鐘の鳴る谷





  
 暗いレストランだった。彼は、自分の向かいに座っている銀髪の女性をさりげなく観察した。本当に、彼女の髪は綺麗だった。その透き通るような、長い前髪が微かに揺れる度、どちらかの声が人気のない店内に響いた。
 鐘が鳴る。
鐘の音は遠く、店の外のどこか高い場所で打ち鳴らしているように聞こえた。
 知らない間に自分がうつむいている事に気づき、彼は顔を上げた。窓の外に広がっている夜景を見る。
「何の音?」
彼女の前髪が揺れた。彼はもう一度視線を落として、答えた。
「鐘の音だろ。どこで鳴らしているかは知らないけど」
「ふうん」
 彼女は卓の上に二つ置かれているワイングラスのうち、半分ほど中身の減っているほうを持った。真っ赤な赤ワインが照明に透けて宝石の様に光った。血のような輝きをしばらく眺めてから、彼女はそれを口へ運んだ。
「このワイン、いいわね」
 彼は肯いて、
「だろう?」
言った。
「気に入ったなら、僕の分も飲むといい」
この店に入って初めて、彼女の顔に笑いのようなものが浮かんだ。
「いいわよ。欲しければもう一つ頼む」
「そうかい。……ところで、さっきの話だけど」
彼は口篭った。彼女は、その水色の瞳を動かして、続きを促した。
 鐘が鳴る。
 彼は肩をすくめてみせながら言った。
「………やめとく」
彼女はまた笑った。
「変なの」
 彼はワインを一息に飲み干し、手を叩いてウェイターを呼んだ。
「おごるよ。なんでも食ってくれ」
 晩餐が始まろうとしていた。


 鐘が鳴る。
彼は、厳かに谷間に響くその音を聞きながら、長い銀髪の女性の体を背負って歩いていた。彼女の体は思ったより軽かった。彼は少し息を弾ませ、立ち止まってのろのろと谷底から空を見上げた。
 谷は深く、紫色の空が、切り立った二つの崖の間に星星とともに顔をのぞかせていた。
 鐘が鳴る。
それは教会のチャペルではなく、寺院の時報でもない。ただ、もう何年も前から、この谷のどこであっても同じように鳴り響いている。
 彼は体を揺らして彼女を背負い直すと、這うように谷底を歩き始めた。


 赤い滴が浴槽から溢れ出た。赤い液体は濃く、浴槽は濁っていた。
 老婆が一人、首だけ出してその浴槽に浸かっている。赤い液体が濁っているので、老婆の首だけが水面に浮いているようにも見えた。
 老婆の顔は皺だらけで眼が落ち窪んでおり、歯は一本もなかった。髪もほぼすべて抜け落ち、頭頂部に一房、未練がましく張り付いているだけであった。時々瞬きをするのでなかったら、死体と区別がつかなかった。
 鐘が鳴る。
 老婆は眼を開いた。ドアをノックする者がいる。老婆は口を震わせた。一瞬後に言葉が吐き出される。
「誰じゃ」
返事は無い。開かれたドアの隙間から月光が差した。彼のシルエットだけが老婆の網膜に焼きつく。
 彼は床に女の体を投げ出しながら言った。
「婆」
「粗末にすんじゃないよ」
途端、老婆は浴槽から飛び出して叫んだ。眼を吊り上げて、赤黒い滴を床に垂らしながら女の体に駆け寄った。彼は無言でそれから一歩離れた。
 老婆は全裸だった。赤黒くぬめりのある液体のこびりついた体は、深い皺と染み、そして骨格自体の老化によって、醜く変化していた。老婆は、醜悪な尻を彼のほうに向けたまま女の体にとりついていた。女の服を脱がそうとしている。
「婆」
 老婆は振り返った。まぶしいほどの光に、思わず目を細める。
 鐘が鳴る。
 その瞬間、最後に老婆の網膜に焼きついたのは、振りおろされる凶器のシルエットだった。


 鐘が鳴る。


 鍬を振り降ろした。
 月と星空の見える崖の上に一本の木が生えている。葉は無く、今にも枯れそうな木だ。今夜、彼はこの木の下に老婆と女とを埋めるつもりだった。
 鐘が鳴る。
 老婆は目を開いていた。血の涙で濁った瞳も、今はただ夜空を人形のように見上げているばかりだ。
 鐘が鳴る。
 女は十七だった。美しかった。未だ死というものについて真剣に考えたことは無かった。
 鐘が鳴る。
 彼はただ墓を掘り続けた。

 
 老婆は魔女と呼ばれていた。若い女の血を満たした風呂を使えば、自分の体が若返ると信じていた。老婆は百六歳だった。だが昔は十七だった。その頃は、まだ魔女ではなかった。女は十七年、老婆は百七年生きて死んだ。差は、丁度九十である。
 墓を掘り終えて彼はふと思った。
───これからぼくはどうなるんだろう?


 鐘が鳴る。
 たった今すれちがった女性の顔に見覚えがあるような気がして、彼は振り返った。
もちろん、相手の方は振り返らないし、後ろ姿だけでは記憶をさぐることすらできなかった。
 彼は肩をすくめ、再び歩き出した。彼女と反対の方向──この谷の外へと。


 ──鐘が鳴る。
 切り立った崖の上の、今にも枯れそうな木の根元に、今は土が盛られていた。墓標は無い。月明かりが落とす黒い木の影だけがその墓を飾っていた。後には、永遠に続くかのような青白い静寂だけが残されていた。
 土が動く。盛られていた土山の頂上が崩れ、そこから白い指が出てきた。指は手、手は腕、腕は体へと続いている。
 女は土の中から顔を上げると、激しく咳をして立ちあがった。そして、木の幹に背を預けて、汚れた顔で、しばらく下を見ていた。
 鐘が鳴る。
 女はもう一度激しく咳込んだ。それから水色の瞳で月を見上げた。ゆっくりと、呼吸が落ちついていった。
 鐘が鳴る。
 鐘が鳴る。……………誰が鳴らしている?
 長い前髪を揺らして、彼女は何か言った。土に汚れた前髪が頬にかかった。それを、鬱陶しいと思った。



                                                終わり

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©有賀冬馬  2001

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