半分の月がのぼる空 ―What he will.―
「かんぱぁぁぁぁぁぁあい!」
互いにジョッキをぶつけ合ってから、一気に中身を半分ほど飲み干した。炭酸が口の中で
弾けて、ビールが喉を滑り落ちる感触がたまらない。
ああ、うめぇ。マジでうまいよ。こんなうまいビールは初めてだ。こう、なんていうか、
思わず体が震えるようなさ。こういうのを五臓六腑に染み渡るっていうんだろうな。
「くぅー……」
思わず声を漏らしてしまった僕を見て、安川さんが笑う。
「まだ若いのに親父くせぇな、戎崎。そんなにうまいか?」
僕も笑い返す。
「いやー、もう最高っすね。生きてて良かったっす」
「だよなぁ。こういう時は、大人になって良かったと思うよなぁ」
ですよね、と安川さんに同意しながら、もう一度ジョッキを傾けてビールを口に流し込んだ。
うん、やっぱ最高。
今は、僕が勤めている会社の打ち上げをしているところだ。半年くらいの間、ずっと取り
組んでいた大きなプロジェクトが、何とか成功で終わったのがついさっき。そのまま
プロジェクトチームで居酒屋になだれ込み、打ち上げが始まった。
もう何日もろくに寝ていないせいなのか、ここ一ヵ月まったく休みが取れなかった分を取り返そうと
するように、全員がすごい勢いで浮かれている。
「ほんと、一時はどうなることかと思った」
チームの責任者をしている三島さんが、ジョッキを片手にしみじみと呟いた。
「先方は納期無視して仕様変更とか平気でするし、貰った資料は穴だらけだしさ。
胃に穴が開きそうだったね」
「やー、三島さん、一時期物凄い形相で仕事してましたからね。見てるこっちがハラハラ
しましたよ」
「つーかクライアントうざかったっすねー。『え? できないの?』じゃねーよ!
お前そんなの動かすのにどんだけスペック必要だと思ってんだ!
それともあれか? お前のマシンはメモリをテラ単位で積んでるとでも言うのかコラァ!」
「『あ、この仕様変更になったから。よろしく』。部長死ねえええええええええ!
お前は目の前にある現場の惨状を見てないのか!」
「よく完成したよな、ほんと」
この半年間の苦労を語る、チーム全員の顔が充実感と達成感に溢れていた。もちろん、僕
自身もめちゃめちゃいい気分だ。
それにしても、と三島さんは苦笑しつつ前置きして、
「戎崎も、安心して大事な仕事任せられるようになったな」
「え、マジですか! ありがとうございます!」
「うん、ほんと戎崎は成長した。次は、小さめの案件で主任をやってみるか?」
安川さんも同意してくれた。二人とも仕事が出来て格好良くて、いかにも大人の男という
感じなので、僕は密かに尊敬している。この二人が言うのなら、お世辞や冗談ではないんだ
ろう。僕は更に浮かれる。ああもうすげぇ嬉しいよ。半端ねぇよ。最強だよ僕。
新しく届いたジョッキを引っつかんで、一気に煽る。
僕自身への祝杯だ。
「さむ……」
最初に入った居酒屋を出た。アルコールで火照った体に吹きつける夜風はいつも以上に冷たく
感じられて、僕はコートの前をかき合わせる。
「次どうしますー?」
「んー、誰かいい店知らない?」
先輩達はまだまだ飲むつもりらしく、二次会の相談をしている。僕はどうしようか。
酒、あんまり強くないんだよな。これ以上はヤバイかな。
話し合う先輩達が作る輪から少し離れて、空を見上げてみた。雲で覆われている空には、
当然だけど月も星も無い。いやまぁ、晴れてても東京だと星なんてほとんど見えないんだけどさ。
何せ、日本一の大都会だし。僕が生まれ育った――まぁ一応生まれ故郷ってことになるんだけど、
伊勢は田舎だったから、東京よりはまだ多くの星が見えた。夜になると真っ暗だもんな、あそこは。
街灯とか、ほんと少ないんだ。
「戎崎くん」
話し掛けられていると気付くのに時間がかかった。ああ、やっぱりちょっと飲み過ぎてるのかな。
伊勢のこと思い出すなんて。こっちに来てから、そういうホームシックみたいなのって
全然無かったのに。参ったな。
「……あ、佐和さん。次の店決まったんですか? 申し訳無いんですけど、僕はこれ以上飲むと
ちょっとまずいんで、この辺で――」
「いや、そうじゃないんだけど、ちょっといい?」
何だろう。
酒のせいか、佐和さんの顔が赤い。ちょっとためらうように視線を泳がせてから、意を決した
ように僕の方を向いて、
「二次会すっぽかして、二人だけで飲まない?」
まだ相談していた先輩達の目を盗みながら抜け出して、入ったのは洒落た雰囲気のバーだった。
前に行った居酒屋とは違って、純粋に酒を楽しむような感じだ。
佐和さんはカクテルを、僕は水割りをそれぞれ注文する。アルコールに弱い僕はこういう店に
来たことがないので、どうにも落ちつかない。ちょっと前まで学生をしていた僕が、こんなバー
に来ているのが何だか不思議だった。
――でも、よく考えると、大学出て社会人になってからもう三年も経ってるんだよな。うん、
今更だけど、ものすごい大発見でもした気分だ。そうか。
僕はもう、大人になったんだ。
「……にしても、どうしたんですか? いきなり二人で飲もうなんて。先輩達、今頃慌ててますよ」
出された水割りをちびりと飲む。あ、美味しい。すげぇ飲みやすいな、これ。
ピッチを上げ過ぎないようにしなきゃ。
「まぁ、いいじゃない。理由が無くてもお酒は飲めるでしょう?」
「……三島さん、僕らが居ないことに気付いたら、また泣いちゃいますよ」
あの人はかなりの泣き上戸だ。酒が入ると、素面の時は無視するようなどうでもいいことでも
号泣してしまう。普段はあんなにかっこいい人なんだけど。
「いいのいいの。えーとじゃあね、うちの会社に入ってからずーっと面倒を見てきた戎崎くんの
成長を祝う、ってことにしよう」
「どうなっても知らないっすよ、僕は」
そんなことを言いつつも、僕は内心嬉しくて仕方がなかった。顔がにやけそうになるのを何とか
抑える。でも無理だ。うはは。だって佐和さんの方から、二人だけで飲もうって誘ってくれたんだぜ。
これはあれかな。
あと一歩を、踏み出していいってことなのかな。
僕のことを、好いてくれてるのかな。
「戎崎くん?」
ちょっとの間呆けてしまった僕の顔を、佐和さんが覗きこんでいた。目が合う。
佐和さんの目は潤んでいて、顔はさっきよりももっと赤くて、
ちょっと上目遣いで僕の様子を伺うようにしていて――。
抱き締めたい。思いっきり、力の限り、抱き締めたい。
唐突に、そう思った。
「えざきくーん? どうしたのさー」
甘えるようにして語尾を伸ばした声。
「……なんでもないっす。すいません」
うはは、と笑ってごまかす。佐和さんもえへへ、と笑って、一気にカクテルを干す。
すげぇ。あれ、結構強いはずだよな。よし。僕も負けじと水割りを空け、佐和さんがやるじゃないと笑って、
それに笑い返してロックを頼む。
とりあえず、今は飲もう。
そして、その後は――。
――まぁその後色々とあってさ、それで結局今なにをしているのかっていうと、
要するに、ホテルにいるわけで、それはもちろん、何て言うか、その、そういうことをするためのところだ。
何だよこの展開の早さ。
佐和さんは先にシャワーを浴びている。僕はベッドに腰掛けて、その辺のものを手に取ったり、
化粧台の引き出しを開け閉めしたり、テレビの電源を点けたり消したりしていた。
自分の事ながら情けないけど、落ち着かない。心が浮き上がって、地についていない感じだ。
でも佐和さんだぜ? 新人教育の頃から、ずっと憧れてた人なんだ。
ちょっと位浮かれたって、まぁ、許されるよな。
テレビをまた点けてチャンネルをまわす化粧品のCMお笑い番組スポーツニューストーク番組清涼飲料水のCM消して化粧台の引き出し一番上は空二番目も空三番目幸せ家族計画。
幸せ家族計画。
「……………………」
思考停止した僕を救ったのは、洗面所のドアが開く音と、
「戎崎くーん、シャワーどーぞー」
という佐和さんの声だった。
何故か慌てて引き出しを閉めて、何とか声を出す。
「ぁぁあ、はい」
ああ、なんて情けない返事をしてるんだ僕は。
立ちあがりながら振り返ると、バスローブ姿の佐和さんが目に入ってきた。
上気した顔。
潤んだ瞳。
艶やかに濡れた髪。
「――――――」
「?」
固まってしまった僕を、佐和さんが不思議そうに見る。
「……あ、しゃ、シャワー浴びます」
自分でもよくわからない宣言をして、洗面所に逃げた。
ああ、情けねぇ。
情けねぇよ、戎崎裕一。
シャワーの設定温度を水直前まで下げる。頭を冷やさなきゃ。
さっきはやばかった。佐和さんがあんなに色っぽいなんてさ。
いつも見慣れてる人のはずなのに、場所とか状況が変わるだけで、あんなにも綺麗に見える。不思議だ。
ああいや、佐和さんはいつも綺麗なんだけど、さっきは特別ってことだ。別にいつもが――
ん?
あれ?
「……誰に言い訳してるんだ」
思わず自分で自分に突っ込んでしまった。浴室の壁に額をくっ付けて熱を逃がす。
落ち着けよ、僕。
別に今回が初めてってわけじゃ、
瞬間。
目に入る浴室の壁も、額に当たる硬い感触も、跳ねる水音も、全てが遠ざかっていった。
僕の中で、意味が持つものが消えていく。
後に残るのは、白いうなじ、暖かい肌の感触、鳴らないインターホン、射精の快感、
また会おうね、六月の霧雨、濡れて腕に張りつくシャツ、青い顔で迎える母親。
……忘れたんだと思ってた。
もうとっくに、そんな昔のことは忘れてしまったんだと、そう思ってた。
この糞下らない日常の中に埋もれて、もう二度と、絶対に思い出すことは無いと、そう思っていたんだ。
僕の中で誰かが叫ぶ。もう随分と長い間、ただ黙っていた誰かが。
おい、違うだろお前。お前は忘れたんじゃない。忘れたかったんだ。
そうして忘れたふりをして、逃げているだけなんだよ。お前自身だって本当はわかってるんだろ?
いいか、耳かっぽじってよく聞け。俺がお前に教えてやる。
お前は彼女のこと、あの時のことを忘れてなんか――
「……うるせぇよ」
僕は呟いた。
ああそうさ、そうなのかもしれない。でもな、もうそんなのは昔の話なんだよ。わかるか?
もう十年も経ってるんだ。もうどうにもなんねぇんだよ。
そんなもん、いつまでも気にしててもしょうがないだろうが。
僕だってな、あんなガキだった頃とはもう違うんだ。
僕はもう、大人になったんだ。
好きな人と、セックスもするさ。
それも、今回が初めてってわけじゃない。
全ての感覚が戻ってくる。シャワーが再び体を叩き始めた。
水を止めて、僕は浴室を出る。
「随分長かったじゃない」
ベッドに腰掛けた佐和さんが微笑む。僕は何も言わないまま近づいていって、
「えっ」
佐和さんをいきなり押し倒した。
「ちょ、ちょっと……戎崎くん?」
佐和さんは戸惑ったように僕の顔を見ている。佐和さんの体温を感じた。
溢れ出ようとしてくる何かを必死で抑える。ああ、僕は今どんな顔をしてるんだろう。
興奮しているのか。そうでないのか。どうでもいいや。
そのまま顔を近づけ、キスをした。
初めは軽く、唇を合わせる程度に。佐和さんの見開かれた目を見つめながら、
舌を口の中にねじ込んで、佐和さんのものと絡ませた。
シャワーで喉が乾いているのか、佐和さんの口内は唾液の量が少ない。
舌を通じて、最初から溜めこんでおいた僕の唾液を思いっきり流し込む。舌で思いっきり掻きまわす。
「ん、んむぅ、んぅ……」
佐和さんの苦しげな声と、ピチャピチャという水音だけが聞こえる。
舌を絡めるのをやめて、佐和さんの口の中を舌の届く限り舐めまわす。
「んぁ……んっ……」
佐和さんの声が更に苦しげになる。僕も息が苦しくなってきたので、とりあえず唇を離した。
「ふはぁ、はぁ、はぁ、は……」
「ふぅ……」
息を整える間も、お互いに見つめ合い続けていた。
……今日一日で佐和さんの顔が紅潮しているのを随分見た気がするけど、今が一番赤かった。
口の周りに唾液が付いているのが、ひどくいやらしい。
間を作っちゃ駄目だ。思い出してしまう。今は、目の前の佐和さんのことだけを考えろ。
「ちょっと、戎崎く――ひゃぁ!」
何とか息を整えて、佐和さんが文句を言いかける。そのバスローブを、一気にはだけた。
すらりときれいな肩と、ちょっと小さいけど形の整った胸があらわになる。
胸に手を伸ばそうとして、
「だぁ!」
いきなり、佐和さんに抱きつかれた。動けなくなる。
「あぁもう、もっとこう、色々と順序ってもんがあるでしょうが、戎崎くん!」
僕の目に飛び込んできたのは、――きれいな曲線をしている、白いうなじ。
肌では、佐和さんの暖かい体を感じている。
そう。あの時と、同じ。白いうなじと、暖かい体温。
――――もう、駄目だ。さっきから必死で思い出さないようにしていたそれが、
あっという間に僕の頭を埋め尽くしていく。
全てがまた遠ざかる。全てが意味を喪失していく。
そして残るのはやはり、白いうなじ、暖かい肌の感触、鳴らないインターホン、
射精の快感、また会おうね、六月の霧雨、濡れて腕に張りつくシャツ、青い顔で迎える母親。
裕一、その、さっき、病院から電話があってね。
僕の中の誰かが勝ち誇る。ほらな、やっぱりお前は忘れることなんて出来ないんだよ。
大人になった? それで何か変わったのか? 何が変わったんだ?
さっき、それは昔の話だって言ったな。だが本当に、お前はそう思っているのか?
そうじゃないだろ? 今、そうして思い出して固まってるのが何よりの証拠だ。
お前にはもう、忘れてしまうことなんて出来やしない。
あの時全てを放って逃げ出したお前が、解放されることなんて無いんだ。
あの、若葉病院の方からなんだけど、そこでお世話になった、谷崎さんって看護婦さんが居たじゃない?
違う。逃げたんじゃねぇよ。どうしようもなかったんだよ。だってそうだろ?
あの時、僕に何が出来たっていうんだよ? なぁ? じゃあどうすればよかったんだよ?
壊れたカメラ。右足に張りつけた写真。優し過ぎる笑顔。
何一つ届かない。話すことも、会うことも、見ることすら出来なかったんだぞ。
なぁ。答えろよ! どうすればよかったんだよ!
僕なんかが何やってもな、どうしようもねぇことなんざ、世の中にはいくらでもあるんだよ!
僕はもう知ってるんだよそんなこと! もうあんなガキじゃねぇんだ、それが大人なんだよ!
その谷崎さんからだったんだけどね。その、ね。裕一が仲良くしてたあの女の子が――――。
「――――ん! ――崎くん! 戎崎くん! ねぇ!」
気が付くと、ベッドの上で膝立ちになった佐和さんが、同じようにして座り込んだ僕の肩を揺らしていた。
顔が真っ青だ。さっきまでは、あんな赤い顔だったのに。
「……佐和さん、顔が真っ青ですよ。大丈夫ですか?」
「何言ってるの! 戎崎くんがいきなり動かなくなるから!
心配なのはこっちよ! ねぇ! 大丈夫なの!?」
ああ、そっか。僕はそんなになってたのか。そういや確かに、頭がめちゃくちゃ痛い。
参ったな。やっぱり、飲み過ぎてたのかな。
「……あー、ちょっと頭が痛いですけど、大丈夫っすよ。
多分ちょっと飲み過ぎただけだと思います」
「……本当に? さっきの様子、普通じゃなかったわよ? 動ける? 救急車呼ぶ?」
いやそんな大丈夫ですってうはは、と笑おうとしたけど、頭が痛くて無理だった。
笑顔になりきれていない変な顔をしているのをわかっていながら、それでも僕はへらへら笑おうとする。
……ああ、もう、馬鹿みたいだよな。ほんとにさ。
ここからだと使う路線が違うから、駅まで一緒に行くことは出来ない。
心配して家まで送ろうとする佐和さんを何とか説得して、結局ホテルの出口で別れた。
もちろん、その、ホテルに入った目的は果たせていない。
佐和さんには本当に失礼なことをしてしまった。後できちんと謝っとかないと。
駅へ向かう途中、細かい霧雨が降ってきた。
あんまり濡れはしないけど、そのままだと体が冷えて風邪をひいてしまう。
鞄を頭の上に載せて走り出そうとしたけど、
「うぇ……」
そうした途端に、すごい頭痛と吐き気がこみ上げてくる。まずい。抑えきれない。
すぐそばの塀に手をついて、そのまま吐いてしまった。
胃の中身が逆流する感触とひどい味に耐える。ああ、なにやってるんだろう。
これじゃ、まるであのクソ親父と同じじゃないか。悪酔いしてその辺に吐くなんて最悪だ。
出すものをあらかた出して、崩れるようにその場に座り込む。
冷たい冬の雨が、身体の芯までしみこんでくるような気がした。
おかしいな。今日はプロジェクトも無事終わって、三島さんたちにも褒められて、
佐和さんに誘われて――最高の一日だった筈なのにさ。どうしてこんなことになったんだ。
マジで最低だ。どこで間違えたんだろう。
……それとも、間違えたのは、今日じゃなくて――――
「っと」
携帯が鳴っていた。この着信音は電話だ。えー、どこしまったっけ。
確かワイシャツの胸ポケットに入れた記憶があるんだけど。……あった。
画面の表示を見ると、伊勢に住んでいる親戚のおばさんからだった。
親戚と言っても、伊勢に住んでいてさえ正月と盆くらいにしか会わないような、まぁそういう関係の人だ。
当然、普段は連絡なんてとらないし、東京に来てからは一度も会ってない。何の用だろう。
「もしもし、裕一です。お久しぶりです。
はい、あー、今日はちょっと仕事で遅くなってて、まだ外なんですよ。
…………はい。……って母が?」
背筋が凍りついた。
「それで、…………ああなんだ、まったく。あーはい、わかりました。
すぐ行きます。はい、それじゃ、明日駅で。細かい時間はまたすぐ連絡します。
携帯にメールしときますんで。はい。すいません、よろしくお願いします。はい、失礼します」
電源を切って、一息つく。母さんが倒れたと聞いたときには、さすがに緊張した。
だけどまぁ、大したことはないそうで、何日か入院していればまったく問題は無いらしい。
その入院も、念には念を入れて、のことだそうだ。
歳なんだし、そろそろもうちょっと自重して欲しいんだけどな。
携帯をポケットにしまって、僕は立ち上がった。
――まさか、こんなかたちで伊勢に帰ることになるなんて、思いもしなかった。
結局、今年の正月にも帰省しなかったし。
いやまぁ、母さんのことを普段から考えてれば、意外でもなんでもないんだろうけどさ。
母さんも近所付き合いを楽しんでいるようで、頻繁に旅行とか行ってるし。
寂しくなさそうっていうか、帰るとむしろ嫌そうな顔をされるくらいだ。
まぁ照れ隠しとかかもしれないけど、わざわざ新幹線を使って実家に帰ってまで、
誰かのウンザリした顔を見たいとは誰も思わないよな。
時計を見る。確か、東京駅から名古屋行きの寝台列車が出ていた。
まだギリギリ間に合う。仕事のほうも一段落したところだし、まとめて有給をとっても大丈夫な筈だ。
――――こうして今、伊勢に帰って。僕は、何を思うんだろう。
頭に浮かんでくる何かを振り払うため。
僕は、駅に向かって走り始めた。
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