夜の病院は静かだ。
時折看護師さんだろう誰かがコトコトという音を引き連れて歩いていく音が聞こえるが、
物音といえばそれと自分がベッドの中で動く衣擦れの音だけだ。
そして、それが眠れない時であったりするとなぜか頭にくる。

「ああ……もう……」

決して心地良いベッドではない。
秋口だというのに、いきなり熱帯夜になったらしい、ああイライラする。
つい一昨日散歩している間に変えてもらった羽根布団とお腹だけにかけて、
ベッドの中をゴロゴロと冷たい場所を求めて転がる。
といっても一瞬寝転んだだけでその場所は暖まるうえに、つい一瞬前までそこに寝転がっていたので
ベッドの冷たい場所など探す方が無駄というものだ。

「……暑い……」

そう呟いてみても状況が変わるわけでもない。
ここが小部屋でなく何人か入っている部屋なら手洗い用の洗面台があっただろう。
しかしここは小部屋で、ないものを願ってもランプの魔精に願ったようには出てこない。
トイレに行って顔洗ってこようかな、と思ったが東病棟には尿瓶で用を足す人が多いためトイレは少なく、
必然的にこの部屋からトイレまでの距離は長くなる。
消灯時間を過ぎてからトイレに行っているところを誰かに見咎められたら怒られるだろう。
……まあ、自分ならのらりくらりと適当に相手をかわせるかもしれないが。
「うぅ」

唸りながらベッドから上半身だけ起こし、手で団扇のように顔を扇ぐ。

「裕一ぃ……暑いぃ……」

今頃西病棟の方でぐっすりと眠りこけているだろう無神経な恋人のことを思い浮かべる。
……つい先日交わしたキスのことを思い出す。さらに顔が熱くなる。

――かえって暑くなったじゃないの、このバカッ!

顔が赤くなったのを感じながらボフンと羽根布団ごしにベッドを叩く。
その振動が硬いスプリングのベッドに共鳴して自分の軽い体をほんの少し浮かせる。
自分でも八つ当たりだというのは分かっているが、それでもこのこの暑さを紛らわすためには
そのくらいしかできなかったのだ。
ため息をついて、またベッドに転がる。
起きた時間の分、ベッドが冷たくなっていた。 ――焼け石に水、そんな言葉が脳裏をよぎったが。
もう一度、ため息をつく。
この分では明日の朝朝の放送でも起きられず、朝食の時に起こされることになるかもしれない。
……とりあえず、寝よう。
目を閉じる。
転がる。
唸る。
目を開ける。扇ぐ。
目を閉じる。唸る。
扇ぐ、転がる、目を開ける。
転がる目を閉じる唸る転がる扇ぐ目を開ける――

そこで嫌になってまた上体を起こした。
いい加減そろそろ寝たい。というか、暑い。
こうなったら起こられるのを覚悟でトイレに行って水を……

と、外で音がした。
何かを落とすような、軽い音。
耳に馴染んだ音であることから、恐らく本か何かを落としたのだろう。
看護師が本を読むのだろうか、この暗闇で?
まあ、看護師も暇なのだろう、ペンライトか何かを持って本を読んでいたとしても不思議ではない。
何にしてもこれでトイレには行けなくなった、水は期待できない――
と、引き戸式のドアが音も立てずゆっくりと開いた。
一瞬、いくつもの怪談が頭をかすめた。
怨霊と化した看護婦が、「ゴメンナサイゴメンナサイ」と呟きながら毒の入った注射を打つ――。
不慮の事故で搬送先の病院で死んだ人が「呪ッテヤル呪ッテヤル」と医者の耳元で呟く――。
裕一から聞かされた怪談、本で読んだ怪談。
ぎゅ、と目を瞑る。
このまま寝れば、亡霊にとり憑かれることも、看護師に咎められることもない……

「里香?」

一瞬、幻聴かとも思った。
裕一の声。毎日みかんをぶつけて、笑いあっている、大切な人の声。
顔は動かさず、目線だけをドアのほうに向ける。と同時にゴソゴソと音がして、ドアが静かに閉まった。
ドアから漏れ出していた朧な光が遮られ、侵入者の姿が見えなくなる。

「……里香、起きてるか?」

囁くような、小さな声。
私が寝ていることを考えてそんな声にしているのだろう。
とりあえず無言で目線を向けてみる。
体は動かさず、衣擦れの音を出さないように気をつける。
……無言でも戸惑ってる気配を感じる、面白い。
思わず口元が緩みかけるが、必死にこらえて見守ってみる。
結果、その人影はあっさり諦めた。
私が寝ていると思い込むとスリッパの音を隠そうともせずドアの方へ向かう。
笑いをこらえきれずに苦笑を漏らしながら上体を起こす。
裕一がびくついたように振り返ったのがスリッパの音で分かった。

「裕一」

一言。
その一言で裕一は安心したように私に歩み寄ってきた。

「起きてたなら言えよ、寝てるかと思ったぞ」
「ふふ、面白かったもん」

裕一が壁にぶつかりながらベッドに座ると、硬いスプリングがきしんで私の体もいっしょに沈みこんだ。
……そのまま、手探りで裕一の手を探し出して、自分の手をそっと重ねる。
不思議だな、こんな暑い夜でも、裕一の手は何だか冷たい。
そういえば、手が冷たい人は心の中があったかいってどこかで聞いたことあるな。

「え……あ……り、里香?」

この男、明らかに挙動不審である。
ついでに追い討ちをかけてみよう。

「裕一の手、おっきいね」
完全に裕一は固まった。
ついこの前私にキスしたあの度胸はどこへやら、だ。
全く、どうせならここで押し倒すくらいやったらどうなのだろうかこのヌケサクは。

「で、何しにきたの?」

裕一の硬直が解けた頃を見計らって話しかけてみる。
狙いは大体分かるが一応聞いておいた方がいいだろう、話してるうちに眠くなるかもしれないし。

「あ……ああ、ちょっと暑かったから……」

少しびくついたように手汗をかきながらの返答。
そっと握る手に力を入れながら、しかしそれとは逆の意味を持つ言葉をぶつける。

「へぇ、暑かったらこんな夜中に私の病室に来ていいんだ?」
「いや、それは……」
「看護婦さんに怒られるかもしれないのに、私が寝てるか起きてるかも確認しないで来ちゃうんだ?」
「……」
「それで私が起きてるってわかったら、私のこと何も考えずに話しちゃうんだ?」

声のトーンを落としての言葉のマシンガン。
裕一の返答など気にせず、ただひたすら唇を動かす。
それに耐えかねたのか、裕一は私の手を振り払った。
……途端に、病室の中の闇が濃くなった気がした。
裕一と繋いでいた手が離れて、急に遠くなったように感じられた。
心細くなって、闇に向かって呟いてみる。

「……裕一?」
「……ん?何?」

別に変わったことは無い、とでも言いたげな感じで私の左側、ドアと逆側から――
つまり、たった今まで裕一が座っていた場所と逆側から声がした。
いつの間に移動したのだろう、と思った瞬間に朧な月の光が窓から入り込んだ。
光は立ち上がった裕一の体で半分ほど隠れていたが、暗闇に慣れた目にはその程度でも眩しかった。
やっと見えた、とばかりに裕一は笑い、そのままベッドに腰掛けた。

「な、里香」

淡い月明かりの下の、裕一の笑み。
心臓がトクンと跳ねた気がした。
そういえば、こういう緊張で心臓の活動が激しくなると負担がかかったりするのかな――
考えも、裕一の手が伸びてきたことで中断させられた。
ゆっくりと、円を描くようにして頭を撫でられる。
嫌悪感は微塵も感じず、はふと力なくため息が漏れた。
今の今まで重ねていた手は、なんだか重ねていた時より大きく、そして優しく思えた。
――数日前キスをした体験が、また脳裏をよぎった。
そっと重ねた、柔らかい感触。
背伸びをしたとき、腰に巻かれた腕の温かさ。
そして、今と同じように頭を撫でられた心地良さ。
多分、今ならキスをしても文句なんて言われないだろう。
けれど今は頭を撫でられていたかった。
キスをしたら、また……その、変な気分にさせられる気がしたから。

そのまま、頭を撫でられたままで時間が流れる。
と、外でカタカタとキャスターを動かす音がした。
裕一がビクリと身を震わせ、慌ててベッドの陰に身を隠す。
結局その音を立てたのであろうキャスターの主は私の病室には入らず前の廊下を通り過ぎていった。
少しして裕一が身を起こすと、私は見せつけるようにクスクスと笑ってやった。
裕一がバツの悪そうな顔で、

「笑うなよ」

と言ったのがまたおかしくて、つい声を上げて笑いそうになってしまった。
そして、少しずつ瞼が重くなってくる。眠気が襲ってきたようだ。
そのまま、ベッドの上に体を投げ出す。
裕一が不満そうに唇を尖らせた。

「……もう寝るのか?」
「『もう』って何よ、消灯時間とっくに過ぎてるじゃない。
 それに、そっちが勝手にここに来ただけでしょ、いつ寝ようと私の勝手」
「……はいはい、分かりましたよ」

短い会話を交わした後、裕一がカーテンを閉じる。
少し太り始めた半分の月は闇に消え、裕一の姿も黒に染まる。
スリッパをひきずる短い音の後、裕一は音も立てずドアをゆっくりと開けた。

「……おやすみ、裕一」

眠る前に、裕一が外へ出る前に。
そう一言かけると、裕一は振り返って

「おやすみ、里香」

優しい言葉を、返してくれた。
ドアが閉じられ、暗闇が戻る。
……もう暑さは感じず、不思議な満足感だけが胸の中に残り、
その満足感は私を闇の中へ誘った。

――おやすみ、裕一。また、明日ね。

できれば、そう言える日がずっと続けばいいのにな――。


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