<依存妻・道明寺志穂理 〜 つながれた犬 〜 >

 

 

「ん……はぁっ……」

唇を重ねると、志穂理は甘えた声をあげた。

俺の他に誰も聞くものがいない、その状況が、

普段の鋭利さを、この女から奪う。

もっとも、俺は、めったにその「普段」を見ることが出来ない。

なぜなら、俺の前では、志穂理はいつも「こう」だからだ。

からめた舌に全神経を集中させるように、目を閉じる。

ねじ切るように唇を奪うと、百人が百人、「とびっきり有能な秘書」と太鼓判を押すであろう

理知的な美貌が桜色に染まるのが、眼鏡越しでもわかった。

午前11時45分。

窓の外は雲ひとつない青空だが、俺と志穂理のオフィスラブはブラインドがいらない。

地上75階。

半径10キロ以内にこの部屋を覗けるだけの高さを持つ建物はないし、

あったとしても、子会社が開発したマジックウィンドウは、完璧な一方遮光性を保っている。

旧本社ビルでは、うっかりカギを閉め忘れて覗かれたことがあったが、

この新ビルではそういうことも起こりえない。

もっとも、俺がこの<秘書>との情事を覗かれて困るということは、あまりないが。

スキャンダルにはならない、という意味では。

むしろ、この時間を誰にも邪魔されたくないという相方の意思が、

このビルの最上階の設計思想の根本になっている。

「ふわ……啓太さんの、固い……」

俺のズボンとブリーフを下ろして、それを握った志穂理がうっとりとつぶやく。

今日は四度目のご対面なのに、まるで久々に触れたかのように、その感触を確かめる。

丁寧にしごき、口に含む。

唾液にまみれた舌が、俺の先端をちろちろと舐めあげる。

びくびくと男根が反応する様にさえ、志穂理は歓喜の声をあげた。

俺の<秘書>兼、<上司>兼、性欲処理係。

つまり俺の妻である女が。

 

ソファに──このために特注した、ベッドにも使えるソファの上で重なり合う。

天を向いてそそり立つ俺の性器に、志穂理は頬ずりをする。

匂いと感触を、女が一番綺麗に装う場所にすり込む。

「固いです、啓太さんのおち×ちん。それにとっても逞しい……」

中高生のガキのようにおっ立ったそれは、

たしかに結婚十年目の妻を持つ年齢の男のものには思えない。

俺が、唯一他人に自慢してもいいモノだ。

志穂理は、それが嬉しくてたまらないというように、

ことばと手と唇でそれを誉めたたえた。

ソファの上に転がす。

期待に濡れた瞳は、黒く、妖しく、きらきらと輝いている。

なぜそんな目で俺を見れるんだ。

十年経った今も。

湧き上がってくる考えを振り払うように、志穂理の上に覆いかぶさる。

俺の女は、自分から足を大きく開いた。

志穂理の女性器は、たっぷりと濡れそぼっていた。

俺の部屋──社長室に入った瞬間から濡れている。

キスだけで、何度でもいける身体だ。

俺が、高校時代に、そう作ってしまった。

人一倍精力が強くて、変態的性欲の男のセックスを従順に受け入れ続けて入れば、

朝昼晩いつでも性行為を期待する精神(こころ)と身体(からだ)の女になってしまう。

「あはっ、啓太さんのおち×ちん、大きい……!」

大企業の社長室で真昼間から交わることを心の底から悦ぶ女に。

「くそっ!」

なぜか分からない衝動に押されて、俺は思いっきり志穂理の中に突き入れた。

「きゃふっ!!」

あられもない嬌声をあげ、志穂理がしがみついてきた。

隠花植物を思わせるような生白い肌が、俺の身体に吸い付くようにまとわり着く。

 

「ひあっ、啓太さん、すごいっ……すごいっ……」

うわごとのように、志穂理がささやく。

俺の男性器は平均より大きいし、志穂理の女性器は平均より小ぶりだ。

それが、俺のものをしっかりと飲み込み、締め付ける。

付き合い始めたはじめのころは、何度も出血したが、

志穂理は一度もセックスを拒まなかった。

俺がセックス好きということを知ると、積極的に性交渉を求めた。

「だって啓太さんは、セックスしてくれる女の子が好きなんでしょう?

私、啓太さんに好きになってもらいたいから、セックスのお相手になります」

俺が他の女に全然もてないことがわかっても、志穂理の態度は変わらなかった。

抱き寄せればすぐに応じる女と、俺は何度交わっただろうか。

気がつけば、志穂理は痛がることもなくなり、

ますます性行為に積極的になっていた。

ぬちゅ、ぐちゅ。

ぐちゅ、ぬちゅ。

たっぷりと分泌された愛液が、棒のように硬くなった男性器にからみつく。

背中にまわされた手が、驚くほど強く俺を抱きしめる。

「ううっ、もう……」

うめくと、志穂理は、手足の力をいっそう強めた。

「中に、中に出してくださいっ……!!」

婚約中もたびたび膣内射精はしていたが、

結婚してから、志穂理は一切の避妊行為をとっていない。

名門を受け継ぐものとして、ましてやどこの馬の骨とも知れない男を婿に迎えた

次期当主の義務として、しっかりとした「道明寺の子供」を作っておくための処置。

──それもあるだろうが、

新婚初夜に大真面目な顔で俺にそれを誓約した理由が、

「啓太さんが、生でするほうが気持ちいいって言ったから」

とは、親類縁者には言えない。

反り返るようにして、身体の奥底に精を放つと、

志穂理は、声をかみ殺してしがみついてきた。

 

「どうしました? 啓太さん……」

三度、志穂理の中に精液をぶちまけた後は、さすがに気だるい。

だが、僅かに感じる疲労感は、年齢や精力の衰えじゃないことは自分がよく知っていた。

俺の股間に顔をうずめる妻から目をそらし、俺は机の上を眺めた。

何百万するかわからない社長室のデスク。

もちろん、これも、妻からの贈り物だ。

道明寺グループ会長であり、俺を社長に据えた妻。

つまり、今、ソファに座る俺の前にひざまずいて、性行為が終わったばかりの男根を舐め清めている女、だ。

ペニスについた精液を丁寧に舐め取りながら、志穂理は、机の書類をちらりと眺めた。

「ああ、連結決算の報告書、ですか。

――あん、動いちゃダメです。まだ、おち×ちんの中に精子が残ってますよ、啓太さん」

鈴口をくわえて、尿道の中に残った精液を吸い取る。

風俗嬢でもやらないサービスを覚えたのは、多分、高校時代の俺のリクエストのせいだ。

「ん、おいし……。夜、また飲ませてくださいね。

今日は、まだ啓太さんの精液飲んでないですから」

唇の端についた白濁の粘液を上品に舐めあげながら、志穂理は立ち上がった。

「今日は、これから取引先と打ち合わせです。四時には戻ってこれると思いますが──。

啓太さんは、休憩と……その後はここにいてくださいね?」

道明寺グループの総帥は、会長職のほかに、夫の<秘書>役を務めている。

夫のスケジュールを自分で管理すれば、自由時間はセックスのし放題だ。

それ以前に、他の人間、特に女性秘書が自分の男に付く、という状態を

道明寺の娘は許容できない。

俺は、うなずいて、また机の上を見た。

連結決算報告書。

社長の座についている俺は、この簡単な書類の読み方を知らない。

ぱらぱらとめくったが、まるで意味が分からなかった。

道明寺の令嬢を射止めてしまった男は、一介のフリーターから

超一流企業の社長職に引き上げられたが、それで中身が変わるというわけではない。

結局、妻の言うとおりに、おとなしく社長室で彼女の帰りを待つしかないのだ。

 

「……なあ」

「はい?」

<秘書>のブラウスを脱ぎ、<会長>用のスーツを手に取った志穂理が振り向く。

俺に向ける顔は、そのどちらでもない。

恋人に甘え、媚びる、――どこか、おびえた女の目。

それは、結婚後、俺を完全に自分のものにしてから

逆に強くなったように思える。

その前、俺に結婚を迫っていたころの志穂理は、

今より積極的で、押しが強かったように思える。

だが、今は、昔よりも、さらに弱々しく見えるのは俺の思い過ごしか。

「お前、……幸せか?」

「はい」

間髪を入れぬ答え。

「……でも、なぜそんなことを?」

それから、怪訝そうな問い。

「いや、なんでもない」

「私は、啓太さんがいてくれれば、幸せですよ」

素直な、誰が聞いても裏や嘘がないと分かることば。

俺は、目をそらした。

「うふふ、それに、今日も啓太さんとのセックス、とっても気持ちよかったですもの」

五分前の痴態を思い出したのか、道明寺グループの会長は、白い頬をほんのりと染めた。

その脳裏に、当たり前のように描かれているのは、

最高級店で、札束と引き換えにどんなことでもするソープ嬢でもサービスしきれないような

濃厚で、変態じみて、マゾなセックス。

この街の支配者たる女が、自分自身よりも相手の快楽を喜びとするようなセックスに溺れている。

しかもその相手は、道明寺の総帥にふさわしい立派な男でも、一時の快楽のためにあとくされなく買える男娼でもない。

彼女にとって、他に代えがたい存在になってしまった相手だ。

他に代えがたい、つまらない、無能な男。

報告書のひとつも自分で読めない、馬鹿な男。

それを、宝石のように大事に扱っている。

「じゃあ、また後で……」

名残惜しげに部屋を出て行った志穂理を見送り、俺は、大きくため息をついた。

 

遠くまで、歩く。

今、最上階から降りてきた75階建てのビルから逃げるように。

なるべく遠くへ、離れるように。

だけど、振り向かなくても分かる。

あのビルが見えなくなるところまで、俺は行けない。

この街に、あれが見えない場所はないのだから。

唇から、諦めたようにため息が漏れる。

無意識に自分の唇を舐め、俺は自分が無性に喉が乾いていることに気が付いた。

(飲み物……)

あたりを見渡す。

目の前にスーパーマーケットがあった。

通りの向側のビルの二階に喫茶店。

──後者を選んだのは、座りたかったからだ。

 

喫茶店は、エアコンがかかっていなかった。

窓から入る風が涼しい。

こんな日は、こういう店のほうが気持ち良い。

俺は、紅茶を頼んだ。

コーヒーが美味い店らしいが、貧乏舌では違いが分からない。

もっとも、紅茶の良し悪しが分かるわけでもないが。

まあ、だったら好きなほうを頼むのがまだマシだ。

入り口横の棚から取ってきた雑誌を広げる。

ビジネス誌にしたのは、見栄だ。

他に客もいないのに、愛読の「週刊少年チャンプDEAD」はなんとなく取り辛かった。

先週は久々に「ステゴロの王子さま」が再開していたので続きが気になっていたのだが。

まあ、いいさ。

「……」

見るともなしに広げた「月刊コード10」に、俺の視線が止まる。

見慣れた──さっきまで一緒にいた人物が載っていた。

 

 

<世界に展開する道明寺グループ>

 

 

理知的な瞳を光らせ、インタビューを受けている道明寺グループの会長。

年商数千億。

いや、それは俺が社長に据えられている会社だけの話だったか。

グループ連結決算はそれより一桁多かったような記憶もないではない。

この街の半分の人間が勤め、残りの半分もそれを相手に商売することで生きている大企業。

この喫茶店も、ほんのちょっと前のランチタイムは、

道明寺に勤める人間の胃袋を満たすのにてんてこまいだったにちがいない。

俺は、写真の中の美女をぼんやりと見詰めた。

それは、さっきまで俺の隣にいた人物なのだろうか。

或いは──俺の隣にいてはいけない人物なのかもしれない。

 

ぬるくなった紅茶をもう一口すすり、俺は「月刊コード10」から目をそらした。

窓の外を見下ろす。

向側のスーパーマーケットの前に、犬が一匹いた。

白い、大きな犬。

買い物をしている主人を待っているのだろう。

店の前につながれて、大人しく座り込んでいる。

俺は、それを眺め、――ふと違和感を抱いた。

「……」

なんだろう。

何かが、不自然な感覚。

犬に、おかしなところは、ない。

通り過ぎる人に吠えることもなく、じっと座って店の自動ドアを見詰めている。

時折、軽く尻尾を振る、白い、大きな犬。

何もおかしなことはない。

首輪から伸びた紐でつながれて──。

「ああ」

俺は思わず声を出した。

違和感の正体がわかったからだ。

犬の首輪からのびた紐がつながっているのは木やガードレールではなかった。

地面に置いた、こげ茶色の、小ぶりな買い物袋。

その取っ手の部分に、犬の紐はくくりつけられていた。

「……」

買い物袋は、わずかに膨らんでいる。

缶詰少しに、野菜の二つ三つ。

あるいはジュースのペットボトル。

そんな程度のものしか入っていないことは、外目からもわかった。

重さにして、1キロあるかどうか。

あの犬をつなぎとめておくには、到底足りない重量の袋。

犬が歩けば、軽々と引きずることができる重し。

「……なんで逃げないんだ?」

犬は、それがまるで大木につながれているかのように、動かない。

動こうともしない。

今、自分をつなぎとめているものが、どの程度の重さなのか、確かめようともせず。

──こっけいな、まるっきりこっけいな風景。

「なんで……」

もう一度、つぶやきかけて、俺は息を飲んだ。

それが、なぜか、唐突にわかってしまったから。

 

「……ずっと、そうだったんだな」

あの犬は、子犬の頃からああやってつなぎ止められていたのだ。

最初は、もっと大きな袋で、中身ももっと入っていたにちがいない。

ビールの半ダースに大根やら人参やら。

小さな小さな子犬をつなぎとめるには十分な重さ。

子犬は、その頃、何度も動こうとしたにちがいない。

自由に走ろうとして、袋の重さを知った。

何回も、何回も。

そして、ついにこの袋は自分の力では動かせない、と思ったのだ。

その後、十分に育って力をつけた今も、そう思い込んでいるのだ。

袋は、呪縛のように犬をつなぎとめている。

「……」

俺は、息苦しくなった。

あの袋の卑小な残酷さ──それは、まさしく俺だった。

 

高校の初日。

俺は、隣の席の女の子をナンパした。

ナンパなんか、初めての経験だった。

それは、相手にとっても。

黒く、暗い目が、驚愕に見開かれる様を、俺は今でもはっきりと覚えている。

今でも夢に見るくらいに、それは綺麗だった。

大人しく、引っ込み思案な同級生を誘った理由は、

ただ単に「高校デビューの遊び人」がリードできる相手だと思っただけに過ぎない。

その娘が、なぜいつも皆からはなれたところに一人でいたのか、その理由を知らなかった。

思ったとおり、おどおどと後ろを付いて来る娘を強引にモノにしたときも。

この街の支配者の娘が、こんな学校に「社会勉強」しに来ていたなんて知らなかったのだ。

そして、その娘が、その時までは病的な晩生(おくて)で、

俺の下で「女」になった瞬間から、病的な恋着に生きる人間になることも。

 

馬鹿な男が、欲望にまかせて抱き寄せるたび、娘は、その男への執着を深くした。

その本当の価値を知らずに、ただ性欲と精液のはけ口として抱き続けた娘が、

男との結婚以外の将来を考えられなくなった頃、

男は、その女が、どれだけの力を持っているのかを知った。

 

この街――どころではない、世界中に傘下企業と部下を抱える「道明寺」を受け継いだ女は、

破瓜のあの日のように、俺に媚び、俺の側に侍(はべ)る。

恋人を失うことを恐れる少女の目で、夫にした男の足元にすがりつく。

自分が支配する会社のナンバー・ツーに据えた男を。

何も出来ず、何かをしようとすれば足を引っ張るだけの男を。

昔、自分の価値を知らなかったときのように。

あの、軽い袋につながれた大きな犬のように。

 

「――ここでしたか」

涼やかな声を耳にして、俺は振り返った。

いつの間にか、志穂理が立っていた。

「商談、早く終わったので戻って来れました」

どうしてここが、とは言わなかった。

この街では──いや、多分世界中のどこにいても、この女は俺の居場所がわかる。

そして、可能な限り俺のそばにいようとする。

俺の横などにいなければ、世界のどこにでもいける女なのに──。

「――」

何か言おうとして、俺は喉の奥の塊を飲み込んだ。

機嫌よく俺の向側の椅子に座った妻を見た俺は、今にも泣き出しそうだったのかもしれない。

 

犬。

俺が、子犬のとき、つまらないものに縛り付けてしまったので、

今でも逃げようとしない、犬。

俺から逃げようとしない、犬。

きらきらと輝く黒い瞳は、本来、俺を映すべきではない。

もっと高みの何かを見詰めるべきだった。

 

窓の外を見た。

もう一匹の犬がいた。

目の前の女と同じく、可能性を捨ててしまった犬。

「……」

俺の視線の先をたどり、志穂理はそれを見た。

そして、

「――あら、幸せな犬ですこと……」

そう、つぶやいた。

 

 

「何を──」

言っているんだ、と続けようとして、俺は押し黙った。

窓の外を横目で眺める志穂理の唇に浮かぶ微笑を見て。

たぶん、こいつは、判っていたんだと思う。

俺が見たもの、俺が考えていたことを。

そして、もっと深いもの──真実さえも。

そうでなければ、その時始まった小さな事件を平然と眺めていられないだろう。

 

「なんだ、こいつぅ〜!!」

耳障りな声をあげたのは、店の前に車を停めた二人組みの片方だった。

まだ若いが、これから脳みその中身が成長するとも思えない男だ。

つまり、俺とそう変わらない価値しかない男。

ただ、声に関しては、まだ俺のほうがマシかもしれない。

こいつらの大声は、こいつらの下品な改造を加えた車のエンジン音と同じくらいに、不快だった。

「つながれてねーじゃん」

「めーっわくだよなー!」

大人しい犬と見て取ったのか、もう一人の若者が犬を軽く蹴った。

きゃん。

小さな声をあげて、犬が縮こまった。

その場に。

袋につながれたまま。

「ちゃんとつないどけって!」

「うぜえんだよ」

すくむ犬に、二人組はますます居丈高になった。

昼間から酒でも入っているのかも知れない。

いくら大人しくても、つながれていない大型犬を蹴るなど、正気の沙汰ではない。

たとえ、分厚い靴底のブーツを履いているにしても、だ。

だが、犬は、吠えもせずに身を縮めるだけだった。

ただ、店の出入り口を見て。

二人組の顔が、通りのこちらから見て分かるくらいに邪悪に歪んだ。

「おら、じゃまなんだよ!」

蹴り。

膝をあげて、前に蹴る、ただの蹴り。

犬は、きゃいん、と悲鳴をあげた。

後ろに下がる。

ガードレールに当たる。

右に逃げようとする。

紐が伸びる──犬は動きを止めた。

見えない力に止められたように。

「おもしれー、これ、おもしれーよ!」

笑い声。

二人組は、からかうように犬をいたぶった。

 

「――やめてくださいっ! やめてください!!」

不意に、悲鳴があがった。

初老の女性が、店から飛び出てきた。

犬の飼い主だろうか。

「うるせーよっ!」

「てめえの犬だろうが!」

逆らわなければ、ますます図に乗り、止められれば、逆上する。

最悪の精神構造の二人組は、ついに怒鳴り声をあげた。

小柄な女性の、肩を小突く。

「――おい」

思わず立ち上がりかける。

通りの向こうのこと、やっかいなこと。

立ち上がって、それからどうする?

駆けつけるのか、止められるのか。

そんなことまで頭は回らなかった。

それでも、立ち上がろうとして──止められた。

「……大丈夫です」

俺の腕をつかんだ志穂理は、静かに微笑んだ。

「大丈夫って、お前っ……!!」

頭に上った血が、少しだけ、すとんと落ちる。

その分だけ、ちょっとだけだが冷静になれた。

ことばを捜して、息を吸おうとした瞬間、「事件」は終わった。

 

「うあっ!!」

「ぎゃっ!!」

悲鳴は、先ほど犬があげたものよりも、大きく、切羽詰っていた。

命の危険にさらされた小動物のあげるものにふさわしく。

一瞬にして手首をかみ砕かれた若者は、噴水のように血を撒き散らして地を転がり、

Gパンごとふくらはぎを噛み千切られた相棒も、同じく地べたをはいずっている。

薄汚い小動物を狩ったのは、白い犬だった。

四本の足をびしっと伸ばして飼い主を守るように立つその姿は、

大きく、頼もしく、そして野性そのものですらあった。

猛獣。

人間が銃を持ってはじめてハンディなしと言われる戦闘力を持つ、獣。

それが、本気になれば、厚底ブーツなど身を守る防具にもならない。

毛を逆立て、悲鳴をあげる「敵」をねめつける白い犬にとって、

次の瞬間、二人の喉笛を噛み切ることも造作ないことだ。

そして、犬には、その暴力を行使する理由も、意思も、凶気も十分にあった。

だが──、犬は二人組があわてて逃げ出すのを見送った。

「敵」がはるかに去るのを確認し、主人の無事を確かめ、

それから、もとの位置に戻った。

暴れたせいで、中身を散らかした袋をくわえ、

先ほどまで「つながれていた」元の位置に。

くうん。

小さく鳴いた声には、主人の言いつけを守れなかった悔悟の音。

うなだれきって小さくなった犬は、

ひざまずいて泣き出した初老の女性に抱きしめられて、はじめて尻尾を振った。

ちぎれるばかりに。

 

「……幸せな犬ですこと」

もう一度、志穂理がつぶやいた。

膝の力が抜けて、すとんと席に座りなおした俺に視線を戻し、

志穂理は、バッグから携帯を取り出した。

「ああ、敷島? あとはよしなに──」

秘書との二言だけの会話。

それだけで指示は通じるのだろう。

道明寺グループの会長と、その秘書なら。

「あのお婆さん、……たぶん、あの二人から訴えられるようなことにはならないでしょう」

普通、人間側がどれだけ悪くても、犬が人を噛んだらとても不利だ。

たとえ、主人を守るための正当防衛であっても、訴えられたら、最悪保健所送り。

──好意的な証言者と、しかるべき筋へのいくつかの手回し、

それと、「なぜか被害者が訴える気にならなくなる」幾つかの状況が重ならなければ。

警察と地回りに影響力がある女なら、そんなことは朝飯前だ。

俺はため息をついた。

すっかり冷めた紅茶をすする。

「……わかってたのか? ああなるってことを」

目の前の女が、世界の全てを見通す預言者だと言われても納得できる気分だった。

「さあ。……でも、他のことはわかっていました」

「他のこと?」

「あの犬が、幸せだってことを」

「……」

「買い物袋につながれて大人しくしていたのは、

あの袋が<自分の力では動かせない>と思いこんでいたからではないのです」

「……」

「動かせることをあの犬は知っています。ずっとずっと前から。

でも動かない。動きたくないのです」

「なぜ……だ?」

「だって──あの飼い主が動かないでほしい、って思ってつないだからです」

 

「――!」

俺は絶句した。

「犬がつながれているのは、つながれていたいからです。

つながれるのが幸せだからです──大好きな相手に」

志穂理は、俺を見詰めた。

おびえたような、弱々しい光。

……それは、志穂理の黒い瞳に映った、俺自身の瞳の色だ。

俺を見詰める志穂理の瞳は、いつもきらきらと強く輝いている。

なぜなら、

「だから、――あの犬は、とても幸せなのです」

幸せな者は、その幸せを疑わない。疑わない強さを持っている。

犬も。

人も。

気が抜けたのだろうか、わあわあと泣き出した飼い主の顔を熱心に舐めて慰める犬を、俺は眺めた。

たぶん、あの白い犬も、俺が大好きなこの女と同じ目をしているのに違いなかった。

 

 

Fin

 

 

 

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