魂筆使い草助
【外伝】
〜羅刹〜



 節分を目前に控えた二月の初日、草助は梵能寺の住職である八海老師に呼ばれ、豆まきの準備と寺の掃除を手伝っていた。本堂の掃除が終わり、離れにある八海老師の自宅に取りかかる頃には、すっかり日も暮れていた。老師の自宅はちょっとした整理だけに留め、続きは明日にしようと決めたところで、草助は棚の上に置かれていた箱に手を引っかけて落としそうになってしまっていた。

「ま、まずい」

 箱の中になにが入っているか分からないし、壊したりしたら八海老師からどんな修行の追加を言い渡されるか分かったものではない。草助は反射的に手を伸ばして箱を抱きかかえるよすると、そのまま背中から畳へと倒れ込んだ。大きな音はしたものの、受け身を取ったおかげで草助も箱も無事である。ホッと胸をなで下ろして起き上がったその時、箱の隙間から白黒の古びた写真が数枚こぼれ落ちた。

「おっといけない」

 草助は写真をつまんで拾い上げると、驚きの声を上げて思わず写真を落としそうになる。写真には草助そっくりの人物が写っていたからだ。身につけている袴も、草助が妖怪退治の時に身につけている物とまったく同じである。もちろん、こんな写真を撮られた憶えはないし、写真自体がかなり古びており、最近撮った写真を加工した物でもない。不思議に思い、草助は他の写真も手に取ってみた。今度は三人の人物が並んで写っていたが、右側には草助と同じ顔をした男、中央に洋服を着た美しい女性、そして左側には手に袈裟を纏って眼鏡を掛けた若い男が微笑んでいる。他の写真も、大抵は三人のうちの誰かが写っている物ばかりであった。

「これは……」

 呟きながら写真を眺めていると、背後から呼ばれて草助は我に返る。振り返るとそこに、すずりを連れた八海老師がいた。

「なにをしとるんじゃ草助。片付けはもうええぞい」
「ええ、ちょっと珍しい物を見つけまして」

 草助は散らばった写真を拾い集め、八海老師に手渡す。八海老師は三人写真を眺めながら、眼鏡の奥で眼を細めた。



「こりゃまた懐かしい物が出てきたのう」
「あの、写真に僕そっくりの人物が写ってるんですが、これは」
「うむ。その男はおぬしの祖父、筆塚草一郎じゃ」
「やっぱり! じゃあこの隣にいる女の人は?」
「お主の祖母の真澄さんじゃ。草助は彼女の事は知るまいな」
「は、はい。祖母はまだ若いうちに亡くなったと聞きました」
「……うむ。もう遠い昔の話じゃが、凛としていい女じゃった。今はもう、二人とも会えなくなってしもうたが……あの頃の事は今でもはっきりと思い出せるわい」

 思い出を噛みしめながら、八海老師は呟く。

「ところでこの眼鏡のハンサムは誰なんでしょう。今でも通用しますよこの顔なら」
「ふっふっふ、そんなにイケておるか」

 八海老師は年甲斐もなく格好を付けたポーズを取り、キラリと眼鏡を光らせる。

「えっ」
「なんじゃその反応は」
「だって、いや……え?」
「どこからどう見てもワシそのものですよ?」
「毛がフサフサ……」
「毛がなんじゃと?」
「い、いえ」

 八海老師から滲み出す不穏な気配を察知して、草助は言葉を濁して目を逸らす。つまり、眼鏡の若い男は八海老師の若かりし頃の姿であったのだ。八海老師が懐かしそうに写真を眺めていると、すずりが後ろから覗き込んで老師の頭をぺちぺちと叩く。

「あーあー、そういやちょっと前までこんなだったね。今じゃこんな寂しい頭になっちまったけど」
「余計なお世話じゃ!」

 ムッとする八海老師から逃げ、すずりは草助の後ろでべぇと舌を出す。

「老師はこの頃からすずりと一緒だったんですか。今の僕とあまり変わらない年齢のように見えますけど」
「うむ、当時ワシが二十で草一郎が二十一、真澄さんは十八じゃったな。すずりは最初からワシが預かっていた訳ではないが、話すと少々長くなるでな。せっかくだし、茶でも飲みながらゆっくり聞かせてやるかのう」

 熱いお茶を用意して小さな丸机を囲むと、八海老師は湯気の立つ茶碗を持ち、彼らの若かりし頃を語り始めた。




 今から遡ること四十余年、世間は高度経済成長期の真っ只中にあった。飛躍的な進歩を遂げる科学と機械によって、人々の暮らしは豊かになり、社会そのものが大きく変わり、新しい物は歓迎され、古い物は忘れ去られようとしていた。そんな時代の影で、迷信として切り捨てられたはずの妖怪は、人知れず出現し続けていた。

 八海老師は本名を八房誠(やつふさ まこと)と言い、東京の一角にある大きな寺の跡継ぎ息子としてこの世に生を受けた。しかし彼の人生には、普通とは違う運命が初めから課せられていたのである。というのは、彼の家系は古くから妖怪退治を裏の生業とする一族であったからだ。物心がついたばかりの頃から深山の寺に送られ、肉体的、精神的にも厳しい修行を積み、一人前として山を下りた十八の頃には、並の妖怪退治屋を遙かに凌ぐ実力を備えるまでになっていた。彼が身に付けた法力の中でも、特に封印術の腕前は群を抜いており、世に出てからわずか二年足らずで妖怪退治屋の間でも名が知られるほどであった。

「むんっ!」

 四十年前の二月一日、丑三つ時の真夜中に、朝比奈市のとある古い商家で、左手に錫杖、右手には数珠を持ち、袈裟を纏った眼鏡の男――八房誠は、毎晩現われるという異形の怪と対峙していた。妖怪は湯飲みを逆さにしたような頭をしていて、小さな目がひとつだけ付いており、首から下は毛むくじゃらの手足を持つ人間のようでもある。真夜中の座敷を徘徊する妖怪を見つけた誠は、先祖代々受け継がれてきた数珠を振りかざして呪縛の法力を用い、妖怪の動きを封じ込めに掛かった。法力の効果はてきめんで、術で縛られた妖怪はその場から一歩も身動きが取れなくなっていた。誠は強い破魔の霊力を込めた札――破魔札という――を取り出すと、硬直した妖怪の額らしき部分にそれを貼り付けた。直後、妖怪は断末魔の呻き声を上げ、煙のようになって消滅する。誠は妖怪が現れた座敷の畳をひっくり返し、床下を覗き込んでなにやら探し始めた。すると土の一部に新しく掘り返された跡があり、土をどけてみると中には無数の古びた食器と、一枚の呪い札が埋められていた。

「ふむ、妖怪変化の正体見たり。これが本体だったか」

 誠は見覚えのある形の湯飲みと呪い札を拾い上げ、家主である商人に事情を説明した。

「――これは式神という術の一種でしてねえ。こうやって年経た道具と、呪術によって作られた札を埋める事で、狙った相手に妖怪をけしかけるというものです。放っておけばやがてこの家の住人は取り殺され……いやいや喰い殺されていたかも知れませんなあ」

 誠の話を聞いて、恰幅の良い中年の商人は青ざめた顔をする。

「しかしまあ、こんな物が仕掛けられていたところを見るとご主人、お宅も相当恨まれているようですね。確かここは高利貸しもしていたはず……」
「そ、そんなの関係あるものか」
「思い過ごしなら良いんですがね、残念な事に私の悪い予感てのは良く当たるんですよ。ここ最近この町じゃ刀を持った通り魔も出ると言うし、物騒な世の中ですから」
「知らん知らん! ただの逆恨みだ!」

 商人は声を張り上げて否定するが、表情は引きつったまま元に戻らない。

「とにかくこれで終わりなんだろう? 報酬は払うから、その薄気味の悪い物を早く処分してくれんかね」
「そりゃもちろん。寺に持ち帰って供養しますとも。ただひとつ心配事が」
「心配事?」
「とりあえず妖怪を封じはしましたがね、いつまた同じような呪いを仕掛けられるか分からない、という事ですよ」
「そんな……どうにかならんのか!?」
「お祓いと魔除けの結界を作れば、この屋敷に邪気が寄りつくのを防ぐ事が出来ますが」
「じゃあさっさとやってくれ」
「ああ、そりゃ構いませんとも。ただし、ここからは別料金でして」
「な、なんだと!?」
「どうなさるかはご主人次第ですが……ああ、ちなみに値段はこのようになっております」

 誠が見せた新たな契約書には、目玉が飛び出そうな桁の数字が書き込まれていた。

「な、なんだこれは、いくらなんでも吹っ掛け過ぎだ! 大体、あんたを呼ぶのだって大枚をはたいたんだぞ!」
「無理にとはいいませんが、これも決まりでしてねえ。ただ個人的な意見を申し上げるなら、このままではお嬢さんが気の毒かと。美人でしかも嫁入り前だというのに、自宅が妖怪屋敷になってしまったなどという噂が広まったら……」
「ぐぬぬ、足元を見おって!」

 しれっと答える誠に、商人はこめかみに血管を浮かび上がらせながらも、契約書に印を押して乱暴に突き返す。

「ご契約ありがとうございますご主人。賢明な判断ですな」

 眼鏡をキラリと光らせ、誠は満面の笑みを浮かべる。

「それではこれよりお祓いと魔除けの儀式を執り行いますので、一晩こちらに泊めていただきますがよろしいですかな?」
「空いている部屋があるから好きに使ってくれ。わしは気分が悪いから席を外すぞ」
「どうぞお構いなく。ああ、それから」
「まだなにかあるのか!?」
「魔除けの術には清らかな乙女の気が必要でしてね。よろしければお嬢さんを部屋にお呼びして頂きたいのですが」
「……娘に手を出したら承知せんからな」
「滅相もない。我が名の文字通り、誠心誠意働きますとも」

 そう言いながら誠の口の端が持ち上がっている事に、商家の主人は気付いていなかった。用意された部屋で儀式のための小さな祭壇を作り終えると、誠の部屋を訪れてそっと襖を閉じた。




「うわっとっと!」

 袈裟を脇に抱え、下着一枚の姿で座敷から飛び出した誠の前に、茹で蛸のようになった商家の主人が立ちはだかった。こめかみには血管が浮き上がり、フーフーと湯気のような鼻息を吹き出している。襖の隙間からは、布団で身を隠した娘が見える。そして近くには、彼女が脱いだ着物がそのままになっていた。この状況を見れば、誠と娘の二人になにがあったかは推して知るべし、である。

「この生臭坊主め! よくも娘を傷物にしてくれおったな!」
「落ち着いてくださいご主人。あれは双方合意の上で、決して無理にというわけでは……」
「やかましい! おめえら思い知らせてやれ!」

 主人が合図をすると、彼の背後から屈強かつ人相が良いとは言えない荒くれ男たちが十人ほど現れ、一斉に誠を睨み付ける。腹にさらしを巻き、肩や背中に入れ墨をした彼らの手には、例外なく物騒に光る刃物が握られていた。誠が引きつった笑みを浮かべて後ずさるのと同時に、男たちは彼めがけて雪崩を打つ。刃先をすんでの所でかわしながら、誠は裸足のまま庭に出ると、ひょいと塀に飛び乗って屋敷を振り返る。障子の隙間から心配そうに顔を出す娘を見つけた誠は「いずれまた」という彼の決まり文句を残し、塀の向こうに飛び降りて見えなくなると、殺気立った男たちが彼の後を追って屋敷の門から次々に飛び出していく。妖怪退治を生業とする誠にしてみれば、少しばかり本気を出せば彼らを一蹴する事は容易い。しかし事の原因は自分自身であり、仮にも一般人に手を出したとあれば、八房家からの破門は免れない。結局走り回る以外に選択肢はなく、ついには周りを取り囲まれてしまった。

「観念しやがれ!」

 荒くれ者の頭目と思われる男が、ドスの切っ先を誠に向けて怒鳴る。袈裟を脇に抱えたままの誠は苦笑しながら返事をした。

「まあ落ち着きなさい。お前さんたち、大勢で一人を取り囲んで無体を働こうというのかね? そりゃあ仏様もお嘆きになる行いだぞ」
「そもそもてめえがお嬢さんに無体をしやがったんだろーが!」
「いやいや、だからあれは双方合意の上だったわけで。どうだろう、いい加減に不毛な争いは止め、寛大な心で丸く収めようじゃないか」
「けっ、その癖の悪い腕を切り落として、二度と女に手出しできないようにしてやらあ!」

 話し合いは無駄であるという結論が出てため息をつく誠の目に、殺気立つ連中とは別の男が近付いてくるのが映り込む。癖のある髪を肩の辺りまで伸ばし、紺の着物に茶袴という出で立ちで、長細い革袋を肩に掛けた若者であった。年は誠と同じ二十歳くらいだが、お気楽で飄々とした誠とは対照的に、真面目が服を着ているとでもいった、実直な顔立ちの、なかなかがっしりした体格の青年であった。

「……腕を切り落とすと聞こえたが、聞き間違いか?」

 発した声もまた、顔立ち通りに芯のある真っ直ぐなものだった。

「誰だてめぇは。関係ない奴は引っ込んでろ!」
「確かに事情は知らん。だが丸腰の相手一人に、十人掛かりで刃物を振りかざすとは何事だ。自分を恥ずかしいとは思わんのかお前たちは」
「うるせえ! 先に刻まれてえのか若造!」
「争いは嫌いだ。しかし……」

 若者は肩に掛けた革袋を開け、中から鞘に収まった一振りの日本刀を取り出すと、柄に手を掛けて男たちを睨み付けながら言う。

「降りかかる火の粉を払うのに遠慮はしない」

 若者から放たれる鋭い気迫は、周囲の男たちどころか、誠も思わず目を見張る程の威圧感があった。ある程度武道の心得がある者なら、それだけで彼我の力量の差を推し量れるのだが、荒くれのチンピラにそのような心得が備わっている道理もなく、興奮した一人が声を張り上げて袴の若者に襲いかかる。

「――!」

 二人の身体がすれ違った次の瞬間、頭目の着物の帯が切断され、ドスを振り上げたままで薄汚れた褌姿を晒け出していた。

「んなっ!?」

 袴の若者と誠以外に、その時なにが起きたのか理解できた者はいなかった。荒くれの頭目がドスを振りかざした刹那、袴の若者は電光石火の勢いで刀を鞘から引き抜き、着物の帯だけを切り落としたのである。

「動くな。それ以上近付けば、次は斬る」

 若者の技量が並大抵でないことは誰の目にも明らかであったし、刀を抜いた若者の目は、斬ると言ったら本当に斬るであろう凄味に満ちていた。発展と平和を謳歌するこの時代にあって、未だにこのような目をする人物というのは、いわゆるスジ者の世界でも希な存在であったのだ。

「うっ……」
「ど、どうするんで兄貴?」

 男たちの中でも下っ端と思われる人物が、怯えた声で頭目の男に訊ねる。

「ちっ、はした金で命まで賭けてられねえ。一旦引き上げだ!」

 頭目が合図をすると、荒くれ者たちは後ずさりしながら遠ざかる。誠がやれやれとため息をついていると、若者が頭目を呼び止めた。

「待て。ひとつ聞きたいことがある」
「あん、なんでえ?」
「このところに出没する通り魔の噂を知っているな」
「ああ、腕の立つ奴が何人もやられてるって話か」
「あの事件についてなにか心当たりはないか?」
「けっ、俺たちを疑ってるんなら的外れだぜ。確かに俺たちゃダンビラ持ってるがよ、金にもならねえ通り魔なんぞ誰がやるってんだ」
「……そうか」
「それより憶えてろよ。この借りは必ず返すからな!」

 頭目はやくざ者にありがちな台詞を残し、子分を引き連れて去っていく。若者はそれを見届けると刀を鞘に納め、革袋にしまって元通り肩に担ぎ直す。成り行きを見守っていた誠は、若者が商家の回し者ではないと見て取ると、笑顔を作って彼に近付いた。

「いやあ助かった。連中しつこくてねえ」
「礼より先に服を着るんだな」
「ああっとそうだった。着替える暇もなくて。あっはっは」

 笑いながら衣服を身につけ、あらためて誠は礼を言う。

「私は八房誠。厄除けや悪霊払いに物の怪退治……いわゆる拝み屋を生業としている者だ。君は?」
「筆塚草一郎だ」

 若者はそう名乗っただけで、それ以上言葉は続かなかった。

「……ええと、他には? 生まれとか職業とかそういうの」
「俺は東京のとある道場で、幼い頃から剣術を学んでいる。この朝比奈市には私用で滞在しているだけだ」
「なるほどそれで。あの腕前と気迫も納得だね。私と同い年くらいなのに大したもんだ」
「あんたもその気になれば連中くらい追い払えたはずだろう。少し様子を見させてもらっていたが、あの身のこなしは素人じゃない。相当に鍛え込まれている人間のそれだ」
「あちゃー、お見通しだったか」
「理由がなければあんなに追い回されたりはしない。一体何をしでかしたんだ?」
「いやいや、拝み屋としての職務を全うしただけさ。ただね、そこに美しい女性がいたならば、男としてつい口説いてしまうのも仕方がないじゃあないか。そうだろう君っ」
「……つまり依頼主の娘にでも手を出したという事か。助けて損をした」

 草一郎は不機嫌そうに言い放つと、くるりと背を向け早足で歩き始めた。誠は慌てて彼の後を追い、並んで歩きながらまくし立てた。

「ああ、待った待った。草一郎と言ったっけ、君には感謝しているんだ。恩を受けたまま礼もせずに別れたとあっては、師匠にこっぴどく怒られてしまうよ」
「知らん。あんたが怒られるのは自業自得だろう。それに恩返しというのは建前で、自分の不始末の言い訳を作りたいだけじゃないのか」
「たはは、厳しいねえどうにも」

 草一郎はしばらく黙っていたが、やがて足を止め誠の顔を見て言った。

「確か仕事は拝み屋……妖怪退治だと言ったな」
「ああ、そうだが」
「俺は最近連続して起きている通り魔事件の犯人を追っている。そこであんたの力を借りたい」
「ふむ。その噂なら私も耳にしているよ。しかしそれは警察に任せた方がいいんじゃないのかい?」
「……警察では無理だ。いや、並の人間の手には負えないだろう。俺には分かる」
「ほう、どうして?」
「被害者はいずれも腕の立つ剣術家ばかりだ。そしてどれも一太刀で刀ごと真っ二つに斬られている。それなのに現場には犯人の足跡どころか、手掛かりがなにひとつ残されていなかった。被害者の斬られ方といい、どう考えても人間業じゃあない」
「ふーむ、素人の身でよく調べたもんだ」
「恩返しをするというなら、事件の犯人捜しに手を貸してくれ。拝み屋なら、こういう怪事件に詳しい情報網を持っているはずだろう」
「凄いな君は。その剣術の腕といい、まるで同業者と喋っている気分だよ。どうやらその辻斬り事件は私の領分でもあるみたいだし、良ければ力になろう」

 これが八海老師こと八房誠と、草助の祖父となる筆塚草一郎の初めての出会いであった。




「――老師のスケベは当時からそうだったんですね……筋金入りだ」
「馬鹿者。ワシほどのイケメン、女の方が放っておかなかったんじゃい」

 自信たっぷりに答える八海老師に、草助も呆れ顔である。煎餅をかじっているすずりに視線で訊ねると、

「今は見る影もないけどな」

 と、彼女は八海老師のハゲ頭を撫でながらニヤニヤと笑う。

「ほっとけ!」

 八海老師はすずりの手を払い除け、残った頭髪をいたわりながら話を続けた。




 朝比奈市の中心部には、鳩岡八幡宮(はとがおかはちまんぐう)という大きな神社がある。歴史は古く、国の史跡に登録されるほど重要な場所であり、かつては武士にとって特別な意味を持つ土地でもあった。広い敷地の中には緑豊かな雑木林と庭園があり、その中に無数の社が建てられ、様々な神や御霊が祀られている。そして一番奥の石段を登り切った先には、立派な造りの本宮が静かにそびえ立っている。もうひとつの特徴として、鳩岡八幡宮の南側に位置する大鳥居からさらに南の海岸まで続く長い参道が伸びており、春には参道の両脇に植えられた桜が、梅雨の時期には紫陽花が見事な花を咲かせるのである。

 二月二日の午後、八幡宮の南にある朱塗りの大鳥居の下で、袴姿の若者がじっと立ち尽くしていた。刀袋を肩に掛けたその人物こそ、先日八房誠と知り合いとなった筆塚草一郎である。彼は腕を組んだまま目を伏せ、身を切るような冷たい風すら気にならない様子で、文字通り直立不動の姿勢を保っていた。その姿を見つけた袈裟姿の誠は、指で眼鏡の位置を直してから草一郎の元へ近付いた。

「律儀だねえ。待ち合わせまでまだ時間はあるはずなのに、いつから待っていたんだい」
「そんな事はどうでもいい。手掛かりが掴めたという話は本当だろうな」

 草一郎は目を開け、真面目な口調で問い返す。誠は彼にいつもそんな顔で疲れないかと訊ねてみたかったが、軽口で和んでくれるような雰囲気でないことを察し、心の中で思うだけに留めておく。

「まあまあ慌てなさんな。電話で伝えた通り、疑わしき輩が居る……かもしれないというだけさ」
「詳しく聞かせてくれ」
「その前にひとつだけ。この話を聞いたら後戻り出来なくなるだろうってことだ」
「危険だと言いたいのか。それなら問題ない。自分の身を守るくらいの事は出来る」
「うん、まあ人間相手ならそうだろうねえ」
「……相手は人間じゃあない、と?」
「そ。君も言ってたようにこの事件、犯人は人間じゃあない。つまり妖怪の仕業って事だ」
「……」
「ま、信じるかどうかは任せるがね。ともあれ、それらしい妖怪の情報が入ってきた。今言えるのはそれだけだよ」

 誠の目をじっと見据えたまま、草一郎はしばらく考え込んでいたが、はっきりとした声で返事をした。

「分かった。あんたを信じよう」
「ありゃま。いきなり信用されるとは驚きだね。普通は妖怪なんて迷信だろうって言われるんだが」
「迷信ならそれで構わん。だが事実ならこの目で確かめる必要がある。それだけだ」
「へえ、お堅く見える割に融通が利くじゃないか」
「馬鹿にしているのか?」
「いやいや逆だとも。今のご時世、柔軟な性格の方が長生きできるもんさ。特に妖怪なんてのを相手にしていれば尚更ね。それじゃあ具体的な話に移ろうか」

 誠が仕入れた情報によれば、上弦の月が頭上に昇る夜になると、どこからか巨大な影が現れては鳩岡八幡宮の周辺を徘徊し、遭遇した人間を襲い喰い殺しているという。被害者は行方不明として処理され表沙汰にはされていないが、かなりの数に上るという。そして誠が言った手掛かりとは、巨大な影が現れた日時と通り魔事件が起きた日時とが一致しているという事実であった。

「という訳なんだが」
「……そうか」
「巨大な影の正体を確かめようとした退治屋もいたんだが、みな返り討ちに遭い、無事に逃げ延びた者もひどい手傷を負わされたらしい。今度の妖怪、かなり手強い相手と見て間違いないだろう。正直に言って、これ以上首を突っ込めば命の保証は出来ないが」
「覚悟の上だ。約束通り俺も同行させてもらう」
「意志は固いようだね。ま、日が暮れるまで少し間があるようだし、そこら辺の店で腹ごしらえでもしておこう」

 誠が目をやった参道沿いの道路にはいくつもの店が建ち並んでおり、二人はその一角にあるラーメン家に入り、醤油ラーメンをふたつ注文して日暮れを待った。この店のラーメンは細麺のあっさりした味付けで、あまり胃にもたれないのも都合がよかった。

 町が夜の帳に包まれ、頭上に半分に欠けた月が昇った頃、誠と草一郎は店を出た。空気はぴんと張り詰めたように冷たく、吐く息が白く煙る。透き通った夜空にはいくつかの千切れた雲が浮かび、静かな月明かりが町を照らしていた。

「さて、どこから見て回ったもんか。八幡宮の周りと言っても、一周すれば結構な距離だからなあ」

 誠がアゴに指を当てて考える仕草をすると、草一郎は「待っていろ」と鳥居の近くに止めてあった小型のバイクに跨り、エンジンを掛けた。これは当時の数年前に発売されて以来、爆発的に売れて普及したスーパーカブで、草一郎が乗っている物もピカピカの新車であり、二人乗り用のタンデムシートが取り付けられていた。

「これで辺りを調べれば早い」
「おっ、いい物に乗ってるじゃないか。私も欲しいと思ってたんだよコレ」
「行くぞ、早く乗れ」

 草一郎に促され、誠はタンデムシートに跨る。草一郎が右手のアクセルを捻ると、スーパーカブは単気筒の排気音を響かせながら走り出した。当時はまだ道路の舗装が進んでおらず、土が剥き出しの場所が多かった。道路の凹凸に揺られながらも走り続け、やがて八幡宮の北東に位置する雑木林の手前で草一郎はバイクを止め、無言で林の奥をじっと見つめていた。

「草一郎、もしや君も?」
「吐き気のする……嫌な気配が奥から漂ってきているのを感じる」
「はあ、これじゃ私の立場がないな。本当に君は素人なのか?」
「俺は子供の頃から、普通の人間が見えない物や聞こえない声を感じられた。師匠は俺の霊感が強いからだと言っていたが……この気配もその類の物だろうと思う」
「なるほどね。君には天性の素質があるようだ。これは付き添いどころか心強い助っ人になりそうだな」
「褒めてもなにも出んぞ。それよりこの異様な気配、誠には正体が分かるのか」
「ああ。これは妖怪が放つ妖気だよ。この奥にそいつがいるのは間違いない」

 二人はバイクから降り、林の奥へと続く小道の前でそれぞれの武器を確認した。誠は右手に錫杖、左手に数珠。懐には破魔の霊力を込めたお札を数枚忍ばせてある。草一郎は袋に入れていた刀を取り出し、腰に差して柄に軽く手を添えていた。互いに顔を見合わせて頷くと、誠と草一郎は雑木林の奥へと踏み込んでいく。奥へ進む度に妖気は濃く、強くなってくる。やがて行き止まりに辿り着くと、そこには朽ち果てた神社があり、傾いて外れかけた戸の中から、獣のような息遣いと、肉が腐ったようなひどい悪臭が漏れ出していた。誠は一歩踏み出して社に近付くと、鼻をつまみながら言った。

「そこに潜んでいる妖怪。最近この辺りをうろついて、夜な夜な人間を襲っているのはお前だな。大人しく出てくれば、せめて苦しみの少ない方法で封じてやろう」
「グルルルルルル……!」

 誠の呼びかけに答えるように、低い唸り声が社全体を震わせる。やがて振動によって傾いていた戸が外れ、社の奥に月明かりが差し込む。月光に照らされて浮かび上がったのは、座り込んでなお社の天井に背中が届くほどの醜い巨人が、乾いた音を立てながら人骨を囓る姿だった。ボロボロの壁板にはべっとりと血の跡が付き、無数の砕けた骨が床の至る所に散乱していた。

「貴様、今までどれほどの人間を喰い殺したッ」
「グルル……グアアアッ!」

 巨人は杭の如き太い牙が生えた口を大きく開き、炎のように爛々と目を輝かせて吠える。人の形をしてはいるが、その口から人間の言葉が発せられることはなかった。

「浅ましき妖怪め。もはや明日の月を眺めることは出来ぬと知れ!」

 小さな玉の間に、それぞれ等間隔で八つの透き通る玉を連ねた数珠を突き出し、誠は叫ぶ。すると数珠は青白い光を放ち、同時に巨人が身体を硬直させ、苦しみの声を上げ始めた。これが誠の得意とする術のひとつ、妖魔捕縛の法力である。巨人は必死に力を込めて逃げだそうとしていたが、誠の呪縛は指一本動かすことすら許さなかった。

「我が家系に代々伝わる宝珠『八房』の妙力、貴様の如き妖怪には決して破れはせぬ!」

 眼鏡の奥から巨人を睨み付ける誠の目に、普段の軽薄さは微塵も感じられず、まさに真剣そのものである。

「誠、この化け物は一体」

 後ろで身構えつつ成り行きを見守っていた草一郎が訊ねると、誠はこう答えた。

「鬼さ。と言っても色々いるんだが、こいつはその中でも低級の邪鬼という奴だよ」
「こんな巨大な怪物が低級だというのか?」
「身体の大きさはあまり関係なくてね。下等な鬼ってのは知能が低く、本能と衝動のままに自分の欲求を満たそうとする。つまりケダモノと同じでね。我々退治屋の間では、実体を持つ低級な鬼をまとめて邪鬼と呼んでいるのさ」
「邪鬼……これが……」
「妖怪を相手にするときは、見た目に惑わされちゃいけない。いかに図体が大きかろうと、知性を持たぬ邪鬼など恐るるに足らず!」

 誠が念を込めると、邪鬼を縛り付ける力は一層強くなり、邪鬼の悲鳴もさらに苦しげな物へと変わる。目の前の妖怪のおぞましさもそうだが、誠から放たれる霊力の波動に、草一郎は圧倒されている様子だった。

「他流試合の稽古でも、これほどの気迫を持った人間は滅多にいなかった。妖怪退治屋とは皆こうなのか」
「んー、まあ人によりけりじゃないかな。それより草一郎、少し下がっていてくれないか。この程度の相手なら私一人で充分だよ」

 誠は懐から破魔札を取り出すと、数珠をかざしながら邪鬼へと近付いていく。

(しかし妙だな。この程度の邪鬼に何人もの退治屋がやられたというのか?)

 誠の脳裏に違和感がよぎった次の瞬間、彼にとって予想もしない出来事が起こった。誠と邪鬼の間に、轟音と共に一陣の突風が吹き抜けたかと思うと、邪鬼を押さえ付けていた法力が断ち切られてしまったのである。呪縛から解き放たれた邪鬼は社を破壊して立ち上がり、空気を震わせるほどの咆吼を上げて誠を睨み付ける。その手には、幅が四十センチ、長さが百七十センチ余りという、とてつもない大鉈(おおなた)が握られていた。

「ば、馬鹿な――!?」

 邪鬼は鉄塊のような大鉈を片手で軽々と持ち上げ、誠めがけて振り下ろす。誠はすかさず飛び退いて事無きを得たが、大鉈は地面を砕き、衝撃で周囲の木々をも揺らすほどであった。誠は再び妖魔捕縛の法力を繰り出そうとしたが、切れ間無く繰り出される大鉈の連撃は、反撃を仕掛けるわずかな時間すらも与えてはくれなかった。

「くっ、よもや不覚を取るとは……!」

 誠の右手には錫杖が握られていたが、大鉈を相手に立ち回るにはさすがに心許ない。

(せめて一瞬でも足止め出来ればどうにかなるものを)

 誠がそんな事を思っていると、心の声を聴いていたかのようなタイミングで、刀を抜いた草一郎が邪鬼の前に踊り出た。邪鬼は目の前の草一郎に視線を移し、大鉈を頭上高く振り上げて一気に叩き潰そうと降り降ろす。

「なにしてる、逃げろ!」

 誠が叫ぶのとほぼ同時に、大鉈の一撃が草一郎の脳天を直撃した――かに見えたが、草一郎は皮一枚の間合いでこれを避け、その視線は些かも揺るがず邪鬼を捉え続けていた。

「――はッ!」

 裂帛の気合いを込め、草一郎は逆袈裟の軌道で刀を振り上げる。次の瞬間、邪鬼の右肘から先は切り飛ばされ、大鉈は柄を握りしめる腕をくっつけたまま地面に突き刺さった。

「ギャアアアアアアアッ!」

 邪鬼は傷口からどす黒い血を吹き出しながら絶叫し、その場に足を止める。

「今だ、やれ!」

 草一郎の合図と共に誠は跳躍し、破魔札を邪鬼の額に叩き付ける。お札の力によって妖力を打ち消された邪鬼は実体を保てなくなり、身体から肉が溶けて削げ落ち、残った白骨も風に吹かれ塵となって消えた。誠は邪鬼の最期を見届けると、数珠を巻いた左腕で片合掌をし、その場に邪念が残らぬよう念仏を唱えて場を清める。念仏を終えた誠は顔を上げ、刀を手にしたままじっと佇んでいる草一郎に近付き声を掛けた。

「いやはや、これで二度目だな君に助けられるのは」
「……初めてだった」
「だろうね。本物の鬼なんてのを見たら誰だって驚くものさ」
「違う。生身の相手を斬った事がだ。妖怪とはいえ、肉を切るあの手応え……俺は好かん」
「うんうん、草一郎も人の子というわけだ。少し安心したよ」
「どういう意味だ?」
「君は度胸が据わりすぎているからね。もしかして感情が欠けているんじゃないかと心配していたんだよ」

 誠は笑顔を作って明るく言うが、草一郎は気を緩める素振りを見せず、表情は相変わらず張り詰めたままだった。

「まだなにか心配事でも?」
「自分でもよく分からないが……さっきから胸騒ぎが消えない」

 誠にも引っかかる事がいくつかあり、真顔に戻って先程の出来事を思い出していた。

「確かに妙だった。あの時、私の法力が突然断ち切られた。あの邪鬼にはそれほどの妖力は無かったはずなのに」

 誠が考え込んでいると、突然草一郎が顔を上げ、林の奥に続く暗闇を見据えて強張った声を出した。

「居る……なにかが俺たちを見ている」
「なんだって?」

 言われて、誠も自分に向けられている視線に気付き身構える。やがて二人の視線の先に、燃えさかる炎が暗闇に浮かび上がる。それは上下にゆっくり動きながら、少しずつ誠たちの元へと近付いて来る。やがて炎に見えたそれが月明かりに照らされた時、誠と草一郎はそれが何であるかを理解した。

「まさか……」

 誠は思わず呟き、喉を鳴らして唾を飲み込む。それは黒鉄の如き色の肌を持ち、髑髏の首飾りと異国の鎧を身につけた一体の鬼であった。鋼鉄で出来た仮面を付けて表情は見えず、黄色い光を宿した瞳だけが爛々と輝いている。炎に見えたのは彼の真っ赤な頭髪であり、それは本物の炎と同様に揺らめき、暗闇の中で輝きを放っていた。鬼の体格は先程の邪鬼と比べると一回り小さいが、それでも二メートルを超す身の丈であり、露出した手足は強靱な筋肉で覆われている。そして鬼の手には、やはり人間では扱えそうもない片刃の剛刀が握られていた。

「二人がかりとはいえ、我の手下を容易く退けるとは面白い。少しは歯ごたえがありそうだな」

 鬼は黄色い瞳を光らせ、人の言葉を口にした。同時に、肌に刺さりそうなほど強烈な妖気が鬼の身体から放たれ、それを浴びた瞬間、誠の全身の毛が逆立ち、凄まじい悪寒が背筋を貫いた。目の前にいる鬼が並大抵の妖怪ではない事は容易に想像できたが、さらに誠の心胆を寒からしめたのは、この鬼が持つ特徴に心当たりがあったからである。

(や、やはり間違いない、こいつは――!)

 血の気が引く思いで草一郎に目をやると、彼もまた強烈な妖気に圧倒され、戦慄を覚えている様子が窺えた。しかしそれでも、常人であれば逃げ出すか錯乱してしまう程の相手を前に身構え続けられるだけでも、彼の精神力は驚嘆すべきものである。しかしそれは相手を知らぬが故の蛮勇と同じであり、今この場に於いては命取りになりかねない事であった。誠は鬼へ視線を向けたまま、傍らに立つ草一郎に言った。

「草一郎、ひとまず逃げるぞ」
「なぜだ。お前には妖怪を封じる術があるだろう」
「説明している暇はない。とにかく奴とは戦ってはダメだ。これは君のためを思って言ってるんだぞ」

 誠は少しずつ後退して鬼との間合いを取り始めたが、草一郎は納得がいかぬ表情で鬼をじっと見た。しかし黒い鬼が全身から発する妖気に押され、草一郎も額に汗を滲ませていた。

「そこの鬼、さっき人間の言葉を口にしたな。話が出来るなら聞きたいことがある」

 黒い鬼は無言のまま、草一郎に視線を向ける。

「ば、馬鹿、よせ!」

 誠は慌てて止めようとしたが、草一郎は構わず言葉を続けた。

「ここ最近、この町を訪れた剣術家が次々と斬られている。その斬られ方がどれも人間業じゃあなかった。その手に持つ剛刀と凄まじい気配……もしや事件の犯人はお前か」
「クク……だとしたら?」
「なぜ人間を殺めて回る。どんな目的があってこんな事をする。答えろ」
「愚問。我にとって強者との戦いこそが唯一無二の喜び。真剣勝負の敗者が死すのは当然の成り行きであろう。もっとも、最近は歯ごたえのない奴らばかりで辟易としていたところだ。さて、貴様はそれを知ってどうする」
「……斬る。殺された者の一人は、俺の恩師だった」
「ほう。この時代に仇討ちとは面白い。よかろう、復讐を遂げんとするならば掛かってくるがいい」

 鬼がそう言った次の瞬間、草一郎は地面を蹴って黒い鬼に斬りかかった。上段から降り降ろされる一撃は呼吸、間合い共に完璧であり、刀を構えてもいない鬼が刃を避けるのは不可能である。このまま一気に斬り伏せようとした草一郎だったが、あと十数センチの所で刃が空中に固定されたように動かなくなり、いくら押し込めてもそれ以上先へ進まなくなってしまった。

「なに……ッ!?」
「どうした、威勢が良いのは口だけか」

 草一郎は一旦刀を引いて間合いを取り、もう一度斬りかかる。しかし何度やっても結果は同じで、刃は分厚い空気の壁のようなものに押し止められ、どうやっても触れる事が出来ない。

「太刀筋はなかなかのものだが、まだ未熟。ただ剣を振り回すだけでは、我を傷つける事はできんぞ」
「くっ、どうなっているんだ?」

 攻撃が通じず、草一郎は刀を握りしめたまま身構えるしかなかった。鬼は相手の手が止まったのを見て、退屈そうに嘆息する。

「それで終わりか。ならば今度は我の番だな」

 言うと同時に、鬼は軽々と剛刀を振り上げ頭上に掲げる。この時、互いの間合いは五メートル以上も離れており、刃が届く距離ではない。にもかかわらず、黒い鬼の無造作な構えに必殺の気配が満ちている事を、草一郎は敏感に悟っていた。

「……ッ!?」

 強烈な悪寒を感じ、草一郎は咄嗟に横へ飛び退く。それとほぼ同時に剛刀が降り降ろされて弧の軌道を描くと、刀身から上弦の月に似た光の刃が矢のように放たれた。光の刃は地面を鋭く抉りながら突き進み、奥の林にある木々をもなぎ倒して見えなくなった。この常識外れの斬撃こそ、腕に覚えのある剣術家を葬り去ってきたものだと草一郎は即座に理解する。

「なんて奴だ――!」

 すんでの所で直撃を免れたものの、草一郎の身体は斬撃の余波を受けて宙に放り出され、完全に無防備な姿を晒していた。その隙を鬼が見逃すはずもなかった。

「ほう、我の斬撃が見えたか。今までの連中は、それを見る事も出来ずに死んでいったが、お前は少し違うようだな。だが結局は同じ事……我を相手にするには力不足だ」

 鬼は疾風の如き素早さで間合いを詰め、がら空きの胴を剛刀が薙ぎ払う。草一郎の胴体は防ぐ間もなく真っ二つに切断され、無残な塊となって地面に落ちた。

「む……」

 と、訝しげな声を出したのは黒い鬼である。地面に横たわる草一郎の遺体に触れようとした途端、彼の身体は半分に切れたお札へと変わった。これは誠が身代わりの術札を使い、彼が斬られる寸前に入れ替えたのである。本物はすでに、遙か遠くへと逃げ去って姿も見えなくなっていた。

「ふん、興を削ぐ真似を……まあいい、仇討ちが望みならまたすぐに会えるであろう。我も余興のひとつでも用意してやるとするか、ククク」

 黒い鬼は不敵な笑い声を響かせながら、漆黒の闇に溶けて消えた。




「――はあはあ……まったく! なんて無茶をするんだ君は!」

 肩で息をしながら、誠は草一郎に詰め寄る。草一郎は納得がいかない様子で、未だ林の奥を見つめていた。

「どうして私のいう事を聞かなかったんだ。危うく殺されるところだったんだぞ」
「師の仇を前にして逃げろと言うのか。お前が俺と同じ立場でもそうするのか?」
「そういう問題じゃあない。いくら憎い仇でも相手が悪すぎる。やられると分かっていて戦いを挑むのは馬鹿のやることだ」
「お前はあの黒い鬼のことを知っている口ぶりだったが、あれは一体なんなのだ」
「……まずはここを離れよう。万が一奴に追いつかれたら、今度こそお終いだ」

 誠は血色の良くない顔を上げ、道路に停めてあるカブに目をやった。草一郎も仕方なくカブのエンジンを掛けると、タンデムシートに誠を乗せて雑木林から走り去った。

 鳩岡八幡宮から北へ向かい、十五分も走った所に八景寺という寺があり、誠が幼少の頃、修行に出された寺であった。誠は草一郎を客間に通すと、湯気の立つお茶を差し出して向き合った。

「さて、例の黒い鬼のことを話す前に、鬼そのものについていくつか説明しておかなければならない」

 そう前置きをして、誠は続ける。

「もう一度言うが、鬼にはいくつか種類がある。今日我々が退治した邪鬼は、実体を持つ鬼のうち、獣並みの知恵しか持たぬ低級な鬼だという事は説明した通りだ」
「ああ」
「そして他にも様々な分類があって、まずはそれらについて話したい」

 通常、人前に現れる鬼はその強さと性質によって『幽鬼』『邪鬼』『妖鬼』の三種類に大別され、それぞれの特徴を持っている。幽鬼とは実体を持たぬ鬼の総称であり、悪霊や餓鬼など、生者に取り憑いて苦しめる鬼を指す。幽鬼と邪鬼は知性が極めて低く、人間と会話をするだけの自我や理性を持ち合わせていない事がほとんどであるため、鬼の中では低級な存在と位置づけられている。また低級な鬼ほど光の当たる場所を嫌う。続く妖鬼とは、鬼の中でも高い妖力を持ち、人間と同等以上の知恵を得た者を指す。昔話で馴染みのある赤鬼や青鬼などの標準的な鬼の他、地霊や土着の妖怪などもこれに含まれる。妖鬼は光をあまり恐れず、人間と会話をする事が可能で、時に妖術や自然界の力をも使いこなす高位の存在である。うかつに手を出して怒りを買うと、それを鎮めるためには多大な犠牲を払うことを覚悟せねばならない。

「――とまあ、こんな具合なんだが」
「つまりあの黒い鬼は、邪鬼より格上の妖鬼という鬼なんだな」
「いや、そうじゃない。まだ話は途中だ」
「他にもまだあるのか」
「ああ。実はその三種類の他に、もうひとつ区別された鬼がいる。悪い事にあの黒い鬼は……そのもうひとつなんだよ」
「いい加減に正体を教えろ。もったいぶった話は好かん」

 草一郎に睨まれて、誠も嘆息混じりに重々しい声で答えた。

「鬼神だよ。鬼神とは鬼が転じ、人々の災厄を取り除く神となったものだが、粗末に扱ったりして怒りを買うと、本来の鬼としての本質を取り戻して暴れる事がある。神として人々を守護する程だから、その強さは説明するまでもないだろう。我々が出会ったあの黒い鬼は、羅刹という鬼神の一種なんだ。羅刹の話は師匠から聞いた事はあったが、実際に出会うのは私も初めてだよ」

 羅刹とはインドの鬼神ラクシャサが仏教に取り入れられた時の名であり、争いを好み、人を惑わし喰らう残忍な性格をしており、太古の伝説ではその武力を頼みに神々に戦いを挑んだとも伝えられている。

「羅刹だと……そんなものがなぜこの町をうろついているんだ」
「そりゃ私が聞きたいくらいだよ。羅刹ってのは現在広く普及した鬼の基本的な姿のモデルとなった鬼神で、いわば鬼の元祖と言うべき存在なんだ。だから並の妖怪や鬼なんかと比べても強さは桁違いだし、そこらへんから無造作に出てくるはずはないんだが」
「確かに奴の強さは尋常じゃない。俺の剣もまるで歯が立たなかった。しかしあんたの仲間を呼んで力を合わせ、妖怪封じの術を使えば少しくらいは勝機があるはずだろう」

 草一郎は誠に食い下がるが、誠は「残念だが」と目を伏せ首を振る。

「どうあがいても結果は同じさ。法力を頼む我々では奴に勝てない理由があるんだよ。羅刹は剣術と妖力に優れているばかりでなく、もうひとつ恐ろしい能力を持っているんだ」
「なんだそれは?」
「君も見ただろう。邪鬼と戦っている最中、私の法力がつむじ風と共に突然切り裂かれたのを。つまり羅刹には、相手の法力や術の力を断ち切る能力があるんだよ。法力が通じないのでは、万に一つの勝ち目もない。互いに生身でぶつかれば、鬼の方が圧倒的に有利だからね。だからこそ羅刹は鬼神と呼ばれているんだ」
「……打つ手無しだな」
「早い話がそういうこと。気の毒だが仇討ちは諦めた方が賢明だろうね」

 草一郎はしばらく視線を落としたまま考え込んでいたが、やがて無言で立ち上がり、座敷を出て行こうとして誠に呼び止められた。

「どこへ行くつもりだい? まさかと思うが、羅刹にもう一度戦いを挑もうなんて考えているんじゃないだろうね」
「……」
「はあ、やっぱり。さっき言ったろう、万にひとつも勝ち目はないって」
「そうだとしても、黙って引き下がる訳にはいかん。せめて一太刀報いてやらねば、あの世で師匠に合わせる顔がない」
「分からないな。なぜそうまで死に急ごうとするんだい。律儀なのは結構だが、犬死にする事が君の望みなのか?」
「ではどうしろと言うんだ。放っておけば奴はこの先も人を殺め続けるだろう。それを知りながら、見て見ぬふりをしろと言うのか」
「草一郎、君の気持ちは分かるが、死んでしまっては全てがお終いだ。犠牲者には気の毒だが、運が悪かったと諦めてもらうしかない。この世には自分の力だけではどうにも出来ないことがある……そういうことさ」
「俺はお前のように物分かりが良くないんでな。ここからは好きにさせてもらう」
「やれやれ、今時珍しい男だね君も。しかし私にも君を巻き込んだ責任があるし、このまま行かせる訳にはいかないな」

 嘆息しながら誠は立ち上がり、草一郎の行く手を遮りそう言った。

「止めても無駄だ。力ずくでも押し通る」

 刀に手を伸ばして殺気立つ草一郎に、誠は肩をすくめて首を振る。

「君とチャンバラをするつもりはないよ。まあ落ち着いて話を聞いてくれ。確かに我々だけでは羅刹相手に勝ち目はない。しかしただ一人だけ、奴に対抗しうる力を持つ人物がいる。その人物の力を借りることが出来れば、あるいは羅刹を撃退できるかもしれないね」
「本当か。誰なんだその人物とは」

 草一郎に訊ねられ、誠は一呼吸置いてその名を口にする。

「魂筆使い。妖怪退治屋の中でも別格の存在でね。相手がどんな妖怪だろうと封じる事の出来る力を持つと言われているのさ」
「それが事実なら頼もしい話だな。どうして早く言わない」
「んー、まあ色々と事情があってね。気安く会うのは禁じられているんだよ」
「そんな事を言っている場合じゃないだろう。とにかくその魂筆使いとやらに会いに行かなくては」
「ああ、先に言っておくけど気難しい相手だから、失礼の無いようにね。怒らせてしまっては力を貸してもらえなくなる」
「分かった、気をつけよう」
「今日はもう夜も更けてしまったし、会いに行くのは明日にしよう。草一郎も今夜はここに泊まるといい」

 誠は草一郎の肩を軽く叩き、座敷を後にした。草一郎は用意された布団に横たわり、目を閉じて夜明けを待つのだった。




 翌朝、白米と漬け物、大根の葉を入れた味噌汁、里芋の煮物で腹を満たした誠と草一郎は、鳩岡八幡宮から東へ十五分ほどバイクを走らせた先にある、風杜家という旧華族の屋敷へと向かった。そこは文字通りの豪邸であり、大きな正門の前には制服の上から赤いコートを纏った警備員が立っており、奥に見える館が小さく見えるほどの広い敷地を有していた。誠が警備員に近付いてなにやら話しかけると、警備員は誠に向かって敬礼をし、重厚な音を響かせながら正門が開かれた。誠と草一郎は別に現れた警備員に連れられ、屋敷の敷地へと足を踏み入れた。異様だったのは、その屋敷の警備の厳重さであった。広い庭の至る所を警備員が巡回しており、蟻一匹通すまいとばかりに周囲を監視しているのである。物々しい雰囲気に圧倒されながら、二人は屋敷の中の一室に案内された。部屋は大量の油絵が壁に立て掛けられたアトリエで、部屋の中心では袖をまくった白いブラウスと青いスカートを身に付けた若い女が、パレットと絵筆を持ってキャンバスに向かい合っていた。横顔しか見えないが、黒髪を後ろでひとつにまとめ、凛とした顔立ちの美しい娘で、豪華な屋敷に違わぬ令嬢といった雰囲気である。

「やあ、久しぶり真澄さん。最後に会ったのは二年くらい前だったかな」

 誠が挨拶をすると、絵を描いていた娘は椅子から立ち上がり、誠の方に振り向いた。

「お久しぶりです誠さん。年が明ければ間もなく十八になりますわ」

 芯の通った、それでいて透き通るような声だった。彼女の名は風杜真澄といい、旧華族の末裔、風杜家の令嬢である。誠は修行を終えて妖怪退治を始める直前、一度だけ真澄と面会したことがある。久々に彼女の姿を見て、誠は思わず驚きの声を出す。

「おお、これはこれは! 見ないうちにずいぶんと女らしくなって。以前はこう、少々元気の有り余る部分があったのですが……」
「いいんですよ、お転婆だったとおっしゃってくださって。だって事実ですもの」
「いやはや、これは参った。ははは」
「ところで今日はどんなご用件で? お連れの方もいらっしゃるようですけど」
「ああ、実は君に頼みがあってね。まずは彼を紹介しよう。草一郎、彼女に挨拶を」

 誠に呼ばれ、草一郎は真澄の前に出て名乗った。

「筆塚草一郎だ。誠とはちょっとした縁で知り合った」

 真澄に会釈する草一郎だったが、黙ったままじっと自分を見つめる彼女を不思議に思い首を傾げる。

「俺になにか?」
「あっ、いえ、なんでもありませんわ。ただ少し、不思議な感じがしたもので」
「不思議な感じ?」
「ごめんなさい、言葉では説明しにくくて……私は風杜真澄と申します。以後お見知りおきを」

 真澄は丁寧にお辞儀をし、頭半分ほど背の高い草一郎の顔を見上げた。草一郎はいつも通りの真面目な表情で、真澄に訊ねた。

「ここに来れば魂筆使いという人物に会えると聞いて来た。早速だがその人物に会わせて欲しい」
「まあ、単刀直入な方ですね。けれどそんなに焦らなくとも」
「すまないが、事は一刻を争う。悠長に世間話をしている暇はないんだ」

 きっぱりと言い放つ草一郎の前に、誠が慌てて割って入る。

「こらこら草一郎。初対面のお嬢さんに向かって失礼じゃないか。こっちが押しかけてきたんだから、それなりの頼み方ってものが」
「大丈夫です、気にしていませんわ。悪気があって言っているようには見えませんし」

 困った表情の誠に微笑みかけ、真澄はもう一度草一郎の顔を見る。

「ひとつだけ聞かせてください。そんなにも魂筆使いに会いたい理由は何なのです?」

 草一郎が事情を説明すると、真澄は何度か頷きながら黙って話を聞いていた。

「――悔しい話だが、俺たちだけでは羅刹に勝てん。それに奴を放っておけば犠牲者が増えていくばかりだ」
「事情は分かりました。おっしゃる通り、魂筆使いの力が必要なようですね」
「ああ。だから早くその使い手に会わせてくれないか」
「草一郎さん……でしたね。急ぐ気持ちは充分に伝わりましたが、時には物事を広く様々な方向から見る事も大切だと私は思います。最短距離だけが正しいとは限らない……そうではありませんか?」
「も、もしや君が……」
「はい。二年前、十六の時に魂筆使いを先代より引き継ぎました」
「すまない。知らなかったとはいえ、無礼な言葉を」
「ふふ、気にしておりません。初めて会った人は大抵そう言います」

 頭を下げた草一郎は、真澄の言葉を聞いて顔を上げ、もう一度彼女の顔を見た。

「しかし信じられん。君のようなお嬢さんに、あの羅刹を退ける力があるというのか」
「私自身に特別な力があるわけではありません。あらゆる妖魔を祓い封じる力がこの世にはあり、それを扱う資格を持つ者を魂筆使いと呼ぶのです」
「あらゆる妖魔を封じる力……」
「ただ少々気難しいところがありまして、機嫌を損ねると力を貸してくれないかも知れません。これから会いに行きますから、付いてきてください」
「会う? その力とやらは人間なのか?」
「……これ以上は言葉で説明するより、自分の目で確かめた方が早いでしょう」

 真澄はそう言い、パレットと筆を置いて部屋を出て行く。誠と草一郎も彼女の後に続き、裏口から屋敷を出ると、裏山に続く小道を上り、小さな庵の前に辿り着く。そこで庵を目の当たりにした草一郎は、異様な光景に思わず目を見開いた。庵の窓や扉は全て閉じられ、大量のお札を貼り付けた太い鎖で厳重に封じられていたからである。真澄は鍵を使って分厚い南京錠を開けると、庵の中へ誠と草一郎を招き入れた。庵の中は光が差し込まないために真っ暗で、真澄は玄関に置いてある燭台を手に取り、蝋燭に火をともして奥へと進む。短い廊下を通り抜けると四畳ほどの小さな畳の間があり、部屋の中心に何かがうずくまって寝息を立てていた。

「すずり起きなさい。あなたの力が必要となりました」

 真澄がすずりと呼んだそれは、やがてゆっくりと身を起こし、蝋燭の光に照らされて姿を現した。それはおかっぱの黒髪に赤い着物を着た、まだ年端もいかぬ幼い少女だったのである。

「子供? これは一体どういうことなんだ」

 草一郎の問いに、真澄も誠も口をつぐんだまま返事をしない。奇妙に思う草一郎に答えたのは、すずりと呼ばれた赤い着物の子供だった。

「見ての通りさ。自分たちより強い力を持ってるバケモノがウロウロしてると目障りだから、人間どもはアタシをこんな場所に押し込めやがったのさ」
「あらゆる妖魔を祓い封じる力というのは……まさか」

 草一郎が真澄に問うと、彼女はこくりと頷く。

「かつてこの朝比奈の地には、百鬼夜行の妖怪を全て絵に変えて封じ込めた魂筆様という御方がいらっしゃいました。その方が天より授かったという、人と神器の姿を成す妖(あやかし)……それがこの子、すずりなのです」
「こんな子供が」

 呟いた次の瞬間、なにかが床を這う音がしたと同時に、草一郎の喉元に紐のようなものが絡みつき締め上げる。それは一瞬にして伸び、人の手の形を成したすずりの黒髪であった。

「うっ……!?」
「こう見えてもアタシはオマエらなんかよりずーっと長生きしてるんだ。口の利き方には気をつけなよ坊や」

 暗い部屋の中で瞳を光らせ、すずりは口の端を持ち上げて不敵に嗤う。

「やめなさい!」

 真澄が叱ると、すずりは伸ばした髪を引っ込めて元通りにし、そっぽを向く。真澄は草一郎に駆け寄り、心配そうに顔を覗き込む。

「すみません草一郎さん、大丈夫ですか?」
「ああ、大したことはない。少し驚いたが」

 草一郎を下がらせると、真澄はすずりに近付いて膝を曲げ話しかけた。

「そんなにへそを曲げないですずり。あなたの力が必要なのよ」
「ふん。都合が悪くなるとアタシを頼ってきて、用が済んだら狭くて暗い部屋に閉じ込める。そんな奴らに手を貸すなんてまっぴらだね」
「ごめんなさい。こんな仕打ち、私も反対したのだけれど……」
「知ってるよ。別に真澄が悪いとは言ってないし」

 声を落として話し込む真澄とすずりを見つめながら、草一郎は誠に訊ねる。

「分からないな。魂筆様の神器とやらが、なぜこんな扱いを受けているんだ」
「これは蓮華宗の古狸どもの仕業さ」
「蓮華宗?」
「妖怪退治を生業とする仏門の一派でね。妖怪退治屋の中では最大の勢力を持っている。私の実家も蓮華宗なのさ」
「そんな組織があったのか。知らなかったな」
「まあね、妖怪退治なんて表向きにはされてないから。で、組織が大きくなったまでは良かったが、そうなると内部も腐ってくるのが世の常という奴でね……蓮華宗の幹部の中には、自分の保身だけを考えるような輩もいるんだよ。魂筆使いの力は絶大だが、それ故に自分の立場が危うくなると考えた一部の連中が、すずりは危険な存在だから封印しようと言い出したのさ。もう五十年も前の話になるがね」
「五十年もこんな場所に閉じ込めていただと……馬鹿な。まともな人間のやる事じゃあない」

 草一郎が忌々しげに呟くと、それを聞いた真澄が立ち上がり振り向いた。

「私もそう思います。そして封印の儀式が執り行われる直前、風杜家の血筋にこの子を扱える資格があると分かった時、責任を持ってあの子を預かる事にしたのです。風杜家は妖怪退治では名を知られた一族ゆえに、蓮華宗の上層部もこの申し出を無視することはできませんでした」
「そうだったのか」
「どうにか封印は免れましたが、すずりと風杜家には厳重な監視が付くことになりました。この屋敷を取り囲む警備員を見たと思いますが、あの全てがそうです。すずりが外出を許されるのは年に数日、時折現れる強力な妖怪を封じる時だけ……それすらも蓮華宗の許可がなければ行えない。私はこの子が不憫でならないのです」

 話を聞き終えた草一郎は、口元を真一文字に結んだまますずりに近付いた。

「俺は筆塚草一郎という。蓮華宗とやらには無縁の人間だ。いくつか聞きたいことがあるが、答えてくれるか?」
「なんだよ、言ってみな」
「先日戦った羅刹という鬼……いや鬼神は、二人がかりでもまるで歯が立たぬ強さだった。誠の術は奴の力で断ち切られてしまい、俺の刀も届かなかった。しかし魂筆使いなら奴を倒せると聞いたが本当か?」
「アタシの力が効かない奴は居ないよ。妖怪ならね」

 平然と答えるすずりの様子を確かめ、草一郎は続ける。

「次の質問だ。お前が大人しく囚われたままで居るのは何故だ。あらゆる妖怪を封じられる力があるというなら、こんな場所を抜け出すくらいは出来たはずだろう」
「……こっちにも色々事情があるんだよ。出来るならとっくにやってる」

 すずりは悲しげな顔をする真澄を見上げながら、ぽつりと呟く。

「そうか」

 その言葉を聞いた草一郎は、肩に担いでいた袋から刀を取り出し、腰に差して背を向け、背中越しに言った。

「羅刹退治の礼はする。すずり、お前の望みはなんだ」
「へえ、言ってくれるじゃん。人間如きに出来んのか?」
「望みはなんだと聞いている」
「……そうだね。表を自由に歩き回りたいね。そんでさ、思いっ切り腹一杯メシを食いたいかな」
「分かった。約束しよう」

 草一郎は刀の鞘に左手を添えたまま、一足先に庵を出る。誠と真澄は顔を見合わせながら、すずりを連れて彼の後に続いた。庵から四人が出てくるとすぐに、周囲を赤いコートを着た警備員に取り囲まれた。

「待て、誰の許可を得て『それ』を連れ出そうとしている」

 先頭にいた草一郎に、一人の警備員が詰め寄り身体を密着させる。その時草一郎の腹部には、黒光りする拳銃の銃口が押し当てられていた。草一郎は視線を拳銃に落とした後、冷たい敵意を顕わにする警備員の顔を見る。

「妖怪退治のために助けが必要だからだ。風杜家の人間に話は通してある。なにも問題はないはずだ」

 しかし警備員は仮面が張り付いたように無表情のまま、ゆっくり首を振る。

「引き返し『それ』を元の場所に戻せ。外部に持ち出すことはまかりならん」
「風杜家の人間に話は通したと言ったろう。奴を倒さなければ、多くの犠牲者が出るかもしれんのだぞ」
「お前たちの事情など知らん。いかなる理由があろうと、蓮華宗の許可なくして『それ』を外に出してはならぬのが掟。大人しく従えば良し、さもなくば無事にここを出られぬものと思え」

 後ろでそのやりとりを見ていた誠は、草一郎の身体から沸々と立ち上る気配をいち早く察し、真澄とすずりに目配せをする。その時、草一郎はふと顔を上げ、拳銃を突きつけている警備員の肩越しに遠くを見る。それに釣られ、警備員の注意が逸れた一瞬に、草一郎は電光石火の素早さで拳銃に手を被せ、思い切り捻り込む。

「ぐわっ!?」

 手首を捻られた勢いで警備員は地面を転がって倒れ、草一郎はすかさず拳銃をブーツの踵で踏みつける。突然の事態に、周囲の警備員が懐に手を入れて草一郎に拳銃を向けようとした。しかしそれが、彼らにとっての最大のミスであった。誠が目配せをした直後から、すずりは周りに気取られぬよう髪を地面に向けて伸ばし、機を窺っていたのである。この絶好のチャンスに、すずりは蜘蛛の巣のように広げた髪で警備員たちを残らず絡め取り、縛り上げた上で懐の拳銃を全て取り上げてしまう。彼女の髪は鋼線のように頑丈で、警備員たちがいくらもがいても、決して切れることがなかった。

「ケケケケ、ガン首そろえてマヌケばっかりだね! さーて、今までの恨みをたっぷりと晴らさせてもらうとしよーかなー」

 ニタァと笑うすずりの表情は邪悪そのものである。そこですかさず「仕返しなどおよしなさい」と真澄が釘を刺す。

「お願いだから我慢して。ここであなたが暴れたら取り返しが付かなくなるのよ」
「……ちぇっ、この埋め合わせはしてもらうかんね」

 真澄の説得ですずりがそれ以上の危害を加えないのを草一郎が見届けていると、足元に転がる警備員が、彼を睨め上げながら苦し紛れの言葉を吐いた。

「貴様、我ら蓮華宗を敵に回してただで済むと思うな。どこへ逃れようとも、我らの仲間が貴様を追い詰めるだろう」

 その途端、草一郎は両の目を見開き吼えた。 

「恥を知れッ!」

 その一喝は空気を震わせ、警備員たちも息を呑み硬直してしまう程の気迫であった。

「己の本分すら忘れ、人の命と尊厳を軽んじる貴様らは醜い妖怪と同じ……いやそれ以下だ。俺はくだらぬ欲のために作られた掟などに付き合うつもりはない」

 草一郎が言い終わると、地面に転がる警備員も他の連中と同じようにすずりの髪で縛り上げられた。草一郎は足で踏みつけた拳銃を手に取り、弾倉を取り外して茂みの向こうに投げ捨てると、風杜家の出口を目指して歩き出した。誠は一部始終を唖然と眺めつつも、庵を封印していた鎖でいそいそと警備員たちを縛り上げ、南京錠を通して鍵を掛けていた。

「おい、貴様なにをしている! その格好は蓮華宗の僧侶だろうが!」

 警備員の一人が喚くと、誠は後頭部を掻きながら苦笑いを浮かべ、

「いやあ、冷静に考えても彼のほうが正しいことを言ってますし、妖怪を放置しておくのも蓮華宗の名に傷が付きますしなあ。ま、お宅らはしばらくそうやって、カチンコチンの頭を冷やしていなさいな」
「あっ、おい、こら待て! 鎖を解けッ!」

 誠は涼しい顔で警備員を無視し、すずりに髪を解いても大丈夫だと促す。すずりは束ねられた警備員たちにあっかんべーをし、絡みつかせていた髪を元に戻すと、草一郎を追うように庵の前から去っていく。誠と真澄もその後に続き、風杜家の土地を後にした。




「――僕が知ってるじいちゃんは、無口だけど優しい人で、怒った所なんて見た事がないんですが……喝で大勢を怯ませるとか半端じゃないですね」
「うむ、草一郎は一本気な男じゃったからな。ワシもあの男だけは本気で怒らせるまいと思ったもんじゃ」

 お茶をすすりながら、草助と八海老師はしみじみと呟く。

「それになんというか……実直で男らしい性格で、僕とは大違いですよ」
「うむ、当時でも珍しい奴じゃったが、草一郎も色々と生まれで苦労しておったからな。だが、本当にいい奴じゃった」
「ええ、僕も出来る事ならもう一度じいちゃんと話がしてみたいです」

 今は亡き祖父に思いを馳せながら、草助は草一郎の写真を手に取った。




 鳩岡八幡宮の表参道から一本入った裏通りには、小径通りと呼ばれる商店街がおよそ五百メートルほど先の駅まで延びている。遠い昔は市場だったこの場所も、時代の流れと共に喫茶店や甘味処、衣服を扱う店が建ち並ぶようになった。そんな小径通りの一角にあるレストランのテーブルで、草一郎と向き合って座る誠はため息混じりに呟く。

「――いやはや、なかなか無茶な男だねえ君も。一時はどうなるかとヒヤヒヤしてしまったよ。まさに現代に生きる侍といったところかな」

 が、彼の表情は悪戯が成功した子供のように笑っている。草一郎の隣には真澄が座り、誠の隣にはすずりが空になった皿を積み上げ、次の料理をウエイトレスに注文していた。

「俺は筋の通らん事が嫌いなだけだ。お前の立場が悪くなるのなら、ここで手を引いてくれても構わんぞ」

 アイスコーヒーに口を付けながら、草一郎はぶっきらぼうに言う。そこで誠はすかさず身を乗り出して切り返す。

「馬鹿を言っちゃいけない。そりゃあ羅刹はなるべく相手にしたくない妖怪だが、素人の君だけに任せて引き上げるなんて、八房家の人間として二度と表を歩けなくなってしまうじゃないか。それにね、私も見てみたいんだよ」
「なにがだ?」
「もちろん魂筆使いの力という奴さ。彼女たちの事は知っていたが、実際にその力を見るのは初めてなんだ」

 眼鏡の奥で真面目な目つきをする誠をよそに、すずりはスパゲッティやカレーライスを暴風の如き勢いで平らげては、ウエイトレスに次の料理を持ってくるようにと促す。

「それにしても良く食べる……この小さい身体のどこに入っていくんだろうか」
「なにジロジロ見てんのさ、このスケベ」
「いやあ、子供に手を出すような趣味はさすがにちょっと」
「知ってるよ、オマエ八房誠って言うんだろ。あちこちで女に手を出しまくってるエロ坊主なんだって?」
「な、なんの話かなっ」
「ケケケ、誤魔化したってダメだよ。顔にちゃんとスケベって書いてあるもんね」
(うぬぬ、なんと生意気な)

 誠が怒りで口元をヒクつかせている間、真澄は隣に座る草一郎をじっと見ていた。

「……俺の顔が珍しいのか?」
「いえ、先程の出来事を思い出していまして」

 草一郎は真澄に視線を合わし、真っ直ぐ彼女を見ながら言った。

「すまない。君の家で騒ぎを起こすような真似をしたのは悪かったと思っている」
「その事ならお気になさらずに。それに草一郎さんがおっしゃった言葉、私もずっと同じ事を言いたかったのですから」
「立派な家に暮らしていても、言いたい事も言えぬというのは不便なものだな」
「ふふ、本当に真っ直ぐな人。今まで私が見てきた男の人の中には、草一郎さんのような方はいませんでしたわ」
「俺は昔からこういう性分なんだ。気に障ったらすまんが」
「いいえ。むしろ胸がスッとしちゃいました」

 小気味良い返事と共に、真澄は屈託のない笑顔を浮かべる。育ちの良さと純真さを併せ持つ彼女に目を奪われながらも、草一郎はアイスコーヒーを口に運んでそれを誤魔化した。

「ところで草一郎さん、あなたは蓮華宗の人間ではないとおっしゃってましたけど、どうやって誠さんと知り合ったのですか?」

 真澄が何気なく訊ねると、それを聞いた誠がぎくりと肩をすくめ、慌てた様子で取り繕う。

「そんなのどうだっていいじゃあないか。私と彼とは奇妙な縁で知り合っただけだよ。他に理由なんか無い。あるはずが無いとも。あっはっは」

 乾いた声で笑う誠を無言で眺めた後、草一郎は小さく嘆息してからこう言った。

「こいつが裸でやくざ者に追われているのを偶然助けただけだ」
「まあ、どうしてそんな事に」
「依頼主の娘に手を出したらしい。俺は後からそれを知ったが、人助けをして損した気分になったのは初めてだ」
「……相変わらず、というより以前より女癖の悪さは悪化しているようですわね、誠さん」

 真澄とすずりの刺すような視線に、誠は引きつった笑顔で返事をする。

「人聞きの悪い事を言わないでくれ。男が女性に惹かれるのは自然の摂理。そう自然な事なんだよこれはっ。草一郎、君だって男ならわかってくれるだろう? いいや、わかるはずだと信じているぞっ」

 身を乗り出して力説する誠とは対照的に、草一郎は呆れ顔で訊ねる。

「自然の摂理に異論はないが、寺の坊主は普通、煩悩に打ち克つ修行をするものだろう。それがどうしてこうなったんだ?」
「私は五歳の時に修行に出されて以来、人里離れた山奥で十三年間過ごしてきた。来る日も来る日も来る日も来る日も、そりゃあもう厳しい修行に明け暮れ……私は世間の楽しみという物をまったく知らずに育ったんだ。そして十八になって山を下り、町に出た私は知ったのさ。旨い食べ物、大きくて速い乗り物、目も眩む娯楽に酒、美しい女性――世の中にはこんなにも楽しみが溢れているじゃあないかっ。その時私は思ったね。自分は今までなんて損をしてきたんだろうかと! この楽しみを味わい尽くすまでは死んでも死にきれないと!」

 興奮気味に声を荒げる誠に、他の三人も若干引き気味である。

「というわけで、私は自分に正直に生きようと決めたのさ」
「禁欲的な生活の反動というわけか……僧侶としての修行は失敗だったらしいな」

 呟く草一郎と同様に、真澄とすずりも苦笑いである。

「でも妖怪退治の腕は一流なんですよ。特に法力や封印術に関しては百年に一人の才能だと言われているくらいで」

 真澄の言葉を聞いた誠は眼鏡の向こうで遠い目をし、

「ま、才能があっても魂筆使いには選ばれなかったがね」

 と、自嘲気味に呟いた。

「風杜家の人間以外でも魂筆使いに選ばれる事があるのか?」

 草一郎が訊ねると、真澄はこくりと頷く。

「古来より、より優れた資質を持つ者に魂筆使いの名と力は引き継がれてきました。すずりの力を扱うには、大きな霊力の器を持つ者が適任ですから。風杜の家系を遡ると伝説にある魂筆様に辿り着くと言われていて、百鬼夜行の妖怪を封じた霊力の器を受け継いでいるのです」
「霊力の器か。ここまで来ると俺には手に負えない話だ」

 草一郎はアイスコーヒーを飲み干すと、椅子に背を預けて腕を組み、目を伏せる。すずりもようやく満腹になったようで、山積みになった皿の間から上機嫌な顔を覗かせている。

「ふー、食った食った。やっぱシャバのメシは格別だねー」
「やっと満足したか。やれやれ、今にしてみれば私が預からなくて正解だったかもしれないな。毎度この調子で食われてはたまらない」

 と、誠は胸焼けしたような顔をする。

「それではいよいよ鬼退治ですね。皆さん、よろしくお願いします」

 真澄の言葉に頷き、会計を済ませてレストランの外に出た四人は、なにやら表参道の方角が騒がしい事に気がついて顔を見合わせ、細い路地を抜けて大通りに出た。そこで彼らが見たのは、先日退治したのと同じ邪鬼が五体ほども揃い、手にした大鉈を振り回して破壊の限りを尽くしている姿だった。

「あれは昨日倒したはずの……おまけに数まで増えているじゃないか。一体どうなっているんだ」

 草一郎の問いに、誠が眼鏡の位置を指で直しながら答える。

「そうか、あの邪鬼は羅刹が召喚した眷属なんだ。奴は戦いが生き甲斐だから、勝負を邪魔された腹いせに、手下の邪鬼どもを呼び出したんだろう」
「狙いは俺たちか?」
「だろうね。それにあの連中、見た目は同じだが日光を恐れていない。昨日の奴より強い妖力を与えられていると見て間違いないな。さすが鬼神、念の入った事で恐れ入るよ」
「感心している場合か。早く退治しないと犠牲者が出るぞ」
「わかってる。だが用心してくれ、きっと近くに羅刹も潜んでいるはずだ。真澄さんも準備はいいですね?」

 誠が数珠を取り出しながら訊ねると、すずりを連れた真澄は些かも動じる様子を見せず、遠くで暴れている鬼を真っ直ぐ見据えてこう言った。

「あの鬼たちの相手、私に任せて頂けますか? 魂筆使いの力をお見せするのに丁度良い機会です」
「へんっ。今まで溜まった鬱憤、奴らでドバーッと晴らさせてもらうかんね」

 真澄の隣で、すずりが小さな指をポキポキと鳴らして不敵に笑っている。彼女の申し出に驚いた草一郎は「馬鹿を言うな、多勢に無勢だ」と止めようとしたが、真澄の態度も堂々としたもので、臆した様子もなく言葉を返す。

「草一郎さん。あなたは少し考え違いをしていますね」
「なに?」
「私が魂筆使いの名を受け継ぐ事が出来たのは、単に霊力が優れているという理由だけではありません。それをこれからお見せしますわ」

 真澄はきっぱりと言い放ち、すずりを連れて草一郎の横を通り過ぎると、表参道の建物人力車など、手当たり次第に壊して回る鬼たちに近付いていく。

「待て、危険だ!」

 後を追い掛けようとする草一郎の肩を掴んで止めたのは、誠である。

「まあまあ落ち着いて」
「落ち着いてる場合か」
「確かに君の気持ちは分かる。あんな凶暴な鬼の群れに、うら若き娘を一人で行かせるなんて正気の沙汰じゃあない。ま、普通なら……ね。だがまあはっきり言わせてもらうが、こと妖怪退治に関しては、彼女は君よりも強い。それも比べ物にならないくらいに」
「……!?」
「とにかくここは彼女の言う通りにしよう。もし彼女が危機に陥るような事があれば、その時は全力で助けに入る。これなら文句は無いだろう?」

 誠に諭され、草一郎は渋々ながら言葉に従い、真澄とすずりの後ろ姿を見守る。真澄は邪鬼たちの前までやってくると背筋をぴんと伸ばし、自分の倍近くはあろうかという体躯の邪鬼に向かって言い放つ。

「それ以上の狼藉は私が許しません。大人しくお前たちの元いた場所へ帰れば良し、さもなければこの場で祓い清めます」

 真澄の声を聞いた邪鬼たちは大鉈を振り回していた手を止め、ゆっくりと彼女の方へ視線を向ける。その目は凶暴な肉食獣と同じで、殺気と暴力的な衝動に満ちている。相手に大人しく退く意志がないと見て取った真澄は、邪鬼の威圧感にまったく怯むことなく、右手を水平に伸ばしてすずりに合図をする。

「念のために話しかけてみましたが、やはり無駄のようですね。行きますよすずり」
「任せときな!」

 威勢の良い返事と共に、すずりの身体は金色の輝きに包まれ、一本の紅い筆となって真澄の掌に収まる。真澄は筆を握り締めると、地面を蹴って邪鬼のいる方向へ飛び出した。それを見た一匹の邪鬼が、両手で大鉈を振り上げ、真澄を脳天から叩き潰そうとした。

「避けろ!」

 と、叫んだのは後ろで見ていた草一郎だったが、無慈悲に降り降ろされたはずの大鉈は不思議な力によって弾き返され、邪鬼は万歳のような格好で無防備な姿を晒していた。

「力でねじ伏せる事が出来るのは自分より弱い相手だけ……私には通じません!」

 閃光のような気迫と共に、筆が邪鬼の胴体を真一文字に薙ぎ払う。次の瞬間、筆が触れた部分が黒い墨のようになって溶け出し、まるで刀で両断したかのように上半身と下半身が切り離され、邪鬼はその場に崩れ落ちた。邪鬼はしばらく絶叫と共に悶えていたが、やがて全身が溶け、最期には黒い水たまりが残るばかりであった。

(な、なんなんだあれは。法力や仙術、魔法や呪術とも違う、もっと別の……魂筆使いの力とは一体……!?)

 と、固唾を呑みながら胸中で穏やかでなかったのは誠である。真澄が使った技は、誠が知るどんな妖怪退治の技法とも違っていたからだ。なんらかの術を使った様子もないのに邪鬼の大鉈を跳ね返した事、そして筆に触れただけで邪鬼が黒い墨のように溶けてしまった事、いずれも想像と理解を超えた能力であったのだ。

「グアアアアッ!」

 仲間をやられた他の邪鬼たちはますます殺気立ち、雪崩を打って一斉に襲いかかる。しかし真澄は取り乱す事もなく、軽やかな身のこなしで大鉈を弾き返しては、次々に邪鬼を仕留め墨溜まりに変えていく。そしてものの数分も経たぬうちに、群れを成して暴れていた邪鬼は全て消え去っていた。

「ま、まさかこれ程とは……恐るべし」
「ああ、俺も度肝を抜かれた気分だが、心強い事は間違いないようだ」

 誠も草一郎も、目の前で繰り広げられた光景に唖然としていた。いくら妖怪退治に抜群の能力があろうと、無数の邪鬼を相手にすれば手こずるだろうと二人とも思っていたからだ。それが五体もの邪鬼を苦もなく退治してしまったのには、ただ驚くばかりだった。我に返り苦笑しながら近付こうとする誠を、真澄は背を向けたまま「まだ来てはいけません」と制止する。誠が立ち止まった一歩先には、邪鬼が溶けて出来た墨溜まりが広がっている。

「それにうかつに触れては危険ですよ。姿形を失っても、妖力そのものはこの墨に全て溶け込んでいるのですから。これより仕上げに入りますわ」

 そう言って、壊れた家から大きめの板を引っ張り出して近くの壁に立て掛けた真澄は、足元に広がる墨溜まりに筆先を向けた。すると彼女の周囲を埋め尽くすほどの墨は、スポイトで吸い取った水のように筆先に吸い込まれ、真澄は鮮やかな筆遣いで板に五匹の鬼の絵を描き込んだ。その絵の中に邪鬼の妖力全てが流れ込んで行くのを、誠は確かに感じていた。

「……これで妖怪は封じられました。後はこの絵を正しく供養すれば、妖力も浄化されて自然へ還り、二度と蘇る事はないでしょう」

 描き上げた絵に目を落としながら言う真澄に、誠は後頭部を掻きながら近付く。

「いやはや参った。正直に言うと、この目で見るまで私も半信半疑な所があったが、認めざるを得ないね」
「なんの話ですか?」
「魂筆使いの力さ。想像以上だよこれは。連中の肩を持つ訳じゃ無いが、蓮華宗の古狸どもが危険視した理由が少し分かった気がする」
「そうですね。薬も効き目が強すぎれば毒となるのと同じように……けれど先に敵意を向けたのは、我々人間の側なのです」
「分かっているさ。この力は恐れて閉じ込めておくものじゃあない」

 二人が話し込んでいる横で、草一郎は邪鬼たちが暴れていた先にある鳩岡八幡宮の方をじっと見ながら口を開いた。

「まだだ。この先から羅刹の気配を感じる。奴はどこかで俺たちを見ているはずだ」
「ああ、そうだったね。あいつを倒さない限り本当に片付いた事にはならない」

 誠が草一郎に肩を並べて言うと、

「行きましょう。自分の楽しみのために人を殺める輩は、封じなくてはなりません」

 と、真澄も草一郎の隣に立つ。三人は横一列に並び、八幡宮の大鳥居をくぐって本殿へと歩き出した。砂利と石板を敷き詰めて作られた参道を歩き、本堂へ続く階段の前に差し掛かったその時、一行は同じ気配を察して足を止めた。十メートルほど離れた階段の左脇には、樹齢千年を超す銀杏の巨木がそびえ立ち、その方向から刺すような殺気が感じられた。

「羅刹か。隠れていないで姿を見せろ」

 草一郎が言うと、銀杏の影が急に濃くなり、やがてそれが盛り上がって人の形を成す。今まで誰もいなかったはずの木陰には、片刃の剛刀を手にした羅刹が、炎のような髪をなびかせて佇んでいた。

「ほう、気付いたか」
「当たり前だ。自分の位置が分かるようにわざと殺気を放っていたくせに」
「先日お前たちを斬り損ねたので待ち遠しくてな」
「邪鬼を町に放ったのはお前だな」
「いかにも。そして目論見通りに貴様らがやってきたというわけだ」
「俺はお前の道楽に付き合うためにここへ来たんじゃない。今日こそ師の仇を討つ」
「フフフ、そう来なくてはな。だがどうやって我を倒す? そこの坊主の法力も、貴様の剣も我に通じない事は知っておろう」

 その言葉に、一歩前へ出たのは真澄であった。

「あなたの相手はこの私、風杜真澄がいたします」
「クク……どんな策があるかと思えば助っ人を、それも女一人だけとはずいぶん甘く見られたものよ。我を落胆させた代償は高く付くぞ貴様ら。生きたまま内蔵を喰らい、骨の髄を啜ってくれようぞ」

 彼女は羅刹の殺気を浴びても表情ひとつ変えず、さらに毅然とした態度で続ける。

「念のために聞きますが、行いを改め人界を去る気は無いのですか?」
「ふん、女ごときに言われて辞めるようでは鬼の名が廃るわ」
「ではもうひとつ。鬼神ともあろう者が、なぜこのような場所に現れ人を襲うのですか」
「我は元々、古戦場であった朝比奈の地に祀られていた鬼神であった。我が役目は、古戦場であったこの地で討ち死にした亡者どもの無念を鎮めること……だが、近年の開発によって土地が削られ、我が眠っていた祠も打ち壊された。そんな人間どもの横暴に怒りを覚えていたところに、ある者が現れて我に呼びかけ蘇らせたのだ。亡者どもの無念と一体化し、羅刹本来の姿を取り戻してな」
「あなたを蘇らせた者がいる……それは何者ですか」
「それを答えてやる義理はない。さあ、これ以上のくだらぬ御託など無用。我を止めたければ戦い勝つ事だけと心得よ!」
「……わかりました。この国では仏法の守護者とも言われる鬼神でありながら、快楽のために人を殺める所行は浅ましき悪鬼そのもの。闇に堕ちたその魂、私が祓い清めて差し上げます」

 真澄が身構えると同時に、羅刹の身体から猛烈な妖気が溢れ出す。解放された圧力は大気を圧縮し、突風を巻き起こして大銀杏の枝葉を激しく揺らした。

「むん!」

 羅刹は握った剛刀を振り上げ、無造作に降り降ろす。剛刀に込められた妖気は斬撃と共に放たれ、上弦の月に似た光の刃となって真澄に襲いかかる。

「避けろ!」

 羅刹の斬撃を実際に味わった草一郎が咄嗟に叫ぶが、真澄はそれを避けようとはせず、真っ向から立ち向かい、迫る光の刃に向けて紅い筆を振り払う。すると甲高い音を響かせて光の刃は軌道を逸らし、真澄の斜め後ろにあった石灯籠を砕くばかりであった。真澄は傷ひとつ付いていない筆をゆっくりと水平に構え、羅刹に険しい視線を向けた。

「どうしたのです。羅刹ともあろう者が、女ごときも斬る事が出来ないのですか」
「……面白い!」

 羅刹は仮面越しに黄色い目を輝かせ、地を蹴って真澄に迫った。今度は妖力を込めた斬撃を飛ばすのではなく、直接斬りかかる攻撃である。真澄は邪鬼の時と同じように、迫る刃に合わせて筆を跳ね上げて斬撃を弾き返すと、隙を突いて羅刹の胴を払いに行く。しかし邪鬼とは違い、羅刹はその必殺の気配を感じ取って身をかわし、筆先が僅かにかすっただけであった。

「ぬうっ!?」

 それでも筆の効果は現れ、脇腹の五センチほどが墨となって溶け始める。羅刹はそれを見るや、指先でその部分を肉ごと抉り取って投げ捨て、指に付いた血を仮面のような顔に塗り付けて恍惚混じりの笑い声を漏らす。

「そうだ。戦とは敵も己も、肉を切り血を流し骨を砕くものよ……久しく忘れていた感覚が蘇ってきたわ!」
「今の一振りで仕留めるつもりだったのに……鬼神の名は飾りではないようですね。ですが私に力押しは通じません。大人しく封じられてしまいなさい」
「ククク、ならばこそ力でねじ伏せてみせるのが醍醐味というものよ!」

 羅刹は真澄の挑発に怒るどころか嬉々とした声を上げ、一層激しく剛刀を振り回して襲いかかった。真澄も筆で応じ、見事に全てを跳ね返すが、今度は弾かれた剛刀を腕力だけで無理矢理押さえ付け、すぐさま次の斬撃が飛んでくる。それが暴風のように切れ目無く繰り出されてくるのである。これには真澄は攻めに転じる機会を見出せず、ひたすら防御に徹するしかなかった。

「くっ、撃ち込む度に早くなってくる……それに一撃一撃が邪鬼よりも重いなんて!」
「小娘、お前の腕前は認めてやろう。その筆を食らえば我といえど危ういこともよく分かった。だが、お前では我に勝てぬ」
「苦し紛れの強がりですか。なにを根拠にそんな事を」
「手下どもを祓う様子を見物させてもらったが、そこで我は確信した。いくら妖怪退治の力に長けていようと、所詮は女の華奢な身体。鬼族の屈強な肉体といつまでも渡り合い続けることはできんのだ。だからこそお前は、常に勝負を急いでいたのではないのか?」
「くっ……!」
「惜しいな。お前が男で、剣と肉体を鍛えていたなら多少は違ったろうが」
「そんなことは、最後までやってみなければ分からないでしょう!」

 真澄の苦しげな声は、傍らで勝負を見守っていた男二人の耳にも届いていた。

「近距離の一対一では彼女が不利だ。俺は加勢に入る。今回は止めても無駄だぞ」
「止めやしないさ。私もそのつもりだったからね。奴にまとわりついていれば、彼女の弾よけくらいにはなれるはずさ」

 誠は錫杖と八房の数珠、草一郎は刀を抜いて羅刹の背後から飛び掛かった。無論、羅刹は背中に目が付いているかのように気配をいち早く察知し、素早く振り返って剛剣を薙ぎ払う。誠の破魔札や呪縛の法力は切り裂かれ、草一郎の刀は羅刹の皮膚に傷を付ける事も出来ぬまま、二人は羅刹の剛剣が巻き起こした風圧に吹き飛ばされてしまう。幸い地面に敷き詰められた砂利がいくらか衝撃を吸収したおかげで、二人はすぐに立ち上がり身構える。

「くだらん。束になれば勝てるとでも思ったか」

 まるで眼中にないと言わんばかりの羅刹に、

「草一郎、手を止めるな。何度でも仕掛けるぞ!」
「おうッ!」

 と、誠と草一郎は再び羅刹に突っ込んでいく。無論、これは真澄から注意を逸らすための作戦であり、自分たちの攻撃が通用するとは思っていない。それでも僅かに隙が出来れば勝機はあるはずと、武器を握る手に力を込めた。だが羅刹は三人を同時に相手をしながら一向に隙を見せないどころか、ますます剛剣を振るう速度が速くなり、近付くことさえやっとの有様になってしまっていた。

「くそ……とんでもないバケモノだこいつは!」

 焦りの滲んだ声を草一郎は吐き出し、誠の表情からも余裕は一切消えてしまっている。

「だからなるべく相手をしたくないと言ったんだよ私はっ」
「教えてくれ誠。お前の法力が効かないのは理屈を聞いたが、なぜ俺の刀は奴に触れることも出来ないんだ」
「刀に霊力が込められてないからさ。感覚を研ぎ澄まして羅刹をよく見るんだ。上位の妖怪なんかは身体に妖気を纏っていて、単純な攻撃はそれで弾かれてしまう。妖力を突き破るには、こっちも霊力をぶつけるしかないんだよ」
「それは俺にも出来るのか?」
「出来ない事は無いかも知れないが、それは修行しないと」
「やれば出来るかも知れないんだろう。やり方を教えろ」
「ったく、いきなり霊力を操れるなら誰も苦労しないさ。だが――」

 誠は草一郎の側へ行くと、懐から小さなヒョウタンを出して栓を開け、中に入っていた水を刀に浴びせて精神を集中する。すると誠の体表面に現れた青白い光が、刀に移って淡く輝き始めた。

「そのアイデアは悪くない。君の刀に私の霊力を込めたから、それで羅刹を斬れ」

 言いながら誠は、草一郎の懐に一枚のお札を素早く押し込む。草一郎には目配せをして、気付かないふりをしろと伝えた。

「これで奴に一泡吹かせられるはずさ。ただしチャンスは一度きり、私の霊力も長くは続かないぞ」
「ああ、わかった」

 草一郎は柄を握り直して手応えを確かめ、羅刹に向かって斬り掛かる。羅刹は郎一郎には傷付けられないと踏んでいたせいか、僅かに注意が甘かった。その僅かな隙を突き、草一郎の刃が羅刹に触れる。刀に宿った霊力は羅刹の体表を覆う妖力を突き破り、刃が右肩から心臓めがけて肉を切り裂いた。手応えは充分だったが、あとほんの数センチ急所には届いていなかった。

「ぐおおおおおッ!?」

 予想外の打撃に羅刹は吼え、自らの身体に食い込む刃を素手で掴むと、力任せに切り口から引き抜いて草一郎ごと放り投げ、目の前にいる真澄を剛剣の風圧で吹き飛ばして安全な間合いを取る。

「ぬうう、ついさっきまで我の身体に触れることも出来なかった若造がこれをやるとは。人間が力を合わせるとこれほどの芸当が出来るというのか」

 傷口から血を吹き出しながら、羅刹は草一郎の方へ振り返る。

「まさか手傷を負わされるとは思いもしなかったぞ。我も本気で応じねばならんようだな」

 言っている間にも、羅刹の傷口の肉が盛り上がり、傷がぴたりとくっついて塞がっていく。誠は投げ出された草一郎に手を貸して立たせると、小声で囁く。

「気をつけろ草一郎。奴の妖力がどんどん膨れ上がっている……なにか仕掛けてくる気だ」

 羅刹は限界まで高まった妖力を剛刀に注ぎ込み、それを天高く掲げてから地面に突き刺す。すると地面に蜘蛛の巣のような亀裂が広がり、それは誠や草一郎、真澄の足元にまで及ぶ。

「ま、まずい――!」

 誠は咄嗟に結界のお札を宙に投げ、数珠でその力を増幅して自分と草一郎の周りに透明な防護の壁を作る。次の瞬間、炸裂する轟音と共に、亀裂から噴出した妖力が誠たちを貫いた。

「がは……っ!」

 結界のおかげで直撃を免れたものの、誠は肋骨が砕けるほどの衝撃を受けて空中に投げ出され、そして顔面から地面に叩き付けられた。亀裂が走った範囲の中にあった物は、石も樹木も粉々に粉砕されており、衝撃の凄まじさを物語る。羅刹に対しては結界も気休め程度でしかなかったが、命を落とさなかっただけでも幸運と言えた。

「ふ、二人とも無事か」

 目元や唇から血を流しながら誠が仲間に呼びかけると、草一郎は誠が壁になっていてほぼ無傷であり、すぐに「大丈夫だ」と返事が戻ってきたが、羅刹の向こう側に位置する真澄からの返事がない。地面を這って様子を確かめると、真澄も地面にうずくまっていたが、僅かに指先が動いているのが見える。

「真澄さん、大丈夫ですか!」

 誠の呼びかけに、真澄は呻き混じりの声で返事をする。彼女もまた、咄嗟に筆で衝撃を和らげることは出来たが、地面ごと吹き飛ばされたのは防ぎようがなかったのである。

「どうにか無事です。でも、足をくじいて……」
「な、なんてことだ」

 肝心の魂筆使いが動けなくなってしまえば、万に一つの勝機もない。誠の脳裏には、最悪のシナリオが近付いてくる足音が鮮明に聞こえていた。

「我を相手にこれだけ戦った事は褒めてやろう。せめてもの情け、苦しまぬよう止めを刺してやるぞ」

 そういって真澄に近付く羅刹の前に立ちはだかったのは、草一郎だった。

「そうはさせん。これ以上、俺の知り合いを貴様に殺されてたまるか」
「その心意気は褒めてやる。だが実力の伴わぬ虚勢など見苦しいだけよ」
「虚勢かどうかは試せば分かる。お前とやりあう方法は大体憶えた」
「なに? 今なんと言った?」
「やり方を憶えたと言ったのだ。急に耳が遠くなったのか」
「減らず口を。まずはお前から止めを刺してくれる!」

 力任せに振り下ろされた羅刹の剛刀を、草一郎は刀の先で見事にいなし、力の方向を逸らして避けていた。草一郎の握る刀には、誠がやったのと同じように青白い霊力の光が宿っていた。

「なんと、この短時間で霊力を操れるようになったというのか!」
「俺には昔から霊感とやらがあったようだからな。もしやと思って試してみたが、上手く行った」

 これには羅刹も驚きを隠せない様子で、もう一度斬り掛かろうとした所を草一郎に逆袈裟の形で斬り上げられ、鋼鉄の仮面が半分に割れて地に落ちた。仮面の下から現れたのは、鋭い牙を生やし、怒りの形相で固まった醜い鬼の素顔だった。

「おのれ……人間如きに我が素顔を晒す事になろうとは」
「次は仮面と言わず、その魂ごと斬る!」
「ぬかせ若造が!」

 羅刹と草一郎は何度も斬り合い、互いに刀をぶつけ合う。しかしやがて、固い金属音と共に草一郎の刀は真ん中から折れ飛んでしまった。

「惜しいものよ。もう少しこの勝負を楽しんでいたかったがな」
「最初に言ったはずだ。俺は貴様の道楽に付き合うつもりはないと」
「ふっ、死に急ぐ奴だ。強がっても、折れた武器ひとつではどうにもなるまい」
「そうでもない。命を捨てれば、貴様を道連れにするくらいは出来るはずだ」

 草一郎は折れた刀を頭上に掲げ、上段の構えを取る。上段は別名を火の構えとも言われ、攻めの一撃に全てを掛けた必殺の姿勢なのである。まして相手が鬼神羅刹ともなれば、我が身を可愛がって勝てる相手ではないと草一郎も分かっていた。

「なんて気迫……今まで妖怪と戦った事がないなんて信じられない。それにいきなり霊力を引き出したあの素質、やはり彼は……」

 草一郎と羅刹の勝負を見守っていた真澄は、驚嘆の呟きを漏らす。そしてすぐに、自分が握りしめている筆に向かって語りかけた。

「すずり、聞こえていますね。あなたの力で彼を助けて欲しいのです」

 筆の姿に化身しているすずりは、筆の毛先をちょいちょいと動かしながら、真澄の心に直接返事をする。

(アタシはいいけどさ、下手したらアイツ死ぬよ。それでも平気?)
「いくら捨て身でも、このままでは草一郎さんに勝ち目はないわ。羅刹はそんなに甘い鬼神ではないの。それに彼ならきっとやれる……不思議だけどそう感じるのよ」
(……わかった。アンタの勘はよく当たるもんね。ま、やるだけやってやるよ)

 すずりが化身した筆は真澄の手を離れ、草一郎の元へ飛ぶ。

「草一郎さん、その筆を! それならきっと羅刹に打ち克つことが出来ます!」

 真澄が叫ぶと同時に、草一郎は折れた刀を捨て、飛来した紅い筆を手に取る。だがその一瞬の隙を、羅刹は見逃さなかった。

「甘い!」

 目にも止まらぬ斬撃が、草一郎を真っ二つに切り裂く。左右に分かれた草一郎は目を見開いたまま、地面に崩れ落ちた。

「……!」

 羅刹がそれを見て一呼吸置いた刹那、それは頭上を照らす太陽の中から姿を現した。

「覚悟!」

 弾丸のような勢いで現れたのは、切り裂かれたはずの草一郎だった。彼は紅い筆を上段に構え、裂帛の気合いと共に振り下ろした。その一撃は剛剣もろともに羅刹を両断していた。

「そうか……昨日と同じ身代わりの札を……おのれ坊主、最後の最後で小癪な真似を」

 切り裂かれた羅刹が見た物は、草一郎の姿に変化した札が元に戻るのと、地面に伏せながらその札を投げつけていた誠の姿だった。

「これでも法力や術には自信があるんでね。バレないように術を仕込むのは苦労するんだ。やれやれ、やっと私の術が役に……立っ……」

 そう呟いて、誠はその場に突っ伏して倒れ込む。羅刹は斬られた部分から溶けていきながらも、最後に草一郎に向かってこう言った。

「フフフ、見事であった。斬るのが惜しいと思った人間はお前が初めてよ。出来ればもう一度、修行を積んだお前と心ゆくまで戦ってみたかったが……まあいい。さらばだ」

 その言葉を最後に羅刹は全て溶けて墨となり、完全に沈黙した。草一郎はそれを見届けたあと、糸が切れた人形のように倒れ気を失った。




 草一郎が目覚めると、そこは病院のベッドの上であった。彼が寝ていたのは六人部屋の窓際で、隣のベッドには顔と胸に包帯を巻いた誠が横たわっている。二人のベッドの間には真澄が椅子に腰掛けていて、草一郎の顔をじっと覗き込んでいた。

「俺は……」

 起き上がろうとする草一郎を押さえ、真澄は「安静に」と静かに言う。

「君が助けを呼んでくれたのか。すまない」
「このくらい当たり前です。それに、私はあまりお役に立てなかったんですもの」
「そうだ、奴はどうなったんだ?」

 草一郎が訊ねると、真澄は近くのテーブルに置いてあった木箱の中から巻物を取り出し、それを開いて草一郎に見せる。巻物には、剣を構えた羅刹の姿が描かれていた。

「ちゃんと絵に封じておきました。鬼神ともなると妖力が段違いですから、完全に浄化するまで数年ほど掛かるかも知れませんが」
「そんなにか……俺たちはとんでもない妖怪を相手にしていたんだな」
「そうですね。生きていられたのが不思議なくらい」
「君にもずいぶん危ない事をさせてしまった。許してくれ」
「あら、言ったはずですわ。風杜家は妖怪退治の家系。邪悪な妖怪を滅する事が我が一族の使命なのですから。元より覚悟は出来ています」
「そうか。だからあんなに強いのか」
「それは私の台詞です。妖怪退治の修行をしていないはずのあなたが、いきなり羅刹と渡り合うだなんて、普通では絶対にあり得ないことです。初めてお会いしたときから感じていましたが……きっとあなたにも私と同じ、魂筆様の血が流れているんでしょうね。すずりの力を使っても、意識を失いはしても暴走はしませんでしたし」
「俺にもよく分からない。ただ、どうしても奴を倒さねばと必死になったら上手く行っただけなんだ」

 呟いて窓の外を眺める草一郎に、絞ったタオルを差し出して真澄は言う。

「でも、あなたの戦い方はあまり感心しません。まるで死に急ぐような……命を投げ捨てるような無茶ばかりで」
「仕方がない。それしか方法がなかっただけだ」
「もう。そんな風ではご両親が心配なさいます」
「俺は孤児だ。両親は幼い頃、空襲で焼かれて死んだ」
「ご、ごめんなさい、失礼なことを。そんな事情があるなんて私……」
「気にするな。知らなくて当然のことだ」
「あの、それじゃ今までどうやって暮らしてきたのです?」
「両親の亡骸の前で動けずにいた俺を拾ってくれたのが、俺の師匠だ。師匠は俺に剣術と、生きていくための心構えを叩き込んでくれた。厳しい人だったが、俺にとっては本当の父親と同じかそれ以上の人だったんだ」
「素晴らしい方だったんですね。私も一度お会いしてみたかった」

 それからしばらく沈黙が続き、ふいに草一郎が口を開く。

「……俺もあんたたちと同じ仕事が出来るだろうか」
「えっ」
「妖怪退治だ。そんな世界があるとは今まで知らなかったが……今回のように人知れず妖怪が暴れているのだとしたら、俺もそれを食い止める手伝いがしたい」
「なんというか、草一郎さんらしいですね。でも妖怪退治の世界はつらいですよ。簡単に人が命を落とす……そんな場面をたくさん見なければなりません」
「だからこそだ。誰にでも出来る事でないなら、やれる者がやるべきだ」

 その時、突然真澄が裏返った声で「ひゃっ」と悲鳴を上げた。何事かとよく見ると、誠のベッドから伸びた手が、彼女の尻を撫で回していたのである。

「なにをするんですかもう!」

 すかさず胸元にげんこつを落とされ、誠はベッドの上で苦しみに悶えていた。

「目を覚まして早々にそれか」

 草一郎が呆れ声で言うと、

「目の前に麗しいお尻があれば、それを触ってやるのが礼儀じゃあないか」
「そんな礼儀などあるものか」

 即答する草一郎に、真澄も「まったくです」と同調する。

「冗談はさておき、話は聞いたよ。妖怪退治の修行がしたいなら、私に任せるといい」
「本当か?」
「ああ、素質のある人材を発掘するのも私の役目だからね」
「なら話は早いな。よろしく頼む」
「修行は厳しいぞ草一郎。特にうちの寺はきつい事で悪名が高いんだ」
「構わん。そうでなくては強くなれん」
「物好きだな君も。もしかして痛めつけられるのが好きなんじゃないだろうね」
「色魔のお前に言われる筋合いはないがな」
「あたた、手厳しいねまったく」

 二人が可笑しげに笑っていると、それを見た真澄もクスッと笑う。

「お二人は全然性格が違うのに、なんだかとても息が合っているみたいですね」
「あまり嬉しくないが」
「あの、私も時々修行をご一緒させてもらって構いません? 今回のことで力不足を痛感しましたし」
「俺は構わないが、誠はどうなんだ」

 草一郎が訊ねると、誠はポンと手を叩いて明るい表情になる。

「そりゃあいい。うちのむさ苦しい寺も華やかになるじゃないか」

 下心を多分に含んだ妄想を膨らませる誠だったが、そこへ釘を刺したのが、見舞いの果物を食べながら姿を見せたすずりだった。

「アタシのメシもちゃんと用意しとけよー。でないと暴れちゃうぞ」
「そうだった……こいつもおまけで付いてくるんだったな」
「真澄にスケベな真似しようとしたら……ちょん切ってやるかんね」
「ひいっ!?」

 誠は慌てて股間を押さえ、すずりはそれを指さしてケラケラと笑う。病室の一角は和やかな雰囲気に包まれ、それぞれの新たな道を照らしているかのようであった。だがその時、病室の前を通りかかった人影がぽつりと呟くのを、草一郎は聞き逃さなかった。

「へえ、羅刹を倒す奴らがいたとはね。これは面白くなりそうだ、フフフ」

 草一郎がその人物の方へ目を向けたとき、そこには誰の気配も残ってはいなかった。

(今のは一体……)

 それから後に、草一郎は妖怪退治屋としての眠れる才能を存分に発揮して頭角を現し、稀代の天才と呼ばれるまでに至るのである。




 全てを話し終え、八海老師は湯気の立つお茶をすすりながら遠い目をしていた。

「――まあ、それからはワシと草一郎、真澄さんの黄金トリオで並み居る妖怪をちぎっては投げちぎっては投げの快進撃でな。蓮華宗の古狸どもにも、すずりの力を認めさせてやったんじゃ。連中の取り乱しようは愉快じゃったのう」
「……」
「ん、どうした草助。ワシのぐれいとな活躍にぐうの音も出んか?」
「い、いえ。老師もそうですけど、僕のじいちゃんとおばあちゃんがそんな凄い人達だったなんて……」
「そうじゃな。そしてお主はその祖父母の素晴らしい血を受け継いでおる。修行に励めば、いずれワシらなどを越える使い手になる事も出来るじゃろうて」
「ちょっと果てしなく高い目標設定の気もしますけど。が、頑張ります。ところで……」
「ん、なんじゃ?」
「結局、羅刹を蘇らせたのは一体誰だったんです?」
「うむ、それはな」

 八海老師は腕を組んで眉間に皺を寄せ、真剣な顔つきで口を開く。

「……誰じゃったっけ」

 草助は頭からテーブルに突っ伏し、打ち付けた額をこすりながら顔を上げる。

「しっかりしてくださいよ老師。まだボケてもらっちゃ困ります」
「ボケとりゃせんわい! 単にど忘れしとるだけじゃ」
「まったくもう。思い出したら教えてくださいよ。気になって寝られないじゃないですか」
「わかったわかった。ほいじゃ話が終わったところで、明日の豆を用意して今日は休むとするかの」
「そうですね。また羅刹なんて鬼が出てきたら大変ですよ」
「左様。福は内、鬼は外じゃな。はっはっは」

 草助と八海老師が笑いあっている横で、すずりはいつの間にか寝息を立てている。草助はすずりをおんぶして梵能寺を出ると、自宅に向けてバイクを走らせながら考えていた。

(僕が知らないだけで、人にはいろんな歴史があるもんだな。それにすずりが暗くて狭い場所に閉じ込められていた時期があったなんて思いもしなかった……)

 草助の脳裏に、かつて天邪鬼が言った言葉が蘇る。妖怪退治において強すぎる力を持つが故に、人間からも妖怪からも狙われる存在――それがすずりだと。だが、背中に感じる重みはあまりに小さく、この小さな身体にどれだけの因縁がのしかかって来たのか、想像も付かないことだった。しばらくバイクを走らせていると、振動と空気の冷たさですずりが目を覚ましたらしく、背中越しに大きなあくびをして目をこすっていた。

「ふわ〜あ、昔話が長いから寝ちゃったよまったく。年寄りはこれだからねー」
「……なあすずり」
「ん、どした草助」
「ああ、いや。明日は節分だし、豆まきが終わったら久しぶりに外食でもしないか?」
「マジで! どーしちゃったのさ草助、急にそんな太っ腹な事言い出しちゃって。なんか無理してるんじゃないだろーね?」
「そんなんじゃないっての。お前は人の好意を素直に受け取れないのか、まったく」
「ま、そこまで言うんならありがたく食ってやるよ。今は寒いしさー、アタシはラーメン食いたいな。もちろんチャーシュー付きでチャーハン山盛りの餃子五人前で」
「そ、そうだな。はは、ははは……」

 自分で言った言葉を少し後悔しつつ、草助は心の中で福は内福は内と何度も呟くのであった。




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