魂筆使い草助
第三話 後編
〜ヒザマ〜



 一筆堂のある商店街から西に三十分ほど歩いた場所に、船橋明里の自宅がある。彼女の自宅周辺は高級住宅地で、彼女の家も一般と比べて広い敷地である。建物は白い洋風の一戸建てで、高級住宅の名に恥じぬ優雅な佇まいであった。庭は手入れの行き届いた芝生や庭木に囲まれており、庭の一角では紫陽花が薄紫の美しい花を咲かせていたが、心なしか元気がない。

「やっぱり水がないと弱っちゃうか。最近雨が少ないもんね」

 明里はフリルの付いた白いブラウスにベージュのタイトなズボンという楽な服装で、庭の草木にジョウロで水を与えて回っていた。彼女が紫陽花の前にやって来た時、足元の葉が音を立てて揺れた。明里が葉っぱを掻き分けて覗き込むと、紫陽花の根元に一匹の大きな白ネズミが隠れていた。毛皮は泥や埃で灰色に見えるほど汚れていて、お世辞にも綺麗とは言えない姿だったが、下水道に住んでいるようなネズミとは違い、丸っこくて毛がフサフサした姿のおかげで嫌悪感は無く、どこかで飼われていたのが逃げてきたのだろうかと明里は思った。

「可愛いのね、どこから来たの? でもネズミにしてはずいぶん大きいし、背中の毛の色が赤いなんて初めて見たわ。珍しい種類なのかな」

 変わった物や珍しい物好きな明里は、それだけで興味津々な様子である。ネズミは頭頂部から背中に続く赤い毛を逆立てて、葉と葉の間から自分を見つめる明里を威嚇した。このネズミが草助たちが探し回っている火鼠とは知らず、明里は膝を曲げてしゃがみ、優しい口調で呼ぶ。

「ほら、恐くないから。こっちにおいで」

 火鼠は威嚇の姿勢を崩さず、明里を見上げた。黒い瞳には人間に対する敵意が滲んでいたが、明里に邪念がない事を感じてか、逆立てた毛を元に戻し、ゆっくりと紫陽花の根元から外に出て来た。明里は頭を優しく撫でてやると、火鼠を抱き上げて家の中へと連れて行った。汚れた火鼠の身体を拭いてやると、雪のように真っ白で美しい毛並みが現れ、言葉も忘れて見とれてしまう程であった。明里に撫でられ、火鼠は気持ちよさそうに眼を細めていたが、それも長くは続かなかった。

「わあ、綺麗。やっぱり野良じゃなさそうね。誰か探してる人がいるんじゃないかなあ」

 何気なく呟かれたその言葉に、火鼠は思い出したように顔を上げ、明里の手の平から飛び出した。彼女は知らない事だが、つい三十分ほど前、火鼠は一筆堂で留守番をしていた所を襲われてここまで逃げてきたのだ。そして今、あの時と同じ気配が近付いているのを獣の本能が捉えていた。火鼠が明里の手から飛び出そうとしたその瞬間、来客を告げるチャイムの音が響き渡った。

「あら、誰かしら。すぐ戻るからいい子にしててね」

 明里は立ち上がり、部屋を出て玄関の方へと向かう。船橋家のインターホンは手元の小さな画面で外の様子を見る事が出来るようになっており、ドアの外には灰色のスーツに黄色いネクタイをし、やや小汚く見える茶髪頭の男が立っていた。無論、明里にとって見覚えのない人物である。

「あの、どちら様でしょうか?」

 明里が訊ねると、茶髪頭の男はカメラにニヤついた顔を向けてこう答えた。

「どーも初めまして。俺は定岡ってモンだが、ちょっとお宅に訊ねたいことがありましてね。少しだけでいいから話をさせちゃくれませんか」
「話って、一体なんの話です?」
「とても重要な話でしてね。場合によっちゃこの家がなくなっちまうくらい重大なことなんですよこれが」
「い、家がなくなるってどういう意味ですか?」
「ここ最近頻発してる火事、お宅も聞いたことくらいあるはずだ」
「ええ、それなら知ってます。放火らしいけど犯人の手がかりがまったく掴めていないって聞きましたけど」
「ここだけの話ですがね……次に狙われるのはこの家かも知れない」
「ええっ、本当なの!?」
「俺は犯人にちょっとした心当たりがありましてね。そいつをずっと追いかけてここまで来たってワケです」
「ちょ、ちょっと待ってください。あなたの話が本当だとしても、どうしてそんな事が分かるんです?」
「説明してもいいが、こんなカメラ越しでは言えない話だ。嫌なら嫌で構わないが、その時は家が燃やされるのをただ待つことになるな」
「わ、わかりました。少しだけなら」
「そうこなくちゃ」

 明里が玄関のドアを開けて姿を見せると、男は彼女を粘っこい視線でジロジロと眺めた後、ヒュウと口笛を吹いた。

「こりゃ驚いた。こんなきれいなお嬢さんが出てくるとは思わなかったぜ」
「あの、定岡さんでしたっけ。そんな事より、この家が放火の犯人に狙われてるっていうのは……」
「こう、このくらいの」

 定岡は両手で猫ぐらいの大きさだという仕草をし、

「背中が赤くて白い毛のネズミ……お嬢さんは見てないか?」
「えっ、それって」
「奴が現れる所には、必ず火事が起こるのさ。俺も最初は偶然かと思ったが、証拠がある」

 と、定岡はポケットから数枚の写真を出して明里に見せた。写真にはどれも火事の現場と、炎の中にいる火鼠の姿が写っている。

「信じられないだろうが、現実に火事は起きてんだぜ。そしてついさっき、この家にネズミが逃げ込むのを俺は見てるんだよ」
「そ、それは……でも、まさか」
「心当たりがあるなら、今すぐ俺に引き渡すんだ。でないと……」

 定岡が含みを持たせるようにそう言った瞬間、玄関に飾ってあったドライフラワーが前触れもなく燃え始めたのである。明里が慌てて隣の花瓶から花を抜いて水を掛けると、火はすぐに消えた。

「どうなってるのこれ!?」
「あーあ、いよいよこれはダメかも知れねえなあ」
「そんな!」
「お嬢さん、ネズミの居場所を俺に教えてくれ。悪い事は言わねえから、な?」

 動揺する明里を眺めながら、定岡は口の端を持ち上げる。その時、話し声を聞いた火鼠が明里の背後に姿を現した。

(……!)

 明里からは見えないが、火鼠は苛立った様子で定岡を睨み、勢いよく飛び出して定岡の向こうずねに齧り付いた。

「痛でででででっ!?」

 定岡が尻もちを付いて転ぶと、火鼠は噛み付いていた口を離して一目散に逃げ出していく。それを見た定岡もすぐに立ち上がり、明里に別れの挨拶も告げず後を追いかけていった。明里も庭先まで出てみたが、火鼠も定岡もすでに姿は見えなかった。

「な、なんだったのかしらあの人」

 と、呆気にとられた明里が何気なく自宅に目をやると、屋根の上に見慣れない物があることに気付く。それは、古びた茶色の壺であったのだ。いくら明里が珍しい物好きとはいえ、家の屋根に壺を飾る趣味などないし、ついさっき見た時には無かったはずの物である。明里が目を擦ってもう一度確かめようとそこを見た時には、もう壺は影も形も見あたらなかった。

「あれ、おかしいなあ。確かにあったはずなのに」

 珍しいネズミといい変な話をする訪問者といい、奇妙なことばかりが起こる。明里が首を傾げていると、空から一枚の羽根がひらひらと落ちてきた。
 それは先端だけが黒くなった、白い羽根であった。




 草助は日が暮れると夕食を作って腹を満たし、祖父の形見でもある紺の着物と茶袴を身に付けて時を待った。やがて約束の時間が近付いてくると、すずりを連れて朝比奈市の南にある百合ヶ浜の海岸へと足を運んだ。
 夜更けの海岸には、入り口にシャッターが降りている海の家と、荷台に砂を積んだまま放置されたトラックが見えるが、草助たちの他に人の気配はなく、吹き止まない潮風と、寄せては引く波の音だけが繰り返し耳に届くだけ。草助が辺りを見回すと、砂浜の真ん中に四角い木材を組んで積み上げた物があった。それはキャンプファイヤーなどで使う木の骨組みで、中にもたっぷりと薪や新聞紙などが詰め込まれているのが見えた。

「なぜこんな物が?」

 草助が近付いて手を触れようとした瞬間、突然定岡が現れて草助の腕を掴んだ。定岡は昼間見たときと同じ灰色のスーツ姿で、黄色のネクタイだけが暗闇でも目立って見える。

「うわっ!」
「そいつに触るなよ。大事な仕掛けなんだからな」
「ど、どこから出てきたんですか」
「細かい事は気にすんな。それより、ちゃんと約束の時間に来たな」
「それで、これからどうするので?」
「昼間にも少し言ったが、火鼠ってのは火の中に住む妖怪だからな。熱いものや大きい炎があれば、奴は本能で引き寄せられちまうんだ。他にも火を付けた炭をそこら辺にばら撒いてきたから、じきにここへやってくるはずだ。こいつに火を付けたら、俺たちは少し離れた場所で様子を見て、奴が出てきた所で捕まえるって寸法さ」

 海岸を広く見渡してみると、砂の上に撒かれた炭がぽうっと赤い光を放って、草助たちの居る方向に続いている。魚釣りで言う撒き餌みたいだなと、草助は思った。

「なんだか、思ってたよりずっと単純ですね」
「ちっ、これだから素人は。俺の作戦の奥深さが分からねーか」

 定岡は大げさに肩をすくめ、やれやれというポーズを取る。その後、鉄で出来た頑丈なケージを草助に持たせてこう言った。

「お前には奴を捕らえるという大役があるんだ。しくじるんじゃねーぞ」
「あのう、なぜ捕まえる役が僕らなので?」
「ムカつく話だが、奴はただの獣と違って知恵が回る。妖怪だからな。俺は何度かあいつを捕まえようとしたから、顔を覚えられちまっててよ。その点、お前らなら警戒されないだろうからな。後は頼んだぞ」

 定岡は積み上げられた木材に火の付いたマッチを放り投げて火を付け、背中越しに片手を振りながら立ち去っていった。取り残された草助は仕方なく、海の家の軒下に身を隠し、砂浜の真ん中で明々と燃える炎をじっと見ていた。すずりは相変わらず無口で、機嫌の悪そうな顔をしたままだ。

「どうも様子が変だぞお前。お腹でも痛いのか?」
「なあ草助、あのネズミの事だけどさ、もし捕まえてもあの男に渡しちゃダメだかんね」
「おいおい、それじゃ僕らが独り占めするみたいじゃないか。一応協力して捕まえようって話になってるのに」
「アイツはアタシが先に見つけたのっ。大体なんで、あんな粘っこくてやらしいツラしたオッサンに渡さなきゃいけないのさ」
「まあ、気持ちは分かるが……」

 草助が苦笑していると、海岸に点々と落ちている炭に近づき、鼻先で匂いを嗅ぐ小動物が現れた。暗い海岸に白い毛並みがよく目立つ、あのネズミであった。ネズミは砂浜の中央でひときわ明るい火柱を見つけると、真っ直ぐ近付いて周囲をグルグルと歩き回った後、炎の中に出たり入ったりを繰り返していた。火鼠という名前の通り、火が好きなのは間違いない様子である。

「よし、驚かせないようにそっと近付こう」

 草助とすずりは、なるべく大きな足音を立てないよう慎重に近付くと、大きな火柱の真ん中を覗き込む。熱くてとても近づけないような炎の中で、火鼠は居心地良さそうにうずくまって目を閉じている。その部分だけ切り取れば、コタツの中で丸まっている微笑ましい光景に思えなくもないが、パチパチと音を立てて燃え上がる炎が、そんな他愛ない想像も一緒に燃やしてしまう。

「すずり、あいつを呼んで火の外に出してくれ。これじゃ熱くて捕まえられない」

 すずりがおいでおいでと呼びかけると、こちらに気付いたネズミが、炎の中から出てきて足元に近付き、後ろ足で立ち上がって鼻をヒクヒクと動かしていた。不思議な事に、あれだけ炎に包まれていたにもかかわらず、ネズミの毛皮には焦げ目ひとつ無く、頭と背中にある赤い毛の色が濃くなっている。よく見ると短い尻尾の先端が、火花を散らしながら明るく光っていた。

「ふーむ、変わってるなあ。尻尾が花火みたいになってる」

 ネズミはキョトンとした様子ですずりを見上げていたが、警戒したり逃げ出す素振りはなかった。エサをもらって懐いてくる辺りは、普通の動物と同じである。だが今は、すずりと一緒になって遊んでいる場合ではない。定岡の言葉が真実であれば、このネズミを放っておくのは危険すぎるからだ。

「すずり、そいつをケージに入れるぞ。詳しい事がはっきりするまで、野放しには出来ないからな」
「もう一度言うけど、絶っ対にあのオッサンに渡しちゃダメだかんね」
「わかったよ、なんとか交渉してみるから。さあ早く」

 すずりに促され、火鼠は少しだけ抵抗しつつもケージの中へ入って行った。最悪の場合、火鼠が激しく暴れて火傷をしたりするんじゃないかと覚悟していただけに、草助は無事に捕まえられたことに安堵した。

「よしよし、いい子だ。窮屈だけど大人しくしてるんだぞ」

 ケージを覗き込んで火鼠に言い聞かせた後、草助は顔を上げて辺りを見た。今までの様子を、定岡もどこかで見ているはずである。そのまましばらく待っていると、暗がりの向こうから定岡がぬうっと現れた。

「よう、やってくれたなお前たち! はっはは、こんなにあっさり捕まえられるとは俺も予想外だったぜ。いやあ、大したもんだ!」

 定岡は不気味なくらいにハイテンションで、草助の肩をばしばしと叩きながらケージに目を落とし、品のない笑顔を浮かべている。

「さあそいつを俺に寄こせ。後は俺が処理しといてやるから、お前らはもう帰ってもいいぞ」

 嬉々として腕を伸ばす定岡からケージを遠ざけ、草助は愛想笑いを作って言った。

「ええと、その事なんですが。こいつは僕らに任せてもらえませんか? こうして捕まえておけば、もう火事の心配もないだろうし」
「なにかと思えば……いいか、こいつを捕まえられたのは、俺がタダで情報と作戦を提供してやったからだろうが。つまりお前らは、俺に大きな借りがあるんだよ。それを忘れて獲物を独り占めさせてくれってか? お前ら本当は最初からこうするつもりだったんじゃねえのか?」

 定岡は早口でまくし立て、大げさな手振りをしながら詰め寄ってくる。草助は苦笑いしながら後ずさる。そうやって数歩ほど移動したところで、定岡はやれやれと肩をすくめて立ち止まった。

「わかった、今回だけは見逃してやる。どこへでも行っちまいな」
「す、すみませんねどうも……それじゃ」

 草助が気まずそうに頭を下げて立ち去ろうとすると、定岡が大きな声で呼び止めた。

「コラ、俺の目の前を横切るんじゃねえぜ。そのまま後ろに下がって消えろ」
「は、はあ?」

 言葉の意味が分からず、草助はつい言われるままに足を引いて後ろに下がった。その途端、足の裏に返ってくるはずの地面の感覚が無く、草助とすずりの身体は仰向けに転落した。そう、倒れたのではなく転落したのである。その拍子に、抱えていたケージをどこかに放り投げてしまった

「痛たた……」

 したたかに背中を打った草助が我に返ると、そこは深く掘られた縦穴の中だった。頭上を見上げると、丸い穴の縁に、ケージを抱えた定岡が月明かりを背に立ち、下品な笑い声を響かせている。

「おーおー、見事に落ちてくれちゃってまあ。おーい、気分はどうだー?」
「どういう事なんだこれは!」
「どうもこうも見ての通りさ。オメーらは穴に落ちて、ネズミは俺が預かってると。そういうこった」
「まさか……準備にこんな時間が掛かったのは、この穴を掘っていたからなのか」
「今頃気付いたって遅せぇよ。他の頼み事ならまだしも、こいつだけは渡せねえなあ。悪く思うなよ」
「待てっ、そいつをどうするつもりなんだ」
「そうだな、せっかくだから最後に教えといてやるよ。お前、竹取物語って知ってるか?」
「竹取……ああ、かぐや姫が出てくる話だったか」
「そうだ。かぐや姫はしつこい求婚者から逃れるために、それぞれ伝説の秘宝をもって来いという無理難題をふっかけた。その品のひとつに、火鼠の皮衣ってのがあるのさ。火鼠の毛皮で作られた布はどんな炎にも耐え、決して燃える事がないって代物なんだとよ。俺はネズミの毛皮なんぞに興味はねえが、世の中にはそれを欲しがる物好きはいくらでもいる。後は分かるよな……ひっひっひ」

 反響する嗤い声に包まれながら、草助は全てを理解した。そして同時に、醜い欲望に荷担してしまった自分の不明を恥じて唇を噛んだ。

「騙したんだな! 火鼠が火事の犯人というのも嘘なんだろう!」
「その通り、あれもお前らを引き込むための口実だよ。ネズミの居所を突き止めた時には、お前らに拾われた後だった。で、様子を見てたらお前らがネズミを置いて家を留守にした。その隙に捕まえようとしたんだが、また失敗しちまってなあ。いい加減一人じゃ無理だと思ったワケよ」
「店を荒らしたのはお前の仕業だったのか! 売り物にならなくなった商品だってたくさんあるんだぞ、どうしてくれるんだ!」
「ひっひっひ、大事の前の小事ってやつさ。ついでに言うと、最近続いてた火事も全部俺がやったんだよ。火鼠をおびき出すためにな」
「ば、馬鹿な……下手をしたら死人が出ていたかも知れないんだぞ!」
「お前らは知らないみてえだが、このネズミ一匹で一生遊んでも釣りが来るぐらいの値段が付くんだよ。そりゃあ無茶もするってもんだぜ、なあ?」

 大金に目がくらんだのか、元から狂っているのか。どちらにせよ正気の沙汰とは到底思えず、草助は嫌悪感を顕わにして叫ぶ。

「くそっ、ここから出せ!」
「出てきて欲しくねえから穴に落としたんだろうが。ちょっと待ってろよ」

 そう言い残して、定岡は穴の入り口から姿を消した。草助は何度か穴の壁をよじ登ろうとしたが、穴の深さは目測でも四メートルかそれ以上もあるうえ、砂壁に手足を掛けてもすぐに崩れてしまう。とにかくすずりだけでも外に出そうと彼女を抱え上げていると、穴の外からディーゼルエンジンの音と、トラックが後退するときに鳴るブザーの音が聞こえてきた。

(まさか……う、嘘だろう!?)

 昔から嫌な予感ほど良く当たってしまう草助だったが、今回も例外ではなかった。穴の入り口に再び姿を現したのは、荷台に大量の砂を積んで停車していたトラックで、それを運転しているのは定岡であった。定岡はトラックを止めてレバーを操作すると、トラックの荷台を持ち上げ、草助たちの頭上に砂を注ぎ込んだ。荷台に乗っていた砂は、この穴を掘った時に出た物であることは容易に想像が付く。

「やめろ、なんてことするんだ!」
「後でごちゃごちゃ言われたら面倒だ。せいぜい成仏してくれよ、じゃあな」
「うわーーーーっ!?」

 一気に雪崩れ込んできた砂に押し潰され、草助の視界は一瞬のうちに真っ暗になった。砂の重圧で呼吸はおろか、指一本動かせない。闇と息苦しさの中で、孤独感だけが膨れあがってくる。

(そんな……このまま死ぬのか?)

 心の中でそう呟いた刹那、身体がふわっと軽くなったような気がした。いや、気のせいではなかった。草助の身体は砂の重圧を跳ね返し、穴の外に飛び出して宙を舞っていたのだ。

「うわっ」

 そのまま砂地に放り出された草助は、地面に両手を付いて咳き込み、口の中に入った砂を吐き出して顔を上げた。そこには、夜の浜辺に浮かんで光る、すずりの後ろ姿があった。彼女の髪は大きな手の形になって草助の身体を握りしめていたが、やがて後ろで結んだ元の形に戻っていく。彼女は浮かんだまま振り返らなかったが、離れていても分かるほどの激しい殺気を放っていた。

「……ブッ殺す!」
「お、おい、すずり? お前本気で怒ってないか?」
「あんのクズヤロー、アタシをこんな穴ボコに埋めるとはいい度胸じゃねーかコラァ! とっ捕まえてギッタギタにして、生まれてこなきゃ良かったって目に遭わせたるわド畜生が! ボサっとしてないで行くぞ草助!」

 すずりの怒りは相当なもので、口調の悪さと激しさがそれを物語っている。確かに言葉使いは普段から悪いが、これほど怒りを顕わにしたすずりを見るのは、草助も初めてだった。着物と袴の隙間に入った砂を払い落としながら、草助は訊ねた。

「で、どっちに行ったか分かるか?」
「あっち!」

 すずりが指す方向には、砂浜から道路に出て遠ざかっていくテールランプが見える。草助は道路脇に止めたカブの所まで急いで戻ると、エンジンを掛けてアクセルを目一杯ひねり、トラックの後を追いかけた。単純なパワーとスピードではトラックの方が有利だが、朝比奈市は家屋が密集した地域という事もあって、道路も狭く入り組んだ場所が多い。小回りが利くカブなら、トラックに引き離されず追いかけることは十分可能であった。海岸沿いの道路を西に向かって二十分ほど走り市街地方面に移動すると、継堂(つぎどう)という駅のすぐ近くにある巨大な工事現場にトラックは入って行った。ここは数年ほど前まで製鉄工場のあった土地だが、今は売却された跡地の再開発が進められており、広い敷地の中央には、建造中の商業施設が暗闇の中に浮かび上がっていた。今日は休工日のためか人の姿は無く、照明も全て落とされている。四階建ての商業施設自体もかなりの面積があり、周囲をぐるっと一周するのに十分以上はかかりそうである。建物自体は基礎と鉄骨の骨組みや足場が組まれているだけの状態で、周囲の暗さも手伝っておどろおどろしい城か要塞のようにも思えた。そして建物の近くには、ドアが開いたままのトラックが乗り捨てられていたが、中に定岡と火鼠の姿は無かった。

「あいつめ、こんな所に逃げ込んだのか」
「どこに逃げたって同じだよ。必ずヤローを見つけ出して、セメントの靴履かせて百合ヶ浜の魚の友達にしてやんよ!」
「おい、さらりと怖いことを言うな……」

 草助とすずりはカブから降り、静まりかえった建物の中に足を踏み入れた。手持ちの小型ライトで周囲を照らしてみると、コンクリの床や鉄骨、電気のケーブルなどが剥き出しのままで、そこら中に資材や道具が置かれていて足場も悪い。床そのものが無く、鉄骨の間に板が置いてあるだけの場所もあって、二人は足元に気を使いながら進まなければならなかった。一階、二階には人の居る気配が無く、次の三階に辿り着いた時、草助は視界の端を素早く横切る人影を見た。後ろ姿しか見えなかったが、それは定岡に間違い無かった。

「見つけたぞ! よくも非道い目に遭わせてくれたな!」

 草助が指を差して呼びかけると、すずりも隣に並んで、

「このアタシにずいぶん素敵な真似してくれたじゃねーかテメー」

 と、暗闇に目をギラギラ光らせ、三日月のように裂けた口から冷たい息を吐いていた。

「げっ、どうしてこんな所に!? 一体どうやって穴から出て来やがったんだあ!?」

 これには定岡も肝を冷やしたと見え、裏返った声を出しながら一目散に逃げ出した。。

「待てコラァ!」

 獲物を見つけた肉食動物のように飛び出したすずりに続いて、草助も定岡の後を追う。足場の悪いフロアーを走り回った後、やがて行き止まりの広い部屋に、定岡は追い詰められた。部屋は物置として使われているようで、隅には建設用の備品や工具、配線用の巻きケーブルなどが置かれている。部屋の一番奥には火鼠が閉じ込められているケージがあり、その隣に古びた壺がひとつ置かれていた。およそ三十センチほどの高さで、梅干しなどを入れるのに使われる物によく似ている。なぜこんな物があるのか奇妙に思ったが、今はそれを気にしている場合ではない。定岡はケージを庇うように立ち、顔中に汗を滲ませて息を荒げている。

「ぜえ、ぜえ……ま、待ってくれ。話せば分かる。ちょっとした誤解と手違いだったんだよ、なっ?」
「言い残すことはそれだけか。あの世に行く準備は出来てんだろうなオイ……」

 顔を引きつらせて指をポキポキと鳴らしているすずりをみて、どっちが悪者だかわからないなと草助は苦笑し、彼女の前に一歩出て定岡に言った。

「人を穴に落として上から砂で埋めるのを、誤解と手違いと言うとは知らなかった」
「これからは心を入れ替える! そうだ、今回の取り分は俺とお前で山分けって事でどうだ?」
「山分け?」
「ネズミを売った金の取り分は七対三、いやいや六対四。これなら文句ねえだろ」
「お金はいらない。だけど火鼠は引き取らせてもらう」
「なっ、なにぃ!?」
「たとえ妖怪でも、あんたのような人間に捕まったんじゃ可哀想だ」
「この野郎、後からしゃしゃり出てきて全部独り占めしようってか、この悪党!」
「いや、あんたに悪党呼ばわりされるとかビックリだよ」
「穏便に済ませようと思ったが仕方がねえ。お前ら、俺がなーんも考えずにここまで逃げてきたと思ってるのか」
「なにっ」
「プロってのは最後まで奥の手を隠しておくモンだぜ!」

 定岡は素早く背を向け、ケージの隣に置いてある古びた壺を持ち上げて振り返ると、壺の蓋を外して叫ぶ。

「出て来いヒザマ! こいつらに思い知らせてやれ!」

 その途端辺りに強い妖気が充満し、草助は身を強張らせた。鼻を突くようなきな臭い妖気に、草助は憶えがあったからだ。

「ケェェェーーーーッ!」

 甲高い鳴き声と共に壺から顔を出したのは、ニワトリを丸々と太らせたような姿をした生き物だった。白い羽毛に覆われた身体に尖ったクチバシに赤い頬、闇に光るギョロリとした眼を持ち、真っ赤なトサカはゆらめく炎で出来ていた。太ったニワトリのような生き物は大きな欠伸をした後、感情の読めない瞳を草助に向けた。

「なんやワレ、人が気持ち良う寝とるのに外でゴチャゴチャ喚きさらしおって」

 不機嫌そうな関西弁で、太ったニワトリは声を発した。妖気といい言葉を喋る事といい、このニワトリが妖怪であるのは疑いようのない事実である。さらに壺から外に出ている白い羽根は、先端が黒くなっており、火事の現場や一筆堂で見かけたものとおなじであった。

「その羽根と妖気……ここ最近続いていた火事の犯人はお前だったんだな!」
「あ? それがワイの、ヒザマ様の仕事じゃい。文句あんのかジャリ坊主」
「ヒザマ……?」

 草助の問いには、壺を抱えた定岡が答えた。

「ヒザマってのはな、奄美諸島の沖永良部(おきのえらぶ)島に伝わる炎の邪神よ。家に取り憑いて火事を起こすっていう、迷惑な妖怪なのさ。そして今は、こいつの封印を解いてやった俺がご主人様ってわけよ」
「ご主人様やとう?」

 ヒザマは不機嫌そうに定岡を見上げたが、定岡は意に介さず続ける。

「お前らもこいつの炎で燃やされちまいな!」
「あんたは妖怪退治屋じゃなかったのか」
「やっぱり素人だなオメーは。ボランティアじゃあるまいし、妖怪退治だって場合によっちゃあ妖怪と手を組むことだってあるんだよ。こいつは火事を起こすのが仕事、俺は火鼠を捕まえたい。そこでお互いの利益が一致したってワケだ」
「なるほど。あんたがどうしようもない人間だって事はよく分かったよ」
「けっ、減らず口を。やれヒザマ!」

 定岡が命令すると、ヒザマは嫌そうに顔をしかめつつも草助を睨む。

「ま、そういうこっちゃ。このボンクラに借りもあるし、大人しゅう燃されてしまえ」
「やれるモンならやってみな」

 そう言って前に出て来たのはすずりだった。

「壺に封じられてたようなザコにアタシらがやれると思ってんのか?」
「ああ、なんやこのチビは」

 ヒザマは面倒臭そうに呟きながら鼻をほじる。

「チビはそっちだろーがコラァ! 大体ニワトリのくせにデブ過ぎんだよテメー!」
「ポッチャリ系と言えやワレェ!」

 すずりとヒザマは互いに火花を散らし、一触即発の雰囲気である。ヒザマを怖がる様子もなく、鋭い目つきで睨み付けるすずりに、定岡は少し驚いて彼女を指す。

「さっきから気になってたが、そのガキはなんなんだ。最近の妖怪退治屋は子守りも一緒にやってんのか?」
「こいつは心強い味方さ。あんたには分からないだろうけどね」
「ははは、こりゃいいや。ガキに頼ってるようじゃたかが知れてるな」

 定岡の嘲笑に、すずりの怒りは頂点に達しようとしていた。それを間近で見ていた草助の脳裏に、血の雨が降りはしないかと一抹の不安がよぎるのだった。

「アタシは最高にムカついてんだよ……そこをどきなニワトリ」
「なんや、可愛げのないガキのツラ見とったらますます動きとうなくなったわ。おのれも丸焼きにしたるでぇ!」

 ヒザマが丸い眼を見開いたその瞬間、空間に炎が弾けた。すずりは一瞬早く気配を察して飛び退き無事だったが、彼女が立っていた場所に、なんの前触れもなく炎が現れたのである。炎は周囲に燃える物が無いためか、一瞬眩しく光を放ってすぐ消えてしまったが。

「ほう、ワイのメンチを避けるとは、ただのガキやないって事かい。可愛げのないやっちゃでホンマ」
「おいすずり、一体どうなってるんだこれは。いきなり炎が出たぞ!?」

 状況を飲み込めないのは草助である。ヒザマがなにを仕掛けてきたのか分からず、頬に冷たい物が伝い落ちるのを感じていた。

「ちっ、面倒だね……たまにいるんだよこういう奴が」
「だから、どうなってるのか説明してくれ」
「妖怪の中には、視線で火を付けられる奴がいるんだよ」
「な、なんだって!?」

 それが本当だとしたら恐ろしい話である。この部屋の中で、目の届かない場所はない。つまり逃げ場所がないという事だ。

「どうやって戦うんだそんなの」
「妖気の流れを読むしかないね。避け損なったらバーべーキューだよ!」
「お、おい、ちょっと待っ――!」

 言いかけた刹那、草助は自分の周囲だけ突然妖気が濃くなったことに気付き、慌てて横に飛んだ直後、草助が居た場所が発火した。間一髪で燃やされるのは避けたが、袴の裾に少しだけ火が付いてしまい、慌てて裾を手で叩いて火を消し、ため息をついた。

「これじゃ近づく事も出来ない。どうすればいいんだ」
「草助が囮になってさあ、燃えてる隙にアタシがあいつらぶっ飛ばすってのは?」
「全力で却下!」

 とはいえ他にいい方法も思い浮かばない。ヒザマの視線から逃れるのに精一杯で、肝心の定岡や火鼠のケージにはまるで近づけていない。すずりと二手に分かれて視線を攪乱してはいるが、それも単なる時間稼ぎでしかなかった。周囲には、炎が燃えた後のきな臭い匂いが充満していた。

(どうすればいいんだ。せめて視線を逸らすことが出来れば……視線を逸らす……そうか!)

 妙案を思いついた草助は、イチかバチかの賭けに出た。彼は逃げ回るのを止め、真っ直ぐヒザマに向き合った。視線が草助に向けられた途端、彼の周囲に妖気が集まってくる。そして発火する寸前の所で、草助はヒザマに向かって指を差し、大声で叫んだ。

「ああっ、後ろにミス雌鶏グランプリのセクシャルピヨ子ちゃんが!」
「ど、どこに!?」

 見事に引っ掛かったヒザマは、首を真後ろに向けて定岡の方を向いた。次の瞬間、定岡の上半身はオレンジ色の炎に包まれた。

「うぎゃあああ熱ちいいいいッ!?」

 定岡は壺を放り投げ、その場に倒れ込んで熱さにのたうち回った。炎は一瞬で消えたものの、定岡の頭は焦げてアフロヘアーのように縮れ、さながらお笑いコントのようである。多少の火傷は負ったようだが、命に別状は無さそうだ。定岡は勢いよく起き上がり、壺ごと浮遊しているヒザマに向かって怒鳴った。

「なんて事しやがんだこのクソ鶏!」
「ああん、なんやとう?」
「燃やすのは俺じゃなくてあいつらだろうが! 誰のおかげで自由になれたと思ってやがんだこの馬鹿!」
「おいコラ……あんま調子に乗ったらあかんど」
「お前は火を付けるぐらいしか能がねーんだから、ちゃんと働けっつーの!」
「ああ、さいでっか。今まで封印解いてもろた恩返しや思うて尽くしてきたが、もうこれで終いやな。おのれとはもうやってられへんわ」
「な、なにぃ!? テメー俺を裏切るのか!」
「口の利き方に気ぃつけろやボケェ! 先におんどれから焼き殺したろか!」
「くっ、この恩知らずが!」

 定岡とヒザマが言い争っているうちに、草助はすずりにこっそり合図を送る。すずりはこくんと頷いて、髪を伸ばして火鼠の捕らえられているケージを引き寄せた。

「よーし、今出してやるからな」

 すずりはケージの鍵を開け、閉じ込められていた火鼠を外に出してやった。白い毛並みは汚れ、疲れた様子ではあったが、怪我などはしていないようだった。すずりが火鼠を抱き上げてやると、嬉しそうにキュウキュウと鳴いていた。直後、突然けたたましい鶏の鳴き声が建物を震わせた。声のした方を見ると、宙に浮かんだヒザマが強烈な妖気を放つ炎を纏っている姿が目に飛び込んできた。

「ワイを舐めたらどないな目に遭うか、お前ら全員思い知れや!」


 ヒザマが翼を羽ばたかせると、纏っていた炎が飛び散って壁の幕や木箱などに燃え広がり、辺りを一瞬で火の海に変えてしまう。これはまずいと部屋から出ようとしたが、入り口のドアも激しく燃えていて近づけない。

「な、なんて事だ、出口が」
「甘い甘い、逃がさへんで。ワシはこのまま、お前らが焼け死ぬのをのんびり見物させてもらうさかいな。ほれ、もういっちょサービスや!」

 ヒザマはクチバシを開き、口から火炎を吐き出した。炎は輪のように広がり、草助たちの周囲を取り囲む。もはや逃げ場はなかった。

(まずい、とってもまずいぞ。まったく打つ手がないじゃないか)

 すずりの能力は相手に触れる事が前提であり、手も届かないこの状況では、逆転の可能性は欠片も見えてこない。将棋で言うところの、いわゆる詰みの状態に陥っていた。

「あわわ、助けてくれ頼む」

 気付くと、腰を抜かした定岡が、袴の裾を握ってすがりついている。あまりに情けない姿に、草助はもう怒る気も失せていた。草助に代わってすずりが定岡の脳天にゲンコツを落とし、ギロリと睨み付ける。

「こうなったのは全部オメーのせいだかんね!」
「ひいい、死にたくねえよう」

 炎の輪は次第に小さくなっていき、あと少しで三人を呑み込もうという所まで来ていた。

「この炎さえ通り抜けられれば……!」

 すずりに抱きかかえられていた火鼠は、草助とすずりに危機が迫っていることを感じ、彼女の腕から抜け出して床に着地すると、真っ直ぐに炎の中へ走り出した。

「あっ、やめろ!」

 すずりが止めようと手を伸ばすが、炎の熱さで指を引っ込めてしまう。火鼠は熱さをものともせずに通り抜けると、宙に浮かんでいるヒザマを見上げて威嚇した。

「なんや、火の妖怪みたいやな。なんか用か?」
「プイプイ!」
「あ? 人間を燃やすなやと? おのれはこいつらの味方するんかい」
「キュイーッ!」
「ケッ、このまま引き下がったらワイの気が収まらんやろが。止めて欲しけりゃ力尽くでやってみいやネズ公!」

 火鼠はぴょんぴょんと飛び跳ねたが、ヒザマは天井近くまで浮き上がって届かない。

「もう諦めえ。ネズミはそうやって地面をウロチョロしとればええんや」

 その時、変化が起きた。四肢を踏ん張り姿勢を低くした火鼠は、頭と背中の赤い毛を逆立てて身体を震わせると、身体から妖気を発し始めた。ヒザマが炎を出すのに対し、火鼠の能力は逆に周囲の炎を自分の元に引き寄せるというものだった。炎を吸収した火鼠の身体は一回り、いや二回り以上も巨大化していき、部屋中の炎が火鼠の身体に吸収されていく。赤い毛は燃えさかる炎となって火鼠の身体を包み、尻尾の先端にもロウソクのような火が灯っている。その姿は危険な妖怪というよりも、炎の毛皮に包まれた神々しい獣のように思えた。

「あ、あれが火鼠の……本当の姿なのか」

 火鼠は足に力を込めて矢のように跳躍し、ヒザマに強烈な体当たりを繰り出す。意表を突かれて直撃を受けたヒザマは天井に当たり、割れた壺と共に床に落下して目を回していた。火鼠はそれで力を使い切ったのか、再び猫ほどの大きさのネズミに戻っていた。




「さて、あんたらをこれからどうするかだが」

 草助とすずりは、定岡を建物の外に連れ出し正座させていた。隣にはヒザマの姿もある。壺を割られたせいか落ち着きがなく、意気消沈している。

「た、頼む勘弁してくれ。もう二度と悪さしねえから!」
「ううう、壺……壺がないと心細いんや」

 二人とも逆らう気力は見られないが、まだ怒り収まらぬ者が一人。

「だそうだ。どうするすずり?」
「許すわけねーだろこれしきで……アタシが本当の地獄を教えてやんよ」

 すずりは耳元まで口を開き、ニタァと嗤う。

「ひいいいいーーーー!?」

 定岡が顔を引きつらせ、四つん這いになって逃げ出した先に、見知らぬ人の足があった。彼は思わずそれにしがみつき懇願した。

「あんた助けてくれ、あいつらに殺されちまうよう!」
「ほう、聞き覚えのある声だと思えば、お主じゃったか定岡。久し振りじゃのう」

 その人物は足元の定岡に心当たりがあるようだった。定岡も顔を見上げて、あっと驚きの声を上げた。

「げっ、は、八海老師!?」

 定岡の言葉通り、まん丸のビン底眼鏡と禿げ上がった頭の八海老師がそこにいた。

「老師、どうしてここへ?」

 二人の元に駆け寄った草助が訊ねる。

「あれだけ派手に妖気を放っておれば分かるわい。お前だけでは手に余るかもしれんと思ってを探しておったんじゃが、まさか定岡が一緒におるとはのう」
「知ってるんですか?」
「うむ。こやつは昔、妖怪を利用してあこぎな金儲けをしようとしてたからのう。ちょいと懲らしめてやったんじゃが」
「今と全然変わらないじゃないですか……」
「ほほう」

 八海老師の眼鏡が、定岡を映してギラリと光る。

「それは本当か定岡よ」
「あ、あんたら知り合いだったのか!?」

 定岡は草助と八海老師を交互に指しながら言った。

「老師は僕の恩人で、昔から色々と面倒を見てもらってた。それよりどうして老師の事を知っているんだ」
「おいおい、八海老師と言えばこの業界じゃ誰もが一目置く退治屋なんだぜ? 知らねえ奴はモグリと言われるくらいだ」
「そ、そうだったのか。老師がそんなに有名だったとは……」

 妖怪退治をしていたことは知っていたが、これほど名が知られているというのは初耳であった。

「で、どうなんじゃ定岡。今回もまたロクでもないことをしでかしたのか?」

 もう一度八海老師が訊ねる。

「いいい、いやこれはちょっとした誤解と手違いで」
「アタシらは落とし穴に落とされて、上から砂で埋められた。それからこいつ……火鼠を捕まえて売ろうとしてたし、そこのヒザマって妖怪を使って火事を起こしてたのもこいつの仕業で、おまけに焼き殺そうとしてくれたよなあ?」

 悪行を暴露された定岡の顔から、サーッと血の気が引いていく。

「……」

 八海老師は無言のまま定岡に冷たい視線を落とす。

「定岡、お主ヒザマの封印を解いたのか」
「たまたま、偶然に解けちゃっただけだってホント! どっかのチンケな退治屋が、テキトーな封印してやがったんだよ。だから弾みで封印がポンと外れて」
「げえっ!? 誰かと思たら、おのれはワイを封じよったジジィやんけ!」

 八海老師を見て悲鳴のように叫ぶヒザマに、定岡は「えっ?」とマヌケな声を返す。

「さよう、ヒザマを封じたのはこのワシじゃ」

 八海老師は妖怪退治屋の間では広く名が知られており、特に妖怪を封じる術はトップクラスの腕前として知られている。ゆえに彼が施した封印が、故意で剥がしたりしない限りは弾みで外れることなどあり得ないのだ。

「そうか、まだ懲りておらんかったのかお主……」

 八海老師の表情は普段とあまり変わらないが、声は静かな怒りに満ちている。

「すずりよ、この馬鹿の始末はワシに任せい。きつーいお灸を据えてやるわい」
「ちぇっ、わかったよ。だけど手ぇ抜いたりしちゃダメだかんね!」
「わかっておる。さあ来い」
「ぎゃひーーーーーっ!?」


 八海老師に引きずられ、定岡とヒザマの姿は消えていく。火鼠を巡る長い一日は、こうして幕を閉じたのであった。




 翌日、梵能寺では火鼠をこれからどう扱うかの話し合いが行われていた。ジーンズにワイシャツ姿の草助と、いつもと変わらぬ赤い着物のすずり、うぐいす色の甚平を着た八海老師がそれぞれ向き合って座敷に座ったいる。草助は火鼠を生まれ故郷に帰してやろうと提案したが、八海老師曰く「火鼠の住処は大陸の南方にある火山、あるいは崑崙(こんろん)という聖地と言い伝えられておってな、人の足で容易に辿り着ける場所ではないのじゃ。そのいずれかを探すとなると、数年がかりの探索になってしまう」との事で、現実的に無理であるという結論が出た。

「――だからさ、アタシらで飼おうよ。こいつってばもちもちしててうまそ……じゃなくて可愛いし」
「うーん、老師はどう思います?」
「放っておけば、また金に目のくらんだ人間に狙われるじゃろうな。しかしのう」
「ええ、そうなんですよね」

 草助と八海老師は、同時にすずりを見てため息を付く。

「おい、なんだよその目は。なんでアタシをそんな風に見んのさ」
「すずりお前、きちんと動物の面倒見れるのか?」

 草助の問いにすずりは威張った様子で胸を張り、

「へへん、ここにいる時は金魚飼ってたよ」
「三ヶ月後には干からびて煮干しみたいになっておったがのう」

 と、八海老師が付け足すと、すずりもうつむいて小さくなってしまう。

「誰か安心して任せられる人が居ればいいんですけどね」

 三人が腕を組んで考え込んでいると、玄関でチャイムの音が鳴った。

「ごめんください。こちらに筆塚くん来ていませんか?」

 来訪者は明里だった。驚きながら彼女を家の中に招き入れると、明里は火鼠の姿を見つけてあっと声を上げた。

「えっ、どうしてその子がここに」
「知ってるのかい?」
「ええ、昨日の昼頃、私の家に迷い込んできたのよ」
「そ、そうだったのか。ところで船橋さん、僕になにか用事かな」
「ええ、半分はもう解決しちゃったけど」

 明里は火鼠に目を落として呟く。火鼠も明里を憶えていたようで、彼女に近付き鼻をヒクヒクと動かしていた。

「それで残り半分は?」
「昨日の話の続きなんだけど、すぐ後に変な男の人が来て、火事の犯人がこの子だって言うのよ」

 定岡だな、と他の三人は即座に思ったが、口には出さなかった。

「しかもその後、飾ってあったドライフラワーが急に燃えて……筆塚くん、前も変な事件を解決してたから、なにか分かるんじゃないかと思って」

 草助は怪訝そうな明里の肩に手を置き、ゆっくりと首を振る。

「その事なら大丈夫、放火の犯人はその変な男の方さ。あいつは老師にきつく懲らしめられたし、もう変な火事は起きないはずだよ。このネズミが火事の犯人なんていうのもデタラメさ」
「そ、そうよねやっぱり。良かった、この子が犯人じゃなくて」
「それよりも丁度いい所に来てくれた。このネズミは本当に珍しい希少種で、故郷に帰してやろうと思ったんだけど、色々ややこしい事情があってそれも難しいんだ。だから面倒を見てくれる人を捜していたんだけど、良ければ預かってもらえないかな」
「いいの?」

 思いがけない提案に驚きながらも、明里は目を輝かせて何度も頷いた。

「うん、任せて! 私がちゃんと責任持って面倒見るからね」
「ちぇっ、せっかくアタシの子分が増えると思ったのになー」

 すずりは少し不満そうだったが、飼い主が明里ならばと納得して火鼠を抱き、小声で話しかけた。

「いいかオマエ、明里に変な奴が近付いたら守ってやるんだぞ。人間は図体がでかくても弱っちいんだから」
「プイプイ、キュウ〜ッ!」

 火鼠は「任せて」とばかりに力強い鳴き声を出す。

「そうだ、オマエの名前考えてやらなきゃね。うーんと……よし、ミッチーマウスってのは?」
「ダメーーーーッ!」

 と、すかさず声を張り上げたのは草助である。

「えー、なんでさ?」
「夢の国から迎えが来たら困るだろう!」
「うーん、じゃあハム次郎」
「それもダメ! てかハムスターじゃないしこれ!」
「鼠ニック・ザ……」
「最初だけ漢字にしたからどうなるんだ!」
「ピカチ……」
「だから危険なネタから離れろってば! ダメダメダメッ!」
「あーもう、じゃあどんな名前だったらいいのさ!」

 すずりが草助を見上げて鼻息を荒げていると、端から見ていた八海老師が口を開けた。

「ふむ、火が付くネズミ……ネズミ花火から取って、ハナビなんてのはどうじゃ?」
「あっ、それいーじゃん可愛くて。よし、オマエの名前はハナビに決めた!」
「プイ? プイプイ!」

 火鼠の名前はハナビと決まり、明里の家で預かる事となった。彼女の実家は草助の家から近いこともあり、なにかあればすぐに駆けつけることも出来る。お互いにとって、これが一番良い判断であった。

「そっか、ハナビちゃんか。可愛くていい名前ね。これからよろしく」
「プーイッ!」

 明里に撫でられ、ハナビと命名された火鼠は嬉しそうに鳴いた。

「なあ明里、アタシもたまには遊びに行っていい?」
「もちろんよ。すずりちゃんならいつでも大歓迎よ」
「やったね! 時々様子見に行くから、アタシのこと忘れるんじゃないよ」

 すずりは抱いていたハナビを明里に渡し、最後にもう一度頭を撫でた。明里はしばらく雑談を楽しんだ後、ハナビを連れて梵能寺を後にした。草助は安堵の心持ちで彼女を見送った後、八海老師に気になっていたことを訊ねることにした。

「ところで老師、定岡とヒザマはあの後どうなったんです?」
「うむ、実はお灸を据えてる途中で逃げられてのう。まあしばらくは大人しくしているじゃろうが、いずれまた騒ぎを起こすかもしれんな。もしまた奴らが悪巧みをしていたら、今度は草助が懲らしめてやるがよい」

 今後のことを思いやって、草助は嘆息混じりに呟いたが、同時に思う事があった。人間と妖怪はどう関わるべきなのかという事である。定岡は欲望を叶えるために妖怪を利用したが、結果的にそれは失敗し妖怪の暴走を招いた。だが定岡にとってそのリスクはある程度承知の上での事だったろう。一方の草助自身は、なりゆきで任されたとはいえ、すずりの事についてほとんど知らないのである。

(もしも万が一にすずりと対決するとなったら……僕はどうする?)

 そもそもなんのために妖怪と戦うのか、確固たる答えは草助の中にない。宙ぶらりんな気持ちで歯がゆく思ったが、ひとつだけは確かなことがある。タガの外れた妖怪の恐ろしさと、それを悪用し無関係の人々を巻き込む人間が確かに存在するという事実だ。

(どうして平和に過ごせないもんかね。平和でないとのんびり絵も描けないのに)

 真夏の日差しを迎えつつある太陽を見上げ、草助は難しい考えを頭から追い出して思った。次は動物でも題材に、絵を描こうかと。

〜魂筆使い草助 第三話 終




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