<私が私でいられる時>・1

 

「お姉ちゃん、今日の夕飯よろしくね」

電話の中から、母さんの声がする。

オネエチャン。

私は、今、この家でそう呼ばれている。

「……どうしたの?」

「ううん、なんでもない。作っておく」

「あと、彩ちゃんの明日の準備もお願い。お母さん、遅くなりそうだから」

アヤチャン。

私の<妹>は、そう呼ばれている──母さんからも。

「……母さん」

「何? お姉ちゃん?」

何の迷いもない、その声に、私は続く言葉を失った。

「ううん。なんでもないわ。やっておくから」

「そう。お父さんとお母さんは遅いから、戸締りちゃんとしてね」

オトウサン。

お母さんは、再婚相手のあの人のことを、そう呼ぶ。

「わかってるわ。大丈夫」

違和感にまみれた単語の羅列からなる会話を終え、私は携帯電話を切った。

 

「あ、龍ヶ崎(りゅうがさき)さん……」

クラスメイトの声は耳に入っていたが、私は通り過ぎた。

聞こえなかったのでもなく、無視したのでもなかった。

ただ──その「記号」が私のことを示す名前だと思わなかったからだ。

「龍ヶ崎さんったら!」

再度の呼びかけに、私はやっとそれが自分のことを言っていると気がつく。

「ごめん、ごめん。何?」

振り向いた笑顔が、自然のもののように思われただろうか。

自信はあまりない。

 

母が再婚して、一年になる。

新しい父住む街に引っ越してから通うようになった高校には、

私の昔の苗字を知る人間はいない。

彼女たちにとって、私は、はじめから「龍ヶ崎」で、そして「お姉ちゃん」なのだ。

なぜなら──。

「彩ちゃんがね、校門で待ってるって!」

無邪気に伝えるクラスメイトに、私は身体の心まで凍りつく感情を外に出すまいと必死になった。

「彩ちゃん、明日コンクールなんですって?」

「頑張って、って伝えて!」

「応援してるからね!」

私を取り囲んで「アヤチャン」を褒め称えることばの嵐を、

氷のように張り付いた笑顔で受け止める。

「……うん、伝えておく!」

誰も、私の心の奥底に詰まった冷たい塊を知らない。

だから──、

「彩ちゃんのピアノはうちらの誇りだからね!」

──そんなセリフを私に吐けるのだ。

 

龍ヶ崎彩(りゅうがさき・あや)と言えば、誰でも知っている。

日本を代表するピアニスト・龍ヶ崎八郷(りゅうがさき・やさと)の娘で、

本人も高校生ながら天才の名をほしいままにするピアニストだ。

テレビにも何回も出て、一躍有名になった。

誰もが知っていて、誰もが応援するこの街の誇り。

だから、龍ヶ崎八郷が後妻を迎え、その娘が「綾子」という名であっても、

誰もその娘を「あやちゃん」と呼ぶ人間はいない。

それは、天才少女、龍ヶ崎彩が独占すべき名前だから。

高校のクラスメイトにとってもそれが自然であり、彼女の義姉になった

一歳年上の女の子のことは、「龍ヶ崎のお姉ちゃん」と呼ぶのが当たり前のことだった。

だが、それは……。

母の再婚によって「石岡」という苗字をも失った娘から、下の名前までも奪うことだった。

 

石岡綾子(いしおか・あやこ)は、どこに行ってしまったのだろう。

 

下駄箱から靴を取り出しながら、私はぼんやりと考えた。

この街の誰も、石岡綾子──私を求めていない。

必要なのは、忙しい父母の代わりに家事をし、

天才少女・龍ヶ崎彩をサポートしていく「彩ちゃんのお姉ちゃん」。

苗字も名前も失った私は、一体誰なのだろう。

ぼんやりしたまま私は、校門に向かった。

「遅かったじゃない、オネエチャン」

とげを含んだ声を浴びせられて、はっと我に返る。

校門の前で微笑む少女は、今そんな声を発したことが信じられないほど清楚で可愛い。

テレビで、<奇跡の天才少女>と呼ばれる美少女だ。

ジュニアの世界大会で何度も賞を取った実力もさることながら、

世の中の男の過半数が好きであろう、いかにも「お嬢様」している美貌は、

テレビや週刊誌が賛美してやまないポイントだ。

マスコミのつけた<ホワイトプリンセス>というあだ名は、

私でさえも、納得してしまうものだ。

だけど、

「待ちくたびれちゃったわ。荷物、持ってよ」

遠目で見たら、そんな言葉を吐いているとは到底思えない笑顔のまま、

美少女はカバンの一つに視線を向けた。

大きなかばんと、小さなカバン。

私が持つのは、小さなほう。

だけど、その中身は、大きなカバンはほとんど空っぽで、

小さなカバンはぎゅうぎゅうに詰め込まれた重いもの。

だけど、それは担ぐ私にしか分からない。

他人の目には、「姉に自分の荷物を運ばせる妹」には写らないのだ。

私は表情を殺して、それを担いだ。

<妹>は、大きな、そして軽いカバンを、いかにも大変そうに両手で抱える。

その姿でさえ、週刊誌に賞賛の文章とともに載ったことがある。

 

この娘と出会ってから、私は全てを失った。

苗字も、名前も、実の母親の愛情さえも。

生活のためと、あとは女としての見栄とかそういうもののため、

世界的ピアニストと再婚した母さんは、

それから、実の娘よりも義理の娘のことを優先するようになった。

それが、新しい夫の望んだことであり、さらに言えば、

彼女自身の生活や地位やその他もろもろの要求を満たす近道だったからだ。

彩がテレビや週刊誌に載る時、義父も取材されることも多い。

そして、「一家」として紹介されるときは、母もその端っこに写るのだ。

華やかに化粧をして、豪華な服を着て。

それは、再婚前の数年間を苦しんだ母さんが心の底から欲しがっていた生活だった。

私の本当の父さんが生きていた頃、何の疑いもなく手に入っていたものが失われたとき、

母さんは、それを再び手に入れることに必死になった。

そして、それを取り戻したとき、彼女は、それを再び失うことを何より恐れた。

──実の娘を犠牲にしても悔いないくらいに。

私は、忙しい<父>をサポートする母の手が回らない、

<妹>の世話のために高校生活の全てを費やすことになった。

朝夕のカバン持ち。

家に帰ったら、掃除、洗濯、炊事。

コンクールのための旅行の準備。

マッサージさえ、私の仕事だった。

だけど、それは、生活基盤さえも失っていた状況から救われた母娘には当然の代償だった。

でも、私はそのおかげで、全てを失った。

そしてそれは、仕方のないことではなく、全てが悪意によるものだった。

この娘の。

「……ねえ、オネエチャン」

私から「綾子」という名を奪ったのは、この<妹>だった。

(あやちゃん、と呼ばれるのは私だけでしょ)

無邪気な、だがぞっとするほどの憎しみを含んだその一言で、

母さんを含めた家族の全員が私を名前で呼ばなくなり、街の人間もそれに倣った。

「……オネエチャン。昨日、ピアノ触ったでしょ?」

毒を含んだ声に我に返る。

前を向いたまま、<妹>は冷たい声を私に投げつけていた。

「……うん」

「やめてって、言ってるでしょ。あれは、私のピアノなの。

私とパパとしか触っちゃいけないの。

オネエチャン、私の真似でもしたかったの?」

ずきん、と心臓に突き刺さることば。

昨日の夜、義父と母さんと一緒にパーティーに出た彩の目を盗んで、

ほんの少しだけ、私はピアノを弾いた。

誰もいない、一人だけの家で。

哀しくなって、一曲弾き終えることもできずに私はピアノの蓋を閉めた。

「……ちが…う……」

声は自分でも弱々しかった。

弾きはじめたとき、私は彩のかわりにコンクールで拍手喝采を受ける自分を想像しなかっただろうか。

ない、と言いきれるほど私の心は強くなかった。

「何が違うの? まだピアノやってるつもりでいるの?

サイノー、全っ然、ないくせに!!」

ぐらりと私の視界が揺れる。

 

そう。

私は、ピアノをやっていた。

実父が生きていて、裕福だった頃に。

小学生の頃は、区や市や、そのあたりのレベルのコンクールで何度も入賞した。

地方の新聞に載ったこともある。

それは、私の密かな誇りだった。

でもそれは、彩に比べればほんのちっぽけな、

……普通の人間と何一つ変わらない程度の才能だった。

「だからね、私のピアノに触らないでよね。

オネエチャンの垢が着いたら、音が悪くなっちゃうじゃない」

小さなその声は、私の心臓を何度も容赦なく貫いた。

 

荷物を運び終えた私は、すぐに着替えて家を飛び出した。

すぐ近くの、高級住宅街ご用足しの高級スーパー。

そこが私の唯一の息抜き場所だった。

人参、インゲン、サニーレタス、セロリ、レモングラス。鶏肉。

お魚は、今日はいいや。

ぐるぐると店の中を回りながら、食材を買い集める。

お金を気にする必要はないけど、吟味を重ねるのは、

ここにいる時間が長ければ長いほど、家にいる時間が少なくなるからだ。

「あら、龍ヶ崎さん家のお姉ちゃん、えらいわねー」

商品を置くから運び出してくる小母さんたちとも顔見知りだ。

「妹さん、明日コンクールですって、大変ねえ」

「お姉ちゃんがしっかりしているから安心ね」

この人たちも、私の事を、彩をサポートするオネエチャンと見ているんだ。

すっかり慣れたことだけど、私は微笑がこわばっていくのを感じた。

無理をして、その冷たい塊を心の奥底に静める。

「エエ、今日ハ、アヤチャンノ好キナ、鶏肉ノサラダニデモ、シヨウカナ、ッテ」

条件反射による単語の羅列でかろうじて返事をする。

レジで会計を済ませて、腕時計を見る。

料理をする時間を考えても、あと五分くらい時間があった。

公園へ──は、行けない。

後妻の連れ子がそんなところで黄昏ていたら、格好の噂になってしまう。

アミューズメントスポット?

さらに駄目だ。

結局、私は、スーパーのそばにある自販機コーナーに向かった。

バス停の近くだけど、微妙な位置にあるそこは、人がいることがあまりない。

とはいえ、ベンチもあって少し休めるし、バスを待っている言い訳も立つ。

私の重宝する五分だけの隠れ家だ。

そんなところしか「私だけの場所」はなかった。

でも、今日は、そこに先客がいて……。

 

ベンチに腰掛けていたのは、ジージャンにジーパンの男の子だった。

私と同じくらいの男の子。

「……」

私だけの隠れ家を奪われたような気がして、私は立ち止まった。

いつも私が座って、ジュース一本の安息を得る場所に座って、

その男の子は、携帯ゲームをしていた。

どこでもできるゲームなら、ここではない場所でして欲しい。

そこは、私が休める唯一の場所だから。

自分の視線が尖るのが分かる。

でも、画面を食い入るように見つめている彼には伝わらなかった。

小さくため息をついて、ジュースだけでも買おうと自販機に向かう。

コインを入れて、ボタンを押す。

ゴトン。

缶が落ちる音。

維力(ウィリー)。

この近辺ではここでしか売っていないジュースは、昔、地元でよく飲んだ。

この自販機で売っているのは、なぜか濃い目だ。

噂では、出荷の時期によって濃さ薄さが違うらしい。

この味が好きな私にとっては、うれしい。

これを飲みながら、ぼんやりと貴重な五分を過ごすのが私の唯一の楽しみだったのに、

今日はそれを諦めなければならないようだった。

缶を取って、立ち上がる。

また、ため息をつきそうになったけど、それは我慢した。

振り返って、そ知らぬ顔でバス停に向かおうとして──。

「あれ、綾ちゃん?」

声をかけられた。

「え?」

「あ、いや、違ったかな。……えっと、石岡……綾子ちゃん?」

缶が落ちる音で私に気がついたのだろう、

ベンチに座っていた男の子が、私を見つめていた。

 

「そ、そうだけど……どなたですか?」

思わず身構えたけど、返事をしてしまったのは──久しぶりにその名で呼ばれたから。

「ええと……その……、僕、石岡新治(いしおか・しんじ)、覚えてない?」

「あっ……!」

言われてみれば、見覚えがある。

小学生のときの、同級生。

同じ、「石岡」と言う苗字で、親戚だとか冷やかされたけど、全然接点のなかった子だ。

ちっちゃなころから、やっぱりゲームとかアニメとかの「オタク」で、

人気者だった私と違って、クラスでは目立たない男の子だった。

クラスで「石岡」といえば私のほうが有名で、新治君のほうは、

「イシオカモドキ」とか言われて、どちらかというといじめられていた。

でも──。

「ひ、久しぶりだね」

「そ、そうね。すごい偶然! 新治君、この辺に住んでいるの?」

「うん、中学の頃、こっちに引っ越してきたんだ。……あ、綾ちゃんも?」

小学校のクラスは、男女とも仲がいいほうだった。

からかわれることが多い新治君も、私を呼ぶときは皆と同じく「綾ちゃん」だった。

その響きが、耳に心地良かった。

「ええ、高校になってから、こっちに」

「そ、そうなんだ」

新治君はどきまぎしたように黙り込んだ。

もとから、冴えない男の子だったけど、その時私は……。

「い、いつもここに来るの?」

「え?! ……あ、ああ、いつもは塾帰りにだけど、今日は行く前にちょっと」

「わ、私、いつもこの時間に来るんだ。ね、明日も来れない?」

なぜか、そんな言葉がすらすらと出た。

「え……、あ、ああ、大丈夫」

「じゃ、明日、またね!」

ジュースの缶を掴んだまま、そう言って、私は自販機コーナーを飛び出した。

 

走りかけて、止まる。そして振り返った。

「あの……」

「な、何?」

「も、もう一回、綾ちゃんって呼んでくれないかな?」

「え……?」

「お願い」

「う、うん。いいよ。……綾ちゃん」

「……ありがとう!!」

私は、バス停に向かってぱっと駆け出した。

すごく、嬉しかった。

胸がドキドキしていた。

あの子の前では、私は、「石岡綾子」で、「綾ちゃん」なんだ。

あの子の前だけでは。

私は、私でいられるんだ。

そのまま、50メートルくらい先のバス停まで一気に走っていって、

立ち止まったとき、私は股間に違和感を感じた。

「こ、これって……」

ショーツの中が、濡れている。

オナニーするときに、出る、あの粘液で。

「……」

私は頬が染まるのを感じた。

バスが来るまでの間、私は、ぼんやりと、

(新治君と結婚したら、また石岡って苗字に戻れるな……)

とか考えていた。

 

 

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