<恐がりの女侍>
「──」
薄暗い路地を曲がると道は急にひらけて、巨大な寺院の門前広場になる。
<カント寺院>。
ボッタクル──いや<ボルタック商店>とならんで「冒険者相手のあこぎな商売」で有名な寺院だ。
着流し姿の女は、広場に入る手前で足を止めた。
うら若い乙女、と呼ぶにはいささか籐が立っているが、美しい女と呼ぶのには問題ない年頃だ。
腰まで届く黒髪に、紫の着物。
地味で落ち着いた趣味に、目立たぬ物腰でなければ、きっと人々の注目を集めるに違いない。
しかし、女は、自分が誰かの目を引くことに無関心でありそうだった。
でなければ、薄暗がりの路地から、寺院をうかがうような真似はしないだろう。
レベル1の駆け出しの冒険者でさえ、中に入るだけならば自由の場所に、
隠しようのない熟練の雰囲気を身にまとう女侍は足を踏み入れられないでいた。
「……」
路地を行ったり来たりを繰り返しながら、女侍はちらちらと寺院の入り口を見る。
そして、きっかり七十七回路地を往復して、くるりときびすを返した。
──今日も、中に入れなかった。
柳眉をひそめて、女侍はため息をついた。
その目の前に飛び出してきた影があった。
「……」
「あ、やっぱり、お姉ちゃんだったー! わーい!」
笑い声を上げて女侍の懐に飛び込んできたのは、ホビットの少女だった。
黒髪の美女は、微笑を浮かべる。顔なじみだ。
「──また、カント寺院に行きそびれたの?」
「うむ」
市場の裏手の空き樽置き場。
いつもの樽の上に腰掛けた二人は、水筒のお茶を飲みながら、たわいのない会話に興じていた。
「もう、お姉ちゃんったら、なんでカント寺院がこわいのさ?」
「あ、あの寺院は、その、なんだ。──女冒険者が死体で運び込まれると、
カドルトをかける前に、僧侶ども、がいたずらするという。女にとってこれ以上恐ろしい話があるか」
「まったく、もう……。そんな噂、ボク、聞いたことないよ」
ホビットの少女は、あきれたように腰に手をやって「ぷんすか」のゼスチュアをする。
「な、わ、私は、臆病で言っているのではないぞ。お前なら、分かるだろう?」
「うーん」
返答しにくい質問をされた少女は即答を避けた。
女侍は、めっぽう腕が立つ。
少女との出会いも、裏路地で悪のパーティにからまれていたところを助けてくれたことから始まった。
フル装備、フル人数のマスターレベルパーティを、瞬く間に全員気絶させた腕は、
<ギルガメッシュの酒場>の腕利きの中にもいるかどうか。
だが、冒険者たちの間で、彼女が噂になることはない。
なぜなら──。
「ボク、お腹すいちゃった。お姉ちゃん、酒場になんか食べに行かない?」
元気欲立ち上がった少女の誘いに、女侍は真っ青になった。
「い、い、いけない。酒場で出てくる肉の中には、冒険者の死体が入ってることがある」
「それも、ただの噂だってばあ……」
ホビットの女盗賊は、呆れ顔で指摘したが、着流しの女剣豪は、ぶるぶると頭を振った。
「だめだ、私は……いけない……」
「もうっ……」
少女はまた空き樽の上に腰を下ろした。
空腹を満たすことより、女侍との会話を優先したようだった。
食べ盛りのホビットとしては、珍しい選択だった。
地獄よりも恐ろしい場所に行かずにすんで、ほっとしたような表情になった女侍は、不意にぶるっと震えた。
この震えは、恐怖でも、安堵でもなく──。
「……あの……はばかり……」
「……はいはい、おトイレね。付き合ってあげるよ」
横丁の奥にある公衆便所は、穴場だった。
勝手の悪い場所にあるそこを利用する街の人間はいない。
ましてや冒険者なら、酒場や宿屋のものを使うから、
そこは、この街で一番利用頻度の少ないところだろう。
女侍にはうってつけの場所だった。
──ただし、一緒に付き合ってくれて、扉の前で見張りをしてくれる者がいたなら。
「……そ、そこにいる?」
「はい、はい、ボクがいるよー」
中に入って一度、帯を解いて一度、しゃがみかけて一度、それに今の。
都合四回、女侍はホビットの少女が外にいてくれる事を確認した。
扉は開けっ放し。でなければ、女侍は恐怖のあまり用を足せない。
精一杯音がつつましげになるように、黒髪の美女は工夫と努力を積み重ねたが、
その効果が上がっているようには思えなかった。
「あ、そっちに言っちゃダメ、お姉ちゃんに流されちゃうよ?」
小動物か何かを止めているような少女の声の意味するところを悟って女侍は赤面した。
──やがて。
心底ほっとしたような表情で厠から出てきた女侍を、少女は無邪気な笑顔で手を差し出した。
「ほら、お姉ちゃん。ボク、便所コオロギさん捕まえたよ!」
……横丁の奥で絹を引き裂くような悲鳴が上がったのは、次の瞬間のことだった。
「──顔色が悪いが……」
<彼>は、自らが呼び出したものの中で最も信頼する存在の一つに声を掛けた。
「……大事はござらぬ。任務に戻りまする」
「リルガミンに出向いたか」
「は」
「……恋しいか、人間の世界が」
その、頭の中に直接響きわたる声に、女侍は頭を振って答えた。
「……否」
「そなたはすでに十分に私の召喚に応えた。いつでも、人としてよみがえって良いのだぞ」
女侍は、召喚主の巨大な謁見の間に横たわる棺をちらりと見た。
──その中にあるのは、はるか東方からやってきた本来の肉体──彼女のなきがらだった。
今のこの姿と同じそれを、寺院に持ち込めば、彼女は人間として復活できる。
だが──。
「盟約はまだ続けられるはずです」
竜が盟約と共に彼女に与えたかりそめの肉体は、竜が望む限り不滅であった。
巨大な竜の巨大な計画を遂行するために、女侍は戦い続けていた。
すなわち、リルガミンに必要な力を魂を持つ冒険者を鍛え上げるための戦いを。
彼女は何度も死に、何度もよみがえった。
要求されていた<奉仕>は、とうの昔に「払い終えて」いたが、彼女はここに留まり続けている。
たまにかりそめの肉体で街にいくことだけが、女侍が竜に要求した代償だった。
「……たしかにそなたがいれば、心強い。もう少しで、善と悪と中立の心理を知る冒険者たちが現れるだろう」
彼女の召喚主──巨大な竜は、緑色の翼をわずかに広げることで、女侍への謝意を表明した。
「では、──迷宮に戻ります」
愛用の鎧兜に身を包んだ女侍は、竜の間を出て行った。
(……ル‘ケルブスの試練を果たす冒険者があらわれるか……)
その時、自分はカント寺院で自分の死体をよみがえらせることになるのだろうか。
(その栄光の冒険者たちの中に、あの少女がいればいいな)
なぜかそんなことを考えた女侍──ミフネは自分の考えに慌てた。
鬼を模した頬当てに隠れて、かりそめの肉体の頬が桜色に染まっているのは誰にも分からなかった。