里香と海
トンネルを抜けると、水平線に広がる海が、道路の向こう側に見えた。
キラキラと、昼前の太陽光を反射する蒼い海面が、とても綺麗に見えた。
軽自動車のハンドルを握っていた僕は、助手席に座っていた里香に話しかけた。
「ほら、そろそろ見えてきたな」
「うん。 ……海って、思ってたよりずっと広いんだね」
僕だって海辺育ちではないからそう感じたが、かつてずっと病院暮らしをしていた里香には、
海は余計に広く感じただろう。彼女は目を細め、少し背伸びをしながら、海を見ていた。
あまり態度には表さないが、里香は海へ来られることを、大層喜んでいるらしい。
何故なら、里香は身体作りの運動の一環としてたまに水泳をしているが、海に来たことなどは、長期入院して以降一回も無かったのだ。
この時ほど、海辺に住んでいる母方の叔父の存在に感謝することはなかった。
「あぁ、なんせ海の面積は、地球上にある陸地の面積よりも広いっていうからな」
期限が良くなった僕の口から飛び出した、そんな他愛ない豆知識には里香は反応しなかった。
何故なら彼女は、助手席側のパワーウインドウを半分くらい開けて、爽やかな潮風を感じようとしていたからだ。
「気持ちいいのはわかるけど、あんまり開けすぎないでくれよ? 風で前が見づらくなるから」
「もう、わかってるわよ。半分くらいなら良いでしょ?」
「うん。そのくらいならいいよ」
助手席の方から吹き込んでくる潮風は、塩の香りをふんだんに含んでいて心地の良いものであったが、
一応里香にはこう言っておかないと、パワーウインドウを全開してしまう恐れがあった。
いや、里香の場合、僕が注意すると余計に意地悪をしてきそうなので、注意してもしなくても、彼女の良心に任せるしかなかった。
「あっ、カモメかな?」
里香が急に、左側の方を見ながら言った。どうやら、海鳥が飛んでいたらしい。
僕は運転中で彼女の見る方をほとんど見ることが出来ないので、少し適当に応じた。
「鳴き声をよく聞いてみりゃわかるかも知れないよ。ニャアニャア鳴くのがウミネコなんだってさ」
今度は反応があった。
「どうせ、漫画か何かで仕入れた知識でしょ」
「ばれたか」
「ふふ」
少し笑った里香はパワーウインドウを締めると、ドリンクホルダーに入っていたペットボトルのお茶を一口だけ飲んだ。
形の良い唇を湿らせた里香は、僕の方を見て問いかけた。
「あと、何分くらいで裕一の叔父さん家に着くの?」
「そうだな、あと20分くらいかな」
「わかったわ」
そこまで話すと、里香は再び車中から見える風景に夢中になり始めた。
海岸線に沿ったゆるやかなカーブを曲がりながら、僕と里香を乗せた軽自動車は目的地へ向かう。
――そもそも、僕と里香が二人だけで、海辺の叔父さんの家に行くことになったのは、偶然からだった。
元々、たまに僕と僕の母は、夏に叔父さんの家に行くことがあったのだが、ここ数年は双方の都合が合わなかったりして、まるで行っていなかったのだ。
精神的に疎遠となったというワケでは決して無く、僕の母の仕事が忙しくなったのが主な原因だった。
叔父さんの家の近くには多少泳げるところがあったり、海釣りを出来るところがあったり、
時には叔父さんの知り合いの漁師さんの漁船に乗せてもらったりして、結構楽しめただけに残念だった。
さて、そういう背景を踏まえて、僕の結婚の話題で母と話していた叔父さんは、
『そういえば、えらいべっぴんさんだっていう、裕一君の嫁さんの顔が一度見てみたいなぁ。二人だけでも別に構わないから、良かったら来るように言ってくれよ』
と、僕の母(つまり叔父さんから見れば妹)に言ってしまい、母もそれを了承するような返事をしていたのだ。
僕は、自分の預かり知らぬところで話が進んでいたことを母から電話で聞き、少し当惑した。ちなみに、母は今年も仕事の都合で行けないとのことだった。
とはいえ僕としても、久しぶりに叔父さんの家に行ってみたかったし、何より里香と二人きりで海に行きたかったので、
早速里香のお母さんにも電話で了解をとった上で、仕事の休みを取ることにした。
なお、同居している里香は、話をするや否や二つ返事ですぐOKしてくれたが、
里香のお母さんはというと、僕が電話越しに話をすると、無理も無いことだが、里香を遠出させることを多少心配しているようだった。
結局、叔父さんの家がそんなに遠くないことと、僕の運転で自家用車が使えることと、1泊2日で帰る予定だということと、
トドメに電話を代わった里香の説得が効いて、里香のお母さんは無事にOKしてくれた。
受話器を置いた里香が言うには、
「ママったら、『娘を嫁に出すのって、そういうことなのよね』って、いい加減諦めてたわ。
全く、そんなに心配なら、どうして同居だって許したのかしら」とのことだった。
そう言えるようになった里香の心身の強さと、僕への想いの強さが嬉しくて、僕は思わず彼女を抱きしめてそのままベッドへお持ち帰りしてしまったが、
まぁ、その後僕と里香が何をしたかは言うまでもないだろう。
そんなこんなで、おおよそ2週間くらいの間に、僕は仕事の休みを確保したり、里香と一緒に水着を買いに行ったり、
あるいはお泊まり用の荷物を作ったり、叔父夫婦へのお土産を買ったりした。
ついでにガソリンスタンドで車の整備も忘れずにして、万全の態勢で叔父さんの家に向かうことになった。
ちょうどお昼頃に叔父さんの家に到着した僕と里香は、まず叔父夫婦にお土産(赤福はよく食べている可能性があるので、七越ぱんじゅう)を渡し、そしてしっかりと挨拶をした。
何故なら、僕と里香の結婚式は、いわゆる地味婚で、大々的に親族を呼ばなかったので、
里香と僕の叔父さんは、これが初めての顔合わせとなるからだった。そして、第一印象は大事なものだ。
幸い、礼節は身を守る鎧であり武器であると普段から心がけているらしい里香は、とても礼儀正しく朗らかに叔父さんに挨拶をしてくれたので、
すぐに親戚特有の温かみが、僕と里香と叔父夫婦の間に生まれたのだった。
さて、僕と里香は、泊まる部屋を案内され、大きな荷物を置いた後に、エアコンが効いた居間に通され、そこで叔父夫婦としばらく話すような形になった。
叔父さんも叔母さんも、久しぶりに会う僕よりも、どちらかといえば明らかに里香に興味津々で、色々な質問をしていた。
里香の経歴にも話が及び、里香が、
「実は私は、心臓が悪くて長いこと入院していたんですが、伊勢の病院に転院してきて、そこで肝炎で入院中の裕一と初めて知り合ったんです」
と言うと、叔母さんは、「あら、心臓が……そんな風には見えないけどねぇ」と言い、叔父さんは、「ははぁ、院内恋愛から結婚とは、裕一君も上手くやったもんだなぁ!」
と笑っていた。里香は、「えぇ、裕一と知り合ったおかげで私は凄く元気になれたし、それに、上手くやられちゃいました」と言うと、
叔父夫婦は楽しげに笑い、里香もそれに釣られて明るく笑う。僕は流石に気恥ずかしくなって、顔を熱くしながら苦笑いした。
その後、叔父さんは、僕と里香に向かってお昼ご飯は食べてきたのかと聞き、食べてないですと僕が答えると、
地元の魚や海藻を使った昼食を叔母さんが出してくれた。
僕と里香はありがたく、海の幸を堪能出来る昼食をご馳走になった。
思ったより昼食を多く食べてしまったので、僕は里香と一緒に居間のテレビ(甲子園の試合中継)をなんとはなしに見ながら、食休みをしていた。
食休みでなくとも、この時間は日が高く気温も高いので、出来る限り出歩きたくはなかった。
そんな時、叔父さんが新聞を手に取りながら、僕に話しかけてきたのだ。
「ところで裕一君、午後から里香さんと一緒に海に遊びに行くなら、あの海岸はどうかな?」
「あっ、あの穴場のことですか」
僕は、叔父さんの言葉で、ある場所のことを思い出していた。
「そうそう、君も小さい頃よく行ったあそこだよ。まだ穴場のままらしいからね」
「なるほど、それはいいですね」
僕が頷くように返事をすると、傍にいた里香がテレビから視線を外して僕に聞いてきた。
「裕一、穴場ってなんのこと?」
「俺が小さい頃に叔父さんに教えてもらった、砂浜とか磯がある小さい入り江のことだよ。
地元の人でもあんまり知らないらしいんだ。ここから歩いていけるけどね」
叔父さんも付け加える。
「小さい子らが遊んでるかも知れないけど、まぁ大丈夫だろう。いたらいたでしょうがないから、二人で遊んでやってくれ」
僕と叔父さんの話を聞いた里香は、随分興味を持ったようた。
「裕一、もう少し日が下がってきたら、絶対行こうね」
「もちろん。里香に海での泳ぎ、教えてやるよ。磯遊びも楽しいぞ」
「うん。楽しみにしてる」
そこへ、台所での洗い物を終えた叔母さんが来て、話に加わった。
「そうよね、里香さんは海で泳ぐのは初めてなのよねぇ。……裕一君、くれぐれも事故には気をつけるのよ」
心配してくれる叔母さんに向かって、僕は、そんなに大きくもない胸を張って意気込んだ。
「えぇ、いつものことですから。里香のことは俺に任せてください! 一応これでも旦那ですから!」
そんな僕を見て、叔父夫婦は裕一君も立派になったもんだと、結構勢いよく笑った。
里香はというと、ニヤニヤしながら僕の手をこっそり握ってきた。
僕はまた気恥ずかしくなって、顔を熱くしながら苦笑いし、里香の柔らかい手をギュッと握りかえした。
すると、里香も握りかえしてきて、その手は、『頼りにしてるよ、旦那様』と言っているような気がした……。
食休みを終えた僕と里香は早速、入り江に向かうことにした。
叔父さんの家から見て裏手の方へ延びる海辺の小さい道を、僕は里香と一目を気にすることもなく、恋人らしく手を繋ぎながら歩いていく。
だいたい、徒歩10分くらいの道のりであるが、誰とも出会わなかった。
僕は里香と話しながら、自分の記憶の中にある道筋を辿っていた。まず間違えることは無い道なのがありがたかった。
「えーと、ここまで来たとなると、あと5分くらい歩いたら着くな。もう少しだよ」
僕は黒いゴム製でしっかりとしたビーチサンダルと、トランクス型の海パンを穿き、
上半身には青いTシャツを着て、気の良い叔父さんが持たせてくれたクーラーボックス(中にペットボトル入りスポーツドリンクが何本か入っている)を肩にかけていた。
もちろん、僕と一緒に歩いている里香も、海で泳ぐ気まんまんという服装をしている。
「迷ってないなら構わないよ? 私も早く泳ぎたいなぁ」
彼女はそう言いながら、僕の左手と繋いでいる右手をブランブランとさせる。
すると、僕の方からは、里香の張りの良い皮膚に浮き出た鎖骨が、白いシャツと白い水着の紐の間から、チラチラと見えてしまう。
今の里香の服装はというと、僕と一緒に選んで買った水着の上に、白くてややゆったりとしたシャツを着て、頭には熱中症対策で大きめの麦わら帽子を被っている。
また、僕と繋いでいない方の手には、これまた叔父さんの家から貸してもらった、ビーチボールやらレジャーシート、果ては水鉄砲やらが入った袋を持っている。
ちなみに里香は、小さい花柄をあしらったビーチサンダルを穿いていて、舐めたくなるほど綺麗な(まぁ実際舐めたこともあるが)里香の足の指がよく見えた。
そこまで里香の身体をよく見てしまった僕は、自分がいつの間にかいやらしいことを考えそうになっていることに気付いた。
(いかんいかん、せっかく里香と海に来たっていうのに! ここはもっと、ピュアーな気持ちで楽しまなくちゃいけないだろ!)
そんな心の動揺が、里香にもわかってしまったらしい。
「ん? どうしたの、裕一?」
いつもなら、僕がいやらしいことを考えているとすぐに見破る里香だったが、どうも浮かれているせいか、気付かなかったらしい。
彼女は無邪気な猫のような目を、僕に向けてくる。
それ幸いと、僕は場を誤魔化すことにしたのだった。
「いや、なんでもないよ。……あっ、そうだ。どうせもう少しなんだから、走って行こうぜ! ほら!」
僕はそう言いながら、少し強引に里香の手を引いて、けれど無理をさせないようにして駆け出す。
「あっ……裕一、待ってってば! もう……!」
里香はそう言いながら、やはりまんざらでもないようだった。
僕と里香は、そうやって目的地までの道のりを急いだ。
(どうしてこうなった……)
僕は腰まで海水に浸かりながら、小学校低学年くらいの、背が低めの男の子と水鉄砲を撃ち合っている。
空になった水鉄砲を波に浸し、再び海水を充填して狙いを定めて撃った。
「ほら、これでも食らえ!」
「わっ、やったなぁ。 それ!」
僕が発射した水は、背の低い男の子の顔に命中したが、相手も素早く撃ち返してくる。
「くっそう、まだまだぁ」
芝居がかった口調で僕が言うと、男の子もますます乗ってくる。
「裕一、俺だって負けないぞっ!」
そんな風にして、僕は男の子の相手をしていた。僕の方がやや優勢だった。
一方、里香は相変わらず砂浜の方で、女の子二人と遊んでいるようだった。砂のお城をどれだけ上手く作れるかということを競っているらしい。
(まぁ、楽しくはなくはないから、良いけどさ)
僕は素直にそう感じながら、しばし童心に返って、男の子との水鉄砲遊びに興じるのだった。
さて、一体どうしてこうなったのか?
その理由を一言で説明すると、僕と里香が入り江に到着した時、穴場であるハズのそこには既に先客がいたからなのだ。
……僕と里香が、道から続いているコンクリートでつくられた足場の辺りまで来ると、
何やらキャッキャッとした声や、バシャバシャという水しぶきの音が、下の入り江の方から聞こえてくる。
「叔父さん……小さい子らがいるかもって、言ってたもんなぁ」
僕は思わず頭を掻きながら言った。
里香も同じ調子で相づちを打つ。
「ふふ、ここまで来たら、一緒に遊んじゃおうかな?」
「そうだな。それが一番良いかもなぁ。ま、行ってちょっと話してみるか」
僕と里香は顔を見合わせつつ、とにかく何段かの階段を降りてみると、入り江の浅瀬では、一人の男の子と二人の女の子が遊んでいたのだった。
僕と里香の存在に気付いた子ども達は、向こうの方からフレンドリーに接してきてくれて、
詳しい経緯は省くが、少し話している内に、いつの間にか僕と里香と仲良く遊ぶことになっていた。
どうやら話によれば、子ども達は地元の住人で、実は同じ家の姉弟らしい。
お姉さん二人曰く、一番下の弟さん(背が低めの男の子)は、
普段から同性の遊び友達を欲しがっていたということだったので、僕は喜んで遊び相手になってあげた。
里香と二人きりの時間を邪魔されるというのは、正直言ってもちろん残念なことだったけれど、
無邪気な子供の頼みとあっては断るわけにはいかなかった。
それは里香も同じように感じたらしく、彼女は女の子二人と遊ぶことに、微塵も嫌な素振りを見せなかったのだ。
その後は、僕はさっきまでしていたように男同士で水鉄砲を撃ち合ったり、里香は磯遊びを女の子二人に教えてもらったりしていた。
子ども達はわんぱくではあったけれど、おおらかで屈託のない性格だったので、僕と里香もとても楽しかった。
……気付けば、軽く二時間弱程の時間が経っていたことに、男の子が言うまで僕は気付かなかった。
「なんだ、もうこんな時間になってたのか」
僕は、砂浜の真ん中に敷かれたレジャーシートの上で、持参してきていたペットボトル入りスポーツドリンクを飲みつつ、
海で遊ぶ為に外していた腕時計を手にとって見ていた。
「あっという間に感じちゃったね」
僕と同じようにレジャーシートの上で座って休憩していた里香はそう言った後、
自分が口を付けたペットボトルの飲み口をハンカチで丁寧にぬぐってから、姉妹に渡していた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、お姉ちゃん」「ありがとー」
二人の姉妹の内、まず姉は妹にスポーツドリンクを飲ませた後、自分で飲んだ。
僕がそのことに感心していると、隣にいた男の子が仕方ないという口調で切り出した。
「あーあ、そろそろ帰って家の手伝いとか宿題とかやんなきゃいけないなー」
すると、里香が応じた。
「そっか、大変なんだねぇ。でも、遊んだらその分、やるべきことはやらなきゃいけないんだよ?」
「ちぇっ。里香さんも母さんと同じこと言うんだ」
この少年はませているのか、僕の嫁のことを下の名前で、さん付けで呼んでいる。
「ふふ、君も大人になればわかるわよ」
里香の言葉に、男の子は少しだけ拗ねたようだった。
姉妹の方はというと、ペットボトルを里香に返して、腰を上げていた。
「じゃ、里香さんと裕一さん。わたしたち、そろそろ帰ります」
「きょうは、いっぱい遊んでくれて、どうもありがとうございましたー」
姉妹二人の可愛い別れの挨拶に、僕と里香の顔も自然に綻ぶ。
「あぁ、また来年にでも会ったら、その時も遊ぼうよ」
「磯遊び教えてくれて、ありがとうね」
続いて、男の子も立ち上がると、海パンを叩きながらこう言った。
「……裕一、また今度会った時には、今日の決着付けてやるからな!」
僕を呼び捨てにする男の子の勇ましい言葉に、僕は吹き出しそうになり、里香は微笑ましいといった様子だった。
「ははっ、俺も楽しみにしてるぜ。またな」
「ふふ、裕一も、年下の男の子から憧れられるようになったのね。じゃ、またね!」
僕と里香との別れの挨拶を終えた子供達は、手を振りつつ、軽快に小走りで帰っていった。
そうして地元の子供達と別れた僕と里香は、穴場の入り江で、ようやく二人っきりになれた。
「いやぁ、とんだ旅の思い出だったなぁ」
僕はやれやれといった感じでレジャーシートに寝転がり、隣に座っていた里香を見上げて言った。
「でも、それにしては裕一も楽しんでたんじゃない?」
里香がニヤッと笑ってそう言うと、僕も同じような顔をして返した。
「まあね」
「私も楽しかったよ。磯で色んな生き物を見つけられたし……それに、すごく良い子達だったよね」
「あぁ、海の近くだと開放的になるのかなぁ? またいつか、会えたらいいな」
そう里香と話した僕は、今更ながら、彼女とこの入り江に来た目的が果たされてないことに気付いた。
「あれ、そういや里香は、まだ海に入ってなかったんだっけ?」
すると、里香は自分も忘れていたというような口調で応じた。
「そういえば、そうね。 あの子達と遊んでたせいで、忘れてたみたい」
「まったく、ほんとに俺達は何しにきたんだか」
僕が軽い調子でそう言うと、里香もクスクスと笑った。
「じゃあさ、そろそろ泳ごうか」
僕はそう言いながら、レジャーシートから腰を上げ、左右に振って軽く柔軟体操をした。
「うん」
里香も僕の言動に応じて立ち上がり、話ながら海に入る準備をした。
「私、初めて海に入るのは、裕一と一緒が良かったから、嬉しいな」
彼女はそう言いながら、頭に被っていた麦わら帽子を取り、レジャーシートの上に置いた。
次に、上半身を隠していた白くてややゆったりとしたシャツを脱いだ。
すると、水着だけを着た里香の身体が、夏の日差しの中で露わになる。
彼女の着ているのは白いビキニタイプの水着だ。
上半身は肩紐付きで胸の中心にはリボンがあしらわれていて、下半身は紐で両サイドを留めているものだった。
その水着は、スレンダーな里香の身体のラインにぴったりと吸い付いて、とても僕の目には良かった。
まるで、裸の里香を見ているような気分にさせられたからだ。いや、下手な裸よりも良いかも知れない。
胸にあたっている布地の内側から、微かに乳首が存在を主張しているところなど素晴らしい。
「……やっぱり、一緒に買いに行ってよかったな」
僕が嬉しくて思わずそう言うと、里香も顔を綻ばせて返した。
「うん、裕一にそう言われると、私も嬉しいよ。やっぱり、普段の水着じゃつまらないから」
こういう場面で、『あんまりいやらしい目で見ないで!』等と里香が言わなくなったのは、僕と里香の関係が成熟したことによるものだろうか。
なお、慎ましやかなサイズの里香の胸の谷間には、縦に線状の手術痕が入っており、
それはビキニタイプの水着を着ると外から見えてしまう。
けれど、気にしなければそんなに目立つものでもないし、
何より、手術痕は僕と里香の思い出と絆の証なので、後ろめたいものではない。
それに、単純な理由で、里香にはビキニがよく似合うから買ったというだけのことなのだ。
そして、こうして実際に海辺で水着を着た里香は、とても可愛らしかった。
僕は、そんな里香と早く海で遊びたくて、彼女の手を取って浜辺へ急ぎ足で駆け出した。
「よし、タイムロスしちゃったんだし、さっさと泳ごうぜ」
僕に手を引かれながら、里香は僕を引き留めつつ話しかける。
「ちょっと裕一、海に入る時には、準備運動してからじゃなきゃ危ないでしょ!」
こんな時でも、里香は意外と真面目だったりする。普段からたまにプールで泳いでいる彼女なら、泳ぐこと自体は怖くないはずだ。
「あー、俺はさっきまで泳いでたから、する必要ないような気も……」
「じゃあ、私に準備運動の仕方を教えてよ。まさか、一人で先に入って遊ぶつもりじゃないでしょうね?」
このように、里香がちょっと子供っぽいことを言い出した時には、付き合ってやらないと後で意地悪をされてしまう。
「わかったわかった。真面目に教えるから、怒らないでくれよ」
「うんうん」
……というわけで、僕と里香は、ようやく二人で海に入ることが出来たのだった。
ようやく二人で海に入ることが出来た僕と里香は、水深がそんなに深くないところで、楽しく遊んでいた。
「やっぱり、プールとは全然違うね」
だいぶ海で泳ぐのに慣れてきた里香は、僕にそう言う位の余裕があった。
「まぁ、そりゃ天然だからなぁ……ってうわっ!」
僕が叫び声を上げたのは、里香がいきなり僕に向かって不意に海水を掛けてきたからだ。
「おいちょっと……いきなりやめてくれよ!」
「うふふ、先手必勝っていうじゃない? ほら!」
バシャッ!バシャッ!
「ああっもう、加減を知らないんだからっ! 今度はこっちから仕返しだぁっ!」
「裕一ごときにこの私が負けると思ってー? えい!」
僕と里香は、まるでさっきの子ども達のように、童心に帰って海でしばらくはしゃいだ。
……しばらくはしゃいでいると、流石に少し疲れてきて、僕たちは一度浅瀬の方へ向かい、海から上がることにした。
「里香、疲れてないか?」
足下を寄せては返す波にくすぐられながら、僕は里香の手を軽く引いてやりつつ、浜辺にあがっていく。
「うん、ちょっと疲れてるけど、大丈夫よ」
里香がそう言う限りは大丈夫なので、僕もそれ以上の心配はやめておいた。
「そっか、ならいいんだ」
しかし、次の瞬間僕は、そういうこととは無関係の理由で驚くことになる。
里香が、不意に少し真面目な口調になって言い出したことに、面食らわずにはいられなかったのだ。
「やっぱり私……子ども欲しいな」
「……え、子ども?……そ、そりゃ俺だってもちろん欲しいけど、どうして今そんな……?」
僕がびっくりするやら嬉しいやらで、当惑しながら返すと、里香は僕の目をじっと見つめて言葉を続けた。
「こうやって海で遊ぶの、私と裕一だけでも楽しいけど、その気持ちを共有出来る家族が、もっといたらいいなぁ……って」
里香は、吸い込まれそうな瞳を少しだけ潤ませながら、僕を見つめた。
その彼女の瞳の中には、今ここにないようなものを羨むような感情があった。
(あっ、今日会った子達を思い出しているのか……)
あの子達の無邪気で屈託のない振る舞いを見ていれば、自分たちも子供が欲しいと里香が感じてしまうのも無理はないだろう。
しかし、現実問題として、里香の身体が、妊娠・出産・育児に耐えられるかどうかは、僕にはまるで未知数だった。
それに、里香自身は既に覚悟を決めていたとしても、同じ覚悟を僕にもさせるということを、里香が望むどうかはわからない。
だから僕は、まず里香のことは言わずに、自分のことだけを絡めて返事をした。
「まぁ、真面目な話、俺の仕事も安定してきたから、一人くらいは大丈夫だと思うよ。まず一人だけならね」
僕がそう言うと、里香は苦笑いしながら返してきた。
「ほんとに? 裕一ったら、普段から甲斐性ないんだから……」
「心外だなぁ……こう見えても職場じゃ、愛妻家の働き者で通ってるんだぜ? それより、身体の方は大丈夫なのか?」
冗談を交えながら、僕は里香に身体のことを聞いた。彼女は必要以上に心配されることを嫌うが、聞かずにはいられなかった。
「愛妻家じゃなくて、恐妻家の間違いじゃないの? ……私の身体の方は、ここしばらくは大丈夫よ。
……実はこの前、詳しく調べてもらったら、体力作りさえしてれば、自然分娩しても問題ないだろうって」
里香は、少し罰が悪そうに、けれどもニコリと笑って言った。先ほどまでの表情が、ほとんど嘘のようだ。
「ええっ、いつの間にそんなこと調べてもらって……でも、よかったじゃないか! 自然分娩まで出来るのか!」
「裕一、医学は日進月歩なのよ?」
「いや〜、確かにそうだけどさ、」
里香に秘密を作られたこと自体は、僕にとって少しショックであったが、それ以上に、里香の身体の調子が良いことは喜ばしかった。
……そう気持ちの整理がつくと、僕の心の中では、どうにも止められそうにない欲求がムクムクと動き始めた。
そもそも、里香と一緒にこんな穴場の入り江に来たのも、そういうことを少し期待してのことではあった。
「……よし、じゃあ今からここで、子作りでもしようか?」
「ッ!?」
僕の口から飛び出たあまりに直接的な言葉に、今度は里香がびっくりさせられた。
更に僕は、里香が次の言葉を紡ぐ前に、彼女を両腕でしっかりと抱きしめ、そして口づけをした。
僕の舌は最初、里香の口内を無理矢理犯すようにしていたが、すぐに里香も唇を押しつけて舌を入れ返してきたので、
二人で舌を激しく絡ませ合わせることになった。
いや、舌だけではない。今や僕と里香の肢体全体が絡み合っていた。
もしここに第三者がいたら、浜辺で抱き合いながらディープキスをしている、随分と恥知らずなバカップルがいるのだなと感じたことだろう。
やがて、少し長い口づけが終わり、お互いの唇が、どちらからともなく離れた。
「ぷは――っ………だからさ、里香も子どもが欲しいんだよな? で、子どもが欲しいっていうことはさ……」
僕は唇を離してから間を置かずに、まだ息の荒い里香に畳み掛けた。
「そ、それはそうだけど……。でも……こんなところでなんて、まだ明るいのに」
もちろん、僕と里香はこれまでに幾度となく身体を重ねてきたが、流石にこんな時間にこんな場所でした経験はなかった。
僕の提案により、一瞬で面白いくらいに動揺している里香の肩を持って密着すると、頬に軽く口づけをして、僕は更に言った。
「海で泳ぐより気持ちいいと思うけど……それに、ここは穴場なんだから、きっと誰にも見られないよ?」
僕の囁くような言葉は、しかし波の音にかき消されずに里香の耳に届き、彼女の顔を更に激しく赤くさせた。
「……ゆ、裕一のお父さんが、若い頃に実はモテたって話、嘘じゃないかもね」
里香が顔を伏せつつ、意外なことを引き合いに出して来たので、僕はきょとんとしてしまった。
「え?」
「……もう、なんでもないわよ! ほら、行くんじゃないの?」
もう色々と恥ずかしくなってきた里香は、僕の手を引きながら陸側に歩き出す。
「あっ、あぁ。もちろん」
なんだか立場が多少逆転してしまったような気がするが、
とにかくそうやって、僕と里香は『海で泳ぐより気持ちいい』ことをするための場所を探すことにした……。