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 そういえば、晶の笑った顔を見たことがない。優子がそれに気付いたのはまだ残暑の残る九月、ホテルの屋上にあるプールの中だった。
 透明度の高い水だ。水面から水底へと鋭角に差し込んでいる何本もの光の柱の向こうに、プールの端で戯れる女達のオレンジ色の水着が見える。
 これといった趣味のない優子にも、ひとつだけ好きなことがあった。泳ぐでもなくただ水の中に沈んで、水底の景色を眺めるのが好きなのであった。優子はぼんやりと晶のことを考えながらも、息を止めてプールの中に潜っていた。
 ゆれる水面を透過した太陽の光が水底によりそい、斑もようになってプールの底を舐めている。水は絶え間なく、そよ風に撫でられただけで節操なく揺れ動いて、そのために光のかたちが次々と変えられている。
 優子には、晶のような意志の固さはない。この時期のプールはまだ混んでいるから私たちは行かないと言われて、じゃあ一人で行くと言えるような強さはない。だからこそ、優子は晶についてきたのだ。今日も、今までも、これからもきっと。
 下から見る水面は、磨き込まれたメタリックのように冷たく硬い輝きでたゆたい、空の色とも水の色ともつかぬ青色に揺らいでいる。
 晶は誰にも影響を受けない。そして誰にも屈さない。決して折れず、決して曲がらず、決して変わらずにその硬さと強さで決然と自己主張する。
 空一面に広がる透き通った青色の隅に、素晴らしくくっきりとした輪郭を持つ入道雲が見える。水面に立ち上がった優子の周りから波の輪が広がり、その景色を規則的にゆがめていく。また、濡れて垂れ下がった優子の髪から滴が落ち、いくつもの小さな波紋が景色の上に生まれる。
「ねえ」
 プールサイドから声がかかる。
 目尻の尖った黒い眼。あかい唇には『無表情』という名の笑みが浮かんでいる。細く長い指先に銀色のマニキュアが塗られ、小さなスプーンをつまんでいる。
 優子は、プールサイドで椅子に座ってゼリーを食べている晶を見た。
「そろそろ出ようか。もう十分楽しんだわ」
 彼女はそう言い、テーブルに肘をついたままで斜に構えて優子を見下ろしていた。
「うん。……晶ちゃんがそう言うなら」
 優子はプールから晶を見上げて、いつものように晶に意思を委ねた。
 晶が、まだ口をつけていないゼリーのなめらかな表面をスプーンでぴたぴたと叩いた。皿に乗せられた円柱形のゼラチンが微かに震えている。
 そのゼリーはカップから皿の上にほうり出されてもきちんとした輪郭を保っていた。しっかりとした形を持った水の中に、あかい果実が浮かんでいる。優子はゼラチンの輪郭と空気との境の凛とした線を、うつくしいと思って眺めていた。
 晶のスプーンがゆっくりとその中に飲み込まれてゆく。円柱の上端の角が削り取られ、シンプルなゼリーの形態が欠ける。削られた部分が複雑で尖った姿になり、透明な固体の存在をなおのこと強く主張していた。
 陽光が眩しかった。優子は空を見上げ、思わず目を細めた。白く焼けた視界に、優子のとりとめのない、方向性を持たない、意思のない、形のない、これっぽっちも凛としたところのない、情けない思考だけが潮のように満ちていった。
「さあ行きましょ!」
「うん。どこへ連れてってくれるの?」


 約200リットルのお湯に入れてみたもの。ゼラチン。片栗粉。寒天。アガー。蜂蜜。粉こんにゃく。にがり。すまし粉。ブドウ糖。塩化カルシウム。塩化マグネシウム。等。
 最初は、単なる思いつきだった。気まぐれで入れてみたゼラチンが予想よりうまくいったので少し驚き、より理想に近いものを目指して次々と試してみることにした。
 いくつもの要素のうち、一番重要なのは純度だった。最も理想に近い触感を得られる混入の割合や水の温度、あるいは光量の調整。そして何よりもまずバスルームを黴ひとつなく、新築同様になるまで徹底的に磨くことだ。優子は丸一日かけて、少しずつ自分のイメージに近いものをつくりあげていった。
 ようやく優子のイメージが現実となったころ、バスルームの窓からは月の光が差し込んでいた。
 白いプラスチックのバスタブは、液体と固体の中間の物質で満たされている。明かりを消してみると、音を吸い取ってしまう透明な光が、バスタブの中を静かに青く染めた。
 優子は服を脱いで、足の先をゆっくりとそのなかに入れた。つま先が触れると、それは微かな戸惑いと喜びにフルフルと震えた。よく濡れた膣が指先を飲み込むときの粘つきと温度で、バスタブに満たされた液体は優子の足を受け入れていった。ひざの裏に、腹に、そして乳房に吸い付かれながら、優子は体全体を沈めた。
 水のようでありながら形を持ち、放り出されてもまだはっきりと存在しつづけている。あのときの透明なゼリーの中にすっぽりと覆われているのだ。
 首元まで浸かり、肺にたまっていた息を吐くと、液体の表面が微かに、少しだけ波打つ。水のように簡単には乱れないその様子を見て、優子は満足して瞼を閉じた。
 あのときのゼリーの中にあかい果実が閉じ込められていたように、晶の中にはきっと同じようなあかい塊があるのにちがいなかった。胸の中で激しく燃える炎。それがあるから、晶はあんなにも強く、自分を曲げないでいられるのだ。優子にはそれはなかった。だからきっと、意思のない水のようにゆらゆらと揺れて、いつもその形を変えつづけているのだ。誰かにひとたび声をかけられれば、いくらでも笑うことができるし、どれだけ優しくも、また残酷にもなる。
 優子は息をとめ、頭のてっぺんまで潜った。外界の音が消えて、自分のこめかみを流れる血流の音が大きくなる。ゆるやかな圧力が全方位から等しく皮膚に染み込んでくる。
 この液体は優子より少しだけ固い。晶ほどとはいかなくても、そのことは優子をこの上もなく安心させた。学歴や資格、他人からの評価、外見、社会の決めたあるべき姿、あるいは誰かの敷いたレール……、そして晶。形のない自分に形を与えるもの。それさえあれば優子は安心していられる。それと同化し、その強さを自分のものにし、いくらでもうまく生きていける。そう感じていた。
 今は、ゼリーになる。


 薄暗い水の中で、魚たちはいつまでも泳いでいる。黒ずんだ鱗をぬめらせて、水とひとつになり、薄暗い水の中で音もなくひっそりと泳いでいる。
 優子は水族館の中で、天井よりも背の高い水槽の中を凝視していた。
 水槽には、その水族館で最も多くの種類の魚が入っていた。大きいもの、小さいもの、長細いもの、平たいもの、さまざまな魚たちを水槽の水のなかに見ることができた。魚たちは水の流れを体現して実に滑らかに泳いだ。魚が水に流されているのか、それとも水が魚に流されているのか、わからなくなる。それはつまり、水が魚であり、魚が水であるということであった。
 おそらく水槽のなかで、水は絶え間なく循環しているのだろう。一時として同じ形に留まることはなく、常に形を変えている。いや、そもそも形などないのかもしれない。魚たちは、かりそめにも体を持つものとして、そのことを伝えるために泳いでいるだけなのかもしれない。
 水族館は薄暗かった。青緑色の暗い光だけでは、水槽の隅々まではっきりと見通すのに十分とはいえなかった。水槽に入れてある岩や貝などのオブジェは、そのせいでぼんやりとして輪郭が見えず、きちんと存在しているのかどうか、さだかではなかった。
 優子の柔らかい手のひらは、水槽の硬質ガラスに吸い付けられるようにべったりと押し付けられていた。このガラスはとても硬い。これだけ大量の水に形を与えるだけでなく、水と空気との間に境界線をも引いている。それは他のものを拒絶し、自らの固く強い意志を持つという明らかな宣言であった。
 そうやって区切られた結界の中で、魚たちが流れていた。『ここからここまで!』と高らかに叫びながら、水槽の中を駆け回っていた。様々なかたちに尖った尾ひれや背びれが突き出されるたび、そのことが主張された。
 水底をゆっくりとのたうつエイの背中で、緑の影が波を打った。レモン色のひれを持つパウダーブルーの群れが潮流となった。透き通る硬質ガラスが優子の手のひらを冷たく押し返している。
 顔を上げて水槽の上方を見ると、大きなサメの影がゆっくりとひるがえっていた。
光が差す。


 もっと、もっと固くしようと思った。あの水族館の水槽のように。クリスタルのように。氷のように。……晶のように。
 再びバスタブに満たされた特別製の液体のなかに、優子は頭まで潜った。頭の上で液体が閉じるトプンという音が響く。前のものよりも粘り気のある、時間とともに凝固する性質の液体だった。
 目を閉じ、視覚を遮断して盲目の世界へと入ってゆく。耳が塞がれると、バスルームの換気扇の音も窓の外の遠い喧騒も、まったく聞こえなくなる。唾液を飲み下す音が、頭の中で厳かに鳴った。
 晶という絶対的に侵すことのできない偶像の姿が、常に優子の頭の中にあった。自分は、晶が持っていない多くのものを持っている。そして晶は、自分の持っていないものを数え切れないほど持っている。自分と晶とは、何から何まで異なる存在だった。
 自分の心臓が脈打つ音だけが聞こえていた。自分という人間の存在を確認するために、優子はその音に耳を傾けていた。鼓動は規則正しく、一定の間隔を置いて確かに明滅した。
 形のない自分という存在。号令さえかけられれば何だってできる。誰かが決めてくれさえすれば何にでもなることができる。雄々しく空を翔ける鷲にだって、狡猾に舌を出す蛇にだってなれる。何を言われても従うことができる。優子はそういう存在だった。
 バスタブの中の裸体は、透明な液体を透して差し込んでいる光にさらされていた。細い体毛の一本一本、肌の角質の一つ一つまで見てとることができた。
 皮膚の細胞を通して、バスタブの液体が体内に染み込んでくる。細胞と細胞の隙間に吸い込まれるようにすんなりと、それは優子の肉体に浸透していくのだった。
 優子のなかにあかい果実はない。方向性を示す炎がない。だからこそ優子は、晶というこれ以上ないほどに確かな型をもつ存在を必要としたのだ。優子の形を決めるのは優子ではない。いつだって晶が優子の形を決めてくれた。
 体の温度と液体の温度が、少しずつ少しずつ混ぜ合わされ、やがてはひとつの値に収斂されていった。優子の内臓はゆっくりと穏やかに脈動して、まるでそれら自身が安らぎを感じているようであった。
 自分がこんなことをしているのはどうしてなのか。今していること。これからしたいこと。これからしようとしていること。私は、何になろう?
 息を止めているというのに苦しいという感覚はなかった。ただその液体が染み入ってくるという心地よさ、自分の輪郭がぼやけてその液体に滲み出ていくという一体感のみがあった。
 ああ、私はここで解体され、この液体と混ざり合って再構成されてゆくのだ。私が溶け出して行く。明日の日が沈むころには、私の体は完全になくなっているのだろう。
 いつのまにか、心臓の鼓動は優子の耳に届かなくなっていた。肉を覆っていた皮膚の感覚もなかった。
このゼリーこそが私だ。私はこのゼリーになる。溶け合い、混ざり合うなどという言葉すら無粋なほど、この液体と私はイコールになる。
肋骨の間に詰め込まれていた内臓が液体の中に放り出され、ゆっくりとひろがってゆく。細胞膜が溶け出し、液体の中で染色体がほどける。
 ゼリーが固まり始めていた。バスタブの表面にはうっすらと光沢が出て、その滑らかな水面を固体のものへと変化させようとしている。
このまま時がたてば、完全な固体になる。晶のように硬く、晶のように決して曲がらず、晶のようにうつくしい結晶になる。
しかしそこで優子はもう一度疑問をくり返した。自分は一体何がしたかったのだろう。どうして、何のためにこんなことをしているのだろう。
このままこうしてここにいれば優子は晶のようになれる。では、自分は晶のようになりたいのか? 夜が明けた後の自分をぼんやりと想像してみる度、優子は喉の奥に引っかかる違和感のようなものの存在を意識しないわけにはいかなかった。私は、晶ちゃんになりたいんじゃないんだ。でも、じゃあどうしてこんなことをしているのだろう。この先に、私は何を期待しているのだろう。
私は、いったい何になろうというのだろう。
既に優子の皮膚感覚はバスタブに満ちる半固体の感覚にすりかわっていた。その感覚が、皮膚の表面に異物感を──つまり、固まり始めた水面に突如発生した異物の触感を──とらえていた。
皮膚が貫かれ、内臓をえぐられるような苦痛が突如として発生した。その異物はバスタブの表面にできていた被膜を何のためらいもなく突き破って、ゼリー状になっていた液体の中を一直線に突き進んできた。そして、力任せに優子の喉を掴んだ。
「この馬鹿っ!」
 バスタブから掴み出された優子の顔に向かって、晶は唾を飛ばした。
「なにやってんのよ!」
 垂れ下がった優子の髪の毛から、固まりかけたゲル状の雫がポタポタと落ちる。
「あ……。晶ちゃんだ」
「『晶ちゃんだ』じゃないっつうの、この馬鹿! あんたは……」
 晶は優子の喉を掴んでいた手をはなすと、優子の上半身をバスタブから引き起こした。
「あれ……? まだ、ある」
 晶に体を任せて脱力しながら、優子は自分の上半身を眺めていた。
「はあ? 何が? ……ちょっと、いったい何なのよこれ? 何に入ってたの? 質の悪い入浴剤にしたって度が過ぎてるわよ。この匂い……まるで接着剤じゃない!」
「うん……それも入れた」
 晶は絶句して一瞬だけ押し黙った。それから息を吸って、さらに激しく怒鳴り散らした。
「優子! わかってんの? あんたは私のものなのよ。 私のものが勝手にそんなわけのわかんないことして良いわけがないでしょうが! あなたは私のものなの。私についてきなさい。私に従いなさい。私の言いなりになりなさい! 私はあなたに命令してあげる。あなたが何をすればいいか全部そのまま教えてあげる。引き受けてあげる! だから勝手なことをするんじゃない!」
 晶は怒鳴りながら、優子の肩を揺さぶった。
「わかった?」
 まっすぐにのぞきこんでくる晶の瞳を眺めながら、優子は、冷たくて気持ちのいい成分が脳味噌のどこかから分泌されていくのを感じていた。その感覚に陶然としながら、ようやくぴったりと嵌まって明るく照らしだされた思考のルートを、何度も反芻した。
 いままでの自分は形もなく、意識もなく、どのような意味ももたない流動的な存在。
 晶はなによりもはっきりとした形をもち、一途なまでのスタイルを通す頑強な存在。
そうだ。私は、『晶』になりたいわけじゃないんだ。
私がしたいのは――ダイヤモンドのように硬く何者をも跳ね返す絶対の存在である『晶』を、私の、自分の手で……


              ※


 午後十時を過ぎたとはいえ、繁華街に近い通りはまだ明るかった。
 コンクリートの歩道を、着飾った男女の足が次々と叩いてゆく。歩道の両側にはやはりコンクリートでできたビルがほとんど隙間なく並んで、道の両側に屹立していた。
 晶が歩いている。ほんの少しだけ眉をしかめ、強い眼差しで前をはっきりと見据えて、浅いヒールを踏み鳴らしながら早足で歩いて行く。
 車道には、自動車の赤や白のライトが列になって流れている。ファッションビルの窓からもれる明かりや、ピンクや緑や青の様々な形をしたネオンが、瞬きながらその両側を飾っていた。そのはるか上方――夜空には、地上の光よりもいささか控えめな、しかしはるかに透き通った光を点す星達が瞬き、静かに晶を見下ろしている。
 晶は人々の肩の間をすり抜けながら、だんだんと明かりの少なくなる方向へと向かっていた。
 やがてたどり着いた公園のような広場の前で、晶は立ち止まった。広場には人気がなく、所々にある灯りも消えてしまっていた。暗い広場の奥に、大きな建物がある。晶はその建物を一瞥して、広場の入り口に張られているロープをまたぎ超えた。
 広場を横切り、建物の正面まで歩いてゆく。大きな扉が閉まっていた。『本日休館』という立て札がある。
 ここまで来ると、さすがに街の喧騒も遠い。背後には、広場の中央にある噴水の水流が繁華街から届いてくる弱い光を受けてうっすらと光っている。
 晶が携帯電話の画面を開くと、赤色のイルミネーションが灯った。けさ優子から届いたメールを確認する。指定された場所は確かにこの水族館の中だ。
 晶は鉄製の重い扉にそっと触れた。鍵はかかっていなかった。金属のひんやりとした重々しい感触が伝わってくる。
 扉を押し開けると、誰もいない受付の脇を抜けて、非常灯の灯りしか点いていない廊下をひたひたと進む。
 廊下のつきあたりにシャッターがある。この奥には、一番たくさんの水槽が設置されている、水族館のメインとなる部屋があるはずであった。
 晶はその前で足を止めて、耳を澄ましながらあたりを見回していた。休館日でも動かしておくものなのか、それともだれかが動かしたのか、空調の音が低く聞こえていた。
 シャッターの横にある非常口から中に入る。
 中はやはり暗い。たくさんの水槽が、紫水晶の柱のように立ち並んでいた。その中で、エアーポンプの小さな泡といっしょに、魚の形をした黒い影が静かに眠っている。
 その柱の間をぬって進んでゆくと、一番奥のひときわ大きな水槽が見えた。
 この水槽だけは静かだ。エアーポンプの泡もない。貝や石などのオブジェもすべて取り除かれているようだった。魚の姿がひとつもない。
 晶はその前に立って、水槽の中を見つめていた。硬い水槽の中は何かで満たされている。水ではない。水槽の中身は水などのように流れてはいない。柔らかくもない。形を変えもしない。
 晶はゆっくりと手を伸ばして、水槽のガラスの表面を撫でた。
 すると、それまでは底の知れない暗さを持っていた水槽の中が、ぼんやりと、白く光り出した。
 まるで晶を待ちわびていたかのように、氷のようなその輝きは増していった。やがて、その部屋全体がすべての照明をつけたかと思うほどの明るさで一杯になる。
 晶は光に向かって一歩踏み出し、両の手をその表面に当てた。
「優子……」
 小さく呟いて、額で、ガラスを軽く叩く。コツンという硬い音が、晶の頭蓋に伝わってきた。
 水槽の放つ輝きは明るすぎて、中に何があるのかは見えない。ただ、液体でないことは確かすぎるほど確かだった。
 輝く固体に押し付けられると、晶の頬はきれいに潰れて丸くなった。白い光に照らし出された晶の頬は真珠のように硬質な白色になった。
 押し付けた頬から、その固体の硬さが伝わってくる。
 決して折れない意思が、強い決意が、はっきりとした主張が、変わらない思想が、曲がらない人格が、晶にはそこにあるように感じられた。
 晶は優子に頬を押し付けながら、白い光に照らされた瞳を動かして、少し目を逸らした。
自分にあこがれた優子の、意思は、決意は、主張は、思想は、人格は、今はじめて晶のように硬く、崩れず、何物にも屈さず、まばゆい光の中にあってその輪郭をたもちつづけ、強く凛とした形へと昇華したのだ──晶は、そう思った。
 晶はあかい果実の唇を、まるで自分を映す鏡のように滑らかなその表面に這わせた。
 部屋の、他のいくつもの水槽は蛍光灯よりも明るい照明に照らし出され、まるでそれ自体が輝いているかのようであった。
「……優子」
 晶は、目を細めて頬擦りしながら囁く。
「愛してるわ」
 返事はない。白い光のモノリスは、静かに輝いているばかりだ。
 魚達は、眠っている。
「ようやく、私のいるところにまで来たのね……?」
 晶はてのひらで、光の硬い表面を撫でた。ほの温かい。優子の確かな熱い鼓動が、光の中から伝わってくる。
 晶は上を見上げた。天井まで届く光の壁の向こうには、ほのかに光る大宇宙の星々を湛えた、無限の夜空があるはずだった。
 三日月が静かに、深遠なる悲哀を秘めて、晶を憐れむように見下ろしていた。
「……え?」
 晶の胸に腕が刺さっていた。
 晶は目を見開いて下を見た。硬質ガラスに大きな罅が入っている。そこから、細い腕が突き出ていた。腕の先は晶の胸に手首まで埋まっている。
 晶の口から、かふ、と息が吐き出される。唇から血がつたい落ちた。
「どうし、て……?」
 晶の頬に、微かな音のような、微細な振動が伝わってきた。
 魚達が目を覚ました。
 その振動はあっというまに大きくなり、光の向こうから聞こえてくる鼓動に共鳴して、音波となってフロア中を駆け巡った。
 その奥で、小さな音をたてて罅が広がってゆく。
 魚たちが怯え、少しでも光から逃れようとして水槽の隅に激しく頭をぶつけている。
 そこに至り、ようやく晶は自分の間違いに気付いた。
優子は主張していたのではない。決意していたのではない。意思を固めていたのではない。硬く、崩れず、何物にも屈さず、まばゆい光の中にあってその輪郭をたもちつづけ、強く凛とした形へと昇華したのではない!
膨れ上がる輝きを抑えきれず、天井まで続く強化ガラス全体に大きな罅割れが走った。
「優子……っ!」
 晶に突き刺さった優子の指の中で、晶の心臓が、意思が、主張が思想が人格が砕け散った。
胎動が爆発する。
 何物にも屈さない晶の心臓を貫いた腕が、誰よりも強い晶の胸を、引き裂く。
 晶は、平衡感覚を失って急激に傾く視界の向こう側に何かを見たような気がして、目を凝らした。
 まるで天使の羽が降り注いでいるかのようであった。打ち砕かれた水槽の破片が、煌きながら宙を舞っているのだ。
 誰かが、その輝きの向こうに立っていた。
 舞い散った破片が邪魔をしてよく見えない。
 鉄の扉をも壊し、分厚い強化ガラスをも貫き、ダイヤモンドの輝きをも粉々に砕く。晶の心臓を潰し、意思を破壊し、主張を握りつぶし、思想を否定し、人格を崩壊させた何者かが、そこに誕生したはずなのだ。
 晶は倒れ伏しながらも、降ってくる破片の向こう側を睨みつけてその姿を見ようとした。
その晶の頭を、裸足の踵が踏みつけた。


動くものは、なにもなかった。
フロアには砕け散った卵の殻――水槽のガラスが散らばっていた。崩壊したメインの水槽だけでなく、その周りにあった角柱状の水槽もそのすべてが破損し、水が流れ出してしまっている。さっきまで水槽のなかにいた魚たちは床に放り出され、破れた腹や鰓の隙間から血を流している。
 天井まであった水槽が崩れ落ちてしまったので、今ではフロアの中から夜空を見ることができた。
 星々は、今にも消えそうな弱い光を怯えながら灯していた。痩せた三日月が、青ざめた空気のカーテンでそこにある光景を覆い隠そうと無駄な努力を続けている。あどけなく瞬く星々の夢も、神秘な静寂をもたらす月の希望も、もはや原形をとどめてはいない。
 以前のままの形を保っているものは何一つとしてなかった。
そこに彼女が立っていた。
 うつむいたまま、彼女は小さな吐息を吐き出した。空気に、戦慄と震えが走った。
 ゆっくりと、彼女の顔が上がっていく。
薄茶色の、優子の髪。ふっくらとした、優子の頬。小さくまとまった、優子の鼻。しかし、挑みかかるように空を睨みつけるその相貌は、『優子』とは、まったく異質なものでしかなかった。優子の印象は完膚無きまでに壊されていた。
 破裂した晶の頭蓋に片足を突っ込んだまま、あおい唇を歪めて、彼女はたったいま自分が生れ出たことをすら嘲り否定するかのように尖った笑みを浮かべたのだった。
 破壊者として。
  






                                                終わり

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©有賀冬馬  2006/1

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