第1部





第3楽章:ア・ピアチェ−レ
/a piacere





やっと見つけた、大事なものだから。
誰の目にも触れさせぬよう仕舞いこんで、大切にしたい。



「あの事件」から6年。彼女は未だ、あの日の満月に捕らわれたままだ。
カーテンを堅く閉ざし、窓に背を向け本に視線を落とし、なんとか現実から逃れようと必死になっている。
暴れることこそなくなったものの、その逃避の姿勢が癒されぬ彼女の傷を如実に物語っていた。
「それで、いい…。」
カーテンを開け、現れた月にうっとりと目を細め、呟く。
その傷がある限り、彼女は自分のことを見続けてくれるだろう。
向けられる感情がたとえ比類無きほどの憎悪であっても、彼女が自分のことを見ている。
その事実さえあれば、充分だった。

狂ってる…!

いつだったか、彼女は自分にそう言った。
そんなことはとっくに分かってる。どこかが狂ってなけりゃ、こんな感情、抱けない。
知らず口の端が吊り上がる。鏡を見ずとも分かる、きっと凶暴な笑みだ。
…誰にも渡さない。決して逃がさない。

あいつは、俺のものだ。



物思いに耽っていたところに、覚醒を促すノックの音。
入れ、と短く言うと、銀髪の部下―――ツェスが、数枚の書類を手にやってきた。
「ヴァルツェ様、次回の任務の詳細です。」
「あぁ…。ご苦労。」
ぱらぱらと目を通す。正直どうでもいい文字の羅列。
「そういえば…、任務の日程について、ユト様には?」
「…そうか、重なるんだったな。代休ということで明後日と伝えておく。」
「了解しました。…それと、ヴァルツェ様…。」
彼にしては珍しい、戸惑いのある口調。元々軍属であった彼は曖昧な物言いをしない。
報告は簡潔に。そう上司にでも叩き込まれたのだろう。生来の生真面目な性格もあるのだろうが。
「…何か作戦に不都合でも?」
「いえ、ただ…。もう少し、ユト様への接し方を考えてはいただけないでしょうか。侍女からも、
 ユト様がお辛そうだと訴えが上がっております。せめて…、」
「お前達には関係のないことだろう?」
言い放つ。温度のないそれは正しく刃。貫き、抉り、切り裂く刃。
「自分の物をどうしようと、お前達には関係無い。」
「しかし、」
「用はそれだけか?…なら出ていけ。」
彼はしばらく納得のいかない顔をしていたがやがて失礼しましたと呟くように言い、足早に退出していった。
食い下がらないところがまた彼らしい。ああ、ああ、馬鹿馬鹿しい。
「あいつは…、俺の物だ。」
そう、ユトがヴァルツェの“奏者”である以上、どうあがこうがそれが覆せない真実。
自分の物をどうしようが、弾き手の自由(ア・ピアチェ−レ)だとヴァルツェは哂う。
きっと音色は悲鳴のような軋んだ音。音階とはとてもいえないようなそれでもいいと、ヴァルツェは言う。

その音だけで、充分だ。



扉を閉めてまず口を出たのは言葉にならぬ、重い溜息。あの答えを、全く予想していなかったわけではない。
しかし実際に目の前にそれをつきつけられてしまうと、なんともいえぬ絶望感に襲われる。
―――最も、彼女の抱える絶望は、これの比ではないのだろうが。
そんな暗い思考を打ち消すようにかけられた声の主は、どこまでも不真面目でおちゃらけた部下のものだった。
「たーいちょっ。どーだったんスか、例の“忠告”は。」
「あぁ…ディスか。いや、一蹴されたよ。『自分のものをどうしようとお前らには関係ない』と、はっきり言われた。」
「うひゃー…、ユトっち物扱い?」
銅(あかがね)色の髪をがしがしと乱雑に掻きながら、彼は“操者”ってのはそんなに偉いんスかね?と続けた。曖昧な溜息で誤魔化し歩き出すツェスの後をディスの場違いに明るい声が追う。
「つーか、そもそも隊長には関係ないっしょ?あの2人がどうなろーが、さ。なんで首つっこみたがる訳?
まぁ、そんなとこがカタブツ隊長らしいっちゃらしいんだけど。わざわざ面倒事抱え込もうとするなんて、
 アンタって変わってるよな。」
「関係なら…あるさ。」

それは6年前の惨劇。

己がもし彼を止めていたならば、起こり得なかったはずのもの。
「確かに俺は“見ていただけ”だった…。でもそれが、俺の罪だ。」


正せたかもしれない、あの青年の狂気染みた執着を。
守れたかもしれない、あの少女のささやかな幸せを。
今となってはもう、戻せぬものだけれど。

それでも、夢を見ずにはいられない。



己がもし、彼を止められたならば。





第1部   終止



→第2部  第1楽章:レクイエム/requiem



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(改訂:2011.08.01)





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