第2部
第6楽章:ヴォーチェ・パストーサ/voce
pastosa
涙の海の向こうに、憎らしいくらい綺麗な満月が見えた。
「え…。」
どういう、ことだろう。こんなの、何かの冗談だ。
ユトが“仕事”に連れてこられた先。それは大切な人と過ごした、我が家だった。
何故。どうして。疑問符ばかりが浮かぶばかりだった思考に、突然霧が晴れたようにはっきりと、
ある結論が導き出された。
「ツェス…今夜の、ターゲットって…。」
「……。」
無言で視線を外すツェス。その沈黙は何にも勝って、先ほど浮かんだおぞましい結論を裏付けるものだった。
「お、お願い、ツェス、こんなのは、こんなのはいや、こんなの、こんなのって、」
「…ユト様、」
縋りつき崩れ落ちるユトをツェスが抱きとめる。抱きとめて、けれどそれだけしか出来ない。
嫌だ、と繰り返すユトの肩を抱いて。この子を連れて逃げられたらと、止められたらと、思うのに、
思うのに、身体が、動かない。
びくり。ユトの身体が一際大きく跳ねた。
「や、めて…!お願いっ、ヴァルツェ…!!」
悲痛な絶叫とともにユトが耳を塞ぐ。それが耳から聞こえる音でないと分かっていても、そうせずにはいられない。だってこの歌を聴いてしまったら、ユトは自分で自分の身体を支配出来なくなる。
動く四肢も紡がれる言葉も、確かに自分のものなのに、自分のものではない。
これがヴァルツェの意志によるものなのか、それとも歌姫を求めるグリフォンのものなのか、
ユトには分からないけれど。
「…あ、…あ、いや、こんなの、……ねが、ツェス、………た、すけ…ッあ、あぁああああっあぁああ!!」
黒と白の羽が、夜空に舞った。
目の前で起こっていることを、ガラスの壁を一枚隔てたようなところから見ていることしか出来ない。
…最初に血祭りに上げたのは父だった。優しくて強くて、大好きだった父。
彼の胸を一突き、貫いて。
豪奢な絨毯の刺繍を塗りつぶすかのように広がってゆく血を、どこか他人事のように眺めていた。
その次に母を。
その前に見知った執事やメイドを何人も屠ったので、厳密には「その次」ではないけれど、母を。
笑顔が素敵で、いつも穏やかで大好きだった母。
彼女は首を飛ばした。
自分と同じ栗毛の髪が散る様を、物語の中のことのように遠く、眺めていた。
「…ターゲットの死亡を確認。…撤収せよ。」
ツェスの声が聞こえる。ああ、終わったんだ。そう。…私が、終わらせた。
―――私が殺した…父も母も。大切な人を。
…私が、殺した…!!
うるさいくらい響いていた歌が止む。やっと、解放される。
このまま意識を手放してしまいたいくらいに、ぼんやりとしか働かない思考。
けれどその逃避すらも許さないとでも言いたげに、人に戻ろうとしている私が聞いたのは。
彼の、激情を抑えきれぬ甘い声(ヴォーチェ・パストーサ)だった。
その、旋律に。
理解した。彼の歌に混じっていた、不可解な感情の意味を。
…何もかもが、手遅れだったけれど。
「っう…ぁ…っああああぁああぁあぁっっ!!」
涙と血の海の向こうに…恐ろしいくらい綺麗な満月が、見えた。
『…これで満足ですか、ヴァルツェ様。』
「満足な事この上ないね。これでユトは俺を見てくれる。」
そう。きっと彼女はこれからこの傷を一生背負って生きていかなくてはならない。
そしてその傷がある限り…否、傷が癒されたとしても、彼女は自分のことを憎悪し続けるだろう。
憎しみは愛と違って風化しない。5年も経つのにまだアイツを憎んでいる自分がいるのがその証拠だ。
「いい月だ。…きっとユトは忘れないね、この満月を。」
彼女が帰ってきたら何と言うだろう。罵るだろうか、それとも何も言えないくらい沈んでいるだろうか。
その怒りも悲しみも、全て自分が与えたものだと思うと心が躍る。
「…早く帰っておいで、ユト。」
独り言ちた言の葉は、誰に届くこともなく。
静かな少年の狂気を、おかしくなるくらい綺麗な月だけが、見ていた。
→第7楽章:シンティッランテ/scintillante
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(改訂:2011.08.12)