているのに、そびえ立つ病院の窓はどこを見ても明かりが点いていない。一階正面の入り口は開かれたままで、暗闇に塗りつぶされたドアの向こうからは非常ベルの鳴り響く音が聞こえ、足元には冷気のような冷たい霧が漏れ出していた。霧は普通のそれと違い、紫色に染まっている。

「この病院丸ごと異界になってしまったのか。外にいるだけでも凄い妖気を感じるぞ」

 青ざめた顔で呟く草助の隣で、定岡も難しい顔をして言う。

「非常ベルが鳴ってやがる……すぐにサツが駆けつけてくるだろうし、のんびりしてる時間はねえな。それにしても病院だとか、人が多く集まる場所ってのは異界に飲まれやすいもんだが、こいつぁ普通じゃねえぞ。これをやった奴は、そこらの雑魚妖怪とはワケが違うぜ。かーっ、嫌だ嫌だ」

 これから遭遇するであろう相手を想像してため息をつく定岡を尻目に、すずりが鼻をヒクつかせて険しい顔をする。

「……血の臭いがする。この中は妖怪だらけだと思った方がいいね」
「どこに妖怪が潜んでいるか分からないし、周囲に気をつけて進もう」

 草助が言うと、定岡がぶら下げた青いポリバケツに入ったヒザマが、両眼を光らせる。

「おっしゃ、久々にワイの出番やな。ここ最近はモノに火ぃ付けてへんからストレス溜まっとったんや。派手にやったるでえ」
「……建物は燃やしてくれるなよ?」

 草助が心配そうに言うと、ヒザマは羽根を器用に指のような形にして、チッチッと振る真似をする。

「ワイは炎妖怪の貴公子と呼ばれたヒザマ様やで? ドーンと任せとかんかい!」

 誰が貴公子と呼んだのか甚だ疑問ではあったが、今はヒザマのやる気に水を差すのは得策ではないだろうと思い、草助はぎこちない笑顔を返す。その後、気を取り直して建物を見上げると、異界と化した病院に足を踏み入れた。病院の中は非常灯の僅かな明かりが点いているだけで、ロビーの床には動かなくなった人間が無数に転がっていた。倒れた人々のほとんどが全身血まみれになっており、傍目からも生存は期待出来ないだろう事が見て取れた。草助は近くのうつ伏せに倒れている男性に近付いて膝を付き、男性の身体を仰向けにしてみたが、すぐに自分の行動を後悔した。男性は目を見開き、苦悶の表情を浮かべたまま絶命しており、腹部は引き裂かれて内蔵が食い尽くされていたからだ。飛び出した肋骨の白さが、暗闇の中でひときわ鮮明に見えた。

「うぷっ!?」

 あまりに無残な光景に、草助は思わず口を押さえて目を逸らす。妖怪に襲われて命を落とした人間を直接目の当たりにするのは、今回が初めてだった。

「な、なんてひどい事を」

 立ち止まっている草助の傍らに近寄って袖を引いたのはすずりだったが、普段の喜怒哀楽が消えた無機質な表情を死体に向けて言った。

「気の毒だけど先を急ぐよ。この異界を作り出してる奴を倒さないと、同じ死体が増えるばかりだからね」
「あ、ああ、分かったよ」

 草助は見開かれた男性の両眼を手のひらで閉じてやり、両手を合わせて短い合掌をすると、立ち上がって病院の奥へと向かった。


 正面入り口から五十メートルほど進み、中央階段の横を通り過ぎて角を左に曲がる。すると突き当たりに救急外来用の出入り口があり、近くには警備室があったのだが、中をのぞいても警備員の姿は見当たらない。定岡が警備室の壁に付いた非常ベルの音響スイッチを切ると、けたたましく響き続けていた非常ベルが鳴り止んだ。定岡は生活のために色々な職を転々としており、病院などの設備についても一通りの知識はあるのだと得意げに言っていた。

「えーと、多分ここら辺に……お、あったあった」

 定岡は勝手に机の引き出しを漁り、中から病院全体の見取り図を見つけ出すと、それを机の上に放り出して草助の目の前に広げる。

「自分のいる場所もわからねえんじゃ話にならねえからな。今いるのが一階の警備室で……ここだな」

 定岡は現在地を草助に教えると、見取り図を素早くめくって別の階を調べ始める。

「大体分かったぜ。この病院は地上十二階建てで、地下は三階まであるようだ。俺たちが今いる中央棟の隣に西棟ってのがあるが、ここは看護師の更衣室とか当直室が集まってるだけで、他に大したものはねえな。中央棟の三階から上は病棟で、地下一階は洗濯室。地下二階は霊安室。最後の地下三階は動力エリアで、ボイラーやら電気室があるらしい。で、まずはこの電気室に行ってみようぜ。病院の電源が落ちてるのも、ここでなにかが起こったからだろうしよ。なんか意見はあるか?」

 定岡の提案に反対する者はいなかった。警備室にあった鍵の束を拝借し、草助たちは少し引き返して中央階段へと向かい、階段を下り始めた。地下へ降りると紫色の霧がより色濃くなり、数メートル先さえ満足に見通せないほどになってきた。中央階段は地下二階までで終わっており、動力室のある地下三階へ辿り着くには、建物の端へ続く廊下を渡って霊安室の前を通り過ぎ、その先にある階段を下りなければならなかった。ここへ来るまで妖怪には出会わなかったが、一歩足を進めるごとに、辺りに漂う妖気が濃くなっていく。

「……ん?」

 先頭を行く草助は、廊下の向こうから妙な物音がするのに気付いて足を止めた。音は一定の間隔で聞こえ、ひたひたと湿っぽいものである。やがて霧の向こうに人影が現れ、蛇行しながら草助の方へと近付いてきた。それは水色の薄いガウンを纏った裸足の老人であったが、両目は真っ白に濁り、首を不自然に傾げて口を大きく開き、舌をだらりと外に垂らしたままである。酔っ払いか夢遊病者のように歩く老人は、濁った目に草助の姿が映るやいなや、両手を突き出して突進してきた。

「ガァァァァッ!」
「なっ、なんだ!?」

 素早く身をかわした草助だが、老人とすれ違った瞬間、彼に生気がまったくない事に気がついた。老人は瞬きをせず、呼吸をしておらず、唇も血の気が失せて黄色くなっているのだ。

「し、死んでる……死体が動いているのか!?」
「異界の影響さ。ここは妖怪や悪霊どもの領域だからな」

 そう答えたのは、草助の後ろにいた定岡であった。定岡はさほど驚いた様子もなく、勢い余った老人の死体に足を引っ掛けて転倒させる。

「さしずめ実体を持てなかった悪霊や雑魚妖怪が、転がってた死体に取り憑いたってとこだろうな。異界が消えれば一緒に消え失せちまうだろうが、さっさと片付けちまえ」

 草助は頷き、すずりに合図を送る。すずりは体から金色の光を放ち、鮮やかな赤漆の柄に金色の模様と文字が刻まれた美しい筆に姿を変え、ふわりと飛んで草助の手に収まった。草助が立ち上がった死体を筆で薙ぎ払うと、死体は口から真っ黒な液体を吐き出して倒れ、それきり動かなくなった。黒い液体は死体に取り憑いていた妖怪の本体で、筆先に吸い込まれて消えていった。

「ふう。迷わず成仏してくれよ」

 死体に片手の合掌をして冥福を祈る草助は、背後から無数の気配が迫っている事に気付いて、廊下の奥に目を凝らす。ぼやけてはいるが、霧の中に無数の小鬼や動く死体の影が蠢いており、それらはゆっくりと草助たちのいる方へと近付いて色濃くなっている。

「大変だ、連中に気付かれたらしいぞ」

 草助と定岡は迫る気配に背を向け、地下三階への階段目指して走り出した。途中、やはり霊安室から抜け出したであろう動く死体と遭遇したが、今度はヒザマの発火妖力で顔面に火を付けて怯ませ、その隙に横を駆け抜けてやり過ごした。突き当たりにある「関係者以外立ち入り禁止」と表示された鉄製の扉を開けると、地下へ続く階段があり、それを下るとまた重い鉄の扉があった。腕に力を込めて扉を開けると、今までよりもさらに濃い霧が奥から流れ込み、草助は霧に混じる妖気のせいで気分が悪くなりそうだった。

「動力室はどこだ?」

 口元を押さえつつ廊下を進むと、所々に濃いグレーの作業服と、妙な物が一緒に折り重なって落ちている。不思議に思って近付いた草助は、それがなんであるのかを悟って表情を強張らせた。作業服と共に折り重なっていたのは、人間の皮と骨だった。皮には食いちぎられたような傷跡はなく、作業服にも血は付いていない。肉だけが綺麗に抜き取られた死体だった。

「肉吸いに襲われたのか……」
「そこらに同じのが転がってるぜ。この調子だと、ここにいた奴らは全滅だろうな」

 用心しながら慎重に足を進める。通路の脇にはスチール製の棚が作られ、配管やそれを繋ぐための部品や、作業に使う工具などが整然と並べられている。無数に落ちている皮の主たちが、生前仕事で使っていたものであろう。一番上の段には機械用グリスの入ったスプレー缶が三本ほど置いてあり、それに目を止めた定岡は少し考えた後、スプレー缶を全て取って小脇に抱え込む。

「そんなものどうするんです?」
「ちょっとした小道具さ。いずれ分かるから気にすんなって。ほれ、先を急ごうぜ」

 定岡に背中を押されて先へ進むと、デスクと様々な計器が並んだ操作室があり、そこを通り抜けた先には高さが四メートル、奥行きが十メートルあまりもある大きなボイラーや、それらに関わる無数の配管やポンプが設置された機械室が広がっていた。電源が落ちたせいで機械は全て止まっているらしく、機械室は不自然なほどに静まりかえっている。配管だらけの天井にぶら下がった、小さな電球の明かりを頼りに奥へと進むと、電気室と文字の書かれた扉の前にやってきた。草助と定岡はそれぞれ扉の左右に立ち、草助が静かに扉を開けて中の様子を窺う。

「う……!?」

 電気室は特に濃い霧が充満し、それを吸い込んだ草助は一瞬気が遠くなりかけてしまった。頭を振りながらもう一度電気室の奥を眺めると、広い部屋の中は金網で四角く区切られており、金網の手前にはメーターが付いた動力盤がずらりと並び、向こう側には高さ一メートルほどの、乾電池のオバケみたいなものが整列しているのが見えた。それらの装置は高圧電流を一般用の電圧に変換したり、電気の流れを調節するためのもので、綱引きに使う縄のような太さのケーブルが無数に繋がって「ウウウン」と大きな生き物の唸り声に似た振動音を出し続けていた。入り口の近くに妖怪の姿は無く、草助と定岡は周囲に細心の注意を払いながら、そっと金網の扉に手を掛ける。扉に鍵はなく、容易く開いた扉の奥へと足を踏み込んですぐ、草助たちは異変を目の当たりにした。電気室の中央、本来は通路であるだけの空間に、暗く巨大な穴が浮かんでいたのだ。直径はおよそ三メートルほどで、淀んだ空気がその場でゆっくり渦を巻いている。

「こ、これは……まさか!」
「どうした筆塚、この穴ぼこを知ってんのか?」

 怪訝そうな定岡の問いに、草助は目を見開いたまま頷く。

「前に見た事があるんですよ。だけどあの時はもっと小さくて、こんなに大きくはなかった」

 草助が思い出していたのは、かつてひだる神という妖怪と戦った時の記憶だった。ひだる神は自らが封じられていた洞窟に異次元に通じる穴を開き、そこからしもべの妖怪を呼び寄せていた。大きさこそ違うが、目の前の穴から感じる気配は以前のものとまったく同じだった。

「これも同じように妖怪が出てくるとしたら大変だ」
「とりあえず塞いじまうか?」

 定岡が穴に近付いて手を伸ばした瞬間、バチッと大きな音と共に火花が飛び散り、定岡の身体が数メートルほども吹っ飛んだ。

「あががが……!」

 定岡のスーツには焦げ目が出来てしまっていたが、運の良い事に彼は無事であった。軽い火傷を負った指先に息を吹きかけつつ、定岡は穴に目をやって言った。

「痛ででで、死んだらどうすんだちくしょうめ。どうやらこの穴ぼこ、ここの電気を吸い取って空間に固定してるみてーだな。そのおかげで病院に送る電気が足りなくなったんじゃねえのか? うかつに触れようとするとこのザマだし、どうしたもんかね」

 その時、床を踏み鳴らす硬い足音が草助の元に近付いてきた。穴の横から姿を現した足音の主は、薄緑色のドレスを纏い、同じ色のヒールを履いた水商売風の格好をした女だった。

「あーあ、こんな所にまで入り込んじゃってさあ。立ち入り禁止って入り口に書いてあったのが読めないワケ?」

 女は薄笑いを浮かべながらも刺々しい殺気を放ち、それを隠そうともせず近付いてくる。一目でこの女が危険な存在だと踏んだ草助は、素早く身構えて訊ねた。

「お前が肉吸いか。ここ半月の間に人を次々に襲ったのも、病院をこんな風にしたのも全部お前の仕業だな」

 女は立ち止まって草助を睨みつけるが、彼が手にしている筆に目を留めて眉をひそめる。

「その筆……そうかい、お前が今度の魂筆野郎ってわけだね。そのうちツラを拝みに行こう思ってたけど、自分からノコノコやってくるとはねえ」

 女は急に乱暴な口調に変わり、敵意を剥き出しにした視線で草助を睨むが、草助も目を逸らさずに受けて立つ。

「今すぐ病院を元に戻すんだ。お前の目的は一体なんだ?」
「ホーホー! ガキがずいぶん調子に乗ってくれるねえ。雑魚妖怪を倒してきたくらいでいい気になってんじゃないよ。ここらで翠子様が現実の厳しさって奴を教えてやろうじゃないか」

 女は自ら翠子と名乗ると同時に、翡翠の瞳を血の色のように赤く染めて全身から強い妖力を吹き出した。すると電気室に浮かぶ穴がにわかに動き始め、なめし革のような浅黒い肌をした妖怪が六匹ほど、穴を次々とくぐり抜けてきたのである。頭頂部にはねじれた角が生え、顔は伸び放題の髪ですっかり隠れており、隙間からギラリと光る目だけが見えている。身の丈は百五十センチほどで草助たちよりやや低いが、手足の太さが人間の胴ほどもあり、岩のような筋肉を厚い皮膚で包んだ鬼だった。

「げっ!?」
「そいつらを始末できたら、少しは遊んでやってもいいわよ。せいぜい頑張って後を追い掛けてきな、ホーッホホホホ」
「あっ、待て!」

 肉吸いは鬼たちに指で合図をすると、そのまま後退して電気室の奥へと消えてしまった。

「くっ、逃がしたか」
「それどころじゃねーぞ、こいつらどうすんだよ」

 草助と定岡の前に残ったのは、六匹の鬼である。いずれも言葉を話さない事から、鬼の中でも低級な「邪鬼」という部類の鬼であろう。しかし知能が低いぶんだけ本能に忠実で、肉体は人間のそれを凌駕した能力を備えているため、直接的には最も危険な妖怪のひとつである。邪鬼はいずれも血に飢えた猛獣のような目つきをしており、こちらが少しでも動けば即座に襲いかかって来そうな雰囲気である。

「どうするったって、やっつけるしかないでしょう」

 草助が返事をすると同時に、二体の黒い邪鬼が並んで飛び掛かってきた。草助はそれを迎え撃つ事はせず、後ろに飛び退いた。ただ突進してくるだけの妖怪を迎え撃つのは容易いが、相手は岩のような身体である。筆の力で妖怪の身体を溶かすにも、多少の時間は必要であるし、その間に組み付かれて動きを止められてしまえば、続くもう一体に押し込まれてお終いである。多数を相手にする場合の立ち回りは、八海老師の元で行った泥人形の修行によって草助の身体に刻み込まれていた。

「まとめて相手にすると分が悪い。定岡さん、鬼を牽制できませんか」
「お、おう、任せとけ。つーわけで行ってこいヒザマ!」

 助太刀を求められた定岡は、ヒザマの入ったバケツを草助の近くに放り投げる。ヒザマは空中で翼を開いて浮かび上がると、真っ赤なトサカを垂直に立て、定岡に向かって唾混じりに怒鳴る。

「いきなり他人任せかい! ほんまセコいやっちゃなおのれは。恥っちゅう言葉を知らんのか!」
「うるせえ、俺は頭脳労働担当なんだよ。ちゃんと働いたぶんのメシは出してやるから文句言うな」
「ケッ。鬼一匹で焼き鳥十本やな。これ以上はまからんで」
「わーったわーった、あとで買ってやるから筆塚の手助けしてやれって」
「おっしゃ、ほないくでえ!」

 宙に浮かんだヒザマは、飛び出してきた二匹の鬼のうち、奥にいる側の顔を丸い目玉で睨み付ける。するとその瞬間、コンロに着火したような音と共に鬼の顔が炎に包まれた。視線の先を発火させる、ヒザマの妖力である。

「あぎゃぎゃ!?」

 突然顔を炎に包まれた鬼は混乱し、その場でのたうち回る。火は長続きせず、短時間で消えてしまったが、相手を怯ませるには十分な効果であった。

「今だ!」

 草助は床を蹴り、目の前にいた鬼に突進した。鬼は両腕を振り上げて草助を捕らえようとするが、草助は鬼の腕をひらりとかわすと、脇をすり抜けて背後に回り、筆で背中を薙ぎ払う。すかさず隣で顔面を押さえている鬼も筆で払うと、二匹の鬼は悶えながら溶け、黒い墨溜まりとなった。それを見ていた残りの鬼たちはそれぞれ四方に散り、周囲の金網や天井の配線にぶら下がると、草助とヒザマめがけて飛び掛かった。草助とヒザマは素早く動いて襲撃をかわしたが、鬼たちはすぐに金網や天井によじ登り、縦横に飛び回りながら攻撃を仕掛けてきた。

「なんやねん、狙いが定まらへんがな!」

 絶えず動き回られると視線が固定出来ないらしく、ヒザマの発火はことごとく空振りに終わっていた。草助も支援がなければうかつに手を出せず、チャンスと理解した鬼たちは足並みを揃え、草助めがけて一斉に襲いかかる。だがその時、少し離れた場所で様子を窺っていた定岡が動いた。

「来た来た、絶好のタイミングだぜ。伏せろ筆塚!」

 反射的に草助が身を屈めると、彼の頭上をスプレー缶が弧を描きながら飛び越える。スプレー缶が草助の前方四メートルほどの、ちょうど鬼たちが一カ所に集まる地点に到達すると、続けざまに定岡が叫ぶ。

「今だヒザマ、缶に火を付けろ!」

 すかさずヒザマがスプレー缶を睨み付けて発火させた次の瞬間、耳を貫く破裂音と共にスプレー缶が弾け飛ぶ。爆発の炎や缶の破片が直撃した鬼たちは目や耳にダメージを受け、着地に失敗してコンクリートの床に身体を打ち付けた。草助はチャンスと見るや、筆に変化したすずりに心で話しかける。

(今のうちに鬼の動きを封じてしまおう。例の技は使えそうか?)
(さっき仕留めた奴らで墨は足りてるよ)
(よし、行くぞ!)

 精神を集中させて霊力を引き出し、すずりの筆に送り込むと、元は二体の鬼だった墨溜まりから無数の黒い腕が飛び出し、残る鬼の手足に絡み付いて捕らえた。腕の力はかなりのもので、岩のような体をした鬼たちでさえ振りほどくことができない程である。草助は気合と共に踏み込むと、動きを封じられた鬼を筆でなぎ払う。鬼たちは筆に触れた部分から体が溶け、全て墨となった後に筆先へと吸い込まれた。

「ふう、なんとかやっつけたな。助かりましたよ定岡さん」

 呼吸を整えながら着物の襟を直す草助を、定岡は感心した様子で眺めている。

「どうかしましたか?」
「やっぱ大したもんだよなあ。鬼六匹をこうもアッサリ仕留めちまうとは恐れ入った。相変わらず筆の力は謎だしよ、ますます欲し……じゃなかった、頼りになるぜ」
「いやいや、サポートがなければ無理でしたよ。スプレーの缶をあんな風に使うなんて思いつかなかったな」
「ふっふっふ、少しは俺を見直したか? 使えるもんはなんでも利用するのが定岡様のやり方よ」

 それは悪役の台詞だろうと草助は苦笑したが、今は肉吸いの後を追うのが先決である。妖怪が出てくる穴を迂回して肉吸いが消えた方へと進むと、従業員専用のエレベーターがあった。壁にはエレベーターの停止位置を示すパネルが付いていたが、オレンジ色のデジタル数字は「13」を表示していた。

「十三階? この病院は十二階建てのはずでは」
「そうさ、十三階なんぞ存在しねえ。つまり行き先は異界のさらに奥、妖怪どものねぐらってわけだ」
「ということは、もしかしてさっきの鬼みたいなのがウヨウヨいると?」
「……だろうな」

 草助と定岡は心の中で同時に「帰りたい」とハモったが、それはできない相談である。草助は意を決し、エレベーターの呼び出しボタンを押す。しばらくして扉が開くと、草助と定岡はゴンドラの中に乗り込む。移動する階層を選ぶボタンを見ると、やはり「13」の丸いボタンが一番上にある。人差し指でボタンを押してみると、とエレベーターは静かに昇り始めた。甲斐性の表示ランプは順番に数字を増やし、やがてあるはずのない十三階に止まって扉が開く。注意しながらゴンドラの外に出てみると、そこはなんの変哲もない病棟の風景があるだけだった。エレベーターからほど近い場所には無人のナースステーションがあり、真っ直ぐ伸びた廊下に沿って病室が並んでいるのみで、別段変わった様子は見られない。肩すかしを食った気分で歩き出してみると、すぐにそこが異界であると再認識する事となった。どれだけ歩いても、なぜか建物の端に辿り着かないのである。変化のない風景に閉口した草助は、試しに目の前の病室に足を踏み入れたが、ベッドが六つ並べられているだけで、人の姿はない。窓の外に目をやれば、夕暮れの紫や青、朱色が混じり合って渦を巻き続けているばかりだ。この部屋にいた人たちはどこへ行ってしまったのかと考えていると、遠くから慌ただしい足音が響いてきた。

「ん、なんだ?」

 驚いて廊下に戻ってみると、一人の人物がこちらに向かって走ってくるのが見えた。紺のスーツの上にロングコートを羽織った若い男で、草助は彼の顔に見覚えがあった。それは警察署で草助に乱暴な取り調べをした、伊吹という刑事だったのだ。

(どうしてあの人がここにいるんだ。警察が来るにはまだ早いはずだぞ)

 草助が一人ごちているうちに彼も草助に気付いたらしく、目の前に駆け寄って息を切らしながら言った。

「はあはあ……や、やっと見つけたぞ筆塚草助。今度こそ貴様を逮捕してやる」
「あのー、今はそれどころじゃないでしょう。なんでまたこんな所にいるんですか」
「あの日から俺は、ずっと貴様をマークしていた。そして今日、お前たちが慌ただしく出かけていくのを見かけて後を追ってきたのだ。そしたら病院がおかしな事になっていて……そうか、貴様がなにかしたんだな!」
「いや、病院は僕が来たときからこうですよ」
「黙れ、今度こそ誤魔化されんぞ!」

 相変わらず聞く耳持たずな態度に、草助は首を振って嘆息する。大きな声で一通り言いたい事を吐き出した後、伊吹は疲れたように肩を落として呟いた。

「しかしわからん、この病院は一体どうなっているんだ? 患者も看護師もみんな忽然と姿を消し、どれだけ進んでも外に出られない。同じ場所を何度もグルグルと回っているばかりだし、それに……」

 一旦言葉が途切れた後、伊吹は青ざめた顔で続けた。

「得体の知れないバケモノがうろついているんだ。今も奴らに襲われて逃げてきたんだが、あれは一体――」

 彼が言い終わらないうちに、獣に似た唸り声が近付いてきた。伊吹の後を追ってきたのか、三匹の鬼が姿を現したのである。ついさっき電気室で戦ったのと同じ、黒くて岩のような身体を持つ鬼たちであった。

「ちっ、まーたおいでなすったぜ。どうする筆塚?」

 草助の隣にいた定岡は、伊吹と小杉に視線だけを向け、彼らを気にしながら言う。定岡の懸念は草助にもすぐに理解できたが、危険が差し迫っている以上は仕方がない。

「ええと、伊吹さんでしたか。とりあえず下がっててください。連中を退治しますんで」
「なっ、バカを言うな!」

 と、大声を出したのは伊吹である。

「奴らは普通じゃない。俺は子供の頃から空手をやって段位も持っているが、突きも蹴りもあいつらにはまったく通じなかった。それどころか連中は拳銃の弾を浴びても平気で向かってくるんだぞ」
「ああ、無茶な事をする人だなあ。普通にやってもたぶん効きませんよ。とにかくここは僕らに任せて」
「おい、どうするつもりだ。よせ!」

 草助と定岡は伊吹と小杉の横を素通りして前に出ると、迫る鬼に視線を定めた。

「さっきと同じ要領で行こうぜ筆塚」
「ええ、それが手っ取り早そうで」
「つーわけだ、頼むぜヒザマ」

 と、定岡が目配せをすると、バケツに入ったままのヒザマが宙に浮かんで両眼を光らせる。

「ったくお前らは、ワイがおらんとなーんもできひんのやからな」

 宙に浮かんで人間の言葉を喋るニワトリを目の当たりにし、伊吹はポカンと口を開けたまま見上げている。

「さーて、どっからでもかかってこんかい! 邪魔する奴は焼き鳥にしたるでえ!」

 その場にいた全員が「焼き鳥はお前だ」と心の中で思ったが、誰も口には出さなかった。相手は一度戦った鬼という事もあって、今度の戦いはスムーズに行われた。定岡が投げたスプレー缶をヒザマが発火妖力で爆発させ、続けざま矢のように飛び出した草助が怯んだ鬼たちを一掃する。これらの流れを一呼吸で終え、邪鬼が溶けた墨を筆先に吸い取らせると、草助は廊下にへたり込んでいる伊吹に近付いた。

「大丈夫ですか?」
「お、お前たちは一体何者なんだ。あのバケモノどもをあっさりと……」

 唖然とする伊吹の前で、草助は少しばかり考えてからポンと手を打つ。

「ほらアレですよ。害虫駆除の専門家みたいな感じの」
「ふ、ふざけるな、そんな説明で納得するとでも――!」

 食い下がろうとする伊吹の口元に手のひらを押し出し、草助は「静かに」と人差し指を口元に当てる。廊下の奥にじっと視線を向けていると、右から左に人影が廊下を横切っていった。

「……誰かいる。追い掛けましょう」

 定岡と一緒に数歩進んだところで、草助は思い出したように足を止めて振り返る。

「ああ、そうだった。ここから出たいなら僕らに付いてきてください。ただし邪魔をしないでくれたら、の話ですが」
「ま、待て」

 絞り出すように呼び止める伊吹に、草助の隣にいた定岡も面倒くさそうな顔をして肩をすくめる。

「いや、文句を言うつもりはない。この状況がどうなっているのか理解不能だが……今は専門家とやらに従うしかなさそうだからな」
「そうですか。やっと話が通じたようでホッとしましたよ」
「実は俺の他にもここへ来た仲間がいるんだが、バケモノに襲われた時にはぐれてしまった。俺の同期で小杉という奴だが、確かお前も知っているはずだな」

 伊吹の執拗な取り調べから救ってくれた眼鏡の刑事を思い出し、草助は頷く。

「図々しいとは思うが、あいつも見つけ出してくれないか。さっきの人影がそうかもしれん」
「……探すのは構いませんが、無事でいるかは保証できませんよ?」
「大丈夫だ、奴はそんなにヤワじゃない。あいつは俺のライバルだからな」

 伊吹は膝に手を置いて立ち上がると、草助たちの後ろに付いて歩き出す。一行は廊下を進み、人影が横切った通路を曲がる。本来ならそこで廊下は折り返しになっているだけで、また元の場所に戻るはずなのだが、彼らの目の前には自動ドアがあり、ガラスには大きく「手術室」と緑の文字が書かれていた。

「紛れもなく異界の中って感じだな。建物の構造からして、こんな場所に手術室なんか存在しねえはずだし、空間がねじ曲がってデタラメに繋がってやがるんだ」

 定岡の言葉を聞き終えて自動ドアを通り抜けると、床も壁も天井も緑一色で統一されたエリアになり、通路沿いに並んだ部屋にはそれぞれ「OP1」などといった番号が振られていた。一番手前の部屋が「OP10」号室で、奥に向かうに従って数字は小さくなっていく。それぞれの手術室からは、得体の知れないモノが潜んでいる気配と、肉や骨を囓るような湿っぽい音が聞こえ、とても中を覗く気にはなれなかった。周囲を警戒しつつ足を進めると、一番奥の部屋から銃声らしき乾いた音が数回響き、女の悲鳴のような声が耳に飛び込んできた。草助たちは急いで音のした部屋へと走り、入り口の前で中へ入るタイミングを窺った。部屋の番号は一番奥のはずが、なぜか「OP4」となっている。入り口のドアの前で互いに呼吸を合わせ、一斉に手術室へと雪崩れ込むと、部屋の中心にある手術台を挟んで、顔を手で押さえる翠子と、両手で拳銃を構えた刑事らしき若い男が向き合っていた。その人物は朝比奈警察署で見かけた小杉刑事に間違いなく、彼の後ろには怯えた様子で座り込む明里の姿もあった。

「ど、どうしてここに船橋さんが!?」

 この場に明里がいる事に驚きを隠せない草助だったが、一方で顔を押さえている翠子から、近付くのを躊躇うほどの凄まじい殺気が膨らんでいた。

「ぐううっ……ゴミクズみたいな人間の分際でよくも!」

 状況から察するに、小杉の撃った拳銃の弾が翠子の顔に当たったのだろうが、翠子の顔半分はドロドロに溶けて崩れ、液状になった肉が指の隙間から溢れて床に落ちていた。翠子は傷口を見られまいと手で覆いながらも、両眼は血のように赤く染まって殺意を漲らせていた。それを見た瞬間、草助は咄嗟に叫ぶ。

「逃げるんだ小杉さん!」

 だが小杉は拳銃を構えたまま動かなかった。正確には動く暇もなかったというのが正しいのだろう。翠子は目にも止まらぬほどの速度で飛び掛かり、一瞬にして小杉の懐に潜り込むと、片手で彼の喉を掴んで身体ごと持ち上げた。

「うぐっ……!?」

 喉を握り潰され、小杉は声も出せずに悶えるが、翠子の表情から殺気は消えない。

「私の顔に傷を付けた報い、たっぷり味わいな」

 冷たく、そして乾いた言葉だった。草助はこれから起こるであろう出来事を予感して飛び出したが、翠子の放った妖気の波動に吹き飛ばされ、手術室の壁に背中から叩き付けられてしまった。

「や、やめろーっ!」

 振り絞るような叫びも虚しく、それは行われた。草助と定岡、そして伊吹の見ている前で、小杉の身体がみるみるしぼんでいく。小杉の身体から肉だけが吸い取られているのだ。やがて皮と骨だけとなった小杉の残骸を掴んだまま、翠子は喉を反らせて嗤った。

「ホーホホホ、傷の埋め合わせはさせてもらったよ。まだ少し足りないけどね」

 翠子が顔を覆っていた左手を下ろすと、崩れていた場所が元に戻っていた。ただ皮膚の表面には爛れた跡が残っており、傷の修復が完全では無い様子だった。

「お、おい……貴様、小杉になにをした?」

 喉の奥から声を絞り出しながら伊吹は言った。目の前で起きた出来事が、彼には理解できなかったのだろう。翠子は高笑いを止め、口元を歪めながら眼差しを向けて答える。

「見ての通りさ。引き締まっててなかなか上質の肉だったわねえ、ホホホ。そうそう、この残りカスはもういらないからくれてやるわ」

 翠子は伊吹の足元に、変わり果てた小杉の残骸を投げ捨てた。その時、カランと音を立てて伊吹の革靴にぶつかったのは、小杉が使っていた四角い眼鏡だった。伊吹はその場に片膝を付き、震える手で眼鏡を拾い上げた。

「貴様ーーーーーーーッ!」

 刹那、伊吹は髪を逆立てて激昂し、弾丸の如き勢いで翠子に殴りかかった。長年鍛えて来たであろう分厚い拳で殴られれば、普通の人間ならばひとたまりもなかったはずである。だが翠子は不敵な笑みを浮かべ、片手を振り払うだけで伊吹の突進を跳ね返してしまう。伊吹も草助と同じように吹き飛ばされ、部屋の隅に置かれている機材に突っ込んでしまった。

「キャンキャン吠えるんじゃないよカスが。ムカついてるのはこっちなんだ。最初から生かして帰すつもりは無かったけど、お前たちはここで息の根を止めてやろうじゃないの」

 見た目は華奢な女であっても、草助の眼に映る翠子は邪悪と呼ぶにふさわしい、どす黒い悪意そのものに思えた。事実、手術室の照明に照らされた翠子の影はドレスを纏った女の姿ではなく、得体の知れない異形の怪物のそれであった。

「ちょっと待ちぃや。さっきから好き放題上から目線で言うてくれるやんけ」

 そう言って翠子の前に躍り出たのは、青いバケツに入ったヒザマである。定岡といえば、近くの機材の影に隠れて、成り行きを見守っているだけだったが。

「なんだいお前は。不細工なニワトリに用は無いんだけど」
「誰が不細工やねんコラァ! どこから見てもコケティッシュでプリチーかつ、みんなのマスコットなヒザマ様になんちゅう言いぐさやねんこのアマ! シバくぞ!」
「ヒザマ? 聞いた事もない名前だね。どうせ雑魚妖怪なんだろ?」
「ほんなら試してみるかワレ。知っとるで、おのれが火ぃ苦手いうんはな」
「なんだって?」

 ヒザマが両眼を輝かせて翼を広げると、羽根の先端とトサカが炎と化して燃え上がる。すかさず発火妖力で翠子を狙うヒザマだったが、翠子はいち早く気配を察して飛び退いたため、空中で炎が燃え上がってすぐに消えた。それを見た翠子は、あからさまに表情を歪めて嫌悪感を顕わにする。

「ちっ、どいつもこいつもウザいったらありゃしない。そんなに早く死にたいなら、望み通りにしてやろうじゃないの。出てきな邪鬼ども!」

 翠子が全身から猛烈な妖気を発すると、地震が起きたように空間が大きく揺れた。直後、四方の壁から毛むくじゃらの太い手足が突き出し、続いて角を生やした鬼の身体が通り抜けてきた。床からも小さな鬼が這い出してくると、ついには天井に頭が届くほどの巨大な鬼までもが部屋の中に姿を現す。ざっと数えただけでも十匹の鬼が、草助たちの周囲を取り囲んでいた。

「ここが私たちの領域だって事、お忘れじゃないのかい? お前たちは最初から鬼の腹の中にいたんだよ、あははははは!」

 部屋は狭くて逃げ場が無く、多勢に無勢。草助たちは一気に窮地へ追い込まれた。いくら筆の力が絶大といえども、一斉に襲いかかられては勝ち目がない。こういう場合に選択すべき方法を、草助も定岡も心得ていた。草助が視線で合図をすると、定岡は懐に隠していたスプレー缶をわざと目に付くよう床に転がした。鬼たちの注目が集まったその瞬間、ヒザマの発火妖力によってスプレー缶は弾け飛んだ。

「ぐっ!?」

 間合いが離れていたこともあり、スプレー缶の爆発は翠子や鬼たちにさしたるダメージを与える事はなかったが、激しい音と光で一瞬怯ませるには充分であった。草助は明里を、定岡は伊吹に手を貸し、一目散に手術室から逃げ出した。

「三十六計逃げるに如かず。あんな場所じゃあとても戦えないぞ」

 明里の手を引いて走りながら、草助は冷や汗が止まらなかった。背後からは鬼たちの妖気が追ってくるのを感じるし、逃げたはいいがどこへ向かえばいいのかは見当も付かなかったからだ。

「ところで船橋さんはどうしてこんな場所に?」

 走りながら訊ねると、明里は息を切らしながらも答えた。

「私はおばあちゃんの検査の付き添いで来ただけなのよ。そしたら急にこんな状況に巻き込まれちゃって。それで逃げ回ってたら、さっきの小杉さんって人が助けてくれたんだけど、あんな事になってしまって……ひどすぎるわ、こんなの」

 涙を浮かべて言葉を詰まらせる明里に、草助は同情を禁じ得なかった。本人の意志とは無関係に妖怪と関わってしまう気持ちは、草助にも痛いほど分かっていた。確かに明里の巻き込まれ具合は度を超している部分もあり、その理由も調べなくてはならないだろうと草助は考えていた。

「ところで私たち、どこに向かって走ってるの?」
「もっと広い場所へ行かないと。あんな場所じゃ戦いようがない」
「広い場所……それだとホールかしら。でも辿り着けるのかな。この病院の中、普通じゃないもの」
「念じるしかないさ。足を止めたらここで鬼に食べられてしまうだけだよ」

 明里は途中から眼を閉じ、祈るように「ホールへ辿り着きますように」と呟き始めた。不安を紛らわすためか、本当にそう信じていたのかは分からない。だが不思議な事に、草助たちは気付くとホールの真ん中を走っていた。

「こ、これは!?」

 草助は驚きながらホールの天井を見上げ、足を止めた。幻覚や妄想などではなく、その場所は紛れもなく本物だった。明里の祈りが通じたのか、本当のところはよく分からないが、幸運には間違いない。

「よし、ここならさっきより動けるはずだ」

 ほどなくして、後を追って鬼の群れが姿を現す。殺気を孕んだ大小合わせて十匹ほどの鬼が、一斉にこちらへ向かって迫ってきていた。

「今だ定岡さん、援護を――!」

 草助も負けじと叫ぶが、何も起こらない。隣にいたはずの定岡は、背を向け一人で逃げ出そうとしているところで、気まずそうにゆっくり振り返って愛想笑いを浮かべる。

「って、なにやってんですかアンタは」
「い、いや、勘違いすんなよ。決してお前らを囮に自分だけ助かろうなんて思っちゃいないぜ。こう、どこかに抜け道がないか探そうとだな」

 苦しい言い訳を並べ立てる定岡に、草助は力いっぱい軽蔑の眼差しを注ぐ。

「……それでいいのか人として」
「う、うるせえ。人間誰だって自分が一番可愛いに決まってんだろーが。お釈迦様だって文句はいわねーぞ」

 開き直る定岡の態度に頭痛を感じつつ、草助は気を取り直して続けた。

「わかりましたもういいですから。とにかく援護を」
「もうタネ切れだ。缶は三本しかなかったんだぜ」
「そ、それじゃ僕一人で連中を相手にしろっていうんですか? あんたも魔封じのお札くらい持ってるでしょうに」
「お前は知らないだろうがな、妖怪退治用の道具ってのはアホみたいに高いんだぞ。今だって手元に一枚きりしかねえんだよ。とにかく踏ん張ってくれや」
「ああっ、なんてことだ」

 そうこうしているうちに、鬼の群れが目の前に迫る。ヒザマの援護はあるものの、発火妖力のみでは火力が足りない。最初の二、三匹を怯ませる事は出来たが、雪崩を打って襲いかかる群れの全てを止める事は出来なかった。草助と定岡は巨大な鬼に力ずくで押さえ付けられ、明里と伊吹、そしてヒザマも他の鬼に捕らえられてしまった。

「ホーッホホホ、いいザマだねえ」

 どこからともなく翠子の高笑いがホールに響く。声が反響してどこにいるのか分からなかったが、押さえ付けられている草助の目の前で、床から真っ直ぐに浮かび上がって現れた。翠子は腕を組んでヒールを鳴らしながら歩き、草助の頭をかかとで踏みつけてほくそ笑む。

「この異界で私から逃げ切れると思ってたのかい。さあ、どうやって死にたいか希望を言いな」
「そ、その質問はせめて五、六十年後にして欲しいな」
「あっそ、口の減らないガキだわね。それじゃお友達が目の前で食われるのを眺めさせてやろうじゃない」
「ぐっ……!?」
「んーんー、顔色が変わったねえ。それじゃ最初は、その小生意気な娘からにしようか」
「なっ、よせ! やめろ! 彼女に手を出すんじゃない!」
「ホホホ、いきなり大当たりらしいね。さあ、しっかり眺めておくんだよ」

 明里は草助と翠子の前に引き出され、座り込んだ彼女の周りを鬼が取り囲む。鬼たちは口から涎を溢れさせ、翠子の合図を待っている。

「や……た、助けて」

 恐怖で身体がすくみ、明里はそれだけ言うのがやっとだった。いつも自分のピンチには草助が助けに入ってくれたが、今回は目の前で抑え付けられてしまっている。免れぬ最期が迫っている事を悟り、彼女の精神は限界に達していた。

「待たせたねお前たち。さあ、食っておしまい」

 翠子が指を鳴らして合図をすると同時に、鬼どもが明里めがけて雪崩れ込んだ。

「嫌あああああああああッ!」

 明里の絶叫と共に、予期せぬ出来事が起こった。彼女の身体から途方もない霊力が溢れ、結界のように鬼を押し返しているのである。その出力は草助の全力をも凌ぐ程で、どうやったらこんな力が出せるのか想像も付かなかった。

「な、なんだってのよ。どこにこんな霊力を隠してたんだいこの小娘は!」

 異変はそれだけに留まらない。小山のような鬼に抑え付けられていた草助は、身体が妙に軽くなったような気分になっていた。

(なんだ、鬼が怯んで力が弱まったのか?)

 最初はそう思ったが、すぐにそうではない事に気がつく。鬼の力が弱まったのではなく、草助の身体に霊力が漲ってきていたのだ。今までびくともしなかった手足が、力を込めれば動かす事が出来る。草助は精神を集中させて己の霊力を引き出すと、一気に立ち上がって鬼の手を跳ね飛ばし、すかさず筆で巨大な鬼の腹部を筆で薙ぎ払う。

「ギャアアアアアッ!?」

 筆の一撃を受けた鬼は、今までのようにじわじわと溶けるのではなく、一瞬にして全身が墨と化して崩れ落ちた。

「やはりそうだ、僕の力が強まっているんだ」

 隣ではヒザマがクチバシで鬼の顔を突き、その隙に定岡が鬼の手から抜け出している。更には羽交い締めにされていた伊吹までもが息を吹き返し、鬼の腕を振り解いて果敢に戦いを挑んでいた。一度目はまるで通じなかったという正拳突きや蹴りを受けた鬼は、数メートルも吹き飛ばされてのたうち回っていた。

「よくも小杉を……許さん! 絶対に許さんぞ貴様ら!」

 伊吹は阿修羅の如き形相で翠子を睨み、行く手を遮ろうとする鬼を手当たり次第に打ちのめす。打撃を受けた鬼の身体は砕け、あるいは風穴が空いてしまい、草助には、伊吹の身体にも強い霊力が宿っているのがはっきりと見えた。

(妖怪に出会った事もない人間が、いきなり霊力に目覚める……そんな事が有り得るのか? これも船橋さんの事と関係があるんだろうか)

 疑問は尽きないが、今は考えるより戦うのが先である。草助は立ちはだかる鬼を筆で薙ぎ払い、座り込んでいる明里の元へ駆け寄った。

「船橋さん、しっかりするんだ!」
「あ……筆塚くん」

 草助の顔を見て安心したのか、明里はうなだれてそのまま黙り込んでしまった。草助は彼女の前に立ち、襲いかかる鬼を迎え撃つ。次々に倒されていく鬼たちの姿に、翠子の表情には焦りが色濃く浮かんでいた。

「ええい、なにをグズグズしてるんだお前たち! こんな人間ども、さっさと始末しないか!」

 翠子は手下の鬼を次々に召喚してけしかけるが、草助たちの勢いもまた止まらず、両者共に一進一退を繰り返していた。その均衡を破ったのは、突如駆け込んできた丸い物体だった。四本足に白い毛並みを持ち、背中の毛皮が炎のように赤く染まった小型犬ほどのネズミ――明里が引き取って世話をしている火鼠のハナビが、加勢に入ったのだ。ハナビは明里の周りを心配そうに走り回った後、翠子の方を向いて威嚇する。

「おっ。なんや、おのれも来とったんかいな」
「プイプイッ!」

 ヒザマがハナビに近付くと、ハナビは鼻をヒクヒクと動かしながら返事をする。

「ちょうどええ、ちと手ぇ貸しいや。そこのクソ生意気なアマに一泡吹かせたるんや」

 ヒザマに何事か耳打ちされると、ハナビは鬼たちの足元をくぐり抜け、翠子めがけて走り出す。そして勢いを付けてジャンプすると同時に、宙に浮かんでいたヒザマの両眼が光った。ヒザマの視線にあったのは翠子ではなく、ハナビの姿である。ハナビの毛皮はヒザマの発火妖力を吸収して炎を纏い、そのまま一気に体当たりを仕掛けた。炎を吸収する火鼠の特性と、ヒザマの妖力を上手く組み合わせた連係攻撃だった。

「おっしゃ、ぶちかましたれ!」
「プププイッ!」

 ハナビはバレーボールほどの火球となり、翠子に迫る。意表を突かれながらも翠子は紙一重でそれを避けたが、ハナビの背中で燃えさかる炎を見て表情は引きつっていた。

「ちくしょう、なんて厄日なんだい。せっかく苦労して異界の穴をこじ開けたってのに、こんな半人前どもに邪魔されるなんて……お前たち、ツラは憶えたからね。このままで済むと思うんじゃないよ!」

 翠子は忌々しげに吐き捨てながら後ずさり、病院の奥へと消えていく。草助は後を追い掛けようとしたが、翠子が消えた方向からは新手の鬼が無数に出現し、先へ行かせまいと立ちはだかる。

「くっ、これじゃきりがない。なんとかまとめて退治する方法は……そうか!」

 草助は以前に使った技の事を思い出していた。ここなら広さも充分で、技を使うための条件は揃っている。

(すずり、聞こえるか。影女の時にやった結界を作って、連中を一網打尽にしよう)
(少しは戦い方が分かってきたじゃん。少し見直したよ)
(自分でも不思議だが、なぜか今なら負ける気がしないんだ)

 鬼の間を縫うように走り、草助は辺りの柱や壁などの五カ所に紋様を描き、鬼たちが中心に集まるようにおびき寄せると、筆先を垂直に立てて額に当て、霊力を解放して術を発動させた。五カ所に描かれた魔封じの紋様は光を放ち、五芒星の結界となって鬼の群れを包み込む。以前影女と対決した際に使った、巨大な結界術である。

「――!?」

 結界に囚われた鬼たちは動きを封じられたばかりか、次々に消滅していく。以前とは段違いの威力に、術を使った草助でさえ信じられない程だった。

「すごい、鬼の群れが一瞬で消えてしまった」

 草助はしばらく呆然としていたが、我に返ると明里の元へ行き、彼女の肩を支えて顔を覗き込む。明里はすでに気を失っていて、霊力の放出もスイッチが切れたように、ふっと無くなってしまった。呼吸はしており大した怪我もなく、草助は安堵に胸を撫で下ろす。

「ぐっ……ううう……ッ!」

 妖怪が消えたホールの中心で、伊吹は両膝を付いて床を殴りつけている。血が出るほど唇を噛みしめ、必死に声を押し殺していた。彼の左手に縁のある四角い眼鏡が握りしめられているのを見た草助もまた、居たたまれない気持ちで立ち尽くしていた。

「異界が晴れるぜ。どうやら妖怪どもは退却したらしいな」

 ヨレヨレになったスーツの襟を直しながら、定岡が言う。直後、病院内に照明が蘇り、ねじ曲がった空間が元に戻っていく。草助はハナビの案内で明里の祖母を保護し、警察や消防が駆けつける前に病院から抜け出した。




 翌日の早朝、八海老師から事の顛末を報告しに来るようにとの連絡があった。その際、妖怪退治の装束に着替えて来るようにと付け加えられていた。草助は八海老師の言葉に従い、黒い胴着の上から紺の着物と茶袴を履いて身支度を整えると、梵能寺の本堂に足を運ぶ。そこにいた意外な先客に、草助はあっと声を出した。

「伊吹さんじゃないですか。どうしてここにいるんです。それに船橋さんも」

 梵能寺の本堂には、袈裟を纏った八海老師の他に、伊吹と明里が正座をして待っていた

「俺は小杉の仇を討つ。あんたらに頼めば、あのバケモノどもと戦えると思った。だからここへ来たんだ」

 そう言うと、伊吹は表情に影を落とし、口を真一文字に結んで黙ってしまった。

「こやつは夜中にワシの所へ来てのう。朝までずっと表で粘っておった。頑固なところは吉之助にそっくりじゃな」
「……親父は知っていたんだな。あのバケモノどもや、あんたらの事も全部」
「まあのう。普通の人間には手に負えぬ問題を片付けるのが、ワシらの仕事じゃからの。しかしこの世界に足を突っ込んだら、命の保証はできんぞ? 熟練の使い手であっても、僅かな油断で命を落とす――そういうものじゃ」
「俺と小杉は高校の頃からの親友だった。お互いに刑事を目指して同じ大学、同じ警察学校に入って、どっちが先に一人前になるか競っていた。いい奴だった……俺と違って他人を思いやれる男だった。それを目の前で殺されて、引き下がれるものか!」

 伊吹は拳を強く握りしめ、床板に叩き付ける。

「決意は固いと見えるな。よかろう、その件については承知した。じゃが、まずは夕べの出来事について聞かせてもらおうかの」

 八海老師に促され、草助は昨夜の病院で起きた出来事について全てを語った。一通りの説明を聞いた八海老師は、いつになく真剣な面持ちで頷いた。

「――そうか肉吸いは逃げたか。ご苦労じゃったな」
「今回は奇妙な事ばかりでした。病院で見た地下の穴といい、船橋さんの事といい……僕にはもうなにがなんだか」
「うむ。ワシの方でも黒崎らの狙いについてようやく見当が付いてな。お主が見た異空間の穴の事も含め、後でゆっくり話すとしよう。で、まずお嬢ちゃんの事じゃが」
「はい」
「お嬢ちゃんは非常に珍しい霊力の持ち主でな。霊妙力(れいみょうりき)と呼ばれる特異な能力で、これを備えた人間は百万人に一人現れるかどうかと言われておる。霊妙力は人によって様々な形で現れるそうじゃが、お嬢ちゃんは周囲の人間の霊力を増幅する力があるようじゃな。素人の伊吹ですら妖怪と戦えるようになるくらいじゃから、その効果は飛び抜けておる。限界まで追い詰められた事が引き金となって力が目覚め、お前たちは九死に一生を得る事が出来たというわけじゃ」

 思えばひだる神や影女、輪入道との戦いで明里が危機に陥ったとき、自分でも奇妙な程の底力を発揮する事が出来たのだが、それは彼女の力が無意識のうちに働いていたのではないかと草助は考えていた。

「船橋さんにそんな凄い能力が眠っていたとは……驚きました」
「うむ。今までずっと眠っていた霊妙力が、霊力の強いお主と接する事で徐々に覚醒し、その片鱗が妖怪を引き寄せておったんじゃろう。妖怪や悪霊にとっては、霊力の強い人間はまたとない御馳走じゃからな」
「えっ。という事はまさか、彼女が妖怪に狙われやすくなったのは僕のせいですか?」
「平たく言えばの。責任は重いぞ」
「いやっ、ちょっと待っ……」

 草助は片手を伸ばしかけ、途中で観念して肩を落とす。

「まいった、なんて詫びればいいのやら」

 顔に手を当て、申し訳なさそうにうなだれる草助に近づき、明里は励ますように肩を叩く。

「私なら気にしてないわ。それにいつも、危ないところを助けてもらってるんだもの。だからおあいこって事にしましょ、ねっ」

 そう言って微笑む明里の気遣いに、草助は幾分救われた気がしていた。

「まあ悪い事ばかりでもないじゃろ。お嬢ちゃんを守るにはむしろ都合が良かろうて。力を合わせれば手強い妖怪とも戦えるんじゃぞ」

 二人の会話を眺めつつ、八海老師は頭頂部の毛を撫でながら話を続ける。

「そりゃそうですが……なるべく危ない目には遭わせたくなかったのになあ」
「目覚めてしまったものは今更どうにもならん。それにお主がやらんで、誰がお嬢ちゃんを守ってやるんじゃ」
「そ、そうですね。わかりました」

 八海老師は話を一旦区切り、熱いお茶を飲んで一息ついてから再び口を開いた。

「さて、ここからが本題じゃ。黒崎や、その手下として動く妖怪の目的についてじゃが」
「は、はい」
「それを説明する前にまず、お主らを連れて行く場所がある。全員ワシと一緒に来い」

 八海老師はおもむろに立ち上がり、錫杖と数珠を持って本堂の外へ向かう。

「お、おい、ちょっと待ってくれ。俺の話はどうなった?」

 慌てて追いすがる伊吹に、八海老師は背を向けたまま答える。

「黙って付いてくるんじゃ。これから向かう先でまとめて面倒見てやるわい」

 少々納得がいかない表情をしながらも、伊吹は八海老師の後に続く。草助は明里と顔を見合わせ、すずりを連れて八海老師の後を付いていった。
 それがとてつもない災難の前触れだとは、この時の草助には知る由もなかった。
     




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