お願いだから。
お願いだから、早く戻ってきて。
大聖堂の、一室。婚儀までの控え室として宛がわれたその部屋に。ルシファーはいた。
妹たちは今はいない。彼女と、主の二人きりだ。しかしそれは、限りなく一人きりに近かった。
…主は未だ、ロジックエラーの密室の中。彼の心は、今此処にはいない。
時折動く唇を見ては、脱出の糸口を掴んだのかと期待し顔を寄せるが、彼の口からでるのは意味を為さない呻き声だけだった。
その度にルシファーは焦りを深くする。…もう、時間が無いというのに。
動かぬ、否、動けぬ主の手に、そっと、触れる。
「…何をしているの、右代宮戦人。」
…違う。こんな言葉をかけたいんじゃあない。頭の片隅でそれを分かっていても、彼女の口から出るのはそれとは裏腹な言葉ばかりだ。
「その背に羽織っているものは何?その指にしているものは何?しっかりしてよ、主のあんたがそんなんじゃあ、
家具の私達まで無能と思われるわ!」
違う。違う違う違う。そうじゃなくて。そうじゃなくて…!止めようとする理性を押しのけるようにして、勝手に口が動く。
段々と感情的になる言葉を、分かっているのに、止められない。
「そんな所に、いつまで閉じ篭っている気なのッ!さっさと出てきなさいよ、ベアトリーチェ様のゲームを、やり遂げるんじゃなかったのっ!?」
涙すら滲むその悲痛な叫びにも、やはり彼は動かない。視線すらもぶれない。
「聞いてるの…?…ゃく、はやく戻ってきなさいよッッ、右代宮戦人あああぁああああぁあぁあッ!!」
「―――何を、してるんですか?」
ざっ、と。まさに頭から冷水を浴びせられたが如く。その言葉は熱を奪っていった。
振り返れば、花嫁衣裳に身を包んだヱリカがにやにやと質の悪い笑みを浮かべながら立っていた。
慌てて戦人から離れ、敬礼する。ヱリカは、動揺を隠せないルシファーの顔をちらりと見やり、軽く鼻で嘲笑った。
つかつかと、戦人の元へ歩みを進める。そうして、先程までルシファーがしていたのと同じように、彼の手に自分の手を重ねた。
彼に残るおぼろげな温もりすら、奪い去ろうとするかのように。
「お待たせしました、戦人さん。式の準備が整いました。さぁ、参りましょう。…私たちの、式場へ。」
「………っ、………、」
戦人の瞳が、微かに細められる。それはとてもとても小さな変化。常人ならばとても気付けない、そんな小さな変化。
けれどヱリカの探偵として卓越した洞察力は、そんな些細な事すら見逃さない。
「悔しいですか、戦人さん…?」
唇が触れ合いそうなほどに顔を近づけて、ヱリカが問う。反論もままならぬ彼の様子を舐めるように見て、満足そうに笑う。
そうして唐突に、横のルシファーへと視線を向けた。
醜く歪んだ青の瞳が、どんな武器や言葉よりも怜悧にルシファーを抉る。言葉は無い。けれどその一瞥だけで充分だった。
呆然とするルシファーにもう見向きもせず、ヱリカは後ろに控えていた山羊の従者に戦人を立たせるよう命ずる。
そうして、立たせられたことにも気付いていないかのようにぼんやりと立ち尽くす戦人の腕に、するりと自分の腕を絡める。
それは蜘蛛が巣にかかった獲物をがんじがらめに絡め取る様に、よく似ていた。
「悔しがるのはまだ早いですよ。これから、たぁっぷりと、それを教えて差し上げます。まずは大勢の賓客の皆様方に、
あなたが私のものになったということを見せ付けに行こうじゃありませんか。」
ヱリカがかつり、と一歩を踏み出し軽く腕を引くと、た、たん、と戸惑うような、よろめくような戦人の足音が続く。
「…大丈夫。何も心配なんて要りません。あなたはもう何も考えなくていいんです。私がずぅっと、あなたの手を引いてあげます。
…ずぅっと、ずぅっと、ね。くすくす、くすくすくす!」
歪な笑い声と足音を残して、部屋には今度こそルシファーが一人取り残される。
あの一瞬の、ヱリカの瞳が、網膜に焼き付いて離れない。突き刺さるような、あの瞳が、恐ろしい。
知らず自らを抱きかかえて、ルシファーは床にへたりこむ。
オマエゴトキニ、ウシロミヤバトラハスクエナイ。
あの時、その目は、確かにそう言っていた。赤で言われたわけではない。そもそも言葉にすらしていない。
けれど、確かに、そう言っていたのだ。
「っぅ、…うぅ、ううぅううううぅううう、うわああぁあああぁぁあ!!」
掻き毟るような咆哮は、誰に向けてのものだったのか。きっと誰にもわからない。そして誰にも届きはしない。
届かない想いを置き去りにして、
―――そうして隷属の婚儀が、始まる。
プラウザバックで戻ってください。
あとがき。
というわけでEP6も頑張っていきましょう。ヱリカ書くの意外と楽しかったです。
しばらく指輪を引き摺るかもしれません。というか、ネタバレ部屋が指輪で埋め尽くされそうな悪寒
(2010.01.08)