右手に濡れタオルを持った里香は、ベッドで寝ている僕に近づいてきた。
そして里香は、風邪による発熱によって火照り、
汗まみれになっていた僕の頬に、濡れタオルを当てて拭いてくれる。
ひんやりとした濡れタオルの感覚が、じんわりと染みていくように気持ちよい。
その感覚に、僕は思わず小さな声を漏らしてしまう。
「ふぅ……」
すると、その様子を見た里香がくすりと笑ったので、
僕もまた嬉しい気分になった。
里香はその後も続けて、僕の顔や首筋、あるいは胸元を濡れタオルで拭いてくれる。
こうやって、しばらく看病を受けていると、
僕は改めて里香の存在のありがたみを感じていた。
と同時に、もしも運悪く、
僕のこの風邪が里香にうつってしまったらどうしようと、そうふと思った。
「……まぁ、来てくれた後に言うのもなんだけどさ、
もしも、俺の風邪が里香にうつったら困るなぁ」
「あら、急にどうしたの? そんなこと言っちゃって」
里香は濡れタオルを僕の顔から離して、洗面器の水に浸しながら応じた。
「だって、咳とかくしゃみで風邪はうつるっていうじゃないか。
それなら、里香にうつすこともありえるし……」
僕に気を遣われたのが嬉しかったのか、
里香は珍しく照れるような、気恥ずかしそうな表情を見せる。
「それはそうだけど‥‥裕一、誰も看病してくれないって言ってたし、
あたしも、裕一と一緒にいたかったから……」
年頃の女の子らしく、そう言って顔を赤らめた里香は、反則的に可愛かった
「里香……」
僕の体調が良ければ、きっとその場で里香のことを抱きしめていたであろう。
いや、別に今抱きしめたって構わない。
どうせ、親はずっと帰って来ないのだから、時間を気にすることもない。
……本当に抱きしめてしまおうか?
そんな風に、僕の心の中で激しい葛藤が繰り広げられている間に、
里香の口から先に新しい言葉が発せられてしまった。
「……それに、裕一の風邪ごときにやられるあたしじゃなくってよ?」
雰囲気的に、里香を抱きしめるタイミングを失してしまった僕は、
その悔しい気持ちを言葉に込めて、里香に返した。
「……言ってくれるなぁ」
「フフ」
僕の言葉を、里香は小さく得意げに笑って受け流した。
さて、里香による看病のおかげで、僕は精神的にはだいぶ楽になってきたものの、
身体の方はまだまだ風邪の症状が辛かった。
「……っ、ケホッ、ケホッ!」
さきほど脇に挟み直した体温計が鳴るまで、
里香と楽しく世間話でもしようかという時に、僕は甲高い咳をしてしまったのだ。
その様子を見た里香は、少し心配するように僕に言う。
「裕一、まだ喉痛そうだね」
すると、里香はハッと思い出したという感じで後ろを向き、
僕の勉強机の上に置いてある物を一瞥したかと思うと、立ち上がりながら僕に話しかける。
「そうよ、忘れてたけど、アクエ○アス買ってきてたのよね。
今、飲ませてあげるから」
里香はそう言いながら、勉強机の方へと向かって歩いてゆく。
そして、勉強机の上のお盆に乗っていたガラスのコップ1つと、
彼女自身の体に比してやや大きめの、2リットル入りのスポーツドリンクのペットボトル1本を、
それぞれ両手に持ちながら、僕の寝ているベッドの方へと戻ってくる。
再び僕の近くに立った里香は、右手でコップを持つと、
それをスッと僕に向かって差し出してくる。
「はい。これ、ちゃんと持っててね」
「うん」
僕がコップをしっかりと両手で受け取って持つと、
里香は、ペットボトルのキャップをぎゅっと捻って、プシッと封を開ける。
その里香の動作を見た僕が、里香の方へコップをすかさず差し出すと、
里香はペットボトルの口をそのコップの縁に近付けて傾け、
青白い感じのスポーツドリンクを、コップの中へとトプトプトプ……と注いでいった。
「……あっ、今更だけど、ポカ○の方が好きだったならゴメンね、裕一。
一応携帯持ってたのに、好み聞くの忘れちゃった」
冗談なのか本気なのか、今一つわからない里香の発言に対する返事を考えている内に、
僕が持っているコップの中は、里香が注いでくれたスポーツドリンクで満たされていった。
「大丈夫、俺アクエ○派だから……んっ、それくらいでいいよ。ありがとう」
僕は里香にそうお礼を言ってから、ゴクッゴクッと喉を鳴らしてスポーツドリンクを飲み始める。
あっさりとした塩味と甘みが口の中を爽やかにして、
飲み込まれた液体は風邪の熱で火照った僕の身体を、内側から癒してくれるような感じがした。
強いて言うなら、冷蔵庫で冷やす暇が無かったせいで、
あまり冷えていないのが残念な気もするが、とても美味しく感じたのは事実だった。
……気付けば、あっという間に里香が今注いでくれた分を飲み干してしまい、コップは空になっていた。
里香の注いでくれたスポーツドリンクを飲み干した僕は、
再び喉を鳴らして、一息ついた。
「ふぅ……」
「裕一、良い飲みっぷりだねぇ」
「うん。やっぱり風邪ひいた時にはこういうのが一番だよ」
「喉、少しは楽になった?」
僕の目を見つめて、里香が聞いてくる。
「あぁ、飲まないのとは大違いだよ。ホントにありがとな、里香」
僕がそう言うと、里香はニコリと微笑みながら返事をしてきた。
「ふふ……じゃ、あたしも飲もうかな。裕一、コップ貸してよ」
「ん?コップなら、自分の分持ってきたんじゃないのか?」
僕はそう言いながら、
まだガラスのコップが一つだけ乗ったお盆が置かれている、勉強机の方を見る。
すると里香は、僕が両手で持っていたコップをひょいと右手で掠め取ってしまう。
「おい、何するんだよ」
僕がちょっと抗議の声を上げると、里香はコップの代わりにペットボトルを左手で僕に渡してくる。
「コップ、取りに行くのめんどくさいし、ベッドの近くだと置く場所無いから、
あたしは裕一が使ったのでいいわ」
「それで、今度は俺が里香に注げってこと?」
「そういうことね」
やれやれ、久しぶりに里香のわがままが出たということか。
でも、これくらいのわがままならどうということはない。
左脇の下に挟んだ体温計が、またズレないように気をつけていれば済むことだ。
僕はちょっと苦笑しながら、しかし黙って、ペットボトルのキャップを開けて、
里香が両手で持つコップにスポーツドリンクを注ぐ。
そうして、コップを七分目くらいまで満たしたところで、
ペットボトルの角度を上げ、スポーツドリンクを注ぐのをやめる。
「これくらいでいいんじゃないか?」
僕がそう聞くと、里香はコクリと頷き、
早速コップの中のスポーツドリンクを飲み始めた。
僕はというと、ペットボトルのキャップをきっちり締め直して、
壁に立てかけるようにしてペットボトルをベッドの端に置くことにする。
その間、里香が小さく可愛らしい口で、
瑞々しい喉を鳴らしながらスポーツドリンクを飲み干すのを見つめていて、
僕はある事に気付いてしまった。
(よく考えたら、これって間接キスだよな……!
里香は気付いてるのかな?
案外、間接キスっていう概念自体知らないってこともありえるけど……)
そう考えてドキドキしていたせいで、自分でも気付かぬ内に、
里香のことを妙な顔で見つめてしまっていたらしい。
「ん、どうかしたの?」
ちょうどスポーツドリンクを飲み干した里香が、
僕の視線に気付いて反応してきた。
僕は少し慌てながら、不審な視線を言葉で取り繕う羽目になった。
「いや、何でもないよ。
……ただ、予定を潰しちゃった上に、こうやってお見舞いにまで来てもらって、
何だか里香には迷惑かけてばっかりな気がするって思ってさ」
僕が咄嗟に考えついた、しかしそれもまた本心から出た言葉に対して、
里香は一瞬目を丸くしたかと思うと、目を細めて笑いながら返事を返してきた。
「ふふ……裕一も随分と気を使えるようになったのね」
「里香にそう言ってもらえると、嬉しいよ」
僕が素直にそう応じると、里香は僕の言葉を受けて更に続けた。
「あたしだって、確かにデートは楽しみにしてたわよ。
でも、また機会があれば、ちょっと電車に乗って遠出すること位いつでも出来るし、
それに……」
そこで里香は一拍置いた後、僕に向かって爆弾を投げつけてきた。
「裕一だって、たとえ風邪をひいたとしても、
休みの日に一日中あたしと一緒にいられれれば、それで十分だとか思ってるでしょ?」
「うっ……!」
里香がニヤニヤしながら言ってきたことは、あまりにも図星過ぎて、
もはや否定することが出来なかった。
……こうなったら、いっそのこと思い切り真面目なことを言って、
それで雰囲気が良くなったら、今度こそギュッと抱きしめてしまおう!
そう決心した僕は、ドキドキしながら軽く息を吸い込み、里香に話しかけ始める。
「あ、当たり前だろそんなこと! だって俺は、お前のことが……」
『………ピピピッ、ピピピッ!』
里香への溢れんばかりの想いを、思い切って口に出そうとした丁度その時に、
なんと、僕の脇に挟まれていた体温計が鳴ってしまったのだ。
おかげで、里香に伝えたかった僕の言葉も想いも、
体温計の電子音とその無機質な雰囲気にかき消されてしまった。
「……あれ?」
言葉が不発になった形の僕は、思わず間の抜けた声を出してしまう。
今までの胸の高鳴りも、行き場を失ったまま宙ぶらりんになっている。
「ん、鳴ったんじゃない?」
僕の心中を知らない里香は、他意も無くそう話しかけてくる。
「……だね」
僕は仕方なく、左脇の下にある体温計を引き抜き、液晶画面を見る。
[37.8℃]
結果はというと、里香の看病のおかげかはわからないが、
先ほど計った時より明らかに体温が下がっていた。
もちろん、まだ病人であるということは変わらないが、
それでも十分な快復の兆しであり、嬉しかった。
「おっ」
僕は、検温の結果に声を上げて反応する。
すると、里香が興味を示してきた。
「ねぇ、何度だったの? あたしにも見せてよ」
里香は自ら液晶画面を見て体温計の温度を確かめようと、
立ったまま上体を曲げ、身を乗り出すような形で僕に近づいてきた。
里香の長くて美しい、いつも濡れているような色艶の黒髪が、
サラッと彼女の肩にばらけてかかる。
その辺りから発せられた、ほのかなシャンプーの香りが、
僕の鼻孔を直接くすぐった時、
もう流石に我慢が出来なくなっていた―――。