続・孕み月
―――それは、とある晴れた日曜日のお昼頃のことだった。
(さて、無事に任務完了っと……)
一人でそんなに大きくない車に乗り込み、行きつけのスーパーで買い物を済ませて来た僕は、
今は両手に買い物袋をたくさん持って、見慣れた我が家の玄関の前に歩いていった。
すると、玄関のガラスの向こう側に、これもやはり見慣れたやや小柄な人影が現れてきて、
僕のために玄関の扉の鍵を開けてくれた。
カチッ!
という金属音が鳴った後、ガラガラという音を立てながら、玄関の扉を解錠した人物が現れる。
僕はその人物に対して、はっきり挨拶をした。
「里香、ただいま」
僕の挨拶に里香は、ふんわりと微笑んで僕を出迎えた。
「おかえり、裕一。買い物ご苦労様」
そう言う里香はもう妊娠9ヶ月も半ばで、大きなお腹で歩くのも辛そうなのに、わざわざ僕の為に玄関の鍵を開けてくれたのだ。
里香が着ている、薄紫色のゆったりとした半袖のマタニティ用ワンピースは、新しい命が宿っている部分がとても大きく盛り上がっている。
……里香が安定期だった頃には、まだ二人で車に乗って買い物に行けたのだが、そろそろ臨月という状態での無闇な外出を避けていた。
だから、ここしばらくは僕が一人でメモを持って、日々の生活を維持する為の買い物に行っているのだ。
「里香の方が俺よりよっぽど大変なのに、鍵開けてもらって悪いな」
僕がそう言うと、里香は僕の手からビニールの買い物袋を受け取りながら話す。
「だって裕一、両手塞がってるかと思って。たくさん買い物頼んじゃったしね」
「ありがとな、凄い助かるよ」
……里香の言う通り、今回の買い物での僕の荷物は多かった。
何故なら、普段買う食料品や消耗品に加え、
そろそろベビー用品を買い揃えなければならないことになって、
紙おむつやら何やら、色々な物を買ってきておいたのだ。
ということで運ばなければならない荷物も多く、僕はもう一回か二回、車に荷物を取りに戻らなければならない。
僕は振り向いて玄関から出ながら、里香にこう言った。
「里香! 袋はまとめて、台所のテーブルに上げといてくれよ。中身は俺が全部仕分けしとくから。
そしたら、里香は部屋行って休んでて」
すると、里香は少し不満そうな顔をして言った。
「もう……最近は、休んでてばっかりなんだから」
眉根を寄せる里香に対して、僕は、最近よく彼女と話していることをまた言ってやった。
「仕方ないだろ、里香はもうすぐ、お母さんになるんだから!」
その言葉を聞いた里香がどんな表情をしているかは、車に荷物を取りに行った僕にはわからないのが残念だった。
(ふぅ……ま、こんなところかな)
僕は台所で、買ってきた物の仕分けを一通り終えていた。
食料品は、適切に包装を解いて、冷蔵庫の中の収めるべきところに収めた。
洗剤やらティッシュやらの消耗品も、似たような扱いをした。
ベビー用品だけは、買ってきた物がこれで良いかどうかを里香にも確認してもらわないといけないので、
一つの買い物袋にまとめて、右手に持っていた。
そこでふと、左腕に嵌めていた腕時計に目をやると、丁度良いお昼時になっていることに気付いた。
(そうだ、ぼちぼち昼飯でも作ろうかな。里香もお腹空いてるかも知れないし)
そう考えた僕は、廊下を通り、里香が待っている場所へ向かった。
そこは、夫婦で使っている寝室であり、いわば僕と里香の愛の巣であった。
(まぁ、赤ちゃんが生まれたら、愛の巣なんて言ってられなくなるけどさ……)
僕が戸を開けると、里香はベッドの上で女の子座りをしながら、見事に膨らんだお腹を右手で優しく撫でていた。
赤ちゃんの動きがハッキリわかるようになってきてから、里香はよくこういうことをしている。
とても安らいだ表情をしていた里香は、そのままの顔で僕の方を見てくれた。
「ん、終わったの?」
「あぁ。後は里香に、これを見てもらうだけだよ」
僕はそう言いながら、ベッドの上の里香に、ベビー用品の詰まった買い物袋を手渡す。
しっかり取ったメモを片手に買ってきたモノだから、そんなに間違いはないはずだ。
「そうね、赤ちゃんが使うものだから、ちゃんと確認しないとね」
里香はそう言うと、袋の中から品物を一つ一つ出しては、テキパキとで調べていく。
僕はベッドに腰掛けると、里香の隣に寄ってその様子を見ていた。
……少し経つと、里香はほっと一息つき、品物をガサガサと袋にしまいながら言った。
「うん、大丈夫。必要なモノは、しっかり揃ってるみたい」
「そうか、そりゃ良かった! もし何か足りなかったり、返品に行くとなると大変だからなぁ」
僕もほっとしながらそう言うと、里香はどこか高飛車な口調で返してきた。
「裕一も、最近はだいぶ要領良くなってきたのね。あたしの欲しいモノを間違えないなんて」
――里香が思い出しているのは、おそらく彼女がまだ入院していた頃のことだろう。
当時、僕が里香の借りてきて欲しい本を間違えて、借りてきて欲しくない本を借りてきてしまったことがあったっけか――。
「まったく、昔のことは勘弁してくれよ……」
僕がそう頭を掻きながら言うと、里香はふふふと愛らしく微笑みながら、買い物袋を僕に手渡した。
「あぁ、これは後で子供部屋に入れとくよ」
僕はそう言うと、買い物袋をとりあえず床に置いておいた。
さてお次は、昼食をどうするかということを里香に聞こうとしたのだが……。
「そういえば、今日ちょっと帰りが遅くなかった?買い物が多かったのは確かだけど」
という、少し不思議そうに里香がしてきた質問のおかげで、こちらから話を切り出すタイミングをうっかり失ってしまった。
しかしむしろ問題なのは、相変わらずの里香は鋭さだ。僕は思わず、笑いを漏らしてしまった。
「うはは、やっぱり里香には隠し事は出来ないな!。実はさぁ……」
僕が痛快だという風に大袈裟に笑って見せると、里香もニヤニヤしながら話しの続きをせがんだ。
「なになに? まさか、あたしにプレゼントでも買ってきてくれたの?」
「まぁ、そんなとこだよ。えーと、確かここに入れたハズ……」
急かす里香を見ながら、僕はズボンのポケットに大事にしまっておいた物を取り出して、里香にスッと差し出す。
「……はい、これ」
僕が里香の白い手に渡したのは、一見すると何処の神社でも売っていそうな、特に変わったところのない安産祈願のお守りだ。
「これって、安産祈願のお守り?確かに嬉しいけど、伊勢神宮のとか、もういくつか持ってるじゃない?」
どうも納得していない里香は、不思議そうな顔をして手の中のお守りを見ていたが、僕は彼女より不思議がって言ってやった。
「あれ〜、里香さんにしてはニブいんじゃないか? このお守りに見覚えがないとはなぁ」
僕の言葉に、里香は少しの間お守りに視線をジーッと集中させる。
そして、目を見開いて小さくアッ!と叫んだ。
「あ、気付いた?」
僕がそう聞くと、里香はニコリと笑ってくれた。
これはどういうことか、少しだけ説明しよう。
実を言うと、今日僕は、必要な買い物をしてきたついでに、
高校生の時に里香が、お守りを売るバイトをしたことのある小さなお宮で、安産のお守りを買って来ていたのだ。
そして、それを里香に予告無しで渡すという、ささやかなサプライズを今したというワケだ。
「わぁ〜…‥、なんだか、懐かしいわ。これ、あたしが売ったのと同じだもの」
手の中のお守りを見て、昔を少し懐かしみながらそう言う里香の顔は、少女らしかった。
僕も同じように、里香のバイトぶりを思い出して言う。
「あぁ、確かあの時は、里香も土下座したりして大変だったな?」
当時の記憶が、鮮やかに心の中に蘇ってくる。
「もう……あのことは別にいいでしょ。丸く収まったんだし」
お守りをカップルの手に届ける為に、多香子に土下座までした里香は、
当時のそのことを多少恥ずかしく思っているらしく、顔を赤くしている。
「ごめん、それもそうだな。……そういや、あの時の里香の巫女さんの服、よく似合ってたなぁ……」
まるで本当の巫女さんのような、緋袴を着た里香の姿を、僕は今でもハッキリと思い出せる。
「裕一ったら、そういうことはちゃんと覚えてるのね」
少し冷たい口調でそう言い放つ里香に、回想に浸っていた僕は慌てて反論する。
「や、ホントに似合ってると思ったんだって! 境内をバックに写真に撮ったら絵になるなぁ……とかさ」
「で……本音としては、どんな風に脱がせたら良いだろうかとか考えてたんでしょ?」
全部とまでは言わないが、半分ほど本心を当てられた僕は諦めて里香に投降した。
「うっ‥‥否定はしない」
「うむ、素直でよろしい」
里香は偉そうにそう言って、僕の頭にポンと手を当てた後、
「買ってきてくれてありがとね、裕一。このお守り、大切にするわ」
と、穏やかな口調で僕に対して感謝の気持ちを表しながら、お守りを大切そうにベッドの傍らに置いた。
里香の柔らかい手の平の温もりと、言葉から伝わってくる感情に、僕も心がほんわかと温まった。
「いや、いいんだよ。たまたま近くを通りかかって思い出しただけだしね」
僕はそう言いながら、大きく膨らんだ里香のお腹を、改めて見つめた。
「……それにしても、何年か前は売ってたと思ってたら、今じゃ気付けばこっちが買う立場なんだもんなぁ」
僕が感慨深くそう言うと、里香は顔を綻ばせながら返してきた。
「ふふ、確かにそうね。そう言われると、なんだか不思議な気分だわ……」
里香はそう言いつつ、大きく膨らんだお腹を、まるで愛撫するかのように、しかし穏やかに撫でるのであった。