彼の背後から腕を伸ばし、そっと目を隠す。
特に驚いた反応も無い彼の耳元で「動くなよ」と囁き、手を上から下に撫でるように動かしながら目蓋を閉じさせた。そのまま彼に抱きつくようにして腕を交差し、茶の髪に隠れている耳へそっと重ねる。そして彼はというと先程の『言葉』に従ってぴくりとも動かない。静かな、ゆったりとした胸の上下だけが彼を無機物ではなく有機物だという事を表していた。だらりと床に、重力に逆らわずに投げ出された四肢。力無く揺れる首は抱き締めた腕の力を強くする事で固定する。
大した意思も無く満足に動ける自由も無く心を動かされる激情も無ければ、お前もきっとガラスのショーケスの中で誰かが買ってくれるだけの機会を待つ空虚な笑みを浮かべた煌びやかな人形になるのだろう。―――けれどお前は、笑みさえ浮かべない。
レネとルシータの蕾
『愛する』『愛でる』言の葉は非常に似ているのにこれらにはある違いがある。『愛する』こと、彼の人の幸せを願い与えようとする純粋無垢な想いからくる動作。『愛でる』こと、可愛らしく思い寵愛する動作。これは『愛でる』ことに真実の愛は要らない、歌人や詩人のように選りすぐられたこの世の美しく儚い言葉を集めて唄う事を必要としないという事だ。そう、アンデルセンは思った。
木製の質素な椅子に腰掛けた己の膝に頬を寄せて現実と夢の間を彷徨っている青年、十代。ヨハンは十代の茶金の髪を梳いてあげながら、無造作に床に打ち捨てられたかのような脚を視界に入れるとエメラルド色の澄んだ瞳を細めた。十代は動く事も、喋る事も、考える事も神に奪われた人間だった。琥珀の瞳はいつもどこか空虚で濁った色を宿したままどこか遠くを見ており、自分が何を為すのか理解出来ぬ四肢は紐のようにぶら下げられ、唯一彼が歩く時にだけその役目を果たす脚さえも今はただなんとか立膝を付いてはいるがそれはこうしないとヨハンの膝からずり落ちてしまうからという理由で動かされただけであり、膝以下、脛から足首までにかけては本人がつらいのではないかと思うほどの無茶な体勢だった。それでも十代の表情は苦痛を浮かべる事無く、頬にあるヨハンの暖かさを享受し時の流れに身を任せている。時節、ヨハンの腰に回した腕を確かめるように力を込め、椅子の裏側で右手と左手の指先をしっかりと掴み、腕全体で輪を作る。今十代の頭を占めている思考は、『ヨハンから離れない』ただそれだけだった。
ヨハンが部屋に来て椅子に座りここにおいでと膝を叩いた。歩み寄って彼の膝に頬を寄せればヨハンは満足したかのように何をするでもなく、十代を『愛でた』。十代もそれになんら意義を唱える事無くただヨハンに『愛でられて』いた。ヨハンが来いと言った―――それから、俺は何も言われていない。それが今十代の思考にある全てであり彼の行動基準の最上位。十代の意思は、常人と比べて砂のように儚く脆く、形を持ち合わせぬモノだった。
ヨハンは彼に、十代にまず言葉を教えるという事をしなかった。オウム返しのようにヨハンの言葉を時節口にする事があっても、ヨハンはその言葉の意味を十代に教えようとはしない。意味を持たぬ言葉は記憶に残りづらいもの、言葉という『意味』がその形成の半分を為すものなら尚更だ。十代は自身が呟いた言葉でさえ半刻も経たぬ内に忘れていった。そんな十代が唯一覚えた言葉、それは『ヨハン』と『十代』という短い、互いの名前だけ。ヨハンはそれでいいと思っていた。互いの名さえ呼び合えれば事は足りる、酷く朧気なものだが十代は感情を持っていたし―――何より、いざとなれば身体が言葉の代わりになるだろうと。
例え十代が言葉を使いたいと思っても、彼はそれを伝える手段すら持ち合わせていない。彼が理解しているのは二つの名前だけ。十代はヨハンが何を言っているのか理解すら出来ないのだ。ただその声音だけで彼の意思を推測する事しか出来なかったが、ヨハンの声に秘められた感情は言葉を持たぬ十代にとってどんなに優しい説明をするより最も易しいものだった。
「十代」
ヨハンは十代の髪を梳くのをやめた手でそのまま彼の顎を優しく掴むと視線を自身へと向けさせた。名前を呼ばれた事でいつもどこを見ているかわからない瞳はしっかりとヨハンに向けられていた。ただしその瞳に意思は無い、名を『呼ばれた』から向いただけの瞳―――。自身が彼から教養知識自己の独立を一切遠ざけているとはいえそれはヨハンに苛とした感情を臓腑に与えるに十分なもの。十代は確かに自分を見てはいるが、このままならきっと、そう彼は誰も見ないままなのだという事実はヨハンにとって苦痛でしか無い。腹の奥で煮え立つ黒い感情を表に出さぬままヨハンはポケットから小さな銀色のナイフを取り出すと未だ茫としている十代の手に優しく握らせる。ヨハンは十代の手を握ったまま椅子から降り、十代と同じように床に座ると彼の手と腕を引き唇と唇が触れ合うほど近くにまで引き寄せた。十代の瞳に、光は無い。
「十代……」
半ばヨハンの脚に乗りかかる形でナイフを片手に握ったままの十代に優しく笑いかけてから、ヨハンは十代のもう片方の手を先程の手に包み込むような形で固定させた。十代は滅多に自らの意思で動く事は無い、動く事を知らないのだ。故に、固定さえすればその体勢を崩す事はほぼ無い。ナイフを握らせた両手を丁度胸の前まで上げさせ、ヨハンはもう正面から彼と向き合った。十代、俺の愛しい人。意思も無く自由も無く自己も無く、その胸にある鼓動さえなければ人形と同じである彼。彼には『何も出来ない』、だがそれ故に『何も無い』彼はヨハンにとってただ憧憬と恋慕の対象にしかならなかった。自ら何も出来ぬ彼が他人に与えるのはその人間の存在価値。十代は例え目の前にいるのが百の罪を犯した殺人鬼だろうと非道の限りを尽くした極悪人だろうと、彼らに縋る事でしか生きるということが出来ないのだ。十代の瞳には、誰であろうと全て同じに視える―――。それは究極の平等、本人すら意味を履き違えた慈愛、そしてこの世に存在する最も嘘の無い救いの手。
一目惚れだった。月の無い夜よりも暗く、世界に存在する108の感情全てを知らない琥珀の瞳は一瞬でヨハンの心を純銀の鎖で縛るかのように捉えて離さなかった。感情を一切廃した表情を浮かべたまま初めてヨハンをその瞳に映した十代はやはり無反応だったが、ヨハンは心の奥底から安堵し神に感謝したものだ。彼はヨハンが何を考えていても、何をしようとも、何をしてきたかすら、そしてこれから何をするのかという次元からすら切り離された存在。絶対的受動者、絶対的寛容者、絶対的弱者。純白であるが故に白はいつか汚れる、ならば最初から何も無い、それこそ『無』であったならば汚れようも輝きようも無い。ついぞ感情を抑えきれずに攫って来た彼を純白のシートに押し倒し息をするためだけに開けられた唇に接吻け、息も唾液も貪り尽くし、その苦しさに彼が声にも言葉にも鳴らぬ無言の、魂からの悲鳴を上げたところで漸くヨハンは唇を離した。酸素を求めるために荒くなった呼吸と赤くなった頬、激しい動悸から大きく見開かれた目から落ちたのは生理的な雫であって決して悲哀からくる涙ではなかった。
荒げた呼吸のまま十代は目の前のヨハンを変わらぬ無表情で見た。彼の顔には感情が無かった。彼には意思が無かった。それでも―――身体の奥底にある早鐘を打つ鼓動の奥に心が無い訳ではなかった。十代の変わらぬ表情を見、ヨハンは大きく息を吸うと大声で笑い始めた。
嗚呼彼は確かに何の表情も浮かべてはいない!だがその目が、あの虚空を映した瞳は言っているぞ!彼は『それ』を名づける言葉も知識も持ってはいないが俺は『知っている』!『真に』純粋なる者から恐怖という感情を生み出した事の可笑しさよ!<br>背中臓物爪先心臓を駆け巡る激情に動かされヨハンは無に手を掛けた。否、それはもはや無でなく人であったがこの世の神は天上に居らず。自身と同じ男に乗り上げ愚かにも欲を湛えた者こそこの世の、彼の神だった。
「―――さぁ十代、俺を刺して」
あの日あの時と表情を同じくして彼らは向き合った。十代の背に手を回し彼を抱きこむようにして、ヨハンは十代を誘導する。何も知らない彼に、何が起こるかわからない彼に、ヨハンは命令する。例え彼を、ヨハンを神に為しえた青年の恐怖の瞳を受けてさえ彼の命が覆される事は無い。
そう、神は自分だ。彼が俺を神にしてくれた。
そして己は彼と違い慈悲も許しも与えぬ神だという事も十代は知っている筈だ。
知っているだけで、何も出来ないだろうけど!
銀の刃の先が肌に当たった所でヨハンは顔を歪めた。鋭く、一点だけ与えられた痛みは熱い。ゆっくりとナイフを構えた十代を抱き締めながら尚も彼を引き寄せれば遂に銀の刃は肌を滑りヨハンから真紅の血を吸い上げた。与えられる痛みが傷へと形を為した事に苦しみと感動を覚えながらヨハンはうすく笑みを浮かべる。
――-十代は何もわからぬまま俺を傷つけるのだ、それは彼が罪悪感を知らぬからこそ『見もの』になる行為。十代は堂とした意思も自己も無いが、感情だけは確かにある。それは彼を初めて犯したヨハンだけが知る事実。最も当の十代はさえその事は知らず、故に十代は未だ『感情が無い』ままだ。言葉を知らない十代がその事に気付く事は永遠に無いだろう、他ならぬヨハンさえ十代に感情がある事を認めてしまえば十代は無から人になれる。なのにヨハンは其れを是としない、知る必要が無いと切り捨てている。別にヨハンは、十代と『愛し合い』たい訳では無いのだ。無情の神は、無を独り占めして人を望まなかった。
カラァン、と。脳に響く音がヨハンの鼓膜に届いた。何の事は無い、十代がナイフを手放したのだ。ヨハンは十代を抱き締めていた腕を放すと、震える十代の手を取った。ヨハンの血が付着した右手はぬらりと赤い光沢を放っており、十代はこの感触に驚いて思わず手を開いてしまったのだと想像出来る。目の前の十代は表情こそ常と同じだが瞳はやはり恐怖と呼ばれるそれで彩られていた。生温い血液から生物として本能的な何かを感じ取ってしまったのかもしれない。顔面蒼白で震える十代をヨハンは抱き締めようとしたが、腹の傷が痛んだ事で顔を歪め伸ばしかけた手を止めて患部を押さえた。傷は少しながらも未だ血を流すそれはじくじくとヨハンの服の色を変え彼に痛みを与えている。十代は動かなかった、否動けなかった。目の前の訳のわからぬ現象に目を閉じ耳を塞ぎ何処かに駆けていってしまいたかったがそれは無理な話だ。十代は自分がヨハンに『何か』をしたという事を理解していた。それでヨハンは顔を歪め平素では浮かべぬ表情をしている。おれは、ヨハンに、なにをした?
ゆっくりと視線を下げれば自身の指が何かに濡れていた。生温かった『それ』、『それ』は今ヨハンから出て来、ヨハンの服を濡らしている―――。
怖かった。それでも十代はその怖いという感情すらわからなかった。彼には『ヨハン』と『十代』しか無い。何が起きているのか、何をしたのか、何をするべきか、そんな、そんな事は知らないわからない。――――『ヨハン』
ヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハンヨハン―――!
「これは、お前がやったんだよ『十代』」
彼の声で意識を眼前に戻した十代はヨハンが笑っているのに気が付いた。しかしその笑みはいつもの笑みとは違う。髪を撫でられふわりと浮かべる表情とは似て非なる笑み。何処かで見たと感じた瞬間全身が総毛立った。
「俺が傷ついてるのはお前のせい。俺が苦しいのはお前のせい」
ヨハンは笑っている、なのに、おかしい、おかしい。十代は知っている。ヨハンがこの声を出す時は大人しくしていた方がいいのだ、今度はヨハンが俺に何かをする気なのだと。
「痛いな、十代。俺がなんでこんな事するかわかる?わからないよな。俺はね、お前が好きなんだ、愛しているんだよ。だけど俺がその事を言ったってお前は理解してくれないだろうな。俺はお前を愛しているけど愛されたい訳じゃない、それはお前が人を愛するという事を知って欲しくないからさ。形だけの愛でも言葉でも―――許せない、お前がいつか、もし誰かにそんな事を感じても声に出しても俺には堪えられない。俺はとても控えめな性格なんだよ十代。愛してくれなくていい、だから誰も愛さなくていい。悲しみも怒りも喜びも何も感じなくていい、俺の、俺の存在だけを感じていて。だけど『もしも』俺に『恐怖』なんて酷い感情を抱いてしまったなら、」
十代はこの時初めて全てに感謝した(彼は感謝という事すら知らないのだけれども)。ヨハンの言う事が何ひとつ理解出来ない事に感謝し、涙した。
「十代の全部をぶっ壊してやる。今更人形ぶるなよ、本当は全部知ってるんだろ?心の奥の奥に閉じこもって消えてない最後の欠片、俺が無理矢理引き出してやるよ。俺の為に泣いてくれるだなんてまんまと罠に引っかかっちゃってまぁ、本当にお前は可愛いらしいことで。だけどそれ≪感情≫はいらないもんなぁ?俺の十代には」
熱い雫が頬をはらはらと流れるのを気にも止めず十代はふるふると首を横に振っていた。
それは拒絶の意思か、或いはただ脳が混乱に耐え切れずに震えていただけなのか。
神は一度微笑むとその笑顔を浮かべたまま人に手を掛けた。そのゆく先は、首。
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ハニーこと凍死郎さまから相互記念に頂いちゃったぜヘヘァ!羨ましいだろう、しかし俺のものだ!(はとさん自重してください)
凍死郎さまも白痴書けばいいのにってはとさんが自重せずに口走った結果こんな素敵文が!
エビで鯛を釣るとはまさにこのことだぜ…俺超幸せ…