「寒いねぇ」
手を擦り合わせ、息を吐きかけながら里香が呟く。
「そうだな、早めに戻るか」
寒いのは里香の体にも僕の体にも良くない。
もう少し話をしていたいけど、聞くことを聞いたら早めに戻ることにしよう。
「なあ、里香」
「ん?」
北風に長い黒髪をなびかせ、里香の綺麗な黒い瞳が僕を捉える。
どきりと心臓が跳ね、体が少しだけ熱くなる。
「あ、あのさ」
ちょっとだけ首を傾げて、どうしたのと呟く。
その仕草にもまたドキドキして、頭の中が真っ白になる。
あれ、何を言うんだっけ。
くそ、忘れてしまった。病室で考えていたはずなのに。
「どうしたの?もう戻る?」
「あ、いや……」
何だっけ、何だっけ。
あ、そうだ。思い出した。
「その、里香さ、サンタっていると思うか?」
僕の問いかけに、里香は訝しげに眉をひそめた。
「サンタ?いるでしょ」
あー、うん。
何ていうのかな、里香って純粋なんだな。
僕は直感的にそう理解した。
「そっか、そうだよな、うん」
里香はくすくす笑いながら僕から視線を外した。
「去年までね、主治医の先生がサンタさんにプレゼントお願いしてくれてたんだよ」
「ふーん……優しい人なんだな。去年まで、って今年は?」
「うーん……」
聞くと里香は難しい顔をして腕組みをした。
「分かんない」
「分かんない、って?」
「お願いしてくれるかどうか分かんないの」
「忙しいのか?」
「多分ね」
好機だ、これが好機でなくて何だろう。
すかさず僕は里香に早口で提案した。
「じゃあさ、俺が頼んでこようか」
里香はその言葉にばっと振り向き、目を丸くする。
「裕一、サンタさんがいるところ知ってるの?」
きらきらと光る瞳で、破顔しながら、僕の方を向いて。
嬉しそうに、本当に嬉しそうに。
そして、僕にもその笑顔がうつったようだった。
「おう。知ってるぞ」
里香はよほど嬉しかったのか、今までの中でも指折りに数えられるほどの笑みを浮かべている。
ああ、いつもこんな表情ならいいのにな。
「じゃあね、えっとね……」
何やら呟きながら里香は顎に手を当てて、漫画のような典型的思考姿勢をとりながら虚空を見つめている。
多分何を貰うか考えているんだろう。
子供のような仕草に自然と笑みが浮かぶ。
北風が二人の間を駆け抜ける。そうだ、ここ屋上だったっけ。
「寒いだろ、病室で考えようぜ」
そう言って里香の手を取る。
里香も頷き、僕たちは病室に戻った。
結局その日は里香は考えあぐねるだけで、何をプレゼントにするかは決めなかった。
これが、一昨日。
「聞いてきたかい?」
その次の日の朝、点滴をしにきたはずの亜希子さんが開口一番そう言った。
聞いたきたか、というのはほかでもない。
昨日里香にサンタのことについて聞いたのは明子さんに助言されたからだ。
里香へのクリスマスプレゼントを考えていたところに亜希子さんにサンタを利用すればいいと言われた。
そんなわけで、昨日里香にあんな質問をしたわけだ。
「聞いてきましたよ、サンタは信じてるみたいでした」
亜希子さんはふぅん、と呟きながら点滴台に点滴のパックをセットした。
お願いだからミスりませんように。
「で、何が欲しいって?それによってあんたが買ってくるものも変わってくるでしょ」
「まだそれは言ってないんですけど……里香のことだから本とかじゃないですか」
「多分そうだろうけどねぇ……そうだとしたらいつもと一緒でつまらない気が……あ、外した」
ああもう、こうだから困るよ。
「ちょっ……痛いですってば!刺し直してください早く!」
「分かった分かった」
僕の悲痛な叫びに亜希子さんは点滴の針を抜いた。
「そんじゃま、次は入れるよ」
「……本当にお願いしますよ」
四回ほど刺し直した。新記録。
どうやら今日の里香の具合は良くないようだった。
顔色はあまり良くない。二言三言話して、すぐに本題に入る。
「里香、頼むプレゼント決まったか?」
そう言うと里香は少しだけ笑って、小さな声で言った。
「えっとね、本と手袋がいい」
「うん、本……手袋?」
里香に似合わない言葉に、鸚鵡返しに聞き返す。
元々外に出る機会は少ないのだし、暖房の効いている病院の中なら必要ないと思うのだけど……
その考えを汲み取ったのか、里香が口を開いた。
「これから散歩に行くとき、寒くなると思うから。裕一も、その方が心配しなくていいでしょ」
「う、うん。そうだな」
僕の心配、か。
里香もそういうこと、言うんだな。いや、そんなこと言ったら失礼か。
次の質問。
「本っていってもさ、色々あるだろ。何の本がいいんだ?」
里香は少し考えて、くすりと笑った。
「サンタさんに任せる」
それはまあ、間接的に僕に任せるということだろうか。
それが、昨日。
そして、今日。
僕は里香のプレゼントを買うため、病院を抜け出した。
といっても今日は病院に亜希子さん(と主治医の先生)の許可を得てのことだ。
ついでに亜希子さんにお小遣いを貰った。どうしても足りないときの予備だ。
駅前の通りは昼間の日差しに照らされている。
多分夜になれば、きらびやかなイルミネーションで照らされるんだろう。
コートの前を合わせて、足早に洋服店へ向かう。
里香の手に合うサイズの、できるだけ暖かいもの。
明日、目が覚めて手袋を見つけたら、どんな顔をするんだろう。
自然と顔がほころび、足取りが軽くなっていった。
そうそう、買う本も決めておかなければ。
里香の本の好みもしっかり思い出さなくちゃな。
病室の窓から、空を見つめる。
澄み渡った冬の空には綿埃のような雲がいくつも浮かんでいる。
町に出たら、多分クリスマスムード一色なのだろう。
私はその風景を、病院の中の飾りつけとテレビの中、
そして朧な小さい頃の記憶の中でしか知らない。
退院して、裕一と一緒にクリスマスを過ごしたい。
そう願うのは、ただの夢想だろうか。
――いや、夢じゃない。手術をして、命を永らえればいい。
そうすれば、一年くらいは生きられるはずだ。
そして、二人でクリスマスを過ごしたい。そう、二人っきりで。
いつも裕一に言う我侭より、少しだけ強い願望。
それくらいなら、許してくれるだろう、多分。裕一だって、きっと。
僕は悩んでいた。
手袋を買って、本屋に入って。
何の本を買うか、僕はひたすら悩んでいた。
とりあえず漫画ではない、小説だというのは分かる。
けど、何がいいだろうか。
太宰治、志賀直哉、井上靖、芥川龍之介……
馬鹿な僕が知っている文豪といえば教科書に載っているそこらへんの人々くらいだ。
いや別に文豪じゃなくてもいいのかもしれない。けれど、里香に上げる本ならば、
できるだけ内容のいい本をあげたいんだ。
「サンタに任せる……かぁ」
何を買ってもいい、とも変なのを買ってきたら許さない、とも取れる。
そもそも、里香はサンタを本当に信じているのだろうか。
僕がプレゼントを買ってくると分かっていてあの言葉を言ったんじゃないだろうか。
「………………」
まあ、いいか。
周りに立ち並ぶ小説の中から適当に二、三冊見繕って手に取る。
里香が持っていたとしても、わざわざ貰ったプレゼントを叩き返したりはしないだろう。
里香は喜ぶかな、怒るかな。
どっちにしても、クリスマスプレゼントを見つけたときの顔を想像すると顔がほころぶ。
顔に出そうになるニヤニヤを抑えて清算を済ませ、店を出た。
12月24日、11時30分ちょっとすぎ。
僕は用意したプレゼントを持って、スリッパを履いた。
目指すは里香の病室、クリスマスに病院に残っている不幸な患者さんたちを起こさないため、
そして見回りの看護婦さんに見つからないため迅速かつ静かにコトを進める必要がある。
ドアを開けるとどこからか吹き込んでくる冷たい風が身を突き刺した。
辺りを見回し、誰も居ないことを確認して小走りに東病棟のほうへ向かう。
……もしかしたら里香は起きているかもしれない。
前に砲台山に行くため里香の病室に行ったとき彼女は遅くまで起きていた。
しかも今日はクリスマスとなれば、もう少し遅くまで起きているかもしれない。
そうだとしたら、どうするかな。
東病棟と西病棟の間の渡り廊下で足を止め、里香の病室のほうを眺めながら呟く。
この迷っている時間も無駄なんじゃないか。そう思えてくる。
だってそうじゃないか。
里香が起きていたら起きていたで、突然の来客に目を丸くするだろう里香にプレゼントを渡せばいいんだ。
寝ていたら枕元にプレゼントを置き、明日の朝にでもどうだったか聞こう。
それでいいじゃないか。
里香が起きていようが寝ていようが関係ないんだ。
廊下の奥に目線を移し、歩みを進める。
何回、何十回と通った廊下。
この数週間で、何回僕の叫びと里香の怒声がここに響いたんだろうか。
数えるまでもないか。一日一回は怒られているようなもんだから。
看護婦さんに見つかることもなく里香の病室にたどり着いた。
ここからはさらに慎重に作業しなければならない。
出来るだけ静かに、体で廊下の僅かな光源を遮るようにしてドアを開ける。
体を病室の中に滑り込ませ、また静かにドアを閉める。
……どうやら、里香は寝ているようだった。
静かな病室の中で、小さく里香が寝息を立てているのが聞こえる。
忍び足でベッドのほうへ近寄ろうとするが、あまりにも暗すぎる。
仕方なく床に這うようにして壁の方へ寄り、窓辺へ向かう。
ベッドを回り込み、カーテンを開ける。
白いうすぼんやりとした月明かりが扇状に病室を照らし出す。
しかし、その淡い光も暗闇に慣れた僕の目には充分な灯りだった。
白いベッドとシーツに横たわる少女の姿がはっきりと見える。
女性的な体のライン、艶やかな黒い長い髪、綺麗な白い顔。
月の光に照らされた里香は、とてつもなく幻想的に見えた。
しばしその美しさに見とれて、時の経つのを忘れる。
と、廊下を通るカートのカラカラという音に我に返った。
こんなことしてる場合じゃない、プレゼントを置いてさっさと帰らないと誰かに見つかってしまうかもしれない。
そこで里香が起きてしまったら最悪だ、何の意味もなくなる。
紙袋から小説を取り出し、ふと思う。
カバーを外したほうがいいのか。
一応サンタからの贈り物という設定だし、カバーはつけないほうがいいかな。
そう思って、カバーを外し、そっと枕元に置く。
里香が寝返りを打って表紙の端が折れないことを祈ろう。
微かな光を手がかりにドアを開け、外に出る。
部屋を出る間際、小さく呟く。
里香が起きない程度の小さな声で、けれど確かに、声に出して。
「おやすみ、里香。メリークリスマス」
で、次の日。
またしても亜希子さんが点滴の当番だった。
「もしかして、昨日の戦績聞くために役変わってもらったりしたんですか」
そう聞くと亜希子さんはニヤニヤ笑った。
「まあね、首尾はどうだった?」
「どうって言われても、里香寝てましたし」
亜希子さんは手際良く点滴台に点滴のパックをセットし、針を僕の腕に刺した。
「うし、今日は多分オッケー」
「それが普通だと思うんですけど」
「うるさい」
ばしん、と頭を叩かれた。理不尽だ。
亜希子さんは勝手に丸椅子を引っ張り出してベッドの横に座った。
「でさ、何置いてきたわけ」
プレゼントは何にしたか、というわけだろう。
「本ですよ、本。小説」
「あー、やっぱり。里香らしいねえ」
「結構迷ったんですよ、何の本にするかはサンタに任せるって言われて」
「裕一任せってことか、信頼されてるじゃないの」
亜希子さんはそう笑うと、メリークリスマス、と部屋を出た。
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