魂筆使い草助
第二話 中編
〜ひだる神(2)〜



 梵能寺のお堂では、袈裟を纏った八海老師が祭壇を作り、その中央で火を焚いて儀式を執り行っていた。八海老師の目の前には、草助が渡した赤い玉が漆塗りの膳に乗せられている。草助は八海老師の傍らで正座をし、声を掛けた。

「八海老師。その玉についてなにか分かりましたか?」
「おお、草助か。ちょうど今、護摩をやっておる所じゃ」
「ゴマ?」
「こうやって火を焚き、願を掛けたり邪気を払う密教の儀式じゃよ。身を清めたり色々と準備しとったんで、今日まで時間が掛かってしもうたわい。さて、この赤い玉が妖怪に関わる物であれば、なんらかの変化が現れるじゃろう。まあちょっと見ていけ」

 炎のゆらめきと共に、八海老師の経が響き渡る。しばらくは何事も起こらなかったが、やがて膳の上に置かれた赤い玉が、ひとりでに揺れ始めた。揺れは次第に大きくなり、煎った豆のように膳の上を跳ねたりしていたが、やがて表面にひび割れが入って剥がれ落ち、中から手のひらに乗るくらいの大きさの、人と同じ形をした生物が姿を現した。皮膚は灰色で毛は無く、骨と皮ばかりの身体に短い手足を持ち、腹だけが異様に膨れ突き出している。顔も目玉の部分だけが大きく飛び出しており、口には不揃いの短い牙が生えているという、実に醜怪な姿をしていた。

「こ、これは!?」
「やはり思った通りか。こいつは餓鬼の一種のようじゃな」

 仏教では生前強欲であったり、盗みや詐欺を働いた者は、餓鬼道という地獄の一種に堕ちるとされている。そして餓鬼道に堕ちて生まれ変わった亡者を餓鬼と呼び、餓鬼は常に飢えと渇きに苦しみ、食料を見つけても、手にした途端に炎となって消えてしまうか、口に入れてもすぐ吐き出してしまうため、決して満たされることはないという。

「つまり栄養失調で倒れた女性たちは、この妖怪に取り憑かれたという事ですか」
「うむ。餓鬼憑きといってな、ワシが若い頃には時々見かけもしたが、一度にこれだけ多くの人間が取り憑かれるというのは初めてじゃ」

 膳の上の餓鬼は、手足をジタバタさせて苦しそうにのたうち回り、ゲッゲッと爬虫類のような不気味な声を発していた。

「それで、取り憑かれた人を助けるにはどうすればいいのでしょう」
「餓鬼には施餓鬼(せがき)供養をした食べ物を与えればよいのじゃよ」

 八海老師は用意してあった和紙の包みを手に取ると、端を開いて中身の白米を餓鬼の口に流し込んだ。すると餓鬼は満足げな鳴き声を上げた後、すうっと透明になって姿が見えなくなってしまった。

「消えた……」
「苦しみから解放され成仏したのじゃ。ほれ、これを取り憑かれた知り合いに食べさせてやるがよい」
「ありがとうございます老師。では早速」

 紙に包まれた施餓鬼米を受け取り、立ち上がろうとする草助に、八海老師が声を掛けた。

「ああ、ちょっと待て草助。被害者を一人ずつ助けておってはキリがなかろう。どうやったかは知らんが、犯人は餓鬼を飴玉に仕立ててばら撒いておる。元を絶たねば焼け石に水じゃぞ」
「はい。病院に寄った後、こんな物を売りつけた奴を探しに行こうと思います」
「いつどんな妖怪が相手になるか分からんから、ここで服を着替えていけ。ワシはひとまず、入院しておる人々の施餓鬼米を用意しておこう」

 草助は八海老師に言われた通り、祖父の形見でもある袴に着替えた。外は冬の木枯らしが吹いて冷えるため、着物の中には立襟の胴着を着込んでいる。詰襟の学生服に似た形だが、学生服よりも生地が薄くて柔らかく、動きの妨げにならない。本来は剣術の修行で身に付ける服で、文字通り胴着というわけである。これもまた、祖父が愛用していた形見のひとつであった。最後にブーツの紐を結んで着替えを終えると、草助はすずりを連れて病院へと向かった。




 病室にはまだ明里がいて、暗く沈んだ表情でうつむいていた。ベッドに寝かされた彼女の友人たちは拘束具を手足に取り付けられ、獣のような唸り声を上げながらもがいている。草助が病室に再び現れると、彼の服装を見て物珍しそうな声を上げた。

「ど、どうしたのその格好。それに今までどこに……」

 草助は明里の言葉を遮るように手を伸ばし、白米を包んだ三角形の紙を明里に手渡す。

「これを彼女に食べさせるんだ。そうすればきっと元に戻るはずさ」
「え、どういう事なの?」
「話は後だ。とにかく彼女を楽にしてやらなきゃ」

 明里は不思議に思いながらも、友美の口に施餓鬼米を流し込む。すると苦悶の表情は次第に和らいでいき、青ざめて精気の無かった顔に赤みが差してきた。やつれてしまってはいるが、友美は憑き物が落ちて苦しみから解放された様子であった。

「よし、これで大丈夫だ」
「ほ、本当に? 友美は元に戻るの?」
「ああ、口から立ち上っていた妖気が消えたからね……っと、なんでもない。それよりもほら、ずいぶん楽になった感じだ」

 明里が友美に呼びかけると、友美はゆっくりと目を開けて明里を見た。

「あれ……私どうしたんだっけ。なんか、ものすごくお腹が減って、それから……」
「友美、あなた急に倒れて病院に運び込まれたのよ」

 友美の手を握り、明里は目に涙を浮かべて答える。その横から、草助が友美に近づき声を掛けた。

「すまないが、少しだけ聞かせて欲しい。この前、大学の食堂で見せてくれた赤い玉だけど、あれをどこで買ったか教えてくれないか?」
「あのダイエット薬のこと?」
「君が倒れたのはあの薬が原因なんだ。あれを作っている奴を突き止めなければ」
「あの薬を買ったのは――」

 友美はダイエットに成功した知り合いに赤い玉を手に入れてもらっただけで、それを作っているのが誰なのかまでは知らなかった。ただ、その知り合いの女性は町の外れにある古い祠の前で、何度か姿が目撃されていると言う事だった

「よし、その祠に行ってみるとしよう」

 すずりに声を掛けて立ち去ろうとする草助を、明里が呼び止める。

「筆塚くん、あなたは一体……」
「なに、少しばかり物好きなだけさ。ああ、くれぐれも後を付いてきたりしてはいけないよ。それじゃ」

 そうとだけ言うと、彼はくるりと背を向けて病室から出て行くのだった。




 朝比奈市の外れにある峠道に、古びた祠はあった。遙か昔、峠にある崖の斜面に横穴が空いていた頃は、穴の近くで人が行方不明になったり行き倒れになったりと、様々な怪異が起きていた。人々は穴を塞ぎ、穴の入り口があった場所に祠(ほこら)を建てて奉ったのである。しかし長い年月を経てその伝説は忘れ去られ、そこを通り過ぎる人々のほとんどは祠の事など気にも留めていない様子であった。この場所を訪れた草助でさえ、今回の事がなければ素通りしてしまっていただろう。草助は祠の前で愛車のスーパーカブを止め、古びた祠を覗き込んで顔をしかめた。

「こりゃひどい」

 祠の板は腐ったりカビが生えたりしていて、風が吹いただけでも崩れてしまいそうな痛み具合であった。祠に背を向けて周辺を見渡すと、百メートルほど離れた場所にバス停があるだけで、民家や人通りがほとんど無い寂しい場所である。時間は午後四時を過ぎているが、周囲に草助とすずり以外の人影はなく、友美が言っていた女性の姿は見あたらない。

「妙な気配はするんだけど、はっきりと分かんないね。用心しなよ草助」

 鼻をヒクヒクさせながら、すずりが言う。

「しばらく見張って様子を見るしかないな」

 と、草助が祠の方へ振り返ったその時、目の前に一人の若い女が立っていた。

「うわっ!?」

 彼女は細身の体型で、セーターにロングスカートを穿き、地面にまで届きそうな長い黒髪と、ハッとする美貌が目を引く美しい女であった。女は口の端を持ち上げて微笑み、草助に言った。

「なにかお探しですか?」
(い、いつの間に現れたんだ? 確かに誰もいなかったはずなのに)
「あの、どうかしましたか?」
「い、いや、大丈夫。僕は筆塚草助と言いまして、決して怪しい者では」

 草助は反射的に後ずさりをしながら返事をする。女性は柔和な笑顔を絶やさないが、草助にはそれがかえって異様に映っていた。

「じ、実は人捜しを。この辺でダイエット薬を売ってくれる人がいると聞いて」
「近頃噂になっていますものね。でもあなた、ダイエットが必要には見えませんけど」
「はは、友人に頼まれてしまって。なんとかその人に会いたいんですけども、心当たりはありませんかね」
「そう。いくつ欲しいの?」
「えっ、それじゃ君が……」
「私、木暮沙織って言うの。ちょっと待ってて」

 沙織と名乗った女は笑顔を崩さず、祠の後ろに回り込んでしゃがみ込むと、大きなビンを両手で抱えて戻ってきた。透明なビンの中には、赤い玉が大量に詰められている。

「ひとつ十万でいいわ」
「た、高い! いくらなんでもふっかけ過ぎじゃないのか」
「あら、これひとつで人生が変わるのよ。そう思えば安いものじゃない。もっとも、私の条件を呑んでくれたら、格安で譲ってあげても良いのだけれど」
「条件とは?」
「簡単よ、この薬を宣伝すればいいの。ひとつおまけしてあげるから、自分以外の人間にもこれを飲ませて。それを約束してくれたら、ひとつ二万円で売ってあげる」

 穏やかに笑っている沙織だったが、彼女からぞっとする気配を草助は感じていた。

(なるほど、それで被害者が増えていったのか)

 草助は眉間に皺を寄せ、じっと沙織を睨むが、沙織は表情を崩さない。

「その前に質問がある。君はこれをどうやって手に入れた?」
「そんな事、言えるはずがないわ。企業秘密よ」
「この赤い玉を飲んだ人がどうなったか知っているのか」
「さあ……望み通り痩せることが出来て、満足しているのではなくて?」

 そう言って笑う沙織を見て、草助は彼女が全てを知った上で赤い玉をばら撒いているのだと確信する。

「それは薬なんかじゃない。餓鬼という妖怪を丸めて赤い玉に仕立て上げたものだ。これを飲んだ人たちは体内の妖怪に食べ物を全て奪われ、さらに精気まで吸い取られて病院に運び込まれたんだ」

 その瞬間、沙織の目の色が明らかに変わっていったのを草助は見逃さなかった。表情こそ崩していないが、笑顔で細めた眼は笑っていない。得体の知れない影が広がり、瞳を濁らせていく。

「どこでそんな事を嗅ぎつけたの? いけない人」
「自分がなにをしているのか分かってるのか。死人が出るかも知れないんだぞ」
「これは慈善事業なのよ。咎められるような筋合いは無いわ」
「なんだって?」
「苦労せず楽に痩せたい……そんな欲望を、私は叶えてあげているだけ。けれど、この世に無償の善意なんてありはしないでしょ。願いを叶えるならそれなりの対価を支払うのは当然のこと。違うかしら?」

 口調は丁寧だが、彼女の声には形容しがたい危うさが滲み出ている。

「どうやら話は通じないようだな。手荒なことは嫌いだが、目を覚まさせてやるしかないらしい」
「まあ恐い。でも……やれるものならやってごらんなさい!」

 沙織は突然、ビンの蓋を開けて草助に投げつけた。ビンの直撃は腕で防いだが、飛び散った無数の赤い玉は草助の上に降り注ぎ、彼の身体に触れた途端、小さな餓鬼の姿に変身してしがみついた。

「ゲゲゲッ、ゲゲゲゲゲゲゲッ!」
「うわっ!?」

 草助は思わず転倒し、身体中に群がる餓鬼を手で払いながら、傍にいるすずりに助けを求めた。

「こいつらをなんとかしてくれっ」

 すずりは草助をじっと見た後、腕を組んで考え込む仕草をする。

「なにやってるんだ! 早く追い払っ……痛てて、こら噛み付くなっ」

 すずりはニヤリと悪巧みを思いついた笑みを浮かべ、草助に言った。

「もちろん助けるけどさー、草助を助けたらアタシにどんな得があるのかなーって」
「こ、こんな時になにを言い出すんだお前は」
「お腹いっぱい食べさせてくれるんなら、ねえ?」
「だああっ、わかった。食わせてやるから助けてくれ!」
「そうこなくっちゃ!」

 すずりは髪の毛を変形させて大きく広げ、投げ網のようにして草助に投げつけた。全身を髪の毛で覆い尽くされた草助は、もみくちゃになった後、ぽーんと髪の毛の隙間から投げ出された。

「やれやれ、ひどい目に遭ったな」

 起き上がった草助が目をやると、すずりの髪の毛は大きな手の形になっており、指の間に無数の餓鬼が挟まって悶えていた。

「お前らはしばらく大人しくしてな」

 すずりは餓鬼の群れをビンの中に押し込め、転がっていた蓋を拾って栓をする。念のためにと、草助は魔除けのお札を蓋に貼り付けて封印しておいた。このお札は八海老師が作ったもので、いざという時のために数枚ほど携帯している。

「それより彼女はどこへ行ったんだ?」

 気が付くと沙織の姿はどこにもなかった。現れたときと同じように忽然と消えてしまったのである。不思議に思って祠の後ろを覗き込んでみると、地面に四角い跡が残っていた。手で触れてみると固い感触が有り、それは一枚の石で出来た蓋だった。草助が蓋を動かしてみると、地下へ続く暗い穴が口を開け、下へ降りるためのハシゴが掛けられていた。

「なるほど、ここから出入りしていたのか。よし、後を追うぞ」
「がってん!」

 草助とすずりはハシゴを下り、地下へと続く穴の中へと進んでいく。穴の中は意外にも広く、丁寧なことに照明まで壁に取り付けてある。三メートルほど降りて一番下まで辿り着くと、今度は横穴が続いており、二人は奥へ向かって歩き出す。足元は大小の石が転がっており、ゴツゴツして歩きにくかった。

「しかし、この穴は一体なんなんだ? この奥になにがあるんだろう」

 不思議に思いながら呟く草助に、すずりが言う。

「昔はさ、こういう深い穴ってのは黄泉の国に通じるんだって信じられてたんだ」
「黄泉の国って、死後の世界って意味だったな」
「そんなトコ。穴は地獄やあの世に繋がっていて、悪霊や妖怪が出て来たりすんのさ」
「だとしたら、この先には……」

 草助は思わずゾッとしながらも、足を前に進めていく。洞窟の中には、草助のブーツとすずりの草履の音だけが響いていた。やがて広い部屋のような場所に辿り着くと、そこには粗末な棚や机、そして大きな壺が置かれており、人が住んでいたような形跡があった。さらに奥へ目を向けると、行き止まりになった壁の前で沙織が背を向けて立っていた。

「こんな穴の中で隠れんぼとは、女性の遊びとは思えないな」

 草助が声を掛けると、沙織はゆっくりと振り向く。彼女の瞳は真っ赤な色に染まり、闇の中で爛々と燃えていた。

「こんな所まで来てしまって……おかげで二度と外に出してあげられなくなったわ」
「それは困る。僕はモグラの真似をするような趣味は無いよ」
「どうやって餓鬼から逃れたのか知らないけど……今度はそうはいかない。骨まで残らず食べられてしまうがいいわ!」

 沙織はその場から一歩横へと移動する。彼女の後ろにある壁には人が一人通れるぐらいの穴が空いており、沙織がそこに手をかざすと、穴の奥から薄紫色の淡い光と淀んだ空気が漏れ出し、同時に数匹の餓鬼が我先にと争うように這い出してきた。大きさは赤い玉から出て来たものとは違い、身長は約一メートル程度で、中型の犬か猿ほどの大きさがある。

「すずりの言う通り、ここは異界に通じているってことなのか」
「気をつけな、腹を空かせた奴らは恐いよ」

 飢えに殺気立った餓鬼の群れを見ながら、草助は唾を飲み込んで頷く。沙織が草助を指して合図をした瞬間、餓鬼が一斉に飛びかかった。

「行くよ草助!」
「ああ、頼む」

 すずりは身体からまばゆい光を放ち、次の瞬間には鮮やかな赤漆(あかうるし)の柄に金色の模様と文字が刻まれた、一本の筆へと姿を変えた。草助は右手に収まった筆を、飛びかかる餓鬼めがけて一直線に薙ぎ払う。筆先が触れた途端、餓鬼の身体は墨汁のような液体となって溶け、地面に落ちて黒い水溜まりとなった。
 払うは祓うに通じ、妖魔を封じる一閃となる。使い手の霊力によって発動し、筆先に触れたあらゆる妖怪を墨に変え、封じる能力――これこそが、かつて魂筆様と呼ばれたすずりの真の力なのである。

「なっ……!」

 動揺して狼狽の色を見せる沙織に対して、草助は身構えたまま微動だにしない。が、

(こ、恐い)

 実際には飛びかかって来た餓鬼の形相に肝を冷やし、身体が硬直してしまっていただけであった。草助の顔に、どっと嫌な汗が滲む。彼の様子を悟ったすずりは、心に伝わる声で草助を叱り付けた。

(こんな雑魚相手にビビってどうすんのさ)
「そうは言っても、まだ妖怪と向き合うのには慣れてないんだよ。ケンカや殴り合いは好きじゃないんだ」
(うだうだ言ってないでシャンとしな。気合い負けしたら連中のおやつになっちまうんだからね!)
「お、おやつは嫌だな。ええい、やるしかないか」

 草助が自分自身を奮い立たせている間に、奥の穴からはさらに数匹の餓鬼が這い出し、再び草助に飛びかかった。餓鬼はただ一直線に突っ込んでくるだけなので、動きをよく見ていれば筆で払うことは難しくない。しかし払っても払っても新たな餓鬼が出てくるおかげで、次第に草助は追い詰められ、攻めに転じる余裕がまるで無い状況になってしまっていた。

「……ダメだ、助けてくれ」
(あーもー、だらしないなあ)
「老師はともかく、僕はつい最近まで妖怪とは無縁の一般人だったんだぞ。それに多勢に無勢、なんとかしようにも手が足りない」
(だったら手を増やせばいいのさ)
「どういう意味だそれは」
(ウロチョロしてる奴らを捕まえたいんだろ。ひとつ技を教えてやるから、気合い入れてアタシに霊力を送るんだ)
「それはいいが、どうやるんだ? 集中すればいいのかな」

 筆を握る手に意識を傾けた途端、草助は身体の力が筆へと流れ込んでいくような感覚を憶えた。同時に筆は青白い光を帯びてぼんやりと輝き、周囲に霊気を解き放つ。地面に散らばっている墨溜まりに霊気が届いた瞬間、墨溜まりから真っ黒な腕が一斉に突き出した。墨の黒い腕は二メートル程まで伸びるようで、手の届く範囲を自在に動き、近くにいる餓鬼をわし掴みに捕らえていった。

「す、すごい。なにがどうなってるのか分からないが」
(アタシの力で墨になった物は、霊力を使って自由に動かせるんだ。ま、限度はあるけどね……ともかくこれで手は足りただろ)

 墨の腕は中央に集まり、捕らえた餓鬼を一カ所に集めて完全に動きを封じてしまった。

「どうやら形勢逆転だな。これで観念してくれると助かるんだけど」

 後ずさる沙織に近付いて草助は言うが、彼女の目に宿る邪な気配は、未だ消えていない。

「その力は一体……」
「魂筆使い、と言うらしい。僕もなったばかりでよく知らないけどね」
「その名、聞いたことがあるわ。裏切り者を連れ、我らを封じて回る退治屋がいる。その妖怪封じの人間こそ、魂筆使いだと」

 沙織はそう言いながら、忌々しげに草助を睨みつける。草助は彼女の言葉と、口から微かに漏れる妖気を感じ、ある確信を得る。

「なるほど。怪しいと思っていたが、彼女に取り憑いた妖怪がこんな事をさせていたんだな。さあ、隠れていないで正体を見せるんだ」
「ふふ、ふふふ……あははは」

 突然笑い出した沙織の声が、柔らかい女のそれから、しゃがれた老人のような声に変わっていく。

「いい勘をしてるな坊や。だがこの女は、自分から望んで身体を差し出したんだぜ」
「なんだって?」
「せっかくだ、この女の身の上話でも聞かせてやるよ」

 沙織は不敵に微笑みながら、しゃがれた声で語り始めるのだった。




 今から一ヶ月ほど前のある夜、木暮沙織は朝比奈市の外れにある祠の前で、頭からボロ布を被った奇妙な人物と出会った。アルバイトの帰りで、バスから降りてすぐの出来事だった。




「こいつを飲めば、お嬢さんはたちどころに痩せられる――気に入ってくれたらまたここへ来な。あんたの欲望を俺が満たしてやろう」

 奇妙な人物はそう言って、沙織に無理矢理得体の知れない物を飲ませた。その日はおぞましさのあまり眠れなかったが、彼の言葉は本当だった。
 沙織は幼い頃から肥満ぎみで、その事を周囲の男性にからかわれたりする度に、悔しさから様々なダイエットを試していた。しかし持続する意志が弱い彼女は、少し体重が落ちたところで気が緩んでしまい、再び元の体型にリバウンドしてしまうというパターンを毎回繰り返していた。おかげで彼女はすっかり自分に自信を無くし、すっかりいじけた性格になってしまっていたのである。
 ところが妙な赤い玉を呑まされた日を境に、沙織の身体はみるみる痩せていく。食事制限や運動をしないにも関わらず痩せていく自分に、彼女は驚きよりも喜びを強く感じてしまったのである。たった一週間で別人のようになった彼女は、自分の姿を鏡で見ながら、ふとボロ布を被った人物の言葉を思い出す。

(もう一度会いに行ってみようかな……)

 沙織は朝比奈市の外れに住む、ごく普通の女子大生であった。少しばかり違っていたのは、彼女が太っているという事。それは沙織自身も強く自覚しており、やがて彼女は他人を羨み、誰かが自分の姿を見て笑っているんじゃないかという被害妄想を抱くまでになってしまっていた。

 その日の夜、彼女は再び祠へと赴いた。祠の近くを行ったり来たりしていると、どこからともなく彼は現れた。頭からボロボロの布を纏い、僅かに見える手足は骨と皮ばかりに痩せこけた、奇妙な風体の人物である。顔は布の奥に隠れ、どんな表情をしているのかさえ想像も付かない。

「ようお嬢さん、やっぱりここへ来たか。思った通りだ」
「あ、あの……今でも少し信じられないけど、なにもしないでこんなに痩せる事が出来たわ。あなたは魔法使いなの?」
「ひっひっひ、そんな立派なもんじゃねえ。俺はひだる神っていう、けちな妖怪さ」
「よ、妖怪?」
「俺のことなんざどうでもいい。それよりもお嬢さん、ここへ来たって事は、俺に叶えて欲しい望みがあるんだろ? 黙っていても分かるぜ……長い間溜め込んできたあんたの欲望がな」

 一瞬、布の奥で真っ赤な目が光った気がした。沙織は得も言われぬ悪寒を感じたが、逆にそれが願いを叶えてくれる証に違いないと思ってしまった。

「そ、そうよ。私はもっと綺麗になりたい。自信を持ちたい。お金だって欲しい。今まで私を馬鹿にしてきた人たちを見返してやりたいのよ。そのためなら何だってするわ」
「いいねえ、そう来なくちゃ。俺はお嬢さんみたいな人間が現れるのをずっと待っていたんだよ」
「それじゃ、私の願い事を聞いてくれるのね」
「いいとも。だがそれには俺の言う通りに働いてもらうぞ。なに、簡単なことだ」
「なにをすればいいの?」
「こっちだ、付いてきな」

 ひだる神と名乗った妖怪は、祠の裏側にある穴の中へと沙織を案内した。穴の奥には大きな空間が広がっていて、木製の古びた棚や机の他、大きな壺が火に掛けられ、甘い匂いのする液体が煮られていた。一番奥の壁には人が一人通れるくらいの穴が空き、ぼんやりと薄紫色の光を放っている。ひだる神は穴に手を突っ込むと、中から奇怪な姿をした生き物を引きずり出した。皮膚は灰色で毛は無く、骨と皮ばかりの身体に短い手足、腹だけが異様に膨れ突き出した妖怪――すなわち餓鬼である。

「な、なんなのそれは」
「ひっひひひ……餓鬼だよ。まあ俺のお仲間みたいなもんさ。こいつがお嬢さんの望みを叶えてくれるのさ」

 そう言って、ひだる神は餓鬼の身体を引き裂き、細切れにしてばら撒く。あまりのおぞましさに胃の中身が逆流してきた沙織だったが、直後に起きた出来事に目を見張る。肉片となって散った餓鬼にひだる神が息を吹きかけると、肉片はもぞもぞと蠢き、やがて小さな餓鬼となって再生したのである。ひだる神は小さな餓鬼を捕まえては手のひらで団子状に丸め、煮えたぎる壺の中に放り込む。壺の中身は、赤い色を付けた水飴だった。ひだる神は串で餓鬼を拾い上げ、机に広げた紙の上に並べていく。

「この飴が固まれば、なんの苦労もなく痩せられる、奇跡のダイエット薬の完成ってわけだ。お嬢さんにはこいつを人間たちに売ってもらいたい」
「まさか、私に飲ませたのはこれだったの!?」
「お嬢さんのはちょいと特別だが、こいつも痩せる事に変わりはない。お嬢さんは儲かるし感謝もされる。悪い話じゃないと思うがねえ」
「だけどこんな物、人に飲ませて大丈夫なの?」
「ひっっひっひ、ちゃんと痩せられるさ、死ぬまでな……」
「し、死ぬまで……って」
「あんたは今までみじめな思いをしてきたんだ。その見返りを望んだって罰は当たらないと思うがねえ。他人がどうなろうと構わねえじゃねえか」

 ボロ布の奥に光る赤い目に再び見つめられた瞬間、沙織の脳裏に今まで体型のことでいじめられてきた悔しい記憶が蘇る。

「そうね……悩みも苦労も知らずに過ごしてる連中なんて、少しは私の気持ちを思い知ればいいんだ。どうなっても構わない……そうよ、私は悪くないんだから……」

 そう呟く沙織の目からは正気の光が失われつつあった。そんな彼女の様子を、ひだる神は目深に被った布の奥から満足げに眺めていた。
 沙織は翌日から、餓鬼を封じた赤い飴玉を売り始めた。知り合いに勧めて回ってみたところ、沙織の変わり様はこれ以上ないほどの宣伝となり、飴玉は飛ぶように売れてお金が集まってきた。それでも、沙織はまだ満足していない。彼女は祠の裏にある穴へと趣き、ひだる神を呼びつけた。

「あなたのおかげで痩せられたし、お金も面白いくらいに稼げたわ。だけどまだ、綺麗になるって願いを叶えてもらっていないじゃない」
「あーあ、飢えたツラしちまって。ちゃんと願いは叶えてやるとも」
「じゃあ早くして。私はうんと美人になって、私を馬鹿にした男たちに仕返しするんだから」
「なあお嬢さん、あんたは腹が減って動けなくなるような、飢えの苦しみを知ってるかい? 俺も餓鬼も、終わることのないそれを味わい続けているのさ」
「な、なんなの急に」
「飢えってのは生き物の本性を剥き出しにする……どんな善人だろうと悪人だろうと、腹を空かせていれば獣と一緒だ。一握りの飯を奪うために人を殺し、腹を割いて胃袋の中身を漁るようになる。自分のためなら他人の命なんざどうなっても構わねえってわけだ。ひっひっひ、面白れえだろ」
「そんな話に興味ないわ。それより私の願い事を叶えてよ」
「お嬢さんよ……俺はあんたの願いを叶えてやった。望み通りの美人にもしてやるぜ。だが、その前に俺の願いを叶えてもらおうか」

 ひだる神がそう言った途端、沙織の腹部に激痛が走る。胃袋の中でなにかが暴れているような、耐え難い苦痛だった。

「お嬢さんに呑ませたのは、俺の体の一部さ。時間をかけて馴染ませておいたからなあ、あんたの身体はさぞ住み心地が良くなっているだろうぜ、ひっひっひ」
「な、なに言って……ううっ!」
「欲望を叶えてやる度に、満足どころかますます心が飢えていくお嬢さんの姿は愉快だったぜ。だからこそ俺も取り憑き甲斐があるってもんだ」

 痛みでうずくまる沙織の顔を、ひだる神は骨と皮だけの腕で持ち上げた。相変わらず布の奥の顔は見えないが、罠に掛かった獲物を眺めるように、満足げに笑っていることだけは沙織にも感じられた。

「私……死ぬの?」
「安心しな。お嬢さんは消えて無くなるわけじゃねえ。俺とひとつになり、新しい自分に生まれ変わるのさ。人間のくだらねえタテマエやしがらみから解放されて、本当の自由を手にするんだ。ちゃんと顔も美人にしてやるから安心しなよ。俺はな、お嬢さんみたいな人間をもっともっと増やしたいだけなのさ」
「本当の自由……あなたと一緒になれば、なんでも思い通りに出来るって言うの?」
「そうとも。お嬢さんは好きなだけ望みを叶える。俺はこの身体を使って仲間を増やす。お互い旨味のある話だと思うがね」
「そう……私は昔から自分が嫌いだったし、別人になるのも悪くないかもね。だけど嘘だったら絶対に許さないわよ」
「おお恐い恐い。お嬢さん、あんたいい悪党になれるぜ……ひっひっひ」

 歪んだ笑みを浮かべながら、沙織は首を縦に振る。ひだる神は軟体動物のように身体を変形させ、ぬるりと蠢きながら彼女の口へと滑り込んでいく。

「うぐ……がは……っ!」

 ひだる神の姿が残らず消えたと同時に、彼女の目に邪な光が宿る。

「ふふ……ははは……あははははははは!」

 人が踏み越えてはならぬ一線を、彼女は越えてしまった。もはや人のそれではない、血のように赤い目を輝かせながら、彼女は嗤い声を響かせた。


〜魂筆使い草助 第二話中編 終わり〜





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