魂筆使い草助

第六話
〜輪入道〜



 矢野譲二はスピードに魅入られていた。朝比奈市内の高校を卒業して近場の工場に就職するとすぐ、三百万円ほどのスポーツカーをローンで買った。彼は週末になるとサーキットや高速道路に繰り出していたが、無謀な運転をしては事故を起こし、その度に車を乗り換えるという事を繰り返していた。始めの頃は車両保険や、無断で持ち出した実家の蓄えを車購入の費用に充てていたが、頻繁に事故を繰り返したため、実家からは勘当同然に追い出され、車両保険も受け取る事が出来なくなってしまった。工場で働いて得た金も、全てローンの返済で消え、彼の手元にはいつも僅かな金額しか残らない有様であった。

「くそ……クルマさえあれば、レースで優勝して借金なんかすぐチャラにしてやるのによ」

 矢野は焦っていた。金回りの苦しさと車に乗れない日々に嫌気が差した彼は、ついにヤミ金融に手を出して資金を手に入れた。次に買う車は決まっていた。
 日産スカイラインGT-R。国産車では公道最速と呼ばれたスポーツカーであった。
 黒いボディカラーのスカイラインは、その名に恥じぬ圧倒的なパワーとスピードを持ち、矢野はその素晴らしい性能にたちまち魅了されてしまった。同じ車好きの仲間にも自慢して回ったが、高揚した気分は収まらない。一晩中走り回って夜が明けると、矢野は朝比奈市の外れにあるパーキングエリアにGT-Rを止め、運転席で一人考え込んでいたが、しばらくすると助手席のダッシュボードから一枚の写真を取り出した。写真はさほど古くはないが、何度も触れたせいか、指の汚れが多く付着して端の方が黒ずんでいる。写真には高校のブレザーを着た矢野とクラスメイト、そして中央には明るい笑顔の女生徒が写っていた。女生徒は顔立ちもスタイルも抜群の美少女で、ちょっとしたアイドルだと言っても通用するくらいである。女生徒はカメラに向かってピースサインをし、矢野は彼女を目で追うように見つめていた。



「そうだ……今ならあいつも俺を見直すに違いねえ。へへ、待ってろよ」

 写真を助手席に放り出し、矢野はGT-Rのアクセルを踏んで急発進させ、朝比奈市の方角へと走り去っていった。




 朝比奈市の中央通りを、ボサボサ頭に青いジーンズと白いワイシャツ姿のさえない男と、ハンチング帽に白いブラウス、タイトなデニムパンツを身に着けた、育ちの良さそうな顔をした若い女が並んで歩いていた。草助と明里である。二人のすぐ目の前には、手に持ったソフトクリームを舐めながら、筆のような後ろ髪をぴょこぴょこと揺らして歩く、赤い着物の少女すずりがいる。彼女は一見すると普通の子供だが、その正体は妖怪退治に絶大な効力を発揮する筆へと化身する妖怪なのである。

「んっふっふ、やっと手に入れたわよ」

 明里は胸を躍らせながら、真新しい自動車の免許証を青空に向かって掲げた。免許証に貼り付けてある顔写真は当然、彼女のものである。免許証を空にかざすだけの何気ないポーズであっても、発育の良い身体のラインと、春の日差しを浴びて輝く笑顔は、通りすがりの男性の視線を集めてしまうほどである。

「私ってば偉い」
「へえ、船橋さんも自動車の免許取ったのか。おめでとう」
「苦労したんだから。路上じゃトラックにぶつかりそうになったり、それに教習所の教官がセクハラしてきたり……」
「セ、セクハラだって?」
「うん、最初に当たった人が評判の悪い人でさ、ジロジロ見てきたり、わざと触ろうとしてきたり。実際に触られた子もいたのよ」
「なんて奴だ。許せないな」

 草助が腕を組んで憤りを顕わにすると、明里はそれを見てニヤニヤしながら訊ねた。

「あっ、心配してくれるんだ?」
「そ、そりゃあ当然じゃないか。まったくけしからん」
「ふふ、大丈夫。他にも同じ目に遭った女の子たちとも相談して、教習所のえらい人に直談判してクビにしてもらったから」
「それはまた……ま、自業自得か」
「そうよ、悪い事すると罰が当たっちゃうんだから。でも、免許も取れた事だし、これで少しは私も役に立てそうかな」

 自動車の運転免許は身分証として便利なこともあるが、それ以上に車を運転できるようになるという事は、彼女にとって妖怪退治の助手を本格的に始められるという意味があった。明里が上機嫌なのは結構だが、草助は少々複雑な気分でもあった。
 それから他愛もない雑談をしながら草助たちが歩いていると、けたたましい排気音と共に一台の黒いスポーツカーが近付いてきた。スポーツカーは草助たちのすぐ近くで乱暴に停車すると、車の中から一人の男が姿を現した。オールバックの髪型に痩せた体格、骨張った顔立ちで目つきの悪い人物だった。

「よう、やっと見つけたぜ。久しぶりだな明里」

 胸元をはだけさせたシャツと黒いズボンを身に着け、スニーカーのかかとを踏み潰したまま履いている。お世辞にもセンスが良いとは言えない格好だ。男は陰気な笑みを浮かべ、近くの街路樹に片手をついて行く手を遮るようにしながらそう言ったのである。

「……えーっと?」

 明里が首を傾げて考え込む仕草をすると、男は手を滑らせて街路樹に頭からぶつかった。

「俺だよ俺。同じ高校だった矢野だっつーの」

 男が名乗ったのを聞いて、明里は思いだしたようにポンと手を叩く。

「もしかして高校生の時に同じ学年だった矢野くん?」
「だからそう言ってるだろーが」
「久しぶりね。高校卒業して以来かしら」
「相変わらずとぼけてるな。お前は俺を忘れてたみてーだが、俺はお前を忘れた事はなかったぜ」
「あはは、そうなんだ。ありがと」

 明里が言葉を濁しつつ視線を逸らしたのを、隣で立っている草助は見逃さない。矢野と名乗る男は自分の背後にある車を指差し、自慢げに言う。

「ところで見ろよ俺の車。スカイラインGT-R。パワーもスピードもぶっちぎりのマシンだぜ。欠点があるとすればガソリンを食いまくるって事ぐらいだが、こいつに勝てるクルマなんていやしねえ」
「へえ、そうなんだ」
「イカスだろ? これからドライブに行こうぜ。助手席は空けてあるんだ」
「うーん、今はちょっと無理かなあ」

 そこで矢野は、ようやく草助の方に目を向ける。矢野は草助をジロジロ眺めた後、なぜか勝ち誇ったような笑みを口元に浮かべて鼻で笑う。

「おいおい、まさかそいつが今の彼氏とか言うんじゃないだろうな?」
「ち、違うわよ。筆塚くんとは大学の友達で、授業で使う画材を買いに行くところなの」
「じゃあ俺が店まで送ってやるから乗れよ」
「すぐ近くだから平気よ」

 矢野は眉をひそめ、忌々しげに舌打ちし、しばらくブツブツと独り言を呟いていたが、やがて顔を上げて明里に近づき、

「そういう所は変わってねえな。クルマだけじゃ不満だって言うんだろ。じゃあ見てろ、GT-Rでレースに参加して、ぶっちぎりの優勝を飾ってやる。そしたら俺の車に乗れよ、いいな!」

 矢野は明里に一枚のメモ用紙を握らせると、クルマに乗り込んで騒々しく走り去っていった。その様子を明里も草助も、ぽかんと見つめていたが、ずっとソフトクリームを舐めていたすずりがぽつりと呟いた。

「なんだあのバカ」

 苦笑を浮かべる明里の顔を見上げ、すずりは返事を待った。

「聞いてたと思うけど、彼は矢野譲二って人で、私の高校時代の同級生なの」
「なんか忘れた事はないとか言ってたけど?」
「うん、彼ってちょっと困った人で……」
「あいつってさ、人の話を聞かないタイプだろ」

 すずりが聞き返すと、明里は両手をポンと叩いて大きく頷く。

「そう! そうなのよ。実は当時、彼に告白された事があったんだけど、私はその気は無いからってちゃんと断ったの。でもあの人、私の話を全然聞いてくれなくて、しつこく何度も俺と付き合えって言うのよ。強引に押せば思い通りになると思ってたのかしら」
「ふーん。で、明里はどうしたのさ?」
「それがあんまりしつこいから、他の男子の顰蹙を買っちゃったみたいで。みんなに吊し上げられて、ようやく大人しくなったの。それ以降はほとんど喋ってないし、私はてっきり諦めてくれたと思ってたんだけど」

 明里が受け取ったメモ用紙には、汚い文字で携帯電話の番号が書かれている。明里は苦笑いを浮かべながらそれを四つ折りにたたむと、目を伏せてため息をつく。気を取り直して顔を上げた明里は「気にしない気にしない」と笑顔を作り、画材屋へと足を進ませた。




 三日後の真夜中、矢野は高速道路のとあるサービスエリアに姿を現していた。その夜行われる、ハイウェイでの闇レースに参加するためである。闇レースとは公道を利用して行われる非合法のレースで、走り屋と呼ばれるスポーツカー乗りの中でも、限られた人間しか知らないイベントであった。最近は警察の取り締まりが厳しくなってほとんど行われなくなったが、それでも一部では密かに行われていた。参加者が大きなリスクを冒してまでも闇レースに参加するのには、そこにシンプルな理由があったからである。

「――賭け金は?」

 黒いスカイラインGT-Rに一人の男が近付き、運転席の矢野に催促の手つきをした。それこそが、このレースに参加する条件であるからだ。

「金はねえ」

 矢野の言葉に、男は聞き間違いかと訝しげな顔を向けるが、弁解する様子のない矢野を見て面倒くさそうに吐き捨てた。

「さっさと帰んな。文無しはお呼びじゃないぜ」
「まあ待てよ。払わないとは言ってねえだろ」
「じゃあどうするんだ」
「このクルマを賭ける。俺が負けたら好きにしていいぜ」
「GT-Rか。確かに売ればそこそこの金にはなるか……いいだろ、参加を許可する。ただしその言葉、後で引っ込めたりはできないぞ」
「へっ、俺とこのクルマに勝てる奴なんかいねえよ」

 矢野は自信に満ちた返事をすると、アクセルを踏んでハイウェイへと車を走らせた。深夜のハイウェイはおあつらえ向きに車が少なく、レースをやるには絶好の環境であった。やがて対戦相手の車が現れ、合図と共に闇レースが始まった。相手の車は白のトヨタ・スープラである。曲面を基調としたデザインのスープラも優れたスポーツカーであったが、GT-Rと比較すればやや及ばない。相手を格下と見た矢野は強気に拍車がかかり、床に届くほどアクセルを踏み込み、弾丸のような速度で深夜のハイウェイを爆走した。確かにGT-Rは素晴らしい性能とパワーを発揮し、一時はスープラを大きく引き離す。だがレースが続くうち、スープラは開いた距離を確実に縮めてGT-Rに迫り、矢野は次第にイライラし始めていた。

「ちくしょう、なんで振り切れねえんだ!」

 追い越されはしないものの、スープラはいつまで経ってもバックミラーにその姿を写し続けている。それは必死に後を追っているというより、あえてその位置をキープし、前を走る矢野にプレッシャーを与え続けていたのだ。スープラを駆るドライバーのテクニックは、矢野のそれより一枚も二枚も上手だったが、その事実に気付かない矢野は焦りを募らせて精神を疲弊させ、ついに集中力を切らしてしまう。

「クソったれ、なにかの間違いだ! 俺が、このGT-Rが負けるはずがねえ!」

 運転席で絶叫したその瞬間、矢野は高速で流れる景色の中にあり得ない物を見た。時速二百キロを越える視界の中で、真っ赤に燃え上がる車輪がGT-Rを追い抜いたのだ。自動車ではなく、車輪がひとつだけ路面を走っているという異様な姿だった。

「なっ――!?」

 気を取られた一瞬、矢野は他車のテールランプが目前に迫るのを見て目を剥いた。咄嗟にステアリングを切って追突を逃れたが、それはレースにおいて致命的なミスであった。時速二百キロを越えて走る車体はコントロールを失い、意志とは無関係に突き進む鉄の塊と化す。矢野は目一杯ブレーキを踏み込んだが時すでに遅く、無情にもフロントガラスの向こうに灰色の壁が迫っていた。




 矢野が闇レースに参加した日から一ヶ月あまりが過ぎた頃、朝比奈市では毎晩のように轢き逃げ事故が起き、その噂は梵能寺の八海老師や、彼の弟子である草助の耳にも届いていた。それというのも、犠牲者には異様な共通点があるからだった。

「――身体の一部が欠けている?」

 夜の七時を過ぎた頃、梵能寺にある八海老師の住居で、八海老師と草助は顔を付き合わせて話し合っていた。赤い着物のすずりは、夕食にと用意されたカツ丼を頬張りながら二人の会話に耳を傾けている。彼女の傍らには、空になった丼が山のように積み上げられている。八海老師は湯気の立つ湯飲みを口に運んでからテーブルに置き、眉間に深い皺を寄せながら言った。

「聞いた話では例外なく、被害者は肉体の一部を食いちぎられておったそうじゃ」
「ずいぶんむごい話ですね……」
「無論、この事実は公表されておらんがの。検死の結果では、被害者は轢かれた後ではなく、轢かれるのと同時に食われたのが本当の死因という結果が出たそうじゃ。もはや妖怪の仕業と見て間違いなかろうな」
「そんな手品みたいな事が出来る妖怪がいるんでしょうか」
「うむ。ワシの知る限り、こんな真似が出来るのは輪入道だけじゃ。この現代では、奴が取り憑くことの出来る乗り物がいくらでもあるからのう。しかし解せぬ……まさか再び奴が現れようとは」

 輪入道とはかつて京都などに現れたとされ、炎に包まれた車輪の中央に男の顔が付いた姿で描かれている妖怪である。輪入道は夜な夜な走り回り、出会った者の魂を抜いていくと伝えられる恐ろしい妖怪である。八海老師から輪入道の説明を聞きながら、草助は彼の口ぶりに疑問を感じ、訊ねた。

「老師、輪入道についてずいぶん詳しいようですね。まるで見てきたみたいな」
「当然じゃ。なにしろ数十年前、奴を封じたのはこのワシじゃからな」
「そうだったんですか」
「奴は凶暴で大食らいなうえ、車輪を持つ機械に取り憑くから見つけるのも難しくてな。一度暴れ出したら手がつけられんのじゃ」
「た、大変じゃないですか。そんな奴が野放しになっていたら、もっとたくさんの犠牲者が出てしまいますよ」
「わかっておる。しかし輪入道を退治するのは容易ではない。奴は常に移動を繰り返しておるし、仮に見つけても人間の足では奴に追いつけん。こっちもそれなりに準備が必要になるのう」
「なにか当てがあるんですか?」
「その辺はワシに任せておけ。草助は奴が現れた場所や、次に出現しそうな場所の情報を集めておくのじゃ。準備が整ったら連絡しよう」
「わかりました」

 草助は深く頷くと、相変わらずカツ丼を胃袋にかき込んでいるすずりに目をやり、軽いため息混じりに言った。

「いつまで食べてるんだ。これから妖怪の情報集めに行かなくちゃならないんだぞ」

 すずりは草助を尻目にカツ丼を平らげ、満足げにお腹をさすりながら返事をする。

「わかってるって。でも輪入道は簡単に見つからないって言うんだし、アタシらだけで探し回るのも結構大変だろー」
「いつもと言ってることが違うじゃないか。食後で動きたくないとか言い出すんじゃないだろうな?」
「まさか。草助じゃあるまいし」
「相変わらず生意気な奴め」
「今回は人手が必要だね。せっかくだし明里にも手伝ってもらったら?」
「船橋さんか、ふーむ」
「アイツ助手になるって張り切ってたんだし、ちょうどいいじゃん」
「そりゃそうなんだが……彼女はどうも妖怪に絡まれやすい体質のようだし、心配だな」
「噂集めくらいなら平気だって。それにもしかしたら、そういう仕事は草助より向いてるかもしんないよ? 友達も多いし人当たりもいいし、おまけに美人。草助と大違いじゃん、ケケケ」
「ええい、ひとこと余計なんだお前は。しかし人手が欲しいのは事実だし、仕方ない。船橋さんに頼むとしようか」

 草助は携帯電話で明里に連絡を取り、事情を説明した。明里は待ってましたとばかりに快諾してくれたので、轢き逃げ事件に関する情報や噂の収集を頼み、いざという時のための連絡手段を打ち合わせておいた。非常時の連絡手段について確認が終わると、草助とすずりは事件が起きた現場に向かって手掛かりを探すことにした。




 草助はスーパーカブを走らせ、朝比奈市内に点在する轢き逃げ現場を見て回った。時間が経っていることもあり、現場に妖気は残されていなかったが、地面には黒っぽく変色した犠牲者の血の跡がこびり付いており、事件の凄惨さを物語っていた。さらに周辺は犠牲者の無念や悲しみ、絶望といった念が混じり合った「死臭」が漂い、霊感の鋭い草助はその臭いに顔をしかめながら、切れかかった街灯に照らされた道路に目を落として呟いた。

「……ここもか。どの場所もそうだったけど、路面にブレーキの跡が無い。それに人間を撥ねておきながら、ぶつかった車の部品や破片がまるで見当たらないのは変だ。普通の事故なら、少しくらいは現場に残ってたりするはずだからな」
「ふん、走りながら喰うなんて行儀の悪い奴だよ」
「人を食うのに行儀が良いも悪いもあるもんか。しかも轢き逃げは三日と間を置かずに起きている。野放しにしていたら犠牲者が増えるばかりだ」
「でもさ草助、どーも引っ掛かるんだよね」
「なにがだ?」
「いくら大食らいだからって、このペースは異常だよ。人を喰う妖怪なんて珍しくないけどさ、腹を空かせた邪鬼どもだって、ここまで短い間隔で人間を襲ったりしないよ」

 妖怪が人間を喰うという行為には、血肉を味わう愉悦や腹を満たす以外にも、喰った相手の魂から霊力を取り込んで自分のものにするという目的も含まれている。妖怪はそうやって自分の妖力を高める事が出来るのだが、取り込んだ霊力が馴染むまでにはある程度の時間を要するという。それ故に妖怪が自分の許容量を超えて霊力を取り込み続けると、それを抑えきれずに暴発、消滅してしまう事もあるのだとすずりは言った。

「――ふむ、そうなると輪入道には、頻繁に人間を襲わなきゃならない理由があるって事になるな」
「アタシも詳しくはわかんないけどね。よっぽど燃費の悪い身体の構造でもしてんのかね、車輪だけのクセしてさ」
(人を襲う理由が妖力を補充するためだとして、短時間でそれを激しく消耗する理由はなんだ? 車に取り憑いた妖怪が激しく力を使うとなると……)

 草助はふと思いついたように顔を上げ、携帯電話を手にとって明里に電話をかけたが、何度呼び出しても繋がらず、全て留守番電話になってしまう。草助は仕方なく手短に用件を録音して電話を切ったが、嫌な胸騒ぎがして、急いで一筆堂へとカブを走らせた。




 草助が轢き逃げ現場を調査していた頃、明里は自宅で片っ端から知り合いに電話をかけ、連続轢き逃げ事件に関係ありそうな情報を集めていた。すると噂が好きな同級生の口から、奇妙な話を耳にした。それは首都圏のハイウェイで非合法のカーレースが行われていると言うものだったが、明里が注目したのは闇レースの存在や内容ではなく、それが行われたと言う日付だった。

(やっぱりそうだわ、轢き逃げ事件が起きたのは、どれも闇レースが行われた前日あたり……筆塚くんの話だと、今度の妖怪は車輪の姿をしてるっていうし、きっとなにか関係があるんだわ)

 核心に迫る手応えを感じつつも、明里はそこで途方に暮れた。当然ながら闇レースは秘密裏に行われているもので、次のレースがいつ、どこで行われるのか、そして参加者の情報をどうやって手に入れたらいいのか、見当も付かなかったからである。

(どうしよう、これだけじゃ情報集めたなんてとても言えないし。せめてこういう事情に詳しい人でもいたらなあ)

 心の中で呟きながら、明里は思い出したように顔を上げ、机の引き出しを開けて四つ折りになった紙切れを手に取った。それは矢野の電話番号が書かれたメモの切れ端だった。受け取ってから一度も開いてはいないが、捨てたら捨てたで後で面倒な事になるかも知れないと思い、処分に困っていたものである。明里は少し考えてから苦笑いを浮かべ、メモに書かれた番号に電話をかけた。

「あ、もしもし矢野くん? 私、船橋だけど。」
「……やっと電話してきたな。ついに俺の女になる決心がついたか?」

 電話越しに聞こえる矢野の声は以前にも増して陰気で、一瞬ぞっとしてしまう程であった。明里は言葉に詰まりそうになったが、気を取り直して続けた。

「えと、その話は置いといて。ちょっと矢野くんに聞きたい事があるの」
「なんだ、言ってみろよ」
「ちょっと耳に挟んだんだけど、高速道路で闇レースが行われてるって噂……矢野くんは聞いた事ないかしら」
「仮にその闇レースとやらがあったとして、どうするつもりだ?」
「身近でそんな凄いことがあったなんて知らなかったし、もし本当にレースが行われてるなら、一度見てみたいなーとか思っちゃったりして。あはは」

 もちろんこれは明里の本心ではない。しかし矢野には自分の目的を告げない方がいいだろうと、明里の勘が告げていたからである。

「知らない事もないぜ」
「本当に!?」
「しかし意外だな。お前には縁のない話だと思ってたが、どこで聞いた?」
「ただの興味よ。好奇心。なにか知ってるんだったら教えて」
「慌てるなよ。教えてやってもいいが、ひとつ条件があるぜ」
「条件って?」
「今夜一晩、俺と付き合ってくれたらな」
「えっ。うーん、それはちょっと……」
「そう身構えんなよ。ただドライブするだけだ。他になんもしやしねえよ」

 返事に窮する言葉だった。一度でも誘いに乗れば、思い込みの激しい矢野が以前のように暴走するのは目に見えている。しかし今の明里にとって、彼の情報を頼る以外に道はなかった。苦慮した末、明里は仕方なく矢野の申し出に乗ることにした。身支度を済ませ、少し大きめのトートバッグを持って家を出ると、ほどなくして自宅の近くに黒いスポーツカーがやってきた。矢野の運転するGT-Rである。明里は深呼吸して気持ちを落ち着かせると、意を決して助手席に乗り込み、携帯電話を手に取って言った。

「ちょっとママにメールするわね。帰りが遅くなるかもしれないって」

 明里は慣れた手つきでボタンを押しメールを送信すると、携帯電話を軽く手に握り込んで膝の上に置いた。

「へへへ、とうとうお前を隣に乗せる時が来たな。この日のために、助手席にはまだ誰も座らせてないんだぜ」
「そ、そうなんだ。それよりレースのことなんだけど、本当に行われてるの?」
「そう焦るなよ。レースにはちゃんと連れてってやるからよ、ククク……」
「う、うん」

 それからしばらくの間、矢野は一方的に喋り続けたが、車の性能がどうとか最高速がどうのとか、明里にとっては特に興味のない話ばかりであった。GT-Rは海沿いの道路を走った後、高速道路に乗って首都方面に向かい、とあるサービスエリアの駐車場に入って止まった。なぜこんな所に止まったのかと思っていると、後から次々に似たようなスポーツカーが集まり始め、駐車場はにわかに活気づき始めた。窓の外の様子を不思議そうに観察していると、一人の若い男がGT-Rに近づき、運転席のウィンドウを軽く叩く。矢野がウィンドウを降ろすと、若い男は顔を近づけて小声で喋った。

「賭け金は?」
「……ほらよ」

 矢野が後部座席に置いてあった茶色いバッグを男に手渡すのを見た明里は、半開きになったバッグの隙間から見えたそれにギョッとした。バッグの中には、数え切れないほどの札束が詰め込まれていたからだ。

(ど、どうしてこんな大金を?)

 轢き逃げ事件について聞き込みを行った際、かつての同級生から矢野の悪い噂も明里は耳にしていた。矢野は稼いだ金を全て車につぎ込み、慢性的に金欠気味であったこと、そして頻繁に事故を起こしては車を買い換え、ローンの支払いでほとんど首が回らなくなっているという事も。ところが矢野が持っていた大金は、そうした情報とまるでつじつまが合わないのである。怪しく思って注意深く聞き耳を立てていると、若い男がバッグの金を確かめながら言った。

「今夜のレースで勝てばアンタがチャンピオンだ。ま、せいぜい頑張りな」
「俺は無敵だ。誰が相手だろうが負けはねえ。ちゃんと賞金用意して待ってやがれ」

 明里は耳を疑ったが、矢野は今の状況がさも当然といった風で、明里の存在などまるで意に介していない様子である。

「ねえ今の話って……まさか矢野くんがこれからレースをするって事?」
「心配すんなよ。俺は絶対に負けねえ。絶対にな……クク、ククク」

 口元を歪めて笑みを浮かべる矢野の表情が、なにか得体の知れないものに取り憑かれているように見えて、明里は思わずぞっとする。彼女の勘が、このまま車に乗り続けていると良くない事になると全力で告げていた。

「ご、ごめん、私降りるわ。ここで応援してるから」

 そそくさと車から降りようとした明里だったが、ドアはロックされていて開かない。

「お願い、ドアを開けて」
「そうはいかねえな。俺は今日のために、闇レースで勝ちを重ねて来た。それもこれも全部、お前を俺の隣に乗せるためなんだぜ」
「私はただ、このレースがいつ行われてるのか知りたかっただけよ」
「ほう、レースの日時を知ってどうするつもりだったんだ?」
「それは……」
「クク、まあいいさ。俺がチャンピオンになれば、お前の気も変わるだろうぜ。特等席で俺の走りをよーく見てな」
「ちょっと、やだ、降ろしてってば!」

 明里の願いも空しく、矢野は車を発進させてしまった。ハイウェイをしばらく走ると、GT-Rの隣に、やはり改造されているであろうスポーツカーが近付いてきた。これが今夜の相手らしく、目印の地点まで同じ速度で併走し、そこからお互いに急加速を始めた。身体は加速による重力でシートに押しつけられ、急な車線変更や他の車に激突しそうな場面が何度もあり、明里は生きた心地がまるでしなかった。

(た、大変な事になっちゃった。こんな無茶な走り方してたら、命がいくつあっても足りないわ。なんとか助けを呼ばなくちゃ……)

 明里は握りしめていた携帯電話を見たが、ここで草助に話しかけたら矢野が逆上し、ハンドル操作を誤ってしまうかもしれない。携帯電話を気にしている素振りを矢野に知られるのは得策でないと思い、明里はスピードに恐がるふりをしながら、気付かれないように携帯電話のボタンを押していく。

「クク、ククク……ほうら、やっぱりな。俺に追いつくことなんかできやしねえんだ」

 ハンドルを握り締めながらブツブツと呟く矢野の形相は、一瞬怪物に見間違うほど鬼気迫るものがあり、車は矢野の意志に同調するかの如く異常な加速を続け、対戦相手の車を引き離していく。車のことに詳しくない明里も不自然さを感じ、運転席のスピードメーターに目を向けてみると、針は時速三百キロまで刻んである目盛りを振り切ってしまっている。

「ちょ、ちょっと、なんだか変よ。いくらなんでもスピードが出すぎじゃない?」
「わかるか? このクルマは誰よりも速く走れるのさ。こいつに勝てる奴なんて、世界中探したっていやしねえ……俺は究極のクルマを手に入れたんだ!」
「絶対普通じゃないわこんなの。一体なにがあったっていうの?」
「手に入れた……ついに俺は手に入れたんだ……」

 うわごとのように呟く矢野の表情からは生気が消え失せ、視点も定まっていない。それどころか、彼の両手はいつの間にかだらりと垂れ下がり、ハンドルから離れていたにもかかわらず、GT-Rはひとりでに走り続けていた。そしてトンネルの中へ差し掛かった時、ライトに照らされて浮かび上がった彼の足元を見て、明里は悲鳴を上げた。

「そ、そ、それ……!?」

 矢野の両足は床から膝下辺りまで、蠢く肉の塊のようなものに包まれて同化していた。それは皮を剥いだばかりの生肉にそっくりで、表面は血のような液体に濡れ、幾重にも走る赤や紫の太い管が、湿ったおぞましい音を立てながら脈動している。その動きは、管を通して矢野から少しずつ養分を吸い取っていると明里には思えた。彼女にはそれの正体はわからなかったが、間違いなく妖怪に関わるものだという事だけは確信していた。

「へへ、驚いたか? そうだろうな、俺も最初はそうだった。けどな、こいつは凄いんだぜ。俺とクルマは文字通りの一心同体になって走り続けられるんだ」
「正気に戻って! あなた妖怪に取り憑かれてるのよ!」
「知ってるさ、それぐらい」
「えっ」
「俺にとっちゃ、妖怪だろうがどうでもいい。誰よりも速く走ることさえできればな」
「そんな、どうして……」
「どうしてだと?」

 突然矢野は激昂し、窓ガラスが響かんばかりに絶叫する。

「勝つために決まってんだろうが。誰よりも速く走って、俺は全てを手に入れる。金も名誉も、それに明里、お前もな。そのためなら俺はなんだってしてやる。もう後戻りは出来ねえんだよ」

 矢野は鬼のような形相に変貌して目を血走らせ、恐ろしい事実を語り始めた。




 一ヶ月前、ハイウェイで奇妙な車輪を見た直後、矢野が運転していたGT-Rはハンドル操作を誤って高速道路の壁に激突した。意識が半ば吹っ飛ぶ程の衝撃こそ受けたが、奇跡的にも彼自身はほぼ無傷で済んでいた。朦朧としながらも運転席から這い出した矢野は、今まで自分が運転していた車の姿を見て絶望する。車体は見る影もなく潰れており、自分が生きていられたのを不思議に思うほどにグシャグシャの状態だった。だが矢野はすぐ、自分はこのまま一緒に死んだ方がマシだったと頭を抱えて地面にうずくまった。掛け金代わりの車はなんの価値もない鉄クズと化し、自分に残るのは気が遠くなるような借金だけ。矢野は現実を受け入れられず、追い詰められて狂ったようにわめき始めた。

「これは夢だ、夢に決まってる。俺がこんな目に遭うはずがねえだろうが。あのワケわかんねえ車輪さえ出てこなきゃ今頃は……つーかなんなんだよアレはよお!」

 ひしゃげた車体を足蹴にして車線の方に目を向けた矢野は、またも信じられない物を見て言葉を失う。時速百キロを越えた自動車が次々に通り過ぎる高速道路を、何事もないように横切って近付いて来る男の姿を見たからだった。黒い帽子に黒いスーツ、両手には白い手袋をし、金属製の四角いケースを手にしたセールスマン風の人物が、オレンジ色の照明の中に浮かび上がっている。男は猛スピードで通り抜ける車の間を平然とすり抜け、通り過ぎる車もブレーキをかける様子がまるで見られない。車と衝突したと思う場面もあったが、そのまま身体が車をすり抜けて近付いているようにも見えた。黒いスーツの男は、目を見開いて硬直している矢野の目の前までやってくると、鉄クズとなったGT-Rをしばし眺めた後、型を押して貼り付けたような笑顔を矢野に向けた。

「これはひどい。大変な事になってしまいましたね」
「だ、誰だお前は。ていうか今、道路を歩いて渡ってこなかったか?」
「あ、自己紹介が遅れました。私、黒崎という者で。ちょっと変わった品物を売り歩く商売をしていましてね」

 矢野の質問をさらりとかわして名乗ると、男はもう一度車の残骸を眺め、皮肉めいた口調で言った。

「どうやらかなりお困りのようで。見たところ速さ比べをしていたが、手元が狂って御覧の有様。おまけに賭博の賭け金を払うアテも消えてしまった、といった具合ですか。お気の毒に」
「なっ……なんで知ってやがるんだ!?」
「そんな事はどうでもいい。それよりも、この状況を打開できる方法があるとしたらどうします?」
「無理に決まってんだろ。クルマはぶっ壊れちまって、俺に残ってるのは途方もない借金だけだ。どんな方法があるのか言ってみろってんだ、クソがッ」
「全てを解決し、望みを叶えられる方法があるとしたらどうします?」
「なんだと?」
「私なら全ての常識を覆すスポーツカーを用意できる。それさえあれば、万に一つの負けもない、まさに究極のマシンという奴ですよ」
「ほ、本当か!? 本当にそんなモンがあるってのか!?」
「もちろん。それを売るのが私の商売ですから。ま、お代はそれなりに高く付きますがね」
「か、金ならレースの賞金がある。このままじゃどのみち俺は破滅だ。勝てるならそれを全部くれてやってもいい、言う事聞けってんならなんだってしてやる。だから頼む!」
「フフフ、取引成立ですね。支払いは後で結構。まずは存分に性能を味わってください」

 黒崎が頭上に持ち上げた指を鳴らした直後、高速道路の彼方から猛烈な勢いで近付いて来るものがあった。それは燃えさかる車輪の中に人面が張り付いた異形の怪物で、事故を起こす直前に矢野が見たそれとまったく同じもので、それは一直線に矢野めがけて突進してきた。

「うわああっ!?」

 ふと気がつくと、矢野は運転席に座りハンドルを握りしめていた。目の前には灰色の壁が迫っていたが、慌ててハンドルを切って難を逃れた矢野の目に映っていたのは、流れていく夜のハイウェイの光景である。

「あ、あれ? 俺は事故って壁にぶつかったはずじゃ……どうなってんだ」

 車はどこも壊れておらず、起きたはずの事故の直前となんら変わりない状態である。思い出したようにバックミラーに目をやると、背後に張り付くように白いスポーツカーが付いてきている。レースの対戦相手が駆るスープラに間違いなかった。

「夢でも見てたのか? まあいい、とにかく奴をぶっちぎってやる!」

 アクセルを踏み込んだ瞬間、GT-Rは見違えるような加速をし、背後に張り付いていたスープラを引き離していく。今までも確かに早かったが、それを遙かに上回る圧倒的なスピードだった。それに加えて彼を驚かせたのが、車が自分の思い通りに動くようになっていた事だった。さっきまでは車体を上手くコントロール出来ずにミスをする事も多かったが、今では自分が思い描いた通りに車が動いてくれる。まさに車体と一心同体となったような気分だった。

「す、すげえ……今なら誰にも負ける気がしねえ!」

 言葉通り、矢野は対戦相手のスープラに大差を付けて勝利した。闇レースの賞金は彼の年収ほどもあったが、それでも膨れ上がった借金の半分ほどにしかならず、残り半分も工面しなければならない。だが矢野の表情には余裕があった。帰路のハイウェイで、矢野は確かめるようにGT-Rのアクセルを踏み込む。常識を越えた素晴らしい加速と、思い通りに操れる車体はやはり本物で、彼の気分は一気に高揚する。

「俺は無敵になったんだ! どんな奴だろうと俺を追い越すなんてできやしねえ。最高の気分だぜ! この調子で次も、その次のレースも勝って勝って勝ちまくってやるぜ、ハーッハッハハハ!」

 有頂天になってハイウェイを飛ばす矢野だったが、そこで予期せぬ異変が起きた。突然車は加速をやめ、車体が言う事を聞かなくなったのである。矢野はハンドルを押さえ込むように握り締め、祈るような気持ちでブレーキを踏む。やっとの事で普通の速度まで減速すると、ハンドルを何度も叩きながら喚き散らした。

「どうなってんだよこれは。さっきまでの速さはどこへ行っちまったんだよ!」

 いくらアクセルを踏んでも、さっきまでの加速は消え失せ、全てを置き去りにするようなあの速さが蘇らない。苛立ちと焦りを募らせる矢野の耳に、ふいに不気味な声が響いた。雑音混じりの聞き取りにくい声で、最初は聞き間違いかと思ったが、それはカーステレオのスピーカーから確かに響いていた。

「喰わ……せ……ろ」
「なっ、なんだあ!?」

 矢野は驚きでハンドル操作を誤りそうになったが、どうにか立て直してハイウェイを下り、町外れの薄暗い場所に車を止めた。そして車内には、ひたすら不気味な声が響き続けている。

「ど、どうなってんだこの車は。まさかこいつが喋ってんのか!?」
「……喰わせろ……喰わせろ……」
「全然意味がわかんねえ。一体なんなんだよこれは」
「わしは……鉄で作られたこの車に宿る者……さっきのレースを勝たせてやったのも、わしの力があったからこそ……」
「マジかよ……喋る車とかぶったまげたぜ。あの変な男と会ったのは夢じゃなかったって事かよ」
「いかにも……しかし今のわしに、お前の願いを聞き届けてやることは出来ぬ」
「相変わらず意味不明だけどよ、テメエがこの車の声だっつんなら聞きたい事があるぜ。なんで急に走らなくなりやがった。最初はあんなスゲエ走りしてたのによ、嫌がらせのつもりか!?」
「違う、魂が無くては速く走れぬのだ……魂さえ喰えば……」

 人間味のない乾いた声に、矢野は訝しげに聞き返す。

「さっきからタマシイがどうのとか言ってるが、そのタマシイとかが切れたからスピードが出なくなったってのか?」
「そうだ。わしはもっと速く走りたい……そのためには魂を……」
「あーもう分かったよ。新種のガソリンだかなんだかわかんねえが、どうすりゃそれを手に入れられるんだ、言ってみろ」
「たやすいこと……」

 するとGT-Rは突然、矢野が触ってもいないのにひとりでに動き出す。ゆっくりとした速度で、音もなく静かに移動を続けると、長く延びた一本道に差し掛かった。車のやや前方には、道路の脇を歩いている中年のサラリーマンらしき男が一人で歩いている。彼以外に周りには誰もおらず、その男は当然見知らぬ他人である。

「轢き殺せ……さすればあの人間の魂を喰らい、わしは再び速く走れよう」
「なっ!?」

 当たり前のように吐き出された言葉に、矢野は血の気が引く音を聞いた気がした。

「お、おい、タマシイって、人の命の事かよ!」
「アクセルを踏め……ここから先はお前がやるのだ」
「ば、馬鹿言ってんじゃねーぞ! 俺に人殺しをしろってのか!?」
「ならばお前は破滅するしかない」
「ぐっ……」

 カーステレオの声が言った事は事実だった。矢野は顔に汗を浮かべたままハンドルに突っ伏し、しばらく無言で考え続けていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。彼の顔からは大量の汗が噴き出し、呼吸は乱れ、血走った目を見開いてサラリーマンの背中を凝視する。

「……魂を喰えば、またあのスゲエ走りが出来るんだな? 嘘じゃねえんだな?」
「そうだ」
「な、なあ、聞けよ……どいつもこいつも俺を見下して、鼻で笑ってやがった。俺が今までこんな風だったのは、クルマの性能が悪かっただけなのによ。誰も俺の価値を認めなかった。けどよ、てっぺんさえ獲ればみんなが認めるんだ。そうさ、俺は全てを……手に入れてやる!」

 どす黒い殺意に塗りつぶされた車は、目標を定めて真っ直ぐに加速した。

「うわあああああああっ!」

 ヘッドライトに照らされた中年サラリーマンが振り返った次の瞬間、彼の身体は猛スピードで突進する車のボンネットに跳ね上げられ、糸が切れた人形のように闇夜を舞った。地面に落ちた彼の身体は半分が無く、手足が車のバンパーに引っ掛かっているのが矢野にも見えたが、それらは車のボンネットの隙間に引き込まれて消え、ハンドルを握る矢野にはそれが、車が人間を喰っているように思えた。

「は……はは、やった。どうだ、俺はやったぞ。これでまた前みたいに速く走れるんだろうな! ええ、どうなんだ!?」
「いかにも。今のわしには魂の力が隅々まで行き渡っている。お前の望みも叶えられよう」
「ふ、ふふ、そうだ、それでいいんだよ。はは、はーっはははは!」




 血走った目を明里に向け、矢野は運転席で思い出したように歪んだ笑みを浮かべる。

「――次のレースでも俺は勝った。けどよ、その度にこのクルマは魂を欲しがりやがってな」
「まさか……最近繰り返し起きてた轢き逃げ事件は、あなたが犯人だったの!?」
「仕方がねえ事だったのさ。俺が誰よりも速く走るにはな」
「最低……人の命をなんだと思ってるのよ!」
「うるせえ! この世は強い奴が弱い者を喰うように出来てんだよ。このクルマに喰われてくたばった奴らも、俺の役に立てて本望だろーぜ」
「ねえ降ろして! 私もうこの車に乗っていたくない!」
「そうはいかねえ。お前はもう俺のもんだ。とことん付き合ってもらうぜ、地獄までな……!」

 すでに腰まで車体と同化した矢野は、欲望に濁った瞳を正面に向けたまま嗤った。

(駄目だわ、もう彼は心を呑み込まれて正気を無くしてるんだわ……筆塚くん、すずりちゃん……!)

 明里が祈るように携帯電話を握り締めたその時、誰も追いつけないはずのGT-Rに横並びになる銀色の車があった。流線型の車体に丸いヘッドライト、そしてお尻のように丸くなった後部の形が代名詞のスポーツカー、ポルシェである。ハイウェイの照明に照らされた運転席には、頭頂部だけを残して禿げ上がった頭にまん丸眼鏡をかけた、袈裟姿の老人がハンドルを握っており、助手席には心に思い描いた袴姿の草助と、赤い着物のすずりがいた。明里はもう遠慮は要らないと思い、握り締めていた携帯電話を耳に当てた。

「筆塚くん大変なの、矢野くんが」
「ああ、わかってる。話は全部聞こえていたよ。とにかく間にあってよかった」

 草助と明里は別行動をすると決めた際、万が一明里が身の危険を感じた時の連絡方法をいくつか決めていた。明里は矢野に誘われて車に同乗する際にメールを送ったが、それは母親に宛てたのではなく、草助に身の危険と行き先を伝えるためのものだった。メールを送信した後は草助の携帯電話にコールし、明里の話し声が聞こえるように通話状態のままにしていたのである。 

「矢野くんは妖怪に取り込まれてしまって、私の言葉を聞いてくれないの。どうにかしてこの車を止めて!」

 切羽詰まる明里に返事をしたのは、ポルシェの運転席に座る八海老師であった。

「うむ、今やっておる。その車が異常な速度を出せるのは、喰らった魂の霊力をスピードに変えておるからじゃ。だからこのまま走り続けて、奴がガス欠を起こすのを待つ。もうしばらく辛抱するんじゃぞお嬢ちゃん」
「は、はい」

 明里は足下に置いていたトートバッグを引っ張り上げて抱きかかえると、草助や八海老師らの無事を必死に祈る。だが、GT-Rを駆る矢野は並んで走るポルシェに激しい怒りを見せていた。

「おい、どうなってんだ! 誰も俺には追いつけないはずだったろうが! なんで隣に並んで走ってる車がいやがる!」

 両目を見開いて荒れ狂う矢野に、カーステレオから響く不気味な声が答える。

「奴も我々と同じように、己の霊力を速さに変えている。速度は互角のようだ……」
「ふざけんじゃねえ。トップは二人もいらねえって思い知らせてやる!」

 激しい敵意を剥き出しにして、矢野は吠えた。




 一方のポルシェでは、草助が心配そうな表情で八海老師に訊ねる。

「しかし老師、大丈夫なんですか? 霊力を燃やして走るなんて、下手したら自分の命が燃え尽きてしまうんじゃ」
「左様。ここからは互いの根比べじゃ。ワシが力尽きるのが先か、奴が力尽きるのが先か……さて、どうなるかのう」
「のんきなこと言ってる場合じゃないでしょう。老師だってもう歳なのに」
「まあ落ち着け。ちゃんと用意はしてあるし、念のための手も打っておる。それにワシが燃え尽きそうになっても、代わりがおるではないか」

 八海老師はまん丸眼鏡を草助の顔に向け、無言でじっと見る。

「ま、まさか老師、代わりって僕の魂を使うつもりですか!?」
「……ちょっとくらい平気じゃろ。若いんだし」
「平気じゃありませんよ!」
「ケチくさい奴じゃのう。そんなんじゃ女にモテんぞい?」
「大きなお世話です。ていうか危ないから前見て運転してくださいよ」

 軽口を言いながらも、八海老師の身体から常に強い霊力が出続けているのを草助は感じていた。それが長続きすればどうなるのかは想像に難くない。手は打ってあるという言葉を信じるしかないと、草助は自分に言い聞かせて前を見る。

「……?」

 草助は周囲の景色と気配が、いつの間にか不穏な空気に包まれているのを感じた。それは以前、影女という妖怪を追ったときと同じ、自分達のいる空間が別の世界に飲み込まれているような感覚だった。

「これは……もしや輪入道が異界を開いたのか?」
「うむ、ワシも少し驚いたぞ。こうやって異界のトンネルを通り抜けては、人間を喰らった後の行方をくらましていたと見える。以前戦った時は、彼奴にこんな芸当は出来んかったからのう。突然蘇ったことといい、やはり何者かの手引きがあるようじゃの」

 そう言っているうちに、隣を並ぶGT-Rがさらに加速をし、ポルシェの前方に躍り出る。車体は不気味な赤い妖気に包まれており、吐き気を催すほどの強い怨念が放たれていた。やがて怨念は車体から切り離され、怨嗟の呻き声を上げる怨霊の姿となって草助たちの車に向かってきた。怨霊は車のフロントガラスにへばりつき、顔を押しつけて中に入ろうとしたが、どうやっても中には入れないらしく、恨めしそうにガラスを叩き始めた。

「うわっ。ろ、老師、これは!?」
「奴め、自分が喰った人間の怨念を切り離してぶつけて来おった。まあ、この車には魔除けが施してあるから、簡単には中に入れんがの。ワシは手が離せんから草助、お主が成仏させてやれ」
「この速度でどうやって?」
「どうもこうも、窓から身を乗り出してチョチョイと」
「無茶いわんでくださいよ。落ちたらどうするんです」
「ああ、ほれ。他にも次々と来とるぞ。このままじゃと先にこっちがバラバラにされてしまうぞい」
「わ、わかりました、やってみます」

 草助は意を決し、紅い筆に変化したすずりを握り締めて窓の外に身を乗り出すが、時速数百キロという速度による風圧は、身体が紙切れのように吹き飛ばされてしまいそうな勢いだった。耐え切れず車外に投げ出されてしまうかと思ったその時、草助の脳裏にすずりの声が響く。

(バカ、そのまんま外に出てどうすんのさ。霊力を身体に纏って壁にするんだよ)

 その直後、霊力がすずりの筆に吸い上げられる感覚があり、同時に草助の全身は青白い光を帯びる。すると呼吸もまともにできないほどの風圧が弱まり、自由に身体が動かせるようになっていた。身体に纏わせた霊力が、風の流れを逸らして身を守っているのである。

(ったく、手がかかるねー。霊力の壁は風よけにもなるし、上手く調節すれば妖怪の攻撃だって耐えられるようになるんだから。今回はアタシが手を貸してやるけど、次からはこれくらい自分でやるんだよ)
「わ、わかったよ。とにかく助かった」

 草助は気を取り直し、まずはフロントガラスにへばりついている亡霊を筆先で払った。水の塊を薙いだような手応えと共に、犠牲者の怨霊は断末魔の悲鳴を上げて黒い液体となり、すずりの筆先に吸い込まれた。すずりが変化した筆に触れられた妖怪は、不思議な力によって身体が墨汁のようになって溶け出し、それを筆先に吸い取ることが出来る。それを用いて紙などに妖怪の姿を描き、溶け込んだ妖力ごと封印してしまうのが、草助の引き継いだ「魂筆使い」の戦い方なのである。

「よし、効いてるぞ」
(次が来るよ!)

 すずりの言葉に前を見ると、さらに無数の怨霊がこちらめがけて飛んでくるのが目に入った。草助は車から落ちないよう手足に力を込めながら、襲いかかる怨霊を薙ぎ払い続けた。

「輪入道め、一体どれだけの人を犠牲にしてきたんだ」

 十体近くの怨霊を祓い退けた頃、ポルシェの先を行くGT-Rに変化があった。立ち上る妖気が不安定になり、車体の挙動が乱れ、やがて少しずつGT-Rとポルシェの距離が縮み始めていた。

「奴も限界が近いのか……老師、判りますか?」

 一旦車内に戻った草助は、ハンドルを握り締めた八海老師に訊ねる。

「うむ。しかし油断は禁物じゃ。追い詰められた相手はなにをしでかすかわからんぞ」
「そうですが、はやく船橋さんを助けないと。このままじゃ無事に済みそうもありませんよ。くそっ、なにかいい方法はないのか」
「慌てるでない。もうじきワシの打った手と合流する頃じゃ。草助は隙を見てお嬢ちゃんを救い出せ、いいな」
「は、はい」

 予断を許さない状況でチャンスを待つだけというのは歯がゆく思う草助だったが、とにかく今はGT-Rから片時も目を離さないようにした。そして八海老師の懸念通り、明里を乗せたままのGT-Rでは異変が起こりつつあった。




「速度が落ちてるぞ! もっと気合い入れて走りやがれ!」
「無理だ。もう魂の力が残りわずかしかない」

 GT-Rの車内では、身体の半分近くが妖怪に取り込まれた矢野が喚き散らしていたが、カーステレオから響く輪入道の声は淡々とした物だった。

「新たな魂を……魂さえ喰えば、わしの妖力は蘇る」
「ふざけんじゃねえ! この状況で魂なんか喰わせられっか。テメエがスピード出さねえとレースに負けちまうだろうが!」
「そこにあるではないか、若い女の瑞々しい魂が……」

 矢野はハッとして明里の方を見るが、すぐに怒鳴り返す。

「馬鹿言ってんじゃねえぞ! こいつをモノにするためにどれだけ――!」
「人間など全てエサだ。わしの糧となればそれでよい」
「な、なんだと!?」
「車に取り憑いて動かすのは妖力の消耗が激しくてな。だが貴様のおかげでずいぶん楽が出来た。自分から進んでエサを見つけては轢き殺し、提供してくれたのだからな……ククク」
「まさかテメェ、最初からそのつもりで……俺をハメやがったな!」
「お前もいい思いをしただろう。手に入れたものを失いたくなければ、貴様はわしのために魂を用意するしかない。もはや後戻りなどできん」
「くそったれが……!」

 明里は矢野を刺激しないように成り行きを見守っていたが、この悪夢のようなレースもいよいよ終わりが近付いていることは彼女にも見て取れた。

(な、なんだか車が壊れそうな……どうしよう)

 不安げに自分のバッグを抱えながら、明里は遙か前方にある高速道路の合流地点から、一台のトラックが入ってくるのを目にした。四角いアルミの箱で出来た荷台が乗った、なんの変哲もない車両だったが、荷台の扉が突然開き、大量の中身が外にこぼれ落ちてきた。それは長方形の紙で、あたり一面が真っ白になるほど舞い散ると、GT-Rの車体に次々と張り付いた。その途端、張り付いた紙が青白い火花のような光を放ち、カーステレオから苦悶の声が流れてきた。

「おのれ、妖力封じの札を撒いたか……!」
「なんだそりゃ、おい、しっかり走りやがれ」
「よ、妖力が吸い取られる! ぐおおおお!」


 輪入道が苦悶の声を上げると共に、車体のあちこちから金属がきしむ音が響き始めた。おびただしく張り付いたお札の効力で、スクラップ同然の車体を復元していたた妖力が失われ始めていたのである。車の速度はみるみる落ちていき、明里のいる助手席側のドアも、根本からガタガタと音を立てて揺れ始め、最後には音を立てて外れてしまった。風が吹き荒ぶ車外に目を向けると、隣の車線に八海老師が駆るポルシェが並び、さらにその隣にお札を撒いたトラックが並んで走っていた。トラックの運転席に座ってハンドルを握っていたのは、染め残しの目立つ茶髪と品のない顔が特徴の、自称妖怪退治屋の定岡だった。スーツを下品に着こなしている風貌も相変わらずである。

「急にこんなモン用意してこいって言うからなにかと思ったらよ、辺り一面異界に呑まれてやがるし、なんか大変そーな事になってるじゃねーの」

 定岡は窓を開けて大声を出すと、ポルシェと車線を入れ替わってGT-Rの隣にトラックを移動させ、車内のスイッチを押す。すると荷台の箱が縦半分に持ち上がり、人が乗れるスペースが広がった。荷台には壷から顔を出したニワトリの妖怪ヒザマが、紙札の詰まった段ボール箱の横でふわふわと浮かんでいる。ヒザマが荷台にいたのは、合図を受けてお札を道路にばら撒くためだったようだ。

「難儀やなあ嬢ちゃん。ま、早いとこコッチに乗り移りいや。モタモタしてると間に合わへんで」

 速度が落ちたとはいえ、走っているスポーツカーからトラックの荷台に飛び乗れというのは、あくまで一般人の明里には無茶な話ではあったが、そうしなければ助からないのも事実である。

「うう、でもやっぱり無理っぽいかも」

 飛ぼうにも狭くて思うように立ち上がれず、隣では矢野が目を光らせている状況では、進むも退くもままならない。明里が困り果てていると、八海老師の運転するポルシェから草助が上半身を外に出し、筆に変化していたすずりを元の姿に戻るよう言い、さらにこう付け加えた。

「一足先に荷台に飛び移って、お前の髪で僕と船橋さんを荷台に引っ張ってくれ」

 すずりは言われた通りに赤い着物の少女姿に戻ったが、ポルシェの屋根に座り込んだまま膨れっ面をしている。

「な、なんだその不満に満ちた顔は」
「今回は出番が少ないし、こんな地味な役目しか回ってこないしさー。ていうか草助、アタシのこと便利な七つ道具みたいに思っちゃいないだろうね? 明里はちゃんと助けるけどさ、なーんかこの扱いに納得できないっていうかー」
「ああもうこんな時に! 誰もそんなこと言っちゃいないだろ」
「甘いものでも食べたら気合いも入ると思うんだけどなー」

 横目で含み笑いをするすずりに、草助は口の端を引きつらせながら叫ぶ。

「ええいわかった! これが終わったら無尽庵の白玉あんみつ食わせてやるから、さっき言ったとおりにやってくれ!」

 無尽庵というのは、朝比奈市の一角にひっそりと店を構える甘味処で、百二十年も昔の建物をそのまま使った、懐かしい雰囲気と素朴な味が売りの店である。草助も小遣いに余裕がある時などには、よく足を運んでいたものだった。

「へへ、そうこなくっちゃ! すずりさんは俄然やる気が出てきちゃったもんね」

 あんみつと聞いて途端に元気になったすずりは、軽やかに跳躍してトラックの荷台に飛び移ると、頭の後ろで筆先のように結んだ髪を腕の形に変化させ、長く伸ばしてポルシェの草助をトラックの荷台に引っ張り上げた。続けてGT-Rの助手席にいる明里の身体を掴んだが、そこで予想通りの邪魔が入った。

「このまま逃がしてたまるか。お前は俺のもんだ!」

 矢野は明里の右腕を掴み、決して離すまいと指がめり込むほどに力を込めている。彼の下半身は車体と完全に融合し、根が張ったようになっていてビクともしない。

「離して、痛いっ」
「やっと、やっと全てを手に入れたんだぞ! それなのにどうしてこんな事になるんだチクショウが! なんで俺を認めようとしないんだ明里ィ!」
「地道に自分を磨いて、汗を流して努力して……そうやって道を切り開く人は素敵だと思うわ。だけど矢野くん、あなたは自分のやる事が上手くいかないのを、ずっと環境や道具のせいにしてきただけじゃない」
「な、なんだと!」
「誰の声にも耳を貸さず、自分の事しか見ていない……私じゃなくたって、誰もそんな人を好きになったりしないわ!」
「く、くそ! お前まで俺を馬鹿にすんのか。だ、だったら……だったら! お前を誰かのもんにするくらいなら、このまま道連れにしてやる!」

 矢野が逆上して叫んだ瞬間、明里の抱えていたバッグの中から、白くフサフサした毛並みの生き物が飛び出し、矢野の腕にかじりつく。それは明里が引き取って世話をしている、火鼠のハナビだった。明里は万が一の為にと、大きめのバッグにハナビを隠して連れてきていたのだ。

「ププッ! プイプイッ!」
「うわっ!?」

 鋭い前歯で噛みつかれ、矢野はたまらず明里から手を離す。その瞬間を見逃さず、すずりは明里を運転席から引っこ抜き、トラックの荷台まで引っ張り上げた。ハナビも明里に抱きかかえられていて無事だった。

「う……うおおおおおおおおっ――!」

 明里を逃がした矢野が絶叫すると、車体はついに限界を越え、走りながら分解していった。鉄の骨格が割れて折れ曲がり、ガラスはひび割れて砕け、コントロールを失ったGT-Rはそのまま高速道路の脇にある壁に激突し、二度と動かなくなった。




 八海老師のポルシェと定岡の運転するトラックも、近くの路側帯に停車し、草助と八海老師は残骸と化したGT-Rに近付いた。草助の手には、再び筆に変化したすずりが握られている。

「老師、妙ですよ。車が壊れたのに異界が消えない」

 草助が身構えて呟くのと同時に、車の残骸からひとつの車輪が外れ、転がりながら草助と八海老師の前に近付いてきた。それはゴムとアルミで出来た車輪に違いはなかったが、みるみるうちに直径一五十センチほどに巨大化、車輪の中央には巨大な男の顔があり、その半分に矢野の身体が溶け込んでいるという奇怪な姿となった。矢野の下半身は完全に輪入道と同化しており、残る上半身も少しずつ飲み込まれ続けている。矢野は気を失っているのか、ぐったりとうなだれて動かない。車輪に付いた顔は、大きな眼球で草助たちを睨み、憎らしげに唸り声を上げた。



「おのれ……貴様らさえ現れなければ、もっと多くの魂を喰らえたものを」
「そのために彼を取り込んで操っていたのか。許さないぞ」

 草助の言葉に、輪入道は低く不気味な声で嗤いながら言う。

「人聞きが悪い。こいつがわしと手を組むことを望んだのだ」
「ば、馬鹿な。それじゃこの矢野という男は、自分から進んで人を轢いたっていうのか」
「欲に満ちた人間の心は、醜く脆いものよ。ほんの少し背中を押してやるだけで、実に簡単であったぞ、くくく。もはや今となってはどうでも良いが、わしの邪魔をした貴様は生かしておかぬ!」

 輪入道はその場で車輪を激しく回転させ、摩擦熱で車輪に炎を纏うと、弾丸の如き速度で突進してきた。八海老師はいち早く危険を察知して身をかわしたが、草助は一瞬反応が遅れてしまった。

「うわっと!」

 草助はすんでの所で身を逸らし、前髪が少し燃えてしまうくらいで難を逃れたが、あの勢いで直撃を受けたら人間などひとたまりもない。草助の横を通り過ぎた輪入道は反対側の壁に激突すると、勢いを失わぬまま跳ね返って直進、再び壁にぶつかっては跳ね返るという、軌道の読めないデタラメな暴走を繰り返しながら、徐々に草助のいる方へと迫ってきた。

「な、なんとかしてください老師。これじゃ手が付けられませんよ!」
「すぐに他人を頼るでない馬鹿者。ワシはさっきまで車を運転しながら霊力を出し続けておったんじゃぞ。せっかくの機会じゃ、お主一人で輪入道を退治してみせよ。上手くやれたら、ちょびっとだけ修行を軽くしてやってもええぞ」
「ほ、本当ですか! って、浮かれてる場合じゃないぞこれは」

 正面からまともにぶつかっては、たとえ筆の一振りを浴びせたとしても相打は必至。輪入道の突進を紙一重で避けながら、草助は攻略法を必死に考えていた。

(ああ、やっぱりあの方法しか思いつかない。一か八かの博打みたいな事は嫌いなのに……やれやれ)

 嘆息しつつも他に方法がないと悟り、草助は覚悟を決めて立ち止まる。輪入道に正面から向き合うと、筆を握りしめて身構えた。

(持ちこたえてくれよ、僕の身体……!)
「ついに観念したか。貴様の肉と魂、残らず喰らってくれる!」

 輪入道は足を止めた草助を見て諦念したものと思ったらしく、一気に轢き殺さんと真正面から突撃を仕掛けてきた。

「でやあああっ!」

 輪入道と草助の身体が接触する寸前、草助は裂帛の気合いを込めて霊力を放出する。瞬間的に全霊力を集中して身に纏い、防御を固めて激突の威力を相殺するのが草助の狙いだった。どうにか五体をバラバラにされる事は免れたが、わずかでも気を抜いたら吹き飛ばされそうな衝撃に晒され、草助の全身に激痛が走る。

「うぐっ、想像以上にキツぞ。あばらが折れたんじゃないかこれは……」

 草助はやっとの思いで身体の軸をわずかに回転させ、輪入道の力を横に逃がす。これは武道などで言われる「いなし」という受け流しの技と同じもので、力の矛先を逸らされた輪入道は、瞬きするほどの時間だが無防備な姿を晒した。草助はすかさず逆袈裟に筆を振り抜いた。あらゆる妖怪を退治するという筆のひと払いを受けた輪入道は、墨状の液体となった自分の身体を口から吐き出し、転がりながら断末魔の悲鳴を上げた。

「ば、馬鹿な、わしの身体が崩れ……ぐわあああああっ!?」

 すずりの不思議な力で身体が溶けつつも、輪入道は必死の抵抗を試みていた。一度は落ちた速度が再び増し、少し離れた場所にあるトラックめがけて進み始めたのである。

「し、しまった!」

 輪入道の狙いに気付いた草助だったが、一気に霊力を使い果たして消耗し、思うように走れない。輪入道はトラックの荷台に体当たりをして強引に壁を突き破ると、中を覗き込んで呻いた。

「女……若い女の魂……魂さえ喰えばこれしき……た、魂をよこせええええっ!」

 荷台の中では、激突の衝撃で明里が床に座り込んだままで、輪入道の目と鼻の先にいた。輪入道は死にもの狂いで彼女に食らいつこうとしたが、輪入道と同化したまま動かなくなっていた矢野の身体が突然起き上がり、輪入道の眼球に拳を突っ込んだ。

「ギャアアアアーーーーッ!」
「ふざけんなよ……そ、それだけはテメエの自由にさせねえ」

 それだけ呟くと、矢野は力尽きたのか再び動かなくなった。苦しみに悶える輪入道は、目からも液体を吹き出しながら、尚も明里を求めて近付こうとする。しかし明里の傍らにいる火鼠のハナビが背中の毛を逆立てて激しく威嚇し、体当たりして輪入道を押し返す。明里はその間に後ずさって距離を取ったが、手に固い破片が触れてそれを拾い上げた。暗くてよく見えなかったが、手触りや重さから判断すると陶器のようである。周囲にはその破片が散乱しており、明里がハッとして頭上を見上げると、コンテナの隅に真っ赤に燃え上がる双眸が暗闇に浮かび上がっていた。

「おんどれ……なにさらしてくれとんねん。ワ、ワイの壷が……デリシャスでぷりちーで、ハートキャッチなワイの寝床が粉々になってしもうたやないか! どないしてくれんじゃコラアアアアアアア!」

 両目に涙のような炎を溢れさせながら、太ったニワトリの姿をした火の妖怪、ヒザマが吼えた。ヒザマの眼光に睨まれた輪入道の顔面は炎に包まれたあと、爆発を起こしてトラックの荷台から落ちていった。
 燃えながら落ちた輪入道の身体は完全に溶けて墨の水溜まりとなり、残った矢野の上半身だけがそこに横たわっていた。草助は痛めたあばらを押さえながら近づき、すずりが変化した筆に墨を全て吸い取らせると、横たわったまま動かない矢野に目を向けた。

「どうしてここまで来てしまったんだ……」

 悲しげに呟く草助の言葉に、弱々しいかすれ声が返ってくる。

「お前にはわからねえよ……」
「まだ息があったのか! 早く手当を!」
「やめとけ、どうせ無駄だ。それより教えてくれよ。どうして俺は望んだモノを手に入れられない? 金も全部つぎ込んだ、他人も犠牲にした……なのに結果はこの通りだ。笑えるだろ、ハハハ」

 表情を歪めて自嘲する矢野に対して、しばらく沈黙していた草助は言った。

「違う……あんたは踏み止まるべきだったんだ。他人を踏みつけて一番になったって、周りには喜んでくれる人は誰もいない。借り物の力じゃあ、それを失ったらなにも残らないじゃないか。だから自分を磨いて、自分の力で望みを叶えなきゃ意味がないんだ」

 草助の言葉に、矢野は黙り込んだまま返事をしなかった。明里も八海老師も二人の様子をじっと見守っていたが、異変はその時に起こった。ふいに生ぬるい風が吹いたかと思うと、どこからともなく一人の男が現れ、矢野の方へと近付いていく。その男は黒い帽子に黒いスーツを身に着け、白い手袋をした手に四角いケースをぶら下げている。黒いスーツの男は草助と矢野の目の前までやってくると、手にしたケースを足下に置き、型で押したように変わらない笑顔を向けて拍手をする。

「実に素晴らしいセリフだ。君の言うとおり、望みは自分の力で叶えなければいけない。道具の力をアテにするなんてのは良くないな」


「だ、誰だ!? いつからそこに……」

 それは草助だけでなく、その場にいた全員が同じ事を思っていた。今この時まで、誰一人として黒いスーツの男が近くにいるのを見ておらず、気配すらも感じられなかったからだ。

「なに、私は通りすがりの商売人ですよ。ちょっとそこで横になっている彼に用がありましてね」

 そう言うと、男は草助の存在を気にする様子もなく、矢野に近付いて彼を見下ろした。

「やあ、久しぶりです。ちょっと見ないうちに少々姿が変わってしまったようで……私が用意した車の乗り心地はどうだったかな? 妖怪を車に取り憑かせただけだが、なかなかの性能だったでしょう?」
「こ、この野郎……よくもあんなバケモノ車を売りつけやがって。おかげで俺はこのザマだ、どうしてくれる」

 黒い墨溜まりの中で、矢野は恨めしそうに首を持ち上げて黒いスーツの男を睨む。

「おやおや、道具を使ってどんな運命を辿るのかは私の責任じゃあない。それに君は他人の命を犠牲にし、レースに勝ち続けて得意の絶頂になっていただろう。文句を言われる筋合いは無いな」
「なんだと……!」
「それと最初に言ったが、私は商売人だ。ボランティアで道具を貸してるわけではない。今日ここへ来たのは、支払いを済ませてもらうためでね」
「へっ、なら無駄足だったな。テメェに支払う金なんか持っちゃいないぜ、ハッハハハ……」

 ざまあみろと言わんばかりに笑う矢野だったが、黒いスーツの男は憤るどころか、線のように細く弧を描いた両眼をわずかに開き、背筋が寒くなるような冷たい声を発した。

「誰が金を払えと言った? 私が頂く代価は……お前の魂だよ」

 黒いスーツの男が矢野に向かって右手をかざすと、突然矢野が激しく苦しみ始めた。黒い墨溜まりの中で矢野はもがき続けたが、やがて白目を剥いて口を大きく開いた。彼の口からは灰色に濁った色をして細長い尾を引くものが抜け出し、白い手袋に引き寄せられていく。黒いスーツの男は尾を引く塊を掴むと、満足げに眺めていた。

「ククク、素晴らしい。手間をかけただけあって、充分に穢れている」

 矢野はそれきり糸が切れたように動かなくなった。黒いスーツの男がなにをしたのか、草助の鋭い霊感は即座に答えを導き出す。

「お前まさか、魂を抜き取ったのか!?」
「私は人の願望を叶える道具を提供する。その見返りに魂を頂く。公平な取引だと思うがね」
「な、なんて事を……それじゃ矢野は、お前にそそのかされて道を踏み外したようなものじゃないか。輪入道が蘇ったのも、全部お前が仕組んだことだったんだな!」
「フフフ、ご名答。確か輪入道を封じたのは、あそこにいる禿げた爺さんだったな。妖怪を封じるなら、もう少し歯ごたえのある封印にするべきだと伝えておきたまえ」
「くっ……貴様ッ!」

 草助は黒いスーツの男に掴みかかろうと手を伸ばしたが、突如黒いスーツの男から強烈な衝撃波が放たれ、為す術もなく数メートルも吹き飛ばされてしまった。黒いスーツの男は何事もなかったかのように、ポケットから空き瓶をひとつ取り出し、その中に矢野の魂を押し込んで栓をすると、道路に転がった草助に言い放つ。

「勢いは結構だが、まるで話にならない。私が相手をする価値もないようだ」
「う……ぐっ……!」

 輪入道と戦ったダメージも重なり、草助は立ち上がることができなかった。草助の危機に、八海老師が間に割って入り、錫杖と数珠を突き出して相手を牽制した。

「貴様、一体何者じゃ。封じられた妖怪を蘇らせてなにを目論んでおる」

 黒いスーツの男は八海老師の威嚇も意に介さず、地面に置いたケースを手に取ると、平然とした態度で言った。

「私の名は黒崎道影。お前の質問については、今は答えるつもりはない。これで満足かな?」
「ふん、人を食った奴じゃ。だがいつまでもすました顔ではいられんぞ。これ以上ワシの弟子に手出しはさせん」
「美しい師弟愛と言いたい所だが、霊力をすり減らした出涸らしのような状態では意味がなかったな。だが、あいにく私も忙しいのでね、君たちを相手にしている暇はない。次に会うときまで、せいぜい腕を磨いておくことだ。特に……そこで寝転がっている君の弟子はね。それでは、ごきげんよう」

 黒崎道影と名乗ったその男は、くるりと背を向けて遠ざかっていく。彼の姿は途中からまどろんだように輪郭がぼやけ、ほどなくかき消すようにいなくなってしまった。




 それから一時間後、輪入道との戦いに参加した全員が梵能寺に集まっていた。草助は明里に包帯を巻いてもらいつつ、八海老師と神妙な顔つきで話し合っていた。

「老師、あの男は一体何者なんでしょうか」
「黒崎道影と名乗っておったが、影女に鬼門符を渡した呪物売りと見て間違いなかろうな。しかしあれだけの力を持ちながら、今までワシにさえ知られずにいたとは……油断のならん奴よ」
「それにしても逃がしたのが悔しいですよ。老師が本気を出せばひとひねりで――」

 語気を強めて憤る草助に対し、八海老師はゆっくりと首を横に振る。

「いや。もしあのまま戦っておったら、ワシらは全員殺されていたかもしれん」
「まさか。いくら疲れていたからって、老師が負けるはずが」
「ワシは無敵のスーパーマンではないぞ。ただの老いぼれじゃ。お主が黒崎に弾き飛ばされたあの瞬間、ワシは底知れない力の片鱗を感じた。人間の姿をしているが、とんでもない怪物じゃぞあいつは」
「そんなに……」
「悔しいか草助よ」
「はい。輪入道は退治しましたけど、今回は僕らの負けだった気がします。あの男にとって、矢野の魂を奪い取ることが目的のようでしたし」
「うむ。奴の正体と狙いも調べなくてはいかんのう。今回はほぼ無視された形で腹が立つが、拾った命じゃ。もっともっと修行を積み、あの余裕かました態度が間違いじゃったと思い知らせてやれ」
「はい、わかりました」
「ちうわけで、どうもワシはお前を甘やかしすぎていたようじゃ。これからはさらに修行をキツくするからそのつもりでな」
「げっ!? そ、そりゃないですよ老師!」
「つべこべ言うでない。そもそもお前が弱っちいから悪いんじゃ」
「……あがが、急にあばらがっ。あばらが痛くて修行は無理です、当分休まなきゃダメだなーこれは」

 草助はわざとらしく着物をはだけさせ、包帯の巻かれた胴回りをアピールする。八海老師は真ん丸い眼鏡越しに草助を凝視すると、手元に置いていたキセルで肋骨を突く。キセルの先端が包帯にめり込んだ瞬間、草助は畳にのたうち回って絶叫した。

「うぎゃああああああっ!」
「くだらん芝居などしおって。まったくお前という奴は」

 くの字に身体を曲げて悶絶する草助に近付いてきたのは、八海老師からの連絡でトラックと大量のお札を用意していた定岡だった。

「よう、そっちの話も終わったところでちょっといいか、筆塚」
「おっおおお……」

 草助が上体を起こしながら頷くと、定岡が疲れた表情で座敷の端を親指で指している。その方向を目で追うと、部屋の隅っこで壁に向かって座り込むヒザマの姿が目に入った。

「ほれ、輪入道がトラックに突っ込んできた時によ、前にお前からもらった壷が割れちまったんだよ。悪いが同じモンをもうひとつ譲ってくれねーか。あいつ、同じ壷じゃないと嫌だとか駄々こねて聞かねーんだよ」
「いや……そりゃ無理ですよ。あの美濃焼の壷は滅多に手に入らない一品物だし、特別にかなり安く譲ってもらったけど、普通に買おうとしたら何十万としますよ?」
「げっ……」
「お金払ってくれるなら僕の方で探すけども」
「いや、いい。やっぱ遠慮しとく。もう一度説得してくらあ」

 定岡は呆れ顔で立ち上がると、部屋の隅っこにいるヒザマに手振りを交えて事情を説明した。が、次の瞬間定岡の頭がボンッという音と共に爆発し、見事なアフロヘアーに変化してしまう。

「なんて事しやがんだこのクソ鶏!」
「アホンダラ! ワイのために壷が用意できんとはどういう了見じゃコラァ!」
「お前の寝床ごときに何十万も出せるかっつーの! 大体な、そんなに大事なら普段は別のところに保管しとけって言ったのに聞かないから悪いんだろうが!」
「とにかくなんか用意せえや。ワイは収まるモンがないとあかんちゅうねん」
「チッ、いちいち注文の多い奴だ。ちょっと待ってろ」

 そう言って定岡は座敷の外に出て行ったが、すぐに戻ってきた。

「ほれ、これにでも入ってろ」

 そう言って差し出されたのは、例によってどこにでも見かける水色のバケツである。

「い、嫌やああぁ〜っ! 屈辱やん、めっちゃ屈辱やん! こんなん絶対あかんてぇ!」
「他にねーんだよ。つべこべ言うな」
「うう……なんでや、なんでワイだけこんな目に遭わんといかんのや〜」

 ヒザマは渋々青いバケツに入ったが、ますます落ち込んでブツブツと独り言を呟き続けるのであった。




「――で、アタシの出番はもうないわけ?」
「だから約束通り、こうして無尽庵に連れてきてやってるだろ」

 輪入道との対決から数日後、草助とすずりは約束通り甘味処の無尽庵に足を運んでいた。そしてもう一人、明里も草助たちと同席していた。

「んーっ、おいし。クリーム白玉もいけるわねー」

 明里はバニラアイスと冷やした白玉をスプーンですくい、一緒に口に入れながら舌鼓を打っている。すずりは例の如く、嵐のような勢いでフルーツあんみつのおかわりを頼んでは食器を積み上げている。

「それにしても今回は色々と濃い事件だったなあ。多くの犠牲も出たし、まさかカーチェイスをする事になるとは」
「うん、すっごく怖かったわ。私は絶対に安全運転するんだから」
「しかし、彼は少し気の毒だったな」
「矢野くんのこと?」
「ああ。間違った方法でしか自分の目的を成し遂げる方法を見つけられなかったなんて」
「そうね。誰も彼に本当に大事なことを教えてあげられなかったんだもの。それに自分の知ってる人があんな風になっちゃうなんて怖いな……」
「彼は半分妖怪に取り込まれてた。だとしたら妖怪と人間の違いはなんなんだろうってさ、ちょっと考えちゃって」

 草助が古い座敷から庭園を眺めて呟くと、後頭部をポカリと小突かれた。振り返ると、スプーンを口にくわえ、口の端に餡を付けたままのすずりが不機嫌そうな顔で見上げている。

「いてっ」
「甘い物食べに来て辛気くさい顔してるんじゃないよ、まったく」
「すまんすまん。だけど、どうも今回の事は色々と心に引っ掛かってるんだよ」
「妖怪ってのはああいうもんだよ。心の弱さにつけ込んで、人間の暗い部分を食って大きくなるんだ。だからオマエたちは、欲や恨みの心に負けないように気をつけなくちゃいけないのさ」
「……そうだな。僕も気をつけるよ」

 草助が微笑を浮かべて頷くと、明里も同調して笑顔で頷く。すずりもにこっと笑って頷くと、口の端に付いた餡を舌で舐め、明るい声を張り上げる。

「わかればよろしい。てなわけで、もいっちょおかわり!」
「お前はもう少し食欲に打ち克ってくれ、頼むから」

 財布の中身を気にしてテーブルに突っ伏す草助を、明里とずずりがいつまでも笑いながら眺めていた。




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