<リルガミンの娘>

 

<街>の入口に差し掛かると、やっぱり<奴>がいた。

門の脇にある詰所で身じろぎもしないでいる。

黙って通り過ぎようと思ったが、向こうから声をかけられた。

「おや、お帰り。そろそろ戻ってくるころだと思っていた」

「……分かるのか?」

「風の匂いでな」

──迷宮の下層に作られたこの<街>に、風など吹くのだろうか。

もっとも、匂いのほうなら分かるかもしれない。

長旅で汗まみれな上、ドラゴンの返り血をたっぷり浴びた俺の体は、

古びた鎧や装備の匂いも混じって大変なことになっている。

まあ、冒険者ならば、かぎなれた匂いだ。

それを相手の取引で成り立っている街の住人も。

「では──どこに行くかね?」

詰所から<奴>は出てきた。

「武器屋だ!」

俺は武器屋に向かおうとした。

「待ちたまえ、先に酒場に行ったほうがいいと思うぞ」

<奴>の言葉に、俺は憤然と振り返った。

「断固、武器屋だ!」

「……お好きなように」

<B武器店>の看板がかかる扉に大またで歩いていくと<奴>が後ろをついてくる。

最後の一歩で追い越される。<奴>は武器屋の中に消えた。

──どうやっても、この最後の一歩のところで追い越される。

今までに何百回か抵抗してみた。──あらゆる対策やフェイントが無駄に終わった。

舌打ちをして扉を開く。

──どこをどう移動したのか、ほんの数瞬のあいだに、<奴>はカウンターの向こうにいた。

「いらっしゃい。武器屋に何用かね?」

俺は、門番と同一人物の顔を睨みつけたが、向こうは平気の平左だった。

 

「──鑑定料と引き取り値が同じなど、どういうこった!」

「仕方ないな。それが<規則>だ」

もう何百回も繰り返されたやり取り。だが──。

「……君のために<規則>を捻じ曲げてもいいのだが」

<奴>が真剣な顔をして提案すると、俺のほうが腰が引けてしまう。

こいつだったら、言ったとおりのことをやる。

<規則>というのがどんなものなのか、今いちわからないが、捻じ曲げちまったら

──おそらく、とんでもないことになる。

俺は戦利品一式を抱えて憤然と席を立った。

「どこへ──?」

「酒場だ!」

店を飛び出して、扉をばたんと閉める。

振り返ると、<奴>は俺のぴったり後ろにいた。

扉を閉める瞬間はたしかにカウンターの向こうにいたのに、

閉めた瞬間には扉の外側にいやがる。

「くそっ!」

俺は先ほどにもまして大またで<Gの酒場>へ向かう。

最後の一歩で追い越されるのも、酒場の中に入ると、

<奴>がもうカウンターの中にいるのも、いつもどおりだ。

「いらっしゃい。ご注文は──?」

俺は、<奴>を睨みつけたが、やっぱり平気な顔をしていた。

 

「エール! 揚げじゃが! 肉! 2人前だ!」

「承った」

<奴>が魔法のような手早さで飲み物と食べ物を運んでくるのを、俺は不機嫌に眺めた。

……ところで、<奴>はいつの間に着替えたんだ?

白のブラウスに紺のスカート──今の<奴>は、典型的な女給仕の格好だ。

衛兵の制服と、武器屋の看板娘の衣装はどこに消えた?

エールをがっと飲み干して、俺はカウンターに怒鳴った。

「仲間を募るぞ!」

言い終える前に、俺の目の前に白墨で文字が書き込まれた石版が差し出されていた。

この酒場──この<街>にいる、俺以外の冒険者名簿。

端正な文字でかきこまれたそれの内容は、見なくたって分かっていた。

俺がこの<街>に来てから、ずっとそこには一行しか記入がない。

そいつの戒律は何度か変わっている。

俺が善の戒律に属しているときは、そいつも善だったし、

俺が悪の戒律に身を寄せているときは、そいつも悪だった。

たしか、職業も変わっていたはずだ。

だが、名前──人物だけは変わらない。

俺はそいつの名前を読み上げる。

「……リーリル」

<奴>の表情にはじめて変化があらわれた。

笑ったのだ──にっこりと。

瞬きする間に俺の向かいの席に着いた女司教を、俺はバシリスクより強くにらみつけた。

──やっぱり<奴>は平気な顔をしていた。

瞳が輝き、わずかに頬が上気しているのだけが、それまでと違っていた。

 

「ロングソード+2が2本に、チェインメイル+2、それに村正か。──ひと財産だな」

「ああ。武器屋に持ち込んだら、引き取り料金は鑑定料と相殺、だそうだ」

俺の皮肉に、<奴>は動じた様子はなかった。

「こうして私が鑑定した上で武器屋に持ち込めば、鑑定料は無料だが」

「……」

武器屋の娘と同一人物の女司教に、俺は反論する気も失せた。

「ところで──」

<奴>──リーリルはちらりと俺を見た。

「左肩の傷は、誰につけられたのだ?」

酒場の空気が二、三度下がった。背筋がぞくぞくする。

「このロングソード+2を持ってたドラゴンさ。薬で傷はもう塞がっている」

「後半は真実だな。前半は、嘘。──龍の爪による傷痕には見えない」

俺は、<奴>の水のような無表情に慌てた。──やべえ。

「……アークデーモンに出あっちまってな。すぐに逃げたんだが……」

「そうか。君はとても賢明だな。アークデーモンは、君がまだ1対1では勝てない相手だ。では──」

立ち上がりかけた<奴>をあわてて押しとどめる。

「ま、待て。どこへ行く」

「そいつに、報いを受けさせに──この世界に現れた事を後悔させてやろう」

冗談じゃねえ。

以前、サッキュバスにエナジードレインを食らったことがある。

ほうほうの態で<街>にたどり着いて、宿屋でぐっすり眠り、

次の日、出立しようとして──俺は胃の中のものを門の前で全部ぶちまけた。

<街>の前で絶望と苦悶の表情を浮かべて並ぶ、数百体のサッキュバスどもの死体を見て。

<奴>なら最初の一匹目に、俺の精を吸ったやつを捕まえるのも朝飯前だ。

そのほかの数百体の虐殺は──単なる腹いせだ。

 

 

「お、俺の獲物だ、横取りするな。──俺が自分でケリをつける」

冒険者の意地とか面子とか、そういうものより、単純な恐怖が俺を止めさせた。

「君がもう一度そいつに出会う確立は少ない。私なら……」

「うるせえ、だまれ、メシに付き合え」

言葉よりも、手首を掴んで引き止めたことが有効打だったらしい。

「承知した」

<奴>はおとなしく椅子に座りなおした。

 

「──揚げじゃがも、チキンも、うまいな」

「お前が自分で作った物じゃないか」

「いや。君といっしょに食べると味が変わる。できれば何時もこうありたい」

普通なら言いにくいことを無表情でさらりと言うな。

揚げじゃがと肉を平らげ、コインを2人分のチップ込みでテーブルに置く。

「む、店を出るのか。──私はもう少し、君とこうしていたいのだが」

「うるせえ、パーティーは解散だ」

「──いつか、君といっしょに冒険をしたいな」

それもさらりと言うな。

「そのうちな」

俺は扉に手を掛けた。

「──どこに行くかね?」

「宿屋だ。今日はもう寝る」

「そうしたまえ」

 

「宿のコースだが」

「馬小屋だ」

「ロイヤルスイートが空いている」

「歳を取るのは御免だ」

「この<街>の一個下の階層に、魔法の泉があるのだが」

「その深度9には若返りの効果があるっていうんだろ?」

「武器屋に<若返りのアンク>の在庫も充実している」

「めんどくせえ」

「君は傷を癒す必要はないので、どの道、効果はそう変わらんのだが」

「馬小屋だ!」

「承知した」

いつもどおりの会話の後、宿屋の娘は、俺を裏手の馬小屋に案内した。

寝藁を整える。そのあと、立ち去らずに、藁の上に大の字になった俺の隣にちょこんと座る。

──これも、いつもどおりだ。

「どうした?」

「我が宿は、現在、特別サービス期間中でな」

その「期間」は、俺がこの<街>を見つけてからずっと続いている。

「なんだ、洗濯でもしてくれるのか」

<サービス>の中身を知っているが、思わずそんな口をきいてしまう。

「──お望みなら」

リーリルは俺の服を眺めながら言った。

そういや、さっき酒場で鎧は布でぬぐったけど、その下の服はそのまんまだ。

本当に洗濯を頼んじまうのもいいかもな。

ふわ──。

あ、やべえ、さっきのエールが効いてきた。

寝藁が天蓋付きのベッドよりも極楽に思える。こりゃ、落ちるわ。

「……悪りい。寝ちまいそうだ。──俺が寝てる間に、変なことするなよ」

「承知した。──私が考えて<変なこと>はしない」

あ、なんか嫌な予感。だが俺は、襲い繰る睡魔に勝てなかった。

 

眼が覚めると、俺は──真っ裸だった。

ロクトフェイトの呪文を使った覚えはねえ。

俺は跳ね起きて、井戸にむかって走った。

<奴>は、俺の姿を見るや否や、おはよう、と声を掛けた。

「……おはよう、じゃねえ! 俺の服はどうした」

「昨日頼まれたので洗濯中だ」

「なんで俺は真っ裸なんだ?」

「現在、君の服は全て私が洗濯しているから、だな」

「なん……だと?」

俺は<奴>──宿屋の娘リーリルをにらみつけた。

「仕方がないことだ。君は十日近くこの廃墟を彷徨ってきたわけだから、着ていた衣類は汗と埃で汚れている。

幸い、私は洗濯には自信があるから、今日中に全ての汚れを落としきることを約束しよう」

「フ、フンドシくらいは返せ!」

「駄目だな。あれが一番汚れている。下着とは一番汚れるものなのだぞ。

それに、君はこの十日のうちに、二度ほど夢精をしただろう」

「なっ!」

「精液の汚れは落とすのに時間が掛かる。──私も女だからな。洗う前についつい匂いなどを嗅いで戯れてしまう」

「こ、こ、この変態女ぁ!!」

「君が立ち寄るようになるまで、この迷宮でずいぶんと女の一人暮らしが長かったからな。

それくらいは大目に見てもらおうか。君が不在の間、私は君に操を立てて自慰さえしていないのだ。

君が戻ってきたので、あのフンドシで自慰をしたいと思うのだが……」

開き直った──んじゃねえ。もともとこいつはこういう性格だ。

「変なことはするな、と言っといたはずだぞ」

「うむ。私が考えるに、<変なこと>はしていないつもりだ」

……ああ、そうだな。

お前さんに言わせれば、俺の服を剥ぎ取って洗濯始めたり、

俺のフンドシで一人遊びを始めるのは、<変なこと>じゃねえ。

「ふむ。ずいぶんと不機嫌だな。──察するに、君は、裸にされたことが恥ずかしいのか?」

「今頃気付くな!」

「君の男性器は大きさ的にとても立派なものだから、恥ずかしがる必要はないと思う。

形状的な問題については、唯一それを目撃する可能性がある私は、むしろその形状を好ましく思っているので、

こちらも全く問題がない。つまり、君は、ここで、なんら恥ずかしがる必要なく男性器を露出できる」

「ぶ、ぶ、ぶっ殺すぞ!!」

「君は、私に対していつもぶっ殺すだの、ぶっ飛ばすだの、と物騒なことばかり言う。

たまには、犯すとか、孕ませるといった艶っぽい言葉が出てくれるとうれしいのだが」

大真面目な顔で俺を見つめる女に、俺は返す言葉もなく、真っ赤になって拳を振るわせた。

「──わかった。譲歩しよう。君が裸で居る間、私も下着を脱いで性器を君の目にさらすことにしよう。

それで手を打ちたまえ。それで気が済まなければ、私が脱いだ下着を君が履いててもいい」

<奴>はスカートに手をかけた。

「わわっ、いいっ、いいから早く洗濯しろっ!」

俺は馬小屋に駆け戻った。

 

リーリルが戻ってきたのは、随分遅くなってからだ。

おかげで俺は、井戸の周りから<奴>がいなくなったのを見計らって身体を洗って乾かし、

昼寝を楽しむことさえできた。

<奴>の能力を持ってすれば、一個大隊の洗濯物をさばくのに半時間とかからないはずだ。

あのアマ、本当に俺のフンドシで遊んでやがったのか?

「綺麗にできた」

きちんと折りたたんで重ねられた俺の服をじろりと睨む。

「……む、何か君の機嫌を損ねたか? 洗濯は完璧のはずだ」

たしかに繕い物も丁寧に仕上がっている服のほうに問題はない。

「……」

「……怒っているのか、君は?」

こいつは恐ろしいくらいに頭がいいが、時々、ものすごく鈍くなる。

「……」

「私は、どうすればいいのだ? どうしたら、君の機嫌を直せる?」

寝藁に包まった俺が何を考えてるのか、どうにもわからないらしい。

──こっちは、さっきの会話で、十日間も触れていない女の肌を思い出しちまったというのに。

たっぷりとした酒と食事、それに一晩の睡眠。

若くて健康で体力の有り余っている男にゃ十分すぎる休息だ。

しかし、リーリルはさっきの会話の続きを俺が欲していることに思い至らない。

いいさ、こいつはそういう奴だ。

俺はため息をついた。

向こうから来ないのなら、こっちから行けばいい。

行く道が分かれば、迷いも躊躇もなく、まっすぐ突き進んでくる女だ。

「──特別サービス」

「む?」

「まだ期間中か?」

「もちろんだ」

リーリルは大きく頷いた。

「サービスの中身は、夜のお供に女の子の紹介、のままか?」

「その通りだ。──どんな女がお望みかな?」

俺の言っていることがわかったらしい。リーリルは俄然積極的になった。

「そうだな」

俺はことさらに鹿爪らしい表情をした。

「俺は好みにうるさいぜ」

「要望を聞こう」

リーリルは大真面目な顔で言った。

「──髪の毛は、お前くらいの長さがいいな」

「該当者がいる」

「──スタイルは、まあ、胸も尻もお前くらいは欲しいな」

「該当者がいる」

「──顔の好みは、お前に似てる子がいいかな」

「該当者がいる」

「──性格は、お前みたいな奴がいれば最高だ」

「該当者がいる」

「……お前みたいな女がいい」

「──ぴったりの該当者がいる」

「じゃ、そいつでいい──いや、そいつがいい」

「──承知した」

リーリルはにっこりと笑って寄り添ってきた。

 

唇を合わせる。

天上の彫刻家が作ったような唇は、ひんやりとしていた。

そのくせ、炎のように熱い。

「元気だな」

抱き寄せて服を脱がせる間、リーリルは俺の股間をしげしげと眺めていた。

欲望で頭に血が上りきっている今じゃなきゃ、

こっちのほうが逆に気恥ずかしくなるような言葉と言い方だった。

「十日も女に触れてないからな。元気にもなる」

「ふむ。──しかし夢精はしたのだろう?」

相変わらずストレートに物を言う女だ。

「それは生理現象だ」

「なるほど」

理屈になっていない理屈だが、<奴>は頷いた。

理解しているかどうかはともかく、納得はしたのだろう。

時々、この女は生まれたばかりの赤ん坊じゃないか、と思う瞬間がある。

まあ、──生まれたばかりの女は、こんないい身体はしていないか。

俺は裸になった<奴>の肢体にむしゃぶりついた。

象牙を切り出して作ったような肌が、俺の舌に蹂躙されていく。

首筋を舐め上げると、リーリルはわずかに眉根を寄せる。

その反応が、嫌がっているのではなく、その逆の表現だと気付くのに

五回ほどベッドを──おっと寝藁か──共にする必要があった。

形のよい乳房に吸い付く。

青い静脈が透ける肌は、しかし乙女のような滑らかさを保っていた。

「ああ……」

リーリルがうめく。

俺は強く吸いたて、鴇色の乳首を甘噛みした。

「!!」

リーリルが声にならない声を上げてのけぞる。

石のような不変さの中に、瑞々しい感度が宿っている女だった。

「いいか?」

「とても、いい。私は君に胸乳を吸われるのが好きだ」

……睦言は、もう少し色気を覚えたほうがいいかも知れん。

いや、こちらのほうがいいか。

俺は嗜虐的な気持ちになって<奴>の上にのしかかった。

「──行くぜ」

「…来たまえ、私の中に」

無機質な言葉を熱い吐息とともに漏らしながら女が微笑んだ。

俺は宿屋の──いや<街の娘>の中に、どこまでも自分を沈めていった。

 

──ひょっとしたら、俺は呪われてるんじゃないかと思うことがある。

迷宮の上層階にはずいぶん戻ってない。

他の冒険者にも全然会わない。

ひょっとしたら、<地上>はとっくの昔に滅びているか、

さもなくば、俺のほうがとっくの昔に死んでいて亡霊となってさまよっている可能性だってある。

じゃなきゃ、こんなところにリーリル……リトル・リルミガン、つまり、

<リルガミンの娘>と名乗る<街>があるはずがない。

俺はこの迷宮からも、この<街>からも、逃れられないのかもしれない。

──まあ、それもいいんじゃないかな、と思っているさ。

この「街の娘」は、ちょっと無愛想だが、とびっきりいい女だからな。

 

 

 

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