<勇者ラディスの婢女(はしため)>
勇者ラディスが、邪悪な龍アゾルフを倒したという報は疾風の速さで国内を駆け巡った。
ラディスの武勲は、もはや生ける伝説だ。
<魔王>、<鬼将軍>、それに<龍>。
少し前には、<北の魔女>と呼ばれる、この世でもっとも魔力の高い邪悪な魔女を屠った。
──その話を聞いたとき、私は、それをなかなか信じられなかった。
同じく魔法を生業とする女として、<北の魔女>の力がどれほどのものかを、私はよく知っていた。
正直言って、<魔王>や<鬼将軍>よりも手ごわい相手だということも。
彼女は、この世で最も高い魔力の持ち主であると同時に、おそろしく切れる策略家でもある。
魔力をまったく使わない、純然たる謀略戦──それも彼女にとっては片手間の退屈しのぎ──で、
大国の軍師が何人も滅ぼされている。
そんな正真正銘の化物が、ただ一人の剣士に倒された。
魔道をたしなむ者は、みなそれを疑い、あるいは「だまされた」勇者を嘲笑いもしたが、
<北の魔女>が復活もせずに一年、また一年と年月が過ぎ、
勇者ラディスが次々と暗黒の君主たちを倒して行くのを見て、おおいに驚愕した。
同時に、この勇者は「本物」だということを受け入れざるを得なかった。
私もその一人であったことは言うまでもない。
そして、わが国に隣接する山岳地帯に住処を持つ、
巨龍・アゾルフを滅ぼした報を受けたとき、その思いは頂点に達した。
<龍殺し>の英雄は、すさまじい歓声によって迎えられた。
荷馬車に積んだ巨大な龍の首は、人々に、今回の英雄の偉業も、
決して嘘まぼろしの類ではないことを教えていた。
わが国の多くの騎士と領民たちを餌食にしていた悪夢の化身の死は、
ラディスを建国以来の英雄として迎えるのに十分な材料であった。
乙女たちが野山で摘んだ花を振りまき、ラディスの乗った馬車が通る道に敷きつめる。
楽の音が響き、吟遊詩人たちが新たな英雄譚を披露しようと競い合う。
冬の初めだというのに、謝肉祭よりもにぎやかな祭りがはじまっていた。
「ラディス様は、どこで剣術をお習いか」
「取り立てて誰に習ったということはないな。気がつけば、強くなっていた」
「龍を倒すほどに──うらやましいことですな」
身振り手振りを交えて自らの武勇伝を語るラディスは、──思ったよりも単純な男だった。
まあまあの礼儀作法を心得ているが、おだてに弱く、ややもすると自慢話が長くなる。
尊大なわけではないが、自信と自尊心がまさった魂の持ち主だろう。
そこには陰惨さがなく、子供のような明るさがある、というのが、他の男と少し違うところか。
──揶揄の意味で、いわゆる「騎士っぽい」と呼ばれる性格。
それが、私の見た勇者ラディスという男だった。
なんとなく、<北の魔女>をも斃した英雄、といものは神秘がかった剣聖、
という先入観があったせいか、私は少し失望した。
ラディスが「英雄らしく」色を好み、
近寄る娘たちに積極的にことばをかわす姿を見ていると、その思いは強まった。
──しかし。
考えてみれば、これが本当の英雄なのかもしれない。
好色だが陽気で、気さくな大男は、ハンサムとは言いがたいが人をひきつける愛嬌がある。
それに、ただの戦士にはないだろう、奇妙な優しさも。
下卑たことばまじりに大声で笑うラディスが、
盆をひっくり返したことを高慢で陰険な高位の騎士に攻め立てられている小姓を
ウィットの効いたやりとりで解放してやったところを垣間見た私は、この男に少し興味を抱いた。
少なくとも、この国の騎士たちの大半よりは、まともな頭と精神の持ち主に見えたからだ。
私は、ラディスに近づいてみた。
「これは──美人のご登場だ」
ラディスは口笛を吹いた。
「この国の宮廷魔術師をしております」
「へえ。その若さで──たいしたもんだな」
遠慮のない視線を私の顔や胸元に這わす勇者に、しかし、私は怒りを感じなかった。
<龍殺し>の英雄ということもあるが、その笑顔に魅力を感じたからだ。
「それほど若くはありませんし、たいしたものでもありません」
「いやいや、若くて別嬪さんさ。それに魔術を望むままに操るってのはすごいもんだ」
「その魔術とて、貴公の前ではまやかしも同然。なにしろ<北の魔女>を斃したのですから」
「ははは、あれは、思ったほどの相手ではなかったぜ。今回の龍のほうがどれほど強敵だったか」
挨拶とお世辞の応酬が終わると、会話はぐっとくだける。
勇者に挨拶をする人間は入れ替わり立ち代り、その列は永久に終わらぬのではないか、と思ったが、
ラディスは私のことが気に入ったらしく、辞そうとするたびに傍らにいるよう引き止めた。
おかげで、私は宴の最初から最後まで勇者の側にいたただ一人の人物、と言う栄誉を担った。
いや。
もう一人、ラディスのそばから離れずにいる人間がいた。
目立たない小柄な少女は、ラディスの侍女か──いや、婢女(はしため)だ。
凱旋パレードの時に、ラディスの周りでちょこちょこと走り回っていたのを思い出す。
「シーヴ。下がってていいぞ、――これでも食ってろ」
給仕が持ってきた盆の上から、パンと肉切れを取ったラディスがシーヴにそれを手渡す。
少女の手には少し余りそうなそれが、主賓用の一番上等なものであったことに、
私はラディスへの評価を一段階引き上げた。
シーヴは、ぱっと駆け出して下がった。
だが、遠くには行かず、宴の会場となった中庭の隅っこに座ると、
主から貰った食べ物をだいじそうにかじり始めた。
両手で丁寧に抱えて食べるのは、
それが王が用意した宴の一番上等な食べ物だからではなく、
主から与えられた食べ物だから。
──それは、食べている間中も、ずっとラディスに注がれている彼女の視線でわかった。
婢女というよりは、良くなついた子犬を連想させるその姿に、私はラディスへの評価をもう一段階あげた。
勇者どのから提案された夜中の逢引を了承したのは、そのせいだったかもしれない。
「――ごきげんよう、勇者どの」
「おお、これは宮廷魔術師どの」
月の光の下で、ラディスは子供のように嬉しそうな顔をした。
主賓として夜中まで酒をあおっていたのに、疲れた様子が全くない。
超人的な活躍をする戦士とは、そういう身体の構造をしているのだろう。
「夜風にあたって語らうのもいいが、この国の男女は、長い話はベッドの中でする風習でな」
「……積極的なんだな」
「何、こんな寒い国では、自然とそうなるものだよ」
ラディスが目を丸くしたとおり、私は普段より積極的だったかもしれない。
<世界で一番強い男>を前にして、私の<女>がうずいたのだろうか。
この国の多くの騎士から──つまり、多くの愚にもつかぬ脳みその持ち主から──求婚されて
拒絶し続けた美貌と肢体が、世界で一番の魔女を屠った勇者にどう見られるのか。
──私の興味は、あるいは、そこにあったのかもしれない。
「では、俺のベッドに行こうか」
ラディスがそう言ってにんまりと総合を崩したとき、
そのベッドがある部屋から、小さな影が走り出た。
「――あ、あの……ぬし様……」
日陰を切り取って人型に据えたような小柄な少女は、おどおどと主に声を掛ける。
「なんだ、シーヴ」
めんどくさそうに振り返ったラディスの態度と声は、まさに婢女にかけるものだ。
「……あの……、私、生理終わりました。その、今晩から……できます」
つややかだが華がない黒髪の下で、白い頬を真っ赤に染めながら、
シーヴと呼ばれた少女は消え入りそうな声で主人に報告した。
「ああ? あー。そうか……じゃあ、明日にでも、な」
「あ……」
袖口を掴むシーヴの手を振り払ったラディスは、
いつでも手に入る女に対しては、あまり決め細やかな優しさを見せない男らしい。
──もっとも、男など、みなそういうものだが。
「――その娘は、勇者どののベッドを追われたら今晩行くところがないようだな」
「あ、いや……」
婢女のことばを聞いて私が去ると思ったのか、ラディスが慌てた。
わたしは、くすりと笑った。
意味ありげにドレスの上に羽織ったマントの襟紐をゆるめる。
「こんな寒い晩にベッドなしではその娘が気の毒だ。
──そこは彼女に使わせてやって、勇者どのは私の部屋に来ないか?」
私のことばの意味を悟って、ラディスは何度も大きく頷いた。
久しぶりの性交は、なかなかのものだった。
ラディスは、自信と体力に満ち溢れた男らしく、精力家で、そこそこ巧みな男だった。
シーヴという少女には与えていなかったが、この勇者が意外な気遣い屋であることは、
たっぷりとした前戯と、一戦終わったあとにもこまめに愛撫を怠らないことでもわかった。
ことの最中は、勢いと自分の快楽にかまけて、少々乱暴で単調な責め方であったことを差し引いても、
ラディスは十分に紳士的だった。
脳みそに肉のパティをつめているような騎士たちには望めない性交のお返しに、
私は久しぶりに唇と舌での愛撫を相手に施した。
口に出されたものを飲み下してやるほどのサービスをしたのは、いつ以来であったろうか。
「まだ、できるかな、勇者どの」
「もちろん。あんたみたいな美人が相手ならば──」
にやりと笑ったラディスが、また私の裸体に手を伸ばしかけたとき──不意に部屋の空気が凍った。
「――!?」
ラディスが、瞬時に跳ね起きて枕もとの短剣をかまえたのは、さすがだというべきか。
だが、部屋の中央に現れた暗闇は、勇者を持ってしても相手が務まる存在ではなかった。
「……裏切り者……」
地の底から聞こえるような小さな声は、だがしかし、この世で最も危険な呪詛だった。
「――!!!」
私が悲鳴を上げるまもなく、ラディスは床に崩れ落ちた。
──そう。
文字通り「崩れて」「落ちた」のだ。
ラディスが倒れこんだ床にあるのは──白い骨とぐずぐずに解けた黒い土。
「……裏切り者……」
細々とした呪詛は、泣き声すらもまじっているようだった。
「……私を抱いたくせに……」
「……私に殺されたくせに……」
「……私を犯したくせに……」
「……私によみがえらされたくせに……」
「……私を愛していると言ったくせに……」
「……私とずっとずっといっしょにいると言ってくれたくせに……」
ぶつぶつとつぶやく、黒衣の女には見覚えがあった。
「あなた、ラディスの婢女……!?」
私の声に、シーヴと言う名の少女は目を上げた。
──そして私は、彼女に声を掛けたことを後悔した。
「……ぬし様の名を、その口から呼ぶな……」
憤怒をぶつけるべき対象を見つけた魔女は、氷より冷たい焔(ほむら)を瞳に閉じ込めていた。
それを見た瞬間、私は、この少女の正体を悟った。
「――<北の魔女>……!!」
ラディスが滅ぼしたはずのその名の持ち主は、絶望より冥(くら)い地獄の女王だった。
「……この売女っ……!」
表情を変えぬままゆらり、と、一歩を踏み出した少女のまわりで空気が歪んだ。
濃密の余り、固形化すらしているような鬼気によって。
私は声もなく凍りついた。
身に付けたあらゆる魔術が、この女の前では無力と言うことが本能で分かる。
魔力とは、天稟と努力だ。
そして、どのどちらも、私はこの女の足元に及ばない
どころか、はるかに仰ぎ見ても、姿すら目にすることが出来ない。
──北の大国の宮廷魔術師たる私が。
──仕方あるまい。
──<北の魔女>に敵う魔女などいないのだ。
黒髪を揺らめかした女の正体を悟って、私の骨は氷の柱になった。
<北の魔女>は倒されてなどいなかったのだ。
考えたら、雄々しく、力強いが、賢くはないラディスのような、
「どこにでもいる勇者」ごときに滅ぼされるはずがない。
彼に倒された振りをして、世界をさまようことにしたのだ。
気まぐれに、<魔王>や<龍>を滅ぼしながら──。
女神にも等しい魔力の持ち主なら、それくらい、する。
だがこの女神は──。
憎しみという感情しか知るまい。
自分が作ったおもちゃにちょっかいをかけられた魔女の怒りがどれほどのものかを、
私は想像することさえ恐ろしかった。
飼い犬に手をかまれたどころの話ではない。
文字通り、自分が作り、生を与えたものの裏切りだ。
ラディスは、一瞬にして骨と土くれに戻った、
では、それをそそのかした相手の女にふさわしい罰とは──?
戦慄が氷と化した精神と肉体をも貫く。
呪詛を唱えながら、紅い瞳を燃え上がらせて歩を進める<北の魔女>に、
私は真の恐怖と絶望のなんたるかを知った。
<北の魔女>が腕を上げる。
死よりも恐ろしい地獄に、私を生きたまま送り込むために。
あと一歩踏み込んだとき、その刑が執行される。
そう悟っても、私には何もすることができなかった。
──<北の魔女>が、その一歩を踏み、愕然と下を向くまで。
「……ぬ…し……様!?」
先刻、自分が土くれに変えた男の残骸が足に触れたことに気がついた女は、悲鳴をあげた。
「ぬし様っ、なんてお姿にっ!! ああ、ぬし様っ、ぬし様っ!!」
狂乱の声をあげる女は、<北の魔女>であり、同時に勇者ラディスの婢女だった。
ひざまずいて、その衣の袖をひろげ、骨と黒土をかきあつめる<北の魔女>を、
私は呆然と──もっとも体は凍りついていたのでもともと身動きは取れなかったが──眺めた。
狼狽と悲嘆の泣き声を上げて、ラディスの残骸を腕一杯にかかえた女の瞳に、
私の姿などもう映っていなかった。
「お戻しいたします、ぬし様。――ああ、今すぐに!」
その語尾がまだ空気の中に残っているうちに、<北の魔女>の姿は消えた。
──彼女の「ぬし様」とともに。
そして、私は、身体が自由になったことを悟り、――安堵のため失神した。
翌朝。
私は、ラディスに与えられた部屋の前に来ていた。
恐いもの見たさ──などではない。
来たくもない場所にきた理由はただ一つ──招かれたのだ。
──<北の魔女>から。
──今、部屋の中で自分の命無き僕(しもべ)と戯れる女から。
「ひっ……ぬし様っ……そこはっ……!!」
「うるさい、前が限界なら、こっちの穴くらい使わせろ」
「そ、そんなっ……!」
「だいたい、生理が終わったって言うから、わざわざ抱いてやってるのに、
十回くらいでまた血がにじむなんざ、なんて弱いま×こなんだ」
「も、もうしわけございませんっ……でも、ぬし様が…一晩中……っ!」
「お前のおかげで、宮廷魔術師どのを食い損ねたじゃねえか」
「ひいぃっ! ぬ、ぬし様、もっと……優しくっ……」
「ぎゃあぎゃあわめくな。こっちの穴は嫌がってないぜ。
おら、俺のモノにねっとり絡みついてきやがった。――出すぜ」
「は、はぃいぃぃっ、出して下さいませ、ぬし様の精を、私の中にっ……!」
大柄な戦士が、手の中の華奢な女体の中に、熱い液体を注ぎ込む。
どろりとした粘液を不浄の門に放たれた女は、快楽にのけぞって悶えた。
「ああ……ぬし様、ぬし様ぁ……」
声が溶けるように消え入ったのは、気絶をしたからだ。
だがシーヴは、気を失う前に、しっかりとラディスの袖を掴んでささやいた。
「ぬし様……どこにも…いかないで……」
「……ああ、お前の気が済むまで、いっしょにいてやらあ……」
「ずっと……ずっと……です…よ」
「……ああ。俺の旅に連れてってやらあ」
そっぽを向きながら答えたラディスは、私が見た勇者の姿の中で一番優しそうだった。
「――誰だ! ……ああ、宮廷魔術師どのか、失礼した」
こちらを振り向いたラディスが、私をみとめて朝日の中で大きく伸びをした。
「……いや、失礼したのはこちらのほうだ」
かすれるかと思ったが、声は普通に出た。
「ああ、いや、これは別に。――謝ったのは昨日の晩のことだ。
せっかくのお誘いを断っちまって悪かったな」
──シーヴが再生したラディスの記憶では「そうなって」いるらしい。
おそらく、シーヴ自身も、今はそう思っているのだろう。
だから、私も、そういうことにしておかなければならない。
ふたたび深夜の訪問者を迎え入れたくなければ。
「気にすることはない。勇者どののためによく働く婢女を寵愛するのはいいことだ」
「ま、昨日の晩は寒かったからな」
そう言ってもう一度のびをしたラディスが、
私への性的興味を思いださないうちに、早々に辞することにした。
──おそらく、<冬の魔女>が望んだ会話は終えることが出来たのだろうから。
あとは、一生、昨晩のことを口外しなければよいはずだった。
──勇者が婢女を連れて去っていった日から何年も経った今になって、思う。
あの交わりの最後でかわされた二人の会話は、
おそらく、過去に本当にあったやり取りなのだろう。
<北の魔女>と勇者ラディスの間になにがおこったのかは、当人同士以外は誰も知るまい。
だが、あの「誓約」とも言える会話がおこなわれたことだけは間違いない。
あの浮気性で欠点も多いが、心は優しい大男がかけただろうことばに、そして彼の存在そのものに、
<北の魔女>はすがりつくようにして生きている。
ラディスがいつ、どうやって死んだのかは分からない。
あるいは、彼を殺したのはやはり<北の魔女>本人であるかもしれない。
だが、重要なのは、ラディスは蘇り、<北の魔女>と旅を続けているということだ。
シーヴという名の、ラディスに従順で、ラディスがいなければ生きていけない婢女とともに。
──ラディスは、<北の魔女>のかけた魔力で命をつないでいる土くれだ。
──<北の魔女>は、ラディスのかけたことばで心をつないでいる化物だ。
二人のうち、どちらが主なのだろうか。
……いや、どちらでもいいか。
あの強力な、そして世にも奇妙な二人組は、ちょっかいをかける者さえいなければ、
永遠にこの世を歩き回るだけなのだから。
そしてその片割れは、<生前>の記憶からか、世の中の悪をこらしめることに積極的だ。
あれから何年かたつが、世の中の<悪の君主>たちは随分と数を減らし、
世界は随分と住みやすくなったようだ。
……ねがわくば、嫉妬深い婢女の目の前で、その主人を誘惑しようとする女が少ないことを……。