秋庭里香は不機嫌だった。
学校帰りに裕一の家に遊びに来たものの、部屋の主は暗室にこもって出てこない。
気を紛らわすために本棚から適当な本を選ぶ。
椅子に腰掛けて読み始めようとした途端に後ろにひっくり返る。
この椅子は背もたれが壊れているのだった。
以前にも同じことがあったことを思い出し、さらにはその先の自分の行動を思い出す。
少し照れて顔を赤くしながらあのときの書類を探す。
あのときと同じ場所に入っていた書類を何の気なしに広げてみる。
里香の目が大きく見開かれる。


僕が暗室から出てきたときから里香の様子がおかしかった。
なんだか顔が赤い。瞳も潤んでいるようだ。
「顔が赤いけど、風邪でもひいた?」
里香の額に手を当て、熱を測ろうとした途端に手がはたかれる。
「えっ、どうしたの?」
戸惑う僕。でも里香も自分の行動に驚いたような顔をしている。
「あ、ごめん…なさい。でも何でもないの」
あまり何でもないようには見えない。
「あ、晩御飯を作らなきゃ。少し待っててね」
逃げるように部屋から出る里香。僕は何が起きたのか分からずに呆然としていた。


秋庭里香は台所で深呼吸を繰り返す。
胸のドキドキがおさまらない。
「落ち着かなきゃ、落ち着かなきゃ」
自分に言い聞かせながら深呼吸を繰り返す。でも胸のドキドキはおさまらない。


僕と里香は母子家庭だ。
これまでは母親の帰りが遅くなると晩飯で悩んだものだが、ここのところ里香が作ってくれるようになった。
「かわいいなぁ」
心の中で呟いてみる。
セーラー服にエプロンを掛け、料理をする里香は凶悪にかわいい。
「かわいいなぁ」
もう一度呟いてみる。
料理をする里香の長い髪が揺れる。
食事中も里香の様子はおかしかった。
少し頬を赤くしたまま、うつむいて目を合わせてくれない。
具合が悪いのかと心配したけど、そうではないと否定された。
何か里香を怒らせるようなことをしただろうか。
里香に見つかるとまずい写真は厳重に保管してあるし…。

食事が終わってのんびりしていると、里香が話しかけてきた。
それでも相変わらずうつむいたまま、視線を合わせてくれない。
「さっきはごめんね。ちょっと驚いちゃって」
「いや、いいけど…。本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫…。でね、裕一。さっき見ちゃったんだ」
「見たって、何を?」
マズい。あの写真が見つかってしまったのか。
さっそく言い訳を考える。
「婚姻届」
蚊の鳴くような声で、真っ赤になりながら里香が答える。
僕の耳にその言葉が届いてから、脳で解釈されるまでに果てしなく時間がかかったように思えた。
「婚姻届って、ああ〜!!」
思わず叫ぶ。そういえば婚姻届に里香の名前を見つけ、僕もその隣に自分の名前を書いたのだった。
「嬉しかった。本当に嬉しかった。でも私みたいな女の子で本当にいいの?
いつ死んじゃうかも分からない。絶対に裕一の足手まといになっちゃう。
本当にそれでいいの!?」
里香が泣きながら叫ぶように言う。

そんな里香を見ながら僕は、あの書類に自分の名前を書いたときの気持ちを思い出していた。
そうだよ。里香がいるから、里香のためだったら世界全部と引き換えにしても惜しくはない。
その気持ちを正直に伝える。
「大丈夫だよ里香。里香がいいんだ。いや、里香じゃなきゃ駄目なんだ。
足手まといなんかじゃない。僕と一緒に居てくれないか」
少し早いかなとは思ったけど、前から言おうと思っていた台詞を言う。
「だから里香。もう少し経って僕が大人になったら、その書類を一緒に出しに行こうぜ。
そのときこそ僕のお嫁さんになってください」
言ってしまった。何をどう聞いてもプロポーズにしか思えない。

それを聞いた里香はより一層泣きながら、それでも幸せそうな顔をして「うん、うん」と頷いてくれたんだ。

だから僕は里香を抱きしめることにした。
里香は黙ってされるがままになっている。
僕は里香の耳元に口を寄せると
「ずっといっしょにいよう」
と、あのときの言葉を囁いたんだ。
それを聞いた里香は
「うん、ずっと一緒にいよう」
と答えると、飛び切りの笑顔で、僕に優しいキスをくれたんだ。


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