孕み月【前編】


それは、たまにしているように、半日かけて里香を車で病院に連れて行った日のことだった。
季節の移り変わりを感じる、少し肌寒い日だった。


ガラガラガラ……。
僕は里香の手を取りつつ、我が家の重い引き戸を開ける。
いつもと変わらない玄関に、二人で入る。そのようにして、僕と帰宅したのだった。
傾いた日の光が、窓を通って家の中に差し込んでいた。
僕と里香以外に、今のところ同居している人間はいないので、ただいまを言う必要はなかった。
「里香、大丈夫か?」
僕は里香を気遣いながら、彼女が靴を脱いでスリッパに履き替えるのを手伝おうか提案してみる。
「ううん、大丈夫よ。逆に、あんまり心配されすぎるとあたしの方が困るわ」
そう言う彼女は、ゆったりとしたチュニックのマタニティウェアを着ていて、そのお腹の辺りは内側から少し膨らんだラインを描いている。
僕はその曲線を見るといつも、なんだか幸せなような、不思議なような気分になる。
そう……里香がたまに病院に行っているといっても、それはほとんど心臓関係のことではなく、
主に産婦人科でエコー検査を受けたりして、妊娠の経過を確認しているのだ。
「なら良いんだ、あんまり心配してごめんな。でも、安定期に入ると本当に安定するんだなぁ……最初の頃が嘘みたいだ」
つわりが酷く、精神的にもやや不安定だった、妊娠初期の頃の里香を思い出しつつ素直に言うと、里香も微笑んで返事をする。
里香は今のところ妊娠六ヶ月で、もう安産祈願にも行って腹巻きをしている、立派な妊婦なのだ。
「そうね、ママも私を産んだ時には、だいたい五・六ヶ月の辺りは楽だったって。胎盤も完成してくる時期だしね」
「あぁ、だから先生からも、そろそろ適度な運動をした方が良いとか言われたんだな」
今日、里香の主治医の女医さんから、里香が安定期に入ったという話を僕たちはされたのだ。
その話によると、現在妊娠六ヶ月目に達した里香は、体に負担をかけない範囲で外出や運動を楽しめるとのことだった。

「後はこれで、赤ちゃんの性別が分かればいいんだけどなぁ…………ガラガラガラガラ‥‥‥ペッ!」
僕と里香と共に家の中を歩いて移動し、台所で手洗いうがいをしながらそんなことを話す。
「そうね、エコー検査の時に、赤ちゃんの股の間さえ映れば、男の子か女の子かわかるっていうけど、
 まだこの時期じゃはっきりしないことも多いらしいわね」
「まぁ、結局は生まれてからじゃないとわからないしな」
「それ言っちゃったらお終いだよ、裕一。そういえば、裕一としては、男の子と女の子の、どっちが良いの?」
里香が僕の隣で手を洗いながら聞いてくる。
「う〜ん、里香似の女の子がいいな。まぁ、里香に似れば、男の子でも美形に生まれてくると思うけどさ」
僕が素直にそう答えると、里香が怪訝な顔をして言う。
「うわぁ……裕一は典型的な、娘が可愛くて仕方ない父親になっちゃいそうだね。
 もし女の子が生まれてきても、私に似てるからって、自分の子をいやらしい目で見ないでよ?」
冷や水を浴びせかけられるような感じがして、僕は思わずギョッとしてしまう。
里香が言うようなことを、自分がしないとも限らないと感じたからだ。
「……り、里香さんってば嫌だなぁ……そんな、人を殺せるような冷たい視線で見ないでくださいよ」
「どうせ、思春期になった娘からは、こういう目で言われるからいいのよ。もしも女の子が生まれたら、あたし全力で裕一を警戒するわ」
洗った手を布巾で拭きながら、冗談半分で里香は僕を睨みつけながら言う。
「ハハハ……俺も気をつけるようにするよ」
「ならいいのよ」
平常心に戻ってきた僕は、同じ話題を里香に振り返した。
「でさ、そういう里香はどうなんだ? 男と女のどっちがいいんだ?」
「私としては、元気に無事生まれてきてくれれば……正直どっちでも構わないわ」
自分のお腹を優しく撫でながらそう言う里香は、もう半分以上、母親の顔をしていた。
「そういう答え方、格好良いけどずるいなぁ……」
「産む母親の特権ってものよ。さ、そろそろ晩御飯の準備でもしましょ」
「おう。あ、今日は俺が料理するから、里香は食器とか箸とか並べて、あとは飲み物だけ準備してくれよ」
「わかったわ。……裕一も最近、料理が上手くなってきたみたいで、あたしも助かるわ」
里香の言うとおり、かつては料理なんてさほどしたことがなかった僕であったが、
今は練習の甲斐あって、そこそこのものは作れるようになっていたのだ。

……その後、僕と里香はいつも通りに夕食を摂り、入浴し、そして就寝の時間を迎えた。

なお付け加えておくと、僕と里香の寝室は、この家に二人で住むようになった当初から、同じ部屋だ。
もちろん新婚当初は、それはそれは自分で思い出すのも恥ずかしい、甘い生活を里香と共に送っていた。
しかし、里香の妊娠が発覚して以降は、彼女と赤ちゃんの安全を考え、ずっと身体を重ねてはいない。
せいぜい、手や口でしてもらったり、抱き合って眠る程度のことしかしていない。
それも最近は随分とご無沙汰だった。

「じゃ、電気消すよ?」
僕は蛍光灯の紐に手を掛けながら、既に二人用のベッドに入っている里香に声を掛けた。
「うん。いいわ」
里香はゆったりとしたマタニティパジャマを着込み、仰向けで寝ていた。
里香の了承を得た僕は、パチン、パチンと蛍光灯の紐を引く。
僕と里香の寝室は、蛍光灯の中心の小さな電球だけに照らされる、かなり暗い部屋になった。
事実上、一日の最後の仕事を終えた僕は、寝ている里香の隣に空いているベッドのスペースにするりと入り込む。
掛け布団を介してすぐ隣に寝ている、里香の体温と、彼女の長い髪の毛に残っているリンスの香りが伝わってきた。
しかし、何せ暗いし、その暗さにまだ目が慣れていないので、すぐ隣にいる里香の顔もよく見えない。
……普通ならこの暗闇の中でも、もっと色々と里香と話をしたり、身体を触れ合わせてから寝たりするのだが、
今日は彼女も検査で疲れているだろうし、明日も休日とはいえすることがあるので、僕は少しだけ話をしたら早々に寝てしまおうかと思った。
しかし、
「ねぇ、裕一」
不意に里香が声をかけてきて、僕の意識は一気に覚醒した。
「ん、どうした?」
僕が里香の方に身体を向けると、里香も僕の方を見ていた。
「少し前に、ママから聞いたんだけどね‥‥妊娠六ヶ月位になると、お腹に耳を付けたら、赤ちゃんの心臓の音が聞こえるんだって」
なんだか嬉しそうに言う里香に、僕も釣られて嬉しくなった。
「へぇ、もうそういう時期なのか。やっぱり、心臓が動いてるのが聞こえたら、生きてるって実感が湧くんだろうなぁ」
「……試しに、聞いてみる?」
里香は少し挑発するようにニヤリと笑いながら、僕に提案してくる。
「え、いいのか?」
「もちろん。むしろ、母親としては、お父さんに是非聞いて欲しいわ」
里香はそう言うと、僕のために布団とマタニティパジャマと、寝る時用の緩めの腹巻きをずらして、膨らんだ下腹部を露出してくれる。
僕はワクワクしながら、ベッドの上を移動して、里香の柔らかい曲線にそっと耳を当てる。
すると、トクン‥‥トクン‥‥という、小さいけれど確かな、新しい命の鼓動が聞こえた。
「うわぁ……ホントだ!」
この鼓動が、自分と里香との愛の結晶なんだと認識すると、更に僕はエキサイトしてしまった。
「やばいやばいやばい!なんていうか……直接聞こえるのって、すげえ感動するな!」
「ふふ‥‥なんだか大袈裟でちゅねぇ、このパパは」
里香はそう言いながら、僕の頭と赤ちゃんが宿る下腹部を同時に撫でさすってくれる。

しばらくすると、里香が急に撫でさすっていた手を止め、何やら話し始めた。
「あたし、元々はね……こんな心臓だから、どうせお母さんにはなれないんだろうって思ってたこともあったの。
 あたしのママや裕一のママや、誰より裕一に心配かけるのも嫌だったし……それに……」
真面目な口調になって真面目な話を始めた里香の表情が、少し悲しげなモノになっているということは、暗い中でもわかった。
やや唐突に始まった里香の告白を、僕はただ聞くしかなかった。
「私の心臓の病気は……パパからの遺伝だったじゃない?
 だから、赤ちゃんにも遺伝したらどうしようって、凄く悩んだこともあったし、裕一やママをホントに困らせちゃった」
「うん、あの時は揉めたよなぁ……」
里香が子供を産むべきかどうかで一悶着があったことを、僕はしみじみと思い出す。
「でも‥‥やっぱりあたし、裕一の赤ちゃんが欲しかったのよ。
 だって……だって、我が侭だと思われても……好きな人との子供が欲しくなるのは、仕方ないじゃない?」
里香は少し上ずった声で、しかし誇らしげに僕に言った。
その様子は、僕が好きになった、里香という女の子の在り方を体現しているかのように思えた。
「里香……」
「だから、自然妊娠と自然分娩が出来るって検査結果をもらった時も、ちゃ、ちゃんと妊娠してるってわかった時も、
 ……あんまり裕一には言わなかったけど、あっ、あたし、本当に嬉しくって……!っ‥‥!えぐっ……!」
里香は、今まで押し殺していた感情を解き放っていた。感極まった里香は、泣いてしまった。
恐らく、安定期に入ったことで多少安心した里香は、気が緩んでしまい、今まで秘めていた気持ちを打ち明けてしまったのだろう。
自分でも気付かぬ間に里香に負担をかけていたことに、僕は罪悪感にかられた。
里香の身体をぎゅっと抱きしめながら、僕は髪の毛を優しく撫でてやる。
「……ゴメンな、本当に大変なのはお前なのに……俺がやたら一喜一憂するから……」
すると、僕の言葉に里香は涙を手で拭いながら、笑顔になって答えた。
「‥‥ほら、そうやってすぐに裕一が心配するからいけないんだよ?」
「ううん、そう言われてもなぁ……」
僕が眉毛を歪ませて困ったような顔をすると、里香は僕の額に、白い指でデコピンを食らわせた。
「あいたっ!」
僕が痛みに堪えて額を抑えていると、里香は呆れたように笑って言う。
「もう‥‥しょうがないから、裕一は裕一のままでいいよ。あたしだって、よくワガママ言うんだし」
「そうだな、里香のワガママには、本当に昔から手を焼かされるよ」
「あっ……そういうこと言うのは、この口か〜? ほれほれ〜」
里香はいつの間にか、すっかりいつもの調子を取り戻していた。彼女はやや強い力で僕の口の両サイドをグイグイと抓る。
「いはははははぁ! いはい!いはいからやめへ!ごえんなはい!」
「うむ。わかればよろしい」
痛みのあまり慌てて謝る僕の様子に、里香は満足そうな顔をした後、抓るのをやめてくれた。
「はひ〜……」
理不尽にもたらされた痛みの余韻が引かない僕は、里香に引っ張られた部分を手でさすりながら、変な声を出してしまう。
……里香の性格の悪さは昔からのことだし、ここ最近の彼女が溜めていたたストレスを解消する為なら、僕はこの程度のことは余裕で耐えられた。



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