魂筆使い草助

第五話
〜影女〜



 夕暮れの歩道に並んだ三つの影が、朝比奈駅から住宅街へと向かう道をゆっくり移動していく。二つは大人で、一つは小さな子供である。大人の影の一人は、癖っ毛でボサボサ頭の若い男で、年齢は二十歳くらい、ブラウンのPコートにジーンズという、ありふれた服装をしている。もう一人ははつらつとした表情と育ちの良さそうな雰囲気の女性で、男と同じ二十歳ほどの年齢である。丈の長い真っ白なコートに黒いタイトスカート、そしてスカートと同じ黒のロングブーツを履いている。そして二人の間にいる子供は、赤い着物姿で後ろ髪を結び、髪の先を筆のような形にしている娘だった。男の名は筆塚草助、女は船橋明里、そして赤い着物の娘はすずりと言い、時々こうして草助と明里が通う美術大学の帰り道を一緒に歩くことがあった。明里が草助の描く絵の雰囲気に目を留めた事がきっかけで二人は知り合い、今では昼食や帰り道を一緒にするくらいに仲良くなったものの、明里は草助が人知れず妖怪退治の仕事をしていることを知らず、すずりが妖怪を封じる筆の化身であることも当然知らなかった。実際には明里自身、妖怪の起こした事件に巻き込まれて襲われたことがあり、さらには彼女の自宅で飼われているハナビという名のネズミも、正体は火鼠という希少な妖怪なのだが、草助は彼女にその事実を伝えずにいた。無論それは、明里を危険な目に遭わせまいとする気遣いからだったのだが。

「ひゃっ!?」

 雑談をしながら歩いていると、帰り道の途中にあるマンションの前で、明里が小さな悲鳴を上げて立ち止まった。無論、目の前に障害物があるわけでもなく、彼女がなにかにつまずいたりした様子もない。不思議に思って草助が訊ねると、明里はマンションの敷地を囲う塀に映った自分の影を指す。

「か、影が動いたのよ」
「そりゃあ自分の影は動くんじゃないかな」
「ううん、そうじゃなくて。一瞬だけど、影が私の動きとまったく関係ない形に変わったように見えたのよ。それで、私の方を見てる気がして、そう思ったら急に背筋がぞわっと……」
「うーん、気のせいだとは思うんだが」

 草助は明里の影を調べてみたが、特に変わった事はなく、影は明里と同じ姿で地面と壁に張り付いているだけである。草助が首を傾げていると、後ろで見ていたすずりが言った。

「それってさ、たぶん影女だよ」
「影女?」

 草助と明里が聞き返すと、すずりはこくりと頷く。

「影しかない女の妖怪。だから影女っていうのさ。満月の夜だとか、今みたいな夕暮れ時の影が濃い時間に、たまに姿を見せる事があるんだよ」
「へー、すずりちゃんって妖怪のこと詳しいのね。小さいのに変わってるわねえ」
「当たり前じゃん。だってアタシは――」

 すずりが口を滑らせそうなのを見て取るや、草助はすずりを横からかっ攫って口を塞ぎ、笑って誤魔化す。

「こないだ僕の家にあった妖怪図鑑を見てたからなんだよ、ははは」
「なんだ、そうだったの」

 腕の中でじたばたともがくすずりを離すと、すずりはムッとした表情で草助の足を軽く蹴飛ばす。

「あだっ。こら、人を足蹴にするとはどういうつもりだ」
「そりゃアタシの台詞だよ。乱暴に扱って傷物になったらどーしてくれんのさ」
「傷物ってお前なあ……」

 草助が呆れている隣で、明里はあらためてすずりに訊ねた。

「ねえすずりちゃん、その影女って一体どんな妖怪なの? もしかして取り憑かれたり呪われたりとかするんじゃあ……」
「大丈夫だよ。影女は大した力もないし、悪さをするような奴じゃないよ」
「そっか、なら安心かな」

 ホッと胸をなで下ろして安心した仕草をする明里に、草助は不思議そうな顔をして言う。

「つかぬ事を聞くけど……船橋さんは妖怪を信じてるのかい?」
「んー、本当にいるかどうかは分からないけど」

 実際に目の前に妖怪のうちの一人がいたりするのだが、無論それを言えるはずもない。

「でも、小さい頃はオバケがいるって信じてたわ。自分の影がぬーっと伸びてきて、誰も知らない異世界に引きずり込まれちゃうとか……そんな事考えて、夜眠れなくなったこともあったっけ」
「異世界に引きずり込まれる、か……確かにぞっとしないね」

 他愛もない子供の妄想だと明里は笑うが、普段から妖怪と関わっている草助にはあまり他人事の気がしない。ともあれ今は何事もなくてよかったと、内心で草助も安堵する。

「でも筆塚くんと一緒にいる時って、なんだか奇妙な出来事が起きやすい気がするのよね。どうしてかしら?」
「き、気のせいだよ気のせい。さあ、いつまでも立ち止まっていないで先を急ごう」

 草助は明里の背中を押すようにして、その場を後にする。だが去っていく彼らの背後、塀の一角に出来た影の中でなにかが蠢いたのを、誰も知ることは無かった。




 そんな出来事があってから数日後、朝比奈市では人が忽然と消えるという事件が相次いで起き、謎の神隠し事件として騒ぎになっていた。草助は師匠である八海老師に呼ばれ、彼の住む梵能寺を訪れると、本堂の脇にある小径を通って八海老師の住居に向かった。座敷の中央で小さな机を挟んで八海老師と向き合うと、彼は頭頂部に残った白い毛を撫でながら話し始める。草助についてきたすずりは、茶菓子に出された饅頭をほおばりながら聞き耳を立てていた。

「さて、今日お主を呼んだのは、例によって妖怪退治の仕事が入ったからじゃが」
「今回はどんな妖怪なんです?」
「草助はここ最近騒ぎになっておる神隠し事件を知っておるな?」
「ええ、なんでもさっきまでそこにいたはずの人が、急に消えていなくなってしまうと聞きましたが……不思議な事もあるもんですね」
「うむ。ワシの調べたところによると、どうやら今回の事件は影女という妖怪の仕業らしいのじゃ」
「影女!」
「なんじゃ、知っておるのか?」
「いえ、先日その妖怪の話をすずりがしていまして。けれど大した力もなく悪さをする妖怪ではないと」
「……そのはずなんじゃがな。状況から見て、こんな事が出来るのは影女くらいしかおらんのじゃよ。そこでお主には、事の真相を確かめて欲しいのじゃ」
「分かりました。まずは手掛かりを見つけなくちゃいけませんね」
「おお、行ってくれるか」

 八海老師は草助に神隠し事件が起こった現場の一覧を渡し、さらに付け加えた。

「念のために助っ人を連れて行け。もし影女と戦うことになれば、お主一人の手に余るかもしれんからな」
「手に余るって……大人しい妖怪だったんじゃないんですか?」
「その通りじゃが、影女は敵に回すと厄介な能力を持っておるんじゃよ」
「なんか急に不安になってきたんですが……で、助っ人とは?」
「お主も知っとる連中じゃ。ほれ、ハナビとヒザマを憶えておるじゃろ」

 ヒザマというのは奄美諸島の沖永良部島に伝わる火の妖怪で、ニワトリに似た姿をし、胡麻塩色の羽を持ち、頬が赤いという姿をしている。ヒザマは家に憑いて火事などを引き起こすため、かつては八海老師に封じ込められていた。その後、定岡という妖怪退治屋の手によって封印を解かれたヒザマは、彼と共に悪事を働き草助に懲らしめられた過去があるが、今は八海老師の監視の下、定岡と共に大人しく暮らしているとの事だった。

「なんだ、あの二匹ですか?」
「影女の弱点は火じゃ。連れて行けばきっと役に立つぞい」
「分かりました。それじゃあ船橋さんと定岡って人の所へ行ってから調査を始めます」

 草助は立ち上がり、新しい饅頭に手をつけているすずりの襟を引っ張りながら座敷を後にした。




 草助は携帯電話で明里に連絡を取り、例の話を切り出すことにした。コール音が四回ほど繰り返した後、聞き慣れた明るい声が耳に返ってくる。

「はーい、船橋です」
「やあ、筆塚だけど。今ちょっと話をしてもいいかな?」
「大丈夫よ。なあに?」
「ちょっと頼みがあってね。君の所にいるハナビをしばらく預からせて欲しいんだ」
「えっ、どうして? あ、預かってもらうのは別にいいんだけど」
「あーっと……ほら、ハナビはとても珍しい種類だって言ったろ? 病気の予防接種しなきゃいけないんだけど、普通の獣医さんじゃやってもらえないんだよ。老師の知り合いに有名な動物の研究者がいて、その人に頼む事になってるんだ」

 とっさに出た作り話としては、我ながら上出来だなと草助は思った。明里もその話を疑うこともなく、草助は早速彼女の家に向かった。高級住宅地にある明里の家は相変わらずの大きな家で、一目で裕福な家柄だと分かる。広い庭の中を通り抜けて玄関のチャイムを押すと、間を置かずに明里が顔を出す。彼女は「ちょっと待っててね」と言って一旦家の中に戻り、しばらくしてハナビを抱いて出てきた。久しぶりに姿を見るハナビはすっかり毛づやも良くなり、火のように赤い背中の毛が一段と映えている。大人しく抱きかかえられている姿だけを見ると普通のペットのようであるが、ハナビはれっきとした火の妖怪であり、一度は草助たちの危機を救ったこともある。

「やあ、ハナビは元気そうだね」
「うん、この子ったらよく食べるし走り回るしで、結構大変なの」
「へえ、以外とヤンチャなんだ。まだ子供だから仕方がないんだろうけど」
「そうね。でも私一人っ子だから、年下の弟妹が出来たみたいで嬉しいのよ」
「うんうん、ハナビも可愛がってもらえて良かったじゃないか」

 明里の腕の中で話を聞いていたハナビは、草助と明里を交互に見ると、鼻をヒクヒクさせてプイプイと鳴いた。明里がハナビを地面に降ろしてやると、ハナビは草助の隣にいたすずりに近付き、身体をこすりつけてじゃれ始めた。

「おっ、ちゃんとアタシのこと憶えてんのかー。出来のいい子分だねオマエは」
「プイプイ!」

 同じ妖怪同士という事もあってか、すずりとハナビは気が合う様子である。これならハナビの助力を得ることに問題はないだろうと、草助は心の中で安堵していた。

「ところで筆塚くん、その有名な動物研究者の人、私にも紹介してくれない?」
「いっ!?」
「だってハナビちゃん珍しい種類なんでしょ? もし病気とかしたら、その人にすぐ連絡取れた方がいいだろうし」
「い、いや、それはだねえ」

 まさに前言撤回、である。あっという間に馬脚を現してしまった作り話を取り繕うために、草助は矢継ぎ早に話を繰り出した。

「その人はちょっと気難しくて、老師の紹介状がないとなかなか会ってくれないんだよ。いや実に困った話なんだが」
「じゃあ私の分も紹介状頼んでもらっていいかしら。飼い主なんだし、それくらいしてもらってもいいわよね?」
「そ、それは……」

 しどろもどろになる草助に追い打ちをかけるかの如く、明里の視線が突き刺さる。

「ねえ筆塚くん。前から思ってたんだけど、なんか私に隠し事してなーい?」
「しっ、してないとも!」
「……怪しい」
「ぼ、僕が今まで君をだますような真似をしたことがあったかい?」
「今のところ無いけど……でもなんか変だもの」
「と、とにかく、用事が済んだらハナビはすぐ返しに来るよ。それじゃ!」

 あっ、と明里が声を上げると同時に、草助はすずりとハナビを脇に抱え、脱兎の如くその場を逃げ出していた。

「絶対怪しいわよね。こうなったらなにをしてるか突き止めてやるんだから。見てなさいよ」

 草助の背中に刺さるような視線を送りつつ、明里は一人決意を固めていた。




 明里の家を後にした草助は、縦浜市にある港方面に向けてスーパーカブを走らせていた。ヒザマを預かっている定岡という男は、八海老師の知り合いの監視の下、港にある配送所で肉体労働に従事しているらしい。八海老師いわく「性根を入れ替えるには丁度いい」という事だったが、彼の丁度いいが常人にとっては死ぬほどきついことを味わっている草助は、一度は自分を陥れた相手といえど、同情を禁じえない思いであった。程なくして港の配送所に辿り着くと、草助は現場を仕切っている監督に声を掛け、定岡の所在について訪ねた。ひげを生やした逞しい体格の監督が指した先には、髪を明るく脱色し、僅かにあごひげを生やした軽薄そうな顔つきの男がおり、それが草助の探していた定岡であった。年齢は三十代くらいといったところで、薄緑の作業着に身を包み、大きな荷物を抱えて額に汗をにじませている。草助は少しためらいつつも定岡に近づき、背中越しに声を掛けた。

「あのう、ちょっといいですかねえ」
「ああ? 誰だこの忙しいときに……げっ!?」

 振り返って草助の顔を見た定岡は、驚いた拍子に重心が崩れ、両手で抱えていた段ボール箱に押し潰されるような形で仰向けにひっくり返った。

「うぐぐ、どうしてお前がここにいるんだあ?」
「やあ、久しぶりですね」

 定岡は腹の上に乗っかったダンボールを横にどけ、ぜえぜえと息を荒げながら上体を起こす。

「で、なんの用だ? まさかあのジジ……いやいや、八海老師に頼まれて俺の監視にでも来たのか」
「まさか。僕も老師もそんなに暇じゃないもので」
「けっ、悪かったな!」
「とりあえずはお元気そうで」
「なにが元気だよちくしょう。この定岡様ともあろう者が、今じゃこんな所に放り込まれて朝から晩までこき使われてるんだぜ。まったく泣けてくるぜ」

 大げさに嘆息する定岡に「自業自得でしょう」と苦笑しつつ、草助は今日ここへ来た本題を切り出すことにした。

「実はですね、今日はあんたに頼みがあってここへ来たんですよ」
「……俺になにをしろってんだ?」
「ちょっとヒザマの力をお借りしたくて。あいつはどこにいるんです」
「ああ、ヒザマならそこにいるぜ」

 定岡は親指を立て、配送所の壁際に置かれた水色のバケツを指す。そこに目をやると、丸々太ったニワトリが、水色のバケツの中から顔だけを出してボーっとしているのが見えた。定岡によれば、ヒザマは前回の事件で住処の壷を失って以来、ずっとあの調子で気力が抜けてしまっているらしい。試しに近づいて話しかけてみたが、返ってくるのは生返事ばかりである。しばらく考えた後、草助はある事を思いつく。

「バケツの住み心地はどうだい?」

 草助の言葉にヒザマは丸い目玉を見開き、怒りを含んだ鳴き声を上げる。

「ワイは炎の邪神とも恐れられたヒザマ様やで! それがこんな安物のバケツで暮らさにゃならんとは、屈辱や……屈辱やでホンマ! あ〜、もうなんもやる気せえへん」
「実はお前にとってもいい話があるんだが」
「知るかボケェ。もうなにもかもめんどくさいんや、あっち行け」
「そりゃ残念だなあ。上手くいけば美濃焼きのいい壷を譲ってやろうと思ったんだが、嫌なら仕方ないな」

 草助がわざと大げさに肩をすくめて立ち去ろうとすると、目をギラギラと光らせたヒザマが、草助の肩に手ならぬ羽根をポンと置いて引き止める。

「その話、詳しく聞こうやないか兄ちゃん」
「そう来なくっちゃ」
「で、ワイはなにをすればええんや?」
「僕は影女という妖怪を探しているんだが、それに付き合って欲しいのさ。影女は火に弱いらしいからね」
「ええやろ、そんくらいなら手ぇ貸したるわ。で、壷の話はホンマやろな?」
「ああ、つい先日、僕の店で扱う骨董品の仕入れをしたんだが、その時に手に入れたんだよ。今回の事件が解決したら、報酬としてその壷を譲ろうじゃないか。あれはなかなかいい品物だよ」
「おっしゃ、その言葉忘れんなよ! ま、後は大船に乗ったつもりでこのヒザマ様に任せとかんかい!」

 俄然元気を出したヒザマは、水色のバケツに入ったまま宙を飛び回る。ようやく戦力も整い、早速本来の目的である影女捜しに出かけようとする草助に、待ったと声を掛けたのは定岡だった。

「話は聞かせてもらったぜ。その事件、俺も一枚噛ませちゃくれねえか?」
「えっ……いやあ、また穴に落とされて埋められても嫌だし、遠慮しますよ」
「即答かよ!? い、いやまあ確かに無理もねえが……頼む、俺に妖怪退治屋として名誉挽回のチャンスをくれよ。ずっとこんな場所にいたら腕が錆び付いちまう」

 肉体労働の日々はさすがに堪えたらしく、その様子を見る限り、定岡が嘘を付いている様子は見られない。

「うーん、そう言われても僕の一存では」
「妖怪退治に関しちゃ俺は一応先輩だし、お前より術や妖怪の知識については詳しいはずだぜ。なっ、この通りだ!」

 定岡は両手を合わせ、必死に頭を下げる。定岡としては事件を片付ける事で八海老師の印象を良くしたい狙いがあるのだろうし、一方の草助はまだ駆け出しで、妖怪に対する知識も経験も乏しい。定岡の本当の実力がどの程度なのかは分からないが、一人くらいは専門的な知識を持つ味方がいる方が心強いのも事実だと草助は思った。

「さて、どうしたもんかなすずり」

 草助は一緒に連れてきたすずりに、最後の判断を任せることにした。彼女の意見抜きに物事を決めて機嫌を損ねられては、妖怪との戦いに大きな支障が出てしまうからだ。

「このおっさんがそんなアテになるとは思えないけど……草助も草助でヒヨッコだしねー。アタシらを裏切るような真似をしないって誓うなら、今回は付いてきてもいいけど。ただし、少しでも変な真似したら承知しないかんね」

 すずりが仕方なしといった風に言うと、定岡は一気に表情を明るくし、大きく何度も頷く。

「誓う誓う! 天地神明に誓ってこの定岡、お前らの力になるぜ!」

 その軽い言い回しが不安だと思いつつも、影女の調査に定岡も同行する事となった。




 火鼠のハナビとヒザマ、そして定岡を仲間に加えた草助は、妖怪退治の衣装である紺の着物と茶袴に着替え、八海老師に渡されたメモに沿って事件の起こった現場を見て回っていた。しかし手掛かりらしい物は現場に見当たらず、妖気の残り香もまるで感じられなかった。草助は定岡の運転する中古の乗用車に乗せてもらい、一日使って各地を回ってみたが、その日は結局妖怪の手掛かりを得ることは出来なかった。だがその翌日、けたたましく鳴り続ける携帯電話の呼び出し音で草助は目を覚ます。電話の発信者は定岡であった。

「もしもし、筆塚ですが」
「やっと出やがったか。ちょっとばかしえらい事になっちまってるぜ。とりあえずテレビでニュースを見な」

 言われるままにテレビの電源を入れると、朝のニュースでとある事件が騒がれていた。それは朝比奈市内にあるマンションで、テレビの画面に映った光景を見て草助は驚いた。その場所は以前、明里と一緒に帰宅している時に、彼女が奇妙な影を見たと足を止めた場所であったからだ。ニュースの内容は、このマンションに住む住人およそ二十人が、一晩のうちに忽然と姿を消してしまったというものだった。映像では現場に警察官や野次馬が駆けつけており、騒然となっている様子が窺えた。

「これは……!」
「見たか。今度の妖怪はずいぶんと大それた事をしでかしやがるぜ。今までの神隠し事件じゃ一人ずつ攫ってたみたいだが、一気に二十人とはな……半端な雑魚の仕業じゃねえぞこれは」
「どういう事なんだ……影女は大人しくて力の弱い妖怪のはずなのに」
「とにかくだ、急いで現場に向かうぞ。事件が起きた直後の今なら、手掛かりがまだ残ってるはずだ。グズグズしてると証拠が消えちまう」
「定岡さん、あんたって……」
「あん、なんだ?」
「本当に妖怪退治屋だったんですね」
「大きなお世話だこの野郎! いいから早く来いよ!」

 耳に響く声を残し、定岡は電話を切った。草助は急いですずりを起こし、ハナビをペット用のキャリーケースに入れてやると、妖怪退治の袴に着替え、あんパン一個を牛乳で流し込んで腹を満たし、自宅である一筆堂に「臨時休業」の札を掛けて表へ出た。事件の現場は、草助の家からさほど離れておらず、急げば五分足らずの場所にあった。




 住人が失踪したマンションの前では、テレビで見た通りに大勢の野次馬が詰めかけ、なかなか現場に近づくことが出来なかった。仕方なく辺りを見回してみると、様々なテレビ局の中継車が現場近くに停まっており、無数の太いケーブルが外に伸びて撮影用の機材と繋がっている。その中には撮影用の照明もあり、煌々と輝く光が目に入って草助は思わず目が眩んでしまう。

「うわっ、強烈だなこれは」

 手で光を遮りつつライトの方向を見ると、テレビカメラのレンズが自分の方に向いている事に草助は気がつく。誰に見られているか分かったものではないと思い、草助はレンズから顔を背け、そそくさとカメラの前から立ち去った。その後もマンションに近づけず立ち往生していると、少し離れた路地の入り口に、灰色のスーツに黄色いネクタイをした定岡の姿が目に飛び込んできた。彼の足元にはヒザマが入った水色のバケツもある。定岡は草助に向かってこっちへ来いと手招きし、草助は人だかりを掻き分け、やっとの思いで彼の元へ近づいた。定岡は周囲を気にしつつ、路地の奥にあるマンションと隣の家との隙間へと入っていく。そこは普段人が通らないような場所で、野次馬も警察の姿も見当たらない。定岡はもう一度周囲の様子をうかがい、小声で言った。

「さて、ここならサツにも邪魔な野次馬にも見つからず忍び込めるぜ」
「忍び込むって……泥棒ですか」
「あのな、外から見てるだけで手掛かりなんか見つかるわけねーだろが」
「ま、まあそうですけども。でも忍び込んでどうするんです?」
「最初に事件の話を聞いて薄々思っていたが、俺の予想通りだったぜ。このマンション、あちこちに異界への穴が開いてやがる」
「異界? なんですかそれは?」
「おいおい、そんな事も知らないのか? こんな素人に負けた俺って一体……」

 草助の発言がかなりのショックだったらしく、定岡はしゃがみ込んでいじけてしまう。

「異界ってのは……あー、まずは自分で確かめな」

 定岡はマンションの端にある小窓を開き、そこから中に入るよう草助に促す。

「霊感があるならお前にも見えるだろ? 世界の境目が曖昧になった、空間の歪がよ」

 定岡の言うとおり、小さな窓枠の中は蜃気楼が立ち上ったようにぼやけていて、窓の向こうの様子が見えない。草助が狭い窓によじ登って通り抜けると、そこはマンション内の物置であった。後に続いて入ってきた定岡はスーツをどこかに引っかけたらしく、なにかが破れるような音と共に顔から落っこちた。草助は頼りなく思いながらも定岡を助け起こし、物置から出る。マンションの廊下は気味が悪いほどの静寂に包まれて薄暗く、空は紫色の絵の具を溶かした水をかき混ぜたように、奇妙に渦巻いていた。空気は肌寒く、ねっとりとした湿気が肌にまとわり付いて不快感を与えてくる。

「景色は確かにさっきのマンションと同じだけど、なにか違う。ここは……」
「異界ってのはこの世と平行して存在する、もうひとつの世界の事さ。そして俺たちは今、その異界に足を踏み入れたってわけだ」
「ものすごく居心地が悪くて嫌な気分だ。上手くいえないけど、ここは生きている人間が来るべき場所じゃない気がする……」


 草助は空間全体に漂う違和感を敏感に察知し、この場所がどんな所なのかを感覚的に理解し始めていた。

「その通り。俺たちが暮らしてる世界を表とするなら、異界は裏……成仏し損ねた亡者や妖怪どもが住む、幽玄の世界って奴だ。表からは決して見えず、声も届かない。そういう場所さ」
「異界……これが」
「気をつけろよ。ここで迷ったら最後、二度と外へ出られず永久に彷徨う羽目になるからな」
「行方不明になった人たちも、みんなここへ連れてこられたのか」
「しかしどうも妙だぜ。異界は妖怪や亡者の領域だが、その入り口を開くのは難しいんだ。よほど強力な術や妖力を持っていない限りは、家のドアみたいに気安く開け閉めできるもんじゃねえんだよ。例外をひとつ除いてな」
「そうか! それで影女が怪しいと老師は言ってたのか」
「ああ。俺も修業時代に聞いただけだがよ、影女って妖怪はこの世と異界とを自由に行き来することが出来るんだと。ただ分からねえのは、人間を引きずりこむほどの穴を開く力なんか、影女にはないはずなんだ。ましてやこのマンションの住人を一気に飲み込むなんて、どう考えてもあり得ねえ。なんか裏がある気がしてならねえぜ」
「確かに不自然だけど……とにかく急がないとみんなが危ない」

 草助は意を決し、異界と化したマンションの通路に踏み出す。ハナビをキャリーケースの外に出してやり、用心しながら前に進む。大して長くないはずの廊下は、まるで永遠に続くかのように長く感じ、前進している気がしない。壁に並ぶ部屋のドアはどれも同じであったが、やがて微かに妖気を感じる場所を見つけ、そのドアを開いてみた。本当ならドアの向こうは部屋になっているはずなのだが、目の前のドアを開けた先には、また同じような廊下が続いている。定岡に訊ねると、こんな答えが返ってきた。空間が捻じ曲がって繋がるが故に、表の世界とはまったく異なる場所――異界――なのである、と。

 異界は目に見える景色がアテにならないため、霊感を頼りに進まねばならなかった。ドアがあるように見えてなにもなかったり、逆に袋小路の行き止まりが幻であったり、迷宮のように複雑で怪奇な場所であった。暗闇の中を手探りで歩いているような気分で足を進めていくと、突然足場が無くなり、草助と定岡、そして一緒に付いてきていたハナビとヒザマ共々、真っ暗な深い穴の中へと転げ落ちてしまった。

「痛てて……ど、どこだここは?」

 尻もちを付いた草助が顔を上げると、そこは薄暗くて広い空間だった。周りには何もなく、静けさと孤独感だけがそこにあった。すずりとハナビ、ヒザマ、それから定岡の無事を確かめて立ち上がると、どこからともなく女の笑い声が響いてきた。

「フフ……フフフ……無断で他人の住処に上がり込むなんて、マナーの悪い人たちね」

 声は陰気で、前後左右から響いてきてどこから喋っているのか分からない。しかし草助には、その声が人間のものでないという確信があった。草助の肌にまとわりつく空気には、鳥肌が立つような妖気が混じっていたからだ。

「お前が影女か。攫った人たちをどこへやった」
「あら、人間を捜しに来たのね。こんな暗闇の中までご苦労なこと……フフ」
「質問に答えないか。みんなはどこだ」
「焦らなくてもいいでしょ。全員ここにいるわ」

 声の主――影女が言うと同時に、目の前に月明かりのような淡い光が差し込み、空間の暗さが幾分か中和されて遠くまで見渡せるようになった。暗闇の奥に目をやると、なにかが折り重なるようにして積み重なっており、数歩近付いてそれを見た草助は目を見開いた。それはその場に倒れたり座ったまま、抜け殻のようになった人々だった。身体に目立った傷は見当たらないが、見開かれた瞳に光はなく、口は半開きのまま固まっており、まるで死者の如き形相である。

「この人たちをどうしたんだ!」
「野暮なことを聞くのね。妖怪が人間を異界に引きずり込んだら、やる事は決まっているじゃない」
「なんだって?」
「あなたは知ってるかしら。人間の魂って、一度味わったら病みつきになっちゃうのよ……フフ、フフフフ……!」
「まさか、人の魂を食ったのか!?」
「別に驚く事じゃないでしょう。妖怪ならみんなやってる事だもの」
「くっ、お前……!」

 平然と答える影女に怒りを覚えながら、草助は隣に立つすずりに目をやってある事に気がついた。彼女の赤い着物は暗闇の中でも鮮やかに映え、そればかりか身体全体が黄金色にうっすらと光っているかのようであった。ハナビやヒザマも同様で、ついでに定岡もなんとなく輪郭が輝いている。異界では霊力や妖力を持つ物には光が宿って見えるのだが、それを草助が知るのはもう少し先の話である。すずりは落ち着き払った様子で宙を見上げ、暗闇に向かって話しかけた。

「なあ影女、オマエはこんな妖怪じゃなかったろ。アタシの知ってる影女は気が弱くて非力で、人間を襲って魂を食うような奴じゃなかった。それがどうしてこうなっちまったのさ」
「あら、誰かと思えば懐かしい……相変わらず人間の味方をしているのね」

 会話から察するに、すずりと影女は顔見知りらしかった。人間よりずっと長い時を生き、妖怪退治の手助けをしてきたすずりが妖怪と知り合いであっても、なんら不思議な事ではない。影女は陰気な笑い声を空間に響かせると、草助に向かってこう言った。

「そこのあなた、気をつけた方がいいわよ。この子に取り憑かれた人間は、みんなロクな死に方をしないんだから。ちょっと前だって……」
「話を逸らすんじゃないよ!」

 言いかけた影女に向かって、すずりは耳をつんざく程の声で怒鳴った。すずりが怒りっぽいのは普段からだが、今回のそれは少し様子が違い、草助すら思わず息を呑むほどの怒気が込められていた。

「ふ、ふん、威張ったって無駄よ。今の私には誰も命令なんて出来やしない。でも大人しく引き返すんなら、昔のよしみで今回だけは見逃してあげてもいいわ」
「そうはいかないね。なんのためにアタシらがここへ来たと思ってんのさ」
「あらそう、せっかくの好意を無視するなんて……後悔するわよ」
「誰に向かってもの言ってんだい。きついお灸据えてやるから覚悟しな」
「やってごらんなさい。出来るものなら、ね」

 次の瞬間、草助は突然喉を締め付けられて呼吸が出来なくなった。なにが起きたのか分からずにもがいていると、自分の首に黒い腕が巻き付き締め上げているのが見えた。

(い、いつの間に……!?)

 それは紛れもなく影女であった。影女は音もなく草助の足元から姿を現し、彼の背後から襲いかかったのである。すずりはすかさず紅い筆に変化して草助の手に収まり、草助も素早く自分の首に巻き付く腕に筆先を向けて払った。

「……あれ?」

 影女は身体から離れて姿を消したが、草助は奇妙な手応えに疑問の声を上げた。まるで空振りをしたように、筆先になんの抵抗も返ってこなかったのである。そしてまたしても姿を消した影女の攻撃に身構えていると、今度は後ろから悲鳴が聞こえた。振り返ると定岡の身体に、蛇のような黒い影が巻き付いて締め上げている。

「痛でででででで!?」

 さながらプロレス技のコブラツイストを受けているような格好だったが、相手が妖怪となれば笑い事ではない。慌てて定岡に巻き付いている影に向かって筆を払うのだが、やはり手応えがまったく返ってこない。筆先で払った場所だけは確かに切断されてはいるのだが、どうやら影女にはさしたる打撃も与えられてはいないようで、影女は再び定岡の足元にある影の中へ引っ込んで隠れてしまった。

「ど、どうなってるんだ、まるで効いてないなんて」
「ぜえ、ぜえ……あいつは実体の無い妖怪だからな。斬ったり突いたり叩いたり、普通の打撃は効き目がねえんだよ」
「知ってたんなら先に言ってくださいよ」
「バカ、ここで俺が格好良く奴を仕留めれば、俺の株も上がるってもんだろうが」
「……自分で言いますかそれ」
「心配すんなって。この定岡様に抜かりはないぜ。こんな事もあろうかと、ちゃーんと準備してきてんだよ」

 定岡は下品な笑みを浮かべると、スーツの懐に右手を突っ込んで内ポケットを探り、取り出したそれを得意げに突き出して言った。

「実体の無い妖怪もこれさえあればご安心! 札に仕込まれた強力なミニ結界で、どんな妖怪でも確実に捕らえます! 封じた後は煮るなり焼くなりご自由に! オフィスに神社にご家庭に、備えあれば憂い無し! 妖怪退治屋の必須アイテム、持ってて良かった縛霊符とくらぁ!」

 定岡の手には一枚のお札が握られており、どうやら強力な魔封じの呪符であると言うことだったが、草助は開いた口が塞がらなかった。というのも、そのお札は下半分が破れ、皮一枚でぶら下がっている状態だったのである。

「……それ使えるんですか?」
「あああああっ! 虎の子の一枚がなんという事にッ!?」
「さっき窓を抜ける時に変な音がしたのはこれだったのか……」
「わ、わはははは、弘法にも筆の誤りって奴よ」

 笑って誤魔化そうとする定岡に突き刺さる、二匹と一人の視線は冷たい。草助は気を取り直し、八海老師の言葉を思い出してハナビとヒザマに目をやった。影女は火が弱点であるという。ならば今こそ彼らの出番である。

「頼むぞ二人とも。お前たちの炎で影女の動きを封じ込めるんだ」
「プイプイッ」
「よっしゃ、やっと出番やな」

 ハナビとヒザマは草助らの前に躍り出ると、それぞれ毛皮や羽根に炎を纏わせて影女を威嚇する。燃え上がる炎が周囲を照らして暗闇を押し返すと、影女の苦しそうな声が響いた。

「ううっ、火……!」

 炎の効き目は抜群らしく、押し返された闇の中から、うずくまった影だけの女の姿が草助たちの目の前に現れた。読んで字の如く、まさしく影女である。影女は炎の光を浴びて、すっかり怯えきっている様子である。

「さあ、観念するんだ」
「ど、どうか命だけは……」

 影女は震えながら、弱々しい口調で懇願する。その気弱ぶりが気の毒に思え、草助は同情を含みながら言った。

「みんなの魂を元に戻すんだ。そうすれば命を奪ったりはしない」
「なーんてね、フフフ……火を使えば私を簡単に退治できるだなんて、考えが甘いのよ」

 影女は素早く後ろに下がり、抜け殻となった人間たちの中に姿を隠す。すると突然、今まで指一本すら動かなかった人々が次々に起き上がり、草助たちに向かって襲いかかってきたのである。相変わらず顔に生気はないが、瞳は真っ赤に染まり、邪悪な意志が乗り移っているのが見て取れた。動きはやや鈍いものの、その数は二十余人にも及ぶ。その全てから抜き取った魂の力が影女に集まっているとすれば、非常に恐ろしい強敵である事は容易に想像できた。

「どこが非力で大人しい妖怪なんだまったく!」

 草助が恨めしそうに呟くと、すずりが草助の心に向かって答える。

『前に会った時は本当に大人しい奴だったんだよ。それなのになんで……』
「とにかくこれじゃ手が出せない。せっかくハナビとヒザマを連れてきたってのに」

 罪のない一般人を盾にされては、どんな助っ人を連れていようと手を出せない。おまけに妖怪封じのお札は定岡のミスで使い物にならず、草助の筆も効き目がない。状況は最悪――その事は、草助の隣で青ざめている定岡も十分に理解している様子であった。

「おい筆塚、なにをブツブツ言ってやがる。こりゃあヤバいぜ……!」
「ええ、まずいですね非常に。いや実にまずい」
「で、なんか手はあるんだろうな?」
「……それがさっぱり」
「と、いうことはだ」

 草助と定岡は互いの顔を見合わせ、さらにハナビとヒザマにも目配せをして、全員で頷く。

「三十六計逃げるに如かず!」

 かけ声と同時に、草助たちは脱兎の如くその場から走り去る。影女の操る人々は、不気味な唸り声と無数の足音を立てながら、後を追い掛けていった。




 草助たちが異界に足を踏み入れる少し前、船橋明里は自宅で朝食を口に運びながら、テレビで放送しているマンション住人失踪事件の中継映像を眺めていた。すると画面に一瞬、袴姿の草助が映ったのを彼女は見逃さなかった。草助の手にはペット用のキャリーケースがあり、やはり一瞬だが中にいるハナビの顔も見えた。

「やっぱり変よ」

 明里はトーストをくわえたまま立ち上がり、テレビの画面にかじりつく。

「前も変な事件が起きた時、あの服装でなにかしてたみたいだし、今日だってこんな場所でハナちゃんの予防接種って事はないわよね。よーし、こうなったら筆塚くんを捕まえて白状させてやるんだから!」

 明里は先日と同じ白いコートと黒のタイトスカートを身に付け、朝食もそこそこに家を飛び出した。事件が起きたマンションは明里の家からも大して離れていなかったため、さほど間を置かず人だかりの出来た現場に顔を出す事が出来た。明里は辺りを見回し、草助がいないかと探し回った。すると視界の端に、路地裏へ向かってこっそり姿を消す袴の後ろ姿が目に入る。

(見つけた!)

 はやる気持ちを抑えつつ、明里も草助たちの後を追って路地裏へと向かう。狭い路地裏で草助と一緒にいる灰色のスーツの男は、以前明里の自宅に姿を見せ、放火事件とハナビの関わりについてあれこれと喋っていた男、定岡であった。明里の印象としては変な人という記憶しか無かったのだが、その人物と草助がなにやら話し合っている。怪しさここに極まれりと明里は思ったが、今出て行っても適当に話をはぐらかされてしまうのが目に見えており、もっと決定的な瞬間を押さえてやろうと、明里は息を呑んで二人を見守った。やがて草助と定岡はマンションと隣の家との隙間に入っていき、少し遅れて明里がその場所を覗き込むと、二人の姿は忽然と消え、マンションの壁にある小さな窓が開いているのが見えた。

「どうしてこんな泥棒みたいな……」

 表やマンションの中には大勢の警察官がいるはずで、そこへ無断で忍び込むというのは到底まともな行為とは呼べない。こればかりはさすがに躊躇われたが、しばらく葛藤していた明里の中で勝利を収めたのは、

(やっぱり気になる。後を追い掛けよう!)

 という、生まれ付いての好奇心であった。明里は小窓に両手を引っかけてよじ登り、苦労しながら窓の中へと身体を滑り込ませる。窓の向こう、物置部屋から出た先にあったのは、肌にまとわりつくような空気が漂う、亡者と妖怪の領域。その空気に触れた途端、明里の全身に言葉で表せない悪寒が走る。

「な、なに……? なんだか様子が変ね」

 辺りは真夜中のように静まりかえっていて、近くに草助の姿はない。明里はそこが異界であることを知らぬまま、壁伝いに前へ進み始めた。先に草助が訪れた時と同じく、真っ直ぐ伸びているだけの通路がいつまでも続き、向こう側へ辿り着けない。奇妙に思って振り返ってみても、さっきの物置からはさほども進んでいないのである。異様な雰囲気に心細くなってきた明里が近くのドアにもたれ掛かろうとしたその時、音もなくドアが開いて明里を飲み込んだ。

「きゃっ!」

 勢い余って転がり込んだ場所は、薄暗くて開けた場所であった。もちろん、マンションにこんな空間があるはずもなく、明里は自分を取り巻く状況がどうなっているのかさっぱり理解できなかった。暗闇の中にぽつんと、自分の白いコートだけが浮かび上がっていて、ひどく寂しい場所に思えた。やがて遠くの方から、なにやら騒がしい声が聞こえてきた。音のする方に目を凝らしてみると、暗がりの向こうから草助と定岡がこっちへ向かって走ってくる。心細さに押し潰されそうだった明里は、喜びを顔いっぱいに浮かべて呼びかけたが、走っている二人の表情が尋常でない。まるでなにかから逃げるように、全力で明里のいる方へ向かって走っているのである。よく見ると彼らの後ろから、生気が抜けてすっかり青ざめた顔をした人々が、さながら映画のゾンビのように彼らを追い掛けていた。

「ひええっ!?」

 座り込んだまま戸惑っている明里を見つけた草助は、彼女の元に駆け寄り、焦った口調でまくし立てた。

「ど、どうして君がここに……って、今はそれどころじゃない」

 草助は明里の手を引いて立たせ、一緒に走り出す。訳がわからないまま明里が後ろを振り返ると、身体に炎を纏うハナビとヒザマが付いてきている。無論、明里にとってはこれを見るのも初めての事で、驚きに目を丸くする。

「ね、ねえ、なんなのこれは? マンションに入ったと思ったら様子が変だし、一体どうなってるのよう」
「詳しい説明は後でするよ。魂を抜かれてあの連中の仲間入りをしたくなければ、とにかく走るんだ!」

 言われるまま走り続けると、やがて遠くに出口のような薄明かりが見え、草助たちはそこへ向かって飛び込む。光の先はマンションの外側で、ついさっき警察と野次馬で溢れていた場所だった。しかしこの異界では人間の姿はなく、無数のパトカーやテレビ局の中継車の他、現場に持ち込まれた照明などが静かに佇んでいるだけであった。周囲はさっきより明るいものの、それでも黄昏時のように薄暗く、空は紫色に染まって渦巻いている。足元には自分の影が伸びていたが、周囲の風景も含めてその形はひどく不安定で、やはり自分が知っている世界とは別の場所だという事をあらためて認識させられた。

「平行するもうひとつの世界……なるほど、こういう事なのか」

 草助が納得したように呟くと、隣で顔に汗を滲ませている定岡が頷く。

「お互い裏表に重なりながら、決して交わらない場所……異界はあの世の一部がこの世に出てきてるんだって言う奴もいるな」

 草助と定岡の会話がさっぱり飲み込めず、明里は二人を交互に見てもう一度訊ねた。

「ねえ、一体何が起こってるの? 突っ込みどころだらけでもうわけわかんないけど……」

 不満そうにむくれる明里に目をやりながら、草助は困り顔で言った。

「君もよくよく妖怪と縁があるらしいね。しかもよりによって一番まずい時に出くわしてしまうとは」
「妖怪……えっ?」
「僕らは妖怪を追ってここまで来たが、逆に追い詰められてしまった。つまり今、非常に危険な状況なんだよ」

 草助が嘆息しながら周囲を見回すと、操られた住人たちが次々に姿を現し、草助たちを取り囲む。後ろから追ってきたはずが周囲から現れたのも、空間が歪んでいるせいだろうと草助は呟いた。

「僕の側から離れないように。出来るだけ近づけないよう努力はしてみるが……」

 正面にいた若い男の住人が両手を伸ばして襲いかかると、草助は目の前に突き出された腕を素早く掴んで下方向へ捻り、軸足に足を引っ掛けて払う。住人はバランスを崩し、その場で一回転して背中から地面に叩き付けられた。こうした体術は、草助が幼い頃から八海老師に「ラジオ体操の続きじゃ」と吹き込まれて憶えさせられたもので、彼が高校生になるまでそれが真っ赤な嘘である事に気付かなかった。草助自身は争いを好まない性格ではあったが、本人も知らないうちに一般人なら軽くいなせる実力を身に付けていたのである。

「それっ!」

 草助は軽やかな身のこなしで、次々に襲いかかる住人たちを投げ飛ばしては地面に転がしてゆく。隣では定岡が、掴みかかる中年男性の背後に回り込み、背中にガラの悪い前蹴りを見舞って他の住人と衝突させる。ハナビとヒザマは身体にに炎を纏わせ、操られた住人を近づけまいと激しく威嚇していた。

(ふ、筆塚くんって強かったんだ……とてもそんな風には見えないのに)

 彼の立ち回りを見て明里が感心していると、ふいに背筋が冷たくなるような悪寒が走り、陰気な女の声が響き渡る。

「フフ……いくら頑張っても無駄よ。人間をいくら痛めつけても、私には関係ないんだから。そうやって無駄に体力を消耗して、疲れて動けなくなってしまうがいいわ」
「だ、誰!?」

 明里が思わず声を上げると、声の主――影女は操っている住人たちの影から上半身だけ姿を見せ、嘲笑を含んだ声で返事をする。

「すっかり怯えてみじめなものね。いつもの元気の良さはどこへ行ったのかしら」
「わ、私のこと知ってるの?」
「ええ、知ってるわ……いつも私の住処の前を通り過ぎていくあなたを、私はずっと見ていたんだもの。いつも明るくて美人で、家族や友達にも恵まれて、いつも輝いていた娘……ずっと影の中で一人ぼっちだった私には、あなたが眩しくてたまらなかった。でもあなたは私の存在なんか気にも留めていなかったでしょ」
「そ、そんなこと言われても……」
「そうね、別にあなたが悪いとは言ってない。だけど私は変わった。変わることが出来たのよ……ある人間のおかげでね。だからもう、影の中で引き籠もったりしない。人間の魂をもっと奪って、思い通りに暮らすのよ」
「なに言ってるの、そんな身勝手ダメに決まってるじゃない!」

 影女の邪な目的を聞いた途端、明里は強くそれを否定した。それは咄嗟に口を出た言葉であったのだろうが、彼女の性格がよく表れていると草助は感心しながら同調する。

「彼女の言う通りだ。そんな真似は許さないぞ」
「お黙り! この場所じゃ誰も私に逆らえないって事を、今から思い知らせてあげるわ」

 影女の冷たい声が響いた途端、明里の身体は金縛りに遭ったように硬直し、くぐもった呻き声を上げた。草助が異変に気付いて明里に駆け寄った時、明里のコートの隙間から這い上がってきた黒い影が、彼女の口から滑り込むのが見えた。

「しまった――!」

 草助が言うと同時に、明里は操られた人々と同じになった目を見開いて、草助の首を両手で締め上げる。女の細腕とは思えぬ強い力だった。

「ぐっ!?」
「フフフ、油断したわね……私は影がある場所ならどこへだって一瞬で移動できるのよ」

 その言葉を聞いた草助は、今までのことは全て影女の戯れであった事に気が付く。その能力を使えば、いつでも彼らを仕留めることは出来たからである。

「ひ、卑怯だぞ。船橋さんの身体から出ていけ……!」
「それなら力ずくで言う事を聞かせてみたら? もっとも、身体の無事は保証できないけれど」
「頼む、彼女は見逃してやってくれ。なにも知らず、偶然ここへ来てしまっただけなんだ」
「さっきからずいぶんこの娘を気にしてるのね。この前も一緒にいたみたいだけど、あなたたちは恋人なのかしら?」
「い、いや、別にそういう訳じゃ」
「でも気はあるんでしょ?」
「だからそれは……」

 草助が言葉を詰まらせていると、喉を締め付ける力がふっと抜ける。解放された草助は肺いっぱいに空気を吸い込むが、そこで影女は意外な行動に出た。

「ねえ……提案があるんだけど」

 取り憑いた明里の身体で草助に抱きつき、耳元で妖しげに囁く。

「条件次第では、あなたとこの娘の命は助けてあげてもいいわ。その代わり当分、この娘の身体は私が使わせてもらうけど」
「くっ、船橋さんをどうするつもりだ」
「フフフ……そうね、教えてあげる。私、人間の恋愛に興味があるのよ」
「な、なにっ?」

 予想もしない発言に、草助も思わずたじろいでしまう。

「私に従って邪魔をしないと誓うなら、あなたの恋人になってあげてもいいわよ? そしたら色々サービスしてあげるわ。例えばこんな風に」
「はうっ!?」

 明里はコートのボタンを外して胸元をはだけ、ブラウス越しに草助に押し当てる。健やかに育った膨らみの感触は実に素晴らしく、草助は本能的に全神経がそこに収集してしまい、身動きが取れなくなってしまっていた。悲しい男のサガというやつである。

(そんなんで心グラつかせてんじゃないよスケベ!)

 掌に握り込んだままの紅い筆から、すずりの怒声が頭の中に響く。

(妖怪の口車に乗せられてどうすんのさ。あんなの嘘に決まってんだろ)
(わ、わかっちゃいるんだが、この温かくてやわらかーいぷにぷにが……)
(人の命とおっぱいと、どっちが大事なんだよオマエは!)
(むうう……ッ!)
(悩むなバカ!)
(じょ、冗談はともかくだ。実際手の出しようがなくて困ってるんだよ)
(なんとかして明里の身体から影女を追い出しな。でなきゃオマエも明里も、生きてここから出られないよ)

 それは草助も承知していたが、ハナビやヒザマの炎では明里の身体を傷付けてしまう。なにかいい方法は無いかと視線を泳がせていると、ある物が目に入った。

(――これだ!)

 草助に密着しているおかげで、影女にはそれが見えていない様子である。草助は離れたところで様子を見守っていた定岡に視線を送り、必死でアイコンタクトを試みる。それに気付いた定岡は、両手で怪しげなブロックサインを返してきた。それがどんな意味なのかよく分からなかったが、とりあえず頷きながら目で訴えると、定岡は「任せておけ」と言わんばかりに凛々しい表情を作り、近くにいたヒザマとハナビを連れて一目散に逃げ出してしまう。そして一人取り残された草助の周りを、操られた住人たちが取り囲む。

「えっ、ちょっ、待ってくれ!」
「あら、お仲間はあなたを見捨てて逃げたわよ。賢明な判断だとは思うけど、残された方は気の毒ね」
「くそっ……」
「それでどうするの? 私の言う事を聞くか、それとも今ここで抜け殻になるか――」

 どっちを選んでも身の破滅は免れない。万事休すかと草助が諦めかけたその時、目も眩むほどの光が四方から彼らを包み込む。それはマンションの前にあったテレビ局の照明だった。照明の近くには逃げたと思われた定岡やヒザマ、ハナビがおり、彼らが電源を入れていたのである。

「ひ、光……うあああああっ!?」

 照明の強い光は影女に対して抜群の効果があったようで、光を浴びた明里――正確には彼女に取り憑く影女――はうずくまって苦しみ始め、操られた人々の身体から黒い霧のような影が飛び出しては蒸発し、糸が切れたように次々と倒れていった。

「よっしゃ、効いてるぜ。どうよ俺の頭脳プレイは!」

 得意げに大きな声で笑う定岡を見た草助は、呆れ顔で呟く。

「さ、定岡さん……あんた逃げたんじゃなかったんですね」
「さらっと失礼だなオメーは。これでもやる時はやる定岡様だぜ?」

 草助は明里の中にいる影女に視線を戻し、毅然とした態度で言う。

「どうやらお前は、光を浴びると力を維持できないらしいな。みんなから奪い取った魂を戻して、大人しく元いたところに帰るんだ」

 草助の言葉を聞いた途端、明里の身体がビクッと震え、やがてボソボソと聞き取りにくい声で影女が呟き始める。

「帰る……またあの暗い場所でひとりぼっちになれというの……? 誰にも見られず、誰にも知られず……ずっと……」

 様子がおかしい事に気付いた草助はしゃがみ込み、うなだれた明里の顔を覗き込む。すると突然、明里の中にいた影女は、ヒステリックな金切り声で絶叫した。

「嫌! 嫌よッ! せっかく日の当たる場所に出られると思ったのに、もうあんなみじめな思いはしたくない! またあの暮らしに戻るくらいなら、消えてしまった方がマシよ!」
「うわっ!?」

 影女がそう言った途端、明里の身体から強い妖気を帯びた黒い煙が吹き出し、周囲に充満する。煙は照明の光さえも遮り、同時に邪な気配が膨れ上がっていく。さらに操られていた人々の身体から染み出すように集まった影がひとつになり、五メートルほどもあろうかという巨大な影女の上半身が現れた。闇よりも黒い身体と、黄色く光る目だけがそこに浮かび上がっている。巨大化した影女は手当たり次第に両腕を振り回し、周囲の照明を次々に叩き壊し始めた。

「おい筆塚、お前なんかまずい事でも言ったんじゃねえのか!?」
「べ、別に僕は――!」
「ったく、もう少し女の扱いも勉強しやがれ!」

 返す言葉もなかったが、今はそれどころではない。目の前にそびえ立つ巨大な影女は、狂気を孕んだ眼光を草助たちに向けて叫ぶ。

「フフフ、表世界のここには、大勢の人間が集まっているはず……ここに異界への大きな入り口を開けば、私のエサがもっともっと手に入る。そうすればこんな……光だって恐れずに済むのよ!」
「な、なんだこの感覚……今までの妖気とは違うぞ――!」

 影女の全身から邪悪で異質な力が溢れ出し、その波動を浴びた草助は全身に鳥肌を立てて戦慄する。草助の鋭い霊感は、影女の中に普通の妖気とは別の、もうひとつ得体の知れない邪悪な力が潜んでいるのを感じ取っていたのだ。その力の正体までは分からなかったが、強力な力が空間に干渉し、異界の上空に次元の穴をこじ開け始める。それはまだ小さく、影女が通り抜けられるものではなかったが、このまま放っておけば現世と異界への入り口が繋がり、多数の人間がこの場所へ落とされてしまうだろう。そうなったが最後、草助たちにはどうあがいても勝ち目がなくなってしまうのである。

「まずいぞ、影女を止めなくては大変な事になる!」
「止めるったって、あんな馬鹿でかいのどうするんだよ」

 巨大化した影女を見上げ、定岡は引きつった笑みを顔面に貼り付けたまま呟く。草助も気持ちは同じであったが、ここで指をくわえて見ている訳にはいかない。

「ハナビ、ヒザマ、お前たちの炎で影女を止めてくれ!」

 草助が指示を出すと、水色のバケツに入ったヒザマとハナビは、羽根や毛皮に炎を纏わせて影女に突進する。炎の攻撃は確かに効果はあるのだが、巨大化した影女にはさすがに火の勢いが足りず、巨大な黒い手の一振りでハナビもヒザマも吹き飛ばされてしまった。草助は覚悟を決めて筆を握り締め、影女の身体めがけて振り払ってみたが、やはり影で出来た身体には些かの効果も無く、影女の指先で玩具のように弾かれ、弧を描いて地面に叩き付けられてしまう始末であった。

「だ、ダメか。一体どうすればいいんだ」

 万事休すと思われたその状況を打開するヒントを与えてくれたのは、草助の戦いぶりを横で見ていた定岡の一言だった。

「くっそう、俺ぁこんな場所で死んじまうのかあ? っていうか筆塚、オメーは結界のひとつくらい作れねーのかよ」
「えっ、僕が?」
「おいおい、じゃあなんのために筆を持ってんだよ。振り回すしか使い道がねーのかそれは」
「い、言われてみれば確かに……」
「あの爺さんは、封印や結界に関しちゃ業界で並ぶ者がいない程の腕前なんだぜ。なんかひとつくらい教え込まれてるんじゃねえのかよ」

 結界の作り方などの術については具体的に教わってはいないが、定岡の言葉が一理あるのも事実だった。今まではすずりや老師に言われるまま、妖怪を直接払うために筆を振るってきたが、筆とは本来、文字や絵を描くための道具である。となれば、すずりの使い道もそれと同じ方法があっていいはずだと草助は思い、心の中で語りかけた。

(すずり、お前の力で結界とか作れないのか?)
(出来るに決まってるじゃん)
(なんでそれを早く言わないんだ!)
(オマエさ、結界の書き方とか知ってんの?)
(……あ)

 八海老師の元でいくらかの修行をしたとはいえ、草助が学んだのは基本的な事ばかりであり、結界を作るような技術については、まだなにも聞いていなかった。

(しかし、やらなきゃここでみんなやられてしまうぞ。せめて見本でもあれば……!)

 そう思った矢先、見本ならあるではないかと草助は顔を上げ、定岡を呼ぶ。

「定岡さん。さっき使おうとしてた妖怪封じのお札は、確か結界を作って妖怪の動きを封じると言ってましたね」
「お、おう。けどそれがどうしたんだ?」
「そのお札、僕に見せてください」
「いや、さっき破れちまってるの見ただろ」
「いいから早く!」
「わ、わかったよ」

 定岡はジャケットのポケットに手を突っ込み、破れてくしゃくしゃになった呪符を草助に手渡す。定岡はこれを縛霊符と呼んでいたが、名前の通り悪霊や妖怪を縛り付けるためのものであろう。草助は破れた部分を指先でつまみ、元通りの形に直して模様を素早く頭に叩き込むと、定岡に顔を向けて言った。

「ひとつ頼みがあります。僕はこれから結界を作りますから、しばらく影女の注意を引き付けてくれませんかね」
「な、なにい、俺に囮になれってか!?」

 草助がこくりと頷くと、二人の間にしばしの沈黙が続く。

「あ、痛てててて。なんか急にポンポン痛くなっちゃったなー、これはまいったなー。おうちに帰って薬飲まなきゃダメだなー」

 定岡は目を逸らし、わざとらしい芝居をして逃れようとする。草助はジトッとした目つきで睨み返し、釘を刺した。

「後で老師に言いつけて労働を倍にしてもら――」
「ぬおお! が、俄然やる気が出てきたぜ、わはははは!」

 定岡は裏返った声で草助の言葉を遮り、半ばやけくそ気味に影女の前に躍り出る。

「お、おい影女ぁ! いつまでもいい気になって暴れてんじゃねえぞコラァ!」

 定岡が人差し指を向けて怒鳴ると、影女は彼の方に目を向ける。

「人間の恋愛に興味があるとか言ってやがったが、笑わせんじゃねえ。オメーみたいな陰気な女がモテるわけねーだろが。いくらいい女の身体を借りたって、本体のネガティブさが表に滲み出てんだよ。そこら辺の隅っこで、壁に向かって話しかけてろバーカ!」

 定岡は低レベルな悪口の才能があるようで、矢継ぎ早に罵詈雑言を浴びせかける。それが影女の逆鱗に触れたのか、影女は目を真っ赤に光らせて定岡を追い回し始め、草助のことなどすっかり眼中から消えてしまっている様子である。

「よし、今のうちに……!」

 草助は着物の袖をまくり上げて筆を握り締め、近くの壁にさっき見た縛霊符というお札と同じ模様を書き込んでいく。それを書き上げた時、すずりを通して自分の霊力が模様に流れ込んでいる手応えを感じ、草助はやり方が間違っていないと確信する。続けて別の壁や電柱などにも同じ模様を書き、四カ所目があと一筆で完成するところで手を止めると、草助は必死で逃げ回っている定岡に合図をした。

「定岡さん、こっちへ!」
「うひぃぃぃぃっ!?」

 鼻水を垂らしながら全力でダッシュする定岡の背後から、膨れ上がった巨大な影が迫る。そして影女が四カ所に書き込んだ結界の内側に入ったのを見計らい、最後の一筆を加えて結界を完成させる。その途端、草助の霊力が結界に向けて一気に流れ込み、結界の模様が力を帯びて青白い光を放つ。

「くっ、力が吸われる……!?」

 結界などをその場で作る場合、あらかじめ霊力を込めて作られた呪符を使うのとは違い、直接霊力を注ぎ込まなければならないのだが、無論その事を今の草助が知るはずもない。強力な結界四つ分もの霊力を消費して草助はその場に膝を付いたが、顔を上げて影女の姿を確かめると、結界に捕らえられてまったく身動きが取れなくなっていた。

「あ……あああッ!?」

 この絶好のチャンスを見逃すはずもなく、草助は再びハナビとヒザマに指示を出す。

「今だ! 目一杯の炎で影女を照らすんだ!」

 二匹とも妖怪である以上、結界の中に足を踏み入れる事は出来ないが、発する炎の光に関してはなにも問題ない。

「おっしゃ、やっとエエとこ見せられそうやな。このまま出番無しで終わるかと思うたでホンマ!」
「ププイッ、プイプイ!」

 ヒザマとハナビは二手に別れ、影女を前後から炎で照らす。影が出来る場所が無くなれば、影女はただ消滅していくしかないのである。さらにヒザマは見た場所を発火させられる能力を使い、影女に直接ダメージを与え始める。

「ううう、く、苦しい……やめ……お願い、許して……!」

 巨大化した影女の身体は、みるみる力を削ぎ取られていき、あまりの苦痛に溜め込んでいた人間の魂を吐き出し始めた。自由になった人魂は、空中を泳ぐようにして自分の身体へと戻って行く。全ての魂が元に戻った頃には、影女の姿は元の大きさに戻っており、力もすっかり失ってしまった様子で、弱々しい妖気しか感じられなくなっていた。

「いやー、一時はヒヤヒヤしたけどよ、やったな筆塚。結界で封じてる今なら、お前の筆もこいつに効くだろうぜ。さっさと止めを刺して、こんな場所とおさらばしようぜ」

 定岡に促され、草助は結界の中に足を踏み入れる。その場で両膝を付いてうなだれる影女に向けて筆先を向けたその時、握りしめた筆の絵が震えた。同時に頭の中ですずりの声が響く。

(待って草助! 今回は……見逃してやってよ)
(急になにを言い出すんだ。今まで影女がしてきた事を見ただろう)
(わかってるよ、でも……!)

 筆は独りでに草助の手を離れ、赤い着物の娘に戻ったすずりは草助を見上げて懇願する。

「こいつは……草助が生まれるずっと前からアタシの友達なんだよ。危ない時に色々と手助けしてもらったこともあるし、それに……」

 すずりはうつむき、小さな声で言った。

「初めて会った時、暗いところに一人でいる寂しさはよく分かるって……それで友達になってさ……こんな悪さをしたのも、きっと理由があるんだよ。だから」

 定岡は「構わず封じてしまえ」と後ろで言っていたが、草助は腕を組んで考え込み、影女に訊ねた。

「すずりとお前が友人というのは本当なのか?」
「は、はい……」
「あのすずりがここまで言う以上は、本当に大人しい妖怪だったんだろうと僕も思うが……こんな大それた事件を起こした理由について、全部喋ってもらおう」
「わ、わかったわ、話すから……後ろで燃えている子たちを遠ざけて……」

 草助はハナビとヒザマに声を掛け、炎を消すように言った。火が消えて少し落ち着いた影女は、自分の身体に手を入れ、腹部から赤い文様の書かれた一枚の呪符を出して草助に見せる。その呪符からは、妖気とは違う、邪悪で異質な力と感じた波動が発せられていた。

「鬼門符……これをくれた人間がそう言ってた」
「鬼門符?」
「異界への扉をこじ開ける呪符……これを使えば、どこでも自由に異界への入り口を開くことが出来るのよ」
「そうか、お前はこれを使って人間を異界に引き込んでいたんだな。この鬼門符とやらを渡した人間とは誰なんだ」
「分からない……」

 影女はうなだれたまま、謎の人物と出会った時のことを語り始めた。




 その人物は前触れもなく現れた。黒い帽子に黒いスーツ姿で、両手には白の手袋をし、右手に銀色の四角いケースをぶら下げたセールスマン風の男だった。肌は不気味なほどに青白く、年齢は二十代か三十代ほど。帽子の端に見える髪の色は黒く、まだ若い人物という印象であった。男は影女の暮らす異界へ事も無げに足を踏み入れると、影女に向かってこう言った。

「そこのあなた、自由になりたくありませんかね?」

 帽子を取って男は顔を見せたが、表情は作り笑いのまま鋳物で固めたように動かず、それがかえって不気味でもあった。

「あなた普通の人間じゃないわね……何者なの?」
「私は呪物売りの黒崎。町から町へ渡り歩くただの商売人ですよ。今は訳あってこの土地に留まっていますがね……妖怪だろうと人間だろうと、私の品物を買ってくれるなら、客が誰だろうと構わない」
「……悪いけど、私はお金持ってないわ」
「ははは、お金など必要ない。私は私の道具を使うことで、客の秘められた願望や欲求が満たされるのを見るのが好きなんですよ」
「変わった人間ね」
「ふふ、よく言われます」
「でも、別にあなたに頼みなんて無い。私の事は放っておいて」
「おっと、嘘はよくない。あなたには願望がありますね。そう……さしずめ日の当たる場所に出て、人間と同じように暮らしてみたい。違いますか?」
「ど、どうしてそれを……!?」
「商売柄、相手の人相を見るだけで考えてることが大体読めてしまいましてねえ、フフフ。そんなあなたの望みを叶えるには……これとこれかな」

 黒崎と名乗った男はケースを地面に置いて蓋を開け、中から一枚のお札と、白い物が詰められたビンを取り出す。

「この二つがあれば、あなたの望みに近付くことが出来る。もっとも、叶うかどうかはその後の努力次第ですがね」
「なんなのそれ?」
「お札は鬼門符という特別製の呪符、そしてこっちは……」

 黒崎は手にしたビンに目を落とし、口元を歪ませて笑いながら平然と言った。

「人間の魂です」
「えっ……!?」
「あなたも妖怪なら知っているでしょう。人間の魂を食らえば、自分の妖力をうんと高めることが出来ると。この異界に人間を引き込めば、後は思いのままですよ」
「そ、それはわかっているけど……そんな事したら可哀相じゃないの」

 影女は今まで、人間を襲ったり手に掛けたことはなかった。希に異界に迷い込む者がいたが、自分の存在を悟られぬように道を示し、送り返してやっていたくらいである。だが黒崎はそんな影女を鼻で笑うように続ける。

「なにをおっしゃる。人間などこの地上には掃いて捨てるほどいるのですよ。そのうちの一人や二人消えたところでどうって事は無い。それに永遠に生きる妖怪と比べ、人間の命は短い。ならば長い時を生きる者のために捧げられる方が、この世の理に適っている」
「で、でも」
「ま、無理にとは言いませんがね。ずっとそうやって暗がりに引き籠もっているのか、チャンスを掴むために行動するか……全てはあなた次第。それでも断るというなら構いませんが、一度くらい試してみてはどうです?」

 影女の心は揺れた。全て黒崎が言うとおりだったからだ。この機会を逃したら、次はもう無いかも知れない。その焦りが、影女に越えてはならぬ一線を踏み越えさせてしまった。

「や、やるわ……」
「そうこなくっちゃ。ではまず、この魂を飲み干すことだ。そうすれば全てが変わって見える事でしょう」
「……」

 影女は差し出されたビンを受け取ると、震える手つきで蓋を開けた。ビンの中にはぼんやりと光る魂が押し込められており、窮屈そうにもがいている。それを見ると後ろめたさに襲われたが、影女はその感情を押し殺し、ビンの中の魂を飲み込んだ。

「う、う……ああああっ……!?」

 魂を体内に取り込んだ瞬間、えもいわれぬ恍惚感に包まれた後、身体の隅々にまで力が行き渡り、なんでもやれそうな自信に満ちあふれたような気分になった。

「す、凄いわ! 力がみなぎってくる!」
「どうやらお気に召したようですね、結構結構。ではこっちの鬼門符もお渡ししておきましょう。これがあれば、無駄な力を使わずとも、思いのままに異界への入り口を開くことが出来る。異界への出入りが得意なあなたならば、この道具を使いこなせるはずだ。さあ、遠慮することはない……人間を異界へ引きずり込み、存分に魂を味わうがいい」

 わずかに開いた黒崎の細い眼には、人間味がまるで感じられない光が宿っていたが、高揚している影女はそれを気にも留めなかった。

「フフ……こんないい気分になったのは初めてよ……フフ、フフフ……!」




「――それから後は、あなた達が知ってる通りよ」
「呪物売りの黒崎……何者だ?」

 初めて聞く名前に草助が首を傾げていると、隣でそれを聞いていた定岡があからさまに嫌な表情を浮かべて言った。

「そいつの事なら、噂だけだが聞いたことがあるぜ。なんでもヤバ過ぎる代物ばかりを持ち歩いていて、奴が関わるといつもロクな事が起きねえってよ。妖怪退治屋の間でも要注意人物って事でマークしてるらしいんだけどよ、未だに誰も尻尾を掴めねえんだ。用心深い野郎だぜ」
「とにかくそいつのことは老師に報告しよう。それはそれとして――」

 草助は少し考え、影女にあらためて問う。

「影女、お前はもう二度と人間の魂を奪ったりはしないか?」
「し、しないわ。だからもう……」
「それなら、謝るなら相手が違うんじゃないかな」

 草助は一歩横に移動し、すずりの背中を押して前に出てこさせる。影女の弱気な視線には、後悔の念が見て取れた。

「ごめんね……あの男の口車に乗せられてあんなことを……すずりにも酷いことを言ってしまって」
「もういいんだよ。オマエが元に戻ってくれてアタシもホッとしてるんだ」
「うう、ごめんなさい。もう騙されたりしないから……」

 影女からはすっかり邪気が抜けており、悪さをするようには見えなかった。草助は動きを封じている結界を消して影女を自由にしてやると、地面に倒れたまま気を失っている明里に駆け寄った。はだけてしまったコートの胸元をそっと元に戻してやりながら、草助は明里の無事を確かめる。

「……よかった、どこも怪我はしてないみたいだな」

 草助は彼女を背負って立ち上がると、影女に出口への案内を頼み、マンションの裏手から現世へと戻ってきた。表の世界の空気は清々しく、抜けるような青空を見上げて草助と定岡は大きく安堵のため息をついた。その後、明里を休ませるべく一筆堂に向かって歩いていると、店の目の前で明里の両腕がキュッと首に巻き付いてきた。もちろん手加減されてはいるのだが。

「ぐえっ」
「……」

 負ぶさっている明里が目を覚ましたようで、草助はふらつきながら一筆堂に入っていくと、居間の畳の上で明里を降ろして大きく息を吐いた。振り返ると、座り込んだ明里が少し拗ねたように彼を見上げていた。

「とりあえず、わかるように説明してくれない?」
「やれやれ、仕方がないな」

 これ以上隠し通すのは無理だと判断した草助は、明里に全てを打ち明けた。

「――というわけなんだ」
「……はあ〜っ」

 話を聞き終えた明里は膝に乗せたハナビに視線を落として撫でながら「急に全部は理解できないけど」と前置きをし、

「妖怪は本当にいる。で、すずりちゃんやハナちゃんも実は妖怪で、筆塚くんはすずりちゃんと一緒に妖怪退治のお仕事をやってたって事ね?」

 と、あらためて訊ねる。

「ああ、その通りだよ」
「んもう! どうしてそーゆー大事なこと秘密にするかなあ」
「だ、だからそれは知っての通り、妖怪には危険な奴もいるわけで……無関係の君を巻き込むわけには」
「無関係じゃないでしょー。それに危ない妖怪がいるんなら尚更じゃない」
「ふーむ、どうして?」
「だ、だって……えっとほら、筆塚くんもすずりちゃんも私の友達だもん。友達が危ないかもしれないのに、自分だけなにも知らずにいるなんて嫌よ」

 苦笑する草助の前できっぱりと言い切った明里は、ポンと手を叩いて身を乗り出す。

「ねえ筆塚くん、私も仲間に入れてくれない?」
「な、なにを言い出すんだ急に。ダメに決まっているじゃないか」
「そこをなんとか。ね、お願い」
「いくら船橋さんの頼みでもこれだけはダメだ。命に関わるかも知れないんだぞ」
「命に関わるから手伝いがしたいって言ってるのに。わからず屋!」

 一触即発の空気になりかけた所へ割って入ったのは、今まで湯飲みでお茶をすすりながら静観を決め込んでいた定岡であった。

「まあまあ、落ち着けってお二人さん。俺の見る限り、互いの言い分には一理あるが……ま、ここは筆塚が折れるべきだな」
「ちょっ、無責任なこと言わないでくださいよ」
「落ち着けって。そこのお嬢さんが妖怪とやり合うのは無理だが、それ以外の助手なら務まるだろ」
「助手と言っても……」
「仕事なら色々あるぜ? 情報の聞き込みから分析、道具の調達にスケジュールの調整、パートナーのコンディション管理とかな。その他諸々も含め、オメーもしばらく一人でやってきて大変さが身に染みてるだろ」
「ま、まあ確かにそうですが」
「それにな」

 定岡は草助に顔を近づけ、小声で言う。

「あの手のタイプは言い出したら聞かねえぞ。おまけに平気で無茶しやがるからな。目の届くところに置いて、適当に仕事やらせとく方が無難だ」
「な、なるほど……」
「それに目の保養にもなるしな」
「……あのね」

 草助がムッとして睨み付けると、定岡はへらへらと笑って顔を離し、エヘンと咳払いをしてさらに続けた。

「しかしまあ、筆塚の心配がわからない俺でもねえ。新米の妖怪退治屋と新米の助手だけじゃ、いくらなんでも心許ないのも事実ってもんだ。そこで提案だが……この俺様がお前らの仲間になってやろうじゃねえか」

 定岡は言ってやったとばかりに得意げな表情で歯を光らせ、親指を立ててサムズアップするが、そこですかさず口を開いたのはすずりである。

「アタシいらない」
「ちょっ!? だから即答すんなっての!」

 慌てて取り繕う定岡に向けられるすずりの視線は、相変わらず冷めている。

「なーんか怪しいんだよねー。下心が透けて見えるってゆーか」
「いやいやいやいや、信頼と実績の定岡さんですよ俺? 大体、今回の件だってちゃんと手伝ってやったじゃねーか!」
「途中で逃げようとしてなかったっけ」
「フッ……そんな昔の事は憶えちゃいねーな」
「オマエぶっ飛ばすよ?」

 すずりが髪の毛を拳骨の形に変えて怒りを顕わにすると、定岡は正面を向いたまま滑るように後退して何度も頭を下げる。

「や、冗談ですすいませんでしたマジで。俺も役に立ちたいので仲間に加えていただけないでしょーか」
「ったく、調子のいいヤローだね。草助はどうすんのさ?」

 話を振られ、草助はしばし考え込む。定岡はお調子者だが、妖怪に関する知識や現場での経験は役に立つし、世渡りも上手い。味方にしておけばそれなりに役に立つだろうというのが、草助の出した答えだった。

「それじゃ、これからはお互い協力し合うということで」
「よっしゃ、さすが話がわかるぜ大将!」
「いや、その言い方はやめてください。恥ずかしいから」
「ま、今後もよろしく頼むわ、ガッハハハハ!」

 定岡は笑いながら草助の背中を平手で何度も叩く。そのやりとりを見ながら、すずりはやれやれと肩をすくめるのであった。

「よし、それじゃ俺はこの辺で帰るとするか。八海の爺さまにも俺のことよろしく言っておいてくれよ」

 定岡は立ち上がり、約束の報酬である美濃焼の壷に入ってご満悦のヒザマに声を掛ける。

「おい、そろそろ帰るぞ」
「ああ〜。ごっつええわあ。このまったりとしてこってりとして、それでいて滑らかな肌触り……まさにワイのために作られた逸品やないか」
「いつまでやってんだオメーは。さっさとしねーと置いてくぞ」
「ケッ、風流のわからんやっちゃで。ほな筆の兄ちゃん、おおきに!」

 ヒザマは上機嫌な声で挨拶をし、壷ごとふわふわと浮かびながら定岡の後を付いて一筆堂を出て行った。一筆堂からやや離れたところまでやってくると、ヒザマは新しい壷の感触を確かめながら、先を歩いている定岡に話しかけた。

「で、あの筆の兄ちゃんと組むっちゅうのはどういう風の吹き回しや? まさか急に真人間になったとか言わへんやろな」
「ふっふっふ、これは俺の壮大な計画の第一歩よ」
「計画ぅ?」
「あの筆の力は紛れもなく本物だ。見よう見まねで作った結界で、魂を大量に取り込んだ影女を完全に封じちまいやがったからな。ありゃあ大したもんだ」
「……隙を見てアレ奪い取るんか?」
「いずれは俺の物にしてやる……と言いたいところだが、ジジイの目も光ってるしな。今はあいつに恩を売っておいて、仕事が来たら奴に働いてもらう。で、手柄は俺の物にするって寸法だ。楽して得する、完璧なアイデアだろ」
「よくもまあ、これだけロクデナシな発想が出てくるもんやで」
「けっ。どんな手を使おうが、俺は成り上がってやるんだよ!」
「やれやれ、小物やなーホンマ」

 鼻息荒く野望に燃える定岡に、ヒザマは呆れ返ってため息をつき、壷の中に頭を引っ込めた。




 一筆堂では、定岡とヒザマを見送た草助が、渋々ながら明里に話しかけた。

「えーっと、話し合いの結果、船橋さんには僕の手伝いをしてもらうことで意見がまとまったわけで」
「やったあ! 私頑張っちゃうから!」
「くれぐれも言っておくけど、妖怪とは直接関わらない事。妖怪退治の現場なんかには、絶対に付いてきてはダメだ。これだけはどうか約束して欲しい」
「……わかってる。迷惑は掛けないから」
「やれやれ、まさかこんな事態になるなんて思いもしなかった」
「あら、私が助手じゃ嫌なの?」
「い、いや、そういう訳じゃなくて」
「なんだか私たち、探偵ドラマの主役みたいで格好いいと思わない?」
「いや……どっちかというと水木しげるの漫画のような」
「と・に・か・く・! これからもよろしくね筆塚くん、すずりちゃん」

 仕方なく明里を助手として迎えることになった草助だが、先行きに盛大な不安を感じつつ、がっくりと肩を落とすのであった。こうして影女の事件は区切りが付いたものの、草助にはまだやる事が残っていた。鬼門符と、それを影女に与えた黒崎という男についての報告である。
 一筆堂で一息付いた後、草助は明里を連れて梵能寺へと向かい、八海老師に今回の事件の経緯を説明した。八海老師は明里が草助の助手をやる事にあまりいい顔はしなかったが、直接妖怪と関わらない部分での仕事ならと念を押し、手伝いを許可してくれた。

「――ふむ、しかしお嬢さんは妖怪を引き寄せやすい体質なのかもしれんのう」

 鶯色の着物姿の八海老師は、丸眼鏡のレンズ越しに明里を見ながら呟いた。

「えっ、妖怪を?」
「うむ。こう何度も妖怪と出くわすというのは、単なる偶然とは言い難いのう。草助もそうじゃったが、たまに妖怪や幽霊を引き寄せやすい人間がいるんじゃよ」
「でも、最近まで別にそんなことなかったのに」
「うむ、草助との接触が引き金になったのかもしれんな。まあ幸いというか、お嬢さんはそれほど深刻ではないようじゃが」
「よ、よかったあ」
「もしかしたら巫女……つまりシャーマン的な才能があるかもしれんの。まあそれはいずれ調べるとして」

 八海老師は傍らで話を聞いていた草助の方へ向き直り、訊ねた。

「で、ワシに見せたい物とはなんじゃ?」
「ええ、これなんですが、老師は知ってますか」

 草助が鬼門符を見せた途端、八海老師の表情が一気に険しくなる。

「草助、これをどこで手に入れた!?」
「い、いえ、これは影女が持っていたもので――」

 草助は影女から聞いた話を伝えたが、八海老師の表情は険しくなる一方で、鬼気迫るものがあった。

「これを持っていたのは、呪物売りの黒崎と名乗ったそうです。老師、その鬼門符とやらには強い邪気を感じますが、これは一体……?」
「……これはの、禁呪のひとつじゃ」
「禁呪、ですか?」
「うむ。ワシが扱うような法力の他にも様々な魔術や呪術があるが、その中でも周囲に与える影響が大きすぎるものや、あまりに禍々しい手法や製法を必要とするものは禁忌として封印し、使用を固く禁じてきたのじゃ。しかし……まさか再び鬼門符が世に現れようとは」
「以前にもこれと同じ物が?」
「うむ……しかし鬼門符の製法は破棄され、この世から消え去ったはずじゃった」
「一体どういう事なんだろう」
「それは分からん。しかし草助、今すぐ儀式を執り行なわねばならなくなった」
「なんの儀式です?」
「草助よ、お主は鬼門符がどうやって作られているか知るまい」
「は、はい」

 八海老師は怒りと嫌悪をを込めた眼差しを鬼門符に向け、忌々しげに言った。

「鬼門符はな、呪符に百人分の人間の血を吸わせて完成するのじゃよ」
「ひゃ、百人!?」
「犠牲者の怨みと悲しみが、異界への入り口をこじ開ける鍵となる……しかもみだりに使えば、異界と現世とのバランスが崩れ、空間が滅茶苦茶に歪んで元に戻らなくなる事もある。こいつは存在を許してはならん道具なのじゃ」
「な、なんてことだ」

 草助も明里も、鬼門符の正体を知って血の気が引く思いであった。

「今回は大事に至る前で運がよかった。草助よ、お主もよく無事で戻ってくれた」
「老師……」
「さあ、供養の儀式を始めよう。鬼門符に取り込まれた哀れな魂を弔ってやらねばの」

 その日は夜遅くまで、供養の儀式が続いた。この後、黒崎という謎の人物との間に浅からぬ因縁が生まれるであろう事は、この時の草助にはまだ知る由もなかった――。




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