魂筆使い草助
第二話 後編
〜ひだる神(3)〜



「――まだ完全に馴染んでいないから、こうして二人分の意識が残っているけど、じきにひとつになるわ。私は私の好きなようにする……あなたなんかに邪魔させない」

 いつの間にか、沙織の声は女性のそれに戻っていた。しかし穏やかな口調とは裏腹に、肌に刺さるような殺気と妖気に、草助は思わず気圧された。

「な、なにをするつもりなんだ?」

 草助はふと、黒い腕に捕らえられていた餓鬼たちの様子がおかしい事に気が付いた。口から汚物を吐き出し、苦悶に満ちた声で叫んでいる。しばらくすると、餓鬼の身体の境目が消えているように見えた。一瞬幻を見たのかと目を疑ったが、そうではなかった。餓鬼の身体はそれぞれが溶けた飴のように変形し、互いにくっついて大きなひとつの塊になっていく。寄り集まった餓鬼は大きく膨れあがって球状になり、押さえ込んでいた黒い腕を食い破ってしまった。

「人間から集めた精気を使えば、こんな事も出来るのよ。こいつらに踏みつぶされて思い知るがいいわ」

 餓鬼の顔や手足が突き出した奇怪な塊は、それぞれの顔が呻き声を発したり、歯をガチガチと鳴らしていたが、無数の目が草助の姿を捉えると、耳障りな奇声を発しながら草助に向かって転がり始めた。

「げっ!?」

 草助は慌てて横に飛び退いたが、餓鬼の塊は壁に激突した後、突き出た手足をじたばたと動かし、再び草助めがけて執拗に追いかけてくるのである。草助はたまらず、穴の入り口へと続く狭い通路へと駆け込んだ。

「こ、こりゃまずい。どうするすずり」

 草助が筆に変化したすずりに話しかけると、呆れたような声が返ってくる。

(さっきからそればっかじゃん!)

「僕は素人だと言ってるじゃないか。あんな玉、運動会でも転がしたことが無い」
(ったくもう。こんな狭い場所じゃ逃げ切れないし、一旦外に出るよ)
「三十六計逃げるに如かず、か。それなら得意だぞ」
(だからそんな事で威張るなってば……)

 草助は穴の入り口に向かって走り出したが、大きな音と振動が背中を強く押す。走りながら振り返ると、餓鬼の球体が狭い壁や天井を食い破り、穴を広げながら迫っていた。

「あわわわわっ!?」

 草助は全力で走る。背後からは土や岩壁を砕きながら餓鬼の塊が近付いてくる。何度か転びそうになりながら、ゴツゴツした狭い通路を草助は全力で駆け抜けた。行き止まりまで辿り着くと、地上へ繋がるハシゴを急いで登る。間一髪、草助は餓鬼の塊に押し潰されるのを免れることが出来たが、安心したのも束の間、地面を突き破って大きな穴が空き、地の底から餓鬼の塊が這い出してきたのである。表面に無数の顔や手足が突き出した怪物が、夕日を浴びて血の色のような朱に染まっていた。

「なんか、昔のB級映画でこんな怪物を見た気もするが……こいつが人の居る所に出て行ったら大変な事になってしまうぞ」
(それが嫌ならここで勝負付けるしかないよ。気合い入れな!)
「わかってるさ。いざという時は頼んだからな」

 草助は怪我をしたりしませんようにと祈りながら、餓鬼の塊に向かって筆を構えた。手足を動かして転がってくる餓鬼の塊に向かって、草助は筆を一文字に薙ぎ払った。筆先から放たれる不思議な霊力が、妖怪の身体を溶かして墨に変え、餓鬼の塊を押し戻す。確かな手応えを感じながらも、草助の表情は曇っていた。

「これは……!」

 筆の触れた部分は墨となって溶け出していたが、餓鬼の塊はその部分を切り離してしまい、本体にはさしたる打撃を与えてはいない様子だった。

「こいつ、たくさんの餓鬼が集まって出来た身体だから、ちょっとやそっとじゃ封じきれないのか」
(のんきに納得してる場合じゃないだろ草助! ほら、そこで跳ねっ!)

 草助は反射的に、習字と同じ要領で筆先を跳ね上げる。無論これも習字の真似事ではなく、文字通りに相手の攻撃を跳ね返す防御の技である。筆の力は餓鬼の塊を弾き返すが、僅かな距離しか押し戻せなかった。餓鬼の塊の異様な力に違和感を憶えた草助は、あることを思い出す。

「そうか、単に餓鬼が集まっただけじゃない。吸い取られた人たちの精気が奴の力になっているんだ。このままじゃ力負けしてしまうぞ」

 と、嫌な予感が脳裏を駆け巡る。草助は一旦避けて体勢を整えようと飛び退いたが、そこで信じられない光景が飛び込んできた。

「な、なにこれ?」

 道路を挟んだ向こう側に、明里がいたのである。彼女は目の前を転がっていく餓鬼の塊を見て、呆然と立ち尽くしていた。

「どうしてこんな所に!」
「ふ、筆塚くん。これ、テレビの撮影?」
「なんてことだ……」

 目を丸くしたまま餓鬼の塊を指す明里に、草助は左手で顔を覆いながら深い嘆息を漏らす。なぜ彼女がここへ来たのかは分からないが、今はその事実が非常にまずい事だけは間違いなかった。餓鬼の塊は崖の壁にぶつかって止まった後、あろうことか明里の方へ向かって動き出した。

「えっ……きゃあっ!?」
「危ない!」

 草助の身体は矢のように動いていた。明里の前に飛び出し、真一文字に筆を薙ぎ払う。餓鬼の塊の一部は溶けて崩れ落ちたが、それだけでは重圧を押し返すことは出来ず、筆の柄を突き出して餓鬼の塊を受け止めた。筆になっているすずりは草助の意図を察し、身体を長い棒のように伸ばし、草助の手が直接触れるのを防いでいた。





「くっ……お、重いっ」

 しかし圧倒的な重量と圧力の前に、草助は長く耐えられない事を即座に悟る。背後では、事態を飲み込めずに立ちすくむ明里の姿があった。

「ど、どうなってるの、ねえ?」
「逃げるんだ……早く!」
「に、逃げる、って?」
「早く! 少しでもここから遠くへ行くんだ!」

 背後の明里に状況を説明している余裕も時間も無い。一瞬でも気を抜く事が許されない重圧と、無関係の明里までもが傷ついてしまう事への恐怖が、草助を極限へと追い詰めていく。

「あ、あれは?」

 餓鬼の塊の一部は筆の一撃によって失われ、えぐれたように穴が空いている。その奥に、赤々と輝く光が集まっている部分があった。そこからは妖気ではなく、生きた人間が放つ生命の波動のようなものが強く感じられる。おそらくはそれが、人間たちから吸い取って集めた精気に違いないと草助は思った。

「すずり、お前の力であの精気を解放出来るか?」
(出来るよ。だけどアタシが見た所だと、草助の全霊力をアタシに注ぎ込まなきゃ精気を縛り付けてる結界を破れないよ。しくじったら一巻の終わり、上手く行ってもしばらく足腰立たなくなるけど、覚悟は出来てんの?)
「博打は嫌いだけど仕方がない。しばらくはのんびり昼寝させてもらうよ」

 草助はすずりに元の大きさに戻るよう告げ、すずりが手に収まる筆に戻った瞬間、彼は右腕を真っ直ぐ伸ばし、えぐれた穴の中に頭から上半身を突っ込ませた。さすがにここまでするとは予想外だったらしく、度肝を抜かれたすずりの声が草助の頭に響いてくる。

(バ、バカ! なんて無茶なコト――!)
「頼むぞすずり、霊力でもなんでも好きなだけ使ってくれていい……船橋さんだけは巻き込みたくないんだ」
(草助、オマエ……)

 筆を握りしめる掌から、草助の確固たる決意を感じ取ったすずりは、その願いに応えるべく彼の霊力を吸い上げ始める。

「ぐっ……ち、力が抜ける……」
(踏ん張りな草助、あと少しだよ!)

 あとわずかで筆先が中心部に触れるという所で、草助の身体は肉のうねりによって押し戻されそうになった。餓鬼の塊が体内に潜り込んだ異物を排除するべく抵抗を始めたのである。えぐれた穴の内部にも無数の顔や、鋭い爪の伸びた手足が現れ、草助の腕に噛み付いたり、顔を引っ掻いたりして、彼を外へと押し戻そうとする。だが草助は牙が食い込もうが皮膚が裂けようが怯まず、全ての力を振り絞って地面を蹴った。
 身体の半分以上が餓鬼の塊の内部に入り込み、外からは草助が丸呑みされているような格好である。そのままでいればあっという間に身体を囓られ、骨も残さず食われてしまっていただろう。だが草助の身に着けている着物と袴には、寺で焚かれた香気が染みついており、餓鬼の牙や爪を僅かに怯ませていた。そのため致命的な一撃を受けるよりも一瞬早く、草助の握りしめる筆先が塊の中心部に触れていた。真っ赤な炎のようにゆらめく精気の一点に、黒い点が穿たれた刹那――精気を縛り付けていた妖気はその力を失い、集められた大量の精気が一気に解放された。結果、餓鬼の塊は内部から爆裂し、無数の肉片となって飛散したのである。草助も吹き飛ばされたが、アスファルトに叩き付けられる直前ですずりが身体を長く変形させてしなやかに受け止め、彼を守った。

「ギギ……グゲゲゲッ……」

 辺りに散らばった餓鬼は、ほとんどが原形を留めていない肉片となり、かろうじて形を保っている者ですら、下半身が吹き飛んでいたり、半身がそげ落ちていたりしてその場から動けず、再起不能の打撃を受けていた。やがて動けなくなった餓鬼や散らばった肉片は、原形を留めていることが出来なくなり、夕日の中で黒い塵のようになって消えた。

「や、やったのか」
(ったく、一歩間違えたら死んでたかも知れないんだよ。なんであんな無茶したのさ)
「なんでかな……とにかく夢中で、自分でも驚いてるんだ」

 仰向けのまま夕暮れの空を見上げ、草助はそう呟く。身体はガス欠のオートバイのように、立ち上がる力さえ残っていなかった。やっとの事で顔だけを持ち上げてみると、明里が道路の真ん中でぺたんと座り込んでいた。呆然としてはいるが、見た限り怪我などはしていない。被害と言えば、彼女のバッグが道路に落ちて、中身の財布やハンカチ、見覚えのある和紙の包みなどが外に出てしまっている程度である。

「よかった、彼女は無事か」

 と、草助が安堵したのも束の間、何者かが明里を背後から捕らえ、無理矢理立たせたのである。

「よくもやってくれたわね……この罪は重いわよ」

 殺気に満ちた声を発したのは沙織であった。彼女は明里を締め上げ、睨み殺さんばかりの視線で草助を見下ろしていた。

「見た所、この女は知り合いのようね。スタイルもいいし、綺麗な顔をして……悩みなんか知らずに育ったって感じ。私が一番嫌いなタイプだわ」
「よ、よせ、彼女に手を出すんじゃない」

 草助は立ち上がろうとするが、手足が言う事を聞かない。歯を食いしばって上体だけでも起こそうとしたが、思わず力が抜け、握っていた筆が手のひらから転がり落ちていく。筆は道路を転がって、明里の靴に当たって止まった。

「そうはいかない。私の計画を台無しにしてくれた以上、報いを受けてもらうわよ」

 沙織の目が妖しげに輝いた途端、明里は突然力が抜けたように座り込んだあと、意識を失って倒れてしまう。彼女の顔色はみるみる青ざめていき、一呼吸ごとに息づかいが弱々しくなっていく。

「餓鬼を使わなくても、私の中にいるひだる神は、直接触れた相手の精気を吸い取る事が出来るのよ。いずれこの女は衰弱して死ぬ。あなたも今ここで、息の根を止めてあげるわ」

 沙織が仰向けの草助に近付き、喉元に手を伸ばした刹那――草助は叫ぶ。

「今だすずり!」

 明里の足元まで転がっていた筆は、一瞬にして赤い着物の少女の姿に戻ると、明里のバッグから飛び出していた和紙の包みを拾って沙織に飛びついた。

「なっ、どこから現れ……!」
「油断したね。これでも食ってなっ!」

 すずりは驚いて開かれた沙織の口に、和紙の包みを押し込んで中身を呑ませた。明里が持っていた包みの中身は、八海老師が用意した施餓鬼米だったのである。

「うぐ……あああああーーーーっ!?」

 沙織は喉を押さえて絶叫し、道路に倒れ込んで火が付いたようにのたうち回った。やがて動きが止まると、沙織の口から小さな肉片が吐き出された。肉片には目玉のようなものが付いており、せわしなく動いて周囲を見回した後、周囲に煙をまき散らして痩せこけた人間の姿に変身した。身体や手足は灰色で骨と皮ばかりに痩せこけており、髪や歯はまばらにしか生えておらず、窪んだ眼窩の眼だけが血のように赤い。ひだる神の本当の姿は、飢えた亡者そのものであった。

「うぐぐ……な、なぜそんなものを持って……あ、あと少しでこの身体を俺のものに出来たのに」
「ふん、新しく生まれ変わるなんてムシのいい話だと思ってたけど、やっぱり嘘だったんだ。他人を騙して都合良く利用する……セコい妖怪らしいやり方だね」

 そう言って、すずりはひだる神を睨み付ける。ひだる神は衰弱しきった様子で、すずりを恨めしそうに指しながら言った。

「おのれ、貴様さえ邪魔しなければ……」
「今度は暗い穴に閉じ込めたりせず、ちゃんと供養して成仏させてやるよ。だから大人しくしてな」

 すずりが言った後ろで、草助が両脚を震わせながらも立ち上がっていた。すずりは再び赤漆の筆に変化すると、草助の右手に収まった。草助は僅かに残った気力をかき集め、ひだる神の胴を筆で薙ぎ払う。ひだる神の痩せこけた身体は、少しずつ黒い墨となって溶け出し始めた。

「ひっ、ひひひ……とうとう俺もここまでか」

 ひだる神は真っ黒に変わっていく自分の腹を見ながら、自嘲気味に呟く。それから顔を上げ、真っ赤な眼をギョロリと動かして、視界に草助を捉える。

「な、なあお前さん、これからもそうやって妖怪を封じていくつもりかい?」

 まばらな歯が覗く口を歪ませて、ひだる神はそう訊ねた。

「それが魂筆使いの使命……らしい。あまり気は進まないが」
「そうかい、じゃあ忠告しといてやるよ。なぜ妖怪が生まれるのか、その理由をよく考えておくことだ。それが分からねえうちは、この先何度でも俺みたいなのが出てくるぜ……じゃ、じゃあな、先に地獄で待ってるぜ……ひ、ひっひっひ」

 最後の言葉を言い残し、ひだる神は黒い墨溜まりとなって消えてしまった。

(草助、仕上げだよ)
「ああ、分かってる」

 草助が筆を一振りすると、足元の墨溜まりが生き物のように動き出し、全てが筆先に吸い込まれていく。着物の懐から巻物を取り出して広げ、そこにひだる神の姿を描き写すと、白黒の絵がひとりでに色付き、本物のような水墨画が出来上がった。妖怪は、完全に絵の中へと封じ込まれたのである。

(妖怪が生まれる理由か……考えたことも……無かったな)

 巻物を閉じて結び、そう思った途端に緊張の糸が解け、草助はその場に腰を落として座り込む。しばらくの間は、もう一歩も動く事が出来ない事を理解していた草助は、すずりに頼んで携帯電話を使い、助けを呼んだ直後に気を失った。




 草助の意識が戻った時、彼は梵能寺の敷地にある八海老師の自宅に寝かされていた。ぼんやりした視界の中で、心配そうに自分を見つめる明里の顔が見える。

「ん……あれ?」

 起き上がってみると、明里の他にも、普段着でもあるうぐいす色の着物を着た八海老師が自分の方をじっと見ていて、安心した様子で頷いていた。すずりは少し離れた場所で両脚を投げ出して座り、口にまんじゅうをくわえている。部屋には蛍光灯の明かりが点いており、窓の外に眼をやると真っ暗であった。草助が力尽きてから、数時間ほど経っている様子であった。

「ああ、そうか。すみません老師、助かりました」

 草助が訊ねると、八海老師はまん丸の眼鏡を光らせて「うむ」と頷く。

「ねえ筆塚くん、目覚めたばかりで悪いんだけど、ちょっと聞きたい事があるの」

 明里は座敷で正座をしたまま、草助に顔を近づけて訊ねた。

「私あの時、確かに……怪物というか、変なものを見たと思うんだけど……すずりちゃんやおじいさんに聞いても、夢を見たんだろうって言うのよ。でも夢にしては生々しくて……筆塚くんもあの場所にいたわよね?」

 明里はじっと草助を見つめて返事を待っていたが、正直に答えるなど出来るはずがない。草助は首を振り、明里の肩に手を置いて、

「怪物なんていなかったよ。二人の言う通り、船橋さんは夢を見たんだ。あの場所には古くて深い穴があって、時々変な幻覚を見せるガスが出るんだ。僕らはそれにやられてしまったというわけさ」

 と、適当な言い訳をして誤魔化した。

「それよりも、こっちが聞きたいよ。なぜあの場所に来たんだい?」
「だって……私も犯人が気になったから追いかけたのよ。友美があんな事になって、文句のひとつも言ってやりたいと思ってたら、そこのおじいさんが病院にやってきたの。筆塚くんの知り合いだっていうから、事情を話したら、お守り代わりに魔除けのお米を持って行きなさいって」
(やれやれ、どうして引き留めてくれないかな老師も)

 ため息を付きながらも、明里が無事であったことに草助は胸を撫で下ろしていた。

「あの変な飴玉を売っていた奴とは、ちゃんと話を付けておいたよ。もう二度と被害者が出ることはないはずだ」
「そ、そうなんだ……良かった」

 安心した様子の明里から視線を移し、草助は八海老師に顔を向ける。

「ところで、僕ら以外にもう一人あの場所にいたはずですが」
「いや、ワシが着いた時にはお前たちしかおらんかったぞ。アレの入ったビンなら拾っておいたがの」
「そうですか……」

 沙織の行方が気になる所ではあったが、取り憑いたひだる神を封じた今となっては、餓鬼を操ったり人間の精気を吸い取るような真似はもう出来ないであろう。妖怪に惑わされた彼女が正気を取り戻すことを願って、草助は窓の外に浮かぶ月に眼をやった。
 明里を自宅へ送り返した後、草助は今回の事件について詳しく八海老師に説明した。八海老師は一通りの話を聞き終えると、消耗した草助のためにおかゆを作ってくれた。湯気の立つおかゆに眼を落としながら、草助は言った。

「例の赤い玉をばら撒いていたのは、ひだる神という妖怪でした。奴は一体どんな妖怪なんです?」
「ほう、ひだる神が出たのか。その名前を聞くのも久し振りじゃのう」

 八海老師は頭頂部に残った白髪を撫でながら、

「ひだる神は行き倒れや飢えで死んだ人間の魂が変化した妖怪でな、性質は餓鬼のそれとよく似ておる。疲れた事をだるいと言うのは、このひだる神が語源とも言われておるな。こいつに取り憑かれると強い空腹に襲われて、そこから一歩も動けなくなるのじゃよ。ひどい場合はそのまま死んでしまったり、中には人を食うタチの悪い奴もおったようじゃ」
「あ、危ない妖怪だったんですね」
「うむ。しかし一番恐ろしいのは、奴に取り憑かれて死んだ人間は、同じくひだる神となってしまう事じゃ。今回の出来事を振り返ってみると、奴は同族の餓鬼を操り、自らの分身を爆発的に増やすつもりだったようじゃな」
「げっ……」

 もしも退治に失敗していたらと思った途端、草助の顔にどっと嫌な汗が噴き出してきた。

「しかし、草助とすずりのコンビは上手く行っておるようじゃのう。この調子で次も頼むぞ」
「そういえば老師、ひだる神が気になることを言っていたのですが」
「なんじゃ?」
「なぜ妖怪が生まれるのか、その理由を考えろと」
「ふむ……」

 八海老師は腕を組み、しばし黙り込んだ後に言った。

「それはな、魂筆使いにとって最も大切な極意に通じる事じゃ。ワシの口から教えられる事ではないよ」
「極意、ですか」
「まずは知恵を絞って考えてみい。お前なりの答えが見つかったら、また話を聞いてやるぞ」
「わかりました。その時はよろしくお願いします」
「うむ」

 草助は頭を下げた後、熱いおかゆを匙(さじ)ですくって口を付けた。程良い塩加減で、一口食べる度に、身体の隅々に力がみなぎるようであった。食べられる事は幸せである。それならばその逆は、耐え難い苦しみであろう。ひだる神はその苦しみに耐えかねた、哀れな魂の成れの果てだったのだ。米の一粒を大事に味わいながらおかゆを平らげ、草助は空の茶碗にごちそうさまと合掌した。空の食器を盆に載せて横に置くと、八海老師は真顔で草助に訊ねた。

「ところで草助よ。ずいぶんええ乳しとったのうあの嬢ちゃん」
「なにを言ってるんですかあんたは」

 言うと同時に、草助の投げた匙が八海老師の額にびしっと命中する。

「師匠になんて事をするんじゃお前は」
「師匠なら師匠らしい言葉を口にして欲しいものですが」
「まあなんだ、細かい事は気にするでない。しかしあの嬢ちゃんは見事じゃったのう。久し振りに我が青春が蘇りそうになったぞい」
「……彼女に失礼な真似したら怒りますよ」
「なんじゃ、お前あの嬢ちゃん狙いなのか」
「誰がそんな事を言ったっ!」
「じゃあ今度おっぱい揉んでもええよな?」
「いいわけないでしょうが! 残った毛を全部むしりますよ!」
「ひいいっ!? それだけは許してぇぇっ!」

 草助の剣幕に、八海老師は頭頂部を押さえて逃げ出していく。

「ったく、エロじじいめ」

 草助が眉をつり上げているのを横目に、すずりは自分の胸にまんじゅうを二個押しつけて、難しい顔をする。

「うーん、やっぱり乳をでかくするためにも、もっともっと食わなくちゃダメかなー」

 さりげないすずりの一言に、草助はそら寒いものを感じるのであった。




「えーと、ラーメンと餃子のセット、酢豚にハンバーグにミートソースのスパゲッティ、それからチャーハン大盛りね!」

 数日後、草助の通う美大の食堂では、すずりが嵐のような勢いで料理の山を食い尽くしていた。先日相手をした餓鬼が可愛く思える程の食欲に、草助の財布は大打撃を受けていた。

「おかわり!」

 力いっぱい突き出される空の食器を眺めながら、草助はこめかみを押さえてテーブルに突っ伏していた。

「ま、まだ食うのかお前は」
「お腹いっぱい食わせてくれるって言ったじゃん。男ならケチケチすんなー。このくらいで命が助かったんだし、そう思えば安い安い。あー、食べられるってシアワセだなーっ」
「あああ、今月の生活費が……」

 悲嘆に暮れて涙ぐむ草助の姿を、明里が遠くのテーブルから見つめていた。今の情けない姿と、不気味な怪物に立ち向かっていた姿とは、どうやっても一致しない。友達に相談しようにも、自分ですら信じられないような話を、他人がまともに聞いてくれるとは到底思えず、明里は頬杖を突いて諦念混じりのため息を付く。

(やっぱり夢だったのかな。でも、偽ダイエット薬の事件を解決したのは事実だし……あの二人、なんていうか)

 明里にとって今回の出来事はとにかく奇妙ではあったが、賑やかな彼らの姿を見ていると、口元が自然と綻んでくる。明里は昼食が載ったトレイを両手で持ち、二人のいる窓際のテーブルへと向かう。彼らはどこか不思議で掴み所のない部分があるが、だからこそ自分にとって好ましく思えるのだろうと、明里は微笑んでいた。

〜魂筆使い草助 第二話 〜ひだる神〜 終わり〜





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