魂筆使い草助

第七話
〜水虎〜


 K県朝比奈市商店街の一角に、木造二階建ての古びた一軒家がある。分厚い一枚板の看板に「一筆堂」と大きく書かれたその建物は、筆塚草助の祖父、草一郎が残した古物屋で、草助は受け継いだ一筆堂を営む傍ら、隣町の美術大学に通いながら絵の勉強を続けていた。絵を描くのが趣味というくらいで、いたって普通の若者である草助だが、彼は人知れず邪悪な妖怪と戦い、それを絵に封じる「魂筆使い」というもうひとつの顔があるのだった。




「……暇ねえ」

 一筆堂の店内にあるレジ台では、椅子に腰掛けた一人の若い女が頬杖を付き、退屈そうにため息をついていた。彼女は草助と同じ大学に通う船橋明里といい、あどけなさを残した美しい顔立ちの娘である。比較的裕福な家庭で不自由なく育った彼女は、名前の通り明るい性格で周囲からの人気も高いが、世間一般の流行にはあまり興味を示さず、個性的で一風変わった、珍しいものを好むという癖があった。それが縁で草助の絵や考え方に興味を持つようになった明里は、彼と仲良くなるうちに妖怪とのトラブルに巻き込まれ、草助が妖怪退治をしている事実を知った。以来、明里は草助の助手として妖怪退治の手伝いをする事となり、空いている日にはこうやって一筆堂に足を運んでは、仕事の依頼が来ないかと待っているのである。依頼があればすぐに動けるようにと、白いブラウスにタイトジーンズという身軽な服装であるが、それだけでも一筆堂には充分なくらいの華を添えている。

「せめてもう少しお客さんでも来ればなあ」

 が、明里の意気込みとは裏腹に、現実は閑古鳥の鳴く一筆堂の店番がほとんどであった。暇つぶしにと思って店内の掃除などを地道に繰り返しているうちに、とうとう掃除する場所が無くなってしまったくらいである。レジ台の奥はそのまま草助の住居と繋がっており、奥から白いボタンシャツとジーンズ姿の草助が顔を出すと、お茶の入った湯飲みを明里に差し出した。

「うちはいつもこんなものだよ。お客さんも常連さんばかりだし、流行るような商売でもないからねえ。ま、おかげで自分の絵を描いたりしてる余裕があるんだけども」

 癖毛のボサボサ頭に、冴えないとぼけた表情。これが筆塚草助の普段の顔つきである。

「だからって放っておいたらお店潰れちゃうわよ」
「店の維持の方は、元々ここを管理してた老師の計らいもあって、なんとかなってるんだ。売り上げが影響するのは、僕の生活費やお小遣いくらいかな」
「だからいつもお財布が寂しいとか言ってたのね」
「たはは、まあね。それに今じゃ大食らいも一緒に暮らしてるから」

 草助が自宅の奥に顔を向けると、赤い着物を着た十歳くらいの少女が、丸いテーブルの前でカップラーメンを豪快にすすっていた。おかっぱ頭の後ろ髪を、筆のように一房だけ長く伸ばした髪型で、名をすずりという。『黙っていれば可愛らしい』とは草助の弁であるが、口が悪く怒りっぽい性格で、大きな瞳の目尻は釣り上がって気の強さがよく表れていた。傍目には食べ盛りの子供にしか見えないが、すずりもまた妖怪であり、彼女こそが妖怪退治に絶大な力を発揮する「魂筆」と呼ばれる筆の化身なのである。妖怪退治には頼りになるすずりだが、日頃は超の付く大食らいのおかげで、草助の懐事情を常に圧迫しているのだった。山と積まれたカップラーメンの容器を眺め、草助はひときわ大きなため息をついて肩を落とす。

「……やっぱり少しは稼がなきゃダメか」
「そうね、このままだと干からびちゃうもん。ところでさ、前から聞こうと思ってたんだけど」

 と、明里は一呼吸置いてから草助の顔を見て訊ねた。

「このお店は筆塚くんのお祖父さまが開いたって聞いたけど、どうしてこの仕事を選んだのかしら」
「ああ、それは僕も小さい頃に聞いたことがあるんだよ」
「へえ、そうだったの。お祖父さまはなんて?」

 草助は一筆堂の店内に出ると、売り物の古びた湯飲みを手に取り、逆に明里に問いかけた。

「この湯飲みは一万円の値段が付いているけれど、船橋さんが持ってる湯飲みは、僕が近所のバザーで三百円で買ってきたものだ。同じ湯飲みなのに、どうしてこんなに差が付いてるんだと思う?」
「えっと……そっちは年代物だから?」
「それだと古い物はなにもかも高値が付くことになっちゃうよ。でも現実には古い物はどんどん捨てられて、新しい物に取って代わられてる」
「うーん、じゃあ有名な人が作った作品だから?」
「でも湯飲みは湯飲みだよ。どっちも粘土を焼いて作った道具で、素材に特別な違いがあるわけじゃない」
「言われてみれば確かにそうね。作った人が違っても、同じ材料で同じ作り方なのにどうして違いが出るのかしら」

 明里が首を傾げて不思議そうに考え込んでいると、草助は口元に柔らかな笑みを浮かべながら明里に近付き、手にした湯飲みを目の前に置いた。

「ほら、手に持ってごらん」

 言われるまま明里は古びた湯飲みを手に取る。肉厚でずしりとした手応えがあり、見るからに手作りな不均等の形である。表面は黒く艶があって緩やかに波打ち、それが美しさと持ちやすさを両立させており、見た目と使い心地も考えられている。画一的でいかにも大量生産されたであろう三百円のそれと比べると、確かな違いを感じる。

「そっか、この形とこの作りだから価値があるのね」
「使い道が同じ湯飲みでも、大量生産の品とは作るための手間や技術が違う。この湯飲みを作った職人はとうの昔に亡くなってしまったし、彼の生前の意思や言葉を知ってる人もいない。だけど彼の技術と経験、物作りに対する心は今でも形としてここに残っている。物質に心が宿るんじゃなく、その形こそが心や意思の表れなんだ……って祖父ちゃんが言ってたんだけどね」
「へえーっ」

 明里はしみじみと湯飲みを眺めた後、大きく深呼吸をして顔を上げた。

「なんだか目からウロコが落ちた気分。よく目に見える物だけが真実じゃないって言葉を耳にするけど、形があるって本当はとっても大事な事だったのね」
「この話を聞いたときは僕も小さかったし、最初は意味が分からなかったけどね。最近になって、ようやく少し分かってきたかなって感じだよ」
「そっか、だから筆塚くんの描く絵って他の人と違って見えたのかもしれないわね」
「たはは、嬉しいけどまだまだ修行しないと」

 草助が照れ笑いを浮かべると、いつの間にか二人の近くにすずりが顔を出しており、草助の背中を小さな手でバシバシと叩く。

「そのとーり。オマエはまだまだヒヨッコなんだから、みっちり鍛えてアタシを使いこなせるようになってもらわないと」
「なんだ、聞いてたのかすずり」
「ま、草助にしちゃいい心がけだね。今の話、魂筆使いの極意に通じることだから忘れるんじゃないよ」
「魂筆使いの極意……それは?」
「そんなの自分で見つけるに決まってんだろ。アタシが口で言ったって仕方ないじゃん。これだから草助は」

 ふふんとせせら笑うすずりに、草助の口元がひくひくと痙攣する。

「ぬうう、山ほど食っておいて生意気な言葉を吐くのはこの口かっ」
「あにふんらゴルァ!」

 すずりのほっぺを両手でつまんで引っ張る草助を、明里が苦笑しながら止めに入る。

「はいはい、喧嘩しないの二人とも」

 そんな会話をしている最中、遠くからバイクらしき排気音が近付いてきたかと思うと、急ブレーキの音をけたたましく鳴り響かせて店先に止まった。騒音の主は一筆堂の前に居座り、いつまで経っても他所へ移動する様子が見られない。不思議に思った草助たちは、揃って一筆堂の入り口から顔を出した。

「なんだなんだ、えらく騒がしいなあ」
「お客さんかしら?」

 店先に止まっていたのは、スピードと運動性能を重視した、レーサーレプリカという流線型のバイクである。それに跨るのは黒いヘルメットに黒い革ツナギを着た人物で、一目で女性と分かる見事なボディラインが特徴であった。彼女は草助たちの姿を見ると、颯爽とした身のこなしでバイクから降り、ヘルメットを脱いで素顔を見せた。緑がかった深い色の黒髪と切れ長の瞳に、薄い紫のルージュを引いた唇、そして鼻筋の通った顔立ちと、思わず目を見張る程の美人であった。彼女は息苦しそうな仕草をすると、ツナギのファスナーを胸元まで降ろし、新鮮な空気を吸い込んで「ふうっ」と息を吐く。開かれた胸元からは、はち切れんばかりのバストが上半分ほど顕わになっている。

「こんにちは。ここに筆塚草助って人がいるって聞いて来たんだけど」

 ゆっくりとした口調と艶っぽい声で女は訊ねた。あどけない明里とは対照的に、彼女は大人の色気というものを充分に、というか過剰気味に備えている。

「あ、はい。僕が一筆堂をを預かっている筆塚草助ですが」
「……あら、思ってたよりずっと若いのね。カワイイじゃない」

 女は草助に密着して、品定めするように草助の顔を見る。彼女の美貌もそうだったが、大きく開いた胸元につい視線が降りてしまうのは、悲しい男のサガである。そこへ明里がムッとした表情で割って入り、聞き直す。

「ええと、ご用件があるなら伺いますけど?」

 言葉遣いは丁寧だが顔は笑っていない明里を見て、女は悪びれる様子もなく答える。

「んー、用があるのはこっちの男の子だけなのよ。大事な話だから、出来れば二人きりで話がしたいんだけど」
「ちょっと、それってどういう……!」

 大きな声を出しそうな明里よりも先に、すずりのキンキン声が辺りに響く。

「だーっ、いい加減にしな!」

 レジ台の上で仁王立ちし、すずりは番犬が威嚇する時のような視線を黒いツナギの女に向けている。

「ったく、男と見たらすぐに絡むクセはやめなって前も言っただろ」
「あらん、誰かと思えばすずりんじゃない。元気にしてた?」
「すずりん言うな!」

 二人の口調が知り合いのそれだと悟った草助は、すずりと女性の顔を交互に見て訊ねる。

「この人を知ってるのか?」

 草助の問いに、すずりは呆れた表情を作って頷く。

「まあね。アタシの古い知り合いだよ」
「てことは、もしや前の影女みたいに?」
「そ、コイツも妖怪だよ」

 言われて草助は驚きを隠せなかった。確かに髪の色は珍しいが、妖気や陰気な気配がまったく感じられず、普通の人間にしか思えなかったからだ。

「ちょっとすずりん、そっちの女の子にバラして大丈夫なの?」
「明里なら平気だよ。妖怪のこともアタシの正体も知ってるから」
「そう、なら安心ね」

 女は草助から一歩離れて全員の視線を集めると、にこっと笑って言った。

「自己紹介するわね。私は禰々子(ねねこ)。こう見えても河童一族の代表なのよ」
「へえ、河童かあ。言われなきゃ全然気付かないな」
「変化の術は妖術の基本よ。人間社会に溶け込まないと、妖怪も色々と不便だから。簡単に見破られるようじゃ生きていけないのよ」
「ふーむ、なるほど」

 草助はあらためて禰々子の容姿を確かめるが、やはりどこからどう見ても人間である。あえて特徴を挙げるとすれば過剰気味な色気――特に育ちがいいと評判の明里をさらに上回る胸回り――だろうか。

(しかし相当な逸材だぞこれは。いや実に凄い)

 草助の視線が禰々子の胸元に集中している事に気付いた明里は、そっと彼のおしりに手を伸ばして思いっきりつねりあげた。

「痛でででっ!?」
「もう、鼻の下伸ばしちゃって」
「ち、違うんだ。これは希に見る逸材への感心であって、決してやましい気持ちがあったわけでは」

 などと墓穴を掘っている草助を尻目に、すずりは仁王立ちのまま禰々子に訊ねる。

「んで、なんの用でここに来たのさ」
「そうねえ、ちょっと話が長くなりそうなんだけど」

 どうやら禰々子には込み入った事情があるらしく、立ち話で済む用事ではなさそうだった。草助は一筆堂の入り口に「外出中」の札を掛けると、店の奥にある自宅の居間に禰々子を案内して話を聞くことにした。丸いテーブルを囲んで腰を下ろすと、禰々子は全員の顔を見てから切り出した。

「――まず用件から先に言うと、私がここへ来たのは妖怪退治の依頼をするためよ」
「妖怪が人間に妖怪退治を頼むのかい?」

 草助が聞き返すと、禰々子は静かに頷く。

「人間だって殺し合いをするじゃない。別に不思議じゃないでしょ」
「いや、ちょっと意外だと思っただけだよ。それで、退治する妖怪というのは?」
「それなんだけどね……」

 そこで禰々子の表情が曇る。草助はじっと彼女を見つめ、次の言葉を待つ。

「そいつの名は水虎。私と同じ河童の仲間よ。一応ね」
「ふうむ、同族退治とは穏やかじゃないな。なにか事情がありそうだね」
「私たち河童の一族は、人間とは長い間対立することもなく、平和に暮らしてきた。その姿勢はこれからも変えるつもりはないんだけど、水虎は違う……あいつは人間を襲って生き血をすすることがなによりの喜びなのよ。まだ表沙汰にはなっていないけど、すでに何人か犠牲になってるわ」
「そいつが今もこの街に?」
「ええ。水虎は何百年も昔に人間の手で退治されて、川のほとりの小さな祠に封じられていたんだけど、誰かが封印を解いてしまったのよ」
(封印を……まさか)

 草助の脳裏には心当たりのある相手が浮かんだが、これで決めつけるのは早計である。

「あいつを野放しにしていたら、私たち河童一族の立場も危うくなってしまう。だから最初は、私たちだけで水虎を捕まえようとしたのよ。でも……」

 禰々子は苦虫を噛み潰したような表情で、大きくため息をつく。

「ずっと封じられていたと思って甘く見たのがいけなかったわ。仲間が数人掛かりで水虎を取り押さえようとしたんだけど、逆襲を受けてしまって……」

 禰々子が言葉を濁したところへ、すずりがすかさず付け加える。

「で、結局逃げられたってわけか。河童を仕切ってるくせにだらしないね」
「それを言われると耳が痛いけど、油断できない相手よ。そうでなきゃ人間の手を借りに来たりしないもの。それで最初は八海老師の所に顔を出したんだけど、その話はあなたに頼みなさいって。ほら、ちゃんと紹介状も」

 禰々子は胸の間から折りたたんだ紙を出し、それを開いて草助に見せた。そこには確かに八海老師の達筆な署名とともに「後は任せた。しくじったら折檻じゃ」と書かれている。

(老師め……なんかだんだん投げっぱなしになってきてるよーな)

 眼鏡を光らせてニヤリと笑う八海老師の顔を思い浮かべていると、禰々子はテーブルに身を乗り出して草助の両手を取り、見事な胸元を強調しながら潤んだ瞳で草助を見る。

「とゆーわけで、お互いのためにも手を貸してほしいのよ。もちろんお礼はするわ」
「お、お礼?」
「なんなら前払いでもいいのよ?」

 やたら官能的な声色と、前かがみに強調される圧倒的質量。草助は思考停止状態になりかけ、自然とそこへ吸い寄せられそうになったが、自分の両サイドから注がれる絶対零度の視線が彼を現実に引き戻す。このまま身を任せていたら、思考どころか呼吸が止まっていたに違いない。

(……はっ!? あ、危ないところだった……!)
「だーからそれを止めろって言ってんだろ、このエロ河童!」

 すずりが両眼を吊り上げてまくし立てると、禰々子は草助から身を離してあっけらかんと笑う。

「やあね、冗談よ冗談。すずりんたら厳しいんだから」
「当たり前だっての。オマエはただでさえ目障りなモノぶら下げてんだから」
「目障りなモノ?」
「無駄にでかいその乳だよ! 嫌味かコノヤロー!」
「なあんだ、いつも私と会うとカリカリしてると思ったら、そんなの気にしてたんだ。可愛いところあるじゃない」
「うっさい!」

 今にも噛み付かんばかりにいきり立つすずりだったが、このまま喋らせておいては話が先に進まない。すずりの口を手で塞ぐと、草助は苦笑いを浮かべながら返事をした。

「と、とにかく。水虎退治は僕も手伝おう。老師に任された事もあるし、これ以上の犠牲が出るのも見たくない」
「共同戦線成立ってことね、助かるわ。それにしても――」

 禰々子は明里の隣に移動すると、つま先から頭のてっぺんまでをまじまじと見つめて言った。

「あなたってもしかして、日頃から妖怪に絡まれやすくない?」
「ど、どうしてそれを?」
「たまにいるのよね、妙に妖怪なんかを引き寄せちゃう霊力の持ち主が。そういう子は大抵真っ先に狙われて、長生きできないんだけど」
「やだ、怖いこと言わないでよ」
「あはは、ごめんなさい。でも気をつけた方がいいわね……あなた可愛いし、水虎に目を付けられてるかも」
「ええっ!? ど、どうしよう」
「大丈夫、まっかせなさい」

 禰々子はポケットから小瓶を取り出した。小瓶の先端にはノズルが付いており、透き通る緑色の液体が入っている。禰々子がそれを明里に向けて吹きかけると、辺りに瑞々しい香りが漂う。微かに青臭さが混じっているものの、おおむねメロンに似た甘い匂いである。

「これは?」
「特性の香水よ。水虎が嫌う成分を混ぜてあるから、これでしばらく安全なはずよ」

 禰々子はにっこり微笑んで明里に香水の瓶を手渡す。

「あ、ありがとう」

 明里はホッとした様子で胸をなで下ろしていたが、一方のすずりは厳しい視線を禰々子に送り続けている。

「ふん、ずいぶん気前がいいじゃん。いつから河童はそんなに景気がよくなったんだ?」
「やあね、すずりんたら。手を貸してもらうんだもの、これくらいは当然でしょ」

 禰々子はすずりの追及をさらりとかわして立ち上がると、髪を掻き上げて草助を見る。

「それから忠告しておくけど、水虎は自分の姿を見えなくする妖術を使うわ。もし先にあいつを見つけても、私たちと合流するまで手を出さないで。一筋縄じゃ行かない相手よ」
「わかった、忠告感謝するよ」
「うふふ、期待してるわ。新米魂筆使いのお兄さん」


 禰々子は唇に指を当てて投げキッスをすると、受け取ったメモを折りたたんで胸の谷間に挟み込み、髪を掻き上げて立ち上がるとそのまま一筆堂を後にした。彼女の後ろ姿を見送っていた草助の鼻には、禰々子の残り香が漂っていたが、同時にピリピリと辛い、というか痛い視線が背中に突き刺さっている。

「えーっと」

 恐る恐る振り返ると、そこには冷たい表情が張り付いたすずりと、一周して無表情の明里がいた。

「デカい乳拝めて楽しかったか草助?」

 すずりが凍えそうな目つきで呟くと、

「なーんかゴキゲンだったわよね」

 と、明里が抑揚のない声で後に続く。草助は全身からどっと嫌な汗が噴き出すのを感じながら、思わず後ずさってしまう。

「な、なんかいつもと様子が違わないか二人とも!?」
「あら。別に普通よね、すずりちゃん?」

 笑顔を作って答える明里と頷くすずりだが、眼が笑っていない。二人はその表情のままでゆっくりと草助の方に近付いて来る。

「あわわわ」

 軽く生命の危機を感じて硬直する草助の脇を通り抜け、明里は顔だけ振り向いて言った。

「どうしたのそんな顔して。さっきからヘンよ筆塚くん」

 彼女はいつも通りの顔と口調に戻っていたが、草助はその場に座り込んで大きくため息をつくのだった。




 翌日、すずりは唐突に「明里から目を離すな」と告げた。その理由を訊ねても、すずりは言われたとおりにしろと素っ気なく答えるばかりだったので、彼女の気が済むようにするしかなかった。午前中は草助も明里も大学の講義に出席して、互いに目の届く場所にいたが、講義が全て終わった午後からは、別行動になった彼女を尾行しながら見張らねばならなかった。大学近くのカフェで女友達と談笑する明里を、草助は店の外にある電柱の影からじっと眺める。念のため、草助は帽子とサングラスで簡単な変装はしてみたが、一緒にいるすずりが赤い着物姿で目立ちまくっているので、あまり意味は無かった。

「なんかこれ、ストーカーみたいで気分のいいものじゃないなあ」
「いいから黙ってな。後で草助はアタシに感謝することになるんだからね」
「はいはい、仰せのままに」

 その後しばらくは変わった様子もなく、時間は午後三時を回ろうとしていた。その場でじっとしているのも案外疲れるもので、草助は首をぐるぐると回し、天を仰いでため息をつく。すると一瞬、視界を奇妙なものが横切った。ビルとビルの合間を、透明な塊らしきものが移動したように見えたのである。例えるなら水か空気を空中の一カ所に集めて歪ませたような感じだろうか。

(なんだ今のは?)

 草助はサングラスを外してもう一度目を凝らしたが、そこには日光の降り注ぐ空が広がっているばかりで、他にはなにも見当たらない。疲れて幻でも見たのかと自分を納得させ、草助は視線を元に戻す。それから三十分ほどして、明里とその友人が喫茶店を出ると、入り口で二手に分かれ、明里は駅へと向かう。どうやらこのまま帰宅するらしく、明里が朝比奈市方面への電車に乗り、自宅に戻ったのを確かめると、草助とすずりもひとまず一筆堂に戻った。

「――なあすずり、そろそろ理由を教えてくれてもいいんじゃないか?」

 夕食を並べた食卓で、草助はテーブルを挟んで向かい合うすずりに訊ねた。

「黙って言うとおりにしなって言ったろ。焦らなくてもすぐにわかるよ」

 大きく開いた口に山盛りの白飯を掻き込み、めざしや漬け物を口に放り込んで咀嚼、味噌汁でそれらを喉の奥に流し込むという動作を繰り返しながら、すずりは面倒くさそうに返事をする。

「どういう意味だ?」
「草助、オマエは禰々子のことどう思ってんのさ」
「どうと言われても……そうだなあ、思えば最初から友好的な妖怪ってのは初めてだ。おまけに美人で驚いたよ。特にこう、胸の辺りなんて実に凄――」
「やっぱダメ。教えない」
「はあ!?」
「乳ばっかり見てるスケベにはなーんも教えてやんねー!」

 飯粒を草助の顔に飛ばしながら乱暴に言い放つと、すずりは食べることに集中して喋らなくなってしまった。草助は米粒だらけの顔を拭きながら、困った奴だと呟きながらため息をつく。やがて夕食も終わり、洗い物を片付けて一息ついているところで、草助の携帯電話が鳴る。発信相手は八海老師だった。

「どうじゃ草助、妖怪退治の方は」
「まだこれからって所ですよ」
「そうか、頑張るんじゃぞ。ところで今は家におるな?」
「はい、そうですが」
「ちょうど警察からの資料が届いたんでな、ちょっくらワシんとこに顔を出せ。ほれ、血を吸われて殺されたという仏さんらの情報と、いくつかの遺品じゃな。今度の妖怪を追うヒントになるかもしれんじゃろ」
「ありがとうございます。それじゃこれから向かいますよ」

 草助はすずりを連れ、愛車のスーパーカブを走らせて梵能寺へ向かう。十分ほどで本道の裏手にある八海老師の住居に辿り付くと、裸電球が照らす玄関から家の中に上がった。座敷では鶯色の着物を身に付けた八海老師が腰を下ろして待っており、テーブルの上には大判の紐付き茶封筒と、小さな紙袋が置いてあった。中身は透明なビニール袋で小分けされた小物などで、これが被害者の遺留品であるようだ。それらに目をやりながら八海老師と向き合って座ると、草助は訊ねる。

「警察から回ってきた資料はこれですね?」
「まずは目を通してみることじゃ」

 草助は早速、茶封筒の紐を解いて中の書類に目を通し始めた。

(犠牲者はこれまでに四人か……)

 書類には一緒に現場や遺体の写真も付いていたが、顔写真はどれも血を吸い取られて干からび、見るも無残な姿に変わり果てていた。むごい有様に顔をしかめながらも書類を読み終えると、草助は小さく息を吐いてから顔を上げた。

「どうじゃ草助、なにか手掛かりはあったかの」
「いくつか共通点が。まず、被害に遭ったのは全て若い女性ばかりですね。遺体が発見された場所は港、海岸、河川敷に用水路の脇……全て水際のようです」
「ふむ。どれも河童の縄張りじゃな」
「それからもうひとつ。警察の調べによると、被害者は亡くなる直前、いずれも異性との交友関係が乱れていたか、あるいは上手く行ってなかったらしいんですよ。みんな大なり小なり異性とのトラブルを抱えていた……これが水虎に狙われたことと関係があるのかはまだ分かりませんが」
「決め手に欠けるのう。他には?」
「資料で分かるのはこれくらいです。残りは犠牲者の遺留品くらいですが」

 言いながら草助は紙袋の中身を取り出してテーブルの上に並べ始める。大抵が女物の化粧品などで、特に手掛かりになりそうな物は見当たらないように思えた。

「これは……」

 紙袋の底にあった遺留品に驚き、草助はそれをつまみ上げてもう一度確かめた。緑色の透き通る液体が入った、見覚えのある小瓶である。試しにノズルを押してみると、やはり覚えのある香りが漂う。

「間違いない、禰々子が持ってたのと同じ物だ」
「む、どうした草助」
「この香水、僕らの所へ来た禰々子という女河童が持っていたのと同じなんですよ」
「なんじゃと?」
「ま、まさか」

 草助は事件の資料を慌てて手元にかき集め、もう一度全てに目を通していく。

「犠牲者は全員これを持っていた。そしてこの香水を売っているメーカーは存在せず、出所も不明。もしや犠牲者は、この香水を使ったせいで……」

 そこまで口にしたところで、草助は愕然とした表情で顔を上げる。

「しまった、船橋さんが危ない!」

 草助は慌てて立ち上がり、妖怪退治用の袴に着替えると、すずりを連れて矢のように梵能寺を飛び出していった。スーパーカブを全速力で走らせ向かう先は、明里の自宅である。一筆堂と明里の家はさほど離れておらず、ほぼ来た道を引き返すだけの道のりだったが、それすらももどかしく感じるほど草助は焦っていた。やっとの思いで明里の自宅前まで辿り着いた草助は、にわかに物音が聞こえた二階の窓に目を向けた。すると窓ガラスが突然割れ、部屋の中から明里が不自然な動きで飛び出してきた。

「な、なんだ!?」

 そのまま地面に叩き付けられてしまうかと思ったが、明里の身体は地面の手前でぴたりと静止し、宙に浮かんでいた。彼女は気を失っているらしく、ぐったりとしたまま動かない。明里のいる場所に異様な気配を感じた草助は、素早くスーパーカブのライトを向けて目を凝らす。

「誰だ、そこにいるのは!」

 声を張り上げながら草助はすぐに悟った。姿が見えないのは暗いからではなく、それ自体に姿が無かったからなのだ。ライトに照らされて浮かび上がった「それ」は、蜃気楼を一カ所に集めて人の形にしたような感じで、シューシューと不気味な呼吸音を発しながら草助の方を見ている様子だった。返事代わりに湿っぽい笑い声を発すると、素早く跳躍して二階建ての屋根に飛び乗り、屋根を伝って逃走を始めた。もっとも傍目には、明里が宙に浮いたまま遠ざかっていくようにしか見えないのだが。

「待て!」

 明里を連れ去った「それ」を追い、草助はスーパーカブを走らせる。明里を抱えていながらも、姿の見えない「それ」は苦もなく屋根から屋根へと飛び移り、見失わないように後を追うのは非常に骨の折れることだった。やがて明里と姿の見えない何かは、朝比奈市の中心部を流れる川へと辿り着く。

「真っ直ぐ水際に……やはりあれが!」

 明里の身体は水のある場所へと移動を続け、河川敷の土手を下って川の中心へと向かう。草助もスーパーカブから飛び降り、全力で土手を駆け下りて後を追うが、どう頑張っても間に合う距離ではなかった。

「ぐ……っ!」

 伸ばした手が空しく虚空を掻いたその時、水辺へ向かおうとしていた明里の動きが止まった。

「ケケケ、迷いもなく追い掛けてきたところを見ると、妖怪退治屋か。思ったより早く嗅ぎ付けてきやがったな」

 姿の見えないそれが声を発した次の瞬間、今まで歪んだ空気の塊にしか見えなかったものが、徐々に姿を現し始めた。背丈は一八〇センチほど、人間と同じように二本足で立っており、痩せてヒョロ長い体形をしている。手足を含めた全身は硬いウロコで覆われ、指の間には水かきがあり、鋭い爪が伸びている。顔はトカゲや亀などの爬虫類に似ており、一目で河童の類だと分かる姿だが、頭に水の入った皿などはなく、固い殻のような皮膚で覆われているだけである。

「お前が水虎だな」
「ほう、俺を知ってるとは感心な奴だな。必死こいて追い掛けてきた褒美に姿を見せてやったんだ、感謝しろよ」
「彼女を離して観念しろ、もう逃げられないぞ」
「おいおい、今のは俺の聞き間違いか? 逃げるってのは――」

 水虎が口元を歪めて薄笑いを浮かべた次の瞬間、草助は固い感触の手に喉元を掴まれて呼吸が出来なくなってしまう。それはウロコに覆われた水虎の腕だったが、草助は自分の身になにが起きたのか分からず、目を見開いた。

「――お前が選ぶ方なんじゃねえのか?」

 水虎と自分との間合いは二メートル近くは離れているのに、水虎はその場から踏み込む動作もなく草助を捕らえたのだ。自分の喉を潰そうとする腕を掴んで、草助はようやく理解する。水虎の腕が不自然なほど長く伸び、草助の所まで届いていた事を。

(しまった、こいつは腕を伸ばせるのか)

 理解はしたが状況は良くないままであった。水虎の腕はそれほど太くはないが、喉を締め付ける力は見た目からは想像できないほど強く、草助がいくら力を込めてもビクともしない。水虎はそのまま草助の身体を頭上高く持ち上げ、地面に向けて投げ飛ばした。

「うわっ!?」

 背中から地面に叩き付けられたものの、生い茂った草のおかげでいくらか緩和されたが、それでもかなりの衝撃を受けてしまった。

「なにやってんだ草助。ボケッとしてるからそうなるんだよ」

 起き上がった草助のそばでそう言い放ったのはすずりだった。

「そこの亀トカゲ野郎。大人しく明里を返しな。そしたら苦しまないように封印してやっから」
「ずいぶんでかいクチを叩くじゃねえか。どうやらお前も妖怪みたいだが」
「アタシは親切で言ってやってんだよ。痛い目見てヒーヒー言うハメになりたくなかったら言うとおりにしな」
「鼻っ柱の強いチビだ。しかし分かってねえな。俺が姿を見せる時ってのはな、獲物が干からびて死ぬ時なのさ」

 水虎は明里を左腕で抱えたまま、右腕を伸ばしてすずりを狙う。しかしすずりも素早く髪を手の形に変えてそれを弾き飛ばす。

「ふん、そんな眠っちまいそうな動きでアタシに触れると思ってんのか」
「ケッ、やるじゃねえか。って、待てよ。妖怪退治屋と赤い服のガキの姿をした妖怪……そうか、お前らがあの男の言ってた連中か」
「あの男?」
「俺を蘇らせた、黒崎とかいう物売りヤローだよ。お前らとも顔見知りなんだってなあ」
「ふん、やっぱりあいつの仕業だったのかい」

 水虎の封印が解かれたことと、妖怪が人を襲うまでの手口から、水虎の背後に黒崎の存在を疑っていたが、これで確証が得られた形になった。

「嘘か本当か知らねえが、お前をモノにすればどんな妖怪も逆らえなくなるらしいな。大人しく言う事を聞くんなら、痛い目に遭わせるのは勘弁してやってもいいんだぜ?」
「笑わせんじゃないよ三下が。出来るもんならやってみな」

 売り言葉に買い言葉の繰り返しで、すずりと水虎の間では見えない火花が派手に飛び散っている。一触即発の雰囲気に、草助も冷や汗が止まらない。

「お、おい。あんまり刺激するような事は言わないほうがいいんじゃないか?」
「バカだね、妖怪相手の会話はこうやるのが常識なのさ。ちょっとでも弱気を見せたらお終いなんだから」
「普段のお前となんら変わりない気がするのは僕の勘違いか?」
「つべこべ言ってないで構えな。仕掛けてくるよ!」

 すずりはまばゆく輝いて赤い筆に変化し、草助の右手に収まった。直後、水虎は左腕を長く伸ばしてムチのようにしならせ、鋭く尖った指先で襲い掛かった。草助も身体をひねってそれをかわしたが、水虎の腕は変幻自在に曲がって軌道が読めない。隙を見て腕を筆で払おうとしたが、水虎はそれを見越していたらしく、筆先が触れる直前に腕がグニャリと曲がり、かすめる事も出来なかった。

「おっと、その筆に触れたらヤバいんだったな。危ねえ危ねえ」

 掃除機のコードを巻き取るようにして腕を引っ込め、水虎は不敵な笑い声を漏らす。

「そうだぞ。妖怪がこの筆にやられると、そりゃもう大変なことになる。だから僕が怪我をする前に降参してくれると助かるなあ。いやすっごく助かる」
「そいつぁ残念だったな。お前らを始末する方法なんていくらでもあるんだぜ。ゲゲゲゲ……!」

 水虎が奇妙な鳴き声を発して身体を震わせると、水虎の身体から細かい水の粒子が吹き出して霧となり、辺りに立ちこめる。霧はむせ返りそうな独特の香りを含み、それを吸い込んだ途端に目眩が起き、足元がぐらぐらと大きく揺れ動く。

(どうしたんだ、急に……気分が……)

 朦朧としながら顔を上げると、周囲に無数の影が現れた。霧の中から近付いて来るそれらの姿を見た時、草助は驚愕の声を上げた。

「ふ、船橋さん!?」

 草助の周囲を取り囲むようにして現れたのは、全て明里だった。普通なら絶対にあり得ない出来事にも関わらず、草助の意識も霧がかかったようにぼんやりとしていて、状況がおかしい事を認識できなくなっていた。

「ああ、無事で良かった。とにかくここから逃げよう」

 目の前の一人の腕を掴んで駆け出そうとする草助だが、明里はその場に立ち尽くしたまま動かない。

「筆塚くんってさ……私なんかよりもっと色っぽくて、大人な女の人の方がいいのよね」
「こ、こんな時になにを言い出すんだ」
「だってそうでしょ。昨日だってあんなに嬉しそうにしてたじゃない」
「いや、今はそれどころじゃ」

 突然、伸ばした腕に鋭い痛みが走る。素早くそこに目を向けると、明里が草助の腕にナイフを突き立てていた。刃先は腕の肉と骨を突き抜けて反対側に飛び出し、先端からは先決が滴り落ちている。明里の表情は無機質だったが、瞳はどす黒い闇に塗りつぶされたように暗い色をしていた。

「うわあああああっ!?」

 明里から手を離して後ずさりした草助は、視界に飛び込んできた周囲の様子に愕然とする。自分を取り囲む明里全てが手にナイフを持ち、それを振りかざしてゆっくりと近付いて来るのだ。

「悪い人にはお仕置きしなきゃ……フフ、フフフ」
「や、やめるんだ! 君は正気じゃない、目を覚ませ!」

 いくら呼びかけても返事はなく、明里たちは薄笑いを浮かべて草助を取り囲む。

「目……そうね、次は目をくり抜いてあげる。そうすれば他の人が見えなくなるじゃない」
「じゃあ私は耳をもらおうかしら」
「私は鼻がいいわ」
「その指を全部切り落としてあげるわ」

 それぞれが違う部分を望みながら、周囲の明里たちは一斉に襲いかかった。草助の全身に次々とナイフが突き刺さり、全身から血が噴き出して足元が血溜まりとなっていく。必死に抵抗し、目の前の明里を突き飛ばす草助だったが、両手首から突然血が噴き出し、皮一枚でだらりとぶら下がる。切り口には脈動する真っ赤な肉と、染み出した血によって桜色に染まった骨が生々しく飛び出していた。

「や、やめろ、やめてくれええええええっ!」

 傷口が焼けるような痛みが両腕から駆け上り、草助はその場に両膝をついて絶叫する。苦痛と恐怖で混乱している所へ、突然顔面を殴られたようなショックが走る。わけが分からず戸惑っていると、二発、三発とその衝撃は続いた。

(目を覚ましなこのバカ!)

 ふと我に返ると、握り締めた筆の柄が伸びて草助の頬を殴りつけていた。身体や着物はどこも切り裂かれておらず、切断されたはずの両手もちゃんとくっついている。草助の心の中に、嘆息交じりのすずりの声が響いてきた。

(ったく世話が焼けるね。オマエは水虎の術にやられてたんだよ)
「はあはあ……ま、幻だったのか……しかしあの痛み、幻覚というにはあまりにも」

 耐え難い苦痛を思い出して身震いする草助に、水虎が残念そうに言った。

「ケケッ、もう正気に戻っちまいやがったのか。発狂するまでのんびり眺めてやろうと思ったのによ」

 辺りに漂う霧に混じった匂いが、血を吸われた犠牲者が持っていた香水と同じ事に気付いた草助は、ようやく水虎がどんな攻撃を仕掛けてきたのかを理解する。

「そうか、この霧がお前の幻術の正体だったんだな。あの香水もただの目印だけじゃなく、今の僕みたいに幻を見せて正気を失わせるためか」
「そうさ。幻覚エキスを抽出して売り捌くことを思いついたのは、黒崎ってヤローだけどな。人間は都合のいい話をぶら下げりゃ、疑いもせず飛びつきやがる。おかげでエサ集めには苦労しなかったぜ、クククク!」
「ゲスめ……!」
「人間様の正義感ってヤツか? だがな、お前はそのせいで死ぬことになるんだぜ」

 水虎は不敵な態度を崩さない。草助は左袖で口と鼻を押さえ、筆先を水虎に向けて言う。

「もう同じ手は食わないぞ」
「言ったろ、方法はいくらでもあるってな」

 水虎が再び奇妙な鳴き声を発すると、気を失っていた明里が目を覚ましたらしく、小さく呻き声を上げながら顔を上げた。

「気がついたのか船橋さん。早くそいつから離れるんだ!」

 草助の呼びかけに、明里はぼんやりとした表情で草助の方を見つめ、ゆっくりと身体を起こして水虎の腕から離れる。しかし奇妙なことに、明里は無言のまま水虎を一瞥すらもせず、水虎も明里が自分の腕から逃れたのに慌てる素振りを見せない。様子がおかしい事に気付いた草助は明里に何度も呼びかけるが、彼女からの返事はなかった。明里は押し黙ったまま草助の目の前に近付くと、しゃがみ込んで地面を探り始め、直径三十センチほどの石を両手で拾い、立ち上がって草助の方を向く。

「船橋さん?」

 草助が再び声をかけた次の瞬間、明里は石を頭上高く掲げ、草助めがけて振り下ろした。

「うわっ、どうしたんだ!?」
「……」

 明里は答えない。虚ろな目をして、再び草助めがけて石を振り下ろしてくる。明里がなんらかの術で水虎に操られている事は、草助もすぐに理解できることだった。

「くっ、卑怯だぞ!」

 水虎はいい見世物だと、離れた場所でニタニタと笑みを浮かべながら二人を眺めている。

「どうした、手も足も出ないか? お前みたいに甘っちょろい奴はな、仲間を助けようとしたせいで自分が死ぬハメになるんだよ」

 水虎はウロコに覆われた顔を歪め、なにかを思い出したように嗤い始めた。

「少し前にも俺を捕まえようとした連中がいたっけなあ。そいつらの一人を捕らえて盾にしてやったが、ケッサクだったぜ。仲間なんぞ気にしてくたばっていく連中のマヌケ面はよう」

 苦渋に満ちた草助の表情に気分を良くしたのか、水虎は明里の傍らに立つと、腕を伸ばして草助の喉を素早く掴み、嘲笑う。

「悔しいか? だが、お前もそうなるんだよ」

 水虎の目が血のように赤く輝いた次の瞬間、明里は抱えていた石を頭上高く掲げた。

(万事休すか――!)

 思わず目を閉じた直後、固いモノ同士がぶつかり合う鈍い音がしたが、痛みも衝撃も感じない。恐る恐る目を開けてみると、明里が振り上げた石は、水虎の脳天に振り下ろされていた。さすがの水虎も不意を突かれてダメージがあったのか、頭を抑えて片膝を付く。石は亀裂を生じて砕け散り、その衝撃の強さを物語っていた。

「ぐっ……!?」

 明里は動きを止めた水虎の背後に回り、両腕を回して首を締め上げる。突然の行動に草助は驚いたが、水虎もまた驚きを隠せない様子だった。

「こ、この馬鹿力……まさかお前!?」

 水虎が明里の腕を振り解こうとしても、彼女の腕はビクともしなかった。いくら不意を突いて首を絞めたからといって、明里が腕力で水虎に勝てる道理など有るはずがない。突然の出来事に草助も水虎も目を見張っていたが、二人の視線を向けられた明里の姿は、深緑の髪に黒い革ツナギの美しい女へと変わっていった。

「禰々子!?」
「やっと捕まえたわ。油断しきって隙を作るこの瞬間を、ずっと待ってたのよ」
「馬鹿な、俺が変化の術を見破れなかっただと……!?」

 苦し紛れに水虎が漏らした言葉だったが、草助も同じ気持ちだった。禰々子は気迫のこもった表情ながら、口の端を持ち上げて笑みを浮かべる。

「どうやら誤算だったみたいね。あんたが封じられてた間も、変化の術は磨かれてきたのよ」
「へっ、相変わらず人間に媚びてコソコソと生きてやがるのか」
「妖怪だって人間と共存しなきゃやってらんない時代なのよ」
「それで人間に助っ人を頼んだか。禰々子ともあろう者が落ちぶれたもんだな、ええ?」
「あんたと喋っていると肌が荒れそうだわ。そろそろお喋りは止めにしたいわね」

 禰々子はさらに力を込めて水虎の首をねじ上げる。そして生木が折れるような音がすると同時に、水虎の首はぐにゃりと曲がり、力なく垂れ下がった。禰々子はそれを見届けると、ゆっくり手を離す。水虎の身体は支えを失い、地面へうつぶせに倒れ込む。

「や、やったのか?」
「まだ完全に死んじゃいないわ。封印の方は任せたわよ」
「ああ、分かった……って、その前に」

 思わず納得しかけた草助だったが、大事な事を思い出して禰々子を問い詰める。

「禰々子、君は僕らを騙していたな」
「えっ、そうだっけ?」

 白々しくとぼける禰々子だが、草助はムッとしながら厳しい口調で言う。

「こんな話は聞いてなかった。それに君は水虎をおびき出すために、奴がバラ撒いていた香水を船橋さんに使ったな。彼女は無事なのか?」
「それは大丈夫。私の仲間が安全な場所に案内してるから」
「嘘じゃないだろうな?」
「やあね、今度は本当よ。誓ってもいいわ」
「そうか、無事なのか……」

 草助が肩を落とし大きなため息をつくと、筆に変化していたすずりが元の姿に戻り、眉をつり上げて禰々子に歩み寄る。

「ま、どうせこんな事だろうと思ってたけどね。久しぶりに顔見せた挨拶がこれとは、いい度胸してんじゃん」
「そんなに怒らないでよすずりん。上手く行ったしみんな無事だからいいじゃない」
「ふざけんじゃないよ!」

 空気が震えんばかりに声を張り上げるすずりに、草助はおろか禰々子も思わず硬直してしまう。

「アタシの仲間を勝手にエサに使っておいて、無事だったから良かったねで済むと思ってんのか。このツケは高く付くよ」
「う、嘘をついてたのは謝るから。それにちゃんとお礼もするし、だから許して、ねっ?」
「謝る相手が違うだろ」

 呪われそうな冷たい形相で睨むすずりに、禰々子もひたすら平謝りである。河童の頭目を相手にこれだけ強気に出られるのは、二人の過去に関係があるだろうとは思ったが、今はそれを気にしている場合ではない。地面に倒れている水虎に目をやった草助は、その身体が異様な変化を遂げていることに気付いて声を上げた。

「な、なんだ?」

 水虎の身体は甲羅や爪などの一部を残してドロドロに溶け、緑色の液状になって流れ出していた。

「おい、なんだか様子が変だぞ!」

 液体は一直線に伸び、川へと流れ込む。

「しまった、水虎が復活するわ!」

 禰々子の言うとおり、液体の流れ込んだ川から強い妖気が立ち上り、高さ四メートルほどの巨大な水柱が出現した。水柱はそびえ立ったままの位置で留まり、濁った緑色の水で出来た巨大河童へと姿を変えた。

「巨大化した……!?」

 変身した水虎を見上げ、草助は息を呑む。

「ケケケ、馬鹿どもが。俺がこの場所に来たのはただ逃げるためだと思っていたのか?」
「こうなることも計算済みか。やれやれ、知恵が回る妖怪ってのは厄介だな」
「くたばれ!」

 水虎は草助を押し潰そうと、巨大な手を振り下ろす。草助は咄嗟に飛び退いて避けたが、地面は水の重みと圧力で大きく窪んでしまっている。

「こ、こりゃ水だと思っているとえらい目に遭うぞ」
「今にその軽口も叩けなくなるぜ。お前らはここで皆殺しだ」

 巨大化した水虎をどう相手にしたものかと考えていると、禰々子が足元の石を拾い上げ、挑発的な口調で言う。

「おめでたいわね。図体が縦に伸びた程度で勝ったつもり?」
「ほう、先にお前から始末して欲しいってワケだ」

 水虎は標的を禰々子に変え、水の拳を握りしめて禰々子を殴りつけようとした。しかし禰々子は素早く身をかわし、伸びきった水虎の左肘めがけて石を投げつけた。それは目で追うことも出来ないほどの速度で、石はそのまま水虎の腕を貫通し、向こう岸にある護岸ブロックにぶつかって粉々に砕けてしまった。

「おいおい、まさかそれで終わ――」

 水虎が笑いかけた瞬間、石が貫通した部分が急激に渦を巻いて爆発した。左腕は肘から先がちぎれ飛び、水虎は呆気にとられたように無くなった左腕を眺めていた。

「な、なんじゃこりゃあ」
「水辺なら勝てるだなんて調子に乗りすぎね。あんたのやりそうな事なんて大体察しが付くのよ」

 禰々子はつま先で足元の石を蹴り上げ、素早く手に取って再び水虎に投げつける。言葉にすればただ投げているだけだが、禰々子の怪力によって石は音速に近い速度となり、さらに手首のひねりで加えた回転による衝撃も加わって、命中した物体を内側から粉砕するのである。ちょうど銃の弾丸と同じ原理なのだが、石の大きさから見積もれば、その威力は拳銃どころかちょっとした大砲並みである。石が当たった水虎の右脇腹は、大きく抉れて飛び散っていた。

「ここは河原だから、手頃な石がいくらでも転がってるわね。あんたにやられた仲間のお返しに、その身体を細切れにしてやるわ」
「おい、馬鹿な真似はよせ、話せば分か――」

 禰々子は両手一杯に石を拾い、間髪入れずに連続で投げ始めた。水虎の身体は次々に削られ、頭と両足が辛うじて残っている以外は、ほとんど穴が空いて失われた姿へと変貌していく。

「さあ、次はどこを吹っ飛ばしてやろうかしら。頭か、それとも心臓がいい?」
「ひいいいっ、た、助けてくれえぇぇぇっ」

 弱気な悲鳴を上げる水虎の顔面に、トドメとばかりに禰々子の石つぶてが直撃した。水虎の頭部は破裂音を立てて爆発し、残った水虎の身体はその場に立ち尽くしたまま動かなくなる。だが、水虎の身体から放たれる妖気は衰えるどころか、逆に強さを増していく。異変を感じた禰々子と草助を取り囲むように、四方から声が響いてきた。

「……なーんて言うと思ったか?」

 突如、草助は自分の体重が消えたような感覚に見舞われた。それを理解する間もなく草助の足元から多量の水が噴き出して大きな穴が空くと、水は蛇のように草助の身体に巻き付いて、彼を地中深くへと引きずり込んだ。

「その身体は囮だマヌケめ。俺はここら全部の水と同化できるんだぜ」

 狭く冷たいトンネルの中を引っ張られ、草助は川の中央まで引き寄せられてしまった。身体には生き物のような水が巻き付いていて身動きが取れず、口に入った砂利や泥水を吐き出すくらいしか出来ない状況である。水虎は川の水で新たな身体を作り上げ、草助を左手で握りしめている格好へと変化した。

「くそっ、僕をどうするつもりだ」
「しばらく大人しくしてろ。お前は盾として役に立ってもらうからよ」

 そう言って、水虎は血のように赤い目を河原の禰々子へと向ける。

「さて、次はお前の番だ」
「あっ、ヤバ……!」

 禰々子の四方からは、地面から吹き出す無数の水柱が迫っていた。最初のうちは禰々子も素早く攻撃をかわしながら石つぶてで反撃していたが、いくら水柱を破壊しても次々に溢れてくるばかりで、水虎自体にはなんの影響も無い様子であった。そしてとうとう周囲を囲まれた禰々子は、前後左右からムチのようにしなる水柱の打撃を次々に受け、数メートルも吹き飛ばされ地面に叩き付けられていた。

「情けないザマだな。さっきまでの威勢はどうしたんだ?」
「うぐっ……やっぱりどう考えてもあり得ない。こんな水神並みの術を使えば、並の河童ならすぐに妖力が尽きてしまうはずなのに」
「この妖力はな、あの男と契約して手に入れたのさ」
「契約ですって?」
「詳しい目的は知らないが、あの黒崎って男は人間の魂を欲しがっていてな。俺は力をもらう見返りに、人間から抜き取った魂を奴に渡す……とまあ、こういう取引ってわけだ」
「そう、ご丁寧な説明で痛み入りますこと。だけどそんな話をベラベラ喋ってもいいのかしらねえ?」
「問題ねえさ。なぜならお前らはここで始末され、誰かに喋る心配は無くなるからだ」
「ふんっ、他人にもらった妖力で威張ってるような三流に、この禰々子さんがやれると思ってるのかい」
「俺を見くびるんじゃねえぞ。もっと力を蓄えたらあの男も始末して、俺は妖怪を越えた存在になってやる。いつまでも人間との仲良しごっこを続けてるお前らとは違うんだよ!」

 水虎は這いつくばる禰々子の背中を何度も踏みつけるようにして、さらに続けた。

「どうした、手も足も出ないのか? カビ臭ぇ義理なんぞ後生大事にしてるから、こんな目に遭うんだぜ禰々子」

 その言葉を聞いた瞬間、禰々子の眼の色が変わった事を、水虎はまだ気付いていなかった。

「……おだまり。それ以上臭い息を吐いて喋るんじゃないよ」

 禰々子は手足に力を込め、背中を踏みつけようとする水柱を押しのけて立ち上がった。身体は所々に傷を負っているものの、彼女の瞳に宿る闘志はますます燃え上がっている。

「やっぱりあんたとは考えが合いそうもないようだね」
「ケケッ、人間風に言えば見解の相違って奴だな。で、これからどうするんだ?」
「決まってるでしょ。私の視界にいるクズ野郎をぶっ殺すのよ」
「ほう、どうやってぶっ殺すのか教えてもらおうじゃねえか」

 ざわっ、と禰々子の髪が浮き上がったかと思うと、彼女の身体から強い妖気が吹き出した。少し離れた草助でさえ、肌に電流を流されたような刺激を感じるほどで、禰々子の肌は緑色に変わり、背中を覆う甲羅が現れ、手足には水かきと鋭い爪が現れた。瞳は月のように黄色く光り、縦に裂けた瞳孔が水に乗り移った水虎を睨み付けていた。


「ナメんじゃないよ、一族のツラ汚しが!」
「ここでお前を殺したら、残った手下どもはツラ汚しの俺が奴隷としてこき使ってやるよ。安心してくたばりな、ギャハハハハハ!」

 水虎の笑い声と共に、再び無数の水柱が禰々子を襲う。さっきと同じ一方的な展開になるかと思われたが、今度は違っていた。禰々子は自分に迫る水柱を力任せに殴って破壊していくと、最期に残った水柱にがっちり指を食い込ませた。水虎はその部分を切り離して逃れようとしたが、禰々子の指からは妖力が送り込まれ、水は水虎の思い通りに操ることが出来なかった。そして次の瞬間、禰々子は大きく息を吸い込んで叫ぶ。

「でやあああああああっ!」

 気合い一閃、彼女が掴んだ水柱を引っ張ると、水虎の下半身から根っこのように張り巡らされた水が、地面ごと引きずり出された。下半身を引っ張られた水虎は、大きくバランスを失って転倒する。

「バカな、水が切り離せねえっ。お前まさか、俺と逆の術を……!?」

 禰々子もまた水を代表する妖怪の一人である。その一族を束ねる頭となれば、水虎同様に水を操る術の心得があって然るべきであったのだ。彼女のそれは水と同化するのではなく、触れた水を「固定する」という術であった。禰々子は水を引っ張って自分の数倍以上もある水虎の本体をたぐり寄せると、体格からは想像も出来ない怪力で頭上に持ち上げた。

「水の扱いが得意なのはあんただけじゃないんだよ。木っ端妖怪ならいざ知らず、私相手に小細工なんて通用しないわ。仲間さえ人質に取られていなきゃ、あんたごときに遅れを取る禰々子さんじゃないんだよ」

 禰々子は力任せに水虎を河原に叩き付け、そのまま水虎を押さえ付けて馬乗りになると、鋭い爪で草助を握りしめている左腕を切断した。水虎の身体から切り離され、腕がただの水になって流れ落ちて草助が解放されたのを見届けると、今度はやたらに水虎を殴りつけ始めた。禰々子の怪力で殴られた水の身体は、次々に飛び散ってみるみる縮んでいく。

「すまない、助かったよ」
「いいのよ。それよりトドメを刺すのを手伝ってくれる?」

 禰々子は水虎を殴りつけながら答えるが、その言葉を聞いた水虎は大声で笑い始めた。

「バカな奴だ。水の身体をいくら殴られようが刻まれようが、俺は痛くも痒くもねえ。だが――」

 水虎が呟いた瞬間、禰々子の脇腹から背中に向かって細長いものが貫いた。それはさらに複数現れ、禰々子の胸や肩を次々に貫いていく。

「お前の身体はどうだ? 風穴だらけにされても涼しい顔でいられるか?」
「ごふ……っ!?」

 貫かれた場所からは血が噴き出し、禰々子は苦痛の呻き声を上げた。なにが起きたか分からなかったが、とにかく禰々子を救出しようと踏み出した草助は、強い殺気が自分に向けられているのを感じて反射的に身を横に逸らす。それとほぼ同時に、草助のこめかみを素早くかすめるものがあり、千切れた髪の毛が草助の視界に舞う。

「っ……!」

 草助には水虎がどんな攻撃をしたのかまるで見えなかった。ただ冷たいものを感じてこめかみに手を当ててみると、手のひらには水が滴っていた。

「チッ、俺の水弾(みずはじき)を避けやがるとは、ムカつく野郎だ」
「き、聞いたことがあるぞ。水はものすごい圧力をかけて吹き出せば岩をも貫くとか……お前が彼女に浴びせたのもこれか!」
「そうさ。お前も風通しを良くしてみるか?」

 水虎は草助の足元に、わざと狙いを外した水弾を撃ち込む。限界まで圧縮された水は一直線の槍のようになり、地面に突き刺さって弾け飛んだ。水弾が命中した場所は綺麗な円形にくり抜かれ、その場にあった石ころも滑らかに切断されてしまっていた。

「じょ、冗談じゃないぞ。こんな技とまともにやり合ったら、身体が穴あきチーズになってしまう。ここは一旦退いて体勢を立て直したほうが……」
「ダメよ! ここで逃がしたら、こいつは二度と正体を晒さないわ。今ケリを付けなくちゃ。それに私の術は、水から手を離したら長持ちしないのよ」
「しかしその傷じゃ無茶だ!」
「へ、平気よ。妖怪は人間と違って、そんなにヤワに出来ちゃいないんだから」

 禰々子は深手を負いながらも水虎を押さえ続け、そこから離れようとしない。草助が彼女を止めようと腕を伸ばすと、新たな水弾が禰々子の腹部を貫く。口から血を吐いて苦悶の表情を浮かべる禰々子を見上げながら、水虎は粘っこい笑いを含みながら言う。

「おいおい禰々子、そこの小僧の言うとおりにした方が賢明ってもんだぜ。大人しく降参して俺の従順な下僕になるってんなら、妾として可愛がってやってもいいがな、ケケケ」
「冗談は顔だけにして欲しいわね。私はあんたみたいなタイプが一番嫌いなのよ」
「ふん、口の減らないアマだ。女はもう少し大人しくしてるべきだな」

 水虎は続けざま二、三発の水弾を禰々子に撃ち込む。禰々子の身体から溢れるおびただしい血は、水虎の身体を赤く染めていく。

「妖怪の血なんて美味くもねえが、その血を全部搾り取ってやろうか」

 滴る血を浴びて、水虎の身体はますます赤く染まっていく。

「がはっ……は、早くっ。私もあんまり長持ちしそうもないよ」
「こ、こうなりゃ一か八かだ!」

 草助は自分に水弾を撃ち込まれないよう祈りつつ駆け出した。水虎は草助も仕留めようと動きを見せたが、禰々子が草助との間に身体を滑り込ませるように移動し、身代わりになって身体に穴を開けられてしまっていた。禰々子の助けもあり、草助はどうにか倒れた水虎の胴体に近付き、筆で横薙ぎに払う。だが水虎の身体に触れはしたものの、それ以外のなんの変化も起こらない。

「おかしい、効いてないぞ」
(水をいくら切っても無駄だよ。水を操ってるアイツの妖気を狙わなきゃ)

 すずりの声が頭に響くが、草助は困惑する。

「妖気を狙うったって、こいつの気配は水全体から出ているし、その部分が見えないんじゃどうしようもないじゃないか」
(大丈夫、ちょうどいい方法を思いついたんだ。もう一度、アタシの筆先を水虎にくっつけな)

 すずりの目的はよく分からなかったが、今はそれに従うより他にない。草助は言われたとおり、水虎の身体に筆先を当てる。すると水に混じった禰々子の血が集まり、筆先へと吸い込まれていく。

「無駄だ無駄だ。たとえ妖怪退治の筆だろうと、水で出来た身体は倒せまい」
「そうかな。やってみなきゃ分からないさ」

 さらに水虎の身体を薙ぎ払ったその時、今度は筆先から真っ黒な液体が水の中に染み出した。水に墨汁を垂らしたのと同じように、黒い液体は水虎の身体に広がっていく。全体を染めるには量が足りなかったが、それらは水の中に張り巡らされた神経のようなものに染みこんで、その姿を浮き彫りにさせた。禰々子が押さえ付けている水虎の中心部、つまり心臓に当たる部分にはひときわ大きな黒い塊があり、そこから四方に黒い筋が伸びて、水の身体を形作っているのが見て取れる。それこそが水虎という妖怪の「真の形」なのだと草助もすぐに確信した。

「見える、水虎の姿が見えるぞ」
(一旦吸い取った禰々子の血を、アタシの力で妖気だけに反応するよう細工して送り返してやったのさ。さあ草助、気合入れなよ。仕留め損ねたら次は無いよ!)
「わかってる!」

 草助は禰々子が踏ん張っている場所まで駆け上ると、全霊力を筆先に集中させ、彼女の真下に広がる黒い塊めがけて筆を振り払った。その一瞬、爆発的に膨れ上がった草助の霊力は、禰々子でさえも目を見張るほどの波動を放っていた。

「でえええいっ!」
「ぎゃあああああっ!?」

 その途端、水虎の悲鳴が聞こえ、妖力によって集められていた水は支えを失ったように地面に落ち、流れて消えていく。残ったのは黒く色づいた塊のみで、次第にそれはうずくまった一匹の河童へと戻っていく。紛れもなく水虎の本体そのものだった。

「ぐおおおおっ、バカな!? 溶ける、俺の妖力だけが溶けていく……ちくしょう、これが魂筆の力って奴かっ」
「お前の負けだ水虎。観念するんだな」
「た、頼む、見逃してくれ。そうだ、俺と手を組まないか? 俺とお前の能力があれば敵無しだぜ。なんだって欲しいまま、好きなように出来るんだぜ、なっ?」

 手足の溶けかかった水虎は必死に懇願するが、草助は傷だらけになった禰々子に視線を移した後、水虎を睨み付けてきっぱりと言い放つ。

「お前は最低な奴だ。自分より弱い相手しか狙わない。しかも姿を隠し、相手の弱みに付け込まなければそれも出来ないんだ。そんな妖怪と仲間になるなんて考えたくもないな」
「お、おのれぇぇぇっ、こうなったら貴様だけでも道連れに――!」

 水虎は牙を剥き出しにし、残った上半身だけで草助に飛び掛かる。だが草助に届くすんでのところで、禰々子の手が横から飛び出し、水虎の頭をわし掴みにした。

「最後の最後まで見苦しい奴ね。目障りだからさっさと消えてちょうだい」

 力任せに地面に叩き付けられ、鈍い音と共に水虎の頭部は砕けた。やがて全てが黒い墨となって溶けると、すずりの筆先に吸い込まれていった。

「よし、あとは水虎を絵に封じてしまえば完了だな」
「やれやれ、ようやく片付いたわね」

 言うなり、禰々子は力尽きたようにその場で膝を付く。草助が慌てて肩を貸して支えてやると、禰々子は弱々しく笑って見せた。

「ひどい傷だが本当に大丈夫なのか?」
「じ、実は結構キツかったりして」
「しかしまあ、なぜあんな無茶を」
「水虎が私の大事なものを侮辱したからよ」
「それは?」
「仲間の命と、それから」

 禰々子は遠い目をして、懐かしむように小さく呟く。

「約束よ。ずっと昔の」
「……約束、か」
「ちょっと疲れたわ。仲間に迎えに来させるから、少し待ってて」

 禰々子は黒い革のツナギを着た人間の姿に戻る――むしろこっちが「化けている」と言えるのだが――と、胸の谷間からカエルの形をあしらった携帯電話を取り出し、仲間と思われる相手に短く用件を伝えて通話を切る。禰々子が再び胸の間にそれをしまうのを見て、草助は難しい表情で訊ねた。

「こないだも思ったが、一体どこに物をしまってるんだ?」
「ああ、これは単なるポーズよ。本当は自由にモノを出したり引っ込めたり出来るんだけどね。ほら、こんな風に」

 と言って、禰々子はしまったばかりの携帯電話を手のひらに出現させ、手品のように消してみせる。

「だけど人前じゃ怪しまれちゃうからね。それっぽく見せなきゃ」
「な、なるほど」

 妙に納得してしまう草助だったが、突然後頭部にゴツンと衝撃が走る。

「乳ばっかり見てんじゃないよこのスケベ!」

 振り返れば、ここ最近は膨れっ面が直らないすずりがゲンコツ握り締めて仁王立ちである。草助は後頭部をさすりつつ、すずりにデコピンをお返しする。

「いでっ!? なにすんだコラァ!」
「そりゃこっちの台詞だ。人の頭をポカポカ殴るんじゃない」
「ふん、まーた鼻の下伸ばしてたの、明里に言ってやるもんね」
「なっ、なにいっ、卑怯だぞ!」
「ケーッケケケ、アタシを怒らせた罪は重いのさっ」

 二人が他愛も無い喧嘩をしているうちに、土手の上を通る道路に真っ黒な高級車が現れた。禰々子はそれを見て、迎えが来たと草助たちに告げた。土手を登って車に近寄ると、黒いスーツの大男が待っていた。厳つい顔の強面で、サラリーマンよりも構成員と呼ぶ方が違和感がない風貌である。車には他に誰も乗っていないところを見ると、どうやら彼が運転手らしく、やはり彼も人間に化けた河童の一人だと禰々子は言った。運転手は終始無言だったが、禰々子が合図をすると静かに頷き、車のトランクを開けて一抱えの壷を持ち、禰々子の足元に置いた。

「これは?」
「傷の手当てよ。あ、少しの間後ろ向いててくれるかしら」

 禰々子に言われるまま草助は背を向ける。草助の背後では禰々子がツナギの上半分を脱ぎ、身体の所々に空いた傷口に壷の中身を塗り始めていた。背中越しに聞こえる物音が気になって振り向きたい草助だったが、目の前ではすずりが「振り向いたらぶっ殺」と言わんばかりの般若面だったので、涙を呑んで耐えた。しばらくして禰々子が「もういいわよ」と言うので振り返ると、ちょうどへその辺りまで降りていたファスナーを引き上げている所だった。

「おおおっ」

 思わず肌に見とれそうになるのは男の悲しい性である。が、すぐに草助は禰々子の傷が綺麗さっぱり消えていることに気付いて驚いた。

「あれっ、傷が消えてる」
「どう、驚いた? これが河童一族に伝わる秘薬の力よ。そうね、ちょっと試してみるといいわ」

 そう言って禰々子は草助の手を取ると、反対の手で人差し指を立て、素早く爪で斬りつけた。草助の皮膚は五センチほど裂け、痛みで思わず腕を引っ込める。

「痛ッ、なにをするんだ」
「その傷にこの薬を塗ると」

 禰々子は壷に入った薬を指ですくい、草助の傷口に塗りつけた。薬は黄金色でトロ味があり、一見すると蜂蜜によく似ている。薬が傷口に染みこむと、裂けた皮膚はみるみるうちにくっついて、綺麗さっぱり消えてしまった。もちろん痛みもない。

「す、すごい。元通りになった」
「でしょ。さすがにあんまりひどい傷だと時間がかかっちゃうし、死んじゃったらもう治せないけどね。私たちの間でも貴重品なのよ」
「うーむ、大したもんだ」
「さて、手当も終わったところで帰りましょ。明里ちゃんも待ってるしね」

 禰々子に促され、草助とすずりは車に乗り込む。大柄な運転手は終始無言のまま、禰々子の言う通りに車を走らせた。




 高級車が辿り着いた先は梵能寺であった。本堂の裏にある八海老師の自宅を訪れると、座敷に置いた丸いちゃぶ台を挟んで、八海老師と明里がのんびりお茶を飲んでいる所だった。

「あら、筆塚くん」

 明里は口を付けていた湯飲みを置いて、普段通りの明るい口調である。

「ど、どうして君がここに?」
「夕方おうちに帰ってすぐ、八海老師の使いだって人たちが来て、今夜は不吉な相が出てるからお祓い受けて行きなさいって。筆塚くんたちの方はなにかあったの?」
「……いや、もう終わったよ」

 安堵混じりのため息をついて肩を落とす草助の後ろから、薬の壷を抱えた禰々子が顔を出す。

「こんばんは。おかげさまでこっちは上手く片付いたわ」
「おお、そうかそうか。どうじゃ、草助は使いモノになったかの?」
「ええ、思ったよりずっと立派なモノ(霊力)を持ってたわ。それに大人しそうに見えて、案外積極的だったし。ねっ」

 大いなる誤解を招くような発言と共に、禰々子は草助の腕にしがみついてあからさまに胸を押しつける。その途端、明里の氷点下の視線が容赦無く草助に突き刺さる。

「ふーん、私のいないところでずいぶん仲良くやってたみたいね」
「いや、違っ……誤解だッ、これは誤解なんだッ! た、助けてくれすずり、僕が潔白だと証言してくれぇぇっ!」

 苦し紛れにすずりにすがりつく草助だったが、彼はこの直後、それが大いなる間違いだったと思い知るハメになるのである。

「禰々子の裸で鼻息荒くしてたのは誰だっけ……なあ草助?」
「すずりッ! 裏切ったなすずり!」

 炎に包まれて墜落する飛行機に乗ったような気分になりながら、草助は絶叫する。

「ふふん、デカ乳河童に鼻の下を伸ばす草助がいけないのだよ。いーっだ!」

 もはや退路は断たれた。心の中でお通夜のお経が鳴り響くのを聞きながら、草助の意識は真っ白になっていくのだった。


 一騒ぎが落ち着いた後、草助を始め全員が畳に正座をして顔を付き合わせていた。水虎を描いた絵巻物を八海老師に差し出す草助の頬には、真っ赤な紅葉模様が張り付いている。彼の隣には明里が同じく正座をして座っているが、ツンとそっぽを向いて草助とは目を合わせようとしない。

「――というわけで、水虎はこの通り封じました。それと水虎から得た情報では、奴を蘇らせたのは、輪入道を蘇らせたのと同じ、黒崎という人物に間違いないようです」
「そうか。黒崎め、まるでワシらなど眼中にないかのように事を進めておるようじゃな。こっちも本腰を入れて奴を追う必要があるのう」
「はい。放っておいたら、またどんな妖怪を呼び覚ますか」
「ともあれ今回はよくやった。水虎は厄介な術と性質を持つ妖怪じゃからの。多少の不安はあったが」
「ありがとうございます。でも禰々子の協力があったからですよ。嘘をつかれて船橋さんが危ない目に遭ったりもしましたけどね……」
「ふむ。禰々子がお主らに嘘をついたのは感心できんが、その件は草助にも責任があろう」
「えっ、僕にですか?」
「道徳や価値観は個人の性格や立場によってそれぞれ違う。同じ人間同士でもそうなのじゃから、妖怪相手なら尚更じゃ。禰々子らは人間に対して友好的な連中ではあるが、お前はそれを確かめもせずに信用したであろう。仮に禰々子らが悪の妖怪であったなら、お嬢ちゃんは今頃生きてここにおらんかったかもしれん。それを騙した方が悪いで済むと思っておるのか」
「そ、それは……申し訳ありません。老師の知り合いだと言うから、てっきり味方だと」
「まあよい。今回の事はよく肝に銘じておくことじゃな。真実を見極めなければ生き残ることはできんぞ。妖怪を相手にするとはそういう事じゃ」
「はい」

 草助の返事を聞き届けると、八海老師は真ん丸眼鏡を指で直しつつ、禰々子に視線を移して問いかけた。

「さて。お主の評価はどうなんじゃ禰々子よ」
「そうね。まだ荒削りだけど光るモノがあるわ。なかなかイイ線いってるかも」
「うむ。ならば古来よりの作法に従い、宣誓を」

 禰々子は立ち上がり、草助に視線を送りながら、良く通る声で述べた。

「私、禰々子とその眷属は、筆塚草助を新しい魂筆使いと認める。我が仇敵である水虎を仕留めてくれた礼として、河童の傷薬と助力を与えることを誓う」

 八海老師は禰々子と草助を交互に見て、確と頷く。

「これで草助には味方が増えたというわけじゃな。今後も修行に励み、互いの名に傷が付かぬように精進するんじゃぞ」
「は、はい。禰々子もこれからよろしく頼むよ」

 草助も立ち上がり、右手を差し出す。禰々子は両手で草助の手を握り返すと、微笑を浮かべて懐かしげに言った。

「あなたを見てると草一郎を思い出すわね。性格は全然違うけど、同じ血が流れてるのがよく分かるもの。初めて見た時、少し驚いちゃったわよ」
「爺ちゃんを知ってるのか!?」
「当然。ここらに住んでて草一郎のことを知らない妖怪はいないわよ。彼は私たちの恩人だもの」
「爺ちゃんが恩人……?」
「あら、草一郎のことよく知らないの?」
「爺ちゃんは僕が小さい頃に死んでしまったし、妖怪退治のことは何も……」
「そう。じゃあそのうち昔話でもしてあげるわね」

 懐かしげな眼差しで草助を見ながら、禰々子はゆっくり手を離す。これで用件も片付いたと立ち去ろうとする禰々子を八海老師が呼び止め、彼女の前に近付く。

「禰々子よ」
「あら、なにかしら?」

 言うなり八海老師は、人差し指で禰々子の胸を押す。むにゅんと揺れる手応えに、彼は眼鏡をキラリと光らせる。

「相変わらず見事なボインボインのたゆんたゆんじゃの」
「やあねもう、はっちゃんたらっ」

 照れながら禰々子が八海老師を突き飛ばすと、八海老師はものすごい勢いで家の壁に激突してめり込んでしまった。

「ここじゃ他の子が見てるからダ・メ・よ」
「ぬうう、怪力も相変わらず……じゃな……」

 そう言い残し、八海老師はかくんと首を垂れて力尽きてしまった。

「また今度、忙しくない時にゆっくりお酒でも飲みましょ。じゃあね、バイバイ」

 禰々子は投げキッスをすると、綺麗な形のお尻を揺らしながら帰って行った。それを赤面しながら見送る草助と明里の横で、煎餅をバリバリと噛み砕きながらすずりが吐き捨てた。

「だーからああいう所が嫌いなんだよ。ったく、無意味に色気をブチまけやがって」
「しかし妖怪の協力が得られるようになるとは思わなかった。八海老師は以前から禰々子とは付き合いがあったようだし、まだまだ僕の知らない事だらけだな……」

 草助が呟くと、すずりが新しい煎餅をかじりつつ答える。

「蛇の道は蛇、妖怪の道は妖怪ってコトだよ。人間も妖怪も、昔からそうやってお互い協力したり利用し合ったりして生きてるんだ」
「利用、か。それだと用済みになったら切り捨てられてしまうかもしれないな」

 草助の脳裏には、輪入道の誘惑に負けて取り込まれ、利用された挙げ句に哀れな末路を迎えた男の最期が思い出されていた。

「禰々子が裏切るかも知れないって心配してんの?」
「確かに今回は力を合わせたけど、僕はまだ彼女のことをよく知らない。それは禰々子だって同じはずだ」
「安心しな。禰々子は簡単に手のひらを返すような奴じゃないよ」
「どうしてそう言い切れる?」
「アイツの義理堅さはよーく知ってるからね。もう何百年も昔の約束を、禰々子は今もずっと守り続けてるんだから」
「そう言えばさっきもそんな事を言ってたな。いったい何を約束したんだ?」
「昔のアイツは水虎も真っ青なくらいなワルでね、手が付けられないほど派手に暴れ回ってたんだよ。だけど人間に捕まって、もう二度と悪さをしないって約束で見逃してもらったのさ。それ以来、禰々子が人間に手を出したなんて話は聞いた事がないね」
「そうだったのか」
「いいかい草助、よく憶えておきな。妖怪にとって約束ってのは、人間が考えてるよりずっと重いモノなんだよ。だから出来もしない約束を軽々しく口にするんじゃないよ」
「あ、ああ、分かったよ」

 禰々子の誓いを疑ったことを恥ずかしく思うと共に、草助は一日を思い返す。やけに疲れた原因を辿ってみれば、往々にして禰々子が原因だったりするのだが。急に身体が重くなったような気分に見舞われている草助に、それまで黙って正座をしていた明里が立ち上がり、真っ直ぐに草助を見ながら口を開いた。

「ね、ねえ筆塚くん。ちょっと聞いていい?」
「あ、ああ」
「筆塚くんって、禰々子さんみたいなタイプが好みなの?」

 予想の斜め上をいく質問に、草助は思わず仰け反ってしまう。明里の横ではすずりが興味のないふりをしながら、思いっきり聞き耳を立てているではないか。言葉に詰まりながらも、草助はやっとの思いで返事をする。

「い、いや。美人だとは思うけど、特に好きなタイプというわけでは」

 そもそも禰々子は妖怪である。が、それは彼女らにとって大した問題ではないらしい。

「じゃあどういう人が好みなの?」
「いっ!? それって答えなきゃダメなのかい?」
「うん、聞きたい。ねえねえ、どうなのよう」
「え、えーっと……」

 うかつな返事をすれば再び地雷を踏みかねない。ここでハズレを引けば、更なる修羅場が待っていること必至である。草助は全身から嫌な汗を滲ませつつ、慎重に言葉を選ぶ。

「一緒にいて疲れない人、かな。あはは、はははは……」
「ふ、ふーん。そうなんだ」

 明里の反応を見る限り、どうやら最悪のパターンは回避できたようである。表情を引きつらせて硬直する草助をよそに、すずりがニヤニヤしながら明里を肘でつつく。

「おっ、なんか嬉しそうじゃん明里ぃ。どうしてかなー?」
「や、やだもう、すずりちゃんたら。そんな事ないってば」
「草助の好みを聞いてどうするつもりだったのかなー? んんー?」
「だから違うってばー」

 じゃれ合う明里とすずりを眺めつつ、草助は命拾いをしたと盛大に胸をなで下ろす。この世に形の定まらぬ物は数有れど、女心の掴み所の無さを彼は骨身に染みて味わうのであった。




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