<パックス・タタターリカ>・4

 

 

「ダメだね。絶対ダメ」

シルンドは、ツァイを注ぎながらあっさりと言った。

「――ダメって、そりゃどういうことだよ」

さすがに僕は詰め寄った。

 

シルンドは、――賢い。

それも、とんでもなく。

この小柄で料理が上手い娘(こ)が、わずかな言葉で成し遂げたこと。

それは、タタタールの趨勢を変えてしまうほどのものだった。

ジャベイの随身をきっかけに、カイゾンの勢力の大半が僕の側に寝返った。

敵から兵力を奪って、味方の兵力を増やす。

言葉にすると簡単だけど、

「二十年前に袂を分かった草原の西と東の民は決して相容れない存在」という「常識」は、

並み居る将軍たちも、参謀たちも、大臣たちも、つまり、帝国きっての知恵者たちが誰も疑わなかった。

シルンドだけが、それを疑った。

「西のタタタールの人たちが、ずっとお腹を空かせたままでいられるなんて信じられないよ。

だって、ボクと同じ、タタタールの人間なんだよ?」

厳しい自然の中で、辛抱と我慢と自律を身に付けた強靭な草原の民。

少ない食料と少ない水で勇猛に戦い続ける、僕らよりも純粋な遊牧の戦士。

だけど、彼らだって、永遠に空腹と窮乏に耐えられるわけではない。

牧草が生えなければ、草原から離れることも考える。

そんな当り前なことを、僕らは──そして、カイゾンたちも見落としていた。

シルンドだけが、それに気がついていた。

今、彼女がそうしているように、手際よくツァイと軽食の準備をしながら。

──頭の中は、食べることとむつみ合うことだけでいっぱい。

そんな僕の皇后が、世界中の賢者を集めたよりも賢いということに、僕は遅まきながら気がついた。

だから、シルンドの反対に、僕は戸惑っていた。

 

シルンドは、僕とカイゾンとの決戦に不賛成だった。

「七十五万と、五万。十五倍集まったんだよ?」

「うん。集まったね。――でもダメ」

岩塩を削り入れながらの、にべもない返事。

「だけど、カイゾンと戦わないわけには行かないだろう」

僕は、ゲルの中を歩き回りながら言った。

戦うべき刻(とき)――戦機というものがあるとすれば、それは今だった。

雪崩を打って僕の側に寝返った西の草原の部族たちは、

僕の国が国庫を開いたことで、一息つくことが出来た。

十五万の兵は、その三倍の数の家族と同行している。

急に増えた六十万人もの人間に食料と水とフェルト(羊毛の布地)を行渡らせたのは、

大臣たちの昼夜を問わない働きと、父上が蓄えた富のおかげだ。

だけども、長引くとやはり無理が生じる。

東の草原は牧草の出来はいいけど、チーヌの農業地帯に接しているので、

広大な西の草原よりも、面積はずっと狭い。

いつまでも六十万の難民を留めてはおけないのだ。

そして食べる物があっても、それだけでは草原の民は生きていられない。

食料と、広い草原。

前者は、僕が持っている。

だけど、後者はカイゾンが抑えたままだった。

だから、僕は、僕を頼ってきた飢えた戦士に食べ物を与え、士気があがった今この瞬間に

カイゾンを倒して西の草原を手に入れなければならなかった。

今、戦って勝ち、草原を手に入れれば、次の年の牧草が生えるまでの間、

東から食料を送ることで、みんなを支えることができる。

逆に言えば、今戦わず、草原を手に入れられなかったら、

西からの難民たちは、狭い牧草地に閉じ込められたことに不満を持ちはじめる。

次の年か、次の次の年には、またカイゾンの側に寝返ってしまうだろう。

七十五万対五万と言う戦いは、数字以上に不確定なもの。

 

「第一のハーンと、第二のハーンは、互いの首を見るまで戦い続けなきゃならない。

……その意味がやっと分かったよ」

僕も、カイゾンも、危うい橋の上で戦おうとしているのだ。

チーヌの将棋。

エウロペアのチェス。

僕とカイゾンは、一手ごとに優勢劣勢が切り替わる難しい戦いを続けているのだ。

どちらかが死ぬ、その日まで。

「そうだね。その<指し手>は誰にも代われない。

今、この世に存在する大ハーンの候補者は、君たち二人だけ」

「だから、僕とカイゾンは戦わなきゃならないんだ」

──決戦。

カイゾンと、僕との。

だからこそ、それは、今、この瞬間、僕が有利になった局面でやらなければならないものだった。

だけど、シルンドは──それに反対している。

「――だからね。カイゾンと戦うことを止めてるんじゃないんだよ」

小さな皇后は、出来上がったツァイを僕にすすめながら言った。

「じゃあ、何が反対だって言うのさ」

「君が、戦場に出ること」

シルンドは、あっさりと言った。

「僕が、戦うこと?」

「うん。君は、絶対ここから出て行っちゃダメ!」

シルンドは、そう言って立ち上がった。

手を腰に当てて、薄い胸をぐっと張る。

絶対引かないときの、意思表示。

めったにないシルンドのその姿に、僕はびっくりして後ずさった。

「そ、そういうわけには行かないよ!」

気おされながら、僕は譲らなかった。叫びながら、オルドを飛び出す。

「絶対ダメ! 絶対の絶対だよ!」

シルンドの声が、僕の背中にぶつかった。

 

「――と言うわけで、シルンドは僕の親征に反対なんだ」

「ほう」

「……」

ナイマンタルは腕組みをし、ジャベイは黙ってこちらを見ている。

僕の国の本軍と、カイゾンからの離反軍を代表する二人の将軍を呼んだのは、それを相談するためだった。

ナイマンタルは、本軍で首席の将軍と言うわけではない。

ジャベイにしても、元カイゾン軍は、後からもっと大物が参加してきている。

だけど僕が意見を聞く相手としては、それぞれの軍で一番信頼できる将軍だ。

複雑な派閥にこだわらず、率直な意見を言ってくれる、経験豊かなバァトル。

それは、今、僕にとってシルンドの次になくてはならない相談相手だった。

「――カイゾンとは今、戦わなきゃならない」

「そうですな。是非そうするべきですな」

「戦うのは今しかない」

即答。

本軍の麒麟児も、離反軍の狼も力強く頷く。

「楽観は出来ないけど、ようやく勝負になる戦力になったと思う」

「然り。まさしく、然り」

「その認識で良いと思う」

これまた即答。

背の高い東北の従兄弟も、剽悍な戦士も迷うことなく賛成した。

今、僕の新旧軍団長でもっとも信頼できる二人が、

同じ考えであることに、僕は自信を持った。

だから、僕は、さらに言葉を続ける。

「僕は、カイゾンと決着をつける。大ハーン親征だ」

「――」

「……」

だけど、ナイマンタルも、ジャベイも、応、の返事をしなかった。

黙って、宙を見詰めている。

「どうしてさ! どうしてダメなんだ!」

僕は、爆発した。

説明を求めて叫ぶように、言い立てる。

 

「七十五万だよ! 七十五万全軍で戦わなきゃならないんだよ!」

「……全軍ですな。全軍をもって戦わなければ勝てない相手ですな」

「……全てを振り絞って、はじめて勝ち目が生まれてくる」

「だったら! なんで大ハーンの僕の親征じゃないんだい?!」

「それは──」

「……」

「僕の国が、全軍をもって戦う決戦で、大ハーン以外の誰が指揮官になれるのさ?!」

答えは、ない。

ナイマンタルも、ジャベイも、沈黙したままだった。

これが、七十五万でなければ、僕もこんなことは言わない。

大ハーンであっても、僕は戦争の素人だ。

だけど、これは、文字通り、僕の国とカイゾンの国とが全てを振り絞った決戦だ。

僕と、カイゾンの決戦。

僕が戦場に出なくてどうするというのだ。

「それに、僕じゃなかったら、誰が総大将になるのさ?!」

七十五万は、文字通り、全軍。

首都を守る近衛兵と、各地の駐屯軍を除いた全兵力を、

誰かに与えたとしたら、――それは、謀反の可能性を秘める。

出撃した将軍が、もしカイゾンと結んで反転してきたら──僕の国は、一瞬で終わる。

「総大将ですか、それは──」

ナイマンタルは、苦しそうな表情になった。

ジャベイは、押し黙ったままだ。

「誰なのさ?!」

僕は、二人に詰め寄った。

「そ、それは……」

「……聞くところでは、ザマバ殿下ということだな」

口を濁した東北の従兄弟が救いを求めるように横目で見ると、

元カイゾン軍の剽悍な戦士がずけり、と言った。

「ザマバ……か」

僕は、続いて喉からもれそうになる声を必死で押し殺した。

(――ジャベイ、ナイマンタル、君たちまであいつを選ぶのか!)

 

ザマバは、僕の異母兄だ。

僕に倍する才能を持つと言われた、つまりは、「やや有能」な男。

実際、幾つかのことはそつなくこなし、あとのことはごく普通な彼は、

大ハーンの後継者候補に上がったこともある。

早い段階でその話が消滅したのは、

僕が父上の正妻から生まれた嫡子であり、

さらには僕自身がシルンドを妻に迎えていたこともあって、

母方の一族(シルンドの一族でもある)の圧倒的な支持を得ていたことによる。

僕の母方の実家は、三代続けて皇后を出し、帝国内で隠然たる勢力を持つ保守派の大首魁だった。

保守派。

穏健派。

長老派。

──呼び方は何でもいい。

とにかく、母の実家が牛耳る派閥は、帝国創成期からの元老たちの集まりで、

帝国の上層部にも、大臣や将軍たちにも、一番強い力を持っていた。

保守的で、事なかれ主義で、──つまり常識的な主流派。

「多少の能力の差なら、主流派が支持している皇子を後継者に据えたほうが穏当」

そうした、はなはだ消極的な理由で僕を支持した彼らの後押しで、僕は皇太子の座に押し上げられた。

そしてザマバは、それを覆すほどの才能と実力の持ち主ではなかった。

 

僕が正式に皇太子に決められた瞬間、ザマバは(少なくとも彼と彼の支持者の間では)、

「悲劇の皇子」になり、僕に次ぐ勢力、つまり僕の反対勢力の領袖となった。

家柄、年齢、それに支持者の数。

そうした様々な要素を足し算していくと、ザマバは僕の帝国の「二番目の男」となる。

つまり、僕が皇帝親征をしなければ、その総大将はザマバが就くしかない。

そして、そうしたときに、この異母兄がカイゾンと結んだり、

あるいはカイゾンを倒した後で、軍権を返さずに反乱を起こしたりする危険性はおおいにあった。

ザマバは、僕と同じ、先代大ハーンの息子だ。

僕さえいなければ、あるいは、僕よりもっと大ハーン位にふさわしい「英雄的な男」と皆に認められれば、

彼が新しい大ハーンになってもおかしくは、ない。

そして、「バァトルの中のバァトル」カイゾンを倒すことほど、

「英雄的なこと」が、このタタタールの草原にあるだろうか。

「……ザマバが、カイゾン討伐に立候補しているのは知っているよ!」

僕はいらいらとゲルの中を行ったり来たりしながら言った。

叫ぶような声が裏返っているのが自分でも分かる。

耳障りな声に、さらに自分に苛立つ。

「あいつは、今頃になってそんなことを言い出したんだ!」

──自己嫌悪。

「今までずうっとそんなことを言わなかったのに、今になって急に!」

──自己嫌悪。

「味方が七十五万になって、相手の十五倍になって、カイゾンに勝てそうになってから!」

──自己嫌悪。

ザマバが考えていることは、僕と同じだった。

勝てるならば、カイゾンと戦いたい。

カイゾンに勝って、英雄になりたい。

ザマバも僕も、そう考えていて、だから僕は、なおさらザマバに総大将の座を与えられなかった。

 

「――ふむ。ふうむ」

ナイマンタルが腕組をして天井を眺めた。

「……」

ジャベイは、こちらも腕組をして机の上の地図を見詰めている。

どちらも、僕の声に答えることばを持っていない、

二人の将軍はそんな感じで、僕は、それが痛いほどにわかった。

「……なぜ、僕ではダメなんだい?」

僕は、自分でも情けなくなるような小さな声で聞いた。

「……答えづらいですな。非常に答えづらいですな」

東北の従兄弟は、ひげをいじくりながら目を逸らした。

「……臣下の身ではうまく返答できないこともある」

西の草原の剽悍な戦士は、憮然として言葉を吐き出した。

「そうか……。結局は、僕が無能と言うことなんだな。

僕が総大将では、カイゾンに勝てない。そういうことなんだろ?」

ザマバは、将軍として、僕より幾分はましだ。

少しでも勝てる要素があるほうを選びたいというのが、決戦に赴く戦士の本音なのだろう。

「……それは……」

「……理由はそうである。だが、そういう意味だけではない」

ジャベイは頭を振りながら言った。

ナイマンタルが失礼な降将に、おい、と掴みかかろうとしたが、

途中で同じように頭を振って椅子に座り込んだ。

「うまく言えない。が、大ハーンは、戦場に来てはいけない」

「……そうですな。ジャベイが言うとおりですな。

うまく言えないのですが、大ハーンはこの都にいるべきです」

「そうか……」

僕は、がっくりと肩を落としながらつぶやいた。

「僕と、ザマバではそんなに違うのか。何が違うというんだよ……」

カイゾンと比べられて無能扱いされるならまだ納得が行くが、

身近なライバルとの差を見せ付けられると、止めようもない虚無感が僕を襲った。

だが、その言葉に、二将軍は反応した。

「……違いますな。たしかに違いますな」

「なるほど──」

二人は互いの顔を見て、頷きあった。

「なんだ、どうしたんだ」

「いえ、気がつきましてな、大ハーンの強みを。ザマバ殿下とも、カイゾンとも違う、強みを」

「強み……、違い……?」

「大ハーンには、皇后がいる」

「なんだ、そりゃ。ザマバだって夫人くらいいるよ。

カイゾンにだっているだろう。たしか、四人か、五人くらい」

「そうではありません、そういうことではありません」

「ああ、実家のことか。そりゃシルンドの実家ほど勢力があるところは……」

「違う。そんなことではない」

「だから、なんだって……」

二人は顔を見合わせ、そして立ち上がって言った。

「お戻りください。オルドにお戻りください、大ハーン」

「皇后なら、うまく説明できるだろう」

「だって、シルンドは、僕に戦うなって言うんだよ!?」

僕は口を尖らせて反論しようとした。

でも、二人の将軍は、巌のような胸を張って言った。

「皇后様は、あなたの味方です。誰よりもあなたの味方です」

「そして、あれほど賢い人間はどこにもいない。

――それが大ハーンとザマバ殿下、そしてカイゾンとの違いだ」

「それはわかっているよ、でも──」

僕は、言いかけて、二人の将軍を言い負かす理(ことわり)が自分にない事を知った。

シルンドは、何を言おうとしていたのだろうか。

「大ハーン、あなたは大ハーンです」

「そして、カイゾンに勝てる武器を持っている唯一の大ハーンです」

「……!!」

それは、シルンドが閨(ねや)の中で言ったことだった。

 

そうだ、あの時、シルンドはそう言った。

僕は、カイゾンに勝っているところがあるって。

──喰いしん坊で、怠け者。

そんなものが武器になるはずがない、僕はそう思った。

だけど、現実に、僕は、その二つの力で、カイゾンから十五万の兵力を奪った。

あの父上でさえ、できなかった芸当だ。

怠け者の僕は、僕の国の国是にあまり肯定的でない西の草原の人々を厳しく追及することなく受け入れ、

喰いしん坊の僕は、彼らの差し出す痩せた羊肉を喜んで受け取った。

あいまいな迎合は、ごくたまに懐の広さと同じ働きをする。

そう、確かに僕は、カイゾンを上回ることをやってのけた。

それは、シルンドが見つけた僕の「いいところ」。

──彼女は、まだ他に何か言っていたはずだ。

僕の「いいところ」を他にも見つけてくれていたはずだ。

カイゾンに勝ってるところ。

カイゾンに勝つ武器。

なんだっけ。

……なんだっけ。

…………なんだっけ。

僕は立ち上がった。

もどかしい。

それを思い出せないことがもどかしいんじゃない。

今、シルンドが僕の隣にいないことがもどかしいんだ。

シルンドが隣にいて、ツァイを淹れてくれて、笑ってくれて、

ご飯を作ってくれて、話しかけてくれて、口付けをしてくれて──。

「――オルドに行ってくる」

僕のことばに、ナイマンタルとジャベイがどんな表情になったのか、

そんなことも確かめることなく、僕は大ゲルを飛び出した。

 

 

「やあ。そろそろ戻ってきてくれる頃だと思っていたよ」

シルンドは、飛び込んできた僕に笑って見せた。

「シルンド……」

「まあ、座りなよ。ボクの大ハーン様。馬乳酒を温めておいたんだ」

「あ、いや、そうじゃなくて……」

「チーズとヨーグルトもあるよ?」

「あ、あのさ……」

「西のブドウと、東のライチ、どっちがいい?」

「……両方」

僕はシルンドの前に座った。

「はい」

シルンドが馬乳酒を注いでくれる。

「ん……」

馬から作った酒は、甘くて酒精が薄い。

水の代わりに飲んでも大丈夫な、タタタール人の飲み物。

同じく甘い果物にはあまり合わないというけど、僕は結構好きだ。

干ブドウを口に放り込んで、馬乳酒で流し込む。

シルンドは、ライチを齧りながらお茶をすすった。

うん。温かいものをお腹に入れて、少し気分が落ち着いた。

聞かなきゃならない事を、聞く。

僕は深呼吸をして、口を開いた。

「あのさ……」

「何?」

「教えて」

「何を?」

「僕が、カイゾンに勝っているところって何?

いや、それより先に、……なんで、僕が戦いに出ちゃいけないのか」

「あ、それは簡単。――カイゾンは、君よりずっと強いから。

君が戦場に出たら、君は殺されちゃうかもしれないでしょ?」

シルンドはあっさりと言い、僕は絶句した。

 

「殺されるって……」

確かに考えてはいた。

カイゾンの兵は五万まで減った。

でも、それは、どんなに不利になっても、カイゾンが生きていれば、

最後まで「バァトルの中のバァトル」について行く、最強の戦士たち。

僕の軍隊は、七十五万を集めてはじめて互角。

それはわかっていた。

でも、七十五万。

七十五万の兵士がいるんだぜ。

いくらなんでも、総大将の僕が死ぬなんてことは──。

「……っ!!」

不意に、それは、鮮やかに僕の脳裏に描かれた。

崩れていく陣形。

蹴散らされる味方の軍団。

寄せ集めの士気の低い兵団は、死に物狂いのカイゾンの親衛隊に気おされてずるずると下がって行く。

決戦は、七十五万を使い切って、僕の本隊とカイゾンの本隊の間で行われる。

そして、僕の前に、黒い大きな馬に乗った魔神のようなバァトルが現れて──。

「うん。君、死んじゃう。半々の確率で。

だから、ボクは、絶対に君を戦場に行かせない」

シルンドは、僕の杯に馬乳酒を注ぎながら言った。

僕は、自分の喉がからからに乾いているのに気が付いた。

慌てて杯をあおる。

「で、でも、半分は勝つってことだろ……」

そうだ。

英雄は、そんな死地を乗り越えて偉業を成すから英雄になれるんだ。

僕の父上も、カイゾンも、そうやって万人が認める偉大な男になったのだ。

僕だって──。

「――残りの半分は、絶対に死んじゃうんだよ?」

シルンドは、僕の目を見ながら言った。

 

血が凍るような恐怖。

そうだ。

戦場に出て、負けたら、死ぬ。

単純な話だ。

「で、でもさ……。僕が行かなきゃザマバが総大将になって……」

「君が勝つ」

「なんで! なんでザマバなら勝てるのさ!」

僕は思わず叫んだ。

僕よりわずかに優れた異母兄への嫉妬。

それが、僕に喉から絞ったような声を上げさせた。

「ちがうよ。勝つのは、君。

――君以外の人間が総大将になるなら誰がなっても同じで、絶対に、君がカイゾンに勝つ」

シルンドは、真っ直ぐに僕の目を見詰めながら、そう言った。

「なんで……どうして……」

「君以外の人間が総大将になっても、カイゾンは五分五分でその人の首を刎ねる。

でも──その時には、カイゾンの五万の兵隊は全滅している。

君の七十五万の兵隊を切り進んで、カイゾンが本陣に迫る間に、ね」

「……!!」

シルンドの表情は、水のように静かだった。

「今、カイゾンのもとにいる五万は、最後の最後に残った最強の兵士。

カイゾンの一番の支持者。カイゾンのために、文字通り死に物狂いで戦う信者。

──それは失えば、二度と手に入らないんだ」

「……」

「でも、君の七十五万は、烏合の衆。時間がたてば、十万でも二十万でも集められる。

ううん。一万でもいいんだよ? たったの一万人で。

もしカイゾンが勝ったあとで戦場から逃げても、追いかけて、殺しちゃえばいい。

カイゾンがいくら戦争が強くたって、たった一人で一万人相手に勝てない。

だって、それは、もう戦じゃなくて、狩りだもん」

「……」

「だから、君が戦場に出なければ、……カイゾンは絶対に君に勝てない」

「……」

「逆に言えば、カイゾンが君に勝つ方法は、ひとつだけ。

戦場で、君を殺すこと。

君さえ殺せることができれば、たとえ軍が全滅していても、大ハーンは一人だけになるからね。

誰かがカイゾンにひれ伏し、――まわりの皆もそれに従って、おしまい」

「……」

「だから、カイゾンが勝つのは、君が戦場に、

──カイゾンの弓の届くところに現れたときだけ」

「……」

「だから、ボクは絶対に君を戦場に行かせない。

だって、君はここにいる限り絶対に負けないんだから」

僕は、呆然として自分の妻の顔を見つめた。

 

「……ああ、そうそう。

総大将になった人がカイゾンと手を組むとか、君に反乱を起こすとかは、考えなくていいよ?

ボクらの国は、結局カイゾンと相容れない──兵隊だって同じことさ。

こっち側のみんなには、チーヌの農耕を受け入れてたくさん食べ物と財宝をくれる大ハーンが必要で、

それは君しかいないんだ」

「シルンド……」

「さっき、言ったよね? “<指し手>は誰にも代われない”って。

大ハーン候補は、君とカイゾンだけ。

この勝負で、他の人間は、誰も彼もみんな、駒なんだ。

そして、こっち側のみんなは、結局、君を選んだ。<主流派>の人たちは特に、ね。

今更、他の<指し手>は選べない。君以外の大ハーンが生まれたら身の破滅さ。

もし、反乱が起こったら、真っ先にその人の首を刎ねてからカイゾンと戦う」

「シルンド……。シルンド……」

僕は喘いだ。

空気を求めて、ぱくぱくと口を開けたり、閉じたりする。

ナイマンタルも、ジャベイも僕に言わなかったはずだ。

これなら、絶対にカイゾンに勝てる。

だけど──。

「だから、君は、絶対に戦場に出ちゃダメ。

君は大ハーン候補。誰にも代われない<指し手>。

――盤上に出なければ、絶対に取られない。絶対に負けない。

逆に盤の上に出てきた、出て来ざるを得ないもう一人の<指し手>を確実にしとめればいい。

君の持つ、七十五万枚の駒を全部使って、確実に、確実に。

カイゾンの矢の届かない、安全なこのゲルの中から、ね……」

 

「――シルンドっ!」

僕は思わず叫んだ。

目の前の、小さな女の子が、とんでもない悪魔に見える。

とてつもなく賢く、とてつもなく冷酷で、とてつもなく悪辣な──魔女。

「シルンド、僕に卑怯者になれって言うのかいっ……?!」

それは、正確には卑怯とは言わないだろう。

だけど、英雄的ではないことは確かだ。

僕が、この方法でカイゾンに勝ったら、皆はどう思うだろうか。

今生きるタタタールの人間も、これから生まれてくるタタタールの人間も、

あるいは、世界中の人々が、ずっとずっと後の世の人々までもが、

きっと僕のことを、凡庸な、つまらない男だと言うだろう。

 

史書は、――僕の父上のことを書くだろう。

偉大な大ハーンとして。

カイゾンのことを書くだろう。

「バァトルの中のバァトル」、タタタール史上最強の男として。

あるいは、カイゾンの戦った決戦の相手として、ザマバのことも書くかも知れない。

でも、僕のことは、小さく、一言だけ。

「四代目の大ハーン」。

確実に勝つということは、そういう道を選ぶということ。

 

「……そうだね。ボクは、そう言っているのかもね」

シルンドは、僕から視線をそらした。

「あ……」

僕は、息を飲んだ。

今の今まで、冬の草原に吹きすさぶ風のように冷酷で容赦のなかった女が、

不意に、ゲルの中で寒さと心細さに震える女の子のように弱々しいものに見えた。

シルンドは、ライチを手に取った。

ほっそりとした指が茶色い皮をむいて、白い瑞々しい果肉を取り出す。

爪で切れ目を入れて、中の黒い大きな種を外す。

彼女がそれを自分の口の中に入れるのを、僕は黙って見つめた。

──不意に、シルンドが僕に抱きついてきた。

唇を重ねる。

ライチの甘い果汁と、もっと甘いシルンドの舌が、僕の舌を奪う。

互いの唇を貪り、唾液とライチを分け合って飲み込んだとき、シルンドは、ぽつりと言った。

「――でもさ。ボクは、死んじゃうかも知れない英雄の君より、

絶対に生きていてくれる普通の君のほうがいいな……」

震える肩。

「――英雄なんかじゃなくったって、卑怯者だって、ボクは、君のことが大好きだよ」

細い、小さな、首筋。

「ボクの料理をおいしいおいしいって食べてくれて、ボクのことを可愛いって言ってくれる、

普通の、普通の、生きている君が、――ボクは一番大好きだよ」

僕の腕の中の、華奢な、華奢な娘。

僕は、ただ黙って、それを抱きしめているだけしか出来ないでいた。

 

 

 

……いつから、「英雄になりたい」と思ったんだろう。

ずっと昔からかな。

偉大な父上に比べてずっと無能な僕は、皇太子になってからも、

父上や、その好敵手のカイゾンのようになりたいと思っていた。

いや、やっぱり最近のことかな。

カイゾンに、あのカイゾンに勝つ可能性が出てきたとき、

僕は、自分が英雄になれるかもしれないことに興奮した。

タタタール一のバァトルを倒せば、僕がタタタール一。

史上最強のバァトルを倒した、もっとも偉大な大ハーン。

タタタール一、ということは、つまり世界で一番ということ。

タタタール史上最高ということは、つまり世界史上最高ということ。

どの時代、どの場所の英雄よりも、はるかに偉大な大ハーン。

──みんなが、ため息と苦笑交じりで語る僕。

──十日に一回は落馬して、三回に一回しか動かぬ的に当てられない愚図。

そんな僕を変えたいと思ったのは、その機会が目の前に現れたときだったのかも知れない。

今。

今しかないんだ。

確率は、半々。

負けるかもしれないけど、死ぬかもしれないけど。

勝てば、僕は──。

「……シルンド」

僕は、深呼吸しながら、言った。

決心は、もうついていた。

世界で一番価値のあるもの、それを、僕は掴む。

掴め。

手に入れろ。

他の物は、すべて捨ててもいい。

それには、その称号にはそれだけの価値がある。

「……シルンド。僕のいいところはなんだっけ?

喰いしん坊で、怠け者の他に何かあったはずだよ」

僕の腕の中で、シルンドが目をいっぱいに開く。

「……臆病で、助平なところ……」

「そうだな。僕は、臆病で助平だ。

だから、取るべき道はひとつしかない」

「……どう、するの……?」

シルンドは、僕を見つめながら、おずおずと聞いた。

かすれた、小さな声。

返事を──僕の返事を恐れて、震えている。

はじめて聞くシルンドの声と、祈るような瞳に、僕は、答えた。

 

「――僕は、カイゾンとの戦いが終わるまで、ずっとここにいる。

このオルドの中で、シルンドとむつみ合って過ごすよ……」

「……!!」

シルンドが、僕に抱きついてきた。

賢くて、華奢で、料理が上手くて、抱き心地が良くて──最高の娘。

「シルンドの夫」という称号には、英雄よりも価値がある。

僕は、絨毯の上にシルンドを押し倒して裸にむいた。

僕は、英雄になるよりも、臆病で助平でシルンドが好きでいてくれる僕を選んだ。

そんな僕を、シルンドは声をあげて迎え入れ、――長い長い間、僕らは交わり続けた。

 

 

 

「――起きろ、寝ぼすけ! もう朝だよ!」

シルンドが、手に持った鍋をナイフの背でがんがんと叩く。

鉄でできた丸い鍋は、チーヌからの献上品で、色んな料理が作れる。

朝、こうやって叩いて音を出して、僕を起こすこともできる優れものだ。

「うう……あともう少し……」

「ダメ、ダメ! もう朝ごはんが出来てるよ! 今朝はごちそうなんだから!」

「何っ!」

僕はがばっと跳ね起きた。

「まったく。ほんとに君は喰いしん坊だね」

「うるさい。僕は、これで国を一つ獲ったんだ」

誰も誉めてくれないけど、――それは事実だった。

 

結局、僕がオルドの中でシルンドと睦みあっている間に戦いは終わった。

カイゾンは、百の草原の歌ができるくらいに雄々しく戦い、

僕が総大将に任命したザマバを射殺すという奇跡を起こして逃げ延びたけど、

戦場で誰が放ったかわからない矢を受けて、その傷がもとで数日後にあっさりと死んだ。

悪夢にまで見た「バァトルの中のバァトル」の実物を、

僕は生きているうちに一目も見ることもなかった。

塩漬けになって届けられた首はとても大きかったけど、それを見てもあまり感慨はなかった。

──僕は、何もせずに勝ち、そして何もしなかったから、誰にも認められなかった。

……いや。

「矢の届かない場所にいる大ハーンは、カイゾンでも殺せません。

自分の弱さを知っている大ハーンは……強いですな。一番強いですな」

朝食の席でナイマンタルがひげをひねりながら言った。

「そんな大ハーンは、誰にも勝てなくても誰にも負けない。

そして、勝たなくても、もうタタタールの七分の四を手に入れているから

これからは、負けないでいることのほうが恐ろしい」

ジャベイが、顎のあたりを掻きながら言った。

二人は、戦争の後片付けが終わって、それぞれの牧草地に帰る日だった。

 

ナイマンタルは、領地の東北へ。

ジャベイは、今年は草が良く生えているという西の草原へ。

出発の日に、彼らを招いたので、今日の朝食は特別豪華だった。

将軍や大臣たちの中で、僕のことを「大ハーンとして」以上に認めているのは、この二人だけだった。

カイゾン討伐で戦功を挙げ、今では本軍と元離反軍のそれぞれの主席に立った二人が

そう考えてくれているのは嬉しいけど、実際のところ、それは買いかぶりなのかも知れない。

結局、僕の価値は──。

「リンゴを焼いたよ! 食べる? 食べる?」

「い、いえ、もういっぱいですな。腹いっぱいですな」

「これ以上は、……無理だ」

「なんだい。せっかく作ったのに……」

「あ、僕は食べるぞ。二皿よこせ!」

「やったね!」

自慢の料理をおいしく食べてくれる相手に、シルンドは飛びっきりの笑顔を見せてくれる。

僕に、僕だけに。

シルンドに、その笑顔を向けてもらえる男というのは、

きっと「歴代史上最高の大ハーン」と言われるよりも価値があるにちがいない。

 

 

 

──史書にある。

タタタール帝国第四代大ハーン、テマルテマルは、美食と閨事を好む凡庸な皇帝だと。

実際、彼の治世には政治制度的にも見るべきものはほとんどなく、

その初期に<カイゾンの反乱>が自然消滅的に終息したことをのぞけば軍事的にも大きな事件は起こらなかった。

テマルテマルの時代は、先代大ハーンと、次代大ハーンの偉業に挟まれた、

史学的にはあまり重要でない二十年間であったと言える。

──にもかかわらず、いわゆる<パックス=タタターリカ>、

すなわち「タタタール人によってもたらされた草原交易路の平和」は、彼の時代から数えるのが普通である。

テマルテマルは、熱狂的にはないにせよ、東西タタタールの両者の支持を得てこれを統一して、

「西はエウロペ、東はチーヌの食材が並ぶ<タタタールの食卓>」を作り上げたし、

オルド(後宮)政治においても、多くの私生児を生ませて後継者争いを招いたそれまでのタタタールの支配者と違い、

皇后シルンドだけを寵愛して、彼女に生ませた長子バイシャンに早々に譲位することで、

タタタール特有の後継時のごたごたを未然に防いでいる。

最近の研究では、チーヌを征服して帝国の礎を築いたホブライ=ハーンの時代と、

残る三ハーン家を統合して真の世界帝国を作り上げたバイシャン=ハーンの時代は、

あらゆる点で大きく性格が異なっているが、その鍵となるのは、

実はテマルテマル=ハーンの時代ではないか、と言う説も生まれているが、

真相の解明には、なお慎重な研究が必要であろう。

 

 

 

FIN

 

 

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