<世界で一番美しいお后>

 

「鏡よ、鏡、世界で一番美しいのは、誰……?」

「――それは、白雪姫です」

嫁入り道具に持ってきた魔法の鏡が、また、私の意にそぐわぬ答えを返す。

机の上の文鎮を振り上げて──歯軋りをしながら、下ろす。

何度、割ってやろうと思ったことか。

だが、そのたびに、これが今はなき母親の形見であったことを思い出すのだ。

かわりに、私は、顔を覆って泣き出した。

王の死後、国政を切り盛りする王妃が、廷臣たちに見せない、見せられない涙。

それが毎日流れるようになって、久しい。

 

白雪姫。

私が追放した義理の娘は、世界で一番美しい女だ。

見る男、誰もが彼女と寝たがるだろうし、実際、あの娘は男に不自由しない。

白雪姫が、王亡き後、その血縁者で王位継承権も持っていた私が

今では「女王」として治めているこの国を奪いにこないのは、

ただ単に面倒であるから、にすぎない。

森の支配者である一族の若長たちを、その美貌と体で手なずけた美姫は、

こんな辺境の小国の王座で苦労するよりもずっと気楽で贅沢な生活をしているのだ。

──まさか、七人もの「夫」を持って、しかもそれぞれを満足させるとは思わなかったが。

思えば、あの小娘はいつもそうだった。

彼女は、近隣諸国にその名が響き渡るプリンセスであり、

同時に、どんな娼婦も及ばない天性の男殺しだった。

あらゆる男が彼女との一晩を望んだ。

──私の夫、つまり、白雪姫の父親である先王でさえも。

そして彼女は、そうした貞操観念が低い女で、男たちのそうした欲望によく応えてやった。

だから、幸運な一晩をすごした男たちは、彼女を女神とも崇め、守り、挺身した。

私が森に送り出すように命じた部下さえ、帰って着た時は、熱心な信奉者になっていたのだ。

その男が、森の木陰で白雪姫からどんなことをしてもらったのかは、想像がつく。

対して、私は、――惨めな女だ。

王族に連なる実家の勢力のおかげで、王の再婚相手になれたものの、

夫は私のことを、ほとんど見向きもしなかった。

十八歳の純潔を捧げた、「生涯愛するべき配偶者」の好意と性的欲望は、

初潮も迎えぬ実の娘に向けられていた。

それを変態とののしるつもりはない。

男なら誰だって、あの魔性の純粋さをもつ美貌を前にすればそう思うからだ。

だが、夫が他の女に夢中でこちらには目もくれず、

気が向いた時たまに、性欲の処理道具として使われるだけの花嫁にとって、

その毎日は、屈辱と絶望以外の何ものでもなかった。

こうして、私の花の十代と、二十台の前半――女にとって最も貴重な十年は、無残に費やされた。

 

「……」

鏡に映った、トウの立った顔をぼんやりと眺める。

王が死んで──白雪姫と夜な夜なの秘め事による腎虚が原因だった──私は女王になったが、

虚名以外のすべては、全部白雪姫のものになったも同然だった。

そして、その王位さえも、もうじき奪われる。

──隣国の大国の王子が、白雪姫の噂を聞いて求婚にくるとの噂だ。

長年この国の併合を虎視眈々と狙っていた隣人にとって、

「追放された姫君を妻にして王位継承を主張できる」のは、願ってもない展開だろう。

そして私は追放されるか、あるいは、処刑されるか。

 

ぽたり。

涙が、また頬を伝う。

いつから、こんなことになってしまったのだろう。

小さな頃は、とても幸せだった。

今では見るのも嫌になりかけているこの鏡にも、いい思い出ばかりがあった。

思えば、私の母上もこの魔法の鏡によく問いかけをしてた。

鏡はそのたびに、「それは貴女です」と答え、母上は幸せそうに微笑んだ。

だから、その頃の私には、この鏡が幸せをもたらしてくれるものに見えていた。

母上が問うたびに、「それは貴女です」と答えてくれえて、笑顔をもたらしてくれる鏡を。

──だけど、鏡は、それを譲り受けた私には、一度だってそう答えてくれたことがなかった。

 

「……白雪姫を殺そう。その後、私も死のう」

鏡に映る自分を見つめながら、ぼんやりとつぶやいた声に、私はぎょっとした。

だが、それは、――私に残されたたった一つの人生の目的に思えた。

私は、ふらふらと立ち上がり、毒薬の瓶を取ってきた。

嫁ぐときに、王の妻として不名誉なことが起こったら自決するために持ってきた嫁入り道具のそれを。

 

毒リンゴを持って城を抜け出す。

自分よりはるかに美しく、愛らしく、魅力的な女を殺すことは、

私にとってある種、世界への復讐だった。

世の男どもは怒るだろう。

毒を仰いで死んだ私の死体を八つ裂きにせんばかりに。

だが、そうすることで、私の名は、すくなくとも今よりは皆に知られることになろう。

誰にも気に止められず、誰にも愛されなかったのなら、

せめて誰からも憎まれることのよってでも記憶に残りたい。

そんな思いが、私を魔女にした。

毒リンゴの籠をもつ、魔女に。

罪を犯すことにかっと火照る体と、冷え冷えとした頭。

──だが、注意力は足りなかった。

私は、森の入り口で、向こうから駆けてくる馬に気付かず、蹴り飛ばされた。

 

──。

──―。

──――。

目を覚ましたとき、そこは、小川のほとりだった。

「……大丈夫ですか」

おどおどと覗き込む青年が、隣国の王子であることはすぐに気がついた。

「いきなり飛び出してくるので、馬を止められませんでした。申し訳ない」

頭を下げる姿を見るまでもなく、育ちのいい、性根の優しい若者だとわかる。

──世界一の美姫が伴侶にして、幸せな生活を送るのにふさわしい相手。

私は、ぼろぼろと、涙があふれる自分を止められなかった。

何が哀しかったのか、わからない。

あるいは、あらゆること全てが哀しかったのかもしれない。

ただ、涙が流れた。

「も、申し訳ありません。どこかお怪我を……?」

首を振りながら、私は、声も出さずに涙を流し続けた。

それからずっと何も言わず、ただただ泣き続ける私を慰めようとした王子が、

ついにかけることばを失って、

「えっと……リンゴ、おいしそうですね。ひとつ頂戴してよろしいですか?」

と言い出すまでは。

 

「――だめっ!!」

はじめて声を上げてリンゴを奪い取った私に、王子はびっくりしたようだった。

その驚きは、私が罪を告白すると、さらに深くなったようだった。

懺悔を終えた私は、目をつぶり、王子が剣を抜いて自分の恋路を邪魔する魔女を斬り殺すのを待った。

だが、その刃は、いつまでたっても私の上に落ちてこなかった。

「お城に戻られなさい。――お送りして差し上げましょう」

王子は斬魔の剣の代わりに、そんなことばを与えた。

 

「――僕もね、おんなじなんですよ」

奥の間で紅茶をすすりながら王子は笑った。

第二王子の彼は、すべてを兼ねそろえた兄王子とそのまわりの廷臣、あるいは父王や継母からも疎まれて育った。

やっとまわってきたチャンスは、隣国の小国を奪って属国にするという嫌な役目。

美姫を娶っても、その心が晴れることは一生あるまい。

もっと大きな国の姫を娶っている兄王子は、それにあきたらず、世界一の美姫にも狙いを定めるだろうから。

世界一の美女ならば、弟の妻であっても容赦はしない人間だった。

「それに、あの人は、僕の手に負えないですよ。美人だけど、ちょっと苦手だなあ」

森の中で、若長たちを弄う白雪姫を目撃したという王子は頭をかいた。

「そうですか……」

白雪姫に心奪われない男──いわゆる変人と言う奴だろう。

だけど、私は、世界にはそんな人がいるんだと知って、なぜか救われた気持ちになった。

この先、何があっても、生きているうちは忘れないだろう何かが、心の中に芽生える。

「……それで、王子様はこれからどうするおつもりですか……」

「そうだな……。結局、この国を貰ってこないといけないんだけど……」

王子は、また頭をかいた。

隣国は、どこの戦争にも負けたことのない大国だ。

そこに併呑されることは、あるいは人々にとって幸せかもしれない。

「では、私が譲位いたしましょう。王子様がここの王様になってください」

「ううーん。」

王子は天井を睨んで、うなった。

「……貴女も女王のまま、というわけには行きませんか?」

「え?」

「僕は、白雪姫みたいな人より、貴女のような女性が好きなのです。

あなたさえよければ、私の妻になっていただきたい」

……この人は、やっぱり変人だ。

変人じゃなきゃ、そんなことは言えない。

でも……。

「私などで……良いのですか? 誰にも愛されなかった私で……」

私は、そう聞き返してしまっていた。

「とんでもない。あなたは、自分が思っているより、ずっと綺麗な女(ひと)です。

ほら、この化粧台──毎日毎日、一生懸命お化粧とお手入れを怠ってないのがわかります」

王子は、魔法の鏡の前を指さした。

「僕の母──もう死んでしまったけど、僕を愛してくれたたった一人の人も、そうでした。

不遇な人だったけど、決してあきらめないで、何かが起こったとき後悔しないように、

いつでも努力し続けている人でした。……貴女のように……」

「私が……努力……?」

「ここに来る道すがら見ました。――この国の娘さんたちは、みんなあまり美しくありません。

白雪姫がいるから、どうしたって勝てないんだって諦めて、お化粧もしなくなってしまったから。

でも、貴女だけはちがった。白雪姫にも負けまいって、ずっと努力し続けてたんです」

「……でも、私は、結局白雪姫に勝てなかった……」

「……ここに、一人、貴女のほうが魅力的だと思う男がいます。それでは不十分ですか?」

「――いいえ。……世界のすべてをあわせたより、十分です」

王子は、私にキスをして、私は王子にキスをした。

 

王子の愛撫はぎこちなかったが、私は、私のために、はじめて為されるそれを、

体中をわななかせて受け入れた。

胸乳をなぶる指も、秘所に口付けしてくれた唇も、決して器用ではなかったけど、

それは、荒淫に慣れた先王の巧みだがおざなりなそれよりもずっと素敵なものだった。

王子は、快楽の欲求のためではなく、私そのものを欲しがって男根を膨らませた。

私の身体の上に乗る直前、王子ははずかしそうに、

「自分はこうしたことが初めてなので、うまくいかなかったらすまなく思う」と呟いた。

私は、出来る限りやさしく、でも出来る限り強く王子の頭を抱きかかえ、愛しい人を安心させた。

私が処女でなかったのは、前夫にそれなりに女としてそれなりに開発されていたのは、

きっとこのときのためだろう。

私は、未経験の新しい夫を励まし、導き、妻とともに絶頂を迎えさせることができるくらいには経験があった。

王子は、私の身体の奥深くに、はじめての射精をして、

立派な男に──私の夫になった。

 

「――鏡よ、鏡。世界で一番、…………は、誰……?」

「――それは、貴女です」

毎日問いかける。

鏡の答えは決まっている。

私の母上が毎日そうしていたように。

私は、ずっと忘れていた。

母上が、鏡にむかって聞いていた質問を。

「――世界で一番美しいのは、誰……?」

と母上が問うたことは一度もない。

彼女にとってそれは、どうでもよいことであったのだから。

母上が聞いていたのは──。

「鏡よ、鏡。世界で一番、私の夫を愛している女は、誰?」

「――それは、貴女です」

いつもの、平凡な、でもこの世で一番幸せな答え。

私は、鏡の前でとびっきりの笑顔を作ると、その表情のまま、

寝ぼすけの夫を起こしに行った。

 

あの日の約束通り、王子は王となり、私の夫となった。

この小国は、隣国の属国のようなものだし、白雪姫はあいかわらず世界一の美女だけど、

最近はちっとも気にならない。

もっともっと大事なものが、私にはあるから。

ある人が私に言った。

「世界一美しい姫」は白雪姫だけど、「世界一美しいお后」は私だと。

──残念だけど、それもあまり嬉しいとは思わない。

──だって、夫にとっての「世界一」は最初から私一人で、

――私にとっては、それだけで十分なのだから。

 

 

 

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