子供部屋の魔法

広い庭は、湿って廃れた臭いのする木々で塞がれていた。

まるで深い森に閉じこもるようにしながら、その庭の中に古い屋敷がある。

底のない沼の色をした枝葉の向こうに、閉ざされた窓が見える。その部屋の中、そこに彼女はいた。

彼女は、ぼんやりと灰色の靄がかかった意識の中で、ゆっくりと目を開ける。

時を告げる鳩時計の声聞こえたような気がしたのだった。

彼女はクローゼットの中で、脚を折り曲げて横たわっていた。ガラス戸を開け、古さのあまり色がぬけた絨毯のうえにそっと降りる。

時計は、止まっていた。

裸足の指に何か固いものが触れる。積み木が、何かの形をつくりあげようとして打ち捨てられたまま、そこで眠っていた。

セピアに変色した部屋の角の暗がりには、子供用の学習机が置かれていた。四角い木の椅子の背には、熟れ過ぎたトマトの色をしたランドセルがかかっている。

彼女は何となくその椅子に座り、机の縁を指でなぞってみた。灰色を通り越して黒ずんだ埃が指先にこびりついた。見ると、ランドセルの上にも細かい黴のような埃が分厚く積もっていた。

どうして、私はここにいるのだろう。私の名前はなんだっただろうか。なにかとても大切な役目があったような気がするのだけれど。彼女は油が切れて動かない頭に、そういった言葉を思い浮かべた。

机の上には、さまざまなものが見放されている。十二色の色鉛筆はまだどれも長くて先が尖ったまま、赤色の先だけが少し丸まっていた。もう二度と弾かれることのないそろばんは、長すぎる時間に耐えられずに木の枠が少し反り返ってしまっていた。16ピースのパズルは半分ほど並べられただけで、そこに描かれているアニメの絵が何だったのか知ることはできない。

それらの、待つのにくたびれてしまったなきがらを見て、彼女はため息をついた。だが、誰もいない教室のように静かで、物言わぬ肖像のようにかたくななこの部屋の空気をかき乱すには、その吐息はあまりにも無力すぎた。時の流れが戻らぬように、どんなに泣き叫んでも、その嗚咽すべてを無意味なものにしてしまうくらい絶対的な諦めの空気が、部屋中に停滞しているのだった。

絨毯の上に、小さなオルゴールが放り出されている。薄い金板の櫛はくすんで焦げた飴色になり、歯車の間には黒い油が溜まっている。もう二度と──

いきなり、窓ガラスが割れて、野球のボールが部屋に飛び込んできた。大きな音を立てて窓を割ったボールは床におもいきりぶつかり、どしんという音で部屋中を打ち震えさせた。

しばらくして、遠慮がちな、可愛らしい女の子の声のような音が、それに応えた。オルゴールのシリンダーが回り始めたのだ。最初はゆっくりと恐る恐る、それから、自分の役目を思い出したかのように力強く、金の板を爪弾いていく。

あまりに不憫な彼女を見て、あまりにかなしいこの部屋を見て、神様も少しは可哀そうに思ったのかもしれない。そして風が、割れた窓の向こうから、この部屋の埃を綺麗に吹き飛ばすくらいとても強い風が、奔流となって流れてきた。

カーテンが、大きく、期待の大きさに比例して膨れ上がる。風は清冽な冷水のシャワーのように勢いよく、埃とともに降り積もった時間を、沈鬱を、絶望を洗い流していく。

時計の針が動き出し、機械仕掛けの鳩が顔を出した。ポッポゥ! ポッポゥ! と喜びの時がきたことを告げる。

まくれあがったカーテンの隙間から、新芽の香りのする小さな葉がひとひら、舞い込んできた。

瑞々しく柔らかな葉は風に乗って、光とともにその鳩の目の前をかすめて、マンガ雑誌の付録でついてきたパズルの上を、買ってもらったばかりの色鉛筆の上を、よくさぼっていたそろばんの上を踊りながら、おばあちゃんがあげたオルゴールの上を通って、短い間だったけど毎日背負って歩いていたランドセルの上をかすめて、そして、最後の日に出した積み木の上でかろやかに舞った。

 部屋の壁に立ててある鏡にかかっていた薄い布を風がめくり、ふわりと持ち上げていった。

 鏡面に、立ち尽くしている大きなぬいぐるみの姿が映し出された。彼女は、自分のけば立った身体を、おぶひもの跡がある肩と腕を、何度も丁寧に縫い直された背中を見た。それは、あの子が何よりも彼女を愛した記憶だった。

 布が落ち、鏡が再び覆われた。

 オルゴールは曲を弾き終え、永い眠りの向こうにある夢の中へと戻っていってしまった。最後の余韻も小さくなり、やがて何も聞こえなくなる。

風は消えた。

 彼女は、動かずにただじっとしていた。

 支えを失った小さな葉が力尽きて、空中をゆっくりと転落していく。絨毯のうえに落ちて、黴臭い埃に触れてしまう。

 やはり、時計の針は止まっていた。

 一時だけ舞い上がったこの部屋の塵が失意に打ちひしがれ、以前よりいっそう重い絶望を背負わされて少しずつ元の位置に戻っていく。これからまた、報われることのない無言の嘆きの時が続くのだろう。いつまでも、ずっと。

彼女の足の指に、野球のボールが転がってきてぶつかり、そこで、もう二度と動かなくなる。

 彼女はクローゼットの中に戻り、自分でガラス戸を閉めた。





                                                終わり

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©有賀冬馬  2006/1

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