魂筆使い草助
第三話 前編
〜火鼠〜



 真夜中の縦浜港に一人の男が現れた。灰色のスーツと、やけに目立つ黄色のネクタイを身に着けた男だった。歳は三十代半ばくらいだが、髪は金髪に近いほど染められていてパサパサしており、年齢に見合った落ち着きは見られない風貌である。男は港の入り組んだ場所にある倉庫の前までやってくると、咥えていた煙草を根本まで吸い尽くしてから捨て、倉庫の脇にあるドアに手を掛けた。鍵はかかっていなかった。中に入ると照明が点けられており、小柄な中年男が現れてスーツの男を案内した。小柄な中年男は縦浜市を中心に活動している中国人の密輸ブローカーである。

「で、見せたい物ってのはどれだ?」

 スーツの男が煙草に火を点けながら訊ねると、ブローカーの男は小さな背を丸めてキヒヒと嗤う。

「ミスター定岡、アンタ向きの品物だヨ。ここに入ってル」

 微妙に訛った口調で喋りながら、ブローカーの男は一角に置かれていた木箱を開けた。中にはお札が貼り付けてある古びた壺と、小動物を入れておくケージが入っている。ブローカーの男は壺を手に取ると、定岡と名を呼んだ人物に手渡した。

「これ、沖縄の近くの島で見つかった物だヨ。いわく付きのヤバーイ代物らしいネ。私ら堅気の人間には縁のない話だけどネ」
「けっ、密輸ブローカーが堅気を気取ってるんじゃあ、世も末だぜ」

 ぼやきながら壺を眺めた定岡は、蓋に貼り付けてあるお札の文字を見て表情を引きつらせる。

「……なるほどな、ずいぶん強力な封印だぜこいつは。こんなもんが必要な所を見ると、確かに素人の手に負えるもんじゃあなさそうだ」

 忌々しげに吐き捨てながら、スーツの男はもう一方のケージに目を移す。

「そっちは?」
「ああ、コレは大陸の奥地で捕まえたっていう珍獣ヨ。向こうじゃ買い手が付かなかったから、サービスで持ってきたのヨ」
「おいおい、俺は廃品業者じゃねーぞ」

 ケージを持ち上げて中身を覗いた定岡は、飛び出さんばかりに目を見開いてそれにかじりついた。

(お、おいおい、マジかよこりゃあ! な、なんでこんなもんが……いや、それよりこいつの価値を知らねえとは、このオヤジも所詮は素人って事か)

 定岡はブローカーの男に気取られないよう深呼吸をし、平静を装って立ち上がる。

「わかった、こいつらの始末は俺に任せな」
「助かるヨ。またヤバい品物が流れてきたら頼むネ」
「ああ、じゃあな」

 壺とケージを受け取り、出来るだけ平静を装っていた定岡だが、内心は飛び上がらんばかりに興奮していた。倉庫から離れると、スーツの男はスキップをしながらはしゃぎ始めたのである。

「とうとう俺にもツキが回って来やがったぜ! これでもうシケた人生ともオサラバだ、わはははははは!」

 と、浮かれて注意散漫になっていたのがまずかった。彼は足をつまずかせて盛大に転び、手にした壺とケージを放り出してしまう。壺は割れずに転がっただけだが、ケージは落下の衝撃で鍵が外れ、中にいた『それ』が外に抜け出した。

「し、しまったああああ!?」

 定岡は蒼白になって捕らえようとしたが、素早く動き回るそれに追いつく事が出来ず、とうとう逃げられてしまった。

「なんてことだあああああ、せっかく掴んだチャンスを! な、なにかいい方法はないか――!」

 目を血走らせて考え込む彼の視線に、お札の貼り付けられた壺が映っていた。




 数日後。
 住宅街の一角にゴミ袋が積み上げられている。翌朝の収集車によって回収されるのを待つだけの、なんの変哲もない家庭ゴミである。時間は夜の九時を過ぎ、辺りは人通りもなく静まりかえっている。やがてゴミ捨て場に一陣の風が吹き抜けると、積み上げられたゴミ袋が突然燃え上がった。周囲に火の気は無く、誰かが火を付けたわけでもないが、その現象は起こったのである。炎はあっという間に燃え広がり、夜道を赤々と照らす火柱となった。通報を受けた消防隊が駆けつけたときには、炎は近くの垣根に燃え移って、大火事に繋がる一歩手前の状態だった。

「放水急げ! 家に火が移るぞ!」

 消防服に身を包んだ隊員が放水ノズルを炎に向けたその時、彼は『奇妙なもの』を見た。真っ赤に燃えさかる炎の向こうに、白い毛並みのネズミが佇んでいたのである。いや、ネズミが特に珍しいわけではなかったが、彼を驚かせたのはその大きさであった。それは子犬か猫ほどの大きさをしていたのである。

(な、なんだ……こんなでかいネズミがいるのか? い、いや、そんな事よりも)

 それ以上に隊員を驚かせたのは、その大きなネズミが燃えさかる炎に囲まれていながら、平然とした様子で過ごしているという事実だった。幻覚か夢でも見ているのかと彼は思ったが、頬を焦がす熱気は紛れもない現実であり、生物が無事でいられる温度ではない。にもかかわらず、ネズミは苦しむどころか、毛繕いをしたり、後ろ足で耳を掻いたりしている。やがてネズミは顔を上げ、隊員と目が合うと、真っ赤に焼ける垣根の向こうへと消えていった。隊員は水を吐き出すホースを抱えたまま、ただただ呆然とするばかりだった。

 火事の現場と反対方向の道路に抜け出したネズミは、辺りをキョロキョロと見回しながら道路の隅を走り出す。人目に付かぬよう物陰に飛び込もうとしたその時、突然現れた柱のような物が行く手を遮った。灰色のスラックスと革靴を履いた、人間の足だった。

「やっと見つけたぞ。さあ、大人しくこっちへ来い」

 頭上を見上げるネズミの視界は、覆い被さる手の平によって遮られた――。




 筆塚草助の自宅は商店街の中程にある木造の古物店で、厚いケヤキで作った看板に達筆な文字で『一筆堂』と書かれている。一筆堂は元々、幼い頃に亡くなった祖父の草一郎が営んでいたもので、祖父の死後は彼の友人である梵能寺の住職、八海老師が店の権利を引き継いで管理をしていた。それ以外にも、八海老師は公私共に草助の面倒を見てくれた恩人であり、絵画や書道の師匠でもあった。草助が高校を卒業し、縦浜市の美術大学に進学することが決まった時、実家を離れてここに移り住んだのである。
 古物店は古い道具や骨董品を扱う一方で、草助や八海老師の描いた水墨画などを売りに出しており、草助はその売り上げで日々の生活を支えていた。八海老師は絵画や書道の世界では名が知られた存在であり、近頃は滅多に作品を売りに出さないこともあって、驚くほどの値段が付くのだが、それが売れても草助には一銭も入ってくることはない。自分の食い扶持は自分で稼ぐべし、というのが八海老師の教えだからである。生活のためにも絵を描き続けては店に並べ、安く買い叩かれてため息を付きながらも、草助は身の回りの何気ない日常を愛する、ごく普通の青年であった。
 ただし、生まれ付き鋭い霊感を持ち、そのおかげで、幽霊や妖怪といった「この世ならざる者」を日常的に目撃してしまい、それが元で妖怪退治屋として密かに修行中であることを除けば――であるが。

 草助は自宅の台所で昼食のラーメンを作りながら、テレビ放送の声に耳を傾けていた。今年の春は雨が少なく空気が乾燥した日が続いており、ニュースでは火事に注意するよう頻繁に呼びかけている。彼が暮らすこの朝比奈市でも、数日の間に各地で火事が相次いでいた。

「火事は怖いなあ。うちも古い木造だし、気をつけないと。これからはガスの元栓をちゃんと閉めるようにしよう、うんうん」

 草助は水色のエプロンを身に付けて、火に掛けた鍋を眺めながら一人頷いていた。エプロンの下は長袖のワイシャツとジーンズという楽な格好で、いつも通りのボサボサ頭である。お湯が沸いたところで鍋にインスタント麺とスープの素を入れ、細かく切ったネギ、もやし、ざく切りにしたキャベツを入れ、最後に生卵を落として完成である。二人分のラーメンを作ってテーブルに置くと、草助は壁に掛けてある時計に目をやった。

「十一時五十九分。我ながら絶妙のタイミングだな」

 エプロンを外し、席について時計の秒針を眺める。十二時まで残り四十秒、三十秒――そして残り十五秒というところで、玄関から甲高い声が響く。

「とぅわっだいまー!」

 大きな声で家の中に上がり込んできたのは、十歳くらいの可愛らしい顔立ちをした娘で、すずりという名の同居人である。すずりはいつも赤い着物を着ており、おかっぱ頭の後ろ髪の先端を紐で結んで、筆の先のようにしているのがトレードマークである。彼女はドタドタと足音を立てながら部屋に飛び込んできた。

「なあなあ草助、面白いもん見つけてきたぞ!」

 すずりは興奮気味に言いながら、テーブルの上に白くて丸いものを無造作に乗せた。どうせガラクタでも拾ってきたのだろうと目をやった途端、草助は「うわあっ」と声を上げて仰け反った。すずりが置いたそれは、犬か猫と見間違うほど大きなネズミだった。毛並みは雪のように真っ白であるが、背中と頭の上部分だけは赤みがかった珍しい色をしている。その奇妙なネズミは、テーブルの上で横たわったまま動かない。

「なんてものを持ってくるんだ。しかもよりによって食事時に」
「道路の隅っこにモフモフの塊が落ちてて、拾ってみたらこいつだったんだよ」
「というか、これはネズミなのか? ネズミにしちゃやけに大きいが……こんな種類のネズミなんていたかな」
「アタシにはよく分かんないけどさ、丸々しててうまそうじゃん?」
「お前はネズミの死体を食うのか……」

 草助が顔を引きつらせて後ろに引くと、すずりは首を振ってネズミの顔を指先でつつく。

「死体じゃないよ。ほら、ちゃんと生きてるし」

 確かに手足がピクピクと動いたが、それもほんの僅かの事で、傍目に見てもぐったりしている事は草助にも見て取れた。

「なんだか弱ってるみたいだぞ」
「んー、アタシの勘だと」

 すずりは台所に向かって背伸びをすると、残り物のキャベツの芯を拾って戻り、ネズミの鼻先に近づけた。ヒクヒクと鼻が動いた直後、ネズミは突然起き上がってキャベツの芯を囓りだした。

「ほらやっぱり。こいつ腹空かせてるんじゃないかと思ったんだよね」

 ネズミはあっという間にキャベツの芯を食べ尽くすと、キョトンとした顔ですずりや草助を見つめていた。すずりは椅子によじ登ると、笑顔を作ってネズミの頭を撫で回す。

「よお、目が覚めたかー。アタシは命の恩人だからな、感謝しろよ」
「……?」
「んーんー、もちもちしやがってこいつめ」

 すずりにあちこち撫で回されて、ネズミは戸惑う仕草をしたものの、怖がったり嫌がっている様子はない。テーブルの上に死体が乗らなくて済んだことに、草助はホッとため息を付く。

「なあ草助、もっとエサ食わせてやっていい?」
「ここで死なれても困るから構わないが……」

 草助が頷くと、すずりは冷蔵庫からキャベツやニンジンを出してネズミに与え、勢いよくエサを食べるネズミを椅子に座って眺めていた。

「それで、こいつをどうするつもりなんだ」
「まーまー。その話は後にして、とりあえずアタシらもメシ食おうよ。早くしないとラーメン伸びちゃうだろ」

 すずりは箸とどんぶりを手に取ると、勢いよくラーメンをすすり始めた。普段は手のかかる子供そのものだが、時折自分以上に豪快で根性が据わっている彼女を見ると、やはり人間より遙かに長生きしてきた存在であると意識せずにはいられなかった。見た目からは想像しにくいが、すずりは少なくとも数百年の時を生き続けてきた妖怪で、草助の妖怪退治に欠かすことの出来ない相棒なのである。草助はすずりと向かい合ってテーブルに座ると、自分のラーメンに向かって「頂きます」と両手を合わせた。大きなネズミは、すずりのラーメンに鼻を近づけて、時々キャベツの切れ端などをもらって食べている。



 奇妙な光景に内心苦笑しつつ、草助はある事を思い出してすずりに言った。

「ところですずり、火の気には注意するんだぞ。ここ最近は空気が乾燥してるせいか、あちこちで火事が起きてるらしいからな」
「子供じゃあるまいし、アタシは火遊びなんかしないって。それよりさー、もっと昼飯豪華になんないの? いつも袋ラーメンとかちょっと」
「うちは貧乏なんだぞ。毎食お前のリクエストに応えていたら、あっという間に生活できなくなってしまうじゃないか。それにちゃんと野菜と卵も入れてやってるんだし、贅沢言うんじゃない」
「ちぇーっ」
「ああ、それと食べ終わったら出かけるから準備するんだぞ」
「お、どっか遊びに行くのかっ?」
「老師に呼ばれてるんだよ。すずりも一緒に来いってさ」

 老師というのは草助の師匠である八海老師を指す。彼はつい最近まですずりを孫娘として引き取っていたが、草助が妖怪退治の修行を始めると同時に、すずりも草助の家で寝泊まりをするようになったのである。

「なーんだ、あの寺かあ。つまんねーの」
「そうムクれるなよ。用事が済んだらおやつくらい買ってやるから」
「よっしゃあ、その言葉忘れんなよ草助っ。あ、そうだこいつも連れて行っていい? こいつ見たらきっと驚くぞじーちゃん。キシシ」

 すずりはキャベツを食わせているネズミに目をやって訊ねたが、草助は「ダメだ」と一蹴し、自分も席に座って箸を手に取る。

「えー、なんでダメなのさ」
「遊びに行くんじゃないんだぞ。それに仏像や教典をかじられでもしたら困るじゃないか」
「ちぇーっ。こうなったらもー、腹いせにおやつたくさん食ってやるもんね」

 少しばかり嫌な予感を引きずりつつも、草助は目の前のラーメンを口に運ぶのだった。




 昼食を終えた二人は、朝比奈市の外れにある梵能寺を訪れた。本堂の脇にある竹林を抜け、梵能寺の住職である八海老師が寝泊まりしている瓦屋根の建物に上がり込んだ。広い和室の中央には、うぐいす色の着物を着て、まん丸な眼鏡を掛けた八海老師が座布団の上に正座をしていた。六十半ばを過ぎてはいるが、そこらの若者よりも元気な老人である。ただし頭部だけは寄る年波には勝てず、すっかり禿げ上がって頭頂部だけに残った僅かな白髪が、ぴんと天に向かっている。

「おお、来たか草助。すずりも一緒じゃな」

 草助は八海老師に向かい合って正座をし、軽く一礼をして訊ねた。

「今日はどうしたんですか、急に呼び出したりして」
「まずはこれを見てもらおうかのう」

 そう言って、八海老師は数枚の写真を畳の上に並べた。草助が一枚を手に取ってみると、それは火事の現場の写真であり、建物の一部が炎に包まれている瞬間であった。他の写真も場所や燃えているものこそ違うが、大体が同じような光景が写されていた。

「これは?」
「ここ最近に起きた、火事の現場で撮影された写真じゃよ」
「ええ、それは分かりますが」
「ふむ、お前は気付かんかの。感覚に意識を集中してみい」

 言われた通り、草助は五感に意識を集中させ、その感覚をさらに越えた第六感――すなわち霊感を開いてもう一度写真を眺めた。すると写真の表面からきな臭い気配が漂っており、草助の鼻を突く。

(これも、これも、これも……全部そうだ)

 全ての写真を確かめてみたが、間違いない。草助は顔を上げ、八海老師に訊ねた。

「妖気……ですか?」
「うむ」

 写真には――と言うよりも正確には、写真に写る炎であるが――得体の知れない妖気がこびり付いている。妖怪についてはそれほど詳しくない草助ですらも、この火事に妖怪が関わっているであろう事は容易に想像出来た。

「もしや、ここ最近連続している火事とは……」
「警察の知り合いから聞いたんじゃがのう、最近続いておる火事はどれも放火らしくてな。パトロールや監視を強化したが、犯人を捕まえるどころか、誰一人としてそれらしい人物を目撃していないというんじゃよ」
「なるほど。写真から漂う妖気といい、妖怪の仕業と考えた方が自然ですね」
「うむ。そこでお前には犯人を見つけ出してもらおうと思ってな」
「わかりました。放火魔を野放しにしてたら僕も安心して寝られませんから。しかしどこから探せばいいものやら」
「それじゃがの、火事が起こった場所を記した地図を用意してある。まずはこれを頼りに、手がかりを見つけるのじゃ」
「わかりました。すずり、行くぞ」

 草助は八海老師から地図を受け取って立ち上がると、まんじゅうを食べながら話を聞いていたすずりを連れて、梵能寺を後にした。




 八海老師にもらった地図によると、火事が起きた場所はあちこちバラバラで、特に規則性や法則性は無さそうである。草助は地図をシャツのポケットにしまい込むと、愛車のスーパーカブを走らせた。草助の乗る緑色のスーパーカブは、祖父が使っていたのを大事に整備して乗り続けているものである。排気量は原付よりも大きい90ccで、二人乗りが出来るよう荷台の上にタンデムシートを取り付けてある。草助が小さな子供の頃は、このタンデムシートに座って祖父の背中を眺めていた。今では草助がカブを運転し、後ろにすずりを乗せて走り回っているというわけである。
 草助は火事が起きた時の状況や、不審者がいなかったか、変わった出来事はなかったか、一通り周辺で聞き込みをしてみたが、特に変わった目撃情報は得られなかった。道ばたにある自動販売機の前にカブを停め、草助は缶コーヒーを手に考え込んでいた。

「結局大した話は聞けなかったじゃん。あーあ、眠い」

 カブのタンデムシートに座ったままのすずりが、退屈そうにあくびをする。しかし草助はじっと黙ったまま、缶コーヒーに口を付けて呟いた。

「確かに、このままウロウロしてても埒があかないな。一度家に戻って情報を整理してみようか」
「うんうん、そうしよーぜ。ネズミもどうしてるか心配だしさ」

 草助はコーヒーを飲み干して缶入れに捨てると、ヘルメットを被ってカブに跨り、アクセルを回した。

 草助の自宅は、朝比奈市中央にある朝比奈駅のすぐ近くにある。駅から出てすぐ大通りに面するのだが、そこから一本内側に入った、昔ながらの商店街に一筆堂はある。人々が行き交う道路をゆっくりとすり抜けて一筆堂まで戻ってきた草助は、店の様子を見て愕然とした。入り口の窓ガラスが割られ、店内が荒らされていたのである。店の中は商品棚が倒れたり、絵や骨董品が床に散乱している有様で、もはや売り物にならないくらいに壊れた物もいくつかあった。

「な、なんだこれは、誰がこんな事を!?」

 店の中に駆け込み、床に散らばった商品を拾い集めて元に戻しながら、草助はハッとして顔を上げる。

「お金……店のお金は無事なのか」

 冷や汗をかきながらレジを開けてみたが、僅かばかりの金は手つかずで無事だった。草助が胸を撫で下ろしていると、レジの台に大きなネズミの足跡が付いているのが目に止まる。よく見てみると、足跡は店の至る所に残っており、すずりが連れてきたネズミが犯人に違いないと草助は思った。

(ったく、動物なんか拾ってくるからこんな事になるんだ)

 腹を立てた草助が、文句のひとつも言ってやろうと思ったその時、割れた壺の破片の下に、白っぽい物がはみ出しているのを見つけた。指先でつまんで引っ張り出してみると、それは一枚の羽毛で、根元から真ん中過ぎまでは白く、そこから先端部分までが黒色になっている。店内に鳥の羽根が落ちている事も奇妙だったが、草助の眉間に皺を寄せたのは、それとは別の理由だった。

(間違いない、ほんの微かだが妖気を感じた……どういう事なんだ?)

 草助は羽根を見つめて考え込んだが、これだけで納得のいく答えなど出るはずもない。不思議に思って首を傾げていると、一足先に居間へ上がり込んでいたすずりが大きな声を出した。

「あーーーーっ!?」
「ど、どうしたんだ!」

 驚いた草助が駆けつけると、居間も店と同じように家具が倒されており、すずりは落ち着き無くあちこちの物陰を覗き込んだり、座布団をひっくり返したりしていた。

「あいつがいないんだよ!」
「あいつって、あのネズミか?」
「せっかく助けてやったのに恩知らずめー」
「相手は動物なんだから言っても仕方がないだろ。それよりも片付け手伝ってくれ」
「うがー、せめて味見くらいさせてからいなくなれっての」
「お前やっぱり食う気だったんじゃ……」
「どこ行ったー、出てこーい!」

 すずりは片付けの役に立ちそうもなく、嘆息しながら草助が家の片付けをしていると、消防車のけたたましいサイレンの音が耳に飛び込む。

「なんだ、近いぞ……まさか」

 音は一筆堂からそう遠くない場所から響いている。草助は一筆堂の外に飛び出し、音が鳴っている方向を探してあちこちを見回した。大通りの方へ出てみると、消防車が商店街の裏手にある住宅の方へ入って行くのが見えた。

「すずり火事だ、行くぞ!」

 ようやく追いついてきたすずりを連れ、草助は火事が起こっている場所に向かって駆け出した。無論、単に野次馬としてそこへ向かったわけではなく、一連の火事を引き起こした妖怪が現れたのではないかと思ってのことである。煙が立ち上っている場所にやってくると、一戸建ての家の生け垣や門が炎に包まれ、激しく燃え上がっていた。無論、辺りに火の気など無い場所であり、明らかに不自然な火の出方である。近付いて様子を確かめたかったが、野次馬と消防隊に阻まれてなかなか前に進めない。人だかりを迂回して別の場所から現場に近付くと、炎の熱気に混じって、憶えのある匂いが鼻を刺激する。

「写真と同じ妖気だ。それもかなり強いな……わかるか?」

 隣にいるすずりに視線を落とすと、彼女も鋭い眼差しで炎を見つめたまま頷いた。

「間違いなく妖怪の仕業だね。だけど炎の妖気が濃すぎて、相手の居場所がまるで分からない。用心しなよ」
「ああ、わかってる」

 注意深く炎を観察していたその時、草助は足元に一枚の羽毛が落ちているのを見つけて手に取った。色は白く、先端の三分の一くらいが黒くなっているもので、荒らされた一筆堂で見た物とよく似ていた。

(また鳥の羽根が……これは偶然なのか?)

 その時突然、焼け落ちた生け垣の根本で何かが動く音がした。すかさずそこに目を向けた二人は、物音の正体を見て唖然としてしまった。すずりが拾ってきたあのネズミが、炎の中から顔を出したのである。

「あっ、こんな所にいた」
「それどころじゃない、あいつ火に巻かれてるじゃないか!」

 ネズミの全身はオレンジ色の炎で包まれており、草助はもう助かるまいと目を背けた。ところがすずりは悲嘆に暮れるどころか、おいでおいでとあやすような声を出している。一体なんのつもりなのかと視線を戻してみると、身体に火が付いたままのネズミがすずりの元に近付き、平然とした様子で彼女の指先を嗅いでいた。

「ど、どうなってるんだ。そのネズミは一体?」
「気付いてないの? こいつは――」

 彼女が言いかけた瞬間、ネズミは何かの気配を察したように素早く顔を上げ、慌てて炎の中へと引っ込んでしまう。その後はすずりがいくら呼んでも姿を見せず、どこかへ消えてしまった。

「行くよ草助、あいつ追いかけなきゃ!」
「お、おい、どうしたんだ急に」

 すずりに引っ張られ、草助は火事から離れた人通りの少ない路地へとやって来た。元々人通りはあまり無さそうな細い道だが、人々の注意が火事に向いている事もあってか、昼間だというのに道路はしんと静まりかえっている。目の届く範囲にあのネズミの姿は無かったが、点々と続く動物の足跡が、二十メートルほど先の曲がり角へと続いていた。その後を追って角を曲がった二人の前に、突然一人の男が立ちはだかった。

「よう、火事ならあっちだぜ」

 男は三十代の半ばくらいの年齢で、灰色のスーツを着ているが、黄色いネクタイが品のない目立ち方をしている。七三分けの髪は明るく染められているが、黒い根本が伸びていてなんとなく小汚い。身長は草助と同じくらいでおよそ一七五センチ、タレ目の二重まぶたで下まつげが長く、顔立ちは骨張っていて、アゴの先に少しだけヒゲを生やしている。一言で形容すると、チャラチャラしてセコそうな印象の人物だった。


 男は目線が合うと、口の端を持ち上げながら、馴れ馴れしい口調で草助に話しかけた。

「ここらの連中は火事で大騒ぎで、今なら誰も見てやしねえ。つまり……ちょいと金目の物を頂くなら今って事だ。な、そうだろ?」

 男の粘っこい口調に不快感を感じながらも、それを顔に出さないよう愛想笑いを返す。

「まさか、そんな悪い事なんてしませんよ。ただちょっと、捜し物を」
「捜し物?」
「ええ、あーっと。そう、ペットが逃げてしまって」
「どんな犬だ? それとも猫か?」
「いえ、それがそのう、ネズミなんですよ。ちょっと珍しい種類で、ははは」

 その言葉を口にした途端、男がピクリと眉を動かしたのを草助は見逃さなかった。絵の修行のため、日頃から物事をよく観察せよという八海老師の教えである。

「ほう、ネズミねえ。アレがお前さんらのペットだっていうのか」
「知ってるんですか? どっちへ行きました?」

 男はいきなり草助の胸ぐらを掴んで詰め寄り、細い目をさらに細めて睨み付けた。

「しらばっくれるんじゃあないぜ。アレは普通の人間の手に負えるモンじゃない。見かけないツラだが、お前ら妖怪退治だろう」

 男の口から出た言葉に、草助は動揺を隠しきれなかった。他人から妖怪退治のことを質問されるなど、思ってもみなかったからだ。なんと答えるべきか迷い、視線を泳がせる草助だったが、男は胸元を掴む手の力を緩め、軽薄そうな笑みを浮かべた。

「そう警戒しなくてもいいぜ。俺もお前と同じ……つまり同業者ってわけだ」
「あ、あなたも妖怪退治を?」
「まあな。俺の名は定岡。妖怪退治の間じゃあ、ちっとは名が知れてる人なわけよ」

 妖怪退治屋について八海老師しか知らない草助には、定岡と名乗るこの男がどのくらい有名なのか推し量る事は出来ない。適当に「それは凄い」と頷いて話を合わせておいた。

「お前さんも噂を聞いてここへ来たんだろ。近頃放火して回ってる奴のな」
「ええ、まあ」
「んー、そうだな」

 男はジロジロと草助を眺めた後、馴れ馴れしく肩を組んでこう言った。

「せっかくだし情報交換しないか? 敵を知り、己を知ればなんとやら。情報は多いほどいいだろ」
「情報と言っても、まだ探してる途中でして……火事を起こしている妖怪がいるという事くらいしか」
「ああ、そうかそうか。つまり手がかりゼロ。なーんも知らねえと、そういうことか?」
「はあ、すみません」
「もう一度聞くが……本当に、本っ当に妖怪の名前もなんにも知らねえんだな? 嘘じゃねーんだな?」
「そ、そうです」

 定岡は草助から離れて腕を組み、考え込むポーズをした。時折草助をチラチラと見ていたが、考えがまとまったらしく顔を上げてこう言った。

「お前もしかして、妖怪退治始めてまだ短いんじゃねーのか?」
「ええ、始めたのは最近のことで」
「なるほどな……まあ気にすんな。俺はこの青空のように心が広い男だからな。まだ駆け出しの後輩に、色々とアドバイスしてやるよ。まずはあのネズミのことだが、奴がここ最近連続で起きている火事の犯人さ」
「ええっ、あいつが?」
「見た目に騙されるんじゃねえぞ。奴は火鼠(かそ)といって、火の中に住む妖怪なんだ。それで住みよい場所を探して、あちこち火を付けて回ってるって訳だ。放っておけば、家を焼かれて泣く人間がまだまだ増えるだろうぜ」
「それはまずい。早く止めさせないと」
「そこで提案なんだが」

 定岡は口をへの字に結んで、ぐぐっと顔を近づけて来た。安っぽい香水と体臭が入り交じった匂いが漂ってきて、草助は思わず顔をしかめて後ずさってしまう。

「目的は一緒な訳だし、ここはひとつ協力しねえか? あのネズミは逃げ足が速くてな、俺一人の手に余ると思ってたとこなんだよ」
「そりゃ願ってもないですが……どうするんです?」
「任せろ、すでにネズミの行動パターンは大体掴んである。詳しい事は後で話すが、俺がネズミをおびき寄せるから、お前らが捕まえる。どうだ簡単だろ?」
「は、はあ。もしも取り逃がしたら?」
「大丈夫だ、ちゃんと手は打つ。俺はこれから仕込みに取り掛かるから、お前らは今日の夜九時、百合ヶ浜の海岸に来い。遅刻するんじゃねえぞ!」

 定岡は早口でまくし立てると、草助の返事も聞かずに去ってしまった。草助はポカンと口を開けたまま、ずっと黙っているすずりに声を掛けた。

「なんだったんだろう、あの男は」
「あいつの目……気に入らない」
「どうした、顔が怖いぞ?」
「なんでもないよ。とりあえず、一旦引き返そう。もうここにネズミはいないみたいだし」

 機嫌が悪そうなすずりの様子に首を傾げつつ、草助は一筆堂へと引き返すことにした。 定岡の言葉が本当かどうか分からなかったが、少なくとも妖怪の存在を知り、あのネズミの事について自分たちより詳しい事は確かである。珍しく口数の少ないすずりは、いつまでもムッとしたままだった。


〜後編に続く〜




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